衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 295

第五章 法を観じて住す


第五節 四聖諦の法を観じて住す

一、苦諦を観じて住す

原文:復次に、諸比丘よ、比丘はすなわち四聖諦の法において、法を観じて住す。しかるに、諸比丘よ、比丘はいかにしてすなわち四聖諦の法において法を観じて住すや。ここにおいて、諸比丘よ、比丘は如実にこれが苦であることを知り、如実にこれが苦の集であることを知り、如実にこれが苦の滅であることを知り、如実にこれが苦の滅に至る道であることを知る。しかるに、諸比丘よ、苦諦とは何か。生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、憂・悲・苦・悩・悶は苦なり、求不得は苦なり。約略して言えば、五取蘊は苦なり。

釈:次に説く、諸比丘よ、比丘は四聖諦の法において法を観じて住すべきである。では、諸比丘よ、比丘はいかにして四聖諦の法において観行して住すのか。この問題に対してはこのように解答すべきである、諸比丘よ、比丘は如実に何が苦であるかを了知し、如実に何が苦の集であるかを了知し、如実に何が苦の滅であるかを了知し、如実に何が苦を滅するべき修める道であるかを了知すべきである。では、諸比丘よ、苦の真実の理とは何か。生まれることは苦、老いることは苦、病むことは苦、死ぬことは苦、憂い・悲しみ・悩み・悶えはすべて苦であり、求めて得られないことも苦である。総じて言えば、五取蘊はすべて苦である。

原文:復次に、諸比丘よ、生とは何か。あらゆる所の生類の中において、諸々の衆生の生まれ出づること、産出すること、入胎すること、転生すること、諸蘊の顕現すること、内外の諸処の摂受すること。諸比丘よ、これを生と名づく。復次に、諸比丘よ、老とは何か。あらゆる所の生類の中において、諸々の衆生の年老いること、老耄すること、歯落ち髪白くすること、皺だらけの皮膚、寿命の短縮すること、諸根の熟衰すること。諸比丘よ、これを老と名づく。

釈:さらに説く、諸比丘よ、生とは何か。すべての処の生霊の類において、多くの衆生が生まれ出る、胎を出る、胎に入る、再び生まれる、および色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の顕現、内六処と外六処の摂受、これらが生である。再び説く、諸比丘よ、老とは何か。すべての処の生霊の類において、多くの衆生の年齢が進み老いる、衰える、歯が抜ける、髪が白くなる、皮膚に皺ができる、寿命がますます短くなる、眼・耳・鼻・舌・身の諸根が成熟し衰える、諸比丘よ、これらを老いと名づける。

原文:復次に、諸比丘よ、死とは何か。あらゆる所の生類の中において、諸々の衆生の消失し散滅すること、破壊し滅亡すること、消滅し死没すること、命終して諸蘊の破壊すること、死屍の放棄すること。諸比丘よ、これを死と名づく。復次に、諸比丘よ、憂とは何か。諸比丘よ、若干の不幸を具え、若干の苦法によって悩まされ、憂愁を感じ内心に憂い内に悲しむこと。諸比丘よ、これを憂と名づく。復次に、諸比丘よ、悲とは何か。諸比丘よ、若干の不幸を具え、若干の苦法によって悩まされ、嘆き悲しみ嘆息し悲哀し悲嘆し悲痛すること。諸比丘よ、これを悲と名づく。

釈:次に説く、諸比丘よ、死とは何か。すべての処の生霊の類において、多くの衆生が消失する、散滅する、破壊する、滅亡する、消滅する、寿命が終わる、死に絶える、および命終の際に五蘊が破壊される、死屍が捨てられる、諸比丘よ、これが死である。次に説く、諸比丘よ、憂とは何か。諸比丘よ、三界に法が集まる処に若干の程度の不幸があり、若干の苦法によって悩まされ、憂愁を感じ、内心に愁い憂い凄愴さを感じる、これが憂である。再び、諸比丘よ、悲とは何か。諸比丘よ、若干種の不幸な事に出会い、いくつかの苦痛に迫られ悩まされ、心に嘆き悲しみ、嘆息、悲哀、悲嘆、悲痛が生じる、諸比丘よ、これが悲である。

原文:復次に、諸比丘よ、苦とは何か。諸比丘よ、身に関する苦痛、身の不快、身の触によって生じる苦痛、および不快の感受。諸比丘よ、これを苦と名づく。復次に、諸比丘よ、悩とは何か。諸比丘よ、心に関する苦痛、心の不快、意の触によって生じる苦痛、および不快の感受。諸比丘よ、これを悩と名づく。復次に、諸比丘よ、悶とは何か。諸比丘よ、若干の不幸を具え、苦法によって悩まされ、失望し落胆し、気落ちし愁悶すること。諸比丘よ、これを悶と名づく。

釈:次に説く、諸比丘よ、苦とは何か。諸比丘よ、苦は身体上の苦痛に関するものであり、身体上の不愉快、身体上の触によって生じる苦痛および不愉快な感受、これが苦である。再び説く、諸比丘よ、悩とは何か。悩は心に関する苦痛であり、心理上の不愉快・不快楽、意識が法塵に触れることによって生じる苦痛および不愉快な感受、諸比丘よ、これが悩である。再び説く、諸比丘よ、悶とは何か。諸比丘よ、若干種の不幸な事に遭遇し、心がこれらの苦しい事に迫られ悩まされ、失望、落胆、気落ち、愁悶を感じる、諸比丘よ、これが悶である。

原文:しかるに、諸比丘よ、求不得苦とは何か。諸比丘よ、生法にある衆生は、かくのごとき欲求を生ず、『我らは実に生法の下にあらず、我らは生まれてくることを願わず』。しかるに、この欲求を得ず。これが求不得苦なり。諸比丘よ、老法にある衆生は、かくのごとき欲求を生ず、『我らは実に老法の下にあらず、我らは老いることを願わず』。しかるに、この欲求を得ず。これが求不得苦なり。

釈:では、諸比丘よ、求不得苦とは何か。諸比丘よ、生きている状態にある衆生にとって、彼らの心にはこのような欲求が生じる:我々は実は生命の中にいることを望まず、我々は生まれ生きることを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができない、これが求不得苦である。諸比丘よ、老いる状態にある衆生にとって、彼らの心にはこのような欲求が生じる:我々は実は老いることの中にいることを望まず、我々は老いることを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができない、これが求不得苦である。

原文:乃至、諸比丘よ、病法にある衆生は、かくのごとき欲求を生ず、『我らは実に病法の下にあらず、我らは病むことを願わず』。しかるに、この欲求を得ず。これが求不得苦なり。乃至、諸比丘よ、死法にある衆生は、かくのごとき欲求を生ず、『我らは実に死法の下にあらず、我らは死ぬことを願わず』。しかるに、この欲求を得ず。これが求不得苦なり。乃至、諸比丘よ、憂・悲・苦・悩・悶の法にある衆生は、かくのごとき欲求を生ず、『我らは実に憂・悲・悩・悶の法の下にあらず、我らは憂・悲・苦・悩・悶の法の来ることを願わず』。しかるに、この欲求を得ず。これが求不得苦なり。

釈:諸比丘よ、病苦の中にある衆生にとって、彼らの心にはこのような欲求が生じる:我々は実は病苦の中にいることを望まず、我々は病むことを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができない、これが求不得苦である。諸比丘よ、死に瀕した状態にある衆生にとって、彼らの心にはこのような欲求が生じる:我々は実は死の中にいることを望まず、我々は死ぬことを望まない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができない、これが求不得苦である。諸比丘よ、憂・悲・苦・悩・悶の法の中にある衆生にとって、彼らの心にはこのような欲求が生じる:我々は実は憂・悲・苦・悩・悶の中にいることを望まず、もう憂・悲・苦・悩・悶があってほしくない。しかしながら、彼らはこのような欲求を得ることができない、これが求不得苦である。

原文:しかるに、諸比丘よ、約略して言えば、五取蘊の苦とは何か。次のごとき色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊。諸比丘よ、約略して言えば、これらを五取蘊の苦と名づく。諸比丘よ、これもまた苦聖諦と名づく。

釈:総じて言えば、諸比丘よ、簡略に言って、五取蘊の苦とは何か。衆生が順次に執取する色蘊、執取する受蘊、執取する想蘊、執取する行蘊、執取する識蘊、簡略に言えば、執着があることが苦であり、取ることが苦であり、執着できず、取ることができないことはさらに苦である、これが五取蘊の苦である。諸比丘よ、これは苦聖諦とも呼ばれる。

二、苦集諦を観じて住す

原文:しかるに、諸比丘よ、苦集聖諦とは何か。この愛は能く再び生を導き、喜びと貪りを具え、あまねく所で追求して満足せんとす。すなわち欲愛・有愛・無有愛なり。復次に、諸比丘よ、かの愛は何れの処に生じ、何れの処に止住するや。およそ世間に愛すべき喜ぶべきものあるところ、この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:では、諸比丘よ、苦集聖諦とは何か。現世のすべての貪愛は再び生まれることを引き起こし、再びこの三界に生まれる時、何に触れても喜びと貪愛を伴い、四方に追い求めて自らの貪愛を満たす、すなわち欲界の法を貪愛し、色界の法を貪愛し、無色界の法を貪愛し、追求するすべては自らの貪愛心理を満たすためである。今世の煩悩は業種を集積し、後世の苦果を引き起こす、これが苦集の真理である。再び説く、諸比丘よ、内心の貪愛は何処に生じ、何処に住み、何処に止まるのか。およそ世間に愛楽し欣喜する事物が存在する所、この愛楽欣喜の心は執持する事物の処に生まれ、この処に住み、この処に停止する。何の法を喜び楽しむかによって、心はその法の上に止まり、その法に束縛され、解脱を得られない。

原文:何が世間に愛すべき喜ぶべきか。眼は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。耳は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至鼻は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至舌は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。身は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至意は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:世間において何が愛すべき喜ぶべき法か。眼根は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は眼根の処に生じ、眼根の処に止まって動かなくなる。耳根は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は耳根の処に生じ、耳根の処に止まって住み動かなくなる。鼻根は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は鼻根の処に生じ、鼻根の処に止まって住み動かなくなる。舌根は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は舌根の処に生じ、舌根の処に止まって住み動かなくなる。身根は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は身根の処に生じ、身根の処に止まって住み動かなくなる。乃至于意根は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は意根の処に生じ、意根の処に止まって住み動かなくなる。これは六根について説いている。衆生は六根を愛する。なぜなら六根は六塵に接触し、自らのために用いることができるからである。したがって心は六根の上に住み、絶えず六根を使用する。誰が六根を使用するのか。意根が六根を愛し使用し、意根自身を愛し使用することを含め、自らに絶えず作意・触・受・想・思をさせ、絶えず六塵の境界を取着させる。

原文:色は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至声は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至香は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至味は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至触は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至法は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:色塵は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は色塵の処に生じ、色塵の処に止まって動かなくなる。声塵は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は声塵の処に生じ、声塵の処に止まって動かなくなる。香塵は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は香塵の処に生じ、香塵の処に止まって動かなくなる。味塵は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は味塵の処に生じ、味塵の処に止まって動かなくなる。触塵は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は触塵の処に生じ、触塵の処に止まって動かなくなる。法塵は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は法塵の処に生じ、法塵の処に止まって動かなくなる。これは六塵が愛すべき喜ぶべき法であることを説いている。なぜなら六塵は衆生のために用いることができるからであり、すべての衆生は六塵を貪愛する。誰が六塵の法を喜ぶのか。意根が六塵の法を喜び、六塵の法を貪愛し、絶えず六塵の処で執取する。

原文:眼識は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至耳識は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至鼻識は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至舌識は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至身識は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至意識は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:眼識は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は眼識の処に生じ、眼識の処に止まって動かなくなる。乃至耳識は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は耳識の処に生じ、耳識の処に止まって動かなくなる。乃至鼻識は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は鼻識の処に生じ、鼻識の処に止まって動かなくなる。乃至舌識は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は舌識の処に生じ、舌識の処に止まって動かなくなる。乃至身識は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は身識の処に生じ、身識の処に止まって動かなくなる。乃至于意識は世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は意識の処に生じ、意識の処に止まって動かなくなる。これは六識が愛すべき喜ぶべき法であることを説いている。なぜなら六識は六塵を識別し、六塵を取り着け、六塵を使用し、六塵を享受できるからであり、したがって衆生は六識を愛する。六識に貪着するのは、誰が六識を喜ぶのか。意根が六識を喜び、六識に執取し、六識に絶えず六塵に対して作意・触・受・想・思を行わせ、最終的には六識を通して六塵を執取する。六識は意根が六塵を執取する用具であり、もしこの用具がなければ、意根は何もできなくなる。したがって意根は六識が滅することを望まず、それゆえ禅定を修めることが非常に容易ではない。

原文:眼触は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至耳触は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至鼻触は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至舌触は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至身触は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至意触は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:眼が色に触れることは世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は眼触の処に生じ、眼触の処に止まって動かなくなる。乃至耳が声に触れることは世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は耳触の処に生じ、耳触の処に止まって動かなくなる。乃至鼻が香に触れることは世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は鼻触の処に生じ、鼻触の処に止まって動かなくなる。乃至舌が味に触れることは世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は舌触の処に生じ、舌触の処に止まって動かなくなる。乃至身が触に触れることは世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は身触の処に生じ、身触の処に止まって動かなくなる。乃至意が法に触れることは世間において愛すべき喜ぶべき法であり、貪愛は意触の処に生じ、意触の処に止まって動かなくなる。これは十二処が愛すべき楽しむべき法であることを説いている。六根が六塵に触れた後、六識が生まれ、六塵の境界を享受できる。したがって衆生は皆十二処を貪愛する。もちろん、結局は意根の貪愛と喜びであり、絶えず塵境を執取するためである。

原文:眼触によって生ずる受は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至耳触によって生ずる受は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至鼻触によって生ずる受は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至舌触によって生ずる受は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至身触によって生ずる受は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至意触によって生ずる受は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:眼触の後に生じる受は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は眼触によって生じた受の処に生じ、眼触によって生じた受蘊の処に止まって動かなくなる。乃至耳触の後に生じる受は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は耳触によって生じた受の処に生じ、耳触によって生じた受の処に止まって動かなくなる。乃至鼻触によって生じる受は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は鼻触によって生じた受蘊の処に生じ、鼻触によって生じた受蘊の処に止まる。乃至舌触によって生じる受蘊は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は舌触によって生じた受蘊の処に生じ、舌触によって生じた受蘊の処に止まる。乃至身触によって生じる受蘊は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は身触によって生じた受蘊の処に生じ、身触によって生じた受蘊の処に止まる。乃至意触によって生じる受蘊は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は意触によって生じた受の処に生じ、意触によって生じた受の処に止まって動かなくなる。これは六識の受を説いている。六根が六塵に触れた後、六識の感受が生じる。衆生は皆非常に受覚・受蘊を貪愛し、心は皆受蘊の上に住み、受蘊のために、悪業を造ることを惜しまない。もちろん、受蘊・受覚に貪着する主なものはやはり意根である。意根の貪りがあるからこそ、六識に絶えず触れさせ受けさせる。

原文:色想は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至声想は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至香想は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至味想は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至触想は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至法想は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:色塵に対する取着は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は色塵を取着する処に生じ、色塵を取着する処に止まって動かなくなる。乃至声塵に対する取着は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は声塵を取着する処に生じ、声塵を取着する処に止まって動かなくなる。乃至香塵に対する取着は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は香塵を取着する処に生じ、香塵を取着する処に止まって動かなくなる。乃至味塵に対する取着は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は味塵を取着する処に生じ、味塵を取着する処に止まって動かなくなる。乃至触塵に対する取着は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は触塵を取着する処に生じ、触塵を取着する処に止まって動かなくなる。乃至法塵に対する取着は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は法塵を取着する処に生じ、法塵を取着する処に止まって動かなくなる。六根が六塵に触れ、受蘊が生じた後、想蘊が生じる。意根が相を取った後、六識は六塵の境界相を執取する。衆生は皆自らの想蘊を貪愛する。想蘊は六識が塵境を受け入れた後、意根が塵境に対して相を取る行為であり、色蘊の相を取り、受蘊の相を取り、想蘊の相を取り、行蘊の相を取り、識蘊の相を取り、乃至于六塵境界の相を取る。

原文:色思は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至声思は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至香思は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至味思は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至触思は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至法思は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:色法に対する造作は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は色法を造作する処に生じ、色法を造作する処に止まって動かなくなる。乃至声法に対する造作は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は声法を造作する処に生じ、声法を造作する処に止まって動かなくなる。乃至香法に対する造作は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は香法を造作する処に生じ、香法を造作する処に止まって動かなくなる。乃至味法に対する造作は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は味法を造作する処に生じ、味法を造作する処に止まって動かなくなる。乃至触法に対する造作は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は触法を造作する処に生じ、触法を造作する処に止まって動かなくなる。乃至法塵に対する造作は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は法塵を造作する処に生じ、法塵を造作する処に止まって動かなくなる。六根が六塵に触れ、意根が六塵を思惟選択し執取した後、行蘊が生じ、六識は身・口・意の行を造作する。衆生の意根は皆行蘊を好み、絶えず身・口・意の行を造作することを好む。色・声・香・味・触・法に対する思とは、六塵境界に対する執取造作の行為である。これらの行為造作は意根が喜び楽しむものであり、意根が主体となって選択した結果である。後の業果はこの業行によって生じる。

原文:色愛は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至声愛は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至香愛は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至味愛は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至触愛は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至法愛は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:色塵に対する愛は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は色塵を愛する処に生じ、色塵を愛する処に止まって動かなくなる。乃至声塵に対する愛は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は声塵を愛する処に生じ、声塵を愛する処に止まって動かなくなる。乃至香塵に対する愛は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は香塵を愛する処に生じ、香塵を愛する処に止まって動かなくなる。乃至味塵に対する愛は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は味塵を愛する処に生じ、味塵を愛する処に止まって動かなくなる。乃至触塵に対する愛は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は触塵を愛する処に生じ、触塵を愛する処に止まって動かなくなる。乃至法塵に対する愛は世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は法塵を愛する処に生じ、法塵を愛する処に止まって動かなくなる。六塵境界を貪愛する心行もまた、衆生が愛し宝とするものであり、捨てることを望まない。したがって衆生は皆六塵に対する貪愛を喜び楽しむ。

原文:色尋は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至声尋は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至香尋は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至味尋は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至触尋は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至法尋は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。

釈:色法を追い求めることは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は色法を追い求める処に生じ、色法を追い求める処に止まって動かなくなる。乃至声法を追い求めることは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は声法を追い求める処に生じ、声法を追い求める処に止まって動かなくなる。乃至香法を追い求めることは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は香法を追い求める処に生じ、香法を追い求める処に止まって動かなくなる。乃至味法を追い求めることは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は味法を追い求める処に生じ、味法を追い求める処に止まって動かなくなる。触法を追い求めることは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は触法を追い求める処に生じ、触法を追い求める処に止まって動かなくなる。法塵を追い求めることは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は法塵を追い求める処に生じ、法塵を追い求める処に止まって動かなくなる。衆生は色・声・香・味・触・法の境界を愛するため、自らの貪愛心理を満たすために、絶えず六塵を追求し六塵境界を探し求め、自らの追い求める心を放棄し捨てることを望まない。したがって衆生は生々世世、絶えず六塵境界を追い求め探し求めている。

原文:色伺は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至声伺は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至香伺は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至味伺は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至触伺は世間に愛すべき喜ぶべきなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。乃至法伺は世間に愛すべき喜ぶべきものなり。この愛はすなわちこの処に生じ、この処に止住す。諸比丘よ、これを苦集聖諦と名づく。

釈:心を動かさずに色法の出現を待つことは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は色法を待つ処に生じ、色法を待つ処に止まって動かなくなる。心を動かさずに声法の出現を待つことは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は声法を待つ処に生じ、声法を待つ処に止まって動かなくなる。心を動かさずに香法の出現を待つことは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は香法を待つ処に生じ、香法を待つ処に止まって動かなくなる。心を動かさずに味法の出現を待つことは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は味法を待つ処に生じ、味法を待つ処に止まって動かなくなる。心を動かさずに触法の出現を待つことは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は触法を待つ処に生じ、触法を待つ処に止まって動かなくなる。心を動かさずに法塵の出現を待つことは世間において愛すべき喜ぶべきであり、貪愛は法塵を待つ処に生じ、法塵を待つ処に止まって動かなくなる。衆生の六塵境界に対する貪愛と追求は、最初は比較的粗い探し求める行為である。ある程度探し求めた後、得られそうだと感じると、待ち始め、細心に六塵境界の出現を待ち伺う。衆生はこれらの貪愛の行為によって、生死の業種を集積し、後世には生死の苦報が生じる。

ページトップへ戻る