衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 364

第二章  身念処を観ずる

第三節  色身の不浄を観ずる

原文:復次に。諸比丘よ。比丘は皮に覆われ包まれ、種々の不浄物で満ちたこの身について、この身を観察する。上は頭髪より下は足底に至るまで、この身には頭髪・体毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿があることを知る。

釈:さらに説く。諸比丘よ、比丘は皮膚に包まれ、種々の不浄物で満ちたこの身体について、この身体の上は頭髪から下は足の裏の骨まで観察すれば、この身体には頭髪・体毛・眉毛・手足の爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿などがあることを知るのである。

この経文は身の不浄を観ずる修行の要点であり、世尊は詳細に説かれたので、我々は文に随って観想に入り、細やかに観行することができる。これらの物は頭髪を除き、すべて表皮に包まれている。表皮は一見清らかに見えるが、包まれているものは非常に汚穢不浄であり、様々な生臭さや悪臭があり、血の気や粘液に満ちてぼんやりしている。単独で取り出したり、皮を剥いだりすれば、誰もが嫌悪の念を抱く。これらの不浄物が集まって色身を構成している。これほど汚れた色身を、衆生は貪り執着して捨てようとしない。まことに愚痴である。

原文:諸比丘よ。あたかも二つの口がある袋に、種々の穀物、すなわち稲・粳米・緑豆・豆粒・胡麻・玄米を詰め込み、その袋を解いて観察すれば、これは稲、これは粳米、これは緑豆、これは豆粒、これは胡麻、これは玄米であると知るが如し。

釈:諸比丘よ、上述のこれらの物で満たされた色身は、二つの口が開いた袋のようである。多くの穀物がこの袋に詰められており、袋を開けて見れば、一つ一つ数え上げ、これは稲、これは粳米、これは緑豆、これは豆粒、これは胡麻、これは玄米と、目で見れば何の穀物かわかる。同じ道理で、身体を開き皮を剥げば、身体の中に何があるかがわかる。一つ一つ数え上げ、観察できるのである。

この色身は袋のようであり、二つの口を縛り、中に種々の物を詰め込む。頭頂は封口、足底は封口であり、外側は皮、内側は様々な物である。皮膚を剥げば、中には血肉・各種の液体・内臓・骨髄などこれらの物がある。身の不浄を観ずることは皮膚の表面から始められる。顕微鏡で皮膚を観察すれば、皮膚表面はすべて細菌であることがわかる。目の中には細菌がおり、涙の中にも細菌がいる。鼻水・唾液、皮膚の各表面はすべて細菌である。各部位の細菌は形状・大きさ・数が異なる。

ある種の禅観は、まさにこれらの身体上の細菌や虫を観察して身見・我見を断つためのものである。これらの細菌には三頭六臂のもの、五色のもの、牙をむき爪を立てるものがあり、非常に恐ろしい形相をしている。それらは互いに殺し合い、殺し合いが終われば数や種類のバランスが崩れ、身体は病気になる。皮膚病や胃腸病などはすべて細菌の数や種類の不均衡によるものである。胃が空を感じるのは細菌が食物を欲しているためであり、身体に欲念が生じるのもこれらの細菌が騒ぎ立てる結果である。胃に入った飲食はすべて細菌に依存して分解消化される。食物が胃に入ると、細菌が食物を分解して泥状にし、身体はようやく一部を吸収して血液中に入れる。身体はこれらの細菌に依存して新陳代謝を行い、細菌も肉体に依存して生存する。衆生は細菌に依存して生命を保ち、細菌は衆生の色身に依存して生存する。これらはすべて仏が見て説かれたことである。仏眼は顕微鏡よりも無量倍微細であるため、これらの細菌を見ることができるのである。

空気中にも細菌がおり、あらゆる場所に細菌が存在する。これらの細菌も衆生であり、将来は仏となることもできる。それらも意識心・意根・如来蔵を持っている。もし衆生が病気で薬を飲む場合、薬は初めは効いて病気を治すが、長く飲むと効かなくなる。これを耐性と呼ぶ。なぜそうなるのか? 薬は細菌に対抗するためのものであり、細菌はそれを摂取して不快に感じれば、以後は摂取しなくなる。同じ薬は殺菌作用を失う。これにより細菌にも識心の分別があることがわかる。

身体の皮膚表面が非常に汚れていることを観察し、さらに内側を細かく観察すれば、血液の中・筋肉の中・筋・骨・骨髄の中はすべて細菌であり、各種の粘液の中にも細菌がいる。身体の内部も非常に汚れている。このように真実のままに細やかに色身を観察すれば、次第に身体に貪着しなくなる。もし美女を見たなら、彼女の皮膚から始めて皮膚表面の細菌を観照し、観照が終われば皮を剥いで内部の不浄な物を観照する。内から外に発せられる嫌な匂い、清らかなところは一か所もない。後でさらに説かれるが、美女が死んで数日経つと、身体は膨張し、打ち身のようになり、色が変わり、形が変わり、その後は膿を流し、その先は自ら想像されたい。

衆生が貪り執着する色身は、実は非常に汚穢不浄である。例えば食べる飲食は土から生じたものであり、土にはあらゆる物が混じっている。いくら洗っても汚れている。食べ物を数回噛んで吐き出し、どのような状態かを見る。あるいは胃に飲み込んだ食物を吐き出し、どのような状態かを見て、どんな匂いか嗅いでみる。実は身体は移動する便所、糞袋であり、臭い皮袋とも呼ばれる。よく考えれば、身体や飲食などには何も貪愛する価値はない。

原文:諸比丘よ。比丘はこのように皮に覆われ包まれ、種々の不浄物で満ちたこの身について、上は頭髪より下は足底に至るまで観察し、この身には頭髪・体毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿があることを知る。

釈:諸比丘よ、比丘はこのように皮に覆われ包まれ、種々の不浄物で満ちたこの色身について、頭頂から足底まで観察し、この色身には頭髪・体毛・手足の爪・歯・皮膚・肉・筋・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿があることを知る。

仏は比丘たちに引き続き色身の不浄を観察するよう教えられた。頭頂から足底まで観察する。もし真実の観察によって色身がこれほど汚穢であることを発見すれば、あたかも刺繍の枕のように、外見はそれらしく見えても、中身はすべて汚れた物であり、清らかなものは一つもない。観察を重ねるにつれ、自らの色身に対して厭離の心が生じ、色身をあまり気にせず貪着しなくなるであろう。

原文:このように、或いは内身に身を観じて住し、或いは外身に身を観じて住し、また或いは内外の身に身を観じて住する。或いは身に生法を観じて住し、身に滅法を観じて住し、また或いは身に生滅の法を観じて住する。

釈:色身の不浄を観察した後、心はあるいは内身に対する観行に住し、あるいは外身に対する観行に住し、あるいは同時に内外の身に対する観行に住する。あるいは色身の生じる法に対する観行に住し、あるいは色身の滅する法に対する観行に住し、あるいは同時に色身の生法と滅法に対する観行に住する。

以上に紹介した色身内の物について、さらに細かく観察を続ける。まず色身上に生じる法を観る。色身上で次第に生じるもの、例えば爪が生え髪が伸び、皮膚にできた膿疱、内臓器官の嚢胞や結石など様々な疾病の生成などを観る。次に色身上の滅法を観る。身体から消滅したもの、例えば内臓器官の除去や摘出、様々な疾病の消失・滅去などを観る。次に同時に色身の生法と滅法を観る。

原文:さらにまた、智識によって成り、及び憶念によって成る、すべて身に対する思念が現前する。彼は依る所なくして住し、かつ世間の如何なる物にも執着しないであろう。諸比丘よ、比丘はこのように身に身を観じて住する。

釈:観じ続けると智慧が生じ、色身に対する憶念も生じる。そこで心には色身への思慮ばかりが念々と現れる。この時、修行者は心を色身に依拠させず、客観的に色身を見ることができ、色身と自己を密接に結びつけず、心も世間のいかなる物にも執着しない。諸比丘よ、比丘はこのように色身に色身を観じて住すべきである。

これらの内容をすべて観行し終えた後、思想は色身の念いばかりとなるが、色身に住することもない。心は色身に依存しない。それは空であり無我であり、無常変化するものであるからだ。心中で身体が我であるという観念を除き去り、色身を空じる。ただ身を亡うことによってのみ、ある種の空の定に入ることができ、智慧の認知が生じて身我見(色身を我とする知見)を断つことができる。そして世間の他のいかなる事物にも心を住まわせ貪着せず、一切を執着せず、すべてを空じる。これらは真実ではない。もし身体すら我でないならば、身外の物はなおさら我ではない。修行がここまで来てもおそらくこの観念を認めることはできないであろう。真実の観行が完成し、智慧が具足し、他の見道の条件もすべて具足した時、心念は転じることができ、真実に我見を断つことができる。三結もこれに随って断たれ、再び三悪道に堕ちることはない。

この理を認めることは容易ではない。今はただ意識心が知っているだけで、意根はまだ認めておらず、その覚りの境地には達していない。一度達すれば、意根が認め、身心の状態はすべて変わり、心念は転じ、顛倒が正される。意識心の浅はかな知は大した力を持たない。もし意根が認めなければ、いったん事を行えば、意根は依然として自らの従来の認知と理念に従って決定し、意識の認識に従って選択することはない。なぜなら身口意行は意識が主宰するのではなく、深層の意根が主宰し選択するからである。

例えば他人に百円を布施すると約束する場合、この考えは心底から湧き出たものではない。口では約束しても、ただ意識心が「私は他人に百円を与えるべきだ」と感じているだけで、意根は非常に心から望んでいるわけではない。百円を与えることにどんな利益があるかを理解しておらず、金を出す時に心に未練が生じる。それゆえ我々が仏法を学ぶには、深く禅定に入り、できるだけ意根自らに仏法を思惟させねばならない。意根がいったん思惟して理解すれば、理を明らかにし、思想観念と行為はともに転ずる。身の不浄を観ずるこの法は、常に禅定の中で深く細やかに全面的に観行思惟すべきであり、「私は知っている、それは簡単だ、そういうものだ」と思って深い観行を軽んじてはならない。

以上に説いた内容は身に身を観じて住することであり、四念処観の身の不浄を観ずることは説き終えた。身を観ずることは呼吸を観ずることから始まる。出息入息をすべて知り、長い呼吸も短い呼吸もすべて知る。呼吸時の身体の状態を明らかにし、長い呼吸の時の全身の状態をすべて明らかにする。身体の中で生じる法を知り、滅する法も知る。一切の生滅の法を知り、身内の法・身外の法を知る。色身の如何に不浄であるかも観行する。観行が完成し、心中の色身の観念が固まった時、色身を空じ、身体が我である・真実であるという観念を除く。心念は空でなければならず、色身を空じるだけでなく一切の法も空じ、いかなる法にも執着せず、そうすれば身見と我見を断つことができる。

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