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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1007

第二章 身念処を観ずる

第一節 呼吸を観ずる

原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして身において身を観じて住するや。諸比丘よ。此に於て。比丘は森林に行き、樹下に行き、閑静な場所に行き、而して結跏趺坐し、身を正しく真直ぐにし、思念を現前にせよ。

釈:世尊は言われた:さて、諸比丘よ、四念処観を修行すれば苦悩憂いを滅し、清涼を得ることができるゆえに、比丘は如何にして身において身を観じて住すべきか。諸比丘たちよ、四念処観を修行するには、まず汝らは森林、樹下、閑静な場所といった人に妨げられない所を選び、結跏趺坐し、身体は端正に真っ直ぐにし、曲げてはならず、然る後に思惟観行を始めよ。

世尊は具体的に身を観じて住する方法を説き始められた:如何に身を観ずるか、心念が如何にして色身に住して観行するか。過去に世尊が説法された時、多くの弟子が法を聴きに来た。法会が終わった後、弟子たちは各自静かな場所を探して静坐し、思惟観行した。インドの天候は暑く、比丘は自由に場所を選ぶことができた。或いは森林の中の樹の下、或いは墓地、或いは洞窟、人に妨げられない場所であればどこでも良く、薄い座布団を地面に敷き、脚を組んで座り、端身正坐した。一人一箇所であり、二人或いは三人で一緒に修行することはなかった。何故なら各人がそれぞれ思惟し、相談研究する必要がなく、互いの妨げを避けるためである。彼らのこの修行様式は、禅定を修めると同時に智慧を修めるものであった。観行そのものが慧行であり、深く思惟する中に既に禅定があり、これが定慧同修である。

何故結跏趺坐するのか。結跏趺坐とは脚を組むことである。脚を組むと気血が乱れず、身体は静まりやすく、気脈の運行は秩序正しく力強くなり、色身は比較的快適である。こうして心念も静まり、心は乱れず、脚を組む利点はこれである。身体が端正であれば気血の運行は暢通し、心は乱れない。もし身体が曲がりくねり、だらしなく緩んでいれば、内臓器官は正しくなく、気血は暢通せず、心念は乱れ、心念は怠惰になり、人も昏沈しやすい。身体が真っ直ぐであれば心念は直ちに集中する。端身正意とはこの道理である。

その後、心に何を思念すべきか。それは世尊の説かれた法を思念することである。毎回世尊が法を説き終わると、弟子たちは各々場所を探して世尊の説かれた法を思惟し消化した。我々のようにもし法を聴いて帰った後、恐らく再び思い出さず、再び振り返らず、聴いただけで終わってしまうならば、たとえ少し思い出しても真剣に仔細に修習しなければ、聴聞した仏法から真実の利益を得ることはできない。

法を聴いた後は熱いうちに打つべく、帰って直ちに思い出し思惟し、一つの義理また一つの義理を思惟し、一つ一つ検証すべきである。この法義が思惟し通じたら、次を思惟し、世尊の説かれたことが如実であるかどうか検証する。過去の比丘たちは皆このように修行した。思惟と同時に禅定があり、禅定の中で思惟することを禅観という。小乗の禅修とはこの意味である。これは大乗法の参禅ではなく、第八識を証悟するあの参禅法ではなく、小乗の禅修方法である。しかし、用功方法と心念はほぼ同じで、定も慧もあり、定中で観行し参究して世尊の説かれた仏法の義理を究める。

原文:彼は正念にして入息し、正念にして出息せよ。

釈:正念とは何か。それは心に雑念がなく、心念が眼前に観行する法理に集中し、他の雑事を思わないこと、これが正念である。身を観じて住するにはまず呼吸を観ずることから始め、自分の呼吸を観察し、自分の呼吸に注意する。例えば我々が今吸気している時、空気が鼻孔から入り、気管に達し、然る後に気管に沿って少しずつ運行し、五臓六腑に到達する。この息の通過する経路、どの位置に至ったか、皆感じ取れるべきである。最後に呼吸が腹部丹田に達することも皆知るべきであり、知らなければ正念ではなく、念が散じてしまったのである。何故自分の呼吸が分からなくなるのか。心で妄想を打ったからであり、他の事を考え、心が散乱し注意力が集中していないから分からないのである。故に我々は常に呼吸を観察し、心念を全てこの事に繋ぎ、妄想がなければ、修定は早く進み、身体の変化も早く、思惟も非常に鋭敏となる。このように思惟観行した後、身見を断ち、我見を断つことができる。

まず正念で自分の呼吸を観察し、入息の状況を全て知る。入息した後、再び正念で出息する。自分が外に呼気しているのを観察し、丹田のこの位置から、気息がずっと上へ運行し、通過する経路を全て知り、然る後に気息が口から軽く吐き出される。全過程を明瞭に知り、心念が少しも散乱せず、人も昏沈しないべきである。もし昏沈すれば、呼吸の状況は感じられなくなる。

原文:或いは長く入息する時は、我が長く入息することを知る。又長く出息する者は、我が長く出息することを知る。

釈:呼吸が長くなり、長い入息に入る時、心に我が長く入息することを知る。その後長く出息する時、我が長く出息することを知る。

正念で入息し、正念で出息することを訓練し終わった後、次に進む。心が静まった後、入息出息は共に長くなる。何故長くなるのか。心が静まった後、呼吸の通路が全て開くためであり、中間に詰まる所がなく、気息は丹田まで下りるため、入息の時間が長くなり、身体も健康になる。何故ならこの中間の気脈の運行が身体の中の病気を排出するからである。もし身体が健康でなければ、呼吸は胸まで行かずに吐き出され、途中までしか行かず丹田に到達できず、或る程度重い場合は喉の口まで行って吐き出される。このような人は身体が相当に虚弱である。

長く入息する時、正知正念で、自分が今入息が非常に長く、非常に緩やかであることを知る。一息吸うのに30秒かかるかもしれず、1分に達するかもしれない。もし定力が次第に深まり四禅定に至ると、呼吸さえも停止する。これは禅定が非常に深いことを示す。定力が良ければ良いほど呼吸は遅く、柔らかく、緩やかになる。もし定力が良くなければ、呼吸の音は荒く重く、他人も聞こえる。喘ぐ音が聞こえるのは、身体の通路に詰まりがあり、身体が健康でないことを示す。

長く入息することを皆知った後、長く出息する時も知り、自分が呼気の時間が長く、非常に緩やかで非常に微細であることを知る。このように修行は一歩一歩深まり、まず第一歩を良く行い、然る後に次を行う。前の基礎をしっかり固めれば、次は順調に進み、禅定を修めることができる。このようにして自分の心念を訓練し、自分の定力と慧力を訓練する。

原文:又短く入息する時は、我が短く入息することを知る。又短く出息する者は、我が短く出息することを知る。

釈:もし入息が短い時も、我が短く入息することを知るべきである。もし出息が短い時も、我が短く出息することを知るべきである。

長く入息し長く出息することが自分で皆知れるようになり、時々呼吸が様々な原因で比較的短くなる。この時も自分が今入息が比較的短いこと、非常に短い時間で吸い満ち、吸気が運行し続けられないことを知るべきである。呼気の時間も非常に短く、一気に吐き出されることも自分で知るべきである。これも身体の様々な方面の原因による。このようにして自分の心念を統一と専一に至らせ、眼前に行う観呼吸に定める。これを定といい、心を一処に止めるという。

短く入息し短く出息することを自分で皆知り、この段階まで訓練した後、更に下へ修習する。各人の訓練時間の長短は皆同じではなく、各人の身体素質と心理素質を見るべきであり、各人の仏法の基礎も皆異なり、心念力が異なり、身体の健康状態が異なるため、修習の時間の長短は異なる。或る人は30分修行し、或る人は数日かかり、或る人は半月かかるかもしれず、或る人は一ヶ月かけてやっと心念が静まり、心念を呼吸に集中させることができる。この時間の長短は必ずしも同じではない。もしこの基礎が固まっていなければ、下へ進んではならない。一歩でも良くできていなければ、後の練習は混乱し、修行を続けられなくなる。呼吸の長短を皆知った後、更に下へ進む。

原文:修習して我は全身を覚知して入息す。修習して我は全身を覚知して出息す。

釈:修習して心念力が増強した後、観行の範囲は次第に拡大し、身体の或る一箇所を覚知することから、最後に全身に拡大する。入息の時、気息の通過する通路を覚知するだけでなく、全身の状況、身体全体の状況を覚知し、全てを知らなければならない。即ち今鼻孔から入息し始め、身体の各所はどのような状況か、気息が身体のどの部位に至ったか、自分で了知し、明瞭に掌握し、心が曖昧であってはならない。自分の胃腸の状況が如何に、心臓の状況が如何に、腹部の状況が如何に、頭部の状況が如何に、腰脚の状況が如何に、手足の状況が如何に、全身の状況が如何に、自分で皆知るべきである。

全身の状況を覚知することは、少しずつ修得するものである。全身の状況は比較的複雑であり、一定の定力と相応の慧力、心力が必要である。前の基礎が良くできていれば、後の複雑なことも観行できる。観行がこの段階に至るのは、定力が既に非常に良いことを示す。定力が良ければ知り得る事が多く、ただ一つの呼吸状況を知るだけではない。呼吸状況を了知しながら同時に全身の状況を知ることができる。どの場所が快適か、どの場所が詰まっているか、どの場所が充実しているか、どの場所が空虚か、どの場所が痛むか、自分で皆知る。心念が集中せず気が元に帰らず、身体に揺れ現象が現れれば、心でも了知すべきである。心念が静まり気脈が通じ、身体が安和になれば、自分で了知すべきである。最後に身体に現れる様々な状態を皆知るべきである。心力が十分だからである。この方法が全身を覚知して入息することであり、定慧共に増強される。

外に呼気する時、自分全体の身体状況も皆知り、明瞭であるべきである。この時は心が散乱せず、昏沈もせず、正知正念である。もし知らず明瞭でなければ、心念は散じてしまったのである。脚の痛みと快適な状況を自分で知り、痺れる状況も知り、気血が通ったかまだ通っていないかも知るべきである。手の状況も知り、肩の状況も知るべきであり、頭の状況も知り、顔面の状況も知り、五臓六腑の状況も知り、腰と背中の状況も皆知るべきである。この時注意力は完全に集中し、心念力は身体全体に縁り、内心が身体各部の状況を了知し、智慧力が増広し、定力と慧力が共に同時に増進される。これが全身を覚知して出息する修習方法である。

原文:修習して我は身行を止めて入息す。修習して我は身行を止めて出息す。

釈:止とは停止の意味である。身行とは何か。身行とは身体の一切の動転、揺動、晃動現象であり、静かでない行為造作である。身体内部の微細な運行は止息できず、生命が終わる以外は。静坐して呼吸を観行する時、初めは身体に動転現象があり、静止を得ていない。心が寂止せず、気脈が通じず、気血の運行が順調でなく頭の揺れ、身体の揺動、身体姿勢の変化、目の瞬きなどが現れる。修行し暫くすると、心が次第に寂静し、気脈の運行は順調になり、気血も暢通し、身体が非常に快適で安和に感じ、心境は平和となる。こうして身行は次第に止息し、頭は動かず、身体は揺れず、腰は曲がらず、身体全体が静まる。

修習の中で、これらの状況を内心で了知し、明瞭にすべきである。定慧が並行し、互いに助け合う。こうして修定修慧に対する体験が得られ、元来身体が揺れるのは気血が通じず心が静まらないためであることを知る。今は気脈の運行が非常に順調で、身体は揺れず、全て静止し、全身が暢通していると感じ、内心も怡悦である。入息と同時に身体各部の状況を知り、身体全体が寂止した後、脚は動かず、身体も揺れず、両手は振らず、神経も跳ねず、目も動かず、頭も動かず、身行が全て寂止した。これらの状況を、入息と同時に了知し、内心に常に「知」がある。これが慧であり、且つ慧力が相当に強く必要である。こうして我々の定慧は次第に増進し円満し、これは我々が修定修慧する非常に良い方法である。

呼気の時、自分の身体全体の状況を知り、自分の身体の動転が全て停止したことを知る。目は動かず、頭は動かず、身体は揺れず、脚も動かず、腰も捻らず、腸胃さえも大きな蠕動や音がなく、呼吸も荒くなくなり、身体表面の明らかな活動は全て無くなる。修行し心が静まった後、気脈は次第に暢通し、運行は比較的微細になる。身体の中に障害がなくなり、業障病気も一部排出され、身体は快適に感じ、動きたくなくなり、一種の力が身体を包み込み、保持するようで、身体は自然に動かなくなる。この修行が身行を止めて出息することである。

呼吸を観ずる修行方法:第一歩、自分の呼吸を観ずる。入息出息を皆知る。第二歩、出入息の長短を皆知る。第三歩、出入息の時、全身の状況を皆知る。第四歩、出入息の時、身行が全て寂静したことを皆知る。この段階に至るには修行にどれだけ時間がかかるかは必ずしも同じではない。或る人は一日半日で良く、或る人は一ヶ月かかり、或る人は半年かかり、或る人は更に長い時間がかかる。心が散乱すればするほど、昏沈すればするほど、かかる時間は長い。故に雑念が非常に多く、身体素質もあまり良くなければ、他人より修行は遅くなる。もし元々心が比較的静かな人であれば、半日で到達できる。

各人の修行基礎、身体素質と心理素質は皆異なり、修行の進程は異なる。世界観の違い、出離心の違いにより、修行の時間と結果は千差万別である。この修行方法で最も重要な鍵は:内心に常に「知」があること。これは非常に重要である。この「知」は定を離れずにある慧であり、将来大乗法を修学し参禅する時、この「知」を一つの話頭に換え、直接参禅でき、明心できる。

原文:諸比丘よ。恰も熟練した轆轤師(ろくろし)或いは轆轤の弟子の如し。或いは長く(轆轤を)回す時は、我が長く回すことを知る。或いは短くする時は、我が短くすることを知る。

釈:仏は言われた:諸比丘たちよ、汝らがこれらの法を修習する時は、正に仕事に熟練した轆轤師或いは轆轤師の弟子のようである。彼らが縄を長くする時、我(自分)が縄を長くすることを知り、或いは縄を短くする時、我(自分)が縄を短くすることを知る。

過去の古代には水道がなく、水を飲むには地下の非常に深い井戸から汲み上げた。井戸には縄を回す装置があり、縄の一端に水桶を掛け、縄を回して下ろし、井戸から水を汲み上げる。この縄を回す装置を轆轤という。水を汲むことを担当するこの人を轆轤師という。彼が水を汲む時、もし心が静かであれば、彼は井底に非常に長い縄を下ろしたことを明瞭に知る。井戸の水が深いからである。もし井戸の水が多く、水面が地面に近ければ、彼が下ろす縄は短く、この時も彼は明瞭に知る。或いは水桶を汲み上げたい時は縄を短くし、この時も明瞭に知る。回す縄の長短を彼は皆知る。

我々が修定し呼吸を観ずる時も轆轤師の如く、今何をしているか心に明瞭に知るべきである。出入息の状況を皆知り、息の長短を皆知り、全身の状況を皆知り、身行が止息することを皆知る。あの轆轤師が水を汲む時の専心一意と同じである。これは仏が身行を観ずる方法に用いた譬えである。

原文:諸比丘よ。比丘はかくの如く長く入息する時は、我が長く入息することを知る。或いは長く出息する時は、我が長く出息することを知る。短く入息する時は、我が短く入息することを知る。短く出息する時は、我が短く出息することを知る。

釈:仏は言われた:諸比丘たちよ、比丘は以上のように専心一意で長く入息する時、我が長く入息することを知る。或いは専心一意で長く出息する時、我が長く出息することを知る。短く入息する時、我が短く入息することを知る。短く出息する時、我が短く出息することを知る。

この修習方法は呼吸が比較的長い時、自分が長く入息することを知る。この息を吸う時、非常に遅く非常に細く、時間が長く、10秒から30秒或いは1分に達し、全過程を自分で明瞭に了知する。この吸気の時間の長さは、修習訓練によって到達可能であり、最後には呼吸を停止することもできる。それが四禅の境界である。然る後に長く出息する時、自分が長く呼気することを知る。この息を吐き出す時非常に遅く非常に緩やかであり、功底のある人、彼が呼吸する時他人には全く呼吸音が聞こえない。功底のない人、呼吸音は非常に大きく、喘ぎが荒く重い。これは彼に禅定の基礎がなく、心が静まらず、色身上にも些かの障害があることを示す。入息が短い時は非常に明瞭に自分が短く入息することを知るべきであり、出息が短い時も自分が短く出息することを明瞭に知る。

原文:修習して我は全身を覚知して入息す。修習して我は全身を覚知して出息す。修習して我は身行を止めて入息す。修習して我は身行を止めて出息す。

釈:更に修習し、我が入息する時、全身の状態を覚知できるようにする。更に修習し、我が出息する時、全身の状態を覚知できるようにする。次に更に修習し、我が入息する時、一切の身行を止められるようにする。更に修習し、我が出息する時、一切の身行を止め、静止不動にできるようにする。

修習して全身を覚知して入息する。吸気の時、全身の運行状況を自分で明瞭に知る。頭から足まで、内から外まで、自分で全てを知る。定力が強い時、心の縁は広大で深細であり、了知する範囲は広大に、了知する事理は深細になる。もし吸気の時、全身を覚知できなければ、自分の定力はまだ不足しており、慧力も足りず、心念を専一にできず、心力が強くなく、心の縁が広大でないことを示す。ここの専一と広大は矛盾するように見えるが、実は矛盾しない。この時は全身を所縁の一つの対象とし、当然必要な定力と慧力は共に強くなければならず、そうでなければこの点を成し遂げられない。これは少しずつ次第に定慧を増強し、心力を強大にし、了別性を強くするものである。

更に修習して全身を覚知して出息する。呼気する時、全身の状況に対し、心で明瞭に知るべきである。頭から足まで、内から外まで、色身の全ての状況を自分で知り、明瞭にすべきである。もし明瞭でなければ、自分の憶念はまだ集中しておらず、心力が強くなく、定慧がまだ訓練されていないことを示す。もし呼吸する時、全身の状況が明瞭になれば、この功夫は散じず比較的固く、続けて修習できる。

更に下へ修習して身行を止めて入息する。吸気する時、明瞭に知る:自分の身体が静まったことを。頭から足まで、内から外まで、身体は全て寂静し、身体は揺れず、目は瞬かず、頭も動かず、腕と脚も動かず、呼吸も微細になり、気脈の運行も微細になる。これらの状況を心で明瞭に了知する。これは功夫を通じ、念力が集中し、心が散乱せず、身行が次第に微細になり、粗い妄動が消失するためである。微細な身行は依然として存在する。生命体の活動にはこれらの微細な身行が必ずあるためであり、もしなければ四禅に入る。そうでなければ死人である。功夫が固まった後、引き続き用功する。

更に続けて修習して身行を止めて出息する。呼気する時、全身がほとんど静止した状態を自分で明瞭に了知し、心が曖昧でなく散乱しない。もし了知できず、或いは了知が全面的でなければ、定慧が不足し、心念がまだ少し散乱しており、昏沈しているか或いは妄想を打っていることを示す。この段階まで修行が良くでき、功夫が固まった後、更に下へ修習する。そうでなければ下へ修習せず、この手順まで修習が円満に成功するまで続ける。

原文:かくの如く。或いは内身において身を観じて住す。又は外身において身を観じて住す。或いは内外身において身を観じて住す。

釈:このように修習し終わった後、心は或いは内色身の観行に住し、然る後に外身の観行に住し、或いは内身と外身の同時観行に住す。

観行がこの段階に至り、以上の方法に従い更に内身を観行する。内身とは何か。ある人は身体内部と言い、身体表面に対するものである。実は色身全体が内身に属し、身体の外の生活環境に対し、外界の宇宙器世間に対するものである。内身とは色身全体を指し、身体表面の皮膚から身体の中の筋肉、骨格、五臓六腑、血液、骨髄、脳漿内臓などを含む。頭から足まで、内から外まで、全て内身に属する。

しかしこの内身を更に細分すると、勝義根の中の内相分と勝義根の外の外相分に分けられる。色身の内外相分は共に色声香味触法を含む。色とは眼識の見る肉身、声とは身体から発する様々な音声、香とは身体から発する香塵、味とは身体の気味、触とは身体自体の飢え渇き満腹疲労酸っぱさだるさなどの触塵、法とは色身五塵上の微細な法塵である。而して外身とは、色身の外の一切の六塵境界であり、外界の色声香味触を含み、身体の内に属さない。

身には一つの定義があり、これを十八界という。十八界は皆我々自身の五陰身に属する。十八界は何を含むか。眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の六根であり、前五根は我々が皆見つけられ、意根は心法である。十八界は更に六塵を含み、それぞれ色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、法塵である。また六識を含み、それぞれ眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。

何が色塵か。我々自身の身体は色塵であり、内身に属する。身体の外、目に見えるものも皆色塵であり、地水火風の四大から成り、外身に属する。色塵は我々の眼前の身の辺りの全ての物質を含み、部屋全体まで、部屋の外の道、道の外の町全体、町の外の省全体、省の外の国全体、国の外の地球全体、更に地球の外の宇宙全体に至る。一つの三千大千世界は銀河系であり、無数の三千大千世界、或いは十方諸仏の国土は皆色塵に属し、即ち外色塵であり、外身とも呼ばれる。極めて大多数の色塵は我々が今はまだ見えず接触できないが、依然として十八界の中の法に属し、皆色塵であり、我々の眼根に対応する。故に我々の外身は非常に広大である。

何が声塵か。我々の身体内部には多くの音声がある。例えば腸胃の鳴動腹鳴、身体の中の気体運動、消化の音声。また身体から発する音声、例えばげっぷの音、喘ぎの音、耳鳴りの音、くしゃみの音、話す音声など。これらは内身に属する。身体外部にも様々な音声がある。身体と様々な物質の衝突、接触、摩擦の音声。他の衆生の発する音声、様々な物体の発する音声、例えば時計の音、空気の流れの音、部屋の外の音、大通りの音、町全体の音、虚空全体の音、宇宙器世間全体の発する音など。これらは皆声塵であり、しかも外声塵であり、身体の内ではなく、外身に属する。内外の声塵は皆我々の十八界に属する。我々の外身が非常に広大であることが分かる。極めて大多数の音声は我々が暫くはまだ聞こえない。

また香塵、我々自身の身体が発散する様々な匂いは内香塵であり、内身に属する。周囲の環境の匂いは外香塵であり、他の衆生の発する匂い、部屋の中の匂い、部屋の外の匂い、山河大地の匂い、宇宙虚空全体の匂いを含み、皆外香塵に属し、我々の十八界に属し、我々自身の外身に属する。

味塵には内外の味塵がある。口腔に食物がない時、舌根が感じる味、胃から発散する味塵は内味塵であり、内身に属する。食物がある時、感じる食物の甘酸っぱい苦い辛い塩辛い淡いなどの味は外味塵であり、舌根に対し、十八界の中の法に属し、外身に属する。

触塵、内触塵と外触塵を含む。内触塵は我々の身体の中の触であり、例えば:飢え渇き、寒さ暑さ、温かさ満腹、疲労、快適、安らぎなどであり、内身に属する。外触塵は外界の物質と色身の接触によって生じる触塵である。例えば忉利天の頂上の太陽が身体に照りつける時の身体への触。須弥山の中腹、四天王天の月が身体に照りつける時の身体への触。虚空から来る冷たい熱い空気の身体への触。様々な物質の身体への接触と衝突、微かな触例えば微風と衣服の触、激しい触例えば石と重い物、これらは皆外触塵であり、外身に属する。故に我々の外触塵の範囲も非常に広大であるが、我々の今の大部分の人の心念は、まだこれほど広大な範囲を観行できない。

法塵、五塵の上に現れる法処所摂色、及び意識心の存在する独頭境界、散乱心の了知する法塵、定境の中の法塵、夢の中の法塵を含む。所謂外身とは内六塵である。我々は根本的に外六塵を見ることができず、接触できず、第八識が外六塵に依って顕現した内六塵にのみ接触観察できるため、内六塵を方便的に色身の外の外身と説くのである。

十八界には更に六識がある:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。十八界はこの仮我五陰を構成する。我々が五陰身を観ずる時、まず内身を観じ、次に外身を観じ、然る後に内身と外身を同時に観ずる。この時定力は非常に良くなる。もし定力が良くなければ、ただ一つの法を観行するのも容易ではない。散乱心は同時に多くの対象を観察できず、全身を内から外、頭から足まで観察できず、身外の一切の法も観察できない。この程度に修まれば、備える定慧は相当に良く、皆種子として第八識に保存でき、来世に受用を得る。例えば生まれつき眼は六路を観、耳は八方を聞くことができ、生まれつき一心多用ができ、精力は相当に充実し、智慧は相当に広大で、凡響とは異なる。

観行する時、まず内身から観じ始め、身体内の色声香味触法を観行し、全面的に細かくすべきである。功夫が固まったら、更に外身を観じ、外の色声香味触法を観じ、全面的に細かくすべきである。この段階の功夫が固まったら、更に同時に内身と外身を観じ、内と外を一緒に観じ、全面的に細かく、全ての法を観察し、できるだけ一念の間に了知すべきである。この点を成し遂げれば、定慧は極めて良く、心は既に非常に微細に至り、他人の心念さえ感知でき、未卜先知の能力を備えることができる。

我々の心は散じることに慣れており、散乱でなければ昏沈、追憶、後悔である。昏沈とは頭の中がぼんやりとして何の概念もなく、うつらうつらとして明瞭でないことであり、愚痴ともいう。そうでなければ心が散乱し、至る所に攀縁し、雑多な事が心の中で巡り、過去を追憶するか将来を思慮し、現前に安住したことがない。我々が修定が非常に良くなった時、心念が集中し、同時に我々の身体の内身、外身の様々な状況を観行でき、然る後に内外身を同時に観照でき、皆はっきりと観察できる。この段階まで観じると、全体の我という概念が心の中に形成され、我に関する観念が非常に固くなる。身体状況が皆明らかになると、内心中に我があり、身があるという観念が生じる。

原文:或いは身において生法を観じて住す。又は身において滅法を観じて住す。又は身において生滅法を観じて住す。

釈:心は或いは色身に生じる法を観行して住し、或いは色身に消失滅する法を観行して住し、又は心は色身に同時に生じ滅する法を観行して住す。

色身に対する観行では、生法を観察し、心で生法を了知すべきである。生法とは元々無く、今現れたものであり、生法という。静坐到一定時間、身体には様々な現象と覚受が生じる。軽安の覚受と痛みの覚受を含む。気脈の運行が始まった後、身体は或いは軽安で非常に快適に感じ、或いは脚が痺れ痛み始め、或いは手が痺れ膨れ始め、或いは内臓器官が詰まり痛みを感じ、或いは暢通し、或いは腹鳴が現れ、或いは身体が高く大きくなる。様々な状況が現れ、各人に現れる状況は皆異なる。観行の中で、これらの状況を内心で明瞭に了知し、身体に新しく生じた覚受が何か、現象が何か、また如何に変化したかを、皆明瞭に了知し、曖昧であってはならない。これが身において生法を観じて住することである。

更に次に、身において滅法を観じて住することを修習する。滅法とは元々あった現象が今無くなり消失したことである。例えば気脈が運行した後、粗重な呼吸が無くなり、呼吸は微細になる。気脈が元々ごうごうと激しく動いていたが、今は緩やかになり、静かに運行する。元々気脈が通る時、詰まった所が痛みを感じたが、今気脈が通り痛みが消失した。元々身体が重かったが、今は軽安になる。或いは先程身体が軽安だったが、今突然重くなる。これらは皆滅法であり、元々存在した現象が今消失した。これらの現象を皆明瞭に了知すべきである。もし定力が無いか、或いは定力が不足すれば、心はこれらの現象を了知できず、様々な感受も覚知できない。

多くの人は定力が無く、心識は粗雑であり、毎日自分の身体状況を明瞭にせず、最も粗重な喘ぎさえ感じない。普段心識が繁雑で、妄想が非常に激しい時は、自分が妄想を打っていることさえ分からず、自心を反観できない。自分が妄想を打っていると知らない時こそ、妄想が最も多く最も乱れている時であり、心が粗すぎ、反観の能力が全く無い。もし心が少し静まれば、自分を反観でき、自分が妄想を打っていることを知り、自分の心が善か不善かを理解でき、心念が不善であると発見すれば自らを呵責する。以前は心が粗く、散乱し、昏沈し、自分が妄想を打っていると知らなかった。今心が細かく、定力があれば、元々知らなかった多くの事を発見し、ますます自分を理解するようになる。

その後、身において生滅法を観じて住することを修習する。身体の中で何の法が生じ、同時に何の法が滅するか、一切の生生滅滅の現象を内心で明瞭に了知する。即ち身体の中の様々な生滅変化の現象を明瞭に了知する。こうして定慧は同時に増進される。身体の中の生滅現象を了知できれば、心の中の我という観念が形成される。

原文:尚又、智識の成せる所及び憶念の成せる所に於て、皆身の思念が現前する。彼は依る所無くして住すべし。且つまた世間の如何なる物にも執着せずして住すべし。諸比丘よ。比丘はかくの如く身において身を観じて住す。

釈:このように観行し終わった後、自分の頭脳、思想観念の中は、皆自分の身体となり、心の全ては自分の身体となり、心は皆自分の身体を念じる。色身の観念がしっかりと心全体を占める。次に智慧で観照し、色身に関する全ての観念を滅除し、内心が清浄無為に至り、心に住するところ無しとする。

内心は自分の色身に依って住してはならない。身体の観念を再び持ってはならない。この観念を泯滅し、色身に対する感受と認知を空じ、色身我の観念を空じ、然る後に身見を断つ可能性がある。或いは定中に入り、欲界定或いは色界定が生じる。心にまだ身体の念いがあれば、深い定に入ることはできない。且つまた世間の如何なる物にも執着せずして住すべし。身体の観念だけでなく、他の観念も皆持つべきではない。世間の一切の事物の観念思想は皆排除し、持つべきではない。内心は空とし、更に空とし、空さえも空とし、一法も持つべきではない。空空浄浄、洒洒落落。この段階に至れば、これは別の田園風光であり、我見を断つことは遠くなく、直接我見を断つことさえできる。

この方法は小乗の修法ではあるが、大乗の参禅とは異なる。しかしこれも大乗参禅の基礎である。我々は普段散乱に慣れており、この境界に至るのは容易ではない。一旦至れば、生生世世に利益を得る。故に良く修習すべきである。同じ修法でも、男衆の散乱心は比較的少なく、心に気にかける事が少ないため、修定は比較的容易で速い。女衆の心は散乱が深刻で、攀縁し気にかける事が多いため、これらを行うには比較的困難である。智慧で思惟し、正念を提起し、心に気にかける事は皆無意味であると認識し、内心で放開し、些かの事の絡み合いから抜け出せば、修定は速くなり、智慧心も生じやすい。

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