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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 1887
<h2 style="text-indent: 2em;">第二章 身念処を観ずる</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第二節 色身の行住坐臥を観ずる</h3>

原文:復次に、諸比丘よ、比丘は歩行するにあっては、『我は歩行している』と知り、また住するにあっては、『我は住している』と知り、坐するにあっては、『我は坐している』と知り、臥するにあっては、『我は臥している』と知る。また、この身が如何なる状態に置かれても、その状態の如くにこれを知る。

釈:復次に、諸比丘よ、比丘がもし歩行しているならば、心中で『私は歩行している』と知らなければならない。もし住して動かずにいるならば、心中で『私は住している』と知るべきである。もし坐しているならば、心中で『私は坐している』と知るべきである。もし臥しているならば、心中で『私は臥している』と知るべきである。もし身体がその他の如何なる状態にあっても、心中で私は如何なる状態にあるかを知らなければならない。

呼吸を観ずる修習は、功夫が純熟に達し、心念が既に常に集中でき、散乱昏沈しなくなった後に、活動中の定慧を修習訓練し始める。この難度はより大きくなる。行を観ずるにはより強い定と慧が必要であり、心念の観照力がより強く、より全面的に照顧することを必要とする。

歩行運動の中で行を観ずるには、心中で常に『私は歩行運動している』と知らなければならない。「行」とは動転し、寂止しないことであり、身体の歩行、運転、活動を指し、身体が静止していない状態を意味する。自身の身体が歩いているにせよ、他のことをしているにせよ、心念は全て反観され、覚知されなければならず、自身に心念が散乱し攀縁する余地を残してはならない。例えば、家から外へ歩く、一つの部屋から別の部屋へ歩く、あるいは大通りへ出る、通勤の道を歩く、あるいは何らかの仕事や雑事をしている、あるいは人と会話している、これらの活動を自身の心中で明らかに知らなければならない:『私は行している、私は現在何をしているのか』と。このように心念は現在行っていることに繋がれ、心念は専一となり、心は定まり、了別の智慧は増進し、問題を明らかに見、思惟は細密となる。

身体活動の中の定慧の修習訓練が良くなった後は、次に身体が止住する時の定慧を修習する。「住」とは停留、停止の意味であり、身体が立ち、寄りかかって動かず、静止状態にあることである。この時も心中で全て知らなければならず、心は散乱して妄想を起こしてはならず、心念を全て現在自身の色身に繋ぎ、他物・他事に縁ってはならない。身体が何もしていない時も、心念は専一でなければならず、自身に乱れた思考の機会を与えてはならない。

坐する時は『私は坐している』と知らなければならず、自身が結跏趺坐しているのか、散乱して坐っているのか、心中でも知らなければならず、心念は只だ色身の現在の状態に縁り、他のことを妄想してはならない。身体が臥している時も『私は臥している』と知らなければならず、自身が右脇臥しているのか、左脇臥しているのか、あるいは他の姿勢で臥しているのか、心中で明らかに了知しなければならない。これらの状態を心中で明らかに知らなければならない。もし知らなければ、心中で昏沈しているか、あるいは心念が専一でなく、妄想を起こしていることを示す。心思散乱の者は常に三つ尋ねられれば三つとも知らず、昏昏沈沈の者に何事を尋ねても、これまた三つ尋ねられれば三つとも知らない。定が無ければ慧が無い故である。

此の身が如何なる状態に置かれても、その状態の如くにこれを知る。身体が如何なる状態にあろうと、行住坐臥であれ、語笑動黙であれ、疼痛疲乏、舒适軽安であれ、心中で知らなければならない。内心は非常に清明でなければならず、散乱もせず昏沈もせず、明々了々である。身体の如何なる状態に対しても明らかでなければならない。例えば、身体が揺れ動いているのか、静止しているのか、足が動いているのか、結跏しているのか、腰が曲がっているのか、真っ直ぐに伸びているのか、これらの状態を全て知らなければならない。

原文:かくの如く、或いは内身において、身を観じて住し、外身において、身を観じて住し、また内外身において、身を観じて住す。

釈:このような練習の後、心は或いは内身の状態を観じて住し、或いは外身の状態を観じて住し、或いは同時に内外身を観じて住し、動かず散乱しない。

以上を達成した後は、内身を観じ、色身全体の状況を自身が明らかにし、全ての心念もこれに住しなければならない。内身は五臓六腑、筋肉、骨格から外見の皮膚、五官、頭から足まで心中で知らなければならない。次にまた外身において身を観じて住する。「外身」とは色身以外の色声香味触法であり、例えば眼に見える色塵、耳に聞こえる音声、周囲に現れる匂い、口腔内の味塵、外界と色身が触れる時の触塵、五塵と共にある法塵など、これらの法を内心で知らなければならない。また内外身において身を観じて住するには、内身と外身の状況を心中で同時に知らなければならない。もし定力が無ければ、慧力は足りず、只だ一様二様の事柄だけを知り、他は明らかでない。

この内身、外身を明らかに知る程度に訓練が達した時、一心は多用できる。例えば、一つの事を行っている最中に、同時に眼は六方を観、耳は八方を聞くことができ、全て上手くでき、定力は相当に良く、精力は相当に旺盛である。もし定力が無ければ、一つの事さえも上手くできないかもしれない。我々がもし禅定を良く修めれば、生生世世に利益がある。例えば、ある人は非常に聡明で、顔色を察するのが上手く、多くの事を一見して実質を知り、他人の心理状態も掌握できる。これは定力の現れである。彼は一つの事を行いながら、他の事も同時に照顧でき、四方八方に通じ、精力が十分である。

もしある人が興趣が広範ならば、精力旺盛の可能性もあるが、心思散乱の可能性もある。彼の行う事の結果を見る必要がある。もし同時に幾つもの事が上手くできれば、彼に定力があり、慧力も強いことを示す。例を挙げれば、学校に通っている時、ある学生は授業で先生の講義を聞きながら、同時にこっそり課外書を読み、隣の同級生の小動作も知り、教室の外の状況も明らかで、先生の質問にも答えられ、何事も上手くでき、効率も高い。彼は半分も満たない精力で学習を良くできる。これはこの学生に定力と慧力があることを示す。ある学生は耳を立てて先生の講義を聞き、注意力が集中しているように見えるが、先生が何を話しているか分からず、先生の話す内容も理解できない。彼は講義を聞きながら、心中に他の事を抱えており、自身も必ずしも知らない。このように彼の講義を聞くことには多くの障害があり、昏沈と散乱の両方がある。宿題を何時間もやり、完成も良くない。彼は別に何もしていない。これはこの学生に定力も慧力も無いことを示す。

或る人は言うであろう:この子は生まれつき学習が良くないと。実は前世で定力と慧力を訓練しておらず、学ぶ内容に興味が無いため、今世の学習はこのような様子なのである。もしある人に定力が無く、精力が集中せず、慧力が無ければ、事柄を上手く処理できない。故に定があってこそ慧があるのである。もしある人が現在心中が非常に散乱し、怒っているか、焦っているならば、この時、問題を考慮するのは明らかに考慮しにくい。もし精力が非常に集中していれば、事柄は容易に思考し明らかになり、速やかに如何に処理すべきか分かり、慧力が現れる。

原文:或いは身において生法を観じて住し、身において滅法を観じて住し、また身において生滅法を観じて住す。

釈:心は或いは身体の中で生じた法を観じて住し、或いは身体で滅していく法を観じて住し、或いは身体で同時に現れる生法と滅法を観じて住す。

身において生法を観じて住するとは、我々が行住坐臥の中で、身体に新しい状態が現れた時、あるいは身体が軽安を感じた時、あるいは身体が疲乏を感じた時、あるいは内臓器官が変化した時、あるいは皮膚が変化した時、元々無かったものが今現れたことを、全て自身が知らなければならない。身において滅法を観じて住するとは、元々身体上の現象が、今消失して無くなったことを、全て観察しなければならない。例えば身体の某部分に痛覚があったり、病患や不快感があったりしたが、今消失したことを、自身が知らなければならない。また身において生滅法を観じて住するとは、身体上の如何なる現象が生じ、如何なる現象が滅したかを、全て観察し、心中で同時に了知し明らかにしなければならない。この心思は非常に細密である。

原文:尚又、智識の成ずる所及び憶念の成ずる所は、皆な身の思念を現前せしむ。彼は依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執着せずして住すべし。諸比丘よ、比丘はかくの如く、身において身を観じて住す。

釈:以上、色身を観ずることを通じて、智慧の認知によって成就されたもの、及び心中の憶念によって成就されたものは、色身の念頭を常に現前せしめ、自身の全ての思想を満たす。この時、あなたがたは色身に如何なる依止も無く住し、かつ世間の如何なる事物にも執着せずに住すべきである。諸比丘よ、比丘はこのように色身において色身を観じて住すべきである。

このように修行観察した後、自身の現在の心中は全て身体に関わるものであり、心心念念は色身である。すると色身に関する観念は固く形成される。この観念は智慧があり、色身の真実の相貌を知っている。それならば色身に依倚せずに住し、依る所無く住し、有身の心念を泯滅・消除し、色身を真実の我と認めず、内心は空静となり、自我を空却する。こうすれば深い定に入り、心は身を執らず我を執らず、身見を離断するのは遠くない。

今即ち色身は空であると認め、色身は我ではないが、心中では世間の他の如何なる物にも執着せず、このように内心空々として安住し、心に依る所無く、如何なる相も著してはならない。身体観念を排出した後、心中では如何なる他の事物も著してはならない。もしこの時、心中で金銀珠玉を貪り恋慕していれば、それは修得が良くなく、心中に物があり、空浄でない。修習が後期に至れば、心中では全ての法を空却し、色身は我ではなく、世間の如何なる物も我ではなく、我の所有するものではなく、一切の法は全て淡化・空却しなければならない。こうすれば入定は深まり、執着貪欲は減少、あるいは消失し、内心は色身を貪らず、如何なる物も貪らない。

以上が身において身を観じて住すことであり、修習者は心中でこの身体を再び認めず、身体が我であると考えるべきではない。身体には様々な生滅変化があるため、それは我ではない。この智慧認知は現れるべきである。一旦身体が我ではないという観念が生じれば、容易に身を忘れる。身を忘れれば定を得、身見を断ち、更に我見を断つことができる。修習者はこのように用功すべきである。もし内心に多くの妄想があれば、この道理は思惟し尽くせず、明らかでない。故に智慧を得ようとすれば、必ず定が先にあり、禅定を良く修めれば、定があれば智慧の出現を引き起こし、色身に対して客観的な認識を持つことができる。

原文:復次に、諸比丘よ、比丘は行き往き、帰り来たるに拘らず、また正智によって為す。彼は前を観、後ろを顧みるも、また正智によって為す。彼は屈み、伸ぶるも、また正智によって為す。

釈:世尊は諸比丘に告げ戒めた:あなたがた比丘は、他方へ行くにせよ、外から帰るにせよ、内心に正智正念を持ち、自身が現在何をしているかを知らなければならず、心は散乱・失念せず、昏沈・掉挙せず、正智によって一切を行う。あなたがたが前方を見ようと後方を瞻視しようと、心中で明らかに自身が何をしているかを知らなければならず、昏沈もせず散乱もせず、正智正念を具足し、正智によって為す。あなたがたが腰を曲げようと身体を伸ばそうと、身体が如何なる姿勢であろうと、心中で清明に了知し、明らかに自身が何をしているかを知らなければならず、昏沈・掉挙せず、正智正念を具足し、一切は正智によって為す。

修習者は一日の中で何事を行おうとも、正知正念を持たねばならず、心は昏沈せず、散乱もせず、目前の為す一切を清明に了知し、定と慧を持たねばならない。例えば我々が用事で出かけ、終えてまた帰る、この全過程も正智によって為され、内心は明らかで、散乱もせず昏沈もせず、何事を行うにも一清二楚で、心念は清明、了々霊知である。眼前を見るにせよ身体の後ろを見るにせよ、何を見るにせよ、前を顧み後ろを見る、左右を瞻視する、心念は全て明らかでなければならない。

原文:彼は僧伽梨衣(袈裟)と鉢を着するも、また正智によって為す。彼は食飲し咀嚼し味わうも、また正智によって為す。彼は大小便も、また正智によって為す。彼は行住坐臥し、目覚め、語り、黙するも、また正智によって為す。

釈:仏は言われた、比丘たちよ、あなたがたが袈裟を着け、手に鉢を托する時も、正心正意で、明らかに自身が托鉢乞食していることを了知し、心は散乱掉挙せず、これらの事は正智正念によって為される。托鉢乞食から帰った後、食事、水を飲む、咀嚼、味わうなどの日常の細事の中でも正知正念で、清清明明に完成し、心は掉挙してはならない。便所で大小便する時でさえ正智正念で、自身が現在何をしているかを了知し、心は散乱してはならない。比丘たちは歩く、立つ、坐る、臥す、目覚める、話す、黙する時、全て自身が何をしているか、現在の状態が何かを明らかに知らなければならず、正智正念で、散乱・昏沈してはならない。

出家者が托鉢乞食に出る時は、三衣を着け、鉢を持って乞食に出る。比丘が衣を着け鉢を托する時も、正智によって為され、ぼんやり昏沈しているのではなく、定と慧があり、内心は清明で、正知正念によって為される。では、門を出て用事をし、人と交わる時も正知正念で、清清明明に一つ一つの事を良く行い、心は糊塗してはならない。つまり、眠った後は心中で了知できなくなる時を除き、それ以外の時は全て正知正念、清清明明、了々霊知でなければならない。もし内心が清明で了知できなければ、原因は二つある:一つは昏沈、もう一つは散乱である。定力が高まれば、心念は目前の為す事に集中し、周囲の事は全て知ることができる。色身全体の状況、乃至外身の状況、周囲の一切の状況が、全て明らかに、明々了々となる。

心が乱れて考えないようにするのは非常に容易ではない。もし修習訓練が良くできれば、定力は相当に良くなり、慧力も相当に良くなる。書物を読み法義を思惟する時、容易に思惟し通達できる。さもなければ仏経を読むのは非常に難しく、読みながら妄想を起こし、何度読んでもその真の内包を理解できない。あるいは他人と交流する時、意念が集中せず、心思散乱であれば、相手の表現する意味を聞き取れず、自身の観点も明らかに述べられない。もし内心がある程度静まれば、他人の一つの表情や一つの動作で、自身は相手の目的、何をしたいのかを知り、相手自身も知らないことを、あなたが先に知るようになる。

世尊はこの経文の中で、我々に動中の定、動中の禅を教えている。これも大乗の参禅の基礎である。我々にこの基礎があれば、更にこの身の様々な状態を知る「知」を、一つの話頭に換えれば参禅できる。話頭を参じ、公案を参じ、参究が後期に至れば、話頭の内包だけが残り、話頭全体が一つの点、一つの「知」に凝縮され、心念で帯びて、深く心中に懸け、細かに参究すれば、明心見性できる。故にこの方法は小乗の修法ではあるが、大乗の参禅にも通じる。大小乗の修法は最後には皆相通じ、如何なる禅定も相通じる。対立や矛盾の関係ではない。

原文:かくの如く、或いは内身において身を観じて住し、外身において身を観じて住し、また内外身において身を観じて住す。或いは身において生法を観じて住し、或いは身において滅法を観じて住し、また身において生滅法を観じて住す。

釈:このように修習し、心は或いは内身の観身に住し、或いは外身の観身に住し、或いは同時に内身と外身を観じて住す。心は或いは色身に新たに生じた法を観じて住し、或いは色身で滅していく法を観じて住し、或いは色身の生法と滅法を同時に観じて住す。

この場所の修習方法は上で述べた観呼吸の方法と同じであり、皆、我々に行住坐臥の中で色身を観照させ、身体の様々な状況を全て知らせ、自身の外身、六塵の境界も知らせる。この定力の要求はより高く、観照力もより強く、将来は眼で六方を観、耳で八方を聞く定慧を持つことができる。もし定慧が足りず、身体を観ることに専念するばかりで、向こうから車が来ても知らず、他の状況が現れても知らなければ、慧力がまだ広大でないことを示す。定力がもし十分に良ければ、自身を観るのと同時に、向こうから車が来れば知り、避けることができ、四方八方の人事物を知り、同時に多くの事を処理できる。定力がもし良くなければ、一つの事だけでも、上手くできないかもしれない。

原文:尚又、智識の成ずる所及び憶念の成ずる所は、皆な身の思念を現前せしむ。彼は依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執着せずして住すべし。諸比丘よ、比丘はかくの如く、身において身を観じて住す。

釈:観じ観じるうちに、智慧がその中に生じ、色身に対する憶念も生じる。そこで心中は色身に関する思想念頭となり、この時修習者は心を色身に依倚せず、客観的に色身を看ることができ、色身と自身を緊密に結びつけず、心も世間の如何なる物にも執着すべきではない。諸比丘よ、比丘はこのように色身を観じて住すべきである。

この修習方法は皆上文の如く、行住坐臥の中で、身体の中で新しい現象が生じれば、了知し、身体の中で或る現象が消失すれば、これも了知し、身体の中で同時に生じ滅する現象を全て了知し、一法も糊塗せず、一切の時中に清清明明、明々了々でなければならない。身体の中の様々な生滅法の観行が終わった後、心念の中はこの色身となり、思想の中はこの身体となる。最後にこの身体が我であるという観念を泯滅し、思想の中に再びこの我という身体があってはならない。心念は空でなければならず、内心は色身に依らず安住し、世間の如何なる法にも依らず安住し、空空浄浄、心に一法も無い。こうすればこの身我を空却し、この身体を我と認めず、ある種の空定に入り、定中には既に身の観念が無く、身我見(身体は我であるという知見)を断除できる。これが身において身を観じて住す修持方法であり、比丘たちは仔細に修行すべきである。

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