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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年07月26日 閲覧数: 1690
<h2 style="text-indent: 2em;">第四章 心を観じて住する</h2>

続いて第三の観である心を観じて住することを説く。四念住とは身の不浄を観じ、受が苦であることを観じ、心が無常であることを観じ、法が無我であることを観じるものである。心を観じるこの一節は内容は長くないが、その意義は甚だ深く広大である。

原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして心によって心を観ずるか。ここに於いて。諸比丘よ。比丘の心に貪りある者は、心に貪りあることを知る。

釈:今さらに観行を続けて下る。諸比丘よ、比丘は如何にして修行し心の上に住して心を観察するか。この問題について、諸比丘よ、比丘の心が貪りに着している時、自らの心が貪っていることを知らねばならない。

心を観じるとは心の思想行為、煩悩習気を観察し、心の上の念が起こり滅するのを観じることをいう。この心を観じる方法とは、自ら心に貪りがあると発見した時、自ら心が貪っていることを知ることである。心を観じるにはまず心の貪りの相を観じ始め、心に貪りが起こったならば、心が貪っていることを知らねばならない。凡夫の心念とは一般的に何か。無非、内心にあるそれらの煩悩心所、貪・瞋・痴・慢・疑・悪見、及び善悪是非の観念、並びに心量の大小広狭であり、まず全て心念の形式によって流露される。自らの心念が解脱しているのか、それとも貪瞋痴の煩悩に係縛されているのかは、一切の時処における心念を観察すれば知ることができる。この心行心念を観察し出した後、次第に対治できるようになる。おそらく何らかの方法を見つけて対治するか、あるいは意図的に対治しなくても降伏できるようになる。これが心を観じる作用である。

ここに二つの重点がある。一つは心の貪り、もう一つは知ることである。この「知る」ことが重要である。知る、了知するとは覚悟・覚察を表し、無量無辺の衆生は自心を知らず、自心を覚察できないが故に、煩悩ありながら自ら知らず、六道において生死輪廻し、生死の苦海に流落し、解脱を得られないのである。自ら貪心があると知った後は、知らず知らずのうちに降伏し、貪心は次第に軽減し、ついには滅することさえある。知らぬことは無明であり、知ることは覚悟である。覚悟するとは如何なる人か。覚悟の人は聖賢人であり、覚悟せぬ人は生死の業障凡夫である。故に我々の心に貪りが起こった時は、必ず回光反照し、自らの心念と心行を照見し、自らの心に貪念があることを覚察できねばならない。

何を貪りというか。貪りとは境界を喜び楽しみ、境界に黏着し、境界に執着し、境界を掴み取ることである。境界に相を取り、さらに分別・執取・執着すること、これが貪りの行相である。貪りが取る範囲は何か。衆生が何を貪っているかを観察すれば分かる。まず色を貪り、色に対して貪心を生じる。この色の範囲は甚だ広く、眼に見える一切の法を色といい、人や物の種々の境界を含む。色塵の各種の境界が現れた時、眼根が触れた後、心に貪着が起こり、貪愛・喜楽・喜愛、着境・執取・掴み取り、様々な心念が現れる。

衆生は無量劫ずっとこれらの心念の中にあり、一度も覚悟したことがなく、この種々の心念が貪念に属し、生死輪廻の因であることを知らない。この貪念によって無量劫にわたり三悪道に堕ちる。六道輪廻においてこのために無量の苦しみを受けるが自覚せず、自らの心念を把握できないが故に、理にかなわぬ心念をずっと氾濫させ、無量劫後の今に流転してきたのである。今、仏法に遇ったならば、必ず仏法をもって自心を覚悟し、自らの心を覚知・覚照し、仏法に照らして反観し検討し、自らの心念を把握し、心念を改め、不善の心念を除去し、貪染の心念を断除せねばならない。そうしてこそ六道輪廻を離れ、解脱を得られる。

次に声に対して貪りを起こす。様々な声塵が耳根と相対し、耳根が音声に触れ、好ましい音声に対して喜楽の心が生じ、意に合わぬ音声を聞けば、厭悪の心が生じる。それ故に貪厭の心は絶えず境界を追い求め、境界に黏着し、境界に執着し、心は声塵に束縛され、声塵を離れられず、当然六道輪廻を離れられない。これが無量劫の生死輪廻の因である。

心の中で音声は実在すると考えるからこそ、音声に対して喜貪心・厭恶心を起こすのである。自らを称賛する音声を聞けば、心は喜ぶ。喜びとは如何なる心か。境界を取り着ける心、境界に貪着する心、音声に貪着する心である。耳根が音声を聞いて起こす貪念は業を造る因であり、生死輪廻の因である。人に褒められ追い求められることを好み、名声や人気を好み、人に恭敬されることを好む、これらは全て貪心に属する。故に貪心は境界を離れられず、境界に貼り付けられる。本来我々が境界を掴み取ろうとし、執取しようとするが、結果的には境界に縛られ、束縛され、繋がれてしまう。こうして我々は境界を離れられず、三界の生死輪廻を離れられない。

では色を見、声を聞く時、我々は必ず回光反照し、自らの心念が如何なる状態にあるかを観察せねばならない。貪っている時は必ず心が貪っていることを知り、心が境界を執取し、掴み取っていることを知り、心が境界を喜び楽しみ、境界に着していることを知らねばならない。このような心は存在すべきでない、断除すべき、離れるべきと知るべきであり、この時初めて覚悟が始まる。故に覚悟した後は機会と力が得られ、貪愛を断除できる。貪愛を断除した後、心は解脱を得、慧解脱を証得できる。智慧も解脱を得、心が貪愛に覆われなくなった時、初めて三界六道輪廻を出離できる。

貪りのもう一つの対象は香塵である。鼻根が香塵と相対し、香りであれ臭いであれ、あるいはその他の如何なる匂いであれ、鼻根と相対するものは全て香塵である。鼻で香りを嗅ぐ時、心が如何なる状態か、心念が如何かを観察し、貪染しているかどうかを見る。我々凡夫は一般的に香りを好み、香りを嗅ぐと心がとても心地よく愉悦を感じる。もし臭いを嗅げば、心に厭悪が生じ、避け厭離する。香塵を好むのも避けるのも、香塵に対する執取に属し、相において分別が生じ、執取は貪厭の心行に属する。この心念こそ生死輪廻の因である。境界を取り、境界に執着し、この境界は実在すると考えるから、心を空にしていないため、この境界に貼り縛られ、臨終の時、心がこの境界を離れていないため、この境界に鎖で繋がれて三界六道の生死輪廻の中にいるのである。故に香塵を貪り取ることは生死の因である。香塵を執取すれば、甚深の禅定を得られない。なぜなら定の中では心は空であり、心に物があって空でなければ、禅定も智慧もなく、解脱できないからである。

味塵もまた心の貪りの対象である。舌が味を嘗める時、美食美味に遇えば心に貪りが生じ、好ましくない味塵に対しては厭離が生じる。貪りと厭いのある心は味塵に貼り縛られ、心は味塵境を離れられず、境界に係縛され解脱を得られない。味塵が現れた時、味塵の相を執取し、貪り厭いが生じれば、心は自在を得ず、解脱を得られない。美食を掴み取る時、美食に掴まれてしまう。美食は三界の中にあり、三界世間法に属し、特に欲界の法に属する。心は欲界を離れられず、初禅定を成就できず、三界はおろか欲界すら出られない。人間界の味塵を貪るが故に、欲界定すらなく、欲界天にも行けず、欲界の法を貪れば、天上の禅定は得られず、欲界のものを貪り、欲界天の境界をも貪れば、色界の禅定は得られず、色界天に行けない。

欲界に属する法を貪着すれば欲界を出られず、色界に属する法を貪着すれば色界を出られず、無色界に属する法を貪着すれば無色界を出られない。なぜなら心と境界が一つに縛られ分離できず、境界を離れて初めて解脱を得られるからである。心が境界を離れられず、境界から解脱できなければ、三界を出離できない。故に平時に飲食を貪り味塵を貪る、あるいは色を貪り声を貪り香を貪り味を貪ることは、いずれも解脱を得られない。

さらに貪りのもう一つの対象である触塵について述べる。まず外界から来るもの、例えば衣服と色身皮膚の触れ合い、接触の触、光の触、各種の境界が色身に触れること、これらは全て触塵に属する(男女の欲貪は言うまでもない)。色身の身根身識が触の境界に着し、触塵を好むか厭うか、これらは全て貪りの一部に属する。好き・喜楽は全て境界の相に着することをいう。我々が境界に貼り着き、執取し、分別すれば、これらの触塵の境界に貼り付けられ、束縛され、このような心は触塵を離れられず、触塵と共にあるため、色界と無色界から解脱できない。

境界を掴み取る結果は境界と共にいることである。境界は何処にあるか。境界は三界の中、生死輪廻の中にある。境界は三界を出ず、心と五陰身は三界を出られない。境界は永遠に三界の法に属し、三界を出られない。我々が欲界の境界を貪る時、永遠に欲界を出られない。境界と共に鎖で繋がれ、永遠に縛られて共にいることを望む者がいるか。勿論誰も望まない。しかし境界が来た時、心は境界を執取し、必ず束縛される。境界が来るとまず相があり、相の上に名を付け、名を付けることは分別であり、分別した後は執着し掴み取り、こうして心は境界に囚われ解脱できず、境界と分離できず、境界の上で解脱できず、三界を出られない。これが自在でない生死の因である。

心が最後に貪着する六塵の境界相は法塵である。法とは五法の境界上に現れる微細な法相であり、一切の境界は全て法である。我々は一切の境界に一つの相を取り、一つの名を付け、分別を生じさせ、様々な心行があり、貪瞋痴慢善悪の心行が全てあり、六塵の境界に束縛され解脱を得られない。生死の連鎖は境界と繋がり、境界が三界を出なければ、我々は三界を出ない。境界が欲界を出なければ、我々は欲界を出ない。我々が天に昇って享楽し、初禅・二禅・三禅・四禅の定境を持ち、色界天に行こうと思っても不可能である。

欲界人間の境界を我々が掴み取り続けるならば、欲界天界の境界には接触できない。下層の境界を掴み取れば掴み取るほど、上層の境界は接触できず享受できず、我々から遠ざかり、三界の法に執着すればするほど、我々は仏の境界から遠ざかる。最高の境界に達しようと思えば、低い境界を捨てねばならない。心は有限であるため、何でも掴み取ることはできず、欲界の法を執取すれば色界の法はなく、色界の法を執取すれば無色界の法はないからである。

では我々は如何なる法を求めるべきか。最上層の法を努力して求めようとするならば、下層の法を一層一層全て捨て、執取せず、掴み取らず、貼り着かず、貪愛せず、厭悪もしない。これらの境界に心が着さなければ、心が着さないことを無所謂という。全ての境界は空であり幻化であるため、分別心を起こすべきでなく、分別心を起こさないことは境界に着さないことであり、境界を幻化の・空の・実在しないものと見なす。このような心は解脱し自在であり、生死は我々自身が把握し、境界に捻じ曲げられない。

無明を破るには、覚照の心を持たねばならない。まず自らを覚照し、境界の上に貪念が生じた時は必ず覚悟せねばならない。修行はまず自らを覚照し、他人を覚照してはならない。あるいは他人を覚照し、他人の心に貪りがあると発見した時も、回光反照し、自らに同じ心念があるかどうかを観察せねばならない。自らに同じ心念があると発見したらどうするか。この心念は良くない、生死の過患があると知らねばならない。知った後は、この問題は次第に処理できるようになる。

まず知ることが最も初歩的で最も重要である。知った後次にどうするか。もし貪念が甚だ深刻であれば、何らかの方法を考えて対治できる。深刻でなければ心の中で知っていれば容易であり、貪念は次第に軽減する。対治の方法は密かに実行する必要があるかもしれない。心行の変化は、意識は最初は観察できないかもしれない。窃賊が家に物を盗みに来るようなものである。第一歩、彼が賊であると知れば容易である。知った後は家に座って彼を見張ることができる。この賊は人に見つかったと知り、物を盗むのが恥ずかしくなって引き下がる。我々はこれ以降略奪され盗まれず、自らの生命財産の安全を保障する。

原文:また心に貪り離るる者は、心に貪り離るることを知る。

釈:心が既に貪りを離れ、色声香味触法の六塵境界を貪らなくなった時、自らも心が既に貪りを離れたことを知らねばならない。

修行をしばらく続けた後、境界に対し心が貪らなくなった時も、覚知覚照の心を持たねばならない。心の中で自らが今、境界に貪着しない状態にあることを知る。色塵が目の前に現れても無所謂で気にせず、喜ばず厭わない。音声が目の前に現れても無所謂で、喜ばず厭わない。もし罵る声を聞いて心が怒るならば、これは境界に着し、境界を取り、境界を実在と見なし、境界に束縛されているのである。実際、音声という境界は褒めるにせよ罵るにせよ、境界自体は空であり幻化であり実在せず、生滅し無常である。大乗法の角度から言えば、全て如来蔵が顕現した様々な仮象である。故にこれらの声塵に対して貪心・喜楽心・厭恶心を起こしてはならない。極力境界を空と見なし、この点を達成することは相当に容易ではない。

たとえ境界を空と見ることができなくても、境界は依然として幻化の空である。心が境界に着さなければ、境界は心を縛れない。心が境界に着している時、実際には境界は依然として心を縛れず、自らを束縛できない。心が自ら境界に付着しているだけである。心が境界に着さない時、自由であり自在であり解脱しており、生命には価値があり意義があり楽しみがある。心が貪りを離れた時、内心で知らねばならない。これは自らに反観力、覚照力覚察力、禅定と智慧があることを示す。

原文:また心に瞋りある者は心に瞋りあることを知る。また心に瞋り離るる者は、心に瞋り離るることを知る。

釈:心に瞋りがある時は、心に瞋りがあることを知らねばならない。心が瞋心を離れ無瞋の時は、自らの心が瞋恚を離れたことを知らねばならない。

何を瞋りというか。俗に言う不愉快・怒りを瞋りといい、心に一種の不快な感覚感受が生じ、一種の厭怒心が生じることを瞋りといい、境界を喜ばないことを瞋りという。六塵境界を喜ばなくなった後、心に波瀾が起こり、心中で不平となり、怨恨・悩怒・憤怒が生じた後、さらに違害心が生じることを全て瞋りという。瞋りの対象は依然として色声香味触法・人事物理であり、その中で色もまた我相人相衆生相を含む。深刻な瞋りを暴怒といい、暴怒の後は行動を取る。瞋心が生じるとまず自らを傷つけ、次に他人を傷つける。瞋念が生じ、復讐しようとする時、心は境界に貼り縛られ、解脱できず自在を得ず、臨終の時は境界と業縁に拘束され六道の中、特に三悪道の中にいる。

境界は全て三界の中にあり、欲界の中の境界が最も多く、最も吸引力があり、衆生は最も欲界から解脱しにくい。瞋業を造り、業種が残れば、欲界で報いを受け、三悪道で報いを受ける。これが業に係る衆生の原理である。故に我々が境界に対して瞋心を起こす時は、必ず覚照心を起こさねばならない。修行はまず知ることがあり、自心を知った後、次に心を瞋りから離れさせるための方便的な方法措置を取ることができ、これが修行である。もし第一歩で瞋りを覚知できなければ、瞋心を追い払えず、降伏できず、瞋心に随って流転し、業行が造作される。

人を怒らせる境界に対し心に瞋りを生じず、人に復讐しようとも思わない時、心は既に瞋りを離れている。瞋りを離れるとは時には瞋心を断除することを指し、時には必ずしも瞋心を断除することを指さない。瞋心はまだ眠っていて現行に起きていないかもしれない。心に瞋念が起きないのは瞋念を圧伏しているのかもしれず、断除ではない。圧伏・降伏・断除の三者には段階上の差がある。瞋りを圧伏降伏するのは初果二果以前の人であり、三果以後に初めて瞋りを断除できる。三果以前は瞋りを離れる。離れるには多くの意味があり、三果の中にも離れるを含むかもしれない。心に瞋りの現行煩悩がなければ離れるからである。心に現前に瞋心が起きなければ、瞋りを離れたといえるが、必ずしも瞋りを断じたとは限らない。もし瞋心が永遠に現行しなければ、瞋りを断じたことになる。必ず初禅定があって初めて瞋りを断除できる。初禅定以前は降伏・圧伏であり、離れることは必ずしも断じることではない。これらの概念と内包をはっきりさせれば、自らが今修行の段階のどこにあるかが分かる。

原文:また心に痴ある者は、心に痴あることを知る。

釈:仏は言う、もし心に愚痴ある者は、自らがこの時心に愚痴があることを知らねばならない。

痴の意味は最も定義しにくく、はっきりさせにくく、さらに検査しにくい。愚痴だからこそ自らの愚痴を発見しにくい。貪瞋痴の三つの煩悩の中で、貪欲は最も断除しやすく、瞋はその次であり、愚痴は最も発見しにくく断除しにくい。一念の無明は愚痴に属し、三界への貪愛も愚痴に属し、ひいては瞋恚も愚痴に属す。その他のより微細な愚痴は言うまでもなく、貪瞋は必ず三果人から断じ始め、四果で初めて断じ尽くす。しかし真に全ての愚痴無明を断じ尽くすには仏地に至って初めて断じ尽くせる。愚痴はまた無明ともいい、三界の世俗法であれ仏法であれ、心の中で分からない・知らない・理解しない・できないものは全て痴といい、無明に属する。無明があれば明はなく、明とは明らかであり、無明とは心の中が暗く光がないことである。

仏となる道で破るべき無明は、たとえ無数のコンピュータで一緒に計算しても数えきれず、空気中の塵のようであり、海辺の砂塵のように多く、到底数えきれない。それであるならば、誰が慢心を起こして自らは智慧があると言えるか。今、ほんの少しの境界を修めたとしても全く何でもない。一定の高さと広さから観察すれば、我々はただ空気中の一粒の塵に過ぎず、大海辺の一粒の砂に過ぎない。さらに十方世界の角度から観察すれば、我々はなおさら何でもない。十方世界の諸仏と諸大菩薩は無量無辺におり、その智慧は極めて深細で広大である。我々が彼らと比べれば滴水と大海のようである。故に慢心を起こす資格は全くなく、慢心があれば愚痴であり、何とか対治・降伏・捨離せねばならない。

愚痴の範囲は広く微細であり、ほとんど全ての方面の各領域に及ぶ。五陰世間に対する認知、見聞覚知性に対する認知、三千大千世界に対する認知は全て無明である。四聖諦の理に対する愚痴、生死解脱に対する愚痴で分からず知らず証せず、法界実相に対する愚痴で分からず、諸法無我に対する愚痴で分からず、仏となる理に対する愚痴無知である。そこで接触する一切の法を全て我と我のものと見なし、全て実在すると考え、無量劫にわたり無量の愚痴業を造作してきた。痴の範囲は最も広く最も細かく、断除は最も難しい。如何なる煩悩や習気が生じるのも全て愚痴のためであり、喜びの心や楽しみの心も全て愚痴無明のためである。もし小乗で六道生死輪廻を解脱する愚痴無明が断じ尽くされれば、四果の倶解脱と慧解脱の阿羅漢であり、大乗で仏となる過程の愚痴無明が断じ尽くされれば仏である。菩薩にはなお無量無辺の愚痴無明があり、特に仏となる道の法はより多くより繊細である。これらの法を知らなければ愚痴である。

愚痴無明の種類には一念無明・無始無明・塵沙無明があり、細分すればさらに多くの種類がある。世俗人は世俗法に対する愚痴無明が極めて多く、もし世俗法が全て通達できれば仏である。仏でない限り、世俗法は全て通達できず、仏だけが全ての世俗法を通達できる。衆生は世俗で無量劫輪廻したが、世俗法は分からない上に良くできず、人としても良くできない。

もし厳密に無明を定義し、無明の内包と範疇を定めるならば、心に求めるものがあれば、境界を実在と見なし、一切の法を実在と見なしていることを示し、それが無明である。これらの無明は極めて長い時間をかけ少しずつ破らねばならず、一日中(二六時中)睡眠を含めて覚照を起こさねばならない。境界が現れた時は覚照の心を起こし、これが空であり幻化であり無常であり、如来蔵が様々な因縁を借りて顕現したものであることを理解せねばならない。一切の境界は良し悪しに関わらず、全て幻化であり実在せず、心は着さず、心は楽しまず、空々として心念を起こさなければ、無明は破れる。境界がなければ心はなく、心がなければ自らの無明を発見できない。ではどうやってそれを断ち切るか。境界の中で断ち切らねばならず、特に逆境の中で断ち切らねばならない。なぜなら逆境の中で生じる心念はより多いからである。逆境がなければ煩悩は隠れて現れず、菩薩の煩悩習気も現れず、深く埋もれているため、智慧の鋏が使えない。

智慧と禅定は共に煩悩を断ち切る鋏である。境界が現れ煩悩が起こった時、その時に反照し、智慧の鋏を持って煩悩を断ち切らねばならない。もし煩悩が圧伏され現れる機会がなければ、石で草を押さえるように、遅かれ早かれいつか現れ、その時草は狂ったように生い茂り制御できなくなるかもしれない。故に娑婆世界は非常に修行しやすい世界である。境界が多く、煩悩を断除する機会が多い。他の仏国土は全て順境であり、煩悩は現れにくく、智慧の鋏が使えない。智慧の鋏を多く使えば使うほど、断ち切る煩悩習気が多く、成就が速い。

では我々の修行の目標は何か。速く解脱し、速く無明煩悩を減除することである。それならば歴縁対境の時、煩悩を降伏し断除せねばならない。全ての冤家が一斉に陣に上がり、一緒に来ても構わない。空と見て、耐え忍ばねばならない。煩悩が起これば断ち切り、煩悩が起これば断ち切る。そうすれば全ての煩悩は少しずつ破られ、無明は速く断じ尽くせる。他の仏国土にはこれらの境界がないため、仏となるのは遅く、何劫も経ってもまだ足踏みしているかもしれない。仏経の中で紹介されているが、他の仏国土の菩薩は多劫にわたり仏の周りで楽しくのんびりし、神通もあるが、智慧の境界は修められず、多くの劫にわたり菩薩の果位は上がらず、修行は進歩しにくい。

故に我々が逆境に転じにくくなった時は、娑婆世界のように煩悩深重な場所に来て修行すべきである。このような世界では接触する境界が多く、逆縁が多く、煩悩が現れる機会が多く、覚照の機会も多く、智慧の鋏を使う機会も多く、無明煩悩を断ち切る機会も多く、断除する無明も多い。これが真実の修行である。もし向き合うのが全て順境ならば、自らは修行が良いと言うが、何処が良いのか。逆境での修行こそ最も速いが、逆境の修行は沈淪しやすい。如何なる人が逆境修行で沈淪しやすいか。覚照力のない人こそ沈淪しやすい。覚照力のある人は逆境であればあるほど修行が速く、一つ一つ荊棘を切り払い、勇往直前に逆境逆縁に向き合う。これらの逆境逆縁がなくなった後、自らの心も全て対治し終わり、もう何の逆縁もない。仏には逆縁はなく、たとえあっても衆生に見せるための示現である。

原文:また心に痴離るる者は、心に痴離るることを知る。

釈:もし比丘の心が愚痴を離れたならば、自らの心が愚痴を離れたことを知らねばならない。

絶えずある一つの法に努力して修行して初めて、その一つの法に対して愚痴を離れるが、まだ全ての法に対して愚痴を離れているわけではない。仏だけが全ての法に対して愚痴を離れ愚痴を断じている。衆生の愚痴を離れるとは、ある方面を指し、ある種の境界に対して愚痴を離れている。元々ある種の事理に対して愚痴で分からずできず解せず明らかでなかったが、今は分かり、その法に対して愚痴を離れた。小乗の四諦法のように、元々全く分からず修行もできなかったが、今は分かり修行でき、しかも証得したならば、愚痴を離れた、あるいは愚痴を断じたという。しかし他の方面にはまだ分からないことがあり、無明は非常に多い。小乗の一二三四果を証したり、大乗の菩薩果を証したりしても、世間法上のこの痴はなおあり、まして出世間法は言うまでもない。なぜならその痴の範囲はあまりにも広く、我々はただある方面の痴を断じたに過ぎないからである。元々特に深刻な愚痴が、今検査すると無くなった、これを愚痴を離れたといい、一時的にこの痴念と無明が無くなった。

愚痴を離れるには圧伏と断の二つの段階を含む。何を圧伏と断というか。例えば五蓋法において、まず五蓋煩悩を降伏圧伏すれば、初禅定が現れ、その後少しずつ五蓋煩悩を断除できる。これが次第である。例えば証果という問題について、証果には解悟と証悟があり、証悟は愚痴を断じるといい、解悟は愚痴を離れるという。大乗の明心見性も同様で、証悟は愚痴を断じるといい、解悟は愚痴を離れるという。無始無明を断じた後も他の方面で分からない法はまだ多く、まだ愚痴を離れてもおらず断じてもいない。大菩薩であっても、世間法について分からないできないことも多く、なお愚痴無明があり、仏法の方面でできないことも多い。

仏法を全て証得し、世間法の愚痴も消尽して無くなって初めてである。仏だけが世間の一切の法を全て分かりできる。菩薩はできない。例えば幾地の菩薩を証した人でも、世間法をやらせると、うまくいかないこともある。神通があっても、どうにもならないこともある。必ず分からないことがあり、医学・飲食・医薬・生理・心理などの方面も全て通達せず、衆生の心理も完全には掌握せず、これらは全て愚痴に属する。

衆生の心を掌握して初めて衆生を導き、衆生の煩悩を対治し、解脱の道へ導ける。菩薩がこの点を達成できなければ、衆生の心念を完全に理解する能力がなく、彼が導く衆生も智慧がなく、これらは全て愚痴に属する。世間法の智慧と仏法の智慧は繋がっており、仏法の智慧の証量が高ければ高いほど、世間法を通達するほど多く、愚痴は少なくなる。

原文:また心に集中ある者は、心に集中あることを知る。

釈:禅定が向上し、観行の時に心力を集中できるようになったら、心の中で心力が集中していることを知らねばならない。

今、心の集中問題について述べる。四念処を修学する前は心は散乱しており、東の事柄に心は着境し貼り着き、西の事柄にも心は着境し貼り着く。南・北・上方・下方・過去・未来、心は全て着境し縛られており、衆生は皆そうである。意根の攀縁は非常に広く、この境界が来れば心は貼り付き、あの境界が来れば心も貼り付く。心は八本足のタコのようであり、実際にはタコよりも分散している。これを散乱という。今、定を修し観行すれば心は散乱せず、次第に一点に集中でき、一つの法に集中でき、二つ三つの法に集中することもある。集中は必ずしも一つの法に集中することを指さず、二つ三つも集中という。元々十や八の法に分散していたのが、今は二つ三つに集中し、範囲が大幅に縮小すれば、それも集中という。

定力が非常に良い時は、同時に三つ四つの境界を分別しても、やはり心念は集中して清浄であり、定力も相当良く、智慧も非常に高い。一概には言えず、人によって見分けねばならない。ある人は一つの法に集中しても、心の分別力が足りず、智慧も良くなく、一つの時間に一つのことすらうまくできない。定力と智慧の良い人は、一時に五つのことをしても全てうまくでき、六つのことをする人さえいるが、全てうまくできる。それを眼は六路を観、耳は八方を聞くといい、全てを了知し分別し、さらに手配もできる。これが定と慧が共に高い人であり、生生世世定を修め慧を修めた人だけができる。そうでなければ、一点に集中させれば集中できるが、集中した後その事を処理するとなるとできない。これは智慧が足りないためであり、心は集中しているが智慧が足りない。

ある一つの事柄が現れ、心がそれと相対する時集中できるようになり、少し禅定があり識心が分散しなくなった。この時心の中で反観し知らねばならない。知る心があるとは、覚悟の心があることであり、覚悟の心は心が散開しておらず、心念を全て掴めることを示す。これが初歩の修行である。

原文:また心に散乱ある者は、心に散乱あることを知る。

釈:心が散乱している時は、心が散乱していることを知らねばならない。

一日中(二六時中)、境界に対応し、心が散乱しているか集中しているか、常に覚照の心を持ち、知らねばならない。知ることは意識心の回光反照、意識心の反観力である。意識に反照力がある時、一つは禅定があり、もう一つは智慧がある。愚痴な人は意識心に反照力がなく、自らが何をしたかも分からない。自らの心理がどの状態にあるか分からず、意識心の証自証分が現れない。証自証分が強い人は慧力が高い人であり、この慧力は仏法の慧力だけでなく世間法の慧力も含む。世間の賢い人は自らが何をしたか自ら分かっている。分かった後、自らが正しいか正しくないかを思惟し、間違っていれば直ちに訂正でき、正しければ発揚保持できる。これが世間の賢い人である。

仏法上に智慧のある人は、なおさら反照力を持つべきである。自らが今起こした如何なる心念も、反観でき、掴め、正しく効果的な方法を取って事を円満にでき、人事物理を全て円融に処理できる。智慧のない人は意識の証自証分が往々にして現れず、自らが愚痴の状態にある時心で分からず、自らは賢く高明だと思っている。心の散乱と心の集中は共に知らねばならない。仏は我々にこの種の覚照力を持つべきだと教えている。一切の時中に心に起こる念が、貪瞋痴があるかないか、定力があるかないか、心が広大か狭小か、上か下か、全てを知らねばならない。

原文:また心に広大ある者は、心に広大あることを知る。

釈:何を心の広大というか。広とは範囲を指し、無量無辺の法をいう。大とは一般に程度を指し、範囲の意味もある。我々の心は無量無辺の法を縁とすべきであり、眼前の小さな境界に執着すべきでない。最も広い心は十方世界を縁とし、十方諸仏の境界を縁とし、眼前の凡夫のあの小さな境界を縁としない。

心の中で考えるべき問題は如何に仏となるか、如何に菩薩道を行ずるか、如何に大解脱を得るか、未来世の果報、他の仏国土の果報と道業の進展、将来如何にして生生世世広大な衆生を率いて共に仏となる解脱の道に向かうか、度化摂受する衆生を如何にますます多くするかを考えることである。心はこれらの法を縁とすべきであり、これが広く大である。眼前の利益得失だけを考えるのではない。未来世の菩薩が地地増上の境界を考え、将来他の仏国土で法主となるか、あるいは無数の仏国土に化現して仏となり人を度すことを考える。このようなことを考える心こそが広大である。

心が広大でないとは、ただ眼前の凡夫のこれらの小事、眼前の利益、金銭上の利益、眷属上の利益、名声上の利益、財色名食睡の利益だけを考えることをいう。この心は狭小である。今の心が広大か狭小か、境界に遇って如何なる心念があるか、心量が如何かを、心の中で了知しはっきりさせねばならない。了知すれば自らの心が余りにも狭小で、眼前の自らのほんの少しの小利益だけに気を配り、他の方面は全く考えられないことが分かる。

心が広大になった後、初めて次第に内心を降伏できる。あるいは意図的・措置的に降伏するか、あるいは無意図的・無措置的に降伏する。無意図的無措置的な降伏とは、第七識の意根が背後で行う仕事をいい、これら全ては意識の了知しないところである。第七識の意根が自ら背後で黙々と思量し、思量が通れば、衪は変われる。措置的・意図的とは意識心に一定の対治方法を取らせることである。まず知ることがあり、次に次の段階の運作がある。心の運作とは反観・覚照・措置を取る・思惟・禅定と智慧を生起して問題を解決することを指し、これらは全て六七識の後続の仕事である。

表面上見える仕事は全て意識が行い、意識が方法を考え問題を解決し、如何に対治するかを思惟する。意識が思考した問題を意根に渡すと関わらなくなり、意根は背後で思量する。表面上は心がもうこの事を扱わないように見えるが、実際には意根が背後で人知れず運作しており、衪がこの事の前後の利弊を考えはっきりさせた後、決断を下す。この時方法が現れ、六識は間違いなく実行する。意根が思量し明らかになれば、心は変わり、境界が再び来た時は煩悩がなくなる。

貪らず煩悩がないのは誰の決定か。意根の決定である。なぜこのような決定があるか。意根が考え抜いたからである。衪は背後でずっと懸命に働いている。表面上は意識がただ自ら心が貪っていると知っているだけで、その後何もしていないように見えるが、実際には意根がずっと背後で思量し決断している。まとめると、境界に遇った時心が広大か狭小か、内心で明明白白はっきりさせねばならず、そうすれば次は容易である。

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