四念処経講話 第二版(新修)
第五章 法を観じて住す
第四節 七覚分を観じて住す
一、七覚分の概略
七覚分は七覚支とも呼ばれ、具体的には念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支に分かれる。
第一に念覚支。ある法を修学し、心をこの法に縁らせ、思考観行する際に雑念なく専注すれば、念覚支が現前する。
仏法修学の初期段階では、ある法を縁として修するが、縁を重ねるうちに心が境界に引きずられ、散乱して法を念じ続けられない状態では、念覚支は未成就である。例えば浄土念仏の法門を修する際、初めは仏号を縁とするが、次第に散乱して仏号も往生の念も失われるなら、念覚支は成就していない。ある法を一定水準まで修め、工夫が綿密となり、法を念念忘れぬ境地に至った時、念覚支は成就する。
四聖諦の理を修行する場合、心が常に四聖諦の理に縁り、苦集滅道の理を観行思考し続けるなら、念覚支は成就する。初めは四聖諦法を念じず、思惟観行もない状態から、次第に苦集滅道に心を縁らせ、縁に触れるごとに即座に「これは苦である。苦の生起・集積・滅尽・道の実践」を想起し、心が常に苦集滅道を離れぬなら、四聖諦法における念覚支は成就したと言える。
念覚支は七覚支の初門であり、仏法修学の必須条件である。正理を念念せずしては精進も喜楽も軽安も生ぜず、正理に対する択法も決定も成らず、不如理作意を捨てられず、世俗の煩悩に執着したままとなる。
例えば菩薩六波羅蜜を修する際、常に六波羅蜜の実践を念じ、自らの心を検証する。持戒状況を省み、破戒の際には即座に「厳格に持戒すべき」と自覚する。禅定中に散乱すれば「心を収めるべき」と気付く。般若智慧が不足し経典が理解できない時は「般若修養を深める必要あり」と知る。このように念覚支が成就すれば、菩薩六度に安住し、法と相応する心念を保ち、ついに仏法を証得するに至る。
念覚支は仏法修学の初階梯である。これが成就して初めて、後の六覚支が成就する基礎が築かれる。自らの念覚支の有無を常に自覚し、未生起の際はその事実を認め、生起後は進捗を把握する必要がある。各修行段階で心念の状態を検証し、自己を観察して改善を図らねばならない。
第二に択法覚支。現に修すべき法に対する弁別力を有し、正邪・大小・仏法中の位置付けを判別できる。自らの智慧層に相応する法を正しく選択する眼力を得た時、択法覚支が生起する。
第三に精進覚支。正しい道を選択した上で、布施・持戒・忍辱・禅定など菩薩道全般に精励する。真の精進は意根の精進であり、意識の表面的精進を超えた持続的実践を指す。
第四に喜覚支。正法修学の進展に伴い、内心に喜楽が生じる。法悦に満たされ、身心に軽い解脱の功徳を覚える段階。
第五に軽安覚支(猗覚支)。喜楽に続いて五蓋が薄らぎ、身心に軽安の覚受が現れる。心身相互に影響し、禅定の前兆となる。
第六に定覚支。軽安を基に禅定が生起。身心寂静の境地に至り、法義に深く入る。
第七に捨覚支。禅定により雑念を降伏し、平等捨心を成就。一切の執着を離れ、清浄無為の境地に住す。
七覚支は相互に連関し、前支が後支の基礎となる。初証果の者にはこれらの段階を経ることが必須であり、再來の聖者でも速やかに覚支を生起させる必要がある。
二、七覚支の具体的観行
経文:復次、諸比丘よ、比丘は七覚法において法を観じて住す。いかにしてか。比丘が内に念覚支あるを知り、なきを知り、未生の覚支の生起を知り、已生の覚支の成就を知る。
釈:七覚支の各支について、内面的成就の有無を如実に観察する。意識的表層(外)と意根の深層(内)の両面から検証を重ね、最終的に一切の執着を捨て去り、無依無着の境地に至る。
三、内外七覚支の意義
七覚支には意識層の外覚支と意根系の内覚支がある。真の成就は意根への熏習を要し、表面の意識的修養のみでは不十分。例えば念覚支においては、意根が法に念念相続して初めて持続的修行が可能となる。各覚支共に内外相即して初めて真の証悟に至る。
最終段階の捨覚支においては、意識と意根が共に一切の念想を捨て、清浄無為の境地に入る。これが仏法修行の究極目的である。七覚支は次第を追って修められるべき菩提の階梯であり、各段階を踏まえて初めて生死を超える智慧が完成する。