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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 1425
<h2 style="text-indent: 2em;">第二章 身念処を観ずる</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第五節 死屍を観ずる</h3>

原文:復た次に、諸々の比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死屍を。死後一日二日を経て乃至三日に至る。膨脹して青黒く腐爛す。彼は此の身を注視し、此の身は斯の如き法(性質)を脱せずして、斯くの如き者となることを知る。

釈:引き続き観察を進めるに、諸々の比丘たちよ、比丘が此の段階に修到した時、正に屍衣に包まれて墓場に遺棄された死屍を観察することが適う。それらの死屍は死後第一日第二日より第三日に至ると、身体は膨脹を始め、青黒く変色し腐敗する。比丘は専注して自身の色身を観察し、自身の色身も遅かれ早かれ斯くの如く膨脹し、青黒く変色し、腐敗することを知らねばならぬ。自身も亦斯かる死屍となり、例外なく、斯かる運命を脱することは出来ない。

次に死屍を観ずる段階に進む。衆生が死する時、地水火風の四大が分解して死人となる。昔の印度には屍棄林(屍を棄てる林)があり、一般の人は死ぬと皆其の林に投げ捨てられ、一重の屍衣で包まれて墓場に遺棄された。或る貧しい者は、屍体を包んだ布を家に持ち帰り自ら用い、屍体は林に投げ捨てたまま放置され、腐敗に任せられ、或いは野獣や鳥類に啄まれた。昔は死人を火葬処理するか墓に埋めることは稀であり、印度は暑く、林に投げ捨てられて一日、二日、三日を経ると、屍体は膨脹し、膨脹後には身体の皮膚は青色、黒色を呈し、その後腐敗が始まり、細菌が内から外へ屍体を分解し吞噬してしまう。

何故膨脹するのか。身体には水分が含まれており、天熱の為に水が停滞して流動せず、細菌が発生するからである。細菌が発生するのは恰も発酵の如く、身体は膨脹する。我々が麺を発酵させ食品を作るのも何に依るか、これ亦細菌に依る。細菌が発生すると、捏ねられた麺には泡が現れ膨脹する。生きている間は身体内の血液や各種の液体は全て流動しており、流動するものは他の有害な細菌を発生させ難いが、流動しなければ細菌は発生し易い。「戸枢蠹さず、流水腐らず」とは此の道理である。流れる河は細菌が発生し難く、腐敗の臭気は無い。もし水が流動しなければ、数日で悪臭を放ち、菌類が発生して斯くの如くなる。屍体の膨脹腐敗は此の道理による。

或る者は言う、某々は如何に修行が有るか、死後其の身体は長く膨脹せず腐敗せず、肉身不壊を成就したと。実は六祖のみが真の肉身不壊であり、六祖の禅定は甚だ高く、臨終前に身内の三昧の真火が既に身体内の細菌を度脱してしまい、細菌は其の身体内に生存できず、故に六祖が逝去した後、身体内に細菌が無い為、身体は腐敗しなかった。他の者の肉身不壊は全て仮相であり、完全に作為が可能である。生前に深甚な禅定の功夫が全く無く、死時には作為に頼るのである。

如何なる者でも、死ぬ数日前に水と飲食を断てば、身体内に水分が無く、死後其の身体は乾燥し、細菌が生じ難く、身体は腐敗し難く、亦変色しない。或いは人が死んだ後、誰かが屍体を乾燥脱水処理すれば、斯くして屍体も腐敗しない。但し常に坐禅する者、禅定の証量を有する者は、三昧の真火を有し、此の三昧の真火は身体内の水分を焼き乾し、細菌を全て焼き尽くすか、或いは細菌が繁殖出来なくなり、死後は肉身不壊となる。肉は壊れず、骨は壊れず、身体は崩れ落ちない、これが其の道理である。

何を以て道有り修行有りと為すか。証果と明心に功德有り、第一に自ら益を受け、第二に他を利益する、此れを以て初めて道と為す。他の世俗の有為法は、皆道と為さず、修行有りとは為さない。仮に肉身不壊の者が居ると雖も、然し明心も無く、証果も無く、三縛結を断除していなければ、其の未来は依然として免れず三悪道に堕する。故に多くの者が肉身不壊を崇拝するが、此の肉身菩薩、彼の肉身菩薩とは、只肉身の仮の殻を崇拝するに過ぎず、其に智慧が有るか無いか、如何なる智慧の境界かは、大多数の者は判断出来ない。仮に禅定を修め出し、三昧の真火が有り、肉身不壊を為し得ると雖も、此の者は必ずしも明心見性せず、真の意味での菩薩とは限らない。我々は相に執着すべきでなく、実質の内包を見、一人の智慧の境界と修為品行を見るべきである。唯表相から以て一人が道を有するか否かを判断するのは、相に執着すると言い、相に執着することは即ち顛倒である。

身を観じて此の身を注視した後、内心裡には一つの観念が形成され、自身の色身も将来斯くの如く、一つの屍体となると考える。他人の色身は死んで投げ捨てられ腐敗したが、我が色身も此の運命を逃れられず、人に林や墓に投げ捨てられ、屍体も膨脹腐敗し、我は此の法を脱せず、最終的に皆此の結末となる。斯くして尚此の色身を以て我と認めるか。若し身体が我であるならば、身体が毀壊されれば、我は何処へ行くのか。消失するのか。若し消失するならば、尚未来世は有るのか。此の世の我は、如何にして出現したのか。

若し我も身体に随って消失するならば、何故我に尚下一世が有るのか。我は無量劫以来幾つの身体を有したか、皆斯くの如く膨脹し、青黒く変色し、腐敗し、消失した。然らば観念は転換すべきである:此の身体は我では無く、亦我の所有するものでは無い、再び此の身体に執着すべきで無く、此の身体の為に高い代償を払い、甚だ宝愛し、最高級の衣服を着、美味なる飲食を摂り、最高級の庭房に住み、其の為に高価な代償を払うが、其の結果は何か。彼は依然として我々を見捨て、墓の中の一つの屍体となり、膨脹し、腐敗し、消失し、無くなる。故に再び此の色身に貪着すべきでない。

原文:斯くの如く。或いは内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住し。又た内外身に於て身を観じて住す。或いは身に於て生法を観じて住し。身に於て滅法を観じて住し。又た身に於て生滅法を観じて住す。

釈:斯くの如く観行し、心は或いは内身を観ずる観行に住し、或いは外身を観ずる観行に住し、或いは内外身を同時に観ずる観行に住し、或いは色身の新生する法を観ずる観行に住し、或いは色身の滅する法を観ずる観行に住し、或いは同時に色身の生法と滅法を観ずる観行に住す。

身念処を観ずる法を修する時、内身を観終えた後、続けて外身を観ずる。外身とは十八界の中の色声香味触法であり、見る一切の色は皆身体の如く散壊し、消失し、滅することを観じ、皆生滅変化無常であり、念念遷流して住せず、長久に存在し得ない。故に外身も我では無く、亦真実では無い。故に外境に貪着すべきで無い。内身外境は共に我では無く、皆貪着すべきで無い。斯くして初めて身見を断ち、貪愛煩悩を降伏するのである。

更に同時に内外身を観ずる。禅定が未到地定に達した時、精力は充実し、内心は甚だ清明で、一切の法を同時に観察し得る。同時に内身と外身を観察し、色身を観察すると同時に眼に見る色、耳に聞く声、鼻に嗅ぐ香、舌に嘗める味、身に覚える触、心に思う法を観じ、念念生滅変異、無常、苦、空、此の一切は我では無く、亦我の所有するものでは無い。故に定が深い時、智慧も亦深く広くなる。

然る後又た身に於て生法を観じて住し、身に於て滅法を観じて住す。色身に何の法が生起したかを観察する。本来無かった法が今出現し、本来有った法が今消失した。色塵より観察し、声塵より観察し、香塵より観察し、味塵より観察し、触塵より観察し、法塵より観察し、様々な生法、様々な滅法を観察する。内臓器官の生と滅、皮膚、骨格、筋肉の生と滅、頭から足までの生法と滅法を、皆観察し出さねばならぬ。此れには定力が非常に強く、智慧が非常に清明でなければならず、此の一切の法は皆生滅、変異、無常であり、皆我に非ず我の所有に非ず、皆真実では無い。然らば再び如何なる法にも貪着すべきでなく、三昧が出現した時、身見を断ち、我見を断つことが出来る。

原文:尚又た智識の成る所及び憶念の成る所、皆身の思念有りて現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執着せず。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。

釈:内身外身を観察し終えた後、智慧が生起し、憶念も形成され、心中は色身に関する観念に満ち、思想には色身の念いが満ち満ちている。汝らは依る所無くして観察の中に住すべきであり、且つ世間の如何なる事物にも執着すべきでない。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く身を観じて身に住する修習に住すべきである。

何を智識と為すか。理を明らかにするを智と為し、真実の法相を了知することを智と為し、愚痴せず糊塗せざるを智と為し、散乱せず昏沈せざる清明了知を智と為す。識とは意識意根の世俗分別を主とする識心を指し、此の時の識心は未だ智慧を生起していない。此の処の智識とは、意識意根が甚深な禅定力を有し、清明に如実に一切の法を了知し、愚痴せず糊塗せず、散乱せず昏沈せざることを指す。心中に智慧が生起すれば、理に依って一切の法を観察認知することが出来る。此れは定慧の然らしむる所である。

憶念とは内外身を観察した後、心心念念皆此の身であり、身体の観念、形象が心念の中に形成され、その後此の憶念を排除し、身我の観念を取り去り、空じ、色身に依頼せず、色身を認取しない。内心裡に一法も依頼せず、一法も住着せず、内身にも依らず、外身にも依らず、且つ世間の如何なる物にも執着せず、内心裡は空蕩々として依る所無く、一法も住せず、一法も執せざるを以て依る所無しと為す。

仏は言う、出家比丘は斯くの如く身を観じ、心は法に住せずして住すべきであると。全ての修行人は皆然るべきであり、唯出家比丘のみならず、内外身に依らずして住すべきである。若し再び他の物に執着するも亦不可であり、財色名食睡に執着し、金銀珠玉に執着し、名声、権勢、地位に執着し、此等に執着するも亦不応であり、生死輪廻を解脱することは出来ない。此等の物も皆泯滅し、空じ、認取せず、甚深禅定の中に住する。心念が空じた後、内心には常に知が有り、清く明らかな知が存在する。以後は其の知を以て参禅することが出来る。前の色身及び一切の物を泯滅し、全て排除し、空じた後、参禅は容易且つ迅速となる。

修め終えるに当たり、皆依る所無くして住すべきである。先ず心念の中に身が有り、次に身を空じ、依る所無くして住し、更に世間の如何なる他の物に対する執着を滅却する。斯くして心念が空じ、内から外まで一つの我が無ければ、我見を断つのである。此等の観行の内容は一歩一歩深まり、一歩一歩空無に近づき、定が深まる程、心念は空じ、智慧は益々深まり、最終的には直接に初果より四果を証得する。

原文:復た次に。諸々の比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死屍を。鳥に啄まれるか、或いは鷹に啄まれるか、或いは鷲に啄まれるか、或いは犬に食わるるか、或いは豹に食わるるか、乃至各種の生類に食わるるを。彼は此の身を注視し、此の身は斯の如き法を脱せずして、斯くの如き者となることを知る。

釈:更に一歩観察を進めるに、諸々の比丘よ、比丘は此の時正に墓場に遺棄された死屍を観察する。鳥類に啄まれ、鷹類に啄まれ、犬類に食い千切られ、野豹に食い千切られ、乃至各種の畜生類に食い荒らされることを。比丘は自身の身体を注視し、此の身体の最終的な帰結も斯くの如く、畜生類に食い荒らされることを知る。

先程は屍体を墓場に投げ捨て、屍体が青く膨脹腐敗するのみを観行したが、今度は屍体が鳥に啄まれることを観行し始める。肉食の大鳥は非常に空腹な時、林の中で旋回し、食物を探す。屍体を発見すれば、屍体上の血肉を挟み食う。屍体は或いは鷹に啄まれ、或いは鷲に啄まれる。此等の大鳥は皆肉食で、専ら屍棄林で死屍を待ち食う。屍体は或いは野犬に食われ、或いは虎豹豺狼に食い荒らされ、乃至各種の野生畜類に食われ、蟻さえも骨を齧りに来る。墓場の野鬼も死屍を食うが、彼らは只香気を食い、臭気を嗅ぐだけで、実体の肉は食えず、死屍上の肉の臭いを嗅げば、飽きたと見做す。畜生類は実体の肉を食う。屍体は斯くの如く此等の畜生たちに食い尽くされ、食い尽くされた最後に、最も堅い骨は齧れず、顧みずに捨て置かれる。

比丘は死後の色身が屍体となり、各種の畜生に分食されることを観察し、更に自身の色身を観察すれば、自身の色身も斯くの如き法を脱せず、将来の結末も斯くの如く、死後も屍棄林に投げ捨てられ、野獣に食われ尽くされることを知る。身体が有る限り此の結末である。今は屍体を火葬出来るが、其の結果も屍体が灰燼と化す。然らば此の身体は尚我なのか。若し我であるならば、我は何処へ行ったのか。何故消失して見えなくなったのか。消失滅亡し得るものが我なのか。勿論では無い。只一時的に私が用いる仮の殻に過ぎず、之に執着する必要は無い。衣服を扱う如く、着られなくなれば捨てる。衆生は無始劫以来、所謂我が幾つ有ったか分からず、斯くの如く食われ尽くされた。故に身体は真の我では有り得ず、滅し得るものは決して我では無い。我は不滅であるとの堅固な信念を有すべきである。

色身を観察する時、其れが生滅することを発見する。生滅するものは我では無く、無常のものも我では無く、苦のものも我では無く、染汚のものも我では無い。私は清浄であり、私は苦では無く、楽であり、私は寂滅であり、常住不変である。而るに身体は刹那刹那に変化し、心識も刹那刹那に変化する。変化無常のものは我では無い。此の観念を固く樹立し、我見を断つに障礙無からしめる。観念と理念は他人が無理に押し付けることは出来ず、他人は自己に代わって認可せしめず、自己の心識認知を変えることは出来ない。唯自己が理に依って思惟して初めて自己の認知を変え、観念を変えることが出来る。自己が観念を変えられるか否かは、自己の智慧の問題であり、亦福德の面の問題、及び禅定力の問題である。

世尊は法を我々に留め、教え給うたが、我々が如何に認知するかは我々自身の事であり、仏は為す術が無い。如何に加持しても真に自己の心を変えることは出来ず、最大限我々の意識心を明らかに了解認識させることは出来ても、意根に了解、接受、認可させることは出来ない。此れは我々自身が一歩一歩修行し、一歩一歩意根の思想観念を変えるに依らねばならない。深く細かに思惟した後、意根が認可すれば、思想観念は変わる。意根が一変すれば、心行は少しずつ変わる。心行がある程度変われば、凡夫より賢聖に修まり、更に聖賢より仏に至り、一切は円満する。故に修行が終わるに当たり、意識心は徹底的に変わり、意根は徹底的に変わり、我々は一尊の大いなる仏となる。

原文:仏は説きたまう。斯くの如く。或いは内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住し。又た内外身に於て身を観じて住す。或いは身に於て生法を観じて住し。身に於て滅法を観じて住し。又た身に於て生滅法を観じて住す。

釈:仏は説きたまう、斯くの如く、心は或いは内身を観察することに住し、或いは外身を観察することに住し、或いは内外身を同時に観察することに住し、或いは色身の新しく出生する法を観察することに住し、或いは色身の滅する法を観察することに住す。

屍体が皆食い尽くされたことを観察する。此れは即ち内身を観ずることであり、内身を観察することに依り、内身が分化、分解、変異し、消失することを知れば、則ち真実では無く、次に外身を観察し、一つ一つが皆散壊し、滅し、消失することを知る。然らば考えてみよ、内身と外身は我及び我の所有か。此等は我では無く、亦我の所有では無く、皆生滅変化し、不浄で苦しく空しい。故に皆我では無い。然る後又た内身と外身を同時に観じて住す。定力が良き時、内身と外身を同時に観察し得、結果として五陰十八界法が皆苦、空、無常、不浄であり、皆我では無いことを知る。

色身の中で新たに生起した色法を観察する。何が増加したか、無から有へ、観察し出さねばならぬ。観察し出せば、生有れば必ず滅有り、生滅は即ち無常であり、不真実の法であることを知る。則ち我では無い。更に色身に本来何が有ったか、今は無くなり、消失し、変化し、改まったかを観察する。此の一切を観察し出さねばならず、観察し出せば、色身は生滅変化し、無常であることを知る。無常のものは空であり、空のものは真実では無く、幻化されたものであり、我では無い。更に同時に色身に何の法が生起し、何の法が滅したかを観察する。生法と滅法を同時に観察すれば、定慧は均しく良し。

定力が充分な時、精力は充実し、心は比較的清明で智慧が有り、多くの法を同時に観察し得る。若し定力が浅く、精力が足りず、智慧力も足りなければ、多くの法は観察する力が無く、仮に一、二の法を観察しても容易に明らかに観察し得ない。若し定力が充分で、智慧力も強ければ、四方八方の事柄、色声香味触法、内身外身の状況を同時に観察し得、全て観察し出した後、何の法が出生し、何の法が滅したかを内心に全て了知する。内心裡の此の知は、清く明らかに一切を了知し、定慧等持する。若し切実に修持せず、定も具足せず、慧も具足せず、一つの法を観察しても清明でなく、観察し明らかに出来ず、思惟すると直ぐ心は乱れ、思慮すると直ぐ心は煩わしくなり、斯くして明らかな結果は得られない。

定慧を具足する前提は福德を具足することである。福報が足りなければ、定力は修持し出せない。修定の時間、環境等の条件は容易に具足せず、修定する度に干渉する事が出現する。慧を修する時も同様で、此方で法義を思惟観察しようとすると、彼方で一つの事が出現し、処理せねばならず、思惟は中断される。処理が終わり、戻って観察を続けようとすると、又一つの事が干渉する。斯くして福報が足りなければ、充分な時間と精力を専心一意に修行に費やすことは不可能である。若し心を用いて福を修さなければ、常に世間法の事が修行を阻害し、道業を進歩させられなくなる。此の状況が出現したら、直ちに布施して福を修し、福報が充分になれば、此処に坐するや、修定であれ修慧であれ、人も事も邪魔せず、充分な余暇時間と条件が修行に有り、長く本を読んでも邪魔されず、多くの事は分心して労神する必要が無くなる。

福報が足りない時、修行には此れが阻害し、彼れが阻害し、家庭の障礙、仕事の障礙、人事往来の障礙、或いは経済的基盤が乏しく、日用が賄えず、多くの時間を費やして金を稼ぎ家を養わねばならず、斯くして修行する時間が無くなる。此れは皆福德不足による。福德が足りなければ必ず多く福を修し、様々な方法で自身の福德を速やかに集積せねばならぬ。多く布施を為し、一物を布施すれば、返って来るのは少なくとも千倍である。布施の対象が誰かも見る必要が有る。若し相手に修行が有れば、千倍どころか万倍、十万倍、百万倍である。仮に外道で初禅定を修得した者に布施しても、得福は百万倍の回報であり、皆自己の如来蔵の中に記載される。故に修行人は出来る限り外へ布施し、出来る限り内へ入らず、他の者の財物を自己の帳簿に入れるべきでは無い。其れは絶対に不適切である。

原文:尚又た智識の成る所及び憶念の成る所、皆身の思念有りて現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執着せず。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。

釈:斯く観察した後、清明な心の中に、心心念念身が有り、心念には色身に関する思想と観念が満ちている。比丘たちは依る所無く、色身に住すべきでは無い。色身を頼りになる真実と見做して依頼すべきでは無く、且つ世間の如何なる事物にも執着すべきでない。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く身を観じて身に住す。

観行が終わるに当たり、色身を真とする観念を滅却し、其の青く膨脹腐敗した身体を排除し、空じ、再び其の色身を以て我と認めず、思想を清浄にし、内心を空浄にし、心は依る所無くして住す。若し内心が尚世間の他の如何なる物に執着するならば、其の物も空じねばならず、金銭、家屋、土地、権勢、名利、地位を問わず、心念の中全てを捨て去り、空じ、内心を空空如也とし、何も無く、全く依る所無くして住す。斯くして心が空浄になれば、小乗の果位も得られる。

此の時内心には尚清明に知が有る。知が有ると雖も、物は無い。此の知は将来、話頭を換えて参禅出来る。「死屍を引きずる者は誰か」と参ずる。身体は死屍の如く真実では無い。真実で無いならば、何故尚活き活きと跳ね回れるのか。何故尚一切の事業を為せるのか。禅定を修め、我見を断った後、疑情は容易に出現する。若し我見を断ち、且つ非常に徹底的に断てば、内心に一物も認めない時、疑う:何故身体に尚五陰の功能作用が有るのか。斯くして疑情が出て来る。

疑情が出て来ないのは、一つは定力が足りず、もう一つは我見が阻害する。定が足りなければ知見も容易に具足せず、我見は容易に断たれず、或いは徹底的に断たれない。心中が空で無く一切の物が有り、五陰の中の或る法を尚真実と見做せば、疑情は出現しない。此れは定と慧が足りないことを示し、尚引き続き修める必要が有る。疑情が一たび出れば、疑情の中に住し、時節因緣が具足すれば、疑情を打破し、元来斯くの如き事であることを知る。故に大小乗の理、小乗は基礎であり、基礎が固まれば、次の修行は非常に速い。斯く身を観ずれば、身見を断ち、内心は空空如也となり、一つの我が無く、我身が無く、皆空であり、幻化されたものである。

原文:復た次に諸々の比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死屍を。血肉を具するが故に、而して筋は骸骨に連結す。乃至肉の附着無くして血有り、而して筋は骸骨に連結す。乃至血肉無く、唯筋は骸骨に連結す。乃至関節解散し、手骨は此の処に、足骨は彼の処に、踝骨は此の処に、腿骨は彼の処に、盤骨は此の処に、背骨は彼の処に、頭蓋骨は彼の処に、骸骨は四五八面に散在す。彼は此の身を注視し、此の身は斯の如き法を脱せずして、斯くの如き者となることを知る。

釈:更に観察を続けるに、諸々の比丘よ、比丘は此の時正に墓場に遺棄された屍体を観察する。此等の屍体は尚血肉が有る為、筋が骸骨と繋がっている。乃至肉が無くなり、只血が屍体に有り、只筋が尚骨に繋がっている。乃至関節が皆散らばり、手骨は此処に、足骨は彼処に、踝骨は此処に、腿骨は彼処に、盤骨は此処に、背骨は彼処に、頭蓋骨は彼処に、骸骨は四方八方に散らばっている。比丘は自身の色身を注視し、自身の色身も斯かる結末となり、斯かる屍体となることを知る。

此の経文は尚死屍を観ずる。色身が生きている間は虚妄であり、死んで屍体となるは更に虚妄であり、更に空であり、更に我では無い。前段は屍体が野獣に食い尽くされ、食い尽くされた後尚幾らかの骨が残り、残った骨に尚血と肉が有り、筋が骨に繋がっていることを観た。更に下を観ると、骨の上の肉も無くなり、少し血が有り、筋が骨に繋がっている。更に下を観ると、血も無くなり、野獣に舐められ、齧られて最硬の骨だけが残り、只筋骨が繋がっている。

乃至最後に、連接する所も無くなり、関節が無くなり、骨は非常に砕けるまで齧られた。最後に骨は手骨、足骨、踝骨、腿骨、背骨、頭蓋骨等に分散し、各所に非常に散らばり、此の活き活きとした血肉の繋がった大活人は、最後には東の欠けた骨、西の欠けた骨となり、四方八方に散らばり、集まらなくなる。此れを観察して、自身の身体も此の運命を逃れられず、皆欠け砕けた骨になると知る。然らば此の身体は何処へ行ったのか。真実なのか。元来の完璧な身体も我では無く、欠け砕けた骨の此れも我では無く、皆因縁に依って集まり、四大が組成した仮の殻であり、一つの幻化物である。

仏は説きたまう、我々が一小劫の内の色身は、皆散壊した後残る骨は、充分に須弥山の如く高く積み上がる。須弥山は四大海の中に位置し、虚空の中へ伸展する。須弥山は四大海水の中に半分埋没し、虚空の中へ半分伸びる。須弥山は三角形の形状で、上へ行く程狭くなり、四大海の上に半分を伸ばす。地球は四大海の上、須弥山の足元に位置し、須弥山南面の一小球体である。四大海水面上の須弥山、其の中腹は四天王天であり、須弥山の東、南、西、北四面は四天王の住処で、四天王天と為し、月は其処に浮遊する。須弥山の山頂は忉利天天主釈提桓因の住む忉利天、亦三十三天と為し、太陽は其処に浮遊する。

一人の一小劫の中の全ての色身の骨は、須弥山の如く高く積み上がる。而るに一小劫の中の我々の色身は甚だ多く、生命の回数と生命体も甚だ多く、到底数え切れない。此等の全ての色身は皆我なのか。皆我では無く、皆如来蔵が幻化した仮の殻である。生々世々、如来蔵は地水火風の四大種子を送出し、一つまた一つの色身を形成する。色身が散壊した後は骨が残り、最後には骨も無くなる。我々は以前の多くの世の骨を見つけられるか。到底見つからない。

若し色身が我であるならば、何処に其の我を探すのか。虚空に我を探すのか。決して見つからない。又た我が其れ程多く有るのか。真実の我は唯一つであり、且つ常に不変である。変化し得る無常のものは我では無い。此の観念は我々の心に非常に非常に固くあるべきである。然らば我々は一生一世の色身に執着すべきで無く、再び色身を以て我と為すべきで無く、其の為に良い物を食べ、良い物を着、良い所に住み、良い物を用いるべきで無い。一生一世飲み食いし遊び楽しむこと皆此の臭皮囊の為、此の仮の殻の為、則ち甚だ値せず、最後に其れは無情無義に我々を見捨てる。我々が其れを見捨てるのか、其れが我々を見捨てるのか。我々は其れを見捨てたいと思うか。全く思わない。意根が貪執を修め去らない時、斯くの如く色身に執着し、掴みに掴みきれず、能動的に色身を放棄することは不可能である。

故に其の生滅するものに、我々は一切の代償を払い、全ての福報を其れに享楽させる為に用いるのは非常に値せず、無常変異の色身の為に高価な代償を払うべきで無く、出来る限り多く福を修し、多く福を積み、福を用いることを少なくし、福を享楽することを少なくすべきである。福報が充分に積み上がって初めて仏となる。仏は福慧両足尊であり、福報が具足しなければ仏とは成れない。故に此の福德は非常に重要である。若し自身の福德が無くなれば、他人が如何に多くの財物を送っても享受出来ない。仮に享受出来ても、其れは自身の如来蔵銀行から福報を引き出したものであり、斯くして銀行の預金は減少する。金銭は他人の銀行口座から引き出しても、福德は自身の如来蔵銀行から消耗したのである。我々の一口の飲食、一回の消費享楽は、皆自身の如来蔵銀行から引き出したものであり、多く一口食べれば、一口分の福報が減り、銀行から少し引き出せば、福德は少し減り、諸事は少し不順となる。

原文:仏は説きたまう。斯くの如く。或いは内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住し。又た内外身に於て身を観じて住す。或いは身に於て生法を観じて住し。身に於て滅法を観じて住し。又た身に於て生滅法を観じて住す。

釈:仏は説きたまう、斯くの如く、心は或いは内身を観察することに住し、或いは外身を観察することに住し、或いは内外身を同時に観察することに住し、或いは色身の新しく出生する法を観察することに住し、或いは色身の滅する法を観察することに住し、或いは色身の同時に出生し滅する法を観察することに住す。

前段は内身を観ずる。屍体が骨となり、骨に初めは血肉が有り、後肉が無く血も無くなり、最後に筋も無くなり、骨が東の欠片、西の欠片となり、零々散々となり、最後に皆消失し、何処に一つの我が有るのか。内身を観終え、次に外身外境を観ずる。十八界の中の六塵は、皆生滅、散壊、苦、空、無常である。色身は無から有へ、百斤余りに成長し、最後に肉が無く、血が無く、内臓が無くなり、幾つかの欠けた骨が残る。最後に骨も無くなる。

斯く見れば、色身は空ではないのか。我なのか。此の仮の殻は苦ではないのか。汚く不浄ではないのか。定慧等持して三昧が出現した時、現量に色身が我では無いと観察出来る。内身を観た後外身を観じ、然る後内心堅固に認知する:十八界は皆苦空無常無我であり、全て我では無い。内から外、上から下まで、全て我では無い。斯くして内心の色身観念は捨てられ、心中空空如也となり、一物も無し。内身外身に一法も我及び我の所有では無く、斯くして我見を断つ。定慧共に良く、煩悩も軽い人は、間も無く二果を証得し、或いは当時に二果となる。

二果となった後、初禅定は発起が非常に速い。初禅定が発起した後は貪愛を断ち、更に嗔恚心を断てば三果となる。三果に修めることは相当良く、三果の証量に明心見性の功德を加えれば、禅宗の牢関を過ぎ、その後は能力と資格を以て初地に入り、初地菩薩となり、如来の家に入り、如来の真の仏子、如来の実子となる。此れ以前は大小乗の仏法に通達せず、煩悩も断除していない為、如来の家に入ることは出来ない。

原文:尚又た智識の成る所及び憶念の成る所、皆身の思念有りて現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執着せず。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。

釈:斯く観察した後、清明な心の中に、心心念念身が有り、心念には色身に関する思想と観念が満ちている。比丘たちは依る所無く、色身に住すべきでは無い。色身を頼りになる真実と見做して依頼すべきでは無く、且つ世間の如何なる事物にも執着すべきでない。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く身を観じて身に住す。

内外身を観行し終えた後、生法と滅法も観行し終え、心心念念の中に身体の存在が有り、憶念の中も皆此の身体である。然る後此の身体の念想を空じ、心念は身に依らずして住し、且つ世間の如何なる物にも執着せずして住し、心中に一法も住せず。身が無く、世間の如何なる一つの物も無く、如何なる一つの物も空であり、皆真実では無い。身体は真実では無く、外の一切の物も皆真実では無く、虚空全体、外の全ての人事物理、我々が生活する一切の環境と資具は、皆真実では無く、皆我の所有するものでは無く、全ては幻化されたものである。

斯くして内心は非常に浄く空じ尽くされ、全く空じた後参禅は容易である。既に皆我では無く、空であるならば、何故此の五陰は尚活動しているのか。疑情は出て来る。空じる程徹底すれば、疑情は濃く、疑いを破る時の智慧は深く鋭い。

原文:復た次に。諸々の比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死屍を。初め螺の色の如き白骨。乃至一年を経て、骸骨は高く堆積し。乃至骸骨は粉碎壊敗す。彼は此の身を注視し、此の身は斯の如き法を脱せずして、斯くの如き者となることを知る。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。

釈:更に観察を続けるに、諸々の比丘よ、比丘は此の時正に屍棄林や墓場に投げ捨てられた死屍を観察する。其の屍体は初め海螺の色の如き白骨であり、骸骨は一年を経て変化し、高く積み上がる白骨の山となり、最後に骨は粉々に砕け敗れ、消失する。比丘は更に自身の身体を注視し、自身の身体も此の結末であり、四方に散らばる欠けた骨となることを知る。諸々の比丘よ、比丘は斯くの如く身を観じて身に住すべきである。

一つの完璧な身体が一つの屍体となり、最後に一つの骨さえも無くなり、何も見つからなくなる。此れが無常と空幻である。昔修行人が衆生を憐れみ、死後身体を火葬せず、人に屍体を直接墓場に置かせ、畜生に食わせ、畜生が食った後只一つの骨の山が残る。其の者は臨終に又人に骨を集めて粉に挽かせ、蟻の如きより小さい動物に与え、或いは海に撒き直接魚に与えるよう遺言した。此の修行人は斯くの如く無我であり、斯くの如く衆生を憐れみ、死後も尚衆生を利益する。色身に執着しない者であることが分かる。

斯くして屍体は最後に何も無くなり、仮に骨灰が存在しても、皆散らばり見つからない。最後に地球が滅びれば、骨灰と骨は何処に有るのか。若し骨が地球上に存在し、只見つからないと言うなら、地球が消失すれば骨は何処に有るのか。地球の成住壊空の一周期は一大劫である。仮に骨が一大劫存在出来ても、只虚空中に存在出来る。然らば何を虚空と為すか。虚空は何処に其れ程多くの骨を置けるか。仮に虚空に骨を置けても、大雨が降れば骨は流され無くなり、宇宙の中の風災が来れば、宇宙全体の天宮が破壊され、其の小骨と骨灰は尚更何の値打ちも無く、影も形も無くなる。

故に最後に色身には一物も留まらず、元来色身は地水火風の四大で組成され、今地水火風は分散し、皆如来蔵に戻る。如来蔵が回収した後、又一世の色身を変化させ、地水火風を再び送出し、他の色身を形成し、再び地水火風を回収し、如来蔵に戻る。斯く見れば、衆生は真に一無所有、一无所是である。然らば我々は再び色身に執着すべきで無く、世間の如何なる一つの事物にも執着すべきで無い。或る者は言う、私は金銀珠玉を掴むべきであり、其れは身体より堅固であると。然し色身が無ければ、誰が掴み取るのか。金銀珠玉は何の役に立つのか。金銀珠玉は比較的堅固であるが、其れらは又どれ程長く存続出来るのか。一劫二劫三劫、一大劫存続出来るか。地球が散壊すれば、金銀珠玉は何処に有るのか。金剛は最も堅硬なものであるが、金剛は又何処に有るのか。三千大千世界が皆滅びれば、汝の金銀珠玉と金剛は又何処に有るのか。見つけられるか。皆消失して無くなる。

地水火風の四大で組成されたものは、最後には又如来蔵に戻る。金剛も無くなり、宇宙の各層天の天宮も無くなる。我々は尚何を執着し、何を掴み取るのか。一切は消失散壊し、皆虚妄である。我々は尚何を執着し、何を掴み取るのか。仮に掴ませたとしても、汝はどれ程長く掴んでいられるか。実は掴んでいる時も一種の苦である。故に心を空空浄浄に修め、空空如也とし、恰も虚空中を歩く如く、亦一つの我が歩くことも無く、其の心は非常に清浄自在で快適である。我見を断った後は賢聖人となり、生々世々修行し、同時に他を利楽し、自利利人し、最後に円満究竟の仏となる。唯斯くの如く修行して初めて円満無上の菩提路を歩める。

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