衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 306

第二章 身念処を観ずる

第三節 色身不浄を観ず

原文:復た次に。諸比丘よ。比丘は皮に覆われ包まれた、種々の不浄物に満ちたこの身を観察する。頭髪より上より、足底より下まで、この身を観察し、この身には髪・毛・爪・歯・皮・肉・筋・骨・髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿あることを知る。

釈:さらに申し上げる。諸比丘よ、比丘は皮膚に包まれ、種々の不浄物に満ちたこの身体を観察する。頭頂から足底に至るまで、この身体には髪・体毛・眉毛・手足の爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿などが存在することを知るのである。

この経文は身不浄観の修行の要諦であり、世尊は極めて詳細に説かれた。これに随って観想を深め、細やかに観行することができる。これらの構成要素は、髪を除き全て皮膚に包まれている。外見は清浄に見えるが、内包するものは極めて汚穢不浄で、腥臭く濁り、血と粘液に満ちている。個別に取り出せば、あるいは皮を剥がせば、誰もが嫌悪を催すものである。これら不浄物の集合体が色身を成す。かくも汚れた色身に、衆生が執着を捨てられないのは、まことに愚痴の所業である。

原文:諸比丘よ、譬えば両口ある袋に種々の穀物――稲・粳米・緑豆・豆粒・胡麻・玄米――を詰め、目利きが解き開けて観察するが如し。これが稲、これが粳米、これが緑豆、これが豆粒、これが胡麻、これが玄米と知るが如し。

釈:諸比丘よ、上述の不浄物に満ちた色身は、両口を開いた袋の如きものである。袋を開けば内包物を逐一確認できるように、身体の皮を剥がせば内部の構成要素を明らかに観察できる。頭頂と足底を結ぶ皮膚の袋には、血・肉・内臓・骨髄などが詰まっている。身不浄観は皮膚表面から始めることができる。顕微鏡で観察すれば、皮膚表面は細菌に覆われていることが分かる。目・涙・鼻水・唾液、あらゆる部位に多様な形状・大きさ・数量の細菌が存在する。

ある種の禅観では、これらの微生物を観察することで身見・我見を断ずる。三頭六臂のもの、五色に輝くもの、牙を剥く恐ろしい形状のもの――これら微生物の殺し合いが病を引き起こす。胃の空腹感は微生物の食欲に、欲情は微生物の擾乱に起因する。飲食の消化分解は微生物の働きによる。食物は微生物によって分解され、泥状となって吸収される。身体は微生物と共生関係にあり、微生物もまた衆生の色身を依り所とする。仏眼は顕微鏡を超える微細さでこれらを観察された。

大気中にも無数の微生物が存在し、これらも成仏可能な衆生である。薬剤への耐性獲得は、微生物の識別作用を示す証左である。皮膚表面の不浄を観じ、内奥の血・肉・骨髄に至るまで汚穢を観察すれば、次第に身体への執着は薄れる。美女の皮膚を微生物の住処と観じ、内臓の不浄を想えば、清浄なる部分は無いと悟る。死後数日で膨張・変色・腐敗する肉体に、何の愛着があろうか。

衆生が貪る飲食は土壌から生じ、洗浄しても清浄ではない。咀嚼後の食物や嘔吐物を見れば、身体が移動する便所=臭皮袋であることが明らかである。色身と飲食への執着は、まことに無益なるものと知るべきである。

原文:諸比丘よ。比丘はかくの如く皮に覆われ包まれた、種々の不浄物に満ちたこの身を観察し、頭髪より上より足底より下まで、この身には髪・毛・爪・歯・皮・肉・筋・骨・髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿あることを知る。

釈:諸比丘よ、比丘はこのように皮膚に包まれた不浄の集合体を観察する。外見は美しく見えても、内実は汚穢に満ちている。この観察を通じて厭離の心が生じ、色身への執着は薄れるのである。

原文:かくの如く、内身に於いて身を観じて住し、外身に於いて身を観じて住し、内外の身に於いて身を観じて住す。或いは身に生起する法を観じて住し、身に滅する法を観じて住し、又身の生滅する法を観じて住す。

釈:身不浄観を修した後、内身・外身・内外身に対する観察を持続させる。あるいは生起する法(爪や髪の成長、病巣の形成)を観じ、滅する法(臓器の除去、疾病の消失)を観じ、生滅の相を同時に観察する。

原文:さらに智識によって成り、憶念によって成る、身に対する思念が現前するも、彼は依る所無くして住し、世間の何ものにも執着せず。諸比丘よ、比丘はかくの如く身に於いて身を観じて住す。

釈:観察を重ねるうちに智慧が生じ、身念が強まる。しかし修行者は色身に依拠せず、客観的に観照する。世間の一切に執着せず、色身を空・無我・無常と観じる。この観行が完成すれば身見を断じ、三結を解く。意識の浅い理解を超え、意根の深層に仏法を浸透させねばならない。禅定の中で深く思惟し、身体観を転倒せしめる時、真の我見断が成就する。四念処観の修習は呼吸観察から始まり、生滅法の洞察を経て、一切の執着を離れる境地に至るのである。

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