衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 2703
<h2 style="text-indent: 2em;">第二章 身念処を観ずる</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第一節 呼吸を観ずる</h3>

原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして身におりて身を観じて住するか。諸比丘よ。ここに、比丘は森林に往き、樹下に往き、閑静な場所に往きて、結跏趺坐し、身を正しく伸ばし、思念を現前にす。

釈:世尊は説かれた:それでは、諸比丘よ、四念処観を修行すれば苦悩憂いを滅し、清凉を得られるというのに、比丘は如何にして身におりて身を観じて住すべきか。諸比丘たちよ、四念処観を修行するには、まず森林、樹下、閑静な場所といった人に妨げられない場所を選び、結跏趺坐し、身体を端正に真っ直ぐに保ち、曲げてはならない。その後、思惟観行を始めるのである。

世尊は具体的に身を観じて住する方法を説き始められた:如何に身を観るか、心念が如何に色身に止まって観行するか。過去、世尊が説法された時、多くの弟子が法を聴きに来た。法会が終わると、弟子たちは各自静かな場所を見つけて静坐し、思惟観行した。インドの気候は暑く、比丘はどこでも自由に場所を選べた。森林の樹下、墓場、あるいは洞窟など、人に妨げられない場所ならばどこでも良く、薄い座布団を地面に敷き、足を組んで正しく座った。一人一箇所であり、二人や三人で共に修行することはなかった。各人が独自に思惟するため、相談や研究の必要がなく、互いの干渉を避けられたのである。彼らのこの修行様式は、禅定を修めると同時に智慧も修めるものであった。観行そのものが慧行であり、深く思惟する中に禅定が含まれる。これが定慧同時の修行である。

何故結跏趺坐するのか。結跏趺坐とは足を組むことである。足を組むと気血が乱れず、身体は静まりやすくなる。気脈の運行が秩序正しく力強くなり、色身は比較的快適になる。こうして心念も静まり、心が乱れない。足を組む利点はここにある。身体が端正であれば気血の運行は円滑になり、心は乱れない。もし身体が曲がりくねり、だらしなく緩んでいれば、内臓器官は正しくなく、気血は円滑に流れず、心念は乱れ、心は怠惰になり、人も昏沉しやすくなる。身体が真っ直ぐであれば、心念は直ちに集中する。端身正意とはこの道理である。

その後、心で何を思念すべきか。それは世尊が説かれた法である。毎回世尊が法を説き終えると、弟子たちは各自場所を見つけて、世尊が説かれた法を思惟し消化した。我々のように法を聴いて帰った後、おそらく再び思い返すこともなく、振り返ることもなく、聴いただけで終わってしまう。たとえ少し思い返しても、真剣に仔細に修習しないならば、聞いた仏法から真実の利益を得ることはできない。

法を聴いた後は、鉄は熱いうちに打てと言うように、帰ってすぐに思い返し思惟すべきである。一つの義理ずつ思惟し、一つずつ検証する。この法義が思惟で理解できたら、次を思惟する。世尊が説かれたことが真実であるかどうかを検証する。過去の比丘たちは皆このように修行した。思惟する同時に禅定もある。禅定の中で思惟することを禅観と言い、小乗の禅修とはこの意味である。これは大乗法の参禅ではなく、第八識を証悟するあの参禅法ではない。小乗の禅修方法であるが、工夫方法と心念はほぼ同じで、定も慧もあり、定の中で観行し、世尊が説かれた仏法の義理を参究するのである。

原文:彼は正念をもって入息し、正念をもって出息す。

釈:正念とは何か。心に雑念がなく、心念が眼前の観行する法理に集中し、他の雑事を考えないことである。身を観じて住するには、まず呼吸を観ることから始める。自分の呼吸を観察し、自分の呼吸に注意を向ける。例えば今まさに吸気している時、空気が鼻孔から入り、気管に達し、気管に沿って少しずつ運行し、五臓六腑に至る。この息が通る経路がどの位置に至ったか、感じ取れるべきである。最後に呼吸が腹部の丹田に達するまで、全て知っているべきであり、知らなければ正念ではない。心念が散ってしまったのである。何故自分の呼吸が分からなくなるのか。心で妄想を打っているからで、他のことを考え、心が散乱し注意力が集中していないから分からないのである。だから我々は常に呼吸を観察し、心念を全てこの事に繋げ、妄想がなければ、修定は早く進み、身体の変化も早く、思惟も非常に鋭敏になる。このように思惟観行した後、身見を断ち、我見を断つことができる。

まず正念で自分の呼吸を観察し、入息の状況を全て知る。入息した後、再び正念で出息する。自分が外に呼気しているのを観察し、丹田の位置から息が上に向かって運行し、通る経路を全て知り、その後口から軽く吐き出される。全過程をはっきり知り、心念が散乱せず、人も昏沉していない状態でなければならない。もし昏沉していれば、呼吸の状態は感じられない。

原文:或いは長く入息する時は、我が長く入息することを知り、又長く出息する時は、我が長く出息することを知る。

釈:呼吸が長くなり、長い入息に入る時、心で我が長く入息することを知る。その後長く出息する時、我が長く出息することを知る。

正念で入息し、正念で出息することを訓練し終えた後、次の段階に入る。心が静まると、入息出息は共に長くなる。何故長くなるのか。心が静まると、呼吸の通路が全て開き、途中に詰まる場所がなくなるため、息は丹田まで一直線に下り、入息の時間が長くなる。身体も健康になる。なぜならこの間の気脈の運行が身体の病気を排出するからである。もし身体が健康でなければ、呼吸が胸までで止まり、通り抜けられずに呼気してしまう。半分の道程しか進まず、丹田に到達できない。比較的重い場合は喉元までで呼気してしまい、このような人は身体が相当弱っている。

長く入息する時、正知正念で、自分が今入息が非常に長く、非常に緩やかであることを知る。一息吸うのに30秒かかることもあれば、1分かかることもある。もし定力が次第に深まり、四禅定に至ると、呼吸さえも停止する。これは禅定が非常に深いことを示している。定力が良ければ良いほど、呼吸は遅く、柔らかく、緩やかになる。定力が良くなければ、呼吸の音は荒く重く、他人にも聞こえる。喘ぐ音が聞こえるのは、身体の通路に詰まりがあり、身体が健康でないことを示している。

長く入息することを全て知った後、長く出息する時も知り、自分が呼気する時間が長く、非常に緩やかで、非常に微細であることを知る。この修行は一歩一歩深まり、まず第一歩をしっかり行い、その後次の段階に進む。前段階の基礎がしっかり固まれば、次の段階は順調に進み、禅定を修めることができる。このように自分の心念を訓練し、自分の定力と慧力を訓練するのである。

原文:又短く入息する時は、我が短く入息することを知り、又短く出息する時は、我が短く出息することを知る。

釈:もし入息が短い時も、我が短く入息することを知らなければならない。出息が短い時も、我が短く出息することを知らなければならない。

長い入息と長い出息が自分で分かるようになったが、時々呼吸が様々な原因で比較的短くなる。その時も自分が今入息が比較的短く、とても短い時間で吸い満たし、吸気が運行し続けられないことを知る。呼気の時間も短く、一気に吐き出してしまう。自分もそれを知るべきである。これも身体の様々な原因によるものである。このように自分の心念を統一と専一に達するよう訓練し、眼前の行う観呼吸に定める。これを定と言い、心が一処に止まることである。

短い入息と短い出息を自分で知り、この段階まで訓練した後、更に修行を進める。各人の訓練時間の長短は皆異なり、各人の身体素質と心理素質、各人の仏法の基礎も皆異なり、心念力が違い、身体の健康状態が違うため、修習の時間の長短も異なる。ある人は30分修行し、ある人は数日かかり、ある人は半月かかるかもしれない。ある人は一ヶ月かけてようやく心念が静まり、心念を全て呼吸に集中させられる。この時間の長短は一定ではない。もしこの基礎がしっかり固まっていなければ、先に進んではならない。一歩でもしっかりできていなければ、後の練習は混乱し、修行を続けられなくなる。呼吸の長短が分かるようになった後、更に進む。

原文:修習して我は全身を覚知して入息し、修習して我は全身を覚知して出息す。

釈:修習して心念力が増強した後、観行の範囲を次第に広げ、身体の或る一箇所を覚知することから、最後に全身に拡大する。入息の時、息が通る通路を覚知するだけでなく、全身の状況、身体全体の状態を全て知らなければならない。つまり今、鼻孔から入息し始め、身体の各所がどのような状態か、息が身体のどの部位に至ったか、自分で了知し、掌握し、心がぼんやりしていないことである。自分の胃腸の状態がどうか、心臓の状態がどうか、腹部の状態がどうか、頭部の状態がどうか、腰脚の状態がどうか、手足の状態がどうか、全身の状態がどうか、自分で全て知らなければならない。

全身の状況を覚知することは、少しずつ修得される。全身の状況は複雑であり、一定の定力と相応の慧力、心力が必要である。前段階の基礎がしっかりできていれば、後の複雑なことも観行できる。観行がこの段階に至るということは、定力が非常に良くなったことを示している。定力が良ければ、知ることが多くなり、ただ呼吸の状態だけを知るのではない。呼吸の状態を了知しながら同時に全身の状態を知ることができる。どの場所が快適か、どの場所が詰まっているか、どの場所が充満しているか、どの場所が空虚か、どの場所が痛むか、自分で全て知る。心念が集中せず、気が元に帰らないため、身体が揺れ動く現象が現れても、心で了知しなければならない。心念が静まり、気脈が通じ、身体が安らかになれば、自分で了知し、最後に身体に現れる様々な状態を全て知る。なぜなら心力が十分に使えるからである。この方法が全身を覚知して入息することであり、定慧が共に増強されるのである。

外に呼気する時、自分自身の身体全体の状況も全て知り、はっきりしていなければならない。この時は心が散乱せず、昏沉もせず、正知正念である。もし知らずはっきりしなければ、心念は散ってしまったのである。足の痛みや快適な状態を自分で知り、痺れる状態も知り、気血が通ったか、まだ通っていないかも知るべきである。手の状態も知り、肩の状態も知り、頭の状態も知り、顔面の状態も知り、五臓六腑の状態も知り、腰と背中の状態も全て知らなければならない。この時注意力を完全に集中し、心念力を全身に縁らせ、内心が身体の各部位の状況を全て了知できてこそ、智慧力が広がり、定力と慧力が同時に増進される。これが全身を覚知して出息する修習方法である。

原文:修習して我は身行を止めて入息し、修習して我は身行を止めて出息す。

釈:止とは止まるという意味である。身行とは何か。身行とは身体の一切の動転、揺れ動き、揺らぎ現象、つまり静かでない行為造作である。身体内部の微細な運行は止息できず、生命が終わるまでである。静坐して呼吸を観行する時、初めは身体に動転現象があり、静止を得ていない。心が寂止しておらず、気脈が通じず、気血の運行が円滑でないため、頭が揺れたり、身体が揺れたり、身体の姿勢が変わったり、目が瞬いたりするのである。修行しばらくすると、心が次第に寂静になり、気脈の運行は円滑になり、気血も通じ、身体が非常に快適で安らかになり、心境が平和になることを感じる。こうして身行は次第に止息し、頭は動かず、身体は揺れず、腰は曲がらず、身体全体が静まる。

修習の中で、これらの状況を内心で了知し、はっきりさせ、定慧を並行させ、互いに助け合わなければならない。こうして修定修慧に対する体験が得られ、身体が揺れるのは気血が通じず、心が静まらないためであることが分かる。今は気脈の運行が非常に円滑で、身体は揺れず、全てが静止し、全身が円滑であると感じ、内心も怡悦である。入息しながら同時に身体の各部位の状況を知り、身体全体が寂止した後、足は動かず、身体も揺れず、両手は振らず、神経も跳ねず、目も動かず、頭も動かない。身行が全て寂止した。これらの状況を入息しながら了知し、内心に常に「知」がある。これが慧であり、慧力が相当強くなければならない。こうして我々の定慧は次第に増進し円満になる。これは我々が修定修慧する良い方法である。

呼気の時、自分の身体全体の状況を知り、自分の身体の動転が止まったことを知る。目が動かず、頭が動かず、身体が揺れず、足も動かず、腰も捻らず、腸胃さえも大きな蠕動や音がなく、呼吸も荒く重くなく、身体表面の明らかな活動が全てなくなった。修行して心が静まると、気脈は次第に通じ、運行が微細になる。身体に障害がなくなり、業障病気も一部排除され、身体は快適に感じ、動きたくなくなり、身体を包み支える力があるように感じ、身体は自然に動かなくなる。この段階の修行が身行を止めて出息することである。

呼吸を観る修行方法:第一歩、自分の呼吸を観、入息出息を共に知る。第二歩、出入息の長短を共に知る。第三歩、出入息の時、全身の状況を共に知る。第四歩、出入息の時、身行が寂静になったことを自分で知る。この段階に達するのに必要な修行時間は必ずしも一定ではない。ある人は一日半日で可能だが、ある人は一ヶ月、ある人は半年、ある人は更に長い時間が必要である。心が散乱し、昏沉すればするほど、必要な時間は長くなる。だから雑念が非常に多く、身体素質もあまり良くなければ、他人より修行が遅くなる。もし元々心が比較的静かな人ならば、半日で達することができる。

各人の修行基礎、身体素質と心理素質は皆異なり、修行の進展は異なる。世界観の違い、出離心の違いにより、修行の時間と結果は千差万別である。この修行方法で最も重要な鍵は:内心に常に「知」があることである。これは非常に重要である。この「知」は定を離れずにある慧であり、将来大乗法を修学し参禅する時、この「知」を一つの話頭に換え、直接参禅でき、明心できるのである。

原文:諸比丘よ。恰も熟練した轆轤師(ろくろし)或いは轆轤の弟子が、或いは長く回す時は我が長く回すことを知り、或いは短く回す時は我が短く回すことを知るが如し。

釈:仏は説かれた:諸比丘たちよ、あなた方がこれらの法を修習する時は、正に仕事に熟練した轆轤師または轆轤師の弟子のようである。彼らが縄を長く伸ばす時、我(自分)が縄を長く伸ばしていることを知り、或いは縄を短く巻き取る時、我(自分)が縄を短く巻き取っていることを知る。

過去、古代には水道がなく、水を飲むには地下の非常に深い井戸から汲み上げなければならなかった。井戸には縄を巻く装置があり、縄の一端に水桶を掛け、縄を下ろして井戸から水を汲み上げる。この縄を巻く装置を轆轤(ろくろ)と言う。水を汲む役目の人を轆轤師と言い、水を汲む時、心が静かであれば、井戸の底に非常に長い縄を下ろしたことをはっきり知る。なぜなら井戸水が深いからである。もし井戸の水が多く、水が地面に近ければ、下ろす縄は短く、その時もはっきり知る。或いは水桶を引き上げたい時は縄を短く巻き取る。その時もはっきり知る。巻く縄の長短を彼は全て知っている。

我々が修定し呼吸を観る時も轆轤師のように、今何をしているか心ではっきり知らなければならない。出入息の状況を知り、息の長短を知り、全身の状況を知り、身行が止息したことを知る。それは轆轤師が水を汲む時の専心一意と同じである。これは仏が身行を観る方法を喩えたものである。

原文:諸比丘よ。比丘は如是に長く入息する時は我が長く入息することを知り、或いは長く出息する時は我が長く出息することを知り、短く入息する時は我が短く入息することを知り、短く出息する時は我が短く出息することを知る。

釈:仏は説かれた:諸比丘たちよ、比丘は以上のように専心一意で長く入息する時、我が長く入息することを知る。或いは専心一意で長く出息する時、我が長く出息することを知る。短く入息する時は我が短く入息することを知り、短く出息する時は我が短く出息することを知る。

この修習方法は、呼吸が比較的長い時、自分が長く入息していることを知る。この息を吸う時、非常にゆっくり、非常に細く、時間が長く、10秒から30秒または1分に達する。全過程を自分で明らかに了知する。この吸気の時間の長さは、修習訓練によって達せられ、最後には呼吸を止めることもできる。それが四禅の境界である。その後長く出息する時、自分が長く呼気していることを知る。この息を吐き出す時、非常に遅く非常に緩やかである。功績のある人は、呼吸する時、他人には全く呼吸音が聞こえない。功績のない人は、呼吸音が非常に大きく、喘ぎが荒く重い。これは彼に禅定の基礎がなく、心が静まらず、色身上にもいくつかの障害があることを示している。短く入息する時は自分が短く入息していることをはっきり知るべきであり、短く出息する時も自分が短く出息していることをはっきり知るべきである。

原文:修習して我は全身を覚知して入息し、修習して我は全身を覚知して出息す。修習して我は身行を止めて入息し、修習して我は身行を止めて出息す。

釈:更に修行を進め、私が入息する時、全身の状態を覚知できるようになり、更に修習し、私が出息する時、全身の状態を覚知できるようになる。次に更に修習し、私が入息する時、一切の身行を止められるようになり、更に修習し、私が出息する時、一切の身行を止め、静止不動になる。

全身を覚知して入息することを修習する。吸気の時、全身の運行状況を自分ではっきり知る。頭から足まで、内から外まで、自分で全て知る。定力が強い時、心の縁は広大で深細であり、了知する範囲は広大に、了知する事理は深細になる。もし吸気の時、全身を覚知できなければ、自分の定力はまだ不足しており、慧力も足りず、心念が専一でなく、心力が強くなく、心の縁が十分に広大でないことを示している。ここでの専一と広大は矛盾するように見えるが、実は矛盾しない。この時は全身を縁とする一つの対象とし、当然必要な定力と慧力は共に強くなければならない。そうでなければこの点を達成できない。これは少しずつ段階的に定慧を増強し、心力を強大にし、了別性を強くするのである。

更に全身を覚知して出息することを修習する。呼気を出す時、全身の状況について、心ではっきり知らなければならない。頭から足まで、内から外まで、色身の全ての状況を自分で知り、はっきりさせなければならない。はっきりしなければ、自分の憶念がまだ集中しておらず、心力が強くなく、定慧がまだ訓練されていないことを示している。呼吸する時、全身の状況がはっきり分かり、この功夫が散らさず、比較的固まれば、続けて修習できる。

更に下って身行を止めて入息することを修習する。吸気の時、はっきり知ることができる。自分の身体が静まり、頭から足まで、内から外まで、身体全体が寂静になり、身体が揺れず、目が瞬かず、頭も動かず、腕や足も動かず、呼吸も微細になり、気脈の運行も微細になる。これらの状況を心ではっきり了知しなければならない。これは功夫を行うことにより、念力が集中し、心が散乱せず、身行が次第に微細になり、粗い妄動が消失するためである。微細な身行は依然として存在する。生命体の活動にはこれらの微細な身行が必ず必要だからである。もしなければ四禅に入るか、そうでなければ死人である。功夫が固まった後、引き続き努力する。

更に続けて身行を止めて出息することを修習する。呼気の時、全身がほとんど静止した状態を自分ではっきり了知し、心がぼんやりせず散乱しない。もし了知できなければ、或いは了知が全面的でなければ、定慧が不足し、心念がまだ少し散乱していることを示している。昏沉しているか妄想を打っているかのどちらかである。この段階まで全て修行が良くなり、功夫が固まった後、更に下って修習する。そうでなければ下って修習せず、この段階まで修習が円満に成功するまで続ける。

原文:如是にして、或いは内身におりて身を観じて住し、又は外身におりて身を観じて住し、或いは内外身におりて身を観じて住す。

釈:このように修習し終えた後、心は或いは内色身の観行に住し、その後外身の観行に住し、或いは内身と外身の同時観行に住す。

観行がこの段階に至り、以上の方法に従い更に内身を観行する。内身とは何か。ある人は身体内部と言い、身体表面と相対する。実際には色身全体が内身に属し、身体の外の生活環境と相対し、外界の宇宙器世間と相対する。内身とは色身全体を指し、身体表面の皮膚から身体の中の筋肉、骨格、五臓六腑、血液、骨髄、脳漿内臓などを含む。頭から足まで、内から外まで、全て内身に属する。

しかしこの内身を更に細分すると、勝義根の中の内相分と勝義根の外の外相分に分けられる。色身の内外相分は共に色声香味触法を含む。色とは眼識が見る肉身、声とは身体から発せられる様々な音、香とは身体から発せられる香塵、味とは身体の匂い、触とは身体自体の飢え渇き満腹快適軽安疲労酸っぱさなど触塵、法とは色身五塵上の微細な法塵である。外身とは色身の外の一切の六塵境界であり、外界の色声香味触を含み、身体の内に属さない。

身には一つの定義があり、十八界と言い、十八界は全て我々自身の五陰身に属する。十八界は何を含むか。眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の六根である。前五根は我々が全て見つけられ、意根は心法である。十八界は更に六塵を含み、それぞれ色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、法塵である。更に六識があり、それぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。

色塵とは何か。自分の身体は色塵であり、内身に属する。身体の外、目に見えるものも全て色塵であり、地水火風の四大で構成され、外身に属する。色塵は我々の眼前の身の辺りの全ての物質を含み、部屋全体まで、部屋の外の通り、通りの外の町全体、町の外の省全体、省の外の国全体、国の外の地球全体、更に地球の外の宇宙全体に至る。一つの三千大千世界は銀河系であり、無数の三千大千世界、或いは十方諸仏の国土は全て色塵に属し、外色塵とも言い、外身とも言う。極めて大多数の色塵は我々が今まだ見えず、接触できないが、依然として十八界の中の法に属する。全て色塵であり、我々の眼根と相応するため、我々の外身は非常に広大である。

声塵とは何か。我々の身体内部には多くの音がある。例えば腸胃の鳴動、腹鳴、身体の中の気体運動、消化の音。更に身体から発せられる音、例えばげっぷの音、喘ぎの音、耳鳴りの音、くしゃみの音、話す音など。これらは内身に属する。身体外部にも様々な音がある。身体と様々な物質の衝突、接触、摩擦の音。他の衆生が発する音、様々な物体が発する音、例えば時計の音、空気の流れの音、部屋の外の音、大通りの音、町全体の音、虚空全体の音、宇宙器世間全体が発する音など。これらは全て声塵であり、外声塵であり、身体の中にないため、外身に属する。内外の声塵は全て我々の十八界に属する。我々の外身が非常に広大であることが分かる。極めて大多数の音は我々が暫くまだ聞こえないが。

更に香塵がある。自分自身の身体が発散する様々な匂いは内香塵であり、内身に属する。周囲の環境の匂いは外香塵であり、他の衆生が発散する匂い、部屋の中の匂い、部屋の外の匂い、山河大地の匂い、宇宙虚空全体の匂いを含み、全て外香塵に属し、我々の十八界に属し、我々自身の外身に属する。

味塵には内外の味塵がある。口腔に食物がない時、舌根が感じる味、胃から発散する味塵は内味塵であり、内身に属する。食物がある時、感じる食物の甘酸苦辛鹹淡などの味は外味塵であり、舌根と相対し、十八界の中の法に属し、外身に属する。

触塵は内触塵と外触塵を含む。内触塵は我々の身体の中の触であり、例えば:飢え渇き、寒さ暑さ、温もり満腹、疲労、快適、安逸など、内身に属する。外触塵は外界の物質と色身の接触によって生じる触塵であり、例えば忉利天の頂上の太陽が身体に照りつける時の身体への触。須弥山の中腹、四天王天にある月が身体に照りつける時の身体への触。虚空から来る冷たい熱い空気の身体への触。様々な物質による身体への接触や衝突、微かな触である微風や服の触、激しい触である石や重い物。これらは全て外触塵であり、外身に属する。だから我々の外触塵の範囲も非常に広大である。しかし我々の現在の大多数の人の心念は、まだこれほど広大な範囲を観行できない。

法塵は五塵上に現れる法処所摂色、及び意識心が存在する独頭境界、散乱心が了知する法塵、定境中の法塵、夢中の法塵を含む。所謂外身とは内六塵である。我々は根本的に外六塵を見ることができず、接触できず、接触観察できるのは第八識が外六塵に依って変現した内六塵だけであるため、内六塵を方便的に色身の外の外身と言うのである。

十八界には更に六識がある:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。十八界がこの仮我五陰を構成する。我々が五陰身を観る時、まず内身を観、次に外身を観、その後内身と外身を同時に観る。この時定力は非常に良くなっている。定力が良くなければ、ただ一つの法を観行するだけでも容易ではない。散乱心は同時に多くの対象を観察できず、全身を内から外、頭から足まで観察できず、身外の一切法を観察できないからである。この程度に修まれば、備わる定慧は相当良く、全て種子として第八識に貯蔵でき、来世で受用を得られる。例えば生まれつき眼は六方を観、耳は八方を聞くことができ、生まれつき一心多用ができ、精力が相当充実し、智慧が相当広大で、凡人とは異なる。

観行の時、まず内身から観始める。身体内の色声香味触法を全て観行し、全面的で細かくなければならない。功夫が固まった後、外身を観る。外の色声香味触法を観、全面的で細かくなければならない。この段階の功夫が固まった後、更に同時に内身と外身を観る。内外一緒に観、全面的で細かく、全ての法を観察し、できるだけ一念の間に全て了知する。この点を達成すれば、定慧は極めて良く、心は非常に微細に達し、他人の心念さえ感知でき、未卜先知の能力を備えることができる。

我々の心は散らすことに慣れており、散乱でなければ昏沉、追憶、後悔である。昏沉は頭がぼんやりして何の概念もなく、はっきりせず、愚痴とも言う。でなければ心が散乱し、至る所に攀縁し、雑多なことが心の中でぐるぐる回り、過去を追憶するか将来を思案するかで、現前に安住することはない。我々が修定が非常に良くなった時、心念が集中すると、同時に我々の身体の内身、外身の様々な状況を観行でき、その後内外身を同時に観照でき、全てはっきり観察できる。この段階まで観ると、全体の私という概念が心に形成され、私に関する観念は非常に固くなる。身体状況が全て分かると、内心に私、身という観念が生じる。

原文:或いは身におりて生法を観じて住し、又は身におりて滅法を観じて住し、又は身におりて生滅法を観じて住す。

釈:心は或いは色身に生じる法を観行することに住し、或いは色身に消失滅する法を観行することに住し、又は心は色身に同時に生じ滅する法を観行することに住す。

色身の観行について、生法を観察し、心で生法を了知しなければならない。生法とは元々なかったものが今現れたものである。静坐がある時間に達すると、身体には様々な現象と覚受が生じる。軽安の覚受と疼痛の覚受を含み、気脈が運行し始めた後、身体は軽安で非常に快適に感じるか、足が痺れ痛み始めるか、手が痺れ張り始めるか、内臓器官に詰まりを感じ痛むか、通じるか、腹鳴が現れるか、身体が高くなり大きくなるか、様々な状況が現れる。各人に現れる状況は異なる。観行の中で、これらの状況を内心ではっきり了知し、身体に新しく生じた覚受が何か、現象が何か、更にどのように変化したかを、全て明瞭に了知し、ぼんやりしない。これが身におりて生法を観じて住することである。

更に次の段階、身におりて滅法を観じて住することを修習する。滅法とは元々あった現象が今なくなったことである。例えば気脈が運行した後、粗重な呼吸がなくなり、呼吸は微細になる。気脈が元々ごうごうと激しく動いていたが、今は緩やかになり、静かに運行する。元々気脈が通る時、詰まる場所があり痛みを感じたが、今気脈が通り抜け、痛みが消失した。元々身体が重かったが、今は軽安になった。或いはさっき身体が軽安だったが、今突然重くなった。これらは全て滅法であり、元々存在した現象が今消失した。これらの現象をはっきり了知しなければならない。定力がなければ、或いは定力が不足していれば、心はこれらの現象を了知できず、様々な感受も覚知できない。

多くの人に定力がなく、心は粗雑で、毎日自分の身体状況もはっきりせず、最も粗重な喘ぎさえ感じない。普段心識が煩雑で、妄想がひどい時は、自分が妄想を打っていることさえ分からず、自心を反観できない。自分が妄想を打っていると分からない時こそ、妄想が最も多く最も乱れている時である。心が粗すぎて、反観する能力が全くない。もし心が少し静まれば、自分を反観でき、自分が妄想を打っていることを知り、自分の心が善か不善かを理解でき、心念が不善であると発見すれば自らを呵責する。以前は心が粗く、散乱、昏沉で、自分が妄想を打っていると分からなかった。今心は細かく、定力があるため、元々知らなかった多くのことを発見し、ますます自分を理解するようになる。

その後、身におりて生滅法を観じて住することを修習する。身体の中で何の法が生じ、同時に何の法が滅するか、一切の生生滅滅現象を内心ではっきり了知し、つまり身体の中の様々な生滅変化現象をはっきり了知する。こうして定慧は同時に増進される。身体の中の生滅現象が全て了知でき、心の中の私という観念が形成される。

原文:尚又、智識によって成り及び憶念によって成るものに対して、皆身の思念が現前する。彼は依る所なくして住すべく、且つ世間の如何なる物にも執着せずして住すべし。諸比丘よ。比丘は如是にして身におりて身を観じて住す。

釈:このように全て観行し終えた後、自分の頭脳、思想観念の中は、全て自分の身体であり、全ての心は自分の身体であり、心は自分の身体を念じている。色身の観念がしっかりと心全体を占拠する。次の段階では智慧で観照し、色身に関する全ての観念を滅除し、内心が清浄無為に達し、心が何にも住さないようにする。

内心はもはや自分の色身に依って住してはならず、身体の観念を持ってはならない。この観念を泯滅させ、色身への感受と認知を空じ、色身の私という観念を空じる。その後、身見を断つ可能性がある。或いは定中に入ることができ、欲界定や色界定が生じる。心にまだ身体の念いがあれば、深い定に入ることはできない。且つ世間の如何なる物にも執着せずして住すべし。身体の観念だけでなく、他の観念も全て持ってはならない。世間の一切の事物の観念思想は全て排除し、持ってはならない。内心は空にし、更に空にし、空さえも空にし、一法も持たず、空空浄浄、洒洒落落とする。この段階に至れば、それは別の田園風光であり、我見を断つことは遠くなく、直接我見を断つことさえできる。

この方法は小乗の修法ではあるが、大乗の参禅とは異なる。しかしこれも大乗参禅の基礎である。我々は普段散乱に慣れており、この境界に達するのは容易ではない。一旦達すれば、生生世世で利益を得る。だからしっかり修習すべきである。同じ修法でも、男性の散乱心は比較的少なく、心に気にかけることが少ないため、修定は比較的容易で速い。女性の心は散乱が深刻で、攀縁し気にかけることが多いため、これらを行うには比較的困難である。智慧で思惟し、正念を提起し、心に気にかけていることが全て無意味であると認識し、内心で放開すれば、いくつかの事柄の絡み合いから抜け出せ、修定は速くなり、智慧心も生じやすくなる。

ページトップへ戻る