四念処経講話 第二版(新修)
第二章 身念処を観ずる
第四節 地水火風を観ずる
原文:復次に諸比丘よ。比丘は界(要素)より。如存在。如志向。而して此の身を観察す。即ち知る、此の身中に。地界・水界・火界・風界有りと。
釈:仏は諸比丘たちに説かれた。比丘は色身を構成する四大元素の上から色身を観察すべきであると。例えば色身が存在する現実の状況から色身を観察し、色身の趣向、最後の帰結から色身を観察すれば、遂にはこの身の中に地界・水界・火界・風界があることを知るに至るのである。
界はまた要素とも呼ばれ、四大元素の機能の限界、機能の差別である。例えば地水火風の四大種子は四つの要素、四種の限界であり、これらの要素の機能差別は異なり、限界は異なり、属性は異なり、性質は異なる。地界の性質は堅固性、水界の性質は湿潤性、火界は温暖性、風界は流動性である。この四つの要素の属性は全く異なり、その間には限界による区別がある。四大元素は色身を構成する基本元素であり、ここに着眼して色身を観察すれば、色身の構成構造を理解し、色身が虚妄であること、苦であること、無常であること、また無我であることを悟るのである。
存在とは、我々の生命体が現在存在している状態、現前に観察できる部分である。地水火風は身体の上から下へ、内から外への各部分を構成し、固態と液態の全ての物質を含む。現前に観察した後、色身の中の全ての物質が、頭から足まで、外から内まで、地界・水界・火界・風界の四大元素から成ることを知る。色身は皮膚や内臓器官、堅い骨格や様々な流動する液体のいずれも、この四大種子が和合して構成されたものである。地界は堅固性であり、もし身体に堅固性の地大がなければ、我々は立ち上がることができず、立ち上がることも歩行坐臥することもできず、まるで泥のようになる。なぜなら身体を支えることができないからである。
身体には水界があり、水界は湿潤性である。湿潤性がなければ身体は干からびてミイラのようになり、生命の存在を保つことができなくなる。身体には火界があり、火界は暖かさ、温度である。衆生が生きている限り、身体には暖かさがあり、身体の五臓六腑から皮膚の表面まで、頭から足まで温度がある。風界は流動性、移動性を有する。もし身体に風がなければ、呼吸ができず、血液も循環せず、飲食も消化されない。身体の様々な運営活動は風力の作用によるのである。四大元素は独立して作用するのではなく、共同して身体の各部分、身体の筋肉、骨格、内臓器官を構成する。ただ各部分に必要な四大の比率が異なるだけである。
身体の中の各部分の物質は、全て四大元素から成り、四大が和合して形成される比率・成分が異なれば、構成される物質の属性も異なる。もし地性が多ければ、物質の属性は地の堅固性に近づく。骨格は最も堅く、それは地大の成分が多く、物質は堅固性を現す。しかし骨格の中にも水大の成分があり、骨格に水の成分がなければ骨格は乾燥し、潤滑性がなく、容易に折れやすくなる。骨格には水の成分だけでなく、火大の成分もあるため、骨格は温かく、生きている時には骨格に温度がある。骨格には風もあり、血液や骨髄はその中を流動する。
物質色法を構成するものには空界もあるが、ここでは言及されていない。仏経ではしばしば四大で地水火風空の五大を代表させ、特に空大を強調する場合を除いて空大を特に言及しない。空大が参与するため、その比率成分の多少により、構成される物質の密度と構造が異なり、物質の堅固性も異なる。空大の成分が多ければ、当然地大の成分は相対的に少なくなり、物質は粗鬆となる。逆に物質密度が大きければ堅くなる。骨格にも空隙があり、もし骨の中に空隙がなければ、血液は骨格を通ることができず、風も骨格を通ることができず、ある者は風湿の病気にかかることもない。
人は老いる時、骨粗鬆症になり、骨は脆くなりやすい。それは地大と水大の栄養物質が減少し、カルシウムが不足し、空大の成分が幾分増えるためである。カルシウムを補給した後、如来蔵はカルシウムの養分を吸収し、それから骨格を変現し、骨の密度は増大して折れにくくなる。これは骨格の中に依然として空界があり、地水火風空の五大が具足していることを示している。筋肉には地大・水大・火大・風大の四大元素があり、その中で地大が占める比率成分はやや多いが、骨格の中の地大成分に比べれば依然として幾分少ない。また筋もあり、筋も地大成分がやや多くを占める。さらに内側は内臓器官であり、内臓にも地大と水大があり、火大もあり、風大と空大もある。
さらに血液、骨髄、脳漿、汗、尿などのこれらの液体部分があり、その中で水界の成分が多くを占め、地界成分が占める比率は少ない。液体の水には不純物があり、その中には水大だけでなく地大も含まれる。水には流動性があるため、風大がある。水には一定の温度があるため、火大があり、火大が少なければ少ないほど水は冷たくなり、遂には完全に氷となる。氷結した後は、火大・風大の成分はますます少なくなり、微々たるものとなる。物質は全て地水火風の四大種子が異なる比率、異なる成分で組み合わさって形成されるため、物質は色法と呼ばれ、色法は地水火風の四大種子から構成されるのである。
四大種子は如来蔵の中に存在し、如来蔵は外界の様々な因縁に随って、絶えず四大種子を送り出し、それによって絶えず様々な物質の構成成分を形成し変化させる。それ故に我々の色身は時々刻々と変化する。色身が時々刻々と変化することは、如来蔵が時々刻々に色身に四大種子を送り出していることを示しており、一瞬ごとに送り出される四大の比率成分には差異があり、四大は変化する。すると我々の身体は変化するのである。
我々の身体は刹那刹那に変化しなければならない。なぜなら如来蔵は刹那刹那に四大種子を出力し、前の刹那と後の刹那に出力される四大元素には差異があり、身体は少しずつ変異を現すからである。それ故に身体は日々変化し、さっきまでは無事であったのに、しばらくするとある部位が痛み出したり、あるいは特別な状態が現れたりする。これは四大が不調和となり、如来蔵が四大元素の構造を変えたため、色身に違和が生じたのである。
時に違和を生じた色身はまた良くなることもあり、色身がますます強健になる。これは如来蔵が再び四大元素を調整したためである。それ故に色身の状態は一定不変ではなく、刹那刹那に変化しているのである。摂取する飲食が異なり、業縁が異なり、如来蔵が摂取する養分が異なれば、細胞の新陳代謝が異なり、身体は絶えず変化し、出生から成長して成人となり、さらに少しずつ衰老し、遂には散壊して死亡する。
色身は刹那刹那に変化し、如来蔵は刹那刹那に種子を送り出して色身を維持する。障縁が現れる時、身体は病気になる。如来蔵が摂取・送り出す四大元素に差異が生じれば、四大は違和を生じ、身体は異常となり、病状が現れる。色身は様々な縁に依って出現し変化する。例えば摂取する飲食が異なり、外界の触塵が異なり、心境が異なり、禅定が異なり、業縁が異なれば、身体は異なる変化を起こす。これらは全て四大元素の変化により、色身が変化を起こすのである。これらの方面から観察すれば、我々の色身の中に地界があり、水界があり、火界があり、風界があることを知るのである。
原文:諸比丘よ。恰も熟練せる屠牛者の如し。或は屠牛者の弟子の牛を殺すが如し。四衢道に於て。片片に分解し已って坐するが如し。
釈:諸比丘よ、まるで技術に熟練した牛を屠る者、あるいは屠牛者の弟子が牛を屠るように、牛を一片一片に分解した後、四方八方に通じる街道で座って売りさばくのである。
世尊は比喩をもって比丘たちに、如何に色身の組合せ性と虚妄無常性を観察すべきかを教えられた。色身を四大元素に分解し、その中から地界・水界・火界・風界を分け出す。このような分解は、まるで牛を屠る者、あるいは屠牛者の弟子が、牛を屠る時、売りやすくするために四方八方に通じる街道で牛を屠るようなものである。牛を殺した後、牛の身体を一片一片に切り開き、その場で売りさばく。屠牛者はおそらく先に牛の咽喉を切り、次に牛の心臓を刺して牛を殺し、その後解剖する。皮を剥ぎ、肉を削ぎ、内臓を取り出し、様々な内臓を分け、血液も先に全て流し出し、骨だけが残る。片片に分解した後、街道の各所で売りさばくのである。
原文:諸比丘よ。是の如く比丘は。界より如存在。如志向。而して此の身を観察す。此の身に地界・水界・火界・風界有ることを知る。
釈:諸比丘よ、このように比丘は生きている衆生の四大元素から、死後の最終的な帰結からこの色身を観察し、色身に地界・水界・火界・風界があることを知るのである。
比丘が自身の色身を観察する時も、屠牛者のように身体を分解して観察すべきである。一片一片に分解するだけでなく、最後には地水火風の四大要界に分解する。自身の身体を頭から足まで、外から内まで観察し、各組織構造を分解し、最後に再び地大・水大・風大・火大に分け、地水火風の四界に分解し、色身が出生する以前の原始状態に回帰させる。内臓器官から骨格、筋肉、皮膚まで、一つ一つ観察すれば、全て地水火風の四大要界から構成されており、一界を抜き取ればその身体は散壊する。
身体の中で地界が欠ければならず、水界・火界・風界が欠けてもならない。風大に異常が生じれば呼吸に障害が生じ、風病、あるいは喘息、風湿などにかかる。水大に関連する病気には囊腫、風湿病、皮膚病などがあり、水大の不調和には多くの疾病がある。火大が不調和であれば、身体に寒気や発熱の現象が現れ、発熱、体の冷え、これらは全て火大不調和の症状である。地大が不調和であれば、身体に痛み、疲労無力感、骨粗鬆症、腰曲がり、骨折などが現れる。これらの疾病は全て地水火風の不調和によって引き起こされ、四大の比率成分が変化すれば、色身は変化する。
内臓器官を観察し、一つ一つ固態と液態の二つの部分に分解して観察し、さらに最小の細胞に分解して観察し、最後に細胞を地水火風の四大元素に分解する。遂には身体の各部分が全て四大元素から成ることを知る。ではこれらの元素から構成される色身は、真実の法であろうか?様々な元素から構成される物質色法は真実の法であろうか?
目の前の机や椅子を観察できる。机や椅子は木材、釘、鉄器が組み合わさって構成されている。もし木材の板が剥がれたり壊れたり、釘が散らばれば、机や椅子はまだ存在するだろうか?残った散らばった物は、机や椅子であろうか?この机や椅子は表面上存在する仮の姿ではないだろうか?実質は組み合わさった虚像で、空ではないだろうか?色身も同様に、地水火風の四大が和合して構成され、四大が分解されれば、まだ色身はあるだろうか?もちろんない。それ故に色身は表面上存在するように見える幻影に過ぎず、真実ではなく、実質がなく、色身は真実不変の我ではない。
命終の時、地水火風の四大が分解されれば、色身は散壊して死体となる。臨終に地水火風が分解する時、身体の感覚は非常に苦しい。仏は衆生が命終に四大が分解するのは、まるで生きている亀の皮を生きたまま剥ぐように苦しいと説かれた。生きている亀の甲羅を剥ぐのは非常に苦しいことである。我々が純粋な善業を造らなければ、死亡する時、地水火風の四大が分解する際も非常に苦しいのである。
色身が分解した後、地水火風の四大元素はどこへ行くのか?如来蔵の中に戻る。四大は如来蔵から出てきたものであり、種子は再び如来蔵に戻り、因縁が具足すれば再び送り出され、来世の色身を変現する。如来蔵の中の四大種子は無量数であるが、その数も固定されており、無限に増加し産出されるものではない。これらの極めて多い種子は同時に送り出され、色身を形成し、六塵を形成し、宇宙器世間を形成する。これらの種子はどこから来たか、再びそこへ戻り、刹那に送り出され、再び刹那に如来蔵に戻る。種子は理由もなく消え失せることもなく、理由もなく新たに生じることもない。本有の種子は生じないからである。
衆生の四大が分解すれば死亡し、如来蔵は意根の貪執に随って、再び中陰身を生み出す。中陰身は非常に微細な物質であり、四大極微から構成され、漂動性を有する。中陰身はあまり実質的な物質ではないため、遮障がなく、五神通を具え、身体は自由に四方へ漂動でき、地域の制限を受けない。それ故に地水火風の四大が分解する時、色身は散壊し、死体となり、次第に消失して見えなくなる。
この組み合わさり、生滅する色身は、真実の我であろうか?真実の我の概念とは何か?真実の我は変化せず、無常ではなく、移り変わらず、生滅せず、組み合わさるものではなく、苦ではない。それ故にこの四大から成る我は真実ではなく、我々はこの組み合わさった色身を我と見なすべきではない。それは地水火風の四大種子が構成した仮の殻に過ぎず、一種の仮相である。仮相が識心を騙し、識心にそれを我であると感じさせ、真実であり、真実の作用があると思わせるが、実はそうではない。色身の無常性、生滅性、不浄性、組合せ性を観察すれば、それが空であり、幻化であり、一時的に存在するものであることが分かる。このように観察を続ければ次第に身見を断つことができる。
原文:仏は説きたまう。是の如く。或は内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住す。
釈:仏は説かれた:このように、心はある時は内身に対する観察の上に住し、ある時は外身に対する観察の上に住すのである。
内身とは色身全体であり、外身も五陰十八界の中の法である。色塵には山河大地、家屋樹木、宇宙星空、十方諸仏国土が含まれ、外色塵に属する。声塵もまた衆生を構成する一部分であり、色身の外界であり、外身と呼ばれる。如来蔵が出力する四大種子の比率成分が異なれば、生じる色塵も異なり、その性質には差別がある。同じ土地でも、含まれる地水火風の四大種子の成分が異なれば、土地の属性は異なり、その機能作用も異なる。土地と土地の間にも区別があり、中に空大の成分が異なれば、土地の密度も異なり、空大の成分が多ければ多いほど土地は柔らかくなる。逆に土地はより堅くなり、中に空間が少なければ少ないほど密実となり、より緊密であればあるほど堅くなる。それ故に地水火風空の五大種子の組み合わせ比率が異なれば、形成される物質の属性も異なり、性用も異なる。
金剛は一種の宝であるが、これも地水火風の四大種子から成る。同じく四大で構成されるのに、なぜ金剛と呼ばれ、石と呼ばれないのか?その内部の四大組成成分が石とは異なり、空大の成分が非常に少なく、密度が極めて大きいため、非常に堅いからである。堅いものは空隙が少なく、密度が皆大きい。柔らかいものは空隙が皆大きい。それ故に五大種子が様々な物質を構成するのである。
細心に内体を観察し、皮膚から筋肉、筋、骨格、骨髄、内臓、血液まで、全ての固態・液態の物質を観察すべきである。最終的な結論は、全て地水火風の四大元素が和合して成るものであり、全て虚偽で、生々滅々し、真実ではないということである。外色塵を観察するが、実は外色塵は根本的に観察できない。これらの色塵も全て地水火風の四大種子が組み合わさって構成されるのであれば、これらの色塵は虚妄である。
音声は一種の物質的波動であり、地水火風の四大種子から成る。音声という物質色法は、色塵とはまた区別がある。音声は伝導性を有し、一定の媒体を通じて初めて一定の領域に伝わり、その伝導エネルギーは次第に減衰し、遂には消失する。それ故に音声は物質を貫通でき、壁を通り抜け、妨げられないが、やはりエネルギーを消耗する。音波は空気中を伝導・流動し、遂には耳根に伝わる。まずは鼓膜を震わせるため、音声が現れる時、まずは耳根の震えを感じ、その後で何の音か、伝わってくる方向、粗細、種類、性質などの状況を知る。一方、色塵は物質に妨げられ、薄い紙一枚でも色塵の透過を遮り、色塵が眼根と相対しないようにする。ましてや厚い壁であればなおさらである。
また香塵があり、香塵は様々な匂いであり、香りであれ臭いであれ、いかなる匂いも物質に属する。これらの物質も地水火風の四大種子から構成され、四大が和合するものは生滅変異無常壊敗無我であり、因縁が散じれば匂いも消失する。それ故に香塵も虚妄である。
さらに味塵を観察する。甘酸っぱい苦い辛いなどの味、これらの味塵も物質的属性を有し、地水火風の四大種子から成り、生滅変化する。和合があれば散じることもある。食物が口腔に入り、舌根が味わい、最後に四大が分解し、因縁が散じれば、味塵も消失する。口腔の中で咀嚼を通じて、食物の味は変異し、胃に飲み込めば、その味は完全に変わる。口に入れたばかりの香ばしい飲食も、胃の中に入れば、細菌が食物を分解・消化する。その味は非常に不快であり、口に入れたばかりの香りではない。地水火風が分解した後、物質的属性は変化する。これらの味塵も生滅無常であり、因縁の集まりであり、虚妄法であって真実ではない。
さらに触塵がある。陽光が差し込む光線、空中の風が身体に当たるもの、身体と接触し得る全てのものは触塵に属する。例えば身体が満腹を感じ、空腹を感じ、あるいは渇きを感じる、その他の感覚は全て触塵に属する。身体の軽安の状態、重い状態、疲労の状態、快適な状態は全て触塵に属する。これらの触塵も地水火風の四大種子から構成され、組み合わさったものは虚妄であり、因縁の集まりは偽りである。我々はこれらの触塵に貪着すべきではなく、色身に享受を貪着させてはならない。なぜなら本来虚妄であり、享受も虚妄・幻化・変異・無常であり、しかも自身の福德を消耗するからである。
享受する時、如来蔵銀行の預金は消費され、以前に苦労して修めた福報は減少する。もし福報が不足すれば、道業は進歩しにくい。現在に福を享受できるのは、我々が以前に福を修め、布施をしたからである。しかし各人の福德は畢竟有限であり、享受すればするほど減り、全て日常の享受に使われれば、残りの福德では道業を増進させるのに十分でない。以前に布施で修めた福は全て如来蔵の中にあり、享受する時は如来蔵銀行から引き出す。享受すればするほど銀行預金は減る。もし福があっても享受しなければ、福德の預金は貯まり続け、高額の利子が付き、利子が元本に加わり、福德はますます多くなる。
もし全て享受し尽くし、全て引き出せば、銀行には預金がなくなる。もし福報が不足すれば、仏法を学ぶには至る所に障縁が生じ、至る所で順調でなく、我見を断つことができず、明心することができず、たとえ煩悩を一時的に抑えようとしてもできず、禅定を修めようとしても修まらず、戒律を保とうとしても円満に保てない。一切の世間・出世間法の修行が順調かどうか、成功するかどうかは、全て自身の福德による。それ故に我々はできる限り福報を節約し、自らの道業のために考え、未来世の修行のために考えねばならない。
福があっても享受しない、あるいは少ししか享受せず、積み立てたものは、依然として自身の如来蔵銀行の中に存在する。この如来蔵銀行は一つには永遠に倒産せず、二つには他人に奪われない。世間の銀行は強盗に奪われたり、詐欺師に騙し取られたりするが、この如来蔵銀行は誰も手を出すことができず、彼はこの銀行を見つけられず、たとえ見つけても金庫をこじ開けられない。それ故にまだ享受していない福は如来蔵の中に存在し、永遠に自身に属する。如来蔵銀行に預金がある限り、自身は有福の人であり、全てのことをするのに順調であり、修行に用いれば道業の進歩は非常に速い。
もう一つは法塵である。法塵は五塵の上に同時に現れる法処所摂の色であり、これも色法である。法塵は意根と相対し、微細な地水火風の四大種子から成る。法処所摂色も一種の色であり、前五塵とは区別があり、内五塵に依って現れ出生するもので、五塵より微細である。内五塵は法塵相より粗いが、外五塵よりは微細である。以上が六塵である。六塵は十八界の六塵界であり、十八界全体が衆生の仮体を構成する。いわゆる衆生とは、五陰十八界が合わさって衆生と呼ばれるのである。
原文:また内外身に於て。身を観じて住す。或は身に生法を観じて住し。身に滅法を観じて住す。また身に生滅法を観じて住す。
釈:心はさらに同時に内身と外身を観察する上に住し、あるいは身体上の生法を観察して住し、身体上の滅法を観察して住し、あるいは同時に色身上的な生法と滅法を観察して住すのである。
定力が非常に良い時は、内身を観察すると同時に外身も観察でき、内外身を同時に観察すべきである。もし定力が不足すれば、一つも観察できず、しばらく観察すれば心は散乱する。定力が具足する時は、多くの事物を観察でき、多くの道理を思惟でき、観察も明らかであり、思惟も明らかである。内心が清明で散乱せず、昏沈もしなければ、それを定という。それ故に我々の内心が比較的清明な時、この清明な心境で仏法を思惟すれば、智慧を開くことができる。一切の事が明らかに見え、明らかに考えられ、計画が明らか、観察が明らか、実行が明らかであれば、それを智慧という。
身を観ずる時は、我々の色身に何の法が生じたかを観察すべきである。もし地性のものが多ければ、ポリープやできものが生じ、囊腫が生じる可能性がある。元々身体になかったものが、今現れたものを生法という。例えば腫瘍が生じれば、物が一つ増えたことになる。さらに何の法が滅したかを観察する。滅とは、元々あった法が今はないことであり、例えば様々な病症が消失し、身体の一部が欠けたり、身体が痩せたり、地水火風の四大が変化したことである。次に同時に内身の変化を観察し、何の法が生じたか(元々なかったものが今現れた)、何の法が滅したか(元々あったものが今はない)を観察する。このように観察を繰り返せば、身体が絶えず生滅変化していることが分かる。生滅変化するものは真実ではなく、固定して永遠不変のものではない。それならばそれは我ではない。
この観念を持つべきである:我は真実であり、変化せず、変異しない;我は苦ではない;我は恒常である;我は常住で永遠に変わらない;我は真実であり、組み合わさったものではない;我は因縁によって生じた法ではない。これらの観念は確立され、堅固に内心の中に置かれるべきである。さらに観察すれば、一切の法は生滅変化し、因縁によって生じたものであることが分かる。一切の法は確かに真実ではない。これらの理論は皆に教えるが、ただ指導としてであり、自身がどの程度認識できるかは個人の領解、個人の観行の智慧による。一切の理論は、全て自身の体証と認知に頼り、常に観察し体悟すれば、確かに一切法の本質を認識できるようになる。
生滅変異するものは真実法ではなく、真実の我でもない。この観念が一旦形成されれば、再び一切の事物を観察し、これらの事物が生滅するか、無常か、因縁によって組み合わさったものかを観察する。もし注意深く観察すれば、一切の法が確かに生滅し、無我であることが分かる。我でなければ、私が所有するものでもなく、非我・非我所であれば、身見を断ち、おそらく我見を断つであろう。色身は我ではなく、十八界も我ではない。最後に四受陰を観行し、色受陰は我ではなく、受受陰、想受陰、行受陰、識受陰を観察し、これらも我ではない。全体として五陰の我見を断てば、三縛結が続いて断たれ、初果人となる。色身に何の法が生じ、同時に何の法が滅したか、同時に生じ同時に滅する現象を観察できる。定力が強く、心力が十分であって初めて観察できる。
原文:尚又智識の成せる所。及び憶念の成せる所、皆身の思念を現前に有つ。彼は依る所無くして住すべく、且つ世間の如何なる物にも執着せず。諸比丘よ、比丘は是の如く、身に於て身を観じて住す。
釈:全て観察し終えた後、ずっと身を観じていたため、智慧の認知によって形成されたもの、および憶念によって形成されたものは、心念の中が全て色身に関する念いとなる。あなたたちは何の法にも依らずに住し、かつ世間のいかなる物にも執着すべきではない。諸比丘よ、比丘はこのように、色身において色身を観じて住すべきである。
心念の中の色身を空じ、心の中で色身を我として実有のものとして依ってはならない。色身は我ではないと認めれば、心の中で再びこの身体に依ることを考えてはならない。心念に身がなければ、身見を断つ。同時に内心にも他のいかなる物、いかなる法も留めてはならない。心念に身もなく物もなければ、清々明々とした客観的な知がある。この知とは何か?意識と意根の知である。この知の存在は、心が専一で禅定があることを示す。この時は未到地定を修め、さらに初禅定を修めることができる。大乗を修める時は、再びこの知を話頭に換えれば、参禅できる。それ故に大小乗のある修行方法は相通じ、溝のように隔てられて超えられないものではない。大乗の法が通じれば、大乗の方法を用いて再び小乗の法を観察すれば、小乗の法がより明らかになる。大乗の法が分からなければ、小乗の法も完全に徹底的に理解することはできず、常に通じない所がある。
入地の大乗菩薩は、四果の阿羅漢や辟支仏よりも小乗の四聖諦法や中乗の十二因縁法をより理解し、理論は阿羅漢や辟支仏よりもはるかに通達する。二者が観察する角度が異なり、深さも異なる。大乗菩薩はより細かく、より微細に観察し、智慧はより深い。それ故に大乗菩薩の智慧は小乗阿羅漢の智慧をはるかに凌ぐ。菩薩が法を観察する角度、層次は羅漢たちよりも高く深い。観行が完了した後、心念の中が色身の我である時、色身の観念を空じ、色身は非我であると認められれば、心念には色身への依存がなくなり、ただ知だけがある。再びこの知で参禅すれば、明心して証悟できる。