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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 179

第五章 法を観じて住す

第二節 五取蘊の法を観じて住す

原文:復次に、諸比丘よ、比丘はすなわち五取蘊の法において法を観じて住す。されど、諸比丘よ、比丘はいかにしてすなわち五取蘊の法において法を観じて住すべきか。ここに、諸比丘よ、比丘はかくのごとく色を知り、かくのごとく色の生起を知り、かくのごとく色の滅尽を知る。かくのごとく受を知り、かくのごとく受の生起を知り、かくのごとく受の滅尽を知る。かくのごとく想を知り、かくのごとく想の生起を知り、かくのごとく想の滅尽を知る。かくのごとく行を知り、かくのごとく行の生起を知り、かくのごとく行の滅尽を知る。かくのごとく識を知り、かくのごとく識の生起を知り、かくのごとく識の滅尽を知る。

釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ、比丘は五取蘊の法を観じて、心を五取蘊の法を観じることに住すべきである。しかしながら、諸比丘よ、比丘はいかにして五取蘊の法について法を観じて住すべきか。このようにである、諸比丘よ、比丘は何が色蘊であるかを知るべきであり、色蘊がいかにして生じるか、またいかにして滅するかを知るべきである。何が受蘊であるかを知るべきであり、受蘊がいかにして生じるか、またいかにして滅するかを知るべきである。何が想蘊であるかを知るべきであり、想蘊がいかにして生じるか、またいかにして滅するかを知るべきである。何が行蘊であるかを知るべきであり、行蘊がいかにして生じるか、またいかにして滅するかを知るべきである。何が識蘊であるかを知るべきであり、識蘊がいかにして生じるか、またいかにして滅するかを知るべきである。

これは五蘊の生滅変異無常の性質を観察するためであり、心は常に色蘊の状態、生滅変化の様子を了知すべきである。常に内心のあらゆる感受、およびそれらの感受の生滅変異無常の性質を了知すべきである。常に想蘊、および想蘊の生滅変異無常の性質を了知すべきである。常に行蘊、および行蘊の生滅変異無常の性質を了知すべきである。常に識蘊、および識蘊の生滅変異無常の性質を了知すべきである。

原文:かくのごとく、あるいは内法において法を観じて住し、また外法において法を観じて住し、あるいは内外法において法を観じて住す。あるいは法において生法を観じて住し、また法において滅法を観じて住し、あるいは法において生滅の法を観じて住す。なおまた、智識によって成り、および憶念によって成る、すべて法の思念が現前する。彼は依る所なくして住すべきである。かつて世間のいかなる物にも執着すべきではない。諸比丘よ、比丘はかくのごとくすなわち五取蘊の法において法を観じて住す。

釈:このように、あるいは内なる五取蘊の法において法を観じて住し、あるいは外なる五取蘊の法において法を観じて住し、あるいは内外の五取蘊の法において法を観じて住す。あるいは五取蘊の法において新たに生じる法を観じて住し、あるいは五取蘊の法において滅する法を観じて住し、あるいは五取蘊の法において同時に生滅の現象を観じて住す。

このように絶え間ない観察を経て、識心は智慧を具足し、絶えず五取蘊の法を思惟するようになる。常に五取蘊の法を観じるがゆえに、心は常に五取蘊を憶念し、心には連続不断の五取蘊の心念が形成される。この時、これらの心念を空じて滅すべきであり、五取蘊に依って住すべきではない。なぜならば五取蘊は生滅の法であり、依止すべきものではないからである。心から五取蘊の法を滅した後も、また世間のいかなる物にも執着すべきではなく、いかなる物にも依らずに住すべきである。なぜならば一切の物は無常生滅のものであり、頼りにならないからである。諸比丘よ、比丘はこのように五取蘊の法において法を観じて住すべきである。

五取蘊を内外に分けるならば、内なる色蘊とは色身を指し、外なる色蘊とは色身以外の山河大地などの色法、すなわち色声香味触法の六塵境を含む。内なる受蘊とは深層の意根の受を指し、外なる受とは表層の六識の受を指す。内なる想蘊とは意根の想を指し、外なる想蘊とは六識の想を指す。内なる行蘊とは意根の行(思)を指し、外なる行蘊とは六識の行(思)を指す。内なる識蘊とは意根の識性を指し、外なる識蘊とは六識の識性を指す。

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