四念処経講話 第二版(新修)
第五章 法を観じて住す
第一節 五蓋の法を観じて住す
原文:しかして、諸比丘よ。比丘は如何にして法において法を観じて住するか。ここに、諸比丘よ。比丘は法すなわち五蓋において、法を観じて住する。また諸比丘よ。比丘は如何にして法すなわち五蓋において法を観じて住するか。
釈:さて、諸比丘たちよ、比丘は如何にして行法を観じ、心を法に住するのでしょうか。このように、諸比丘たちよ、比丘は五蓋の法を観じて、心を五蓋の法を観ずることに住せしめねばなりません。では、諸比丘たちよ、比丘は如何にして五蓋の法を観じて心を観ずることに住することができるのでしょうか。
五蓋の法とは、貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑を含みます。この五蓋は観行によってのみ、自らに貪欲や瞋恚などの煩悩が現行していることを発見でき、観察した後に初めて徐々に降伏させ、その後に入道し、入道して後に五蓋を滅除できるのです。一切の法の修証における観行は極めて重要であり、四念処観は最も基礎的な観行です。基礎を固めてこそ、より深く観行し、より深遠な仏法を実証できるのです。
原文:ここに、諸比丘よ。比丘はあるいは内に貪欲が存在する者として、我れに内に貪欲が存在することを知る。内に貪欲が存在しない者として、我れに内に貪欲が存在しないことを知る。彼は未だ生ぜざる貪欲の生起を知り、既に生じた貪欲の滅尽を知る。また既に滅尽した貪欲が、未来に再び生起しないことを知る。
釈:このように観行すべきです、諸比丘よ。比丘がもし自らの内に貪欲の現象が存在すれば、自ら内心に貪欲があることを知らねばなりません。もし自らの内心に貪欲の現象が存在しなければ、自ら内心に貪欲がないことも知らねばなりません。もし自らの内心に未だ現れていなかった貪欲が今、生じたならば、心でそれを知らねばなりません。もし自らに元々生じていた貪欲が今、滅尽したならば、心でそれを知らねばなりません。もし自らが滅尽した貪欲が、未来に再び生じないならば、自らもまたそれを知らねばなりません。
これらの貪欲は全て自らに根深く、無始劫以来、環境の薫染によって絶えず増長してきたものです。もし覚った者でなければ、これらの現象が全て貪欲に属し、法にかなわず、生死の業障の根であることを容易には発見できません。自らの貪欲を観行するには、まず貪欲の相(すがた)を識別し、何が貪欲であるかを知らねばなりません。次に禅定を有し、一定の反観力(内省力)を持ち、内心に常に警戒心を持ち、自らの起心動念を観察できねばなりません。貪欲にはどのような相があるでしょうか? 例えば、心が好きだ、貪愛する、貪恋する、欲望がある、追求がある、憧れがある、得たいと思う、念念不忘(絶えず思い続ける)、緊抓不放(しがみついて離さない)などです。
貪欲の対象は三界の世俗法であり、主として欲界の法、すなわち財産・男女・家庭・名誉・地位・権勢、眼の見る一切の色、耳の聞く一切の声、鼻の嗅ぐ一切の香、舌の嘗める一切の味、身の覚える一切の触です。観行する時、心は細かく、一切の縁となる境界の中で、自らの心念を点検し、如何なる心念であれ、ありのままに知ることが最も重要です。知っても改めたくない、あるいは改められない可能性はありますが、それでも知らねばなりません。知るだけで、遅かれ早かれ慚愧心が生じ、貪欲が徐々に減少していくのです。
貪欲が滅尽するという現象については、ありのままに観察し了知せねばなりません。根本的な貪欲の滅尽は、我見を断ち初禅定が生起した後に起こります。それ以前は、喫煙・飲酒・賭博・飲食や衣服を好むなど、特定の些細な面における貪欲の滅尽に過ぎません。最も根本的な貪欲は男女欲であり、これは最も断除・滅尽が困難です。我見を断った後の初禅定において初めて断尽でき、その時は男女に直面しても、如何に接触しても貪欲心を起こさないのです。
原文:あるいは内に瞋恚が存在する者として、我れに内に瞋恚が存在することを知る。内に瞋恚が存在しない者として、我れに内に瞋恚が存在しないことを知る。未だ生ぜざる瞋恚の生起を知り、また既に生じた瞋恚の滅尽を知る。また既に滅尽した瞋恚が、未来に再び生起しないことを知る。
釈:比丘が内心の瞋恚の蓋障を観行する時、自らの内に瞋恚の心行があれば、ありのままに内心に瞋恚があることを了知せねばなりません。人や事に直面して内心に瞋恚がなければ、ありのままに自ら内心に瞋恚がないことを了知せねばなりません。人や事に直面して、本来瞋恚がなかったのに、今、瞋恚が内心に徐々に生じてきたならば、これもありのままに了知せねばなりません。人や事に直面して、元々現れやすかった瞋恚が今、滅尽して起こらなくなったならば、自らもありのままに了知せねばなりません。もし元々の瞋恚心が滅尽した後、未来に再び生じないならば、自らもありのままに了知せねばなりません。
順境では貪愛が生じ、逆境では瞋恚が生じます。己の心に逆らう状況では瞋恚心が生じやすいのです。瞋恚の煩悩を降伏させ断除するには、逆縁の状況下で自らを多く観察し、境界の虚妄不実の性質を多く思惟し、己の心を多く呵責(叱責)すれば、瞋恚の煩悩は徐々に降伏し、最後には滅していきます。しかし最も根本的な瞋恚の心行は、我見を断った初禅定において断尽されなければならず、それは貪欲を断除した後に起こります。瞋恚は貪欲よりも断じ難く、それは世人が皆、己に逆らうことを好まず、自らを非常に重要視するからです。
原文:あるいは内に睡眠(愚鈍)が存在する者として、我れに内に睡眠が存在することを知る。あるいは内に睡眠が存在しない者として、我れに内に睡眠が存在しないことを知る。そして未だ生ぜざる睡眠の生起を知り、また既に生じた睡眠の滅尽を知る。また既に滅尽した睡眠が、未来に再び生起しないことを知る。
釈:比丘が睡眠蓋を観行する時、自らに睡眠蓋障があり、内心が愚鈍であれば、ありのままに観察し了知して自ら睡眠が重厚で内心が愚鈍であることを知らねばなりません。もし自らに睡眠蓋障がなく、内心が愚鈍でなければ、ありのままに観察し了知して自ら睡眠が重厚でなく内心が愚鈍でないことを知らねばなりません。もし元々重厚な睡眠がなかったのに、今、睡眠が重厚になったならば、心で必ず了知せねばなりません。もし自ら元々睡眠蓋が重かったのに、今、睡眠蓋が滅尽したならば、心で了知せねばなりません。もし自らが既に滅尽した睡眠蓋が、未来に再び現れないならば、心で了知せねばなりません。
睡眠蓋障はほとんど全ての人にあります。正常人の六~八時間の睡眠は、実は一種の遮障であり、この期間、心は愚鈍で暗鈍(鈍くぼんやり)であり、智慧の光明がありません。睡眠時間を短縮すれば、愚鈍暗鈍の時間が減り、内心が清明となり、智慧の光明が延長され、道業は絶えず増進していきます。不断に精進修行することにより、内心はますます清明となり、睡眠はますます少なくなります。自らの睡眠状況を理解すれば、自らの身心の状態を理解でき、自らの修行を掌握し、計画することができます。
原文:あるいは内に掉悔が存在する者として、我れに内に掉悔が存在することを知る。あるいは内に掉悔が存在しない者として、我れに内に掉悔が存在しないことを知る。そして未だ生ぜざる掉悔の生起を知り、また既に生じた掉悔の滅尽を知る。また既に滅尽した掉悔が、未来に再び生起しないことを知る。
釈:比丘が掉悔蓋を観行する時、内心に掉悔があれば、ありのままに観察しありのままに知らねばなりません。もし内心に掉悔蓋障がなければ、ありのままに観察しありのままに知らねばなりません。もし元々掉悔がなかったのに今、掉悔が現れたならば、心でありのままに観察しありのままに知らねばなりません。現れた掉悔蓋障が滅尽した時、心でありのままに観察しありのままに知らねばなりません。もし既に滅尽した掉悔が、未来に再び生じないならば、心でありのままに観察しありのままに知らねばなりません。
掉(じょう)とは、掉挙散乱(心が高ぶり散乱)し、心が寂静でなく清浄でないことです。悔(け)とは、心が絶えず過去に起こったことを追悔追憶し、こうして内心は清浄ではありません。よって掉悔蓋は禅定の生起を妨げ、智慧の開発を阻害します。掉悔蓋を消除して初めて、禅定を深めることができるのです。
原文:あるいは内に疑惑が存在する者として、我れに内に疑惑が存在することを知る。内に疑惑が存在しない者として、我れに内に疑惑が存在しないことを知る。そして未だ生ぜざる疑惑の生起を知り、既に生じた疑惑の滅尽を知る。また既に滅尽した疑惑が、未来に再び生起しないことを知る。
釈:比丘が疑惑蓋障を観行する時、内心に疑惑が存在すれば、ありのままに観察しありのままに自らに疑惑があることを知らねばなりません。もし内心に疑惑がなければ、ありのままに観察しありのままに知らねばなりません。もし元々疑惑がなかったのに今、生じたならば、ありのままに観察しありのままに知らねばなりません。もし心の疑惑が消えたならば、ありのままに観察しありのままに知らねばなりません。もし既に滅尽した疑惑が、未来に再び現れないならば、心でありのままに観察しありのままに知らねばなりません。
疑惑には大疑惑と小疑惑、一時的な疑惑と永久の疑惑が含まれます。仏法の修学を通じて、一つ一つの小疑惑や一時的な疑惑を不断に解決し、最後に智慧が一定まで増長した時、大疑惑と永久の疑惑を解決できるのです。
原文:このように、あるいは内の法において法を観じて住し、また外の法において法を観じて住し、また内外の法において、法を観じて住す。あるいは法において生法を観じて住し、また法において滅法を観じて住し、また法において生滅の法を観じて住す。なおまた智識によって成り及び憶念によって成る、皆な法の思念が現前するであろう。彼は依る所なくして住すべし。かつ世間の如何なる物にも執着せず。諸比丘よ。比丘はかくの如く五蓋の法において法を観じて住す。
釈:観行はこのようにすべきです。あるいは内なる五蓋の法を観じ、心を内なる五蓋の法を観ずることに住せしめる。あるいは外なる五蓋の法を観じ、心を外なる五蓋の法を観ずることに住せしめる。あるいは同時に内外の五蓋の法を観じ、心を同時に内外の五蓋の法に住せしめる。あるいは五蓋の法において、五蓋の法の出生を観じて心を住せしめる。あるいは五蓋の法の滅尽を観じて心を住せしめる。あるいは五蓋の法において、同時に出生と滅尽の現象を観じて心を住せしめる。このように不断に観行すれば、禅定と智慧はますます増進し、心は一種の念想(観念・想念)を形成し、絶えず五蓋に関する心念が現れ、心は不断に五蓋のことを憶想(思い続け)し、五蓋の法の思念が現前します。この時、あなたがたの心は如何なる法にも依らずに住し、五蓋の法を空じ、如何なる法にも住せず、かつ如何なる物にも執着せずに住すべきです。諸比丘よ、比丘はこのように五蓋の法において法を観じて住すべきです。
仏は五蓋を内外にも分けられました。外五蓋は浅い次元の五蓋であり、意識が塵境(対象)に対して持つ蓋障であり、また後天的に薫染された蓋障でもあります。内五蓋は深い次元の五蓋であり、意根が無始劫以来形成してきた習気であり、根本的な蓋障であり、意識の蓋障に影響を与え決定づけています。ですから真に五蓋を降伏・断除しようとするなら、深い次元である意根に着眼せねばなりません。意根で五蓋を断除して初めて、永久に断除し、再び死灰復然(再燃)することがなくなるのです。