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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 520

第四章 心を観じて住す

引き続き第三の観である心を観じて住すについて述べる。四念住とは身の不浄を観じ、受が苦であることを観じ、心が無常であることを観じ、法が無我であることを観ずることである。心を観ずるこの一節は内容は長くないが、その意義は極めて深遠かつ広大である。

原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして心によって心を観ずるか。ここに於いて、諸比丘よ。比丘の心に貪りある時は、心に貪りあることを知る。

釈:今さらに観行を進める。諸比丘よ、比丘は如何なる修行によって心の上に住して心を観ずるのか。この問題について、諸比丘よ、比丘の心が貪りに陥っている時、自らの心が貪っていることを知らなければならない。

心を観ずるとは、心の思想行為、煩悩習気を観察し、心の上の念の起こり消えを観ずることである。この心を観ずる方法は、自ら心に貪りが生じた時に、自ら心が貪っていることを知ることである。心を観ずるにはまず心の貪りの相を観る。心に貪りが生じたら、心が貪っていることを知らなければならない。凡夫の心念とは一般的に何か。それは内心の煩悩心所、すなわち貪・瞋・痴・慢・疑・悪見、および善悪是非の観念、さらに心の量の大小広狭に他ならず、これらはまず心念の形となって現れる。自らの心念が解脱しているのか、それとも貪瞋痴の煩悩に縛られているのかは、一切の時処における心念を観察すれば分かる。この心行心念を観察し得た後、次第に対処できるようになる。何らかの方法で対処する道を見出すかもしれないし、意図的に対処しなくても降伏させられるかもしれない。これが心を観ずる作用である。

ここに二つの要点がある。一つは心の貪り、もう一つは「知る」ことである。この「知る」ことは重要である。知る、了知するとは覚悟し気づくことを表す。無量無辺の衆生は自心を知らず、自心に気づけないために、煩悩があっても自覚せず、六道の中で生死輪廻し、生死の苦海に流転して解脱を得られないのである。自ら貪心があることを知った後は、知らず知らずのうちに降伏し、貪心は次第に軽減され、ついには滅することさえある。知らぬことは無明であり、知ることは覚悟である。覚悟するとはどのような人か。覚悟した人は聖賢であり、覚悟しない人は生死の業障凡夫である。ゆえに我々の心に貪りが生じた時は、必ず回光返照して自らの心念と心行を照見し、自心に貪念があることに気づくべきである。

何を貪りというのか。貪りとは境界を喜び楽しみ、境界に執着し、境界に固執し、境界を掴み取ることである。境界に相を取り、さらに分別し、執取し、執着する。これが貪りの行相である。貪りが取り込む範囲は何か。衆生が何に貪っているかを観察すれば分かる。まず色に貪り、色に対して貪心を生じる。この色の範囲は広く、眼に見える一切の法を色という。人や物など種々の境界を含む。色塵の様々な境界が現れた時、眼根が触れた後、心に貪着が生じ、貪愛・喜楽・愛着、着境・執取・掴み取りなど、様々な心念が現れる。

衆生は無量劫の間、常にこれらの心念の中にあり、一度も覚ったことがなく、この種々の心念が貪念であり、生死輪廻の因であることを知らない。この貪念によって無量劫にわたり三悪道に堕ちてきた。六道輪廻の中でこれによって無量の苦しみを受けながらも自覚せず、自らの心念を把握できないために、理にかなわない心念がずっと蔓延し続け、無量劫後の今に流転してきたのである。今、仏法に遇えたからには、必ず仏法によって自心を覚らせ、自らの心を覚知し、覚照し、仏法と照らし合わせて反省し、自らの心念を把握し、心念を改め、不善の心念を取り除き、貪染の心念を断じ切らなければならない。そうして初めて六道輪廻を離れ、解脱を得ることができる。

次に声に対して貪りを生じる。様々な声塵が耳根に対し、耳根が音声に触れ、好ましい音声に対して喜楽の心が生じ、心にかなわぬ音声を聞けば、厭悪の心が生じる。それゆえ貪厭の心が絶えず境界を追い求め、境界に執着し、固執する。心は声塵に縛られ、声塵から離れられず、当然六道輪廻からも離れられない。これが無量劫の生死輪廻の因である。

心の中で音声が実在すると考えるからこそ、音声に対して喜貪心、厭恶心を起こすのである。自らを称賛する音声を聞けば、心は喜ぶ。喜びとは何の心か。それは境界を取着する心、境界に貪着する心、音声に貪着する心である。耳根が音声を聞いて起こす貪念は業を造る因であり、生死輪廻の因である。褒められ追い捧げられることを好み、名声や人気を好み、恭敬されることを好む。これらは全て貪心に属する。ゆえに貪心は境界から離れられず、境界に絡め取られる。本来我々が境界を掴み取り、執取しようとしたのに、結果として境界に縛られ、束縛され、繋がれてしまう。こうして我々は境界から離れられず、三界の生死輪廻から離れられないのである。

それでは色を見、声を聞く時、我々は必ず回光返照して自らの心念がどのような状態にあるかを観なければならない。貪っている時は必ず心が貪っていることを知り、心が執取し、境界を掴み取っていること、心が境界を喜び楽しみ、境界に着していることを知らなければならない。このような心は存在すべきでなく、断じ除くべきであり、離れるべきであると知るべきである。この時、初めて覚りが始まる。ゆえに覚った後は、機会と力が得られて貪愛を断じ除くことができる。貪愛を断じ除いた後、心は解脱を得、慧解脱を証得できる。智慧もまた解脱し、心が貪愛に覆い隠されなくなった時、初めて三界六道輪廻を出離できるのである。

貪りのもう一つの対象は香塵である。鼻根と香塵が相対する。香りであれ臭いであれ、あるいはその他のいかなる匂いであれ、鼻根と相対するものは全て香塵である。香りを嗅ぐ時、心がどのような状態か、心念がどうであるか、貪染しているかどうかを観察する。我々凡夫は一般的に香りを好み、香りを嗅ぐと心がとても快適で愉しいと感じる。もし臭いを嗅げば、心に厭悪が生じ、避けて厭離する。香塵を好むのも避けるのも、香塵への執取に属し、相において分別が生じ、執取は貪厭の心行に属する。この心念こそ生死輪廻の因である。境界を取り、境界に執着し、この境界を実在と考えるために、心を空にすることができず、この境界に絡め縛られ、臨終の時、心がこのような境界から離れていないため、このような境界によって三界六道の生死輪廻に縛られるのである。ゆえに香塵を貪り取ることは生死の因である。香塵に執取すれば、甚深な禅定を得られない。なぜなら定の中では心は空であり、心に物があって空でなければ、禅定も智慧もなく、解脱できないからである。

味塵もまた心の貪りの対象である。舌が味わう時、美食美味に遇えば心に貪りが生じ、好ましくない味塵に対しては厭離が生じる。貪りと厭いの心があり、味塵に絡め縛られ、心は味塵の境から離れられず、境界に繋がれて解脱を得られない。味塵が現れた時、味塵の相を執取し、貪り厭いが生じれば、心は自在を得ず、解脱できない。美食を掴み取ろうとする時、美食に掴まれてしまう。美食は三界の中にあり、三界世間法に属し、特に欲界の法に属する。心は欲界を離れられず、初禅定を成就できず、三界はおろか欲界すら出られない。人間界の味塵に貪るため、欲界定すらなく、欲界天にも行けず、欲界の法に貪れば天上の禅定は得られない。欲界のもの、すなわち欲界天の境界を含む欲界のものに貪れば、色界の禅定は得られず、色界天に行くことはできない。

欲界に属する法に貪着すれば欲界を出られず、色界に属する法に貪着すれば色界を出られず、無色界に属する法に貪着すれば無色界を出られない。なぜなら心と境界が一つに縛られ分離できないからである。境界を離れて初めて解脱を得る。心が境界から離れられず、境界から解脱しなければ、三界を出離できない。ゆえに普段、飲食や味塵に貪ったり、色・声・香・味に貪ったりしても解脱を得られない。

次に貪りのもう一つの対象である触塵について述べる。まず外界から来るもの、例えば衣服と色身の皮膚の触れ合い、接触する触れ、光の触れ、様々な境界が色身に触れること、これらは全て触塵に属する(男女の欲貪は言うまでもない)。色身の身根身識が触れる境界に着し、触塵を好むか厭うか、これらは全て貪りの一部に属する。好むこと、喜び楽しむことは全て境界の相に着することを意味する。我々が境界に絡みつき、執取し、分別すれば、これらの触塵の境界に絡め取られ、束縛される。このような心は触塵から離れられず、触塵と共にあるため、色界や無色界から解脱できない。

境界を掴み取る結果は境界と共にあることである。境界はどこにあるのか。境界は三界の中、生死輪廻の中にある。境界は三界を出ず、心と五陰身は三界を出られない。しかも境界は永遠に三界の法に属し、三界を出られない。我々が欲界の境界に貪る時、永遠に欲界を出られない。誰か境界と共に縛られ、永遠に束縛されたいと思う者がいるだろうか。もちろん誰も望まない。しかし境界が来れば、心は境界を執取し、必ず束縛される。境界が来るとまず相が現れ、相に名が付けられる。名を付けるとは分別することである。分別した後は執着し掴み取る。こうして心は境界に囚われて解脱できず、境界と分離できず、境界の上で解脱できず、三界を出られない。これが自在でない生死の因である。

心が最後に貪着する六塵の境界相は法塵である。法とは五法の境界上に現れる微細な法相である。一切の境界は法である。我々は一切の境界に一つの相を取り、一つの名を付け、分別を生じさせれば、様々な心行が生じ、貪瞋痴慢善悪の心行が全てあり、六塵の境界に束縛されて解脱を得られない。生死の鎖は境界と繋がっており、境界が三界を出なければ我々は三界を出られない。境界が欲界を出なければ我々は欲界を出られず、天に昇って楽しみを得ようと望み、初禅・二禅・三禅・四禅の定境を得ようと望み、色界天を望んでも不可能である。

欲界人間界の境界を我々が掴み取り続ければ、欲界天界の境界には接触できない。下層の境界を掴み取れば掴み取るほど、上層の境界は接触できず享受できず、我々から遠ざかり、三界の法に執着すればするほど、我々は仏の境界から遠ざかる。最高の境界に達しようとすれば、低い境界を捨てなければならない。なぜなら心には限界があり、何でも掴み取れるわけではない。欲界の法を執取すれば色界の法はなく、色界の法を執取すれば無色界の法はないからである。

それでは我々はどのような法を求めるべきか。最も上層の法を努力して求めようとすれば、下層の法を次々と全て捨て去り、執取せず、掴み取らず、絡みつかず、貪愛せず、また厭悪もしない。これらの境界に心が着さなければ、無関心という。なぜなら全ての境界は空であり幻化されたものであり、分別心を起こすべきでない。分別心を起こさなければ境界に着さず、境界を幻化されたもの、空のもの、実在しないものと見なす。このような心は解脱して自在であり、生死は我々自身が把握し、境界によって捻じ曲げられない。

無明を破るには、覚照の心が一つ必要である。まず自らを覚照し、境界の上で貪念が生じた時、必ず覚らなければならない。修行はまず自らを覚照すべきであり、他人を覚照すべきでない。あるいは他人を覚照して他人の心に貪りがあるのを見つけた時も、回光返照して自らに同じ心念があるかどうかを観るべきである。自らに同じ心念があると気づいたらどうするか。この心念は良くなく、生死の過患があると知らなければならない。知った後は、この問題は次第に処理できるようになる。

まず「知る」ことが最も初歩的で重要なことである。知った後、次にどうするか。もし貪念が非常に深刻ならば、何らかの方法で対処できる。深刻でなければ、心の中で知っているだけで容易に対処でき、貪念は次第に軽減される。対処の方法は密かに実行すべきかもしれない。心行の変化は、意識は最初は観察できないかもしれない。窃盗犯が家に物を盗みに来るようなものである。第一歩として、彼が賊であると知れば容易に対処できる。知った後は家に座って彼を見張ることができる。この賊は見つかったと知り、盗み続けるのが恥ずかしくなって引き下がる。我々はこれ以上略奪されず盗まれず、自らの生命財産の安全を保障するのである。

原文:また心に貪り離れたる時は、心に貪り離れたることを知る。

釈:心がすでに貪りから離れ、色声香味触法の六塵境界に貪らなくなった時、自らも心がすでに貪りから離れたことを知らなければならない。

修行をしばらく続けた後、境界に対し心が貪らなくなった時も、覚知覚照の心を持つべきである。心の中で自らが今、境界に貪着していない状態にあることを知る。色塵が目の前に現れても無関心で気にせず、喜ばず厭わない。音声が目の前に現れても無関心で、喜ばず厭わない。もし罵りの声を聞いて心が怒れば、それは境界に着し、境界を取り、境界を実在と見なして境界に束縛されたのである。実際には音声という境界は称賛であれ罵倒であれ、境界自体は空であり、幻化されたものであり、実在せず、生滅し、無常である。大乗法の角度から言えば、全て如来蔵が現した様々な仮象である。ゆえにこれらの声塵に対して貪心、喜楽心、厭恶心を起こすべきでなく、できる限り境界を空と見なし、この点を実践することは非常に容易ではない。

たとえ境界を空と見なせなくても、境界は依然として幻化され空である。心が境界に着さなければ、境界は心を繋ぎ止められない。心が境界に着している時、実際には境界は依然として心を繋ぎ止められず、自らを束縛できない。心が自ら境界に付着しただけである。心が境界に着さない時は自由であり、自在であり、解脱しており、生命は価値と意義と楽しみを持つ。心が貪りから離れた時、内心は知らなければならない。これは自らに反観力があり、覚照力・覚察力があり、禅定と智慧があることを示す。

原文:また心に瞋りある時は心に瞋りあることを知る。また心に瞋り離れたる時は、心に瞋り離れたることを知る。

釈:心に瞋りがある時は、心に瞋りがあることを知らなければならない。心が瞋心から離れ無瞋になった時は、自ら心が瞋恚から離れたことを知らなければならない。

何を瞋りというのか。俗に不愉快、怒りを瞋りという。心に一種の不快な感覚感受が生じ、一種の厭怒心が生じることを瞋りという。境界を喜ばないことを瞋りという。六塵境界を喜ばなくなった後、心に波瀾が立ち、心中穏やかでなく、怨恨・悩み・怒りが生じ、さらに違害心が生じることを全て瞋りという。瞋りの対象は依然として色声香味触法、人事物理であり、その中で色は我相人相衆生相も含む。深刻な瞋りを暴怒といい、暴怒の後は行動に移す。瞋心が生じることはまず自らを傷つけ、次に他人を傷つける。瞋念が生じ、復讐しようとする時、心は境界に絡め縛られ、解脱できず、自在でなく、臨終の時には境界と業縁によって六道、特に三悪道に拘束される。

境界は全て三界の中にあり、欲界の境界が最も多く、最も魅力的で、衆生は欲界から最も解脱しにくい。瞋業を造り、業種が残れば、欲界で報いを受け、三悪道で報いを受けなければならない。これが業に繋がれた衆生の原理である。ゆえに我々が境界に対して瞋心を起こす時は、必ず覚照心を起こさなければならない。修行はまず「知る」ことが必要である。自心を知った後、次の段階で方便的な方法措置を取り、心を瞋りから離れさせる。これが修行である。もし第一歩で瞋りに気づけなければ、瞋心を追い払えず、降伏できず、瞋心に従って流転し、業行が造り出されてしまう。

人を怒らせる境界に対し心に瞋りが生じず、人に復讐しようとも思わない時、心はすでに瞋りから離れている。瞋りから離れるとは、時に瞋心を断じ除くことを指し、時に必ずしも瞋心を断じ除くとは限らない。瞋心は眠ったまま現行を起こしていないかもしれない。心に瞋念が生じないのは、おそらく瞋念を押さえつけているだけで、断じ除いたのではない。押さえつけること、降伏させること、断じ除くことの三つには段階的な差がある。瞋りを押さえつけ降伏させるのは初果二果以前の人であり、三果以降で初めて瞋りを断じられる。三果以前は瞋りから離れることである。「離れる」には多くの意味がある。三果にも「離れる」が含まれるかもしれない。なぜなら心に瞋りの現行煩悩がなければ「離れる」と言えるからである。心に現前して瞋心が起こらなければ「瞋りから離れた」と言えるが、必ずしも瞋りを断じたとは限らない。もし瞋心が永遠に現行しなければ瞋りを断じたことになる。必ず初禅定があって初めて瞋りを断じられる。初禅定以前は降伏・押さえつける段階であり、「離れる」は必ずしも「断じる」ではない。これらの概念と内実をはっきりさせれば、自らが今どの修行段階にいるかが分かる。

原文:また心に痴ある時は、心に痴あることを知る。

釈:仏は言う。もし心に愚痴があるなら、自らがこの時心が愚痴であることを知らなければならない。

痴の意味は最も定義しにくく、はっきりさせにくく、さらに検査しにくい。なぜなら愚痴だからこそ、自らの愚痴を発見しにくいのである。貪瞋痴の三つの煩悩の中で、貪欲は最も断じやすく、瞋はその次であり、愚痴は最も発見しにくく断じにくい。一念の無明は愚痴に属し、三界に貪愛するのも愚痴に属し、さらに瞋恚も愚痴に属する。その他のより微細な愚痴は言うまでもない。貪瞋は必ず三果人から断じ始め、四果で初めて断じ尽くされる。しかし真に全ての愚痴無明を断じ尽くすには仏地に至って初めて断じ尽くされる。愚痴はまた無明ともいう。三界世俗法であれ仏法であれ、心の中で分からず、知らず、明らかでなく、できないことは全て痴といい、無明に属する。無明があれば明はなく、明とは明らかなことであり、無明とは心が暗く光がないことである。

仏に成る道では破るべき無明は、たとえ無数のコンピューターで一緒に計算しても数えきれないほど多く、空の塵のようであり、海辺の砂塵のように多く、到底数えきれるものではない。そうであるならば、誰が慢心を起こして自らはとても智慧があると言えるだろうか。今、ほんの少しの境地を修めたとしても全く取るに足らない。一定の高さと広さから観察すれば、我々は空の一粒の塵に過ぎず、大海の一粒の砂に過ぎない。さらに十方世界の角度から観察すれば、我々はさらに取るに足らない。十方世界の諸仏と諸大菩薩は無量無辺におり、その智慧は極めて深細で広大である。我々はこれと比べれば一滴の水と大海のようである。ゆえに慢心を起こす資格は全くなく、慢心があれば愚痴であり、何とかして対処し、降伏させ、捨て離れなければならない。

愚痴の範囲は広く微細で、ほぼあらゆる面、各領域に及ぶ。五陰世間に対する認識、見聞覚知性に対する認識、三千大千世界に対する認識は全て無明である。四聖諦理に対する愚痴、生死解脱に対する愚痴で分からず知らず証さないこと、法界実相に対する愚痴で分からないこと、諸法無我に対する愚痴で分からないこと、仏に成る理に対する愚痴無知である。そこで触れる一切の法を全て我と我のものと見なし、全て実在すると考え、無量劫にわたり無量の愚痴業を造ってきた。痴の範囲は最も広く最も細かく、断じ除くのが最も難しい。いかなる煩悩や習気も生じるのは全て愚痴のためであり、喜心や楽心も全て愚痴無明のためである。もし小乗で六道生死輪廻を解脱する愚痴無明を断じ尽くせば、四果の倶解脱と慧解脱の阿羅漢である。大乗で仏に成る過程の愚痴無明を断じ尽くせば仏である。菩薩にはなお無量無辺の愚痴無明があり、特に仏に成る道の法はさらに多くより微細である。これらの法を知らなければ愚痴である。

愚痴無明の種類には、一念無明・無始無明・塵沙無明があり、細分すればさらに多くの種類になる。世俗人にとって世俗法に対する愚痴無明は極めて多い。もし世俗法を全て通達すれば仏である。仏でない限り、世俗法は全て通達できない。仏のみが全ての世俗法を通達できる。衆生は世俗で無量劫輪廻したが、世俗法は分からない上に良く行えず、人としても良くできない。

もし厳密に無明を定義し、無明の内実と範疇を定めるならば、心に何かを求めることがあれば、それは境界を実在と見なし、一切の法を実在と見なしたことを示し、それが無明である。これらの無明は極めて長い時間をかけて少しずつ破る必要がある。一日二六時中、睡眠を含め覚照を起こし、境界が現れた時は覚照の心を起こし、これが空であり幻化され無常であり、如来蔵が様々な因縁を借りて現したものであることを理解しなければならない。一切の境界は良かれ悪しかれ、全て幻化されたものであり、実在しない。心が着さず、心が楽しまず、空々として心念を起こさなければ、無明は破れる。境界がなければ心はなく、心がなければ自らの無明を発見できない。ではどうやってこれを断ち切るか。境界の中で断ち切る必要があり、特に逆境の中で断ち切る必要がある。なぜなら逆境の中で生じる心念はさらに多いからである。逆境がなければ煩悩は隠れて現れず、菩薩の煩悩習気も現れず、深く埋もれ、智慧の鋏は使えない。

智慧と禅定は共に煩悩を断ち切る鋏である。境界が現れて煩悩が起こった時、その時に反照し、智慧の鋏を取り上げて煩悩を断ち切るべきである。もし煩悩が押さえつけられて現れる機会がなければ、石で草を押さえるように、いつか必ず現れ、その時草は狂ったように生い茂り、制御できなくなるかもしれない。ゆえに娑婆世界は非常に修行しやすい世界である。境界が多く、煩悩を断除する機会も多い。他の仏国土は全て順境であり、煩悩は現れにくく、智慧の鋏は使えない。智慧の鋏を使えば使うほど、断ち切る煩悩習気が多くなり、成就が速くなる。

それでは我々の修行の目標は何か。それは速く解脱し、速く無明煩悩を減らすことである。それならば縁に遇い境界に対し、煩悩を降伏させ断じ除くべきである。全ての怨家が一斉に陣を構え、一緒に来ても構わない。空と見なし、耐え忍ばなければならない。煩悩が起こったら断ち切り、煩悩が起こったら断ち切る。そうすれば全ての煩悩は少しずつ破られ、無明は速やかに断じ尽くされる。他の仏国土にはこれらの境界がないため、仏に成るのは遅く、何劫も経ってもまだその場で足踏みしているかもしれない。仏経では、他の仏国土の菩薩は多劫にわたり仏の周りで楽しみ優雅に過ごし、神通もあるが、智慧の境地は修め上がらず、多くの劫にわたり菩薩の果位が上がらず、修行は容易に進まないと紹介されている。

ゆえに我々が逆境に転じにくくなった時は、娑婆世界のように煩悩が深い場所に修行に来るべきである。このような世界では触れる境界が多く、逆縁が多く、煩悩が現れる機会が多く、覚照の機会も多く、智慧の鋏を使う機会も多く、無明煩悩を断ち切る機会も多く、断除する無明も多い。これが真実の修行である。もし向き合うものが全て順境ならば、修行が良いと言うが、どこが良いのか。逆境での修行こそが最も速いが、逆境での修行はまた沈淪しやすい。どのような人が逆境修行で沈淪しやすいか。覚照力のない人こそ沈淪しやすい。覚照力のある人は逆境であればあるほど修行が速く、一つ一つの荊棘を全て切り払い、勇往邁進して逆境逆縁に直面する。これらの逆境逆縁がなくなった後、自らの心も全て対処し終え、もはや何の逆縁もなくなる。仏には逆縁はなく、あっても衆生に見せるための示現である。

原文:また心に痴離れたる時は、心に痴離れたることを知る。

釈:もし比丘の心が愚痴から離れたなら、自らの心が愚痴から離れたことを知らなければならない。

絶えずある一つの法で努力して修行して初めて、ある一つの法に対して痴から離れることができる。しかし全ての法に対して愚痴から離れることはできない。仏のみが全ての法に対して痴から離れ痴を断じた。衆生の痴から離れるとはある面において、ある種の境界に対して痴から離れたことを指す。元々ある種の事理に対して愚痴で分からず、できず、解せず、明らかでなかったが、今分かり、その法に対して愚痴から離れた。小乗の四諦法のように、元々全く分からず、修行もできなかったが、今分かり修行でき、しかも証得したなら痴から離れた、あるいは痴を断じたという。しかし他の面ではなお分からないことがあり、無明は非常に多い。小乗の一二三四果を証したり、大乗の菩薩果を証したりしても、世間法に対するこの痴はなおあり、まして出世間法は言うまでもない。なぜならあの痴の範囲はあまりに広く、我々は単に一つの面の痴を断じたに過ぎないからである。元々特に深刻だった愚痴が、今検査してなくなったのを見つける。これを痴から離れたといい、一時的にこの痴念と無明がなくなった。

痴から離れるには押さえつけることと断じることの二つの段階が含まれる。何を押さえつけることと断じるというのか。例えば五蓋法において、まず五蓋煩悩を降伏押伏すれば初禅定が現れ、その後少しずつ五蓋煩悩を断除できる。これが次第である。例えば証果という問題では、証果には解悟と証悟があり、証悟を痴を断じることといい、解悟を痴から離れることという。大乗の明心見性も同様で、証悟を痴を断じることといい、解悟を痴から離れることという。無始無明を断じた後も、他の面で分からない法はまだ多く、全て痴から離れておらず、痴も断じていない。たとえ大菩薩でも、世間法に対して分からずできないことも多く、なお愚痴無明があり、仏法の面でできないことも多い。

仏法を全て証得し、世間法の愚痴も消え尽くして残りがなくなって初めて、仏は世間の一切の法を全て分かり全てできる。菩薩はできない。例えばある人が何地かの菩薩を証得し、世間法をやらせても、うまくいかないこともある。神通があっても、あることはどうしようもない。必ず分からないことがあり、医学・飲食・医薬・生理・心理などについても全て通達せず、衆生の心理も完全に掌握せず、これらは全て愚痴に属する。

衆生の心を掌握して初めて衆生を導き、衆生の煩悩に対処し、解脱の道へ導くことができる。菩薩がこの点をできなければ、衆生の心念を完全に理解する能力はなく、彼が導く衆生も智慧を持たない。これらは全て愚痴に属する。世間法の智慧と仏法の智慧は繋がっており、仏法の智慧の証量が高ければ高いほど、世間法を通達するほど多く、愚痴は少なくなる。

原文:また心に集中ある時は、心に集中あることを知る。

釈:禅定が高まり、観行時に心力を集中できるようになった時、心の中で心力が集中していることを知らなければならない。

今、心の集中問題について述べる。四念処を修学する前は心は散乱していた。東の事柄に心が着境し粘着し、西の事柄にも心が着境し粘着し、南・北・上・下・過去・未来、心は全て着境し縛られていた。衆生は皆そうである。意根の攀縁は非常に広く、この境界が来れば心は貼り付き、あの境界が来れば心も貼り付く。心はタコのようであり、実際にはタコよりさらに分散している。これを散乱という。今、定観行を修し心が散乱せず、次第に一点に集中し、一つの法に集中できるようになった。二つ三つの法に集中する可能性もある。集中とは必ずしも一つの法に集中することではなく、二つ三つも集中という。元々十や八の法に分散していたのが、今二つ三つに集中し、範囲が大幅に縮小しても集中という。

定力が非常に良い時は、同時に三つ四つの境界を分別しても、やはり心念は集中して清浄であり、定力も相当良く、智慧も非常に高い。一概には言えず、人によって見るべきである。ある人は一つの法に集中しても、心の分別力が足りず、智慧も良くなく、一つの時間に一つの事すらうまくできない。定力と智慧の良い人は、一時に五つの事をしても全てうまくでき、六つの事をする者さえいる。全てうまくでき、それを眼観六路、耳听八方(広く注意を配る)といい、全てを了知し、分別し明らかにし、さらに手配りできる。これは定と慧が共に高い人であり、生生世世定を修め慧を修めた人でなければできない。そうでなければ、一点に集中させれば集中できるが、集中した後その事を処理するのはできない。これは智慧が足りないためである。心は集中しているが智慧が足りないのである。

ある一つの事柄が現れ、心がそれと相対して集中できる時、少し禅定があり識心が分散しなくなった。この時、心の中で反観し知らなければならない。知る心があれば、それは覚悟の心であり、覚悟の心は心が散開しておらず、心念を全て掴めることを示す。これが初歩の修行である。

原文:また心に散乱ある時は、心に散乱あることを知る。

釈:心が散乱している時は、心が散乱していることを知らなければならない。

一日二六時中、境界に対し、心が散乱しているのか集中しているのか、覚照の心を持ち、全て知らなければならない。知ることは意識心の回光反照、意識心の反観力である。意識に反照力がある時、一つは禅定があり、もう一つは智慧がある。愚痴な人は意識心に反照力がなく、自らが何をしたかも分からない。自らの心理がどの状態にあるか分からず、意識心の証自証分が現れない。証自証分が強い人は慧力の高い人である。この慧力は仏法の慧力だけでなく世間法の慧力も含む。世間の賢い人は自らが何をしたか全て知っている。知った後、自らが正しく行ったか誤ったかを思惟し、誤りは直ちに正し、正しさは発揚保持する。これが世間の賢い人である。

仏法上で智慧のある人は、さらに反照力を持つべきである。自らが今起こしたいかなる心念も、反観でき、全て掴め、正しく効果的な方法を取って事を円満に成し遂げ、人事物理を全て円融に処理できる。智慧のない人は意識の証自証分が往々にして現れず、自らが愚痴の中にある時心で知らず、かえって自らは賢く高明だと思い込む。心の散乱と心の集中はどちらも知らなければならない。仏は我々にこのような覚照力を持つべきだと教えている。一切の時中に心に起こる念、貪瞋痴があるかないか、定力があるかないか、心が広大か狭小か、上か下か、全てを知らなければならない。

原文:また心に広大ある時は、心に広大あることを知る。

釈:何を心の広大というのか。広とは範囲、すなわち無量無辺の法を指す。大とは一般に程度を指すが、範囲の意味もある。我々の心は無量無辺の法を縁とすべきであり、眼前の小さな境界に執着すべきでない。最も広い心は十方世界を縁とし、十方諸仏の境界を縁とし、眼前の凡夫のあの小さな境界を縁としない。

心で考える問題は、如何に仏に成るか、如何に菩薩道を行ずるか、如何に大解脱を得るか、未来世の果報、他の仏国土の果報と道業の進展、将来如何に生生世世広大な衆生を率いて共に仏に成る解脱の道へ向かうか、度化摂受する衆生を如何にますます多くするかを考えるべきである。心はこれらの法を縁とすべきであり、これが広く大である。眼前の利益得失だけを考えるのではない。未来世の菩薩が地地増上の境界を考え、将来他の仏国土で法主となるか、あるいは無数の仏国土に化現して仏となり人を度すことを考える。このような事を考える心こそが広大である。

心が広大でないとは、眼前の凡夫のこれらの小事、眼前の利益、金銭上の利益、眷属上の利益、名声上の利益、財色名食睡の利益だけを考えることを指す。この心は狭小である。今の心が広大か狭小か、境界に遇ってどのような心念があるか、心量はどうか、心の中で明らかに知らなければならない。知れば自らの心があまりに狭小であり、眼前の自らのほんの少しの利益だけを顧みて、他の面は全く考えられないことが分かる。

心が広大になった後、初めて次第に内心を降伏させられる。あるいは意図的に、措置を講じて降伏させる。あるいは無意図に、措置なく降伏させる。無意図で措置なく降伏させるとは、第七識意根が背後で行う仕事を指す。これら全ては意識が了知しないことであり、第七識意根が自ら背後で黙々と思量し、思量が通れば、衪は変われる。措置があり意図的とは、意識心に一定の対処方法を取らせることである。まず知ることがあり、次に次の段階の運作がある。心の運作とは反観・覚照・措置を講じる・思惟・禅定と智慧を生起して問題を解決することを指す。これらは全て六七識の後続の仕事である。

表面的に見える仕事は全て意識が行い、意識が問題解決の方法を考え、如何に対処するかを思惟する。意識が思考した問題を意根に伝えれば関わらなくなる。意根は背後で思量し、表面的には心がもうこの事に関わらないように見えるが、実際には意根が背後で人に知られずに運作し、衪がこの事の前後の利害をはっきり考えた後で決断を下す。この時方法が現れ、六識は間違いなく実行する。意根が思量して明らかになれば心は変わり、境界が再び来た時は煩悩はなくなる。

貪らず煩悩がないのは誰の決定か。意根の決定である。なぜこのような決定があるのか。意根が考え明らかにしたからである。衪は背後でずっと努力して働いている。表面的には意識はただ自ら心が貪っていることを知り、その後何もしていないように見えるが、実際には意根がずっと背後で思量決断している。まとめると、境界に遇った時心が広大か狭小か、内心ははっきり明らかに知らなければならず、そうすれば次の段階は容易である。

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