四念処経講話 第二版(新修)
第四章 心念処を観ずる(2)
原文:また心に上あるものは、心に上あることを知る。
釈:もし現時点で心の量がまだ最上ではなく、さらに増上すべきであるならば、自らの心がさらに増上すべきであることを知らなければならない。
自らの心がどの段階・位地にあるか、どのような心の量か、煩悩はどうか、定力や慧力はどうか、発心は広大であるかそれとも狭小であるかを観察する。自らの心を振り返って観察し、仏法修行における心の状態が最大であるかそうでないか、最高であるかそうでないかを観る。例えば、ある者が「私は某某の衆生のために奉仕しよう」と発心した場合、この発心は有上(うじょう)であるか? これは非常に低いものであり、故にまだ上がある。さらに増長すべきである。例えば、ある者が「私はただ生死を超脱できれば満足だ」と発心したり、「ただ我見を断ち、三悪道に堕ちなければそれでよい」と発心したりする。この発心は有上であるか? まだ上があるのであり、高いものではない。
最も高い発心とは何か? 仏の発心が最も高く、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就する。ある者の目標は「私はただ人天善法を修め、命終の時には天に生まれて享楽できればよい」というものである。これは小心であり、心にはまだ上がある。また「ただ明心見性できればよい」「十地菩薩になれればよい」と発心する者もいる。この発心もまだ有上であり、仏に成るまでの発心こそが無上(むじょう)である。仏の発心とは何か? 無量無辺の衆生を広く度し、皆が究竟の大解脱を得させることである。この発心は無上である。仏となった時、仏は無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)と呼ばれる。仏の心は全て無上の心である。
では凡夫衆生の心はどうか? 全て有上である。たとえ発心が広大であっても、時として心は広大ではなく、常に有上である。時として心念が正しくなかったり、心念が小さくなったりする。自分個人のため、あるいは小さな集団のため、あるいはやや大きな集団のためである。この心は広大ではなく、全て有上である。自らの発心を観察せよ。有上か無上か?
時時刻刻に「知」を持つこと。この「知」とは警戒心であり、自らの心を警戒するものである。自らの心が今どの状態にあるかを反観する。これは意識の自証分(じしょうぶん)である。自ら自らの心を観察することを自証分の自証分(証自証分:しょうじしょうぶん)という。実はここにもう一つの心も発すべきである。真の発心は意根(まなこん:末那識)が同時に発心する必要がある。では観心には意識が意根の心を観察すること、および意根が自ら意根を反観することも含まれるが、これは非常に明瞭に観察するのは容易ではない。畢竟、意根は甚だ隠微である。故に観心は完全に意識の自証分の自証分ではなく、意識の自証分と意根の自証分の自証分も含まれる。自証分とは識心が発見した事実を証明することである。発見した事実に意根の心がある場合、それを意根がどのような心であるかを証得するという。意根が貪心か瞋心か愚痴の心かを発見する。これを発見したことを自証分という。もし意識自身と意根が自らの心を発見する場合、これを自らを反観する、自心を反観するといい、自証分の自証分である。故に自証分の自証分は必ず自らを証明するものである。
第八識(阿頼耶識)の自証分の自証分は、必ず第八識が自らの心行(しんぎょう)及び運行の行相(ぎょうそう)を発見し、証得したものである。意根の自証分の自証分は、意根が自らの心行と運行の行相を発見し、証明したものである。前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)も同様である。眼識の自証分の自証分は眼識が自らの活動を証明できることである。識心が再び他の識を観ることを反観とは呼ばない。あたかもこの人が他人を観察することを反観とは呼ばず、自らを発見することを反観といい、他人を発見することを観という。
ある修行者は自らを修めず、専ら他人を修め他人を観る。自らを反観しない。修行はまず自らを反観することである。自ら反観する能力ができてから、初めて他人を照らし他人を観る。他人を観る時、再び光を返して自らを照らし、対照点検する。他人の身から自らの不足を発見する。これが警戒心、覚悟の心である。故にこの「知」は、智慧のない者、禅定のない者には決して存在しない。彼は毎日心が散乱しており、散乱した心が到る所に攀縁(はんえん)し、決して回観(反観)しない。心を自らの身に戻さず、自らの心念に戻さない。これでは覚悟がない。
縁に随い攀縁するのは散乱心であり、自心に対して「知」を持つことはない。自心を知らなければ道を修めることができず、覚悟できず、自心を変えることができない。故に真に修行する者は、心の中に時時刻刻「知」を帯びていなければならない。自らを知る明(めい)があり、さらに人を知る明を持つ。菩薩は自らを知るだけでなく、人をも知らなければならない。自己修行の段階にある者は、まず自らを知り、能力があってから人を知る。人を知った後、他人を変え導くことができる。これが大乗菩薩の心である。
原文:また心に無上のものは、心に無上のことを知る。
釈:自らの心が広大無上となった時、自らの心が広大無上であることを知らなければならない。
仏が我々に心の無上を観じることを求められる。この心無上とは何を指すのか? 自らの過去と比較して、過去の心は全て今の心より高くはない。凡夫の心が無上の時とは、発心が非常に広大な時である。発心が広大な時、行為は必ずしも広大ではないが、心は既に大きい。しかし常に大きいわけではない。観心の時、自らの心に何が生じ、何が変わり、どこまで変化したかを自ら時時刻刻に了知しなければならない。光を返して自らを照らす能力を持つこと。これが覚悟性である。
自らの心が法喜に満ちているか、心量がとても広く大きいかを観察する。仏法を修学し、今では大いなる心を発し、心が非常に精進し、必ず精進修行して早く成就し、無量無辺の衆生を広く利益しようと発願する。これが仏となる広大な心を発したのであり、この時の心を無上の心という。しかし凡夫は常にこの無上を保つことはできない。ならば自らの心念を点検し、時時刻刻に光を返して自らを照らし、心が無上であることを発見したら保ち、心が有上であることを発見したら、速やかに自らを高め、自らを覚悟させ、自らを促して大いなる心を発し、無上の心を発せしめる。
原文:また心に定あるものは、心に定あることを知る。
釈:心の定(じょう)と心の集中はやや似ている。どちらも一処に定まり、一処に集中することを表すが、それらにはなおいくつかの区別がある。いわゆる集中とは、心が到る所に攀縁散乱している状態から、次第に一ヶ所にまとまることである。心の定は単に集中だけでなく、深さも含まれる。心が入り込んで動かず、一処に定まる。心が二ヶ所にあるのは定か? ある者は注意力が非常に強く、精力が非常に旺盛で、三ヶ所に定まっても专注力が相当に強く、どれもよく配慮できる。大智慧大禅定の者でなければこのようにはなれない。
智慧がなく、禅定のない者は、心を一処に定めることすらできず、一つの事も円満にできない。大智慧の者は、千軍万馬を指揮しても、依然として泰然自若として余裕がある。心が二ヶ所三ヶ所に定まるのは定か? ある者は四ヶ所に定まっても、依然として定である。その心念の力がどうか、各所で精力が非常に旺盛か、全て配慮できるか、了別が非常に明瞭か、思惟力が敏捷かによる。何を定というか? 一つの法に专注することを定といい、二つの法に专注するのも定という。この人は能力が強く、同時に十人全員を見張ることができる。能力の強くない者は、一人を見張ることすらできない。何を定というか? 問題を解決する能力・精力、これを定という。心が非常に散乱している者は心力が弱く、この時は心を集中させる訓練しかできず、定めることはできない。定力が相当に良い者だけが、心を幾つかの所に定めて散乱しない訓練ができる。
仏がここでなぜ二つの現象を挙げられたのか:一つは心の集中、もう一つは心の定。この二者には何の違いがあるか? 集中には深さがなく、力がない。ただ散乱しないだけである。定には一定の深さがあり、必ずしも一処に集中しているわけではない。能力の高い者は一軍を統率し、軍長・司令官となることができる。能力の低い者は、ただ班長にしかなれない。これを心の差別、能力の差別という。
定にはもう一つの概念がある。広義では決定心をいう。心が何らかの法に対し、ある種の決定性を生じ、認可肯定を加えることである。例えば仏法を修学し、十信位(じっしんに)に修めた時、仏法に対し決定心を生じ、必ず菩薩となり自利利他すると決定する。これが決定心である。その後、菩薩の六度(ろくど)に対し決定心を生じ、必ず菩薩六度を修学し、必ず明心見性しようと発願する。これも決定心という。あるいは更に一種の決定心を生じ、五蘊十八界の無我を観行し、我見を断とうとする。これも決定心である。決定心には二種類ある:一つは意識心の決定、もう一つは意根の決定。最初に決定を起こすのは意識であり、最終的に決定を起こすのは意根である。そして実行に移せる。意識が決定した後、意根に報告して審査を求め、意根も決定した時、初めて意識の決定は有用となる。結局は意根が決定する。
いかなる法の決定も、実施する時は意根が決定する。意根が決定してから六識は行動を採ることができる。六識の決定は行動に落とし込めない。なぜなら六識は五陰身の主人ではなく、主となれず、身口意行は自在でないからである。身口意行は意根が発動する。意根は指導者であり、意識は参謀である。指導者は参謀の意見を採用することもできれば、採用しないこともできる。採用すれば、あたかも意識が主のようであるが、実際には依然として意根が主である。仏法においても世俗法においても、もし意根が主となって決定すれば、全ての精力・注意力が全て転じられ、六識は専心して決定を実行する。結果と過程は六識の智慧を体現するだけでなく、意根の智慧も含まれ、如来蔵(にょらいぞう)は智慧の種子を蔵する。
定は六識・七識(意根)のどちらも持ち得る。定の実質は依然として意根の定であり、意根の定が六識の定を決定する。意根に定がなければ、六識にも定はない。六識・七識はどちらも発心できる。一つは表層、もう一つは深層である。最終的には意根の発心が根本であり、最後の決断である。意根が発心して初めて行動力が生まれる。心の広大と狭小も、意識と意根の広大と狭小に分けられる。
原文:また心に解脱あるものは、心に解脱あることを知る。
釈:自らの心に解脱がある時、自らの心に解脱があることを了知しなければならない。
観心の時、自らが何らかの法から解脱した時、自らの心が何らかの法から解脱したことを知らなければならない。解脱とは何か? 一本の縄で結び目を固く縛られ、拘束され、自在でなく自由でない状態が解脱でない。逆に、結び目を開き、自由自在で束縛されない状態が解脱である。縄の結び目は心の結び目に喩えられる。なぜ心の結び目があるのか? 心が何らかの法に繋がれ、離れられず、脱出できない状態が結縛(けつばく)であり、係縛(けばく)ともいう。心をそのような法から移し離脱させ、再び気にかけず心配しなければ、結び目は開かれる。これを解脱という。衆生の心の結び目は極めて多く、一つの法に触れればその法に粘着し、一つの法に束縛され、心に一つの結び目が増える。衆生は境に著(じゃく)するのが非常に習慣化しており、境に対して無心になることができず、束縛されて苦しくても覚悟できず、解脱する方法を知らない。
心の結び目は無量無辺に多く、大小がある。衆生の心はどの法に係縛されているのか? 色受想行識の五蘊(ごうん)に、六根と六塵の十二処(じゅうにしょ)に、六根六塵六識の十八界(じゅうはっかい)に、我に、人に、衆生に、寿命に、三界世間の一切の法に、全て結縛がある。凡夫は一つの結び目も開かず、心は解脱しない。色を見て色に縛られ、心は色に対して解脱しない。声を聞いて声に縛られ、心は声に対して解脱しない。香を嗅いで香に縛られ、心は香に対して解脱しない。味を嘗めて味に縛られ、心は味に対して解脱しない。触を覚えて触に縛られ、心は触に対して解脱しない。法を知って法に縛られ、心は法に対して解脱しない。
では解脱とはどのような境界か? 色を見る時に色に著せず、心念を動かさず、貪らず厭わず、苦しまず楽しまず、これが心解脱の相貌(そうみょう)である。色が来たり去ったりしても、憂いも喜びもなく、全く掛礙(けげ)がなく、心は解脱している。声・香・味・触・法が来たり去ったりしても、憂いも喜びもなく、全く掛礙がなく、心は解脱している。人・事・物・理が来たり去ったりしても、憂いも喜びもなく、全く掛礙がなく、心は解脱している。我々は解脱の味を嘗めたことがあるか? 全体的に言えば、解脱の味を嘗めたことはない。個々の法に対して時々心で理解できて初めて一時的に解脱する。例えば以前は非常に一つの事に執着していたが、思惟分析を通じて、この事の執着は無意味だと感じ、そこでこの事柄に対して放して執着しなくなる。これをある事柄に対して心が解脱したという。時には食べ物・着物・住まい・用いる物に対して少し諦めれば、心は少し解脱する。
また例えば受陰(じゅおん:感受作用)の機能作用に執着しなくなれば、享受しても良く、享受しなくても良く、気持ちが良くても良くなくても、全てどうでも良く、好きでも厭きてもおらず、受覚に係縛されず、受に執着しなければ、受陰において解脱する。最も解脱しにくいのは識陰(しきおん:認識作用)である。必ず何らかの法を知らなければ、心は面白く感じ退屈しない。知らなければ非常に苦しく感じる。修行を通じて識陰の作用への執着が減れば、ある人・事・物・理を知ろうと努めなくなり、何も知らない時に心も退屈に感じなければ、少し解脱する。もし色を見て声を聞く時に心が著さず、喜ばず厭わなければ、来ても去ってもどうでも良く、心は解脱する。五蘊十八界に心が著さず、欣喜せず貪着しなければ、心は解脱する。しかしこれはまだ究竟の解脱ではなく、究竟の解脱は仏地の解脱である。
原文:また心に未だ解脱せざるものは、心に未だ解脱せざることを知る。
釈:もし心がまだ解脱していなければ、自らの心がまだ解脱していないことを了知しなければならない。
観心の中で、もし自らが何らかの法に対して心がまだ粘着しており、解脱していないことを発見したら、自らがはっきりと了知しなければならない。これには時々光を返して自らを照らし、ある事に出会った時、自らの心がどの状態か、この事に非常に貪執して離れられず、心が葛藤し、苦悩しているか、あるいはまた心喜び楽しんでいるかを反観する。もしそうであれば、心がこの事に係縛されていることを示し、解脱しておらず、心に知らなければならない。
例えば他人が私にいくら借りているか、私が時時刻刻この事を念じていれば、私の心はこの事に係縛されており、解脱しておらず、人や事に対し心が常に念じ考えていることは、心が係縛されていることを示し、解脱していない。解脱を得られない心は苦悩し自在でなく、歓楽もまた煩悩で自在でない。特に楽しいことは更に煩悩である。心が平平静静で波風が立たない状態が解脱し自在であり、最も快適である。苦受(くじゅ)自体が苦であり、楽受(らくじゅ)は壊苦(えく)である。不苦不楽受(ふくふらくじゅ)は行苦(ぎょうく)である。受あるものは皆苦であり、一切の法に著さなければ解脱である。
観心の時、あらゆる事に出会い、時と場所を選ばず自らの心を観察し、心が法に対して解脱しているかどうかを点検し、心に時時刻刻了知しなければならない。もし法に対し非常に強い瞋りや強い愛着を生じ、心が境に粘滞(ねんたい)すれば、解脱していない。心念があるだけで束縛であり、解脱していない。修行の目標は心に解脱を得させることであり、しかも最も究竟の解脱、仏地の大解脱を得させることである。それには一切の法に著してはならない。
真の解脱は一つは人我執(にんがしゅう)を断ち、五蘊十八界に執着せず著さず、解脱を得ることであり、これは三果・四果の聖者である。もう一つは法我執(ほうがしゅう)を断ち、一切の法に執着せず著さず、解脱を得ることであり、これは初地・二地・三地・四地…十地・等覚の菩薩である。法執を断じ尽くし、一切の法に全く執着しなければ、仏となる。一切の法に対し、全て解脱自在であるのは仏のみである。菩薩は一切の法において、一部は解脱し、一部は解脱していない。心が執着すればするほど、頑固であればあるほど、解脱しない。凡夫衆生は皆、五陰十八界・三界世俗法に執着しており、ある法はまだ執着できず、その煩悩はまだ現前しない。故に法執を断つことはできず、法執は必ず地上菩薩から断ち始める。
以上、観心の内容を述べた。自らの心に貪瞋痴の煩悩があるか、普段ある人・事・物・理・一切の法に対し、貪念か離貪の念か、瞋りか瞋らないか、痴か痴でないか、心念は集中しているか散乱しているか、心行は広大か狭小か、発した心は有上か無上か、心は定があるか定がないか、解脱しているか解脱していないか。これらの内容が観心の範囲である。
毎日、如実に自らの心念を観察できれば、心は非常に細やかになり、禅定は増強する。心の状態を観察できれば問題は解決しやすい。賊を認識し賊を見張るのと同じである。まず賊を認識し、次に賊を見張る。最後に賊は何も造作できず、自ら去り、家財は盗まれずに保たれる。毎日このように観心し、心の中に常に「知」を持たねばならない。この「知」が覚悟の心である。何人が覚悟しているか? 多くはない。多くの者は六塵の境界に随って転じ、甲が来れば甲に随い、乙が来れば乙に行き、丙が来れば丙に走る。東西南北・四維上下、縁のある所へ行く。衆生の心はこのように散乱し、攀縁し、解脱せず、一切の境界に執着し係縛されている。修行とはまず心を認識し、次に心を見張り、最後に良し悪しを知り、心が徐々に変わり、万法を空と見抜けば解脱を得る。
原文:かくの如し。あるいは内心に於いて心を観じて住す。また外心に於いて心を観じて住す。また内外心に於いて心を観じて住す。
釈:このように観行(かんぎょう)する。心はあるいは内心(ないしん)を観じることに住し、その後で外心(げしん)を観じることに住し、最後に心は内外心を同時に観行することに住さねばならない。
観心の時は、内に向かって色身(しきしん)を縁(えん)とする内心を観行し、過去未来を縁とする内心を観行し、思惟推理判断研究反照の内心を観行する。心は内心を観ることに住し、また六塵境界を縁とする外心を観なければならない。心は外心を観ることに住し、再び同時に内外心を観る。心は内外心を観ることに住する。観行の時、内外心の状態を全て観行し、自らの心の中で今動いている念で外の六塵境界に接触しない心が、貪か瞋か愚痴かを全て観察し明らかにする。この心は有上か無上か、解脱しているか解脱していないかを全て観察しなければならない。これを為すのは容易ではない。自らを知る明は容易には得られない。故に自らの心を観ることは容易ではない。各人の内心の結縛がそれほど多く、自らの心を観なければ問題を発見できず、自心を変えることもできない。自らの心がどの状態にあるか、善か悪かさえも知らなければ、どうやって変えるのか?
楞厳経(りょうごんきょう)で仏は七識心(前六識+末那識)は色身の内にもなく、色身の外にもなく、色身の中間にもないと言われる。しかし仏が観心を説かれる時、なぜ内心と外心があるのか? 心念が色身の内にあることを方便的に内心という。心が外に向かって六塵境界に攀縁する時は、あたかも出て行ったように見えるが、実際は出ていない。これは単なる方便の説法であり、あたかも外界を攀縁しているように見えるため外心と呼ばれる。外心は六識が外に向かって攀縁する時の名称である。
観心の時、もし心が回想していることを発見すれば、これは独頭意識(どくずいしき)が運作しているのである。そして心を再び内に収摂し、戻ってこの心がどの心理状態にあるか、貪瞋痴があるかないか、解脱しているか解脱していないかを観る。再び心が六塵境界に対している時、貪瞋痴があるかないか、定があるかないか、解脱しているか解脱していないか、有上か無上かを観る。
自らの心理状態を観察すれば、自らの心が清浄かどうかが分かり、自らの心念が善か不善か、思想が正しいか正しくないかが分かり、どう処理すべきかが分かる。ではどう処理すべきか? 意根は意識が観察した状況を知り、後で思量する。何処へ行くかは意根次第である。意識は一定の思惟作用を起こせるが、残りは全て意根の事である。意根が思量した後、決断を採る。決断の結果は少しずつ良くなり、以前の貪瞋痴煩悩を少しずつ改める。意根が変わる前提は意識が善く思惟し、何が正しいか正しくないかを知り、思惟の過程と結果を意根に伝えることである。意根は思量すれば知り、以後は正しく決断決定する。こうして意根は降伏され変わる。
意識と意根の二つの心は働く時に分業し、それぞれ重点があり、和合運作して五陰身の身口意行を完成する。修行はまず意識が正念正見を持ち、意識が理を明らかにし、意識が智慧を持つことである。次に意根が意識に依り、自らの思量を起こして初めて理を明らかにし、智慧を生じ、決断決定心を生じれば自心を変える。心はこのように変わる。自らを変えるにせよ、環境を変えるにせよ、一切の法を変えるにせよ、皆このように変わり、意根が主となって決断し、如来蔵が随順すれば変わる。
意根が思量し明らかにして決断心があれば問題は解決しやすい。意根が比較的堅固で力があれば問題は解決しやすい。「私はどうしてもこうする」と決めれば、如来蔵は仕方なく、そうさせる。真に力があるのは無論如来蔵であり、全能である。何ものも如来蔵が意根の決定を実施するのを阻めない。もちろんその後には因縁・業種などの条件が必要である。業種には前世の業種もあり、現存の業種もある。現存の業種が作用するには、種子の力が相当に相当に大きくならねばならず、業種は直ちに成熟して現行できる。意根が為したい事は成し遂げられる。もし意根に力がなければ、蔵する業種は微々たるもので力がなく、因縁は成熟しにくい。意根が力を持てば持つほど、蔵する種子は充実し、成熟は早まり、速やかに果報を実現できる。
もし意根に力を持たせたいなら、智慧も必要である。智慧には禅定が必要である。智慧が大きければ大きいほど、善業種を蔵しやすく、修行は一生で成就し、一つの事は速やかに成就する。もし心に力を持たせたいなら、定が強くならねばならず、慧も強くならねばならない。決定性は非常に強く、意志は堅固である。決定性が強くないと業種は成熟しない。例えば念仏の時、心はただひたすら極楽世界に往生しようと決め、非常に堅固であれば、極楽世界のあちらでは蓮華が造り出され、極楽世界の景象も現前する。如何にして現前するか? 意根が非常に極楽世界を念じれば、如来蔵は極楽世界を現じ出す。意根が念じなければ現前しない。
修行はまず意識が前行(ぜんぎょう:準備段階)を導き、しかも正しく導き、一つの正しい道を開拓する。意根はその後で随行でき、如来蔵は意根に随って一切の法を出生すれば、一切の法を成就できる。もし意識が道を誤って導けば、意根も道を誤って随い、如来蔵は東西南北を弁別せず、意根に随って染汚法を出生する。結果は生死輪廻の苦である。三能変識(さんのうへんしき:第八識・第七識・前六識)の中で、意識はこのような作用を起こし、意根はあのような作用を起こし、第八識は別の作用を起こす。それぞれに作用がある。成仏の道を如何に歩むか、如何に成仏するか、心は明らかにすべきである。意識は広く学び多く聞き、正しい道を選択し、意根を導く。意根が決定心を生じれば光明の大道を歩み、心が変われば修行は成就する。
世俗法もこのように成就する。意識が道案内し、意根がその後を随い、如来蔵は後備軍である。糧秣(りょうまつ)を充分に提供し、何を求めても提供する。最後には成就できる。例えば家を建てる場合、意根と六識は上で家を建て、如来蔵は背後で材料を提供する。八識が協力すれば家は造られる。如来蔵が意根に協力する前提条件は、六・七識がまず協力することである。六識が導き、意根が思量した後「私は如何に家を建てるか、どの様式で建てるか」と決定すれば、如来蔵は随順して一緒に建造する。三能変識は、一つ欠けてもならない。誰が最も重要か? 皆重要である。もちろん後の方ほど重要である。
六・七識が前で道を開拓し決定すれば、後ろの如来蔵が原材料を与えず、種子を提供しなければ、六・七識もどうしようもない。原材料はどこから来るか? やはり六・七識が共同で蔵したものである。如来蔵は無から有を生じることはない。あなたが種子を蔵していなければ、種子を取り出せず、原材料は供給できない。六・七識がまず資糧(しりょう:福徳・智慧の糧)を蔵し、五識も参与する。資糧を蔵した後、事を為そうとする時、因縁が具足して如来蔵が再び取り出す。故に我々が大いなる心・大いなる願を発して何らかの法を成就しようとするなら、まず種子を蔵さねばならない。さもなければ何の法も成就できない。もし福を修めずに成仏しようとするなら、それは方法がない。如来蔵は虚しく種子を生じることはできず、巧婦も米なしでは炊事が難しい。故に一切の法の造作は、やはり自らが造作する。種子は如来蔵の庫裏(くり)に置かれ、他の生滅する信頼できない所には置けない。使う時に初めていつでもどこでも取り出せる。取り出せなければ、妄想も無意味である。修行はやはり六・七識自らが修める。六・七識が修まり、六・七識が変われば、万法は変わり、六・七識の願を満たす。これが修行の過程である。
原文:あるいは心に於いて生法を観じて住す。あるいは心に於いて滅法を観じて住す。また心に於いて生滅法を観じて住す。
釈:観心の時、心の上の生法(しょうぼう)を観察し、心は生法を観察することに住する。あるいは心の上の滅法(めっぽう)を観察し、その後心は心の滅法を観察することに住する。最後に同時に心の生法と滅法を観察し、心は生滅法を観察することに住する。
生法とは何か? 私が今一つの問題を思考し、突然一念が出現し、何を考慮しようかと考え、問題を考慮するこの法が生じる。新たに生まれた法、例えば一念を起こしたばかり、あるいは眼が色を見て心が生まれて運作することを生法という。心に善に向かう心行が出現する、あるいは貪念が出ることを生法という。心に今瞋心が生じることを生法という。今心に定がある、心の定の法が出現する。今ある事・人・物を諦める、解脱の法が出現することを生法という。元々なかったものが今出現する、これが生法である。
滅法とは既にある法が消失して見えなくなることである。例えば以前の貪念が今はないことを滅法という。以前心が散乱していたが今心が定まる、散乱心が滅することを滅法という。さっきまで怒っていたが今は怒っていない、瞋心が滅することを滅法という。自らの心念の生住異滅(しょうじゅういめつ)、心の状態を全て掌握し、自らを知った後、自らがどのような心行か、禅定・智慧・持戒、戒定慧が具足して無我を証得した時、心念が転変し、大智慧が生じる。徐々に貪瞋痴煩悩を断除できる。これは自然の修行過程である。例えば目の前に一匹の猿がいる。あなたがそれを見張れば、徐々に猿は居心地が悪く感じ、騒がず走らず跳ねない。ただ認識し、見張ればよい。あたかも窃盗犯が、まず彼の顔を識り、認識し、見張れば、彼は手足を動かせず、人に見張られては盗みをするのが気まずくなる。自らの心はあたかも泥棒のようであり、彼を認識し、見張れば、後続の仕事はやりやすい。
心の中でこの法が生じ、あの法が滅するのを同時に観察しなければならない。この時定も増強し、慧も増強する。初めに生を観、後に滅を観、更に後に生滅を同時に観る。初めに内心を観、後に外心を観、後に内外心を同時に観る。定慧が増強して初めて為せる。同時に観ることは、心が一つの法に住するか二つの法に住するか? 三つ四つの法に住する時も定である。
故に定の概念とは何か? ただ一境に专注する、あるいは心を滅することを定というだけでなく、全ての法を明らかにする能力があれば定がある。もちろん慧もある。もし定慧がなければ、一つの法を観ても定中で観るのではなく、この一つの法は解決できず、慧は生じない。生法・滅法・生住異滅、これほど多くの法を全て観察できれば、この定力は相当に良く、定が浅ければ為せない。この中にも智慧が出現し、全ての法を解決する。一切の法の出生と滅去を見張ることができれば、定慧が具足する。この中に戒はあるか? 不如法な心行がなければ戒である。こうして戒定慧は具足できる。ただ毎日自らを観察し、戒定慧が具足すれば、初果から四果まで成就できる。ただ覚悟せず、心が境界に散じて去るのを自覚しないことを恐れる。このように観行した後、最後の結果は何か? 心心念念に観心の心がある。
原文:尚また智識の成じたる所、及び憶念の成じたる所、皆心の思念を会して現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執著せずして住すべし。諸比丘よ、比丘はかくの如く心に於いて心を観じて住すべし。
釈:智慧の認知によって形成されたもの、および心の憶念によって形成された結果、心念には必ず心に関する念が出現する。あなた方は何らかの法にも依らずに住し、かつ世間のいかなる物にも執着せずに住さねばならない。諸比丘よ、比丘はこのように、心において心を観じて住さねばならない。
専注して自心を観察し続けるため、禅定と智慧が共に向上する。この時、心心念念は全て自心である。これは智慧の観行の結果、憶念の結果である。心は常に自心を思念し、自心を観察し、自心を思考分析し、自心を調伏する。しかし心にこれらの念があると、心は清浄でなく、心念から解脱できず、心念を滅し、心念を空と見ねばならない。心にはもはや何の法もなく、何らかの法にも依らずに住する。かつ世間のいかなる物にも執着せずに住する。心は空空蕩蕩(くうくうとうとう)、清々浄浄(せいせいじょうじょう)である。
智識の成じたる所とは何か? 自心を観察するその心が、不断の観行を通じて智慧が次第に向上し、一つは境界に随って流転せず、二つは自心の心念を明瞭に観察し、三つは自心が降伏されることである。智慧がなければ、心は境界に随って流転し自覚しない。智慧があって初めて自覚する。これを智識という。心念を観察し続ける心を智識という。憶念とは何か? 観心の後、心は常に自心の状態を回想思惟する、つまり憶念である。観心の全過程が心の中で旋回し反復し、自心の置かれた状態を知る。心念によって成就されるものであり、これも憶念という。観心の最終結果、心には常に「我」があり、常に自心が貪瞋痴か無貪瞋痴かを憶念回想観察し、常に自心の置かれた状態を思惟する。常に自心を思念し、定慧が具足する。
観行が固着した心念を形成した後、観心に住する。心に住する所があることは係縛である。最後にこの心念も放し空にし、住する所なく、心は初めて解脱を得る。観る所の心も捨て去り、住する所なく、心は空となる。あたかも洗濯のようである。衣服を洗浄した後、石鹸の泡と水は全て除去しなければ衣服は着用できる。観はあたかも石鹸・洗剤・水のようであり、衣服は観の対象のようである。観心の後、心心念念は心であり、内心は時時刻刻自心を思念する。最後に思念する念も空にしなければならない。心は住する所なく、思念に住さず、心は空となる。観じる心、観じられる心は、全て無常・空・幻化であり、執着すべきでない。観じるもの観じられるもの全てが泯滅(みんめつ)すれば、心は空となり寂静となる。観じるもの観じられるものは全て無常であり、我ではない。この観じられるものは六塵境界ではなく、心である。観じる者は六・七識であり、観じられる六識と七識は全て空であり、全て住する所なく執着すべきでない。
四念住(しねんじゅ)を修め終われば我見を断つ。心を空にすれば我見を断ち、かつ三果・四果を証得できる。観じるもの観じられるものの心が真実でないこと、生滅異住(しょうめついじゅう)すること、全て生滅変化し起滅無常であり、我でないことを了知する。空にした後、心は依る所なく住する。もし依る所があれば、それを真実と見做し我見を断てない。依る所なく住した後、かつ世間のいかなる物にも執着せず、心にも依らず、物にも依らず、心を空空(くうくう)と放ち、物も空と放てば、空果(くうか:空を証得する悟り)を証する。ただ内心に法が存在すれば、それを空と見做し、真実と認めなければ、初めて我見・我執を断てる。
大乗法の観点から言えば、一切の法を空にした後、残るのは如来蔵のみが空でなく、依然として存在する。これは大乗法如来蔵の境界を証得したものである。あたかも楞厳経の耳根円通(にこんえんつう)で説かれる:観じるもの観じられるもの全てを空にし、空をも空にし、一切の空を全て空にする。耳根円通を修め終われば、如来蔵のみが残る。円覚経(えんがくきょう)もこのように説く。心に心念があるものは全て空にすべきであり、空の心念も空にすべきである。空にできるもの空にされるもの全てを空にし、如来蔵以外は何も存在せず、その後如来蔵にも執着しなければ、修学は極みに達する。無量千万億の化身が現れる。修め終われば甚深の禅定と智慧の三昧(さんまい)境界である。
修行はこのように一路空にし続け、凡て生滅変化する法を空にし、その後何らかの法が空であると見做すなら、更にこの見做す知見も空にし、法を空にし、更にこの空も空にし、凡て心の中に物があれば全て空にし、心も空にし、心の中の物も空にし、空にできるもの空にされるもの全てを空にすれば、ただ一つどうしても空にできない如来蔵のみが残り、究竟の極みに達する。これは一般的な明心見性(みょうしんけんしょう)ではなく、究竟の極みに達した明心見性である。観音菩薩の修めた耳根円通章はこのようである。四念処を修め終わっても、五蘊十八界を空にするが、必ずしも如来蔵の不空を証得できるとは限らない。