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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 241

第五章 法を観じて住す

第一節 五蓋の法を観じて住す

原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして法において法を観じて住するか。ここに、諸比丘よ、比丘は法すなわち五蓋において、法を観じて住する。また諸比丘よ、比丘は如何にして法すなわち五蓋において法を観じて住するか。

釈:さあ、諸比丘たちよ、比丘は如何にして行法を観じ、心を法に住するのでしょうか。このように、諸比丘たちよ、比丘は五蓋の法を観じ行い、心を五蓋の法を観じ行うことに住せしめなければなりません。では、諸比丘たちよ、比丘は如何にして五蓋の法を観じ行い、心を観じ行う五蓋に住せしめることができるのでしょうか。

五蓋の法は、貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑を含みます。この五蓋は観じ行うことによってのみ、自らに貪欲や瞋恚などの煩悩が現行していることを発見でき、観察して明らかにした後に、ようやく徐々に降伏させることができ、その後で道に入り、道に入って初めて五蓋を滅除できるのです。一切の法の修証における観じ行いは極めて重要であり、四念処観は最も基礎的な観じ行いです。基礎を固めてこそ、より深く観じ行い、より深遠な仏法を実証できるのです。

原文:ここに、諸比丘よ、比丘はあるいは内に貪欲が存在するならば、『我が内に貪欲が存在する』と知る。内に貪欲が存在しないならば、『我が内に貪欲は存在しない』と知る。彼は未だ生じざる貪欲が生起することを知り、既に生じた貪欲が滅尽することを知る。また既に滅尽した貪欲が、未来に再び生起しないことを知る。

釈:このように観じ行うべきです。諸比丘よ、比丘がもし自らの内面に貪欲の現象が存在するならば、自ら内心に貪欲があることを知らなければなりません。自らの内心に貪欲の現象が存在しないならば、内心に貪欲がないことも知らなければなりません。もし自らの内心に未だ現れていなかった貪欲が今、生じたならば、心でそれを知らなければなりません。もし自らに元々生じていた貪欲が今、滅尽したならば、心でそれを知らなければなりません。もし自らが滅尽した貪欲が、未来に再び生じないならば、自らもまたそれを知らなければなりません。

これらの貪欲はどれも自らに深く根ざしたものであり、無始劫以来、環境に染まって絶えず増長してきたものです。もし覚っていない者であれば、これらの現象がすべて貪欲に属し、法にかなわず、生死の業障の根であることを容易には発見できません。自らの貪欲を観じ行うには、まず貪欲の相貌を識別し、何が貪欲であるかを知らなければなりません。次に禅定が必要であり、一定の反観力、すなわち内面に常に警戒心を持ち、自らの起心动念を観察できる力がなければなりません。貪欲にはどのような相貌があるのでしょうか? 例えば、心が好きだと思うこと、貪愛すること、貪恋すること、欲望を持つこと、追求すること、憧れること、得たいと思うこと、念念忘れず、固執して放さないこと、などです。

貪欲の対象は三界の世俗法であり、主に欲界の法、すなわち財産・男女・家庭・名誉・地位・権勢、眼の見る一切の色、耳の聞く一切の声、鼻の嗅ぐ一切の香、舌の嘗める一切の味、身の覚える一切の触です。観じ行う際には心を細やかにし、一切の所縁の境界の中で、自らの心念を点検し、どのような心念であれありのままに知ることが最も重要です。知っても改めたくない、あるいは改められない場合もあるかもしれませんが、それでも知らなければなりません。知るだけで、遅かれ早かれ慚愧心が生じ、貪欲が徐々に減少していくでしょう。

貪欲が滅尽するという現象については、ありのままに観察し了知しなければなりません。根本的な貪欲の滅尽は、我見を断じ初禅定が生じた後に起こります。それ以前は、喫煙・飲酒・賭博・飲食や身に着けるものへの好みなど、細かい面での貪欲の滅尽に過ぎません。最も根本的な貪欲は男女欲であり、これは最も断じ滅尽することが困難です。我見を断じた後の初禅定において初めて断尽でき、その時には男女に接する際、いかなる接触があっても貪欲心が起こらなくなります。

原文:あるいは内に瞋恚が存在するならば、『我が内に瞋恚が存在する』と知る。内に瞋恚が存在しないならば、『我が内に瞋恚は存在しない』と知る。未だ生じざる瞋恚が生起することを知り、また既に生じた瞋恚が滅尽することを知る。また既に滅尽した瞋恚が、未来に再び生起しないことを知る。

釈:比丘が内心の瞋恚の蓋障を観じ行う際、自らの内面に瞋恚の心行があるならば、ありのままに内心に瞋恚があることを了知しなければなりません。人や事に直面した際、内面に瞋恚がないならば、ありのままに自ら内心に瞋恚がないことを了知しなければなりません。人や事に直面した際、元々瞋恚がなかったのに、今、瞋恚が内面に徐々に生じてきたならば、これもありのままに了知しなければなりません。人や事に直面した際、元々現れやすかった瞋恚が今、滅尽して起こらなくなったならば、自らもありのままにそれを了知しなければなりません。もし元々の瞋恚心が滅尽した後、未来に再び生じることがないならば、自らもありのままにそれを了知しなければなりません。

順境では貪愛が生じ、逆境では瞋恚が生じます。己の心に背く状況では、瞋恚心が生じやすいのです。瞋恚の煩悩を降伏させ断除するには、逆縁の状況下で自らを多く観察し、境界の虚妄不実の性質を多く思惟し、己の心を多く呵責すれば、瞋恚の煩悩は徐々に降伏し、ついには滅していくでしょう。しかし、最も根本的な瞋恚の心行は、我見を断じた初禅定の中でなければ断尽できず、それは貪欲を断除した後に起こります。瞋恚は貪欲よりも断じ難いものです。なぜなら、世の人は皆、自らに背かれることを好まず、自分を非常に重要視しているからです。

原文:あるいは内に睡眠(愚鈍)が存在するならば、『我が内に睡眠が存在する』と知る。あるいは内に睡眠が存在しないならば、『我が内に睡眠は存在しない』と知る。そして未だ生じざる睡眠が生起することを知り、また既に生じた睡眠が滅尽することを知る。また既に滅尽した睡眠が、未来に再び生起しないことを知る。

釈:比丘が睡眠の蓋を観じ行う際、自らに睡眠の蓋障があるならば、内心が愚鈍であることをありのままに観察し了知しなければなりません。自らに睡眠の蓋障がないならば、内心が愚鈍でないこともありのままに観察し了知しなければなりません。もし元々重い睡眠がなかったのに、今、睡眠が重くなったならば、心で必ず了知しなければなりません。もし自ら元々睡眠の蓋が重かったのに、今、睡眠の蓋が滅尽したならば、心で了知しなければなりません。もし自らが既に滅尽した睡眠の蓋が、未来に再び現れないならば、心で了知しなければなりません。

睡眠の蓋障はほとんど全ての人にあります。正常人の六時間から八時間の睡眠は、実は一種の遮障であり、その間、心は愚鈍で暗く鈍く、智慧の光明がありません。睡眠時間を短縮すれば、愚鈍で暗く鈍い時間が減り、内心は清明となり、智慧の光明が長く続き、道業は絶えず増進していくでしょう。絶え間ない精進修行によって、内心はますます清明となり、睡眠はますます少なくなっていきます。自らの睡眠の状態を理解すれば、自らの身心の状態を理解でき、自らの修行を掌握し計画することができます。

原文:あるいは内に掉悔が存在するならば、『我が内に掉悔が存在する』と知る。あるいは内に掉悔が存在しないならば、『我が内に掉悔は存在しない』と知る。そして未だ生じざる掉悔が生起することを知り、また既に生じた掉悔が滅尽することを知る。また既に滅尽した掉悔が、未来に再び生起しないことを知る。

釈:比丘が掉悔の蓋を観じ行うとき、内面に掉悔があるならば、ありのままに観察しありのままに知らなければなりません。内面に掉悔の蓋障がないならば、ありのままに観察してありのままに知らなければなりません。もし元々掉悔がなかったのに、今、掉悔が現れたならば、心でありのままに観察しありのままに知らなければなりません。現れた掉悔の蓋障が滅尽したとき、心でありのままに観察しありのままに知らなければなりません。もし既に滅尽した掉悔が、未来に再び生じないならば、心でありのままに観察してありのままに知らなければなりません。

掉とは、掉挙散乱、すなわち心が寂静でなく清浄でないことです。悔とは、心が絶えず過去に起こったことを後悔し追憶することで、このように内心は清浄ではありません。したがって、掉悔の蓋は禅定の生起を妨げ、智慧の開発を阻害します。掉悔の蓋を消除して初めて、禅定を深めることができるのです。

原文:あるいは内に疑惑が存在するならば、『我が内に疑惑が存在する』と知る。内に疑惑が存在しないならば、『我が内に疑惑は存在しない』と知る。そして未だ生じざる疑惑が生起することを知り、既に生じた疑惑が滅尽することを知る。また既に滅尽した疑惑が、未来に再び生起しないことを知る。

釈:比丘が疑惑の蓋障を観じ行うとき、内心に疑惑が存在するならば、ありのままに観察しありのままに自らに疑惑があることを知らなければなりません。内面に疑惑がないときは、ありのままに観察してありのままに知らなければなりません。もし元々疑惑がなかったのに今、生じたならば、ありのままに観察してありのままに知らなければなりません。もし心の疑惑が解消されたならば、ありのままに観察してありのままに知らなければなりません。もし既に滅尽した疑惑が、未来に再び現れないならば、心でありのままに観察してありのままに知らなければなりません。

疑惑には大いなる疑惑と小さな疑惑、一時的な疑惑と永続的な疑惑が含まれます。仏法の修学を通じて、小さな疑惑や一時的な疑惑を一つ一つ絶えず解決し、最後に智慧が一定まで増長したとき、大いなる疑惑と永続的な疑惑を解決できるようになるのです。

原文:かくの如く、あるいは内法において法を観じて住し、また外法において法を観じて住し、また内外の法において法を観じて住す。あるいは法において生法を観じて住し、また法において滅法を観じて住し、また法において生滅の法を観じて住す。なおまた、智識によって成り及び憶念によって成る、すべて法の思念が現前するであろう。彼は依る所なくして住すべし。かつ世間の如何なる物にも執着することなく。諸比丘よ、比丘はかくの如く五蓋の法において法を観じて住す。

釈:観じ行うとは、このように、あるいは内なる五蓋の法を観じ、心を内なる五蓋の法を観じることに住せしめることです。あるいは外なる五蓋の法を観じ、心を外なる五蓋の法を観じることに住せしめることです。あるいは同時に内外の五蓋の法を観じ、心を同時に内外の五蓋の法に住せしめることです。あるいは五蓋の法において、五蓋の法の出生を観じて心を住せしめることです。あるいは五蓋の法の滅尽を観じて心を住せしめることです。あるいは五蓋の法において、同時に出生と滅尽の現象を観じて心を住せしめることです。このように絶え間なく観じ行うことで、禅定と智慧はますます増進し、心には一つの念想が形成されます。絶えず五蓋に関する心念が現れ、心は絶えず五蓋のことを憶想するので、五蓋の法に対する思念が現前します。この時、あなたがたの心は如何なる法にも依らずに住し、五蓋の法を空じ、如何なる法にも住することなく、かつ如何なる物にも執着せずに住すべきです。諸比丘よ、比丘はこのように五蓋の法において法を観じて住すべきです。

仏陀は五蓋を内外に分けられました。外なる五蓋は浅いレベルの五蓋であり、意識が塵境に対して持つ蓋障であり、また後天的に染まってできた蓋障でもあります。内なる五蓋は深いレベルの五蓋であり、意根が無始劫以来形成してきた習気であり、根本的な蓋障であり、意識の蓋障に影響を与え決定づけています。したがって、真に五蓋を降伏させ断除しようとするならば、深いレベルにある意根に着眼しなければなりません。意根において五蓋を断除して初めて、永久に断除し、再び燃え上がることがないのです。

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