四念処経講話 第二版(新修)
原文:復次。諸比丘。苦滅聖諦とは何か。その愛に対する余すところなき離欲。滅尽し捨離し。棄捨し解脱し。無染なるこれである。復次。諸比丘。その愛は何れの処において捨てられ。何れの処において止滅するか。世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものあるところ。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ、苦滅聖諦とは何か。上述のそれらの法に対する貪愛がすっかり貪欲から離れ、貪愛が滅尽し、捨離され、以前の貪愛は今や棄捨され、そこから完全に解脱し、心はすでに無染となり、ここに苦滅聖諦を証得するのである。これは四果阿羅漢の煩悩滅尽の境地であり、生死の苦を脱する能力を有し、再び生を受けることがない。復次、諸比丘よ、これらの愛は何れの処において捨離され、何れの処においてこれらの貪愛を止息させることができるか。世間に愛すべきもの、喜ぶべきものがあるところ、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、以後は再び貪愛と喜楽とが生じないのである。
苦滅諦を証得するとき、自然に貪愛を棄捨する。以前に好きで貪愛していた法は、今やもはや好きでも貪愛もしなくなり、それゆえ貪愛は好きであった法の処において止息し滅するのであり、五蘊の世間法をことごとく好まなくなるのである。
原文:何が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものか。眼が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。耳が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至鼻が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至舌が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至身が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至意が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:何が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものか。眼根が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、以後再び生じない。乃至耳根が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至鼻根が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至舌根が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至身根が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至意根が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:色が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至声が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至香が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至味が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至法が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:色法が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至声法が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至香法が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至味法が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至触法が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至法塵が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:眼識が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至耳識が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至鼻識が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至舌識が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至身識が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至意識が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:眼識が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至耳識が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至鼻識が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至舌識が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至身識が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至意識が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:眼触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至耳触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至鼻触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至舌触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至身触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至意触が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:眼触が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至耳触が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至鼻触が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至舌触が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至身触が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至意触が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:眼触によって生ずる受が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至耳触によって生ずる受が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至鼻触によって生ずる受が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至舌触によって生ずる受が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至身触によって生ずる受が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至意触によって生ずる受が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:眼触によって生ずる受が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至耳触によって生ずる受が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至鼻触によって生ずる受が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至舌触によって生ずる受が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至身触によって生ずる受が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至意触によって生ずる受が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:色想が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至声想が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至香想が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至味想が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至触想が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至法想が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:色法に対する執着が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。声法に対する執着が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。香法に対する執着が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至味法に対する執着が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至触法に対する執着が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至法塵に対する執着が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:色思が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至声思が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至香思が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至味思が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至触思が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至法思が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:色法に対する造作が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至声法に対する造作が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至香法に対する造作が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至味法に対する造作が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至触法に対する造作が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至法塵に対する造作が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
六根が六塵と触れた後、識蘊・受蘊・想蘊・行蘊が生じる。この時、往々にして五蘊に対しても貪愛の心理が生じる。それゆえ貪愛を滅除するには、六根が六塵に触れる際に、色・声・香・味・触・法における受・想・行・識に対する貪愛も滅除しなければならない。例えば、貪愛が色塵上に生じた受蘊・想蘊・行蘊は、修行の後に断尽して初めて解脱を得ることができる。声塵・香塵・味塵・触塵・法塵上の受・想・行蘊に対する貪愛もまた断尽して、初めて解脱を得ることができるのである。
原文:色愛が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至声愛が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至香愛が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至味愛が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至触愛が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至法愛が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:色法に対する愛が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至声法に対する愛が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至香法に対する愛が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至味法に対する愛が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至触法に対する愛が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至法塵に対する愛が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:色尋が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至声尋が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至香尋が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至味尋が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至触尋が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至法尋が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。
釈:色法に対する追尋が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至声法に対する追尋が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至香法に対する追尋が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至味法に対する追尋が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至触法に対する追尋が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至法塵に対する追尋が世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。
原文:色伺が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至声伺が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至香伺が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至味伺が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至触伺が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。乃至法伺が世間に於いて愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば。この愛は即ちこの処において捨てられ。この処において止滅する。諸比丘。これを苦滅聖諦と名づく。
釈:色法を静かに伺察することが世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至声法を静かに伺察することが世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至香法を静かに伺察することが世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至味法を静かに伺察することが世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。乃至法塵を静かに伺察することが世間に於いて貪愛すべきもの、喜ぶべきものであるならば、貪愛は即ちこの処において捨てられ、この処において止滅し、再び生じない。諸比丘よ、これが苦滅聖諦である。
四、苦滅道諦を観じて住す
原文:復次。諸比丘。苦滅道聖諦とは何か。八支聖道。即ち正見。正思。正語。正業。正命。正精進。正念。正定である。
然。諸比丘。正見とは何か。諸比丘。苦を如実に知り。苦の集を如実に知り。苦の滅を如実に知り。苦滅に至る道を如実に知る。諸比丘。これを正見と名づく。復次。諸比丘。正思とは何か。欲なき思。恚なき思。害なき思。諸比丘。これを正思と名づく。復次。諸比丘。正語とは何か。両舌を遠離し悪口を遠離し。妄語を遠離し。綺語を遠離する。諸比丘。これらを正語と名づく。復次。諸比丘。正業とは何か。殺生を遠離し。不与取を遠離し。邪淫を遠離する。諸比丘。これらを正業と名づく。
釈:さらに、諸比丘よ、苦滅道諦とは何か。八正道は苦を滅する修行の道である。八正道とは正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
さて、諸比丘よ、正見とは何か。如実に苦とは何かを了知し、如実に苦の集とは何かを了知し、如実に苦の滅とは何かを了知し、如実に苦滅の修道方法とは何かを了知する。これが正見である。さて、諸比丘よ、正思とは何か。いかなる貪欲もない思惟、いかなる瞋恚もない思惟、いかなる害心もない思惟。これが正思惟である。さて、諸比丘よ、正語とは何か。両舌を遠離し、悪口を遠離し、妄語を遠離し、綺語を遠離する。このような言語が正語である。さて、諸比丘よ、正業とは何か。殺生を遠離し、不与取を遠離し、邪淫を遠離する。このような業行が正業である。
原文:復次。諸比丘。正命とは何か。諸比丘。ここに於いて。聖弟子は邪命を捨て。正命に依って活命を営む。諸比丘。これらを正命と名づく。復次。諸比丘。正精進とは何か。諸比丘。ここに於いて。比丘は堅固な心を起こし、力を尽くして精進する。心を勤めて注意し、未だ生じざる悪不善法を生ぜしめない。堅固な心を起こし、力を尽くして精進する。心を勤めて注意し、已に生じた悪不善法を遠離する。堅固な心を起こし、力を尽くして精進する。心を勤めて注意し、未だ生じざる善法を生ぜしめる。堅固な心を起こし、力を尽くして精進する。心を勤めて注意し、已に生じた善法を住せしめ、惑乱せず、これを増長し充満せしめ、修習し成就する。諸比丘。これらを正精進と名づく。
釈:さて、諸比丘よ、正命とは何か。諸比丘よ、世間において生存を維持するにあたり、聖弟子は他人の利益を損なう不正な生存資糧の謀り方を捨て、正当で合理的かつ合法的で他人の利益を損なわない生計の立て方に依って活命する。これが正命である。さて、諸比丘よ、正精進とは何か。比丘が修道の過程において、勇猛心を生じ、大いに力を尽くし、内心を精勤して自心を観照し束縛し、内心に未だ生じていない悪法が再び生じないようにする。勇猛精進し力を尽くして心を専一にし、心を精勤して自心を観照し束縛し、已に生じた悪の不善法を遠離する。
かつ勇猛な精進心を生じ、心を精勤して自心を観照し束縛し、未だ生じていない善法を生じさせる。勇猛精進心を生じ、内心を精勤して観照し束縛し、心を已に生じた善法に住せしめ、善法が惑乱されず、次第にこれを増長し円満にし、修習して成就させる。諸比丘よ、これが正精進である。
原文:復次。諸比丘。正念とは何か。諸比丘。ここに於いて。比丘は身に於いて身を観じて住し。精勤し正智正念し、して世間の欲悩を捨離する。受に於いて受を観じて住し。精勤し正智正念し、して世間の欲悩を捨離する。乃至心に於いて心を観じて住し。精勤し正智正念し、して世間の欲悩を捨離する。乃至法に於いて法を観じて住し。精勤し正智正念し、して世間の欲悩を捨離する。諸比丘。これらを正念と名づく。
釈:さて、諸比丘よ、正念とは何か。諸比丘よ、比丘は正念を修習し、身に於いて身を観じて住する時、精進勤勉し、正智正念を具足し、世間の貪欲と害心を捨離する。比丘は受に於いて受を観じて住する時、精進勤勉し、正智正念し、世間の貪欲と害心を捨離する。比丘は心に於いて心を観じて住する時、精進勤勉し、正智正念し、世間の貪欲と害心を捨離する。比丘は法に於いて法を観じて住する時、精進勤勉し、正智正念し、世間の貪欲と害心を捨離する。諸比丘よ、これらの貪欲も害心もない心念を正念という。
原文:復次。諸比丘。正定とは何か。諸比丘。ここに於いて。比丘は欲を去り。不善法を離れ。尋有り伺有り。離によって生ずる喜楽ありて、初禅に達して住す。尋伺を滅し。内心安静なり。心は専一となる。尋無く伺無し。定によって生ずる喜楽ありて、第二禅に達して住す。
釈:さらに続けて、諸比丘よ、正定とは何か。諸比丘よ、比丘が正定を修習する時、貪欲を去り、不善法を遠離し、内心に粗い尋求と細かい伺察があり、欲界法を離れることによって喜心と楽心が生じ、色界の初禅定に達し、その中に止住する。尋求・伺察の心を除き、内心は安静で淡泊、心を専一にし、尋求の心もなく、伺察の心もなく、このような禅定を具足することによって喜心と楽心が生じ、こうして第二禅に達し、その中に止住する。
原文:さらに喜を捨離して住す。正念正智あり。身をもって楽を感受す。ただ諸聖者は説く。これを捨てて正念楽住すと。第三禅に達して住す。次に楽を捨て苦を離る。以前に感受した喜憂は皆滅したが故に。苦もなく楽もなく。捨念清浄となる。第四禅に達して住す。諸比丘。これを正定と名づく。諸比丘。これらを苦滅道聖諦と名づく。
釈:さらに一歩進んで喜心を捨離して住し、心に正智正念を具足し、身体をもって楽触を感受する。ただ諸聖人だけが説く、歓喜心を捨て、正念をもって楽受に住することを。こうして第三禅に達し、その中に止住する。その後、楽受を捨て、苦受を離れ、以前心に感受していた喜楽憂愁は全て滅除され、ただ不苦不楽受のみが残り、念想を捨て心地清浄の行者となり、四禅に達し、その中に止住する。諸比丘よ、これらの禅定、初禅から四禅までを正定という。初禅以前の定は正定ではない。諸比丘よ、これらを苦滅道諦と名づく。
原文:このように。内法に於いて法を観じて住す。外法に於いて法を観じて住す。また内外法に於いて。法を観じて住す。或いは法に於いて生法を観じて住す。法に於いて滅法を観じて住す。また法に於いて生滅法を観じて住す。なおまた智識によって成り及び憶念によって成る。皆法の思念が現前する。彼は依る所なくして住すべし。かつ世間の如何なる物にも執着せず。諸比丘。比丘はこのように。四聖諦を観じて法に住す。
釈:このように修行した後、あるいは四聖諦の法の内法を観じて法に住し、あるいは四聖諦の法の外法を観じて法に住し、またあるいは四聖諦の法の内外法を同時に観じて法に住する。そしてまたこれらの法の中の新たに生じる法を観じ、心念を新たに生じる法に住せしめ、次にこれらの法の中の滅する法を観行し、心を滅法の観に住せしめ、同時にまたこれらの法の生法と滅法を観じてその中に住する。
最後に、観行の禅定と智慧が現れ、心は観行の法を念念忘れず、心は常にこれらの四聖諦の法を憶念している。この時、あなたがたはこれらの念を捨て、心はこれらの法に依らず、何ものもない空の状態に住し、心は依る所なく、かつ世間の如何なる事物にも執着せず、このように住する。これもまた捨覚支である。あらゆる観行の後には、必ず心中の念想を捨除し、捨念の中に住する。最後には捨念をも除いて、初めて究竟となる。諸比丘よ、比丘はこのように四聖諦の法を観じて法に住すべきである。
原文:諸比丘。実に如何なる人でも。七ヶ年間このようにこの四念処を修するならば。二果の中の一果を得る。即ち現法に於いて究竟智を得る。或いは有余なる者として、還来せざるを期待する。諸比丘。七ヶ年間の念を建立すべし。諸比丘。如何なる人でも。六ヶ年間に於いて……乃至……五ヶ年間に於いて……乃至……四ヶ年間に於いて……乃至……三ヶ年間に於いて……乃至……二ヶ年間に於いて……乃至……一ヶ年間に於いて。もしこの四念処を修するならば。二果の中の一果を得る。即ち現法に於いて究竟智を得る。或いは有余なる者として、還来せざるを期待する。諸比丘。一ヶ年間の念を建立すべし。
釈:諸比丘よ、確かに如何なる人でも、七年の時間をかけて、このように四念処を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得る。現世において解脱の究竟智を得て、無余涅槃に趣くことができる。あるいは有余涅槃を証得し、再び人間に生まれることを望まない。つまり三果か四果のうち必ず一果を証得する。諸比丘よ、あなたがたは七年の時間をかけて四念処観を完成させる準備をすべきである。七年の間、心心念念が四念処観であれば、こうして必ず三果か四果のうちの一果を成就する。
諸比丘よ、確かに如何なる人でも、それぞれ六年の時間、あるいは五年の時間、あるいは四年の時間、あるいは三年の時間、あるいは二年の時間、あるいは一年の時間をかけて、このように四念処を修習すれば、二つの果のうちの一つの果を得る。即ち現世において解脱の究竟智を得て、無余涅槃に趣くことができる。あるいは有余涅槃を証得し、還来せざるを期待する。つまり三果か四果のうち必ず一果を証得する。諸比丘よ、あなたがたは六年、五年、四年、三年、二年、一年の時間をかけて四念処観を完成させる準備をすべきである。これらの時間の中で、心心念念が四念処観であれば、必ず三果か四果のうちの一果を成就する。諸比丘よ、一年の中で念念が四念処観となるように修習すべきである。
原文:如何なる人でも七ヶ月の間。このようにこの四念処を修するならば。二果の中の一果を得る。即ち現法に於いて究竟智を得る。或いは有余なる者として、還来せざるを期待する。諸比丘。七ヶ月の間の念を建立すべし。実に如何なる人でも。六ヶ月の間……乃至……五ヶ月の間……乃至……四ヶ月の間……乃至……三ヶ月の間……乃至……二ヶ月の間……乃至……一ヶ月の間……乃至……半ヶ月の間。このようにこの四念処を修するならば。二果の中の一果を得る。即ち現法に於いて究竟智を得る。或いは有余なる者として、還来せざるを期待する。諸比丘。半ヶ月の間の念を建立すべし。
釈:確かに如何なる人でも、七ヶ月の時間をかけて、このように精進して四念処観を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得る。一つは無余涅槃であり、現世において解脱の究竟智を得る。一つは有余涅槃であり、未来世に再び人間に生を受けることを望まない。諸比丘よ、あなたがたは七ヶ月の時間をかけて四念処を修習し、心心念念が四念処であれば、涅槃を証得する。実際に如何なる人でも、六ヶ月の間、五ヶ月の間、四ヶ月の間、三ヶ月の間、二ヶ月の間、一ヶ月の間、半ヶ月の間、このように精進して四念処を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得る。即ち現前に無余涅槃または有余涅槃を証得する。諸比丘よ、あなたがたは半ヶ月の時間をかけて四念処を修習し、心心念念が四念処観となるようにすべきである。
原文:諸比丘。実に如何なる人でも。七日の間このようにこの四念処を修するならば。二果の中の一果を得る。即ち現法に於いて究竟智を得る。或いは有余なる者として、還来せざるを期待する。諸比丘。これが衆生の清浄のため。憂を度するため。苦悩を滅するため。真理を得るため。涅槃を証するため。唯一趣向する道である。即ち四念処である。このためにこの経を説く。
世尊がこのように説かれた後。それに随喜した諸比丘は。世尊の説かれたことを歓喜した。
釈:諸比丘よ、確かに如何なる人でも、七日の中において、このように精進して四念処観を修習すれば、必ず二つの果のうちの一つの果を得る。現世において究竟の涅槃解脱の智慧を得る。あるいは有余涅槃を証得し、再びこの人間に苦しみに来ることを望まない。諸比丘よ、この四念処観の修習方法は、特に衆生が清浄解脱を得るために説かれ、衆生の憂悲苦悩を度脱するため、衆生の生死苦悩を滅除するため、衆生が真理を証得するため、衆生が涅槃を得るため、唯一趣向する修行の道は、四念処である。このゆえにこの四念処経を説くのである。
世尊がこの経を説き終えられた後、この経に随喜賛嘆したすべての諸比丘たちは、世尊の説かれたことを大いに歓喜した。
なぜ仏は七年から七日など異なる時間で、精進修行すれば四念処観で証果できると説かれたのか。これは善根が深く、煩悩が軽微で、遮障が少なく、前世で仏法を学んだ時劫が長い人々を指す。彼らがもし仏陀が要求されるように精進修行すれば、数日から数年で証果できる。しかし無始劫以来仏法を学んだ時間が短く、煩悩が深重で、遮障が重い人々は、七年以上の精進修行が必要である。おそらく多くの人は百年経っても証果できず、ある人は呼吸を観ることさえうまくできず、心がどうしても静まらず、証果はおろか、ということもある。
しかし確かに仏の説かれたように、如何なる人でも、精進して四念処観を修行し、心心念念が四念処となり、心心念念が観行となり、無始劫以来の五陰世間に対する攀縁の習気を改め、努力して煩悩と業障を降伏させれば、証果はそう難しくはない。難しいのは業障の関を乗り越えられないことであり、自ら決心して真剣に道を求めようとせず、散乱の習気を降伏させられないことである。真に勇猛精進し、経典に説かれるように修行することができれば、証果は保証される。
この四念処観の修行方法は非常に殊勝である。皆さんは小乗の修行を軽んじてはならない。実はこれが修行の近道である。仏の説かれた近道こそ真の近道であり、戒定慧を具足し、実修実証であり、口先の仕事ではなく、情思意解ではなく、考えたり琢磨したりして証果する類のものではない。仏が教えられた修行方法から、何が真の実修と実証であるかを体会し、実修の過程でどのような代償が必要かを知るべきである。ある人々が想像するように理解し明白にし、何の代償も払わず、何の戒も守らず、何の定も修せず、意識的理解の乾慧で証果したとするようなものではない。我々は仏陀の智慧を深く信じ、仏陀の教導に従い、自らの修行に大いに益があるようにすべきである。