四念処経講話 第二版(新修)
原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして法において法を観じて住するや。ここに。諸比丘よ。比丘は法すなわち五蓋において、法を観じて住す。また諸比丘よ。比丘は如何にして法すなわち五蓋において法を観じて住するや。
釈:さて、諸比丘たちよ、比丘はいかにして行法を観じ、心を法に住するのでしょうか。このように、諸比丘たちよ、比丘は五蓋の法を観行し、心を五蓋の法を観行することに住するのです。では、諸比丘たちよ、比丘はいかにして五蓋の法を観行し、心を五蓋を観行することに住することができるのでしょうか。
五蓋の法は、貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑を含みます。この五蓋は観行によってのみ、自らに貪欲や瞋恚などの煩悩が現行していることを発見し観察することができ、観察した後に初めて徐々に降伏させることができ、その後で道に入ることができ、道に入ってから初めて五蓋を滅除することができるのです。一切の法の修証観行は非常に重要であり、四念処観は最も基礎的な観行です。基礎を固めてこそ、より深く観行し、より深遠な仏法を実証することができます。
原文:ここに。諸比丘よ。比丘は或いは内に貪欲の存在する者として、我れ内に貪欲の存在するを知る。内に貪欲の存在せざる者として、我れ内に貪欲の存在せざるを知る。彼は未だ生ぜざる貪欲の生起するを知り、已に生じたる貪欲の滅尽するを知る。また已に滅尽したる貪欲が、未来に再び生起せざるを知る。
釈:このように観行すべきです。諸比丘よ、比丘がもし自らの内面に貪欲の現象が存在するならば、自らの内心に貪欲があることを知るべきです。もし自らの内心に貪欲の現象が存在しないならば、自らの内心に貪欲がないことも知るべきです。もし自らの内心にまだ現れていなかった貪欲が今、生起したならば、心で知らなければなりません。もし自らに元々生じていた貪欲が今、滅尽したならば、心で知らなければなりません。もし自らが滅尽した貪欲が、未来に再び生起しないならば、自らも知らなければなりません。
これらの貪欲はすべて自らに根深く固着したもので、無始劫以来、環境の影響によって絶えず増長し続けてきたものです。もし覚っていない者であれば、これらの現象がすべて貪欲に属し、法にかなわず、生死の業障の根であることを容易には発見できません。自らの貪欲を観行するには、まず貪欲の相貌を識別し、何が貪欲であるかを知らなければなりません。次に禅定が必要であり、一定の内省力が求められます。内心には常に警戒心を持ち、自らの起心动念を観察できなければなりません。貪欲にはどのような相貌があるのでしょうか。例えば、心が好きだ、貪愛する、貪恋する、欲望がある、追求がある、憧れがある、得たいと思う、念念不忘、執着して放さないなどです。
貪欲の対象は三界の世俗法であり、主として欲界の法です。例えば、財産・男女・家庭・名誉・地位・権勢、眼に見える一切の色、耳に聞こえる一切の声、鼻に嗅ぐ一切の香、舌に味わう一切の味、身に感じる一切の触などです。観行する際には心を細やかにし、一切の所縁境界において自らの心念を点検し、どんな心念であれ如実に知ることが最も重要です。知っても改めたくない、あるいは改められない可能性はありますが、それでも知らなければなりません。知るだけで、いずれ慚愧心が生じて貪欲が徐々に減少していくでしょう。
貪欲が滅尽するという現象については、如実に観察し了知しなければなりません。根本的な貪欲の滅尽は、我見を断じて初禅定が生じた後に起こります。それ以前は、喫煙・飲酒・賭博・飲食や衣服を好むなど、特定の小さな面での貪欲の滅尽に過ぎません。最も根本的な貪欲は男女欲であり、これは最も断除滅尽が困難です。必ず我見を断じた後の初禅定において初めて断尽することができ、その時には男女に直面しても、どのように接触しても貪欲心が起きることはありません。
原文:或いは内に瞋恚の存在する者として、我れ内に瞋恚の存在するを知る。内に瞋恚の存在せざる者として、我れ内に瞋恚の存在せざるを知る。未だ生ぜざる瞋恚の生起するを知り、また已に生じたる瞋恚の滅尽するを知る。また已に滅尽したる瞋恚が、未来に再び生起せざるを知る。
釈:比丘が内心の瞋恚蓋障を観行する際、もし自らの内面に瞋恚の心行があるならば、如実に内心に瞋恚があることを了知しなければなりません。もし人や事に直面した際に内心に瞋恚がないならば、如実に自らの内心に瞋恚がないことを了知しなければなりません。もし人や事に直面した際に、本来瞋恚がなかったのに、今、瞋恚が内心に徐々に生じてきたならば、これも如実に了知しなければなりません。もし人や事に直面した際に、元々現れやすかった瞋恚が今、滅尽して起きなくなったならば、自らも如実に了知しなければなりません。もし元々の瞋恚心が滅尽した後、未来に再び生じることがないならば、自らも如実に了知しなければなりません。
順境では貪愛が生じ、逆境では瞋恚が生じます。己の心に背く状況では瞋恚心が生じやすくなります。瞋恚煩悩を降伏させ断除しようとするならば、逆縁の状況下で自らを多く観察し、境界の虚妄不実性を多く思惟し、己の心を多く呵責しなければなりません。そうすれば瞋恚煩悩は徐々に降伏され、最後には滅していくでしょう。しかし最も根本的な瞋恚の心行は、必ず我見を断じた初禅定において初めて断尽され、それは貪欲を断除した後になります。瞋恚は貪欲よりも断じ難いものです。なぜなら世の人は皆、己に背くことを好まず、自らを非常に重要視しているからです。
原文:或いは内に睡眠(愚鈍)の存在する者として、我れ内に睡眠の存在するを知る。或いは内に睡眠の存在せざる者として、我れ内に睡眠の存在せざるを知る。そして未だ生ぜざる睡眠の生起するを知り、また已に生じたる睡眠の滅尽するを知る。また已に滅尽したる睡眠が、未来に再び生起せざるを知る。
釈:比丘が睡眠蓋を観行する際、もし自らに睡眠蓋障があり、内心が愚鈍であるならば、如実に観察して自らが睡眠が重く内心が愚鈍であることを了知しなければなりません。もし自らに睡眠蓋障がなく、内心が愚鈍でないならば、如実に観察して自らが睡眠が重くなく内心が愚鈍でないことも了知しなければなりません。もし元々重い睡眠がなかったのに、今、睡眠が重くなったならば、心で必ず了知しなければなりません。もし自らが元々睡眠蓋が重かったのに、今、睡眠蓋が滅尽したならば、心でも了知しなければなりません。もし自らが既に滅尽した睡眠蓋が、未来に再び現れないならば、心でも了知しなければなりません。
睡眠蓋障はほとんど全ての人にあります。正常人の六時間から八時間の睡眠は、実は一種の遮障であり、この期間は心が愚鈍で暗く、智慧の光明がありません。もし睡眠時間を短縮すれば、愚鈍で暗い時間が減少し、内心が清明となり、智慧の光明が延長され、道業は絶えず増進していくでしょう。絶え間ない精進修行によって、内心がますます清明になれば、睡眠はますます少なくなっていきます。自らの睡眠状況を理解すれば、自らの身心の状態を理解でき、自らの修行を掌握し手配することができるのです。
原文:或いは内に掉悔の存在する者として、我れ内に掉悔の存在するを知る。或いは内に掉悔の存在せざる者として、我れ内に掉悔の存在せざるを知る。そして未だ生ぜざる掉悔の生起するを知り、また已に生じたる掉悔の滅尽するを知る。また已に滅尽したる掉悔が、未来に再び生起せざるを知る。
釈:比丘が掉悔蓋を観行する際、もし内心に掉悔があるならば、如実に観察し如実に知らなければなりません。もし内心に掉悔蓋障がないならば、如実に観察して如実に知らなければなりません。もし元々掉悔がなかったのに今、掉悔が現れたならば、心で如実に観察し如実に知らなければなりません。現れた掉悔蓋障が滅尽した時には、心で如実に観察し如実に知らなければなりません。もし既に滅尽した掉悔が、未来に再び生起しないならば、心でも如実に観察して如実に知らなければなりません。
掉とは、掉挙散乱であり、心が寂静でなく清浄でないことです。悔とは、心が絶えず過去に既に起こったことを悔やみ追憶することで、このように内心は清浄ではありません。したがって掉悔蓋は禅定の生起を妨げ、智慧の開発を阻害します。掉悔蓋を消除して初めて、禅定を深めることができるのです。
原文:或いは内に疑惑の存在する者として、我れ内に疑惑の存在するを知る。内に疑惑の存在せざる者として、我れ内に疑惑の存在せざるを知る。そして未だ生ぜざる疑惑の生起するを知り、已に生じたる疑惑の滅尽するを知る。また已に滅尽したる疑惑が、未来に再び生起せざるを知る。
釈:比丘が疑惑蓋障を観行する際、もし内心に疑惑が存在する時は、如実に観察し如実に自らに疑惑があることを知らなければなりません。もし内心に疑惑がない時は、如実に観察して如実に知らなければなりません。もし元々疑惑がなかったのに今、生じたならば、如実に観察して如実に知らなければなりません。もし心の疑惑が消除されたならば、如実に観察して如実に知らなければなりません。もし既に滅尽した疑惑が、未来に再び現れないならば、心でも如実に観察して如実に知らなければなりません。
疑惑には大疑惑と小疑惑が含まれ、一時的な疑惑と永久の疑惑があります。仏法の修学を通じて、一つ一つの小疑惑や一時的な疑惑を絶えず解決していき、最後に智慧が一定まで増長した時、大疑惑や永久の疑惑を解決することができるのです。
原文:かくの如く。或いは内法において法を観じて住し、また外法において法を観じて住し、また内外の法において、法を観じて住す。或いは法において生法を観じて住し、また法において滅法を観じて住し、また法において生滅法を観じて住す。なおまた智識の成じたる及び憶念の成じたる、皆法の思念現前する有らん。彼は依る所なくして住すべし。かつ世間の何ものにも執着することなく。諸比丘よ。比丘はかくの如く五蓋の法において法を観じて住す。
釈:観行はこのようにすべきです。あるいは内なる五蓋法を観じ、心を内なる五蓋法を観じることに住する。あるいは外なる五蓋法を観じ、心を外なる五蓋法を観じることに住する。あるいは同時に内外の五蓋法を観じ、心を同時に内外の五蓋法に住する。あるいは五蓋法において、五蓋法の出生を観じて心を住する。あるいは五蓋法の滅尽を観じて心を住する。あるいは五蓋法において、同時に出生と滅尽の現象を観じて心を住する。このように絶え間なく観行すれば、禅定と智慧がますます増進し、心の中にある種の念想が形成され、絶えず五蓋に関する心念が現れ、心が絶えず五蓋のことを憶想すれば、五蓋法の思念が現前します。この時、あなたがたの心は如何なる法にも依らずに住し、五蓋法を空じ、如何なる法にも住せず、かつ如何なる物にも執着せずに住すべきです。諸比丘よ、比丘はこのように五蓋の法において法を観じて住すべきです。
仏は五蓋を内外にも分けられました。外五蓋は浅いレベルの五蓋であり、意識が塵境に対して持つ蓋障であり、後天的に染まった蓋障でもあります。内五蓋は深いレベルの五蓋であり、意根が無始劫以来形成してきた習気であり、根本的な蓋障であり、意識の蓋障に影響を与え決定づけています。したがって真に五蓋を降伏させ断除しようとするならば、深いレベルである意根に着眼しなければなりません。意根において五蓋を断除して初めて、永久に断除され、再び燃え上がることはないのです。