衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1263

第一章 総説

原文:かくのごとく我聞きき。一時、世尊はコーラ国に住したまいし。剣磨瑟昙(ケンマセドン)と名づくるコーラ人の市鎮に。その処において、世尊は諸比丘に告げたまわく。諸比丘よ。彼等比丘は世尊に応諾す。世尊かくのごとく曰わく。諸比丘よ、衆生の清浄のために、憂悲を度するために、苦悩を滅するために、真理を得るために、涅槃を証するために、唯一趣向する道あり。すなわち四念処なり。

釈:かくのごとく我聞きき。ある一時、世尊はコーラ国のコーラ人の市鎮に住み、市鎮において法を説く時に諸比丘たちに言われた:「諸比丘よ」。比丘たちは答えて言った:「世尊よ」。世尊は言われた:「諸比丘たちよ、衆生が心を清浄にしようと願い、憂悲苦悩を越えようと願い、真実の四聖諦の理を得ようと願い、涅槃を証得しようと願うならば、ただ一つの趣向する道があり、ただ一つの修道の方法がある。それは四念処を修習することである」。

「かくのごとく我聞きき」。これは仏が涅槃に入られた後、阿難が大衆の面前で、仏が当時いかにしてこの経を説かれたかを復唱したものである。「一時」とは、具体的にいつであるかは言わない。なぜならこの時間は定めがたく、インドではあの時間、我々中国ではこの時間、天上ではまた別の時間であり、各層の天の時間も異なるからである。それ故に仏経ではあえて具体的な時間を言わないのである。世尊が法を説かれるのは三界世間の人天の大衆のためであり、特定の地域の衆生のためだけに法を説くのではない。度衆の範囲は非常に広範であるため、具体的な時間を言わないのである。世尊が坐を正された後、比丘たちを呼びかけ始められた。目的は比丘たちに注意を集中させて法を聴かせるためである。比丘たちが世尊に返答した後、心は沈静し専心して法を聴くようになり、その後世尊は説法を始められたのである。

四念処観を修すれば、上述の利益を得ることができる。心が清浄になり無量の憂悲苦悩を越え、真理を得、涅槃を得る。この修道の結果は小乗にとっては最大の利益である。心の清浄とは何か。清浄とは貪・瞋・痴の煩悩および煩悩の習気がなく、執着がなく、無明がなく、染汚されていないことである。しかし衆生の心は往々にして清浄ではなく、極めて多くの煩悩と無明がある。どのような煩悩があるのか。貪愛があり、様々な人・事・物・理を貪り、財・色・名・食・睡を貪り、見るものすべてを貪り、何もかも我がものにしようとし、我に属するものが多ければ多いほど良いと考える。瞋恚があり、境界に遇うと動輒して腹を立て、怒り、憤り、嫉妬し、憎む。また愚痴があり、真の道理は何もわからず、一事も知らず、内面は無明ばかりで、自分が愚かであることすら知らず、非常に愚かな者は自分が愚かであることを知らず、他人が愚かだと言っても認めない。

実際、あらゆる衆生には愚痴性があり、明らかでない理がある。いかなる事柄でも知らないところがあれば、それは愚痴無明である。例えば、五陰身が四大からなる仮合の体であることを理解せず、五陰の我が虚妄で無常であり幻化であることを理解せず、いかにして生死の苦を出離するかを理解せず、苦とは何かを理解せず、苦はいかにして現れるかを理解せず、いかにして解脱を得るかを理解せず、なぜ六道輪廻の苦があるかを理解せず、いかにして六道を出離するかを理解せず、仏とは何か、およびいかにして仏となるかを理解しない。しかしながら、いかにして世間の万法を執取し掴み取るかは理解しており、貪・瞋・痴の業を造作し、最後には世間の万法に縛られ業障の深い穴の中に閉じ込められ、自在を得られないのである。

衆生の心には憂悲もあれば苦悩もあり、苦悩は非常に多く微細である。これらの憂悲苦悩を越えようと願うならば、道に趣き修道しなければならない。「度」とは越えること、消滅させることであり、これらの憂悲苦悩をすべて度化し消滅させて、心がようやく清凉を得るのである。真理を得るためには、道に趣き、修道しなければならない。真理とは何か。真の真理とは真実の道理であり、仏陀の説かれた解脱の理に符合し、三界世間の真相であり、覆すことのできない事実である。小乗法における真理とは苦・集・滅・道の四聖諦の理である。苦は一つの真理である。衆生が世間における五陰はすべて苦である。これが真理であり、真実に存在する道理である。苦集は真理である。これらの苦は衆生が無量劫以来、貪・瞋・痴の煩悩によって造作した悪業が積集し感招したものであるため、衆生はこれらの苦の果報を受けるのであり、これもまた真理である。

苦滅は真理である。衆生にはこれほどの苦があるが、修道によって滅することができる。苦は永遠に存在して滅しないものではなく、消滅させることができる。これもまた真理である。苦を滅するために修する八正道もまた真理である。苦を滅除する方法とは何か。それは八正道を修することであり、八正道の修道方法もまた真理である。ただ八正道に従って修行すれば、無量の憂悲苦悩を滅除することができる。要するに、苦・集・滅・道の四聖諦こそが、衆生が修行すべき真理である。この真理を証得することに何の利益があるか。第一に、三悪道に堕ちて苦を受けることがなく、さらには六道輪廻を離れることができる。第二に、貪愛を除去し解脱を得ることができる。解脱した後は憂悲苦悩がなくなり、三苦・八苦・無量苦はすべて滅除され、寂滅楽・清凉楽を得るのである。

涅槃とは何か。涅槃はまた清凉寂静ともいい、不生不滅ともいい、不来不去ともいう。我々の現在の五陰の仮我には生滅があり、来去があり、煩悩があって清凉ではない。生滅の現象を大きな範囲から見ると、無量劫における五陰身の生来死去、あるいは一生一世の生来滅去、生まれてから死ぬまで、すべて生滅のある法である。微細な現象から言えば、五陰は刹那刹那に生滅しており、色身と心念は非常に迅速に生滅し、変化して止まない。五陰はこのように生滅し来去する。しかし涅槃の境界の中には生滅去来の現象がなく、煩いも悩みもない清浄な境界である。修道を通じて涅槃を証得し、不生不滅の寂滅楽を証得し、清凉を得、寂止を得るのである。

涅槃は大乗涅槃と小乗涅槃に分かれる。小乗涅槃は三果阿那含が証得する有余涅槃と四果阿羅漢が証得する無余涅槃である。大乗菩薩が証得する涅槃は、小乗のこの二種の涅槃のほか、主として本来自性清浄涅槃を証得し、不生不滅の第八識如来蔵を証得し、および仏地において証得する無住処涅槃である。本心は常寂光土にあり、心は寂滅しているが、報身・応身および無量無数の化身を用いて無量の衆生を広く度し、仏は一処にも住まず、涅槃の境界にも住さないのである。

阿羅漢が証得する有余涅槃と無余涅槃は、四念処を修習し、身・受・心・法を観行することによって証得される。有余涅槃とは何か。それはまだ残されたわずかな苦があり耐え忍ばなければならないことである。心の中では貪愛は滅したが、三界世間に対する思いは起こさない。しかし色身がまだ存在しており、世間で生活する以上は様々な微細な苦を感招する。例えば、かつてのインドの四十度の高温、太陽が直接体に照りつければ熱く感じる、これが苦である。夏の蚊に刺されれば、体が痒く痛く感じる、これも苦である。また業障によって体が病気になることも苦である。しかしこれらはすべて微細な苦である。なぜなら心に欲求がなく、貪求がないため、苦受は少なく小さいからである。苦の源は貪愛である。衆生は何もかも貪り、貪っている時も苦、貪った後も苦、貪着しても貪着できなくても苦、所有していたものを再び失えば、心はさらに苦に感じる。

無余涅槃とは何か。四果阿羅漢は三界に対する貪愛がすでに断じ尽くされ、命終の時に自分の五陰十八界を滅し、後世がなくなる。智慧解脱の阿羅漢には初禅定しかなく、必ず寿命が終わるのを待って自らを滅しなければならない。倶解脱阿羅漢には四禅八定があり、いつでもどこでも自らを滅することができる。ただ第八識の真心だけが滅びず、それでほんの少しの苦もなくなる。色身がなく、心がないため、いかなる苦受も生じない。このように阿羅漢が無余涅槃に入れば、寂滅楽を得るが、真の楽もない。なぜならそれを享受する者がいないからである。これが小乗が証得する無余涅槃である。

四念処を修すれば、上述の種々の利益を得ることができる。心が清浄になり、無量の憂悲苦悩を越え、真理を得、涅槃を得る。これは小乗にとって最大の利益である。

原文:いかにして四念処とするか。諸比丘よ、比丘はここに於いて、身においていわゆる身を観じて住し、精勤し、正知正念にして、世間の欲貪苦悩を捨離せよ。

釈:仏は言われた:「いかにして四念処とするか。諸比丘よ、比丘は四念処に対して、まず色身を観行し、心を観行する色身に住せしめ、精勤して一心に、正知正念を具足し、世間の欲貪と苦悩を捨離せよ」。

第一の念住は身念住であり、身においていわゆる身を観じて住することである。まず我々の身体を観察し、心念のすべてを自分の身体に住せしめる。この時、心の中で他のことを考えたり、他の妄想を打ったりしてはならない。すべての注意力を集中して一斉に色身を観察する。身を観じて住した後、一つの結果を観察することができる。それは色身が不浄であることを了知し、色身が無常であることを知る。最後に一つの結論を得る。この身体は空であり苦であり無常であり、我ではなく、我の所有でもない。こうして身見を断つのである。

精勤して一心にとは、懈怠せず、ただしばらく観ただけで怠惰になり、心念が走り去ることを許してはならない。常に精勤して色身を観じ、眠っている時は観じられないが、それ以外の時間はすべて観身の中にあるべきである。こうして苦を滅することができる。今話しているのは大まかな輪郭であり、具体的な観行方法にはまだ触れていない。正知正念とは何か。もし観身の時に、念頭が散失し、自分の身体の状態がわからなくなれば、それは正知正念とは言わない。すべての心念は色身、あるいは色身が現在行っていることに集中すべきであり、これを正知正念という。二つのことを同時に行ってはならない。身を観じている時に他のことを思い出し、心念が分散すれば、それは正知正念とは言わない。

このように修すれば、世間の欲貪・苦悩を捨離することができる。なぜなら心の念いのすべてが色身にあり、過去を回想せず、未来も望まないため、それほど多くの煩悩はなく、ただ眼前のなしていることに注意する。心は昨日のことや一昨日のことを思い出して苦・楽・憂・喜の様々な煩悩が生じることはない。もし明日のことや明後日のことを考え慮り、計画や打算が現れれば、心は清浄ではなくなり、雑念が非常に多くなり、心は喧騒で清浄ではなくなり煩悩が生じ始める。もしただ眼前の色身と色身が現在なしていることに注意し、他の雑念がなければ、心中に欲貪もなく、苦悩もない。これが第一観:身を観じて住することである。

原文:受においていわゆる受を観じて住し、精勤し、正知正念にして、世間の欲貪苦悩を捨離せよ。

釈:第二観は受を観じることである。自分自身の内面の感受を常に観察し、心を観察する感受に住せしめる。身体上の様々な感受と心の内の様々な覚受を観察し、すべての心念を覚受を観察することに住せしめ、心の中に世間の欲貪と煩悩があってはならない。覚受はいつ現れるか。眼が色を見るときに感受が生じ、耳が声を聞くときに感受が生じ、人に接し物に接し、行住坐臥のときにすべて感受が生起する。すなわち六根が六塵に触れるときに様々な感受が生じ出す。いかなる事柄の出現でも、六塵境界が現前すれば、内面には感受があり、身体にも感受がある。我々は絶えずこれらの感受を観察しなければならない。

受を観察した結果は、智慧が生じたときにこれら受がすべて苦受であると感知する。そうすれば我々は再び受に貪着せず、一種の出離心・修道心が生じ、最後には修道によってこれらの感受を滅し、これらの感受に執着しなくなる。観行し観察し思惟することによって、これらの感受もまた無我性であり苦であることを証得する。苦であるならば我ではなく、我の所有でもない。

受においていわゆる受を観じて住し、精勤して一心に、非常に精進し、連続して絶え間なく様々な感受を観察し、世間の欲貪が生じず、他の苦悩が生じず、他の考えや念いが生じず、雑念がない。これが精勤である。精勤には別の言い方があり、四正勤という。四正勤とは:未生の善を生ぜしめ、已生の善を増長せしめ、未生の悪を生ぜしめず、已生の悪を滅せしめる。四正勤の精進の修行の中で、悪を断ち善を修めることができるよう期する。善法はまた一心に専念する正念を指すこともでき、悪は乱れた攀縁心を指すことができる。努力して悪を断ち善を修める、これが精進である。

精勤して修行した後、正知正念が生じる。心の念いのすべてが感受を観察することにある。これを正知正念という。もし色身の感受を知らなければ、正知正念ではない。なぜなら心念が他の事柄に転じて専注していないからであり、それは正知ではない。我々が現在なしていることはただこの一つのことであり、それは色身の感受を観察することである。精力と念力を集中してこの一つのことをよく行う。これを正知正念という。正知正念があれば、世間の欲貪と苦悩を捨離することができる。現前に明らかに受が苦であることを感知し、受は我ではなく我の所有でもないことを知り、我見を断つ。我見を断った後は次第に貪愛を滅し、再び感受に貪着せず、欲貪苦悩を滅する。この時、禅定も生じる。

この観行方法は初果以前の凡夫から始まり、いつまで観行するのか。四果阿羅漢を証得するまで観行することができる。観行の後、初果・二果・三果・四果の果位を証得することができる。最後にはすべての欲貪を断じ尽くし、三界の煩悩をすべて断じ尽くし、世間の欲貪と苦悩を捨離することができる。これが第二観:受を観じて住することである。

原文:心においていわゆる心を観じて住し、精勤し、正知正念にして、世間の欲貪苦悩を捨離せよ。

釈:心においていわゆる心を観じて住する。心はいくつあるのか、どの心を観るのか。心は真心と妄心に分けられる。真心は一つあり、第八識如来蔵という。妄心は七つある:眼識心、耳識心、鼻識心、舌識心、身識心、意識心、そして第七識意根。意根は時々処々に主宰する我である。七つの妄心と一つの真心を合わせて総計八つの識である。我々が観心するのは前七識、あるいは前六識を観る。なぜなら第八識は我々が証得していないため観ることができず、小乗もまた真心第八識を観行する必要はない。第七識意根も証知し難く、観行し難い。しかし一般の人は第七識の特定の機能作用を意識の機能作用であるとみなす。それゆえ意識が妄心を観察できればすべて観心の範囲に属し、意識なのか意根第七識なのかをはっきり分ける必要はない。第六識意識心を主とし、第七識を補助とする。

心においていわゆる心を観じて住する。いかにして心を観るのか。心の無常性を観じなければならない。無常とは何か。心の生滅変異性、不定性、これが無常である。六識は毎日生まれては滅することを観行する。これは無常である。最も無常な表現は六識心が刹那刹那に生滅し、心念が絶えず変転することである。六識全体の無常性から見ると、心念は常に変化して止まない。今この瞬間はこのような考え方でも、しばらくすれば変わり、別の考え方に変わる。この心は他人が掴むことができず、自分自身も掴むことができない。心は常に変わり、心念は変わり、思想は変わり、すべての計画や打算はすべて変わる。言い出した約束は果たし難い。それゆえこの心は無常性であり、頼りにならず、自分が自分を頼りにしても頼りにならない。他の人が頼りにすれば頼りになるだろうか。頼りにならない。この心はこれほど頼りにならないのである。

心においていわゆる心を観じることも精勤して懈怠せず、雑念を持たず、正知正念でなければならない。すべての心念が観心にある。現在ただ自分の心念を了知し、他の雑事は考えず攀縁しない。これを正知正念という。正知正念の後、世間の欲貪・苦悩を捨離することができる。すなわち世間への貪愛を断つ。貪愛を断った後、すべての苦悩を滅尽することができる。これが第三観:心を観じて住することである。

原文:法においていわゆる法を観じて住し、精勤し、正知正念にして、世間の欲貪苦悩を捨離せよ。

釈:法においていわゆる法を観じて住する。観行する法には何が含まれるか。五陰の法、六塵の法、六根の法、六識の法、十二処の法、十八界の法、これらはすべて五陰が転々と和合して生じる一切の法であり、行住坐臥、語黙言笑などの種々の法を含む。具体的には五受陰、四聖諦、七覚分、八正道、十二処、十八界を観行する。これらの法を観行するには一層精進して一心に観察し、正知正念で、世間の欲貪と苦悩を捨離しなければならない。法を観じて住する結果は何か。結果は一切の法の中に我は一つもなく、我の所有もないことを証得することである。これは小乗の法無我であり、また小乗の人無我でもある。五陰十八界が転々として生じる一切の法は我ではない。最後には三果・四果を証得し、三界への貪愛を断じ尽くし、すべての憂悲苦悩を滅し、心が清凉を得て解脱し、三界を出離することができる。次に世尊は具体的にいかにして四念処の観行を修行するかを教えられる。

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