四念処経講話 第二版(新修)
第二章 身念処を観ずる
第五節 死体を観ずる
原文:復た次に、諸比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死体を。死後一日二日を経て三日に至る。膨脹して青黒く爛れ腐る。彼は此の身を注視し、此の身は斯の法(性質)を脱せず、而して斯くの如くなることを知る。
釈:引き続き観察を進める。諸比丘たちよ、比丘がこの段階に修め至った時、丁度、屍衣に包まれて墓場に捨てられた死体を観察することができる。それらの死体は死後一日、二日から三日を経ると、身体は膨張し始め、青黒く爛れ腐敗する。比丘は専注して自らの色身を観察し、自らの色身も遅かれ早かれこのように膨張し、青黒く爛れ腐敗し、自らもまたこのような死体となることを知らねばならない。例外なく、このような運命から逃れられないことを。
次に観るべきは死体である。衆生が死ぬ時、地水火風の四大が分解して死人となる。昔のインドには屍棄林(屍体を捨てる林)があり、一般の人が死ぬと皆そこに投げ捨てられた。屍衣一重に包んで墓場に投げ捨てる。ある者は非常に貧しく、死体を包む布を持ち帰って自ら使い、死体は林の中に投げ捨てたまま放置し、腐敗に任せたり野獣や鳥類に食い荒らされるに任せた。昔は死人を火葬処理したり墓に埋めることは稀で、インドは暑く、林に投げ捨てて一日、二日、三日を経ると、死体は膨張し、膨張した後、身体の皮膚は青色、黒色を呈し、そして爛れ腐敗し始め、細菌が内から外へ死体を分解し貪り食う。
何故膨張するのか?身体には水分があるからである。天候が熱く水が停滞して流れなければ細菌が発生し、細菌が発生すると発酵の如く、身体は膨張する。我々がパン種を起こして食品を作るのも何に頼るか、やはり細菌である。細菌が発生すると、捏ねた小麦粉に泡が現れ、膨張する。生きている時、身体の中の血液や様々な液体は皆流動しており、流動するものは他の有害な細菌を発生させにくい。流動しなければ細菌が発生しやすい。戸枢は蠹(きく)まず、流水は腐らず、これが道理である。流れる川は細菌が発生しにくく、腐敗した臭いはない。もし水が流れなければ、数日で臭くなり、菌類が発生してこうなる。死体が膨張し腐敗するのもこの道理である。
ある者は言う、誰々は修行が大変深い、死後その身体は長い間膨張せず、腐敗せず、肉身不壊を成し遂げたと。実は六祖だけが真の肉身不壊である。六祖の禅定は非常に高く、臨終前に、身内の三昧真火が既に身体の中の細菌を度脱(どだつ)し、細菌は彼の身体の中に生存できなかった。故に六祖が逝去した後、身体の中に細菌がなく、身体は腐敗しなかった。他の者の肉身不壊は皆一種の仮相であり、完全に作為が可能である。生前に全く深甚な禅定の功夫がなく、死ぬ時は作為に頼る。
如何なる者でも、死ぬ数日前に水と飲食を断てば、身体の中に水分がなく、死後その身体は乾き、細菌が生じにくく、身体は腐敗しにくく、また変色もしない。或いは人が死んだ後、誰かが死体を乾燥脱水処理すれば、そうすれば死体も腐敗しない。しかし常に坐禅する者、禅定の証量ある者は、三昧真火を持っており、この三昧真火が身体の中の水分を焼き乾かし、細菌を焼き尽くすか、或いは細菌が繁殖できなくなり、死後は肉身不壊となる。肉は壊れず、骨は壊れず、身体は倒壊しない、これが道理である。
何を有道有修行というのか?証果と明心に功徳あり、第一に自ら利益を受け、第二に能く他を利益する、これをもって道という。他の世俗の有為法は、皆道とは言わず、有修行とは言わない。たとえ肉身不壊の者がいると言えども、しかし明心もせず、証果もせず、三縛結を断除していなければ、彼の未来は依然として免れず三悪道に堕ちる。故に多くの者が肉身不壊、この肉身菩薩、あの肉身菩薩を崇拝するが、それはただ肉身の仮の殻を崇拝するに過ぎず、彼に智慧があるかどうか、どのような智慧の境界か、大多数の者は判断できない。たとえ禅定を修め、三昧真火があり、肉身不壊にすることができても、此の者は必ずしも明心見性しておらず、真の意味での菩薩とは限らない。我々は相に執着してはならず、実質的な内実を見、一人の智慧の境界と修養品行を見るべきである。表相のみで一人が有道かどうかを判断するのは、相に執着するという。相に執着するは即ち顛倒である。
身を観じ此の身を注視した後、内面には一つの観念が形成され、自らの色身は将来もこのようになり、一つの死体となると考える。他人の色身は死に、捨てられて腐敗した。私の色身もこの運命から逃れられず、林の中や墓の中に捨てられ、死体も膨張し腐敗する。私はこの法から離れられず、結局は皆この結末である。そうであれば、なおもこの色身を私と認めるのか?もし身体が私なら、身体が毀損すれば、私は何処へ行くのか?消失するのか?もし消失すれば、なお未来世はあるのか?この世の私は、如何にして出現したのか?
もし私も身体と共に消失するなら、どうして私はなお下一世があるのか?私は無量劫以来、幾つもの身体を持ち、皆このように膨張し、青黒くなり、爛れ腐敗し、消失した。それなら観念は転換せねばならない:この身体は私ではなく、私の所有するものでもない。この身体を再び執着し、この身体に高い代償を払い、甚だ宝愛し、最高級の衣服を着、美味なる飲食を摂り、最高級の邸宅に住み、彼に高い代償を払う必要はない。その結果は何か?彼は相変わらず我々を見捨て、墓の中の一つの死体となり、膨張し、爛れ腐敗し、消失し、無くなる。故に再びこの色身に貪着してはならない。
原文:斯くの如く。或いは内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住し。また内外身に於て身を観じて住す。或いは身に於て生法を観じて住し。身に於て滅法を観じて住し。また身に於て生滅法を観じて住す。
釈:このように観行する。心は或いは内身に対する観行に住し、或いは外身に対する観行に住し、或いは内外身に対する同時の観行に住し、或いは色身の新生する法に対する観行に住し、或いは色身の滅去する法に対する観行に住し、或いは同時に色身の生法と滅法に対する観行に住す。
身念処を観ずる法を修める時、内身を観じ終えた後、引き続き外身を観る。外身とは十八界の中の色声香味触法であり、見る一切の色は皆身体と同じく散壊し、消失し、滅去する。皆生滅変化して無常であり、念念として遷流して住まず、長久に存在できない。故に外身も私ではなく、真実でもない。故に外界にも貪着してはならない。内身も外界も私ではなく、皆貪着してはならない。そうして初めて身見を断ち、貪愛の煩悩を降伏させるのである。
再び同時に内外身を観る。禅定が未到地定に達した時は、精力が充実し、内心は非常に清明で、一切の法を同時に観察し得る。同時に内身と外身を観察し、色身を観察すると同時に、眼に見る色、耳に聞く声、鼻に嗅ぐ香、舌に嘗める味、身に覚える触、心に思う法を観察する。念念生滅し、変異し、無常、苦、空であり、これら一切は私ではなく、私の所有でもない。故に定が深い時、智慧もまた深く広くなる。
そしてまた身に於て生法を観じて住し、身に於て滅法を観じて住す。色身において何の法が生起したかを観察する。元々無かった法が今現れ、元々あった法が今は消失した。色塵から観察し、声塵から観察し、香塵から観察し、味塵から観察し、触塵から観察し、法塵から観察し、様々な生法、様々な滅法を観察する。内臓器官の生と滅、皮膚、骨格、筋肉の生と滅、頭から足までの生法と滅法を、全て観察し出す。これには定力が非常に強く、智慧が非常に清明でなければならない。これら一切の法は皆生滅し、変異し、無常であり、皆我に非ず我が所有に非ず、皆真実ではない。それなら再び如何なる法にも貪着してはならず、三昧が現れた時、身見を断ち、我見を断つことができる。
原文:尚又智識の成る所及び憶念の成る所、皆身の思念有りて現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の何物にも執着せず。諸比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。
釈:内身外身全体を観察し終えた後、智慧が生じ、憶念も形成され、心中は色身に関する観念で満たされ、思想には色身の念いが満ち満ちている。汝らは依る所無くして観察の中に住し、かつまた世間の如何なる事物にも執着してはならない。諸比丘よ、比丘はこのように身観身の修習に住すべきである。
何を智識というのか?理を明らかにすることを智といい、真実の法相を了知することを智といい、愚痴でなく糊塗でないことを智といい、散乱せず昏沈せず清明に了知することを智という。識とは意識・意根の世俗的分別を主とする識心を指す。この時の識心は未だ智慧を生じていない。ここでの智識とは、意識・意根が甚深な禅定力を有し、能く清明に如実に一切の法を了知し、愚痴でなく糊塗でなく、散乱せず昏沈せないことを指す。心中に智慧が生じれば、能く理に従って一切の法を観察し認知することができる。これは定慧の然らしむるところである。
憶念とは、内外身を観察した後、心心念念、皆この身であり、身体の観念・形象が心念の中に形成される。その後、この憶念を排除し、身我の観念を取り去り、空じる。色身に依存せず、色身を認め取らない。内心には一法も依存せず、一法も住着せず、内身にも依らず、外身にも依らず、かつまた世間の如何なる物にも執着せず、内心は空蕩蕩として依る所無し。一法も住まわず、一法も執せず、という。
仏は言う、出家比丘はこのように身を観じ、心は法に住せずして住すべきであると。全ての修行者は皆そうすべきであり、出家比丘のみならず、内外身に依らずして住すべきである。もし再び他の物に執着するも、また不可である。財・色・名・食・睡に執着し、金銀珠玉に執着し、名声・権勢・地位に執着し、これらに執着するもまた不応であり、生死輪廻を解脱できない。これらの物も皆泯滅し、空じ、認め取らなければ、甚深禅定の中に住する。心念が空じた後、内心には常に知があり、清く明らかな知が存在する。その後はその知を用いて参禅できる。前の色身及び一切の物を泯滅し、全て排除し、空じてから参禅すれば容易かつ迅速である。
修めの最後は皆依る所無くして住すべきである。先ず心念の中に身があり、次に身を空じ、依る所無くして住す。次に世間の如何なる他の物に対する執着も滅し去る。そうすれば心念は空じ、内から外まで一つの我が無くなり、我見を断つ。これらの観行の内容は一歩一歩深まり、一歩一歩空無に近づく。定が深まるほど、心念はますます空じ、智慧はますます深まり、最後には直接に初果から四果を証得する。
原文:復た次に、諸比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死体を。鳥に啄まれるか。或いは鷹に啄まれるか。或いは鷲に啄まれるか。或いは犬に食われるか。或いは豹に食われるか。乃至各種の生類に食われる。彼は此の身を注視し、此の身は斯の法を脱せず、而して斯くの如くなることを知る。
釈:更に一歩観察を進める。諸比丘よ、比丘はこの時、丁度墓場に捨てられた死体を観察する。鳥類に啄まれ、鷹類に啄まれ、犬類に食い裂かれ、野豹に食い裂かれ、乃ち各種の畜生類に食い荒らされる。比丘は自らの身体を注視し、この身体の最終的な帰結もまたこのようであり、畜生類に食い荒らされることを知る。
先ほどは死体を墓場に投げ捨て、死体は青く爛れ腐敗しただけであるが、今は死体が鳥に啄まれる観行を始める。肉食の大鳥は非常に飢えると、林の中で旋回し、食うべき物を探す。死体を発見すると、死体上の血肉を挟み食いする。死体は或いは鷹に啄まれ、或いは鷲に啄まれる。これらの大鳥は皆肉を食い、専ら屍棄林で死体を待ち食う。死体は或いは野犬に食われ、或いは虎・豹・豺狼に食い荒らされ、乃ち各種の野生畜生類に食われ、蟻さえも骨を齧りに来る。墓場の野鬼も死体を食うが、彼らはただ香気を食い、匂いを嗅ぐだけで、実体の肉は食えない。死体上の肉の匂いを嗅げば、満腹したことになる。畜生類は実体の肉を食う。死体はこのようにこれらの畜生たちに分食され尽くされ、分食の最後には、最も堅い骨が齧れなくなり、顧みられずに捨てられる。
比丘は死後の色身が死体となり、各種の畜生に分食されるのを観察する。再び自らの色身を観察し、自らの色身もこの法を脱せず、将来の結末もまたこのようになり、死後は屍棄林に投げ捨てられ、野獣に食われ尽くされることを知る。身体さえあればこの結末である。今は死体を火葬できるが、その結果も死体が灰燼と化す。ではこの身体はなお私なのか?もし私なら、私は何処へ行くのか?何故消失して見えなくなったのか?消失し滅びるものが私なのか?無論違う。ただの仮の殻が私に一時的に使われたに過ぎず、これに執着する必要はない。衣服を扱うように、着られなければ捨てる。衆生は無始劫以来、幾つもの所謂私が、このように食われてきた。故に身体は真の私ではあり得ず、滅びるものは決して私ではない。堅固な信念を持つべきである。私は不滅であり、滅びるものは皆私ではない。
色身を観察する時、それが生滅することを発見する。生滅するものは私ではなく、無常のものも私ではなく、苦のものも私ではなく、染汚のものも私ではない。私は清浄であり、私は苦でなく、楽であり、私は寂滅であり、私は常住不変である。身体は刹那刹那に変化し、心識も刹那刹那に変化している。変化無常のものは私ではない。この観念をしっかりと樹立しなければ、我見を断つことに障礙はない。観念や理念は他人が無理に押し付けることはできず、他人は自己に代わって認可することはできず、自己の心識認知を変えることはできない。ただ自己が理に従って思惟して初めて、自己の認知を変え、観念を変えることができる。自己が観念を変えられるかどうかは、自己の智慧の問題であり、また福德面の問題、及び禅定力の問題である。
世尊は法を我々に留め、教えられた。我々が如何に認知するかは我々自身の事であり、仏にはどうしようもない。如何に加持しても真に自らの心を変えることはできず、せいぜい我々の意識心に明瞭に了解し認識させることしかできず、意根に了解・受容・認可させることはできない。これは我々自身が一歩一歩修行し、一歩一歩意根の思想観念を変えねばならない。深く細かく思惟した後、意根が認可すれば、思想観念は変わる。意根が変われば、心行は少しずつ変わる。心行がある程度変われば、凡夫から賢聖に修め、聖賢から仏へ至り、一切は円満となる。故に修行の最後には、意識心は徹底的に変わり、意根は徹底的に変わり、我々は一尊の立派な仏となる。
原文:仏説く、斯くの如く。或いは内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住し。また内外身に於て身を観じて住す。或いは身に於て生法を観じて住し。身に於て滅法を観じて住し。また身に於て生滅法を観じて住す。
釈:仏は言う、このように、心は或いは内身を観察することに住し、或いは外身を観察することに住し、或いは同時に内外身を観察することに住し、或いは色身の新たに生じる法を観察することに住し、或いは色身の滅去する法を観察することに住す。
死体が分食され尽くされたのを観察する。これは内身を観ることであり、内身を観察することで、内身は分化・分解・変異し、消失することを知り、それなら真実ではない。次に外身を観察し、同じように散壊し、滅去し、消失することを知る。それなら考えてみよ。内身と外身は私及び私の所有なのか?これらは私でもなく、私の所有でもない。皆生滅変化し、不浄で、苦であり、空である。故に皆私ではない。そしてまた内身と外身を同時に観身して住す。定力が良ければ、内身と外身を同時に観察でき、結果として五陰十八界法は皆苦・空・無常・不浄であり、私ではないことを知る。
色身の中で新たに生じた色法を観察する。何が増えたか、無から有を、観察し出す。観察した後、生があれば必ず滅があることを知る。生滅即ち無常、真実でない法、それなら私ではない。再び色身に元々何があったか、今は無くなったか、消失したか、変化したか、変わったかを観察する。これら一切を観察し出す。観察した後、色身は生滅変化し、無常であることを知る。無常は即ち空であり、空は真実でなく、幻化であり、私ではない。再び同時に色身に何の法が生じ、何の法が滅去したかを観察する。生法と滅法を同時に観察し、そうすれば定慧は均しく良い。
定力が十分であれば、精力が充実し、心は比較的清明で智慧があり、同時に多くの法を観察できる。もし定力が浅く、精力が足りず、智慧力も足りなければ、多くの法を観察する力がなく、一、二の法を観察するだけでも容易に明瞭に観察できない。もし定力が十分にあり、智慧力も強ければ、四方八方の事柄、色声香味触法、内身外身の状況を同時に観察でき、観察し終えた後、何の法が生じ、何の法が滅去したかを知り、内心は全て了知する。内心のこの知は、清く明らかに一切を了知でき、定慧等持である。もし切実に修持しなければ、定も具足せず、慧も具足せず、一つの法を観察するだけでも清明でなく、観察が明らかでなく、思惟すると直ぐに心が乱れ、思慮すると直ぐに心が煩わしくなる。それでは明らかな結果は得られない。
定慧を具足する前提は福德を具足することである。福報が足りなければ、定力は修持できない。修定の時間、環境などの条件が容易に具足せず、修定する度に妨げとなる事柄が出現する。修慧もまた同じで、こちらで法義を思惟観察しようとすると、あちらで一つの事柄が出現し、処理を必要とし、思惟は中断される。処理が終わって再び観察に戻ると、また別の事柄が妨げに来る。このように福報が足りなければ、充分な時間と精力を専心一志に修行に費やすことは不可能である。もし心を用いて福を修めなければ、常に世間法の事柄が修行を阻害し、道業を進歩させられなくする。このような状況が現れたら、急いで布施し福を修めねばならない。福報が足りれば、ここに坐る時、修定であれ修慧であれ、人も事も邪魔せず、充分な余暇の時間と条件が修行にあり、長い間本を読んでも邪魔されず、多くの事柄はあなたが心を分け労神する必要がなくなる。
福報が足りない時は、修行にこれが邪魔し、あれが邪魔し、家庭の障礙、仕事の障礙、人付き合いの障礙、またある者は経済的基盤が乏しく、日々の生活が賄えず、多くの時間を費やして金を稼ぎ家族を養わねばならず、修行する時間が無くなる。これらは皆福德不足によるものである。福德が足りなければ必ず多く福を修め、様々な方法で自らの福德を速やかに集積せねばならない。多く布施を行い、一物を布施すれば、戻ってくるのは少なくとも千倍である。布施の対象が誰かも見るべきである。もし相手に修行があれば、千倍どころか、万倍、十万倍、百万倍である。たとえ外道で初禅定を修得した者に布施しても、得福は百万倍の回報であり、皆自らの如来蔵の中に記載される。故に修行者は出来る限り外へ布施し、出来る限り中へ入らず、他の者の財物を自分の帳簿に入れるべきではない。それは絶対に適切ではない。
原文:尚又智識の成る所及び憶念の成る所、皆身の思念有りて現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の何物にも執着せず。諸比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。
釈:このように観察した後、清明な心の中には、心心念念、身があり、心念には色身に関する思想と観念が満ちている。比丘たちは依る所無く、色身に住してはならない。色身が頼りになる真実であると思って依存してはならず、かつまた世間の如何なる事物にも執着してはならない。諸比丘よ、比丘はこのように身観身に住す。
観行の最後には、色身を真実とする観念を滅し、あの青く爛れた身体を排除し、空じ、再びあの色身を私と認めず、思想を清浄にし、内心を空浄にし、心は依る所無くして住す。もし内心がなお世間の他の如何なる物にも執着しているなら、その物も空じねばならない。金銭、家屋、土地、権勢、名利、地位に関わらず、心念の中では全て捨て去り、空じ、内心を空空如也とし、何も無く、一も依らずして住す。そうすれば心が空浄になり、小乗の果位も得られる。
この時、内心にはなお清明に知がある。知があっても物は無い。この知は、将来は話頭を換えて参禅できる。参じる:死体を引きずる者は誰か。身体は死体と同じく真実ではない。真実でないなら、何故なお活発に跳ね回れるのか?何故なお一切の事業ができるのか?禅定を修め、我見を断った後は、疑情は非常に現れやすい。もし我見を断ち、しかも非常に徹底的に断ち、内心に一物も認めなければ、疑う:何故身体にはなお五陰の機能作用があるのか?こうして疑情が現れる。
疑情が現れないのは、一つは定力が足りず、もう一つは我見が阻礙する。定が足りなければ見解も具足しにくく、我見は断ちにくいか、或いは徹底的に断てない。心中が一切の物を空じていない、五陰の中の或る法をなお真実と認めれば、疑情は現れない。これは定と慧が不足しており、なお継続して修める必要があることを示す。疑情が現れれば、疑情の中に住する。時節因縁が具足すれば、疑情を打破し、元来はこういうことだと知る。故に大小乗の理、小乗は基礎である。基礎が良くできれば、次の修行は非常に速い。このように身を観じれば、身見を断ち、内心は空空如也、一つの我が無く、我身が無く、皆空であり、幻化である。
原文:復た次に諸比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死体を。血肉を具するが故に、而して筋は骸骨に連結す。乃至肉無くして血の附着するも、而して筋は骸骨に連結す。乃至血肉無くして、唯筋は骸骨に連結す。乃至関節解散し、手骨は此処に、足骨は彼処に、踝骨は此処に、腿骨は彼処に、盤骨は此処に、背骨は彼処に、頭蓋骨は彼処に在り。骸骨は四方八方に散在す。彼は此の身を注視し、此の身は斯の法を脱せず、而して斯くの如くなることを知る。
釈:引き続き観察する。諸比丘よ、比丘はこの時、丁度墓場に捨てられた死体を観察する。これらの死体はなお血肉があるため、筋が骸骨と繋がっている。乃ち肉が無くなり、血だけが死体に付着し、筋だけが骸骨に繋がっている。乃ち関節が全て散開し、手骨はここに、足骨はあそこに、踝骨はここに、腿骨はあそこに、盤骨はここに、背骨はあそこに、頭蓋骨はここにあり、骸骨は四方八方に散乱している。比丘は自らの色身を注視し、自らの色身もまたこのような結末であり、このような死体となることを知る。
この経文は依然として死体を観る。色身は生きている時は虚妄であり、死んで死体となれば更に虚妄であり、更に空であり、更に私ではない。前段は死体が野獣に食われ尽くされ、食われた後もなお骨が残り、残った骨にはまだ血と肉があり、筋が骨に繋がっている。更に観察を進めると、骨の上の肉も無くなり、血が少し残り、筋が骨に繋がっている。更に観察を進めると、血も無くなり、野獣に舐められ、齧られて最も硬い骨だけが残り、筋骨だけが繋がっている。
乃ち最後には、繋がっている所も無くなり、関節が無くなる。骨は既に非常に破砕され齧られている。最後に骨は手骨、足骨、踝骨、腿骨、背骨、頭蓋骨などに分散し、非常に散乱して各所に散らばり、元の生々しい血肉の繋がった大活人は、最後には東の破片の骨、西の破片の骨となり、四方八方に散らばり、集められなくなる。観察してここに至り、自らの身体もこの運命から逃れられず、皆破れ砕けた骨の破片となると知る。ではこの身体は何処へ行くのか?真実なのか?元のあの完全な身体も私ではなく、骨の破片となったこれも私ではない。皆因縁によって集まり、四大が組成した一つの仮の殻、一つの幻化物である。
仏は言う、我々が一小劫の内の色身は、皆散壊した後残った骨は、十分に積み上げれば須弥山の如き山となる。須弥山は四大海の中にあり、虚空の中まで伸びている。須弥山は四大海水の中に半分埋まり、虚空の中に半分伸びている。須弥山は三角形の形状で、上へ行くほど狭くなり、四大海の上に半分伸びている。地球は四大海の上、須弥山の足元にあり、須弥山南面の一小球体である。四大海水面上の須弥山、その中腹は四天王天であり、須弥山の東・南・西・北四面は四天王の住む所で、四天王天といい、月はそこに浮遊している。須弥山の山頂は忉利天天主・釈提桓因の住む忉利天、またの名を三十三天といい、太陽はそこに浮遊している。
一人の一小劫の内の全ての色身の骨は、須弥山程の高さに積み上がる。一小劫の中の我々の色身は実に多すぎ、生命の回数と生命体も多すぎて、到底数えきれない。これらの全ての色身は皆私なのか?皆私ではなく、如来蔵が幻化した一つの仮の殻である。生々世世、如来蔵は地水火風の四大種子を輸送し出し、一つまた一つの色身を形成する。色身が散壊した後は骨が残り、最後には骨も無くなる。我々は以前の多くの世の骨を見つけられるか?全く見つからない。
もし色身が私なら、何処にそれらの私を探すのか?虚空に私を探すのか?きっと見つからない。また私がそんなに多いのか?真実の私はただ一つであり、かつ常に不変である。変化する無常のものは私ではない。この観念は我々の心に非常に非常に堅固であるべきである。それなら我々は一生一世の色身に執着せず、再び色身を私と見做さず、それに良いものを食べさせ、良いものを着させ、良い所に住まわせ、良いものを使わせる必要はない。一生一世、飲み食いし遊び楽しむのは皆この臭い皮袋、この仮の殻のためである。それでは非常に値せず、最後にはなお無情無義に我々を見捨てる。我々がそれを見捨てるのか、それともそれが我々を見捨てるのか?我々はそれを見捨てたいのか?全く見捨てたくない。意根が貪執を修め去っていない時は、このように色身に執着し、掴んでも掴みきれず、自ら色身を放棄することは不可能である。
故にあの生滅するもののために、我々は一切の代償を払い、全ての福報をそれに享楽させるために使い、非常に値しない。無常変異の色身のために、高い代償を払ってはならない。出来る限り多く福を修め、福を積み、福を使わず、福を享楽せず、福報が充分に積み上がって初めて仏となる。仏は福慧両足尊であり、福報が具足しなければ仏になれない。故にこの福德は非常に重要である。もし自らの福德が無くなれば、たとえ他人がどれほど財物を贈っても、享受できない。享受できても、それは自らの如来蔵銀行から福報を引き出したものであり、そうすれば銀行の預金は減少する。金銭は他人の銀行口座から引き出しても、福德は自らの如来蔵銀行から消耗する。我々の一口の飲食、一回の消費享受は、皆自らの如来蔵銀行から引き出したものであり、多く一口食べれば、一口分の福報が減り、銀行から少し引き出せば、福德は少し減り、諸事は少し不順になる。
原文:仏説く、斯くの如く。或いは内身に於て身を観じて住し。外身に於て身を観じて住し。また内外身に於て身を観じて住す。或いは身に於て生法を観じて住し。身に於て滅法を観じて住し。また身に於て生滅法を観じて住す。
釈:仏は言う、このように、心は或いは内身を観察することに住し、或いは外身を観察することに住し、或いは同時に内外身を観察することに住し、或いは色身の新たに生じる法を観察することに住し、或いは色身の滅去する法を観察することに住し、或いは同時に色身の生じる法と滅する法を観察することに住す。
先の段は内身を観る。死体が皆骨となり、骨には初めは血肉があり、後に肉が無く血も無くなり、最後には筋も無くなり、骨は散壊して東の破片、西の破片となり、散らばり、最後には皆消失する。何処に一つの私があるのか?内身を観終えた後、外身外界を観る。十八界の中の六塵は、皆生滅・散壊、苦・空・無常である。色身は無から有へ、百斤余りに成長し、最後には肉が無くなり、血が無くなり、内臓が無くなり、幾つかの骨の破片が残る。最後には骨も無くなる。
このように見れば、色身は空なのか?私なのか?この仮の殻は苦なのか?汚く不浄なのか?定慧等持して三昧が現れた時は、現量で色身が私でないと観察できる。内身を観た後に外身を観て、内心は堅固に認知する:十八界は皆苦空無常無我であり、全て私ではない。内から外、上から下まで、皆私ではない。そこで内心の色身観念は捨て去られ、心中は空空如也、一物も無い。内身外身に一法も私及び私の所有は無く、こうして我見を断つ。定慧が良く、煩悩も軽い者は、間もなく二果を証得するか、或いはその時点で二果である。
二果となった後は、初禅定が発起するのが非常に速い。初禅定が発起した後は、貪愛を断ち、更に瞋恚心を断てば三果となる。三果に修めるのは相当に良い。三果の証量があり、更に明心見性の功徳があれば、禅宗の牢関を通過し、その後は初地に入る能力と資格があり、初地菩薩となり、如来の家に入り、如来の真の仏子、如来の実子となる。これ以前は大小乗の仏法に通達せず、煩悩も断除していないため、如来の家に入れない。
原文:尚又智識の成る所及び憶念の成る所、皆身の思念有りて現前す。彼は当に依る所無くして住すべし。且つ世間の何物にも執着せず。諸比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。
釈:このように観察した後、清明な心の中には、心心念念、身があり、心念には色身に関する思想と観念が満ちている。比丘たちは依る所無く、色身に住してはならない。色身が頼りになる真実であると思って依存してはならず、かつまた世間の如何なる事物にも執着してはならない。諸比丘よ、比丘はこのように身観身に住す。
内外身を観行し、生法と滅法も観行し終えた後、心心念念の中には身体の存在があり、憶念の中もこの身体である。その後この身体の念いを空じ、心念は身に依らずして住し、かつまた世間の如何なる物にも執着せずして住す。心中に一法も住まない。身が無く、世間の如何なる物も無く、如何なる物も皆空であり、真実ではない。身体は真実でなく、外の一切の物も皆真実でなく、虚空全体、外の全ての人事物理、我々が生活している一切の環境と資具まで、皆真実ではなく、皆我々の所有ではなく、全ては幻化である。
こうして内心は非常に浄く尽きるほど空じる。全く空じた後は参禅が容易である。既に皆私ではなく、空であるなら、何故この五陰はなお活動しているのか?疑情が現れる。空じるほど徹底すればするほど、疑情は濃くなり、疑いを破る時の智慧は深く鋭い。
原文:復た次に。諸比丘よ、比丘は恰も観ることを得るが如し。塚間に遺棄されたる死体を。初めは螺の色の如き白骨。乃至一年を経て、骸骨は高く堆積す。乃至骸骨は粉砕し敗壊す。彼は此の身を注視し、此の身は斯の法を脱せず、而して斯くの如くなることを知る。諸比丘よ、比丘は斯くの如く、身に於て身を観じて住す。
釈:引き続き観察する。諸比丘よ、比丘はこの時、丁度屍棄林や墓場に投げ捨てられた死体を観察する。あの死体は初めは海螺の色のような白骨であり、骸骨は一年を経て変化し、高く積み上がる白骨の山となり、最後には骨は粉砕し敗壊し、消失する。比丘は再び自らの身体を注視し、自らの身体もこの結末であり、四方に散らばる骨の破片となることを知る。諸比丘よ、比丘はこのように身観身に住すべきである。
一つの完全な身体が一つの死体となり、最後には一片の骨さえも無くなる。何も見つからない。これが無常と空幻である。昔、修行者は衆生を憐れみ、死後は身体を火葬せず、人に死体を直接墓場に置かせ、畜生に食わせた。畜生が食った後は骨の山が残る。彼は臨終に人に骨を集めて粉にし、更に蟻のような小さな動物に与えるか、或いは海に撒いて直接魚に与えるよう遺言した。この修行者はこのように無我であり、このように衆生を憐れみ、死後もなお衆生を利益する。色身に執着しない者であることが分かる。
こうして死体は最後には何も無くなる。たとえ骨灰が存在しても、皆散らばり見つからない。最後に地球が滅びれば、骨灰と骨は何処にあるのか?骨が地球上にあると言えば、ただ見つからないだけであるが、地球が消失すれば、骨は何処にあるのか?地球の成住壊空の一周期は一大劫である。たとえ骨が一大劫存在できても、虚空の中にしか存在できず、何を虚空というのか?虚空の何処にそんなに多くの骨を置けるのか?たとえ虚空が骨を置けるとしても、大雨が降れば骨は流され無くなり、宇宙の中で風災が来れば、宇宙全体の天宮が破壊される。あの小さな骨と骨灰は何ほどのものでもなく、更に影も形も無くなる。
故に最後には色身に一物も留められない。元々色身は地水火風の四大で組成され、今地水火風が分散し、皆如来蔵に戻る。如来蔵が回収した後、再び変化して又一世の色身を現し、地水火風を再び出力し、もう一つの色身を形成し、再び地水火風を回収し、如来蔵に戻る。このように見れば、衆生は真に一無所有、一無所是である。それなら我々は再び色身に執着せず、世間の如何なる事物にも執着してはならない。ある者は言う、私は金銀珠玉を掴むべきだ、あれは身体よりずっと堅固だと。しかし色身が無くなれば、誰が掴むのか?金銀珠玉は何の役に立つのか?金銀珠玉は比較的堅固だが、それらはどれだけ長く存在できるのか?一劫二劫三劫、一大劫存在できるのか?地球が散壊すれば、あなたの金銀珠玉は何処にあるのか?金剛は最も堅いものだが、金剛は何処にあるのか?三千大千世界が滅びれば、あなたの金銀珠玉と金剛は何処にあるのか?見つけられるか?皆消失し無くなる。
地水火風の四大で組成されたものは、最後には如来蔵に戻る。金剛も無くなり、宇宙の各層天の天宮も無くなる。我々は何を執着し、何を掴み取るのか?一切は消失し散壊し、皆虚妄である。我々は何を執着するのか?掴んだとしても、あなたはどれだけ長く掴めるのか?実は掴んでいる時も一種の苦である。故に心を空空浄浄に修め、空空如也、虚空の中を歩くようにすべきである。また一つの私が歩くこともなく、その心は非常に清浄自在で快適である。我見を断った後は賢聖人となり、生々世世修行し、同時に他を利楽し、自利利人し、最後に円満究竟の仏となる。ただこのように修行して初めて円満無上菩提の道を歩める。