四念処経講話 第二版(新修)
第四章 観心念住
次に第三観「観心に住す」を説きます。四念住とは、身の不浄を観じ、受は苦なりと観じ、心は無常なりと観じ、法は無我なりと観ずることです。観心というこの一節は内容は長くありませんが、その意味は非常に深遠で広大です。
原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして心により心を観ずるや。ここに、諸比丘よ。比丘、心に貪ある者は、心に貪あることを知れ。
釈:さて、引き続き観行を進めます。諸比丘よ、比丘はどのように修行して心の上に住し、心を観察するのでしょうか。この問題について、諸比丘よ、比丘が心に貪りを生じているときは、自らの心が貪っていることを知らなければなりません。
観心とは、心の思想行為、煩悩習気を観察し、心の上の念が起こり消えるのを観ることにあります。この観心の方法は、自ら心に貪りがあることに気づいたら、貪っていることを知ることにあります。観心はまず心の貪りの相から観始め、心に貪りが生じたら、貪っていることを知らなければなりません。凡夫の心念とは一般的にどのようなものでしょうか。それは、内心の煩悩心所、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見、そして善悪是非の観念、さらに心量の大小広狭に他なりません。これらはまず心念の形で表れます。自らの心念が解脱しているのか、それとも貪瞋痴の煩悩に縛られているのかは、あらゆる時処における心念を観察すればわかります。この心行心念を観察し得た後、徐々に対処できるようになります。あるいは対治する方法を見つけるかもしれませんし、あるいは意図的に対治しなくても降伏できるかもしれません。これが観心の作用です。
ここに二つの重点があります。一つは心の貪り、もう一つは「知る」ことです。この「知る」ことは非常に重要です。知る、了知するとは覚悟・覚察を意味します。無量無辺の衆生は、自心を知らず、自心を覚察できず、煩悩があるのに自覚しないがゆえに、六道で生死輪廻し、生死の苦海に流転して解脱できないのです。自ら貪心があると知った後は、知らず知らずのうちに降伏し、貪心は次第に軽減され、ついには滅することもあります。知らないことは無明であり、知ることは覚悟です。覚悟するとはどのような人でしょうか。覚悟した人とは聖賢の人であり、覚悟しない人は生死の業障凡夫です。ですから、心に貪りが生じたときは、必ず回光反照し、自らの心念と心行を照見し、自心に貪念があることを覚察できなければなりません。
何を貪りというのでしょうか。貪りとは、境界を喜び楽しみ、境界に粘着し、境界に執着し、境界を掴み取ることです。境界に相を取り、それから分別し、執取し、執着する。これが貪りの行相です。貪りが取る範囲とは何でしょうか。衆生が何に貪るかを観察すればわかります。まず色に貪ります。色に対して貪心を生じます。この色の範囲は非常に広く、眼に見える一切の法を色といい、人や物など種々の境界を含みます。色塵の様々な境界が現れると、眼根が触れた後、心に貪着が生じ、貪愛・喜楽・喜愛、着境・執取・掴み取りといった様々な心念が現れます。
衆生は無量劫の間、ずっとこれらの心念の中にあり、一度も覚ったことがなく、この種々の心念が貪念であり、生死輪廻の因であることを知りません。この貪念のために無量劫も三悪道に堕ちてきました。六道輪廻の中でこれによって無量の苦しみを受けながらも自覚せず、自らの心念を制御できないがゆえに、不如理な心念をずっと蔓延させ、無量劫後の今に流転してきたのです。今、仏法に出遇えたのですから、必ず仏法によって自心を覚らせ、自らの心を覚知・覚照し、仏法と照らし合わせて反観検討し、それから自らの心念を把握し、心念を変え、不善の心念を取り除き、貪染の心念を断じなければなりません。そうしてこそ六道輪廻を離れ、解脱を得られるのです。
次に、声に対して貪りを生じます。様々な声塵が耳根に対し、耳根が音声に触れ、好ましい音声に対して喜楽の心が生じ、心にかなわない音声を聞けば、厭悪の心が生じます。それゆえ貪厭の心が絶えず境界を追い求め、境界に粘着し、境界に執着し、心は声塵に束縛され、声塵から離れられず、もちろん六道輪廻からも離脱できません。これが無量劫の生死輪廻の因なのです。
心の中で音声は実在すると考えるからこそ、音声に対して喜貪心・厭恶心を起こすのです。自らを称賛する音声を聞けば、心は喜びます。喜びとは何の心でしょうか。それは境界を取着する心、境界に貪着する心、音声に貪着する心です。耳根が音声を聞いて起こす貪念は業を造る因であり、生死輪廻の因です。人に褒められたり追いかけられることを好み、名声や人気を好み、人に恭敬されることを好む。これらはすべて貪心に属します。それゆえ貪心は境界から離れられず、境界に粘着されます。本来、私たちが境界を掴み取り、執取しようとするのですが、結果的には境界に縛られ、束縛され、繋がれてしまいます。こうして私たちは境界から離脱できず、三界の生死輪廻から離脱できません。
では、色を見、声を聞くとき、私たちは必ず回光反照し、自らの心念がどのような状態にあるかを知らなければなりません。貪っているときは必ず心が貪っていることを知り、心が境界を執取し、掴み取っていること、心が境界を喜び楽しみ、境界に着していることを知らなければなりません。このような心は存在すべきでなく、断じるべきであり、離れるべきであると知るべきです。この時、初めて覚りが始まります。それゆえ覚った後は、貪愛を断じる機会と力が得られます。貪愛を断じた後、心は解脱を得、慧解脱を証得できます。智慧もまた解脱し、心が貪愛に覆い隠されなくなったとき、初めて三界六道の輪廻から出離できるのです。
貪りのもう一つの対象は香塵です。鼻根が香塵に対し、香りであれ臭いであれ、あるいはその他のどんな匂いであれ、鼻根に対するものはすべて香塵です。鼻が香りを嗅ぐとき、心がどのような状態か、心念がどうか、貪染しているかどうかを観察します。私たち凡夫は一般的に香りを好み、香りを嗅ぐと心がとても心地よく愉悦します。もし臭いを嗅げば、心に厭悪が生じ、避け厭離します。香塵を好むにせよ避けるにせよ、いずれも香塵への執取に属し、相において分別が生じ、執取は貪厭の心行に属します。この心念こそが生死輪廻の因です。境界を取り、境界に執着し、この境界を実在と考えるからこそ、心を空にせず、この境界に粘縛され、臨終のとき、心がこのような境界から離れていないため、このような境界に三界六道の生死輪廻の中に閉じ込められるのです。ですから香塵を貪り取ることは生死の因なのです。香塵に執取すれば、甚深な禅定を得られません。なぜなら定の中では心は空であり、心に物があって空でなければ、禅定も智慧もなく、解脱できないからです。
味塵もまた心の貪りの対象です。舌が味わうとき、美食美味に遇えば心に貪りが生じ、好ましくない味塵に対しては厭離が生じます。貪りと厭いの心があると、味塵に粘縛され、心は味塵境から離れられず、境界に係縛されて解脱できません。味塵が現れるとき、味塵の相を執取し、貪りや厭いが生じると、心は自在を得ず、解脱できません。美食を掴み取ろうとするとき、美食に掴まれてしまいます。美食は三界の中にあり、三界世間法に属し、特に欲界の法に属します。心は欲界を離れられず、初禅定も成就できません。三界どころか欲界さえ出られません。人間界の味塵に貪るため、欲界定すらなく、欲界天にも行けません。欲界の法に貪れば、天上の禅定は得られず、欲界のもの、欲界天の境界を含む欲界のものに貪れば、色界の禅定は得られず、色界天には行けません。
欲界に属する法に貪着すれば欲界を出られず、色界に属する法に貪着すれば色界を出られず、無色界に属する法に貪着すれば無色界を出られません。なぜなら心と境界が結びついて分離できないからです。境界を離れて初めて解脱を得られます。心が境界から離れられず、境界から解脱できなければ、三界を出離できません。ですから普段、飲食や味塵に貪ったり、色・声・香・味に貪っても解脱を得られません。
次に、貪りのもう一つの対象である触塵についてです。まず外界から来るもの、例えば衣服と色身の皮膚の触れ合い、接触する触れ合い、光の触れ合い、様々な境界が色身に触れること、これらはすべて触塵に属します(男女の欲貪は言うまでもありません)。色身の身根・身識が触れ合う境界に着し、触塵を好むか厭うか、これらはすべて貪りの一部に属します。好むこと、喜び楽しむことはすべて境界の相に着することです。私たちが境界に粘着し、執取し、分別すると、これらの触塵の境界に粘着され、束縛されます。このような心は触塵から離れられず、触塵と共にあるため、色界や無色界から解脱できません。
境界を掴み取る結果は、境界と共にあることです。境界はどこにあるのでしょうか。境界は三界の中に、生死輪廻の中にあります。境界は三界を出ず、心と五陰身は三界を出られません。そして境界は永遠に三界の法に属し、三界を出られません。私たちが欲界の境界に貪ると、永遠に欲界を出られません。境界と共に閉じ込められ、永遠に縛られ続けたいと思う人がいるでしょうか。もちろん誰も望みません。しかし境界が来ると、心は境界を執取し、必ず束縛されます。境界が来るとまず相が現れ、相の上に名を付けます。名を付けるとは分別することです。分別した後、執着して掴み取ります。こうして心は境界に閉じ込められて解脱できず、境界と分離できず、境界の上で解脱できず、三界を出られません。これが不自在な生死の因です。
心が最後に貪着する六塵の境界相は法塵です。法とは五法の境界に現れる微細な法相です。一切の境界はすべて法です。私たちは一切の境界に相を取り、名を付け、分別を生じさせると、様々な心行が生まれ、貪瞋痴慢善悪の心行がすべてあります。六塵の境界に束縛されて解脱できません。生死の鎖は境界と繋がり、境界が三界を出なければ、私たちは三界を出ません。境界が欲界を出なければ、私たちは欲界を出ません。私たちが天に昇って楽しみを享受し、初禅・二禅・三禅・四禅の定境を持ち、色界天に行きたいと思っても不可能です。
欲界人間の境界を掴み取り続ければ、欲界天界の境界には接触できません。下層の境界を掴み取れば掴み取るほど、上層の境界は接触できず享受できず、ますます遠ざかり、三界の法に執着すればするほど、私たちは仏の境界から遠ざかります。最高のレベルの境界に到達しようと思えば、低いレベルの境界を捨てなければなりません。なぜなら心は有限であり、何でも掴み取れるわけではないからです。欲界の法を執取すれば色界の法はなく、色界の法を執取すれば無色界の法はありません。
では私たちはどの法を求めるべきでしょうか。最上層の法を努力して求めようとすれば、下層の法を一層一層すべて捨て去り、執取せず、掴み取らず、粘着せず、貪愛せず、厭悪もしません。これらの境界に心が着しなければ、心が着しないことを無所謂(どうでもよい)といいます。なぜならすべての境界は空であり幻化されたものであり、分別心を起こすべきでないからです。分別心を起こさないことは境界に着しないことであり、境界を幻化されたもの、空なるもの、実在しないものと見なすことです。このような心は解脱しており自在であり、生死は私たち自身が把握し、境界に捻じ曲げられることはありません。
無明を破るには、覚照の心が一つ必要です。まず自らを覚照し、境界の上に貪念が生じたときは必ず覚らなければなりません。修行はまず自らを覚照することから始め、他人を覚照してはいけません。あるいは他人を覚照し、他人の心に貪りがあると発見したら、やはり回光反照し、自らに同じ心念があるかどうかを確かめなければなりません。自らに同じ心念があると発見したらどうするのでしょうか。この心念は良くないものであり、生死の過患があることを知らなければなりません。知った後は、この問題は徐々に処理できるようになります。
まず「知る」ことがあります。これが最初の最も重要な一歩です。知った後、次にどうするのでしょうか。もし貪念が非常に深刻なら、何らかの方法を考えて対治できます。深刻でなければ、心の中で知っていれば問題なく、貪念は徐々に軽減されます。対治の方法はこっそり実行する必要があるかもしれません。心行の変化は、意識は最初は観察できないかもしれません。泥棒が家に物を盗みに来るようなものです。第一歩、彼が泥棒だと知っていれば問題ありません。知った後、私たちは家に座って彼を見張ることができます。この泥棒は見つかったと知り、盗みを続けるのが恥ずかしくなって引き返します。こうして私たちは略奪や盗難に遭わず、自らの生命財産の安全を保障できます。
原文:また、心に貪り離るる者は、心に貪り離るることを知れ。
釈:心がすでに貪りを離れ、色声香味触法の六塵境界に貪らなくなったら、自らも心がすでに貪りを離れたことを知らなければなりません。
しばらく修行した後、境界に対し心が貪らなくなったときも、覚知覚照の心を持たなければなりません。心の中で自らが今、境界に貪着していない状態にあることを知るのです。色塵が目の前に現れても無所謂で気にせず、喜ばず厭わない。音声が目の前に現れても無所謂で、喜ばず厭わない。もし罵りの声を聞いて心が怒るなら、それは境界に着し、境界を取り、境界を真実と見なし、境界に束縛されたのです。実際には音声という境界は称賛であれ罵倒であれ、境界そのものは空であり幻化されたものであり、真実ではなく、生滅し無常なものです。大乗法の角度から言えば、すべて如来蔵が現した様々な仮象です。ですからこれらの声塵に貪心・喜楽心・厭恶心を起こすべきではなく、できる限り境界を空と見なし、この点を達成することは非常に容易ではありません。
たとえ境界を空と見ることができなくても、境界は依然として幻化された空なるものです。心が境界に着しなければ、境界は心を繋ぎ止めることはできません。心が境界に着するとき、実際には境界は依然として心を繋ぎ止めることはできず、自らを束縛することはできません。心が自ら境界に付着するだけです。心が境界に着しないとき、心は自由であり自在であり解脱しており、生命には価値があり意義があり楽しみがあります。心が貪りを離れたとき、内心で知らなければなりません。これは自らに反観力があり、覚照力・覚察力があり、禅定と智慧があることを示します。
原文:また、心に瞋ある者は、心に瞋あることを知れ。また、心に瞋離るる者は、心に瞋離るることを知れ。
釈:心に瞋りがあるときは、心に瞋りがあることを知らなければなりません。心が瞋心を離れ無瞋のときは、自らの心が瞋恚を離れたことを知らなければなりません。
何を瞋りというのでしょうか。俗に言う不機嫌、怒りを瞋りといいます。心に不快な感覚・感受が生じ、厭怒心が生じることを瞋りといい、境界を喜ばないことを瞋りといいます。六塵の境界を喜ばなくなった後、心に波風が立ち、心中穏やかでなく、怨恨・怒り・憤怒が生じ、その後さらに違害心が生じることをすべて瞋りといいます。瞋りの対象はやはり色声香味触法、人事物理であり、その中で色は我相・人相・衆生相も含みます。深刻な瞋りを暴怒といい、暴怒の後は行動を起こします。瞋心が生じるとまず自らを傷つけ、次に他人を傷つけます。瞋念が生じ、そして仕返しをしようとするとき、心は境界に粘縛され、解脱できず自在を得られず、臨終のときには境界と業縁に六道、特に三悪道に拘束されます。
境界はすべて三界の中にあり、欲界の境界が最も多く、最も魅力的で、衆生は欲界から最も離脱しにくいのです。瞋業を造ると、業種が残り、欲界で報いを受け、三悪道で報いを受けます。これが業に係縛された衆生の原理です。ですから私たちが境界に瞋心を起こすときは、必ず覚照心を起こさなければなりません。修行はまず「知る」ことから始めます。自心を知った後、次に心を瞋りから離れさせるための方便的な方法や措置を取るのが良いでしょう。これが修行です。もし第一歩で瞋りを覚知できなければ、瞋心を追い払うことはできず、降伏できず、瞋心に随って流転し、業行が造り出されてしまいます。
腹立たしい境界に直面しても心に瞋りを生じず、人に仕返ししようとも思わないとき、心はすでに瞋りを離れています。瞋りを離れるとは、時には瞋心を断じることを指し、時には必ずしも瞋心を断じるとは限らず、瞋心はまだ眠っていて現行に現れていないかもしれません。心に瞋念が起こらないのは、おそらく瞋念を抑圧しているのであり、断じているのではありません。抑圧・降伏・断除の三つには段階的な差があります。瞋りを抑圧・降伏させるのは初果・二果以前の人であり、三果以降になって初めて瞋りを断じます。三果以前は瞋りを離れることであり、「離れる」には多くの意味があります。三果の中にも「離れる」が含まれるかもしれません。なぜなら心に瞋りの現行煩悩がなければ「離れる」だからです。心に現前に瞋心が起こっていなければ、瞋りを離れたといえますが、必ずしも瞋りを断じたとは限りません。もし瞋心が永遠に現行しなければ、瞋りを断じたことになります。必ず初禅定があって初めて瞋りを断じることができ、初禅定以前は降伏・抑圧であり、「離れる」は必ずしも「断じる」ではありません。これらの概念と内実をはっきりさせれば、自らが今どの修行段階にいるかがわかります。
原文:また、心に癡ある者は、心に癡あることを知れ。
釈:仏は、もし心が愚癡であるなら、自らがその時心が愚癡であることを知らなければならないと説かれました。
癡の意味は最も定義しにくく、はっきりさせにくく、さらに検査しにくいものです。なぜなら愚癡だからこそ、自らの愚癡を発見しにくいのです。貪瞋痴の三つの煩悩のうち、貪欲は最も断じやすく、瞋はその次で、愚癡は最も発見しにくく断じにくいものです。一念の無明は愚癡に属し、三界への貪愛も愚癡に属し、さらに瞋恚も愚癡に属します。その他さらに微細な愚癡はさておき、貪瞋はすべて三果人から断ち始め、四果になって初めて断じ尽くします。そして真にすべての愚癡無明を断じ尽くすには、仏地に至って初めて断じ尽くせます。愚癡はまた無明ともいいます。三界の世俗法であれ仏法であれ、心の中でわからないこと、知らないこと、理解しないこと、できないことはすべて癡といい、無明に属します。無明があれば明はなく、明とは明らかなことであり、無明とは心の中が暗く光がないことです。
仏に成る道のりで破らなければならない無明は、たとえ無数のコンピューターで一緒に計算しても数えきれないほどで、まるで空気中の塵のようであり、海辺の砂塵のように多く、到底数えきれるものではありません。そうであるならば、誰が慢心を起こして自分はとても智慧があるなどと言えるでしょうか。今たとえほんの少しの境地を修めたとしても、それは全然大したことではありません。一定の高さと広さから観察すれば、私たちはただ空気中の一粒の塵に過ぎず、大海のほとりの一粒の砂に過ぎません。さらに十方世界の角度から観察すれば、私たちはなおさら大したものではありません。十方世界の諸仏と諸大菩薩は無量無辺におり、その智慧は極めて深く細かく広大です。私たちがそれと比べれば、まるで一滴の水と大海のようです。ですから慢心を起こす資格など全くなく、慢心があればそれは愚癡であり、何とかして対治・降伏・捨離しなければなりません。
愚癡の範囲は広く微細で、ほとんどあらゆる面、各領域に及びます。五陰世間に対する認知、見聞覚知性に対する認知、三千大千世界に対する認知、これらはすべて無明です。四聖諦の理に対する愚癡、生死解脱に対する愚癡で理解せず知らず証さないこと、法界実相に対する愚癡で理解しないこと、諸法無我に対する愚癡で理解しないこと、仏に成る理に対する愚癡で無知であること。こうして触れる一切の法をすべて我や我のものと見なし、すべて真実であると考え、無量劫も無量の愚癡業を造ってきました。癡の範囲は最も広く最も細かく、断除が最も難しいのです。いかなる煩悩や習気が生じるのもすべて愚癡のためであり、喜びの心や楽しみの心もすべて愚癡無明のためです。もし小乗で六道生死輪廻の愚癡無明を断じ尽くせば、四果の倶解脱と慧解脱の阿羅漢となります。大乗で仏に成る過程の愚癡無明を断じ尽くせば仏となります。菩薩にはなお無量無辺の愚癡無明があり、特に仏に成る道のりの法はより多くより微細です。これらの法を知らないことは愚癡です。
愚癡無明の種類には、一念無明・無始無明・塵沙無明があり、細かく分けるともっと多くの種類があります。世俗人にとって世俗法に対する愚癡無明は非常に多く、もし世俗法をすべて通達すれば仏となります。仏でない限り、世俗法をすべて通達することはできず、仏だけがすべての世俗法を通達できます。衆生は世俗で無量劫も輪廻していますが、世俗法はわからないし、ましてやうまく行うこともできず、人としてもまともにできません。
もし厳密に無明を定義し、無明の内実と範疇を定めるなら、心に何かを求めることがあれば、それは境界を真実と見なし、一切の法を真実と見なしたことを示し、それが無明です。これらの無明は非常に長い時間をかけて少しずつ破らなければなりません。一日二六時中、睡眠を含めて覚照を起こし、境界が現れたら覚照の心を起こし、これが空なる幻化された無常のものであり、如来蔵が様々な因縁を借りて現したものであることを理解しなければなりません。一切の境界は良かれ悪しかれ、すべて幻化されたものであり真実ではないとし、心に着せず、心に喜ばせず、空々として、心念を起こさなければ、無明は破れます。境界がなければ心はなく、心がなければ自らの無明を発見できません。ではどうやってそれを断ち切るのでしょうか。境界の中で、特に逆境の中で断ち切らなければなりません。なぜなら逆境の中で生じる心念がより多いからです。逆境がなければ煩悩は隠れて現れず、菩薩の煩悩習気も現れず、深く埋もれてしまい、智慧の鋏は使えません。
智慧と禅定はどちらも煩悩を断ち切る鋏です。境界が現れ煩悩が起こったとき、その時に反照し、智慧の鋏を持ち出して煩悩を断ち切らなければなりません。もし煩悩が抑圧されていて現れる機会がなければ、石で草を押さえているようなもので、いずれ必ず現れ、その時草は狂ったように伸び、制御できなくなるかもしれません。ですから娑婆世界は非常に修行しやすい世界です。境界が多く、煩悩を断除する機会が多いのです。他の仏国土はすべて順境であり、煩悩は現れにくく、智慧の鋏は使えません。智慧の鋏を使えば使うほど、断ち切る煩悩習気が多くなり、成就が速くなります。
では私たちの修行の目標は何でしょうか。それは速く解脱し、早く無明煩悩を減らすことです。それならば歴縁対境の時に、煩悩を降伏・断除しなければなりません。すべての怨家が一緒に陣を整え、一緒に来ても構いません。空と見て、耐え忍ばなければなりません。煩悩が起こったら断ち切り、煩悩が起こったら断ち切ります。そうすればすべての煩悩は少しずつ破られ、無明は速やかに断じ尽くせます。他の仏国土にはこれらの境界がないため、仏に成るのは遅く、何劫も経ってもまだその場足踏みしているかもしれません。仏経の中では、他の仏国土の菩薩は多劫も仏の周りで楽しくのんびりしており、神通もありますが、智慧の境地は修められず、何劫も菩薩の位が上がらず、修行は進歩しにくいと紹介されています。
ですから私たちが逆境に転じにくくなったら、娑婆世界のように煩悩が深く重い場所に修行に来るべきです。このような世界では触れる境界が多く、逆縁が多く、煩悩が現れる機会が多く、覚照の機会も多くなり、智慧の鋏を使う機会も多くなり、無明煩悩を断ち切る機会も多くなり、断除する無明も多くなります。これこそが真実の修行です。もし直面するものがすべて順境なら、あなたは修行が良いと言いますが、どこが良いのでしょうか。逆境での修行こそが最も速いのです。しかし逆境での修行はまた沈淪しやすいものです。どのような人が逆境修行で沈淪しやすいでしょうか。覚照力のない人こそ沈淪しやすいのです。覚照力のある人ほど逆境にあればあるほど修行は速く、一つ一つの茨をすべて切り払い、勇往邁進して逆境逆縁に直面します。これらの逆境逆縁がなくなった後、自らの心もすべて対治し終え、もう何の逆縁もなくなります。仏には逆縁はなく、たとえあっても衆生に見せるための示現です。
原文:また、心に癡離るる者は、心に癡離るることを知れ。
釈:もし比丘の心が愚癡を離れたら、自らの心が愚癡を離れたことを知らなければなりません。
絶えずある一つの法に努力して修行して初めて、その法に対して癡を離れることができます。しかしすべての法に対して愚癡を離れることはできず、仏だけがすべての法に対して癡を離れ断ちました。衆生の癡を離れるとは、ある一つの方面のことであり、ある種の境界に対して癡を離れたということです。もともとある種の事理に対して愚癡でわからず、できず、理解せず、明らかでなかったのが、今わかった、その法に対して愚癡を離れたのです。小乗の四諦法のように、もともと全くわからず、修行もできなかったのが、今わかって修行できるようになり、しかも証得したなら、癡を離れた、あるいは癡を断じたといいます。しかし他の方面にはまだわからないことがあり、無明は非常に多いのです。小乗の一二三四果を証したとか、大乗の菩薩果を証したとしても、世間法に対するこの癡はまだあり、ましてや出世間法は言うまでもありません。なぜならあの癡の範囲は広すぎて、私たちはただある一つの方面の癡を断じたに過ぎないからです。もともと特に深刻だった愚癡が、今検査してみるとなくなった、これを癡を離れたといい、一時的にこの癡念と無明がなくなったのです。
癡を離れるには抑圧と断除の二つの段階を含みます。何を抑圧と断除というのでしょうか。例えば五蓋の法では、まず降伏・抑圧して五蓋の煩悩を抑えると、初禅定が現れ、その後少しずつ五蓋の煩悩を断除できます。これが次第です。例えば証果という問題では、証果には解悟と証悟があり、証悟を癡を断つといい、解悟を癡を離れるといいます。大乗の明心見性も同様で、証悟を癡を断つといい、解悟を癡を離れるといいます。無始無明を断った後も、他の方面でわからない法はまだ多く、すべてまだ癡を離れておらず、癡を断ってもいません。たとえ大菩薩でも、世間法に対してわからないこと、できないことは多くあり、まだ愚癡無明があります。仏法の面でできないことも多くあります。
仏法をすべて証得し、世間法の愚癡もすべて消え尽きて初めて、仏だけが世間の一切の法をすべてわかるしできるのです。菩薩はできません。例えばある人は幾地かの菩薩を証得しても、世間法を一つやらせると、うまくいかないこともあります。たとえ神通があっても、あることにはどうしようもありません。必ず彼がわからないことがあり、医学・飲食・医薬・生理・心理などに関してもすべて通達しているわけではなく、衆生の心理も完全に掌握しているわけではありません。これらはすべて愚癡に属します。
衆生の心を掌握して初めて衆生を導き、衆生の煩悩を対治し、解脱の道へ導くことができます。菩薩がこれができなければ、衆生の心念を完全に理解する能力がなく、彼が導く衆生も智慧がありません。これらはすべて愚癡です。世間法の智慧と仏法の智慧はつながっており、仏法の智慧の証量が高ければ高いほど、世間法を通達するほど多く、愚癡は少なくなります。
原文:また、心に集中ある者は、心に集中あることを知れ。
釈:禅定が向上し、観行時に心力を集中できるようになったら、心の中で心力が集中したことを知らなければなりません。
さて、心の集中について説きます。四念処を修学する前は、心は散乱しています。東のことで心が境界に着き粘着し、西のことで心も境界に着き粘着し、南・北・上方・下方・過去・未来、心はすべて境界に着縛されています。衆生はみなこのようであり、意根の攀縁は非常に広く、この境界が来れば心は貼り付き、あの境界が来れば心も貼り付きます。心はまるでタコのようですが、実際にはタコよりも分散しています。これを散乱といいます。今、定を修め観行し心が散乱しなくなり、次第に一点に集中できるようになり、一つの法に集中できるようになります。二つ三つの法に集中することもあるかもしれません。集中とは必ずしも一つの法に集中するとは限らず、二つ三つでも集中といいます。もともと十や八の法に分散していたのが、今は二つ三つに集中し、範囲がずっと縮小したので、それも集中といいます。
定力が非常に良いときは、同時に三つ四つの境界を分別しても、やはり心念は集中して清浄であり、定力も相当良く、智慧も非常に高いです。一概には言えず、人によって見分ける必要があります。ある人は一つの法に集中しても、心の分別力が足りず、智慧もあまり良くなく、一つの時間に一つのことさえもうまくできません。定力と智慧が良い人は、一時に五つのことをしてもすべてうまくでき、六つのことをする人さえいてもすべてうまくできます。これを眼観六路、耳聴八方といい、すべてを了知し、分別し、しかも手配できます。これは定と慧がどちらも非常に高い人であり、生生世世定を修め慧を修めた人でなければできません。そうでなければ、一点に集中させても集中でき、集中した後そのことを処理しようとしてもできません。これは智慧が足りないからです。心は集中していますが、智慧が足りないのです。
ある一つのことが現れ、心がそれに対し集中できるようになり、少し禅定があり識心が分散しなくなったとき、この時に心の中で反観し知らなければなりません。知る心があるということは、覚悟の心があることであり、覚悟の心はあなたの心が散開しておらず、心念をすべて掴めることを示します。これが修行の初歩です。
原文:また、心に散乱ある者は、心に散乱あることを知れ。
釈:心が散乱しているときは、心が散乱していることを知らなければなりません。
一日二六時中、境界に対応し、心が散乱しているのか集中しているのか、すべて覚照の心を持ち、すべて知らなければなりません。知ることは意識心の回光反照であり、意識心の反観力です。意識に反観力があるとき、一つは禅定があり、もう一つは智慧があるということです。愚癡な人は意識心に反照力がなく、自らが何をしたかもわかりません。自らの心理がどの状態にあるかわからず、意識心の証自証分が現れません。証自証分が強い人は慧力が高い人であり、この慧力は仏法の慧力だけでなく世間法の慧力も含みます。世間の賢い人は自らが何をしたかすべて知っています。知った後、自らが正しく行ったか間違ったかを思惟し、間違っていればすぐに修正でき、正しければ発揚保持できます。これが世間の賢い人です。
仏法に智慧のある人は、なおさら反照力を持つべきです。自らが今起こしたいかなる心念も、すべて反観でき、すべて掴め、正しく効果的な方法を取って事を円満に処理し、人事物理をすべて円融に処理できます。智慧のない人は意識の証自証分が往々にして現れず、自らが愚癡の状態にあっても心で知らず、かえって自らは賢く高明だと思っています。心が散乱しているのか集中しているのかを知らなければなりません。仏は私たちにこのような覚照力を持つべきだと説かれました。あらゆる時中、心に起こる念が貪瞋痴があるのかないのか、定力があるのかないのか、心が広大なのか狭小なのか、上なのか下なのか、すべて知らなければなりません。
原文:また、心に広大なる者は、心に広大なることを知れ。
釈:何を心が広大というのでしょうか。広とは範囲のことであり、無量無辺の法を指します。大とは、一般に程度を指し、範囲の意味もあります。私たちの心は無量無辺の法に縁るべきであり、目の前の小さな境界に執着すべきではありません。最も広い心は十方世界に縁り、十方諸仏の境界に縁り、目の前の凡夫のあの小さな境界には縁りません。
心で考えるべき問題は、如何に仏に成るか、如何に菩薩道を行ずるか、如何に大解脱を得るか、未来世の果報、他の仏国土での果報と道業の進展、将来如何に生生世世広大な衆生を率いて共に仏に成る解脱の道へ向かうか、度化摂受する衆生を如何にますます多くするか、を考えるべきです。心はこれらの法に縁るべきであり、これが広であり大です。目の前の利益得失だけを考えるのではありません。未来世の菩薩が地地増上の境界、将来他の仏国土で法主となること、あるいは無数の仏国土に化現して仏となり人を度すこと、こういったことを考えるとき、心は初めて広大なのです。
心が広大でないとは、目の前の凡夫のこれらの小さなこと、目の前の利益、金銭上の利益、眷属上の利益、名声上の利益、財色名食睡の利益だけを考えることであり、この心は狭小です。今の心が広大なのか狭小なのか、境界に遇ってどのような心念があるか、心量はどうか、心の中で明らかに知らなければなりません。知れば自らの心があまりにも狭小であり、目の前の自らのほんの少しの小さな利益だけを顧みて、他の方面は全く考えられないことがわかります。
心が広大になった後、初めて徐々に内心を降伏できるようになります。あるいは意図的に対治する方法や措置を取って降伏するか、あるいは無意図的で措置を取らずに降伏します。無意図的で措置を取らない降伏とは、第七識の意根が背後で行う仕事であり、これらすべては意識の知らないことです。第七識の意根が自ら背後で黙々と思量し、思量が通れば、衪は変われるのです。措置を取る、意図的とは、意識心に一定の対治方法を取らせることであり、まず先に「知る」ことがあり、次に次の運作があります。心の運作とは、反観・覚照・措置を取る・思惟・禅定と智慧を生起して問題を解決することで、これらはすべて六七識の後続の仕事です。
表面上見える仕事はすべて意識が行い、意識がどう対治するかを考えています。意識は考えた問題を意根に渡したらもう関与せず、意根は背後で思量します。表面上は心がもうこのことを考えていないように見えますが、実際には意根が背後で人知れず運作しており、衪がこのことの前後の利害をはっきり考えた後で抉択を下します。この時方法が出てきて、六識は間違いなくその通りに行います。意根が思量し明らかになると、心は変わり、境界が再び来たときには煩悩はなくなります。
貪らず煩悩がないのは誰の決定でしょうか。意根の決定です。なぜそのような決定があるのでしょうか。意根が考え明らかにしたからです。衪は背後でずっと一生懸命働いています。表面上は意識はただ自ら心が貪っていることを知っているだけで、そして何もしていないように見えますが、実際には意根は背後でずっと思量抉択しています。まとめると、境界に遇ったとき心が広大なのか狭小なのか、内心ではっきり明らかに知らなければなりません。そうすれば次はうまくいきます。