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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 22

第五節 四聖諦の法を観じて住す(2)

三、苦滅諦を観じて住す

原文:復次。諸比丘。苦滅聖諦とは何か。その愛に対する余すところなき離欲。滅尽し捨離すること。棄捨し解脱すること。無染なるこれである。復次。諸比丘。その愛は何れの処に於いて捨てられ。何れの処に於いて止滅するか。世間に愛すべき楽しむべきものあるところ。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ。苦滅聖諦とは何か。上述の諸法に対する貪愛がすっかり貪欲から離れ、貪愛が滅尽し捨て離れ、以前の貪愛は今や棄捨され、そこから完全に解脱し、心はすでに無染となり、これによって苦滅聖諦を証得するのである。これは四果阿羅漢の煩悩滅尽の境地であり、生死の苦を脱する能力を有し、再び受生することはない。また、諸比丘よ。これらの愛は何れの処で捨て離れ、何れの処で止息するのか。世間に愛で楽しまれるべきものがあるところ、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後は貪愛と喜楽が再び生じることはない。

苦滅諦を証得したとき、自然に貪愛を棄捨する。以前に好きで貪愛した法も、今やもはや好きでも貪愛もしなくなり、それゆえ貪愛は好まれた法の処で止息し滅する。五蘊世間法のすべてが好ましくなくなるのである。

原文:何が世間において愛すべき楽しむべきものか。眼が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。耳が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至鼻が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至舌が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至身が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至意が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:何が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものか。眼根が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。耳根が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。鼻根が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。舌根が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。身根が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。意根が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:色が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至声が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至香が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至味が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至法が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:色法が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。声法が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。香法が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。味法が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。触法が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。法塵が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:眼識が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至耳識が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至鼻識が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至舌識が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至身識が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至意識が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:眼識が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。耳識が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。鼻識が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。舌識が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。身識が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。意識が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:眼触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至耳触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至鼻触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至舌触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至身触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至意触が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:眼触が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。耳触が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。鼻触が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。舌触が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。身触が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。意触が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:眼触によって生ずる受が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至耳触によって生ずる受が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至鼻触によって生ずる受が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至舌触によって生ずる受が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至身触によって生ずる受が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至意触によって生ずる受が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:眼触によって生ずる受が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。耳触によって生ずる受が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。鼻触によって生ずる受が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。舌触によって生ずる受が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。身触によって生ずる受が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。意触によって生ずる受が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:色想が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至声想が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至香想が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至味想が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至触想が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至法想が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:色法に対する取着が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。声法に対する取着が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。香法に対する取着が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。味法に対する取着が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。触法に対する取着が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。法塵に対する取着が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:色思が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至声思が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至香思が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至味思が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至触思が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至法思が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:色法に対する造作が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。声法に対する造作が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。香法に対する造作が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。味法に対する造作が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。触法に対する造作が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。法塵に対する造作が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

六根が六塵と接触すると、その後には識蘊・受蘊・想蘊・行蘊が生ずる。この時、往々にしてこれら五蘊に対しても貪愛の心が生じる。それゆえ貪愛を滅除するには、六根が六塵に触れる際の色・声・香・味・触・法上の受・想・行・識に対する貪愛をも滅除しなければならない。例えば、色塵上に生じる受蘊・想蘊・行蘊への貪愛は、修行の後に断尽して初めて解脱を得る。声塵・香塵・味塵・触塵・法塵上の受・想・行蘊への貪愛もまた断尽して初めて解脱を得るのである。

原文:色愛が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至声愛が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至香愛が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至味愛が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至触愛が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至法愛が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:色法に対する愛が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。声法に対する愛が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。香法に対する愛が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。味法に対する愛が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。触法に対する愛が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。法塵に対する愛が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:色尋が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至声尋が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至香尋が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至味尋が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至触尋が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至法尋が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。

釈:色法に対する追尋が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。声法に対する追尋が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。香法に対する追尋が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。味法に対する追尋が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。触法に対する追尋が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。法塵に対する追尋が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。

原文:色伺が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至声伺が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至香伺が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至味伺が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至触伺が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。乃至法伺が世間において愛すべき楽しむべきものであるならば。この愛は即ちこの処に於いて捨てられ。この処に於いて止滅する。諸比丘。これを苦滅聖諦と名づく。

釈:色法に対する静かな伺察が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。声法に対する静かな伺察が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。香法に対する静かな伺察が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。味法に対する静かな伺察が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。法塵に対する静かな伺察が世間において貪愛すべき喜ばれるべきものであるならば、貪愛はこの処で捨てられ、この処で止滅し、以後生じない。諸比丘よ、これが苦滅聖諦である。

四、苦滅道諦を観じて住す

原文:復次。諸比丘。苦滅道聖諦とは何か。八支聖道である。即ち正見。正思。正語。正業。正命。正精進。正念。正定である。

然るに。諸比丘。正見とは何か。諸比丘。苦を如実に知り。苦の集を如実に知り。苦の滅を如実に知り。苦滅に至る道を如実に知ること。諸比丘。これを正見と名づく。復次。諸比丘。正思とは何か。無欲の思。無瞋の思。無害の思。諸比丘。これを正思と名づく。復次。諸比丘。正語とは何か。両舌を遠離し悪口を遠離し。妄語を遠離し。綺語を遠離すること。諸比丘。これらを正語と名づく。復次。諸比丘。正業とは何か。殺生を遠離し。不与取を遠離し。邪淫を遠離すること。諸比丘。これらを正業と名づく。

釈:また、諸比丘よ。苦滅道諦とは何か。八正道は苦を滅する修行の道である。八正道とは正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

さて、諸比丘よ。正見とは何か。苦とは何かを如実に了知し、苦の集とは何かを如実に了知し、苦の滅とは何かを如実に了知し、苦滅の修道方法とは何かを如実に了知すること、これが正見である。さて、諸比丘よ。正思とは何か。いかなる貪欲もない思惟、いかなる瞋恚もない思惟、いかなる害心もない思惟、これが正思惟である。さて、諸比丘よ。正語とは何か。両舌を離れ、悪口を離れ、妄語を離れ、綺語を離れる、このような言葉が正語である。さて、諸比丘よ。正業とは何か。殺生を離れ、盗みを離れ、邪淫を離れる、このような業行が正業である。

原文:復次。諸比丘。正命とは何か。諸比丘。ここにおいて。聖なる弟子は邪命を捨て。正命によって活命を営む。諸比丘。これらを正命と名づく。復次。諸比丘。正精進とは何か。諸比丘。ここにおいて。比丘は堅固な決心を起こして力を尽くして精進し。心を勤めて注意し。未だ生じざる悪不善法を生ぜしめないようにする。堅固な決心を起こして力を尽くして精進し。心を勤めて注意し。已に生じた悪不善法を遠離する。堅固な決心を起こして力を尽くして精進し。心を勤めて注意し。未だ生じざる善法を生ぜしめる。堅固な決心を起こして力を尽くして精進し。心を勤めて注意し。已に生じた善法を住せしめ。惑乱せしめず。これを増長充満せしめ。修習成就せしめる。諸比丘。これらを正精進と名づく。

釈:さて、諸比丘よ。正命とは何か。諸比丘よ。世間に生存を維持するにあたり、聖なる弟子は他者を損なう不正な生存資糧の謀り方を捨て、正当で理に適い合法的で他者を損なわない生計の立て方によって活命すること、これが正命である。さて、諸比丘よ。正精進とは何か。比丘が修道の過程において、勇猛心を生じ、大いに力を尽くし、内心を精勤して自心を観照し束ね、内心にまだ生じていない悪法を再び生じさせないようにする。勇猛に精進し力を尽くして心を専一にし、心を精勤して照管し束ね、すでに生じた悪の不善法を遠離する。

そして勇猛な精進心を生じ、心を精勤して照管し束ね、まだ生じていない善法を生じさせる。勇猛精進心を生じ、内心を精勤して観照し束ね、心をすでに生じた善法に住せしめ、善法が惑乱されないようにし、次第にこれを増長し円満ならしめ、修習成就させる。諸比丘よ、これが正精進である。

原文:復次。諸比丘。正念とは何か。諸比丘。ここにおいて。比丘は身において身を観じて住し。精勤し正智正念をもって。世間の欲と惱みを捨離する。受において受を観じて住し。精勤し正智正念をもって。世間の欲と惱みを捨離する。心において心を観じて住し。精勤し正智正念をもって。世間の欲と惱みを捨離する。法において法を観じて住し。精勤し正智正念をもって。世間の欲と惱みを捨離する。諸比丘。これらを正念と名づく。

釈:さて、諸比丘よ。正念とは何か。諸比丘よ。比丘が正念を修習し、身において身を観じて住するとき、精進勤勉で正智正念を具え、世間の貪欲と害心を捨離する。比丘が受において受を観じて住するとき、精進勤勉で正智正念を具え、世間の貪欲と害心を捨離する。比丘が心において心を観じて住するとき、精進勤勉で正智正念を具え、世間の貪欲と害心を捨離する。比丘が法において法を観じて住するとき、精進勤勉で正智正念を具え、世間の貪欲と害心を捨離する。諸比丘よ、これらの貪欲も害心もない心念を正念と呼ぶ。

原文:復次。諸比丘。正定とは何か。諸比丘。ここにおいて。比丘は欲を去り。不善法を離れ。尋あり伺あり。離によって生ずる喜と楽とを具え。初禅に達して住する。尋と伺を滅し。内心は安静。心は専一となる。尋なく伺なく。定によって生ずる喜と楽とを具え。第二禅に達して住する。

釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ。正定とは何か。諸比丘よ。比丘が正定を修習するにあたり、貪欲を除き、不善法を遠離し、内心に粗い尋求と細かい伺察とがあり、欲界法を離れたことによって生じた喜心と楽心とを具え、色界の初禅定に達し、そこに止住する。尋求と伺察の心を除き、内心は安静で恬淡とし、心を専一にし、尋求の心もなく、伺察の心もなく、この禅定を具えたことによって生じた喜心と楽心とを具え、第二禅に達し、そこに止住する。

原文:更に喜を捨離して住し。正念正智をもち。身によって楽を受く。ただ諸の聖者たちが説くごとく。これを捨てて正念楽住す。第三禅に達して住する。次に楽を捨て苦を離る。以前に感受したる喜び憂い皆滅したるが故に。苦もなく楽もなく。捨念清浄となる。第四禅に達して住する。諸比丘。これを正定と名づく。諸比丘。これらを苦滅道聖諦と名づく。

釈:さらに喜心を捨離して住し、心に正智正念を具え、身体で楽触を感受する。ただ諸聖人たちが説くように、この喜心を捨て、正念をもって楽受に住する。第三禅に達し、そこに止住する。その後、楽受を捨て、苦受を離れる。以前に心で感受していた喜びや憂いがすべて滅除され、ただ不苦不楽受のみが残り、念想を捨て心地清浄となった行者は、第四禅に達し、そこに止住する。諸比丘よ、これらの禅定、初禅から四禅までを正定と呼ぶ。初禅以前の定は正定ではない。諸比丘よ、これらを苦滅道諦と名づける。

原文:かくの如く。内法において法を観じて住し。外法において法を観じて住し。また内外の法において。法を観じて住す。或いは法において生ずる法を観じて住し。法において滅する法を観じて住す。また法において生滅する法を観じて住す。なおまた智識によって成り及び憶念によって成るものは。皆法の思念が現前する。彼は依る所なくして住すべし。かつ世間の何ものにも執着せず。諸比丘。比丘はかくの如く。四聖諦において法を観じて住す。

釈:このように修行した後、あるいは四聖諦の法の内法を観じて住し、あるいは四聖諦の法の外法を観じて住し、またあるいは四聖諦の法の内外の法を同時に観じて住す。そしてまたこれらの法の中に新たに生ずる法を観じ、心念を新たに生ずる法に住せしめ、それからまたこれらの法の中に滅する法を観行し、心を滅法を観じることに住せしめ、同時にこれらの法の生法と滅法を観じてその中に住する。

最後に、観行の禅定と智慧が現れ、心に観行の法を念念忘れず、心が常にこれらの四聖諦法を憶念しているとき、あなたがたはこれらの念を捨て、これらの法に依らず、何ものもない空の状態に住し、心に依る所なく、かつ世間のいかなる事物にも執着せず、このように住する。これもまた捨覚支である。各種の観行の後には、必ず心中の念想を捨て除き、捨念の中に住する。最後には捨念をも除いて、はじめて究竟となる。諸比丘よ、比丘はこのように四聖諦の法を観法して住すべきである。

原文:諸比丘。まことにいかなる者であれ。七年間かくの如くこの四念処を修するならば。二つの果のうち一つの果を得る。即ち現法において究竟の智を得る。あるいは有余なる者として。還来せざるを期待する。諸比丘。七ヶ年間の念を建立すべし。諸比丘。いかなる者であれ。六ヶ年間に……乃至……五ヶ年間に……乃至……四ヶ年間に……乃至……三ヶ年間に……乃至……二ヶ年間に……乃至……一年間に。もしこの四念処を修するならば。二つの果のうち一つの果を得る。即ち現法において究竟の智を得る。あるいは有余なる者として。還来せざるを期待する。諸比丘。一年間の念を建立すべし。

釈:諸比丘よ。確かにいかなる人であれ、七年の間、このように四念処を修習すれば、必ず二つの果のうち一つの果を得る。現世において解脱の究竟の智慧を得て、無余涅槃に趣くことができる。あるいは有余涅槃を証得し、再び人間に来ることを望まない。つまり三果または四果のうち必ず一つを証得する。諸比丘よ、あなたがたは七年かけて四念処観を成就する覚悟をすべきである。七年の間、心心念念すべてが四念処観であれば、必ず三果または四果のうちの一果を成就する。

諸比丘よ。確かにいかなる人であれ、それぞれ六年間、あるいは五年間、あるいは四年間、あるいは三年間、あるいは二年間、あるいは一年間、このように四念処を修習すれば、二つの果のうち一つの果を得る。現世において解脱の究竟の智慧を得て無余涅槃に趣く。あるいは有余涅槃を証得し、再び人間に来ることを望まない。つまり三果または四果のうち必ず一つを証得する。諸比丘よ、あなたがたは六年、五年、四年、三年、二年、一年かけて四念処観を成就する覚悟をすべきである。これらの期間、心心念念すべてが四念処観であれば、必ず三果または四果のうちの一果を成就する。諸比丘よ、一年の間に念念すべてが四念処観となるよう修習すべきである。

原文:いかなる者であれ七ヶ月間。かくの如くこの四念処を修するならば。二つの果のうち一つの果を得る。即ち現法において究竟の智を得る。あるいは有余なる者として。還来せざるを期待する。諸比丘。七ヶ月間の念を建立すべし。まことにいかなる者であれ。六ヶ月に……乃至……五ヶ月に……乃至……四ヶ月に……乃至……三ヶ月に……乃至……二ヶ月に……乃至……一ヶ月に……乃至……半月に。かくの如くこの四念処を修するならば。二つの果のうち一つの果を得る。即ち現法において究竟の智を得る。あるいは有余なる者として。還来せざるを期待する。諸比丘。半月間の念を建立すべし。

釈:確かにいかなる人であれ、七ヶ月の間、このように精進して四念処観を修習すれば、必ず二つの果のうち一つの果を得る。一つは無余涅槃であり、現世において解脱の究竟の智慧を得る。一つは有余涅槃であり、未来世に再び人間に受生することを望まない。諸比丘よ、あなたがたは七ヶ月かけて四念処を修習する覚悟をすべきである。心心念念すべてが四念処であれば、涅槃を証得する。実際、いかなる人であれ、六ヶ月の間、五ヶ月の間、四ヶ月の間、三ヶ月の間、二ヶ月の間、一ヶ月の間、半月の間、このように精進して四念処を修習すれば、必ず二つの果のうち一つの果を得る。即ち現前に無余涅槃または有余涅槃を証得する。諸比丘よ、あなたがたは半月の間、四念処を修習し、心心念念すべてが四念処観であるべきである。

原文:諸比丘。まことにいかなる者であれ。七日の間にかくの如くこの四念処を修するならば。二つの果のうち一つの果を得る。即ち現法において究竟の智を得る。あるいは有余なる者として。還来せざるを期待する。諸比丘。これが衆生の清浄のため。憂いを度するため。苦悩を滅するため。真理を得るため。涅槃を証するため。唯一趣向する道である。即ち四念処である。このためにこの経を説く。

世尊はかくの如く説き終えられしとき。それに随喜せし諸比丘らは。世尊の説かれたことを歓喜せり。

釈:諸比丘よ。確かにいかなる人であれ、七日のうちに、このように精進して四念処観を修習すれば、必ず二つの果のうち一つの果を得る。現世において究竟の涅槃解脱の智慧を得る。あるいは有余涅槃を証得し、再びこの人間に苦しみを受けることを望まない。諸比丘よ、この四念処観の修習方法は、特に衆生が清浄解脱を得るために説かれたものであり、衆生の憂い悲しみ苦悩を度脱するため、衆生の生死の苦悩を滅除するため、衆生が真理を証得するため、衆生が涅槃を得るため、唯一趣向するべき修行の道は四念処である。このゆえにこの四念処経を説くのである。

世尊がこの経を説き終えられた後、この経に随喜賛嘆したすべての諸比丘たちは、世尊の説かれたことを大いに喜んだ。

なぜ仏は七年から七日など異なる期間、精進修行すれば四念処観によって証果を得られると説かれたのか。これは善根が深く、煩悩が軽微で、遮障が少なく、前世で仏法を学んだ時劫が長い人々を指す。彼らがもし仏陀が要求されたように精進修行すれば、数日から数年で証果を得る。無始劫以来仏法を学んだ時劫が短く、煩悩が深重で、遮障の重い人々は、七年以上の精進修行を必要とする。おそらく大多数の人は百年かけても証果を得られず、ある人は呼吸を観ることさえままならず、心はどうしても静まらず、証果など論外である。

しかしながら、確かに仏の説かれたように、いかなる人であれ、精進して四念処観を修行し、心心念念すべてが四念処観となり、心心念念すべてが観行となり、無始劫以来の五蘊世間に対する攀縁の習気を改め、努力して煩悩と業障を降伏させれば、証果はそれほど難しくはない。難しいのは業障の関を越えられず、自ら決心して修行に打ち込まず、散乱の習気を降伏させられない点にある。真に勇猛精進し、経典に説かれた通りに修行できれば、証果は保証されるのである。

この四念処観の修行方法は非常に殊勝である。皆さんは小乗の修行を軽んじてはならない。実はこれは修行の捷徑(近道)である。仏の説かれた捷徑こそが真の捷徑である。戒・定・慧を具え、実修実証であり、口先の言葉遊びではない。情思意解(情や思惟による理解)ではなく、考えたり思案したりするだけで証果するようなものではない。仏が教えられた修行方法から、何が真の実修と実証か、実修の過程でいかなる代償が必要かを体得すべきである。ある人々が想像するように、理解し納得しさえすれば、何の代償も払わず、何の戒も守らず、何の定も修めず、意識による乾いた理解(表面的な理解)で証果したつもりになるようなものではない。我々は仏陀の智慧を深く信じ、仏陀の教えに従うことで、自らの修行に大いなる益があるのである。

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