四念処経講話 第二版(新修)
第三章 受念処観
大念住経における受念処の「受」は何を含むのか。六識心の感受、すなわち身心における感覚を含む。六識の感受とは何か。眼根における眼識の感受、耳根における耳識の感受、鼻根における鼻識の感受、舌根における舌識の感受、身根における身識の感受、そしてもう一つは意識心の受であり、意識心の受は心の感受と呼ばれ、純粋に心の感覚である。五識の感受は、五根において生じる感覚ではあるが、実際には心の感覚でもあり、五根本身には受がなく、識心に受がある。意識心の受も、ほとんどの場合、五根から離れることはなく、多くの場合は五識と共に生じる受である。心に感覚があり、身体に感覚があるのは、いずれも識心の感覚であり、心の内側の感受を内受と呼び、心が外界の色・声・香・味・触に対する受を外受と呼ぶ。
原文:然り。諸比丘よ。如何にして比丘は受を観じて受に住するや。諸比丘よ。比丘が楽受を感ずる時は、我れ楽受を感ずることを知れ。苦受を感ずる時は、我れ苦受を感ずることを知れ。不苦不楽受を感ずる時は、我れ不苦不楽受を感ずることを知れ。
釈:それでは、諸比丘よ、比丘は如何にして自らの感受を観行し、心を受に住まわせるのか。諸比丘よ、もし比丘が楽受を感受しているならば、心に『我れ楽受を感ず』と知るべきである。苦受を感受している時は、心に『我れ苦受を感ず』と知るべきである。不苦不楽受を感受している時は、心に『我れ不苦不楽受を感ず』と知るべきである。
この節で世尊は比丘に受念処を観行するよう教え、受念処観を修行するには、常に自らの心の内なる様々な感受を観察し、全ての注意を感受に集中させ、自らの感受を覚知し観行して、受が苦であることを証得せよと説かれた。受は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受の五種に分けられる。あるいは大まかに三種に分ける:快適で愉快な感受は楽受、苦痛で不愉快な感受は苦受、良くも悪くもない感受、苦でも楽でもない受は捨受である。
受念処観を修行するには、如何にして受を観るべきか。身心のあらゆる感受を、心で明らかに知るべきである。すなわち自らの心理状態と身体状態を、自らが知るべきであり、知らないのは無記に属する。無記の時は観行できない。その時は心が妄想を打っているか、あるいは昏沈の中にあり、自らの心の内の感受を知ることができず、観行ができない。故に四念処観を修行する時は、心に常に一つの「知」がなければ観行できず、智慧を生じることができる。如何にして智慧を生じるのか。三種の受に対する客観的な知が一定の程度に至り、時節因縁が具足した時、現量において受が生滅変異し無常無我であることを体得し、無生智が生起して、我見を断つのである。
もし心あるいは身体に苦受・楽受・不苦不楽受という三種の感受が現れたならば、自らが常に明瞭に感知すべきである。もし自らが楽を感受していると知るならば、その心念は自らの楽受の上に散乱せず、妄想もせず、昏沈もしない。苦受を感じている時も、自らが苦受を感じていると知り、今の心が苦しみ、不愉快で、煩わしいといったこれらの感受を心で知り、はっきりと明らかにして迷乱しない。これが定であり、慧もある。
自らが不苦不楽の受を感じている時も、心で知るべきである。不苦不楽の受は気づきにくく反観しにくい。特別な感覚がないため、注意を引きにくく、気づきにくい。現在の身心の状態が良くも悪くもない場合、反観せず、心が細かくなければ、気づきにくく、往々にして忘れ、覚知しない。不苦不楽の時は、往々にして自らを省みず、あたかも色身を忘れたように、外の世界に攀縁している。この時は心念を収め、注意力を自らの身心の感受に集中して観察すべきである。
普段は自らを訓練し、心に常に一つの「知」を持たせるべきである。意念を集中し、精力を集中し、散乱もせず昏沈もせず、心にこの知を保つ。この知がある人の状態とは何か。人は非常に深沈で、専注一心であり、思惟は細やかで深く、観察力が強い。もし知らなければ、人は聡明でなく、愚かで散乱する。しかし無心の境地に修めた人は、この例には当たらない。彼らは全てのことに無関心で、意に介さず、感受も少なく、修行は既に初步の成就を得て、心は世俗法に留まらない。もし観察しようと思い起こせば、非常に深く適切に観察できる。
仏は弟子たちに、内心に常に禅定と観察能力を持つよう訓練される。これは智慧を開く前提である。定と慧があれば、常に自らを観察でき、他人も観察でき、一切の法も観察でき、法の根源と実質を知り、智慧を持って適切に処理できる。もし自らの現在の色身がどのような状態か、他人の状態が何かも知らなければ、人や事柄をよく処理できない。事柄をよく処理しようとするなら、精力と意念は全てこの事柄に集中し、事柄を明らかに見極め、その中に定と慧がある。定と慧は同時に一体であり、定がなければ慧はなく、これがなければあれもない。
不苦不楽の受とは何か、常に感知できるべきである。例えば今ここに座って一時的に身体を忘れ、身体の存在を知らない状態、これが一つの不苦不楽の受である。もし身体が非常に快適ならば、感知でき、しかも貪着するだろう。もし身体が非常に苦しければ、それも知り、その後で痛みを消すか痛みを避ける方法を考えるだろう。
不苦不楽の受はそうではない。一人の人が目の前に来ても、自分とは関係がなく、見ても見ないように、心に何の感受もなく、好きでも嫌いでもなく、無関心な状態、これが不苦不楽の受である。一つの出来事が起こり、一つのものが目の前にあるが、自らはこれらに感覚がなく、全て不苦不楽の受であり、好きでも嫌いでもなく、何の考えもない、全て不苦不楽の受に属する。身体に特別な感覚がなければ、注意を向けることもない。しかし観受を修習する時は、注意力を自らの様々な受に置き、常に知を持ち、心を散乱させない。
原文:若し肉体の楽受を感ずる時は、我れ肉体の楽受を感ずることを知れ。
釈:仏は言われた。比丘が肉体の楽受を感じている時は、心に明らかに『我れ肉体の楽受を感ず』と知るべきである。
この楽受は心の楽受と肉体の楽受に分けられる。肉体の楽受とはどのような状況か。例えば坐禅で気脈が身体を通る時、身体に楽受があり、身体は非常に快適に感じる。気脈が身体の中で運行し、詰まりなく比較的スムーズであれば、気血が足りて色身は非常に快適である。もし気が丹田に沈み込めば、全身が特別に快適に感じる。特に初禅定がある時は楽触が最も強く、身体は飄々として仙人のようで、軽安柔軟、軽妙自在、雲霧の中にいるようで、心は喜び身体は楽しく、人間の言葉では正確に形容も表現もできない。
身体の感受は誰が感じるのか。やはり身識自体の感受であり、肉体には感受がなく、肉体上の身識の感受、すなわち純粋な身体の感受である。実際には意識心の感受を伴っており、そうでなければ身体には感受が生じない。また例えば突然叩かれると、痛みを感じる。この痛みの反応は誰の反応か。身識と意識の反応である。痛んだ後、心は苦しく感じ、さらに瞋恚を起こすかもしれない。この苦受は誰の感受か。意識心の感受であり、意識の受が主である。この受の当体には二種類ある:一つは身体上のもの、もう一つは意識心上のもので、両者は混ざり合っている。心がもしもう少し細やかであれば、両者を分けられる。
あるいは身体のどこかが切れて、非常に痛いと感じる。この痛み自体に身識と意識の受がある。痛む時、心は非常に苦しく、とても不愉快に感じる。それが独頭意識単独の受である。二種の受を完全に分けるには必ず禅定が必要で、心が細やかでなければならない。肉体に楽受がある時、自らは肉体の楽、肉体と精神の楽を感じていると知るべきである。肉体的楽と精神的楽の両方に、意識心の覚受がある。一般の人はこれらの名相概念を理解せず、肉体と精神に分けるが、実際には肉体上の受も識心であり、精神上の受は意識心が主であり、全て識心の受である。それらの間には違いもあり、関連もある。
原文:又、精神の楽受を感ずる時は、我れ精神の楽受を感ずることを知れ。
釈:もし精神上の楽受を感受しているならば、自らが精神上の楽受を感受していると知るべきである。
精神上の楽受は純粋な意識心の受であり、肉体上の楽受とは関係ないかもしれないし、関係あるかもしれない。精神の楽受を感じている時は心に必ず知がなければならない。もし知がなければ、散乱しているか昏沈しており、専注した観行の状態にない。各人の精神上の楽受は少なくないかもしれない。何しろ好きなことは多く、何を好きであれ全て精神上の楽受である。もし心に貪らなければ楽受はなく、平静に対処し、あまり気にしない。
精神面の楽受は主に好き・満足・貪愛・快楽である。心が好きになれば即ち貪であり、欲界の法を貪れば欲界を出離できず、三界の法を貪れば三界を出離できない。貪さえあれば、心が執着し、心が喜楽すれば、喜貪と執着に束縛され、解脱できない。一つのものを好きになれば、そのものに粘着され、心は解脱できない。もし心に念々と好きなものがあれば、堅固に束縛され、生死輪廻の中に留まり解脱できない。
肉体の楽受を感じる時は、内心で了知すべきである。精神の楽受を感じる時も、心で了知すべきである。そうすれば、目前の身心の中のいかなる法にも愚かならず、知る時間が長くなれば反観し、覚悟する機会が得られ、楽受の真実性が無常・苦・空・無我であることを知る。
原文:或いは肉体の苦受を感ずる時は、我れ肉体の苦受を感ずることを知れ。
釈:あるいは肉体上の苦受を感受している時は、心にもはっきりと了知すべきである:我れ肉体の苦受を感ず。
肉体の苦受を感じる時は、現前に絶え間なく実質的に観察し了知することによってのみ、覚悟の心が生じ、これらの感受が全て生滅無常で虚妄非我であることを知ることができる。肉体面の苦受は娑婆世界の至る所にあり、例えば四季の移り変わり、環境の変化によって身体が受ける寒熱触痛などである。例えば今、寒い日に外に出て、風が身体に当たり骨身に沁みるように感じる。これが肉体上の苦受である。この骨身に沁みる覚受は、肉体と精神のどちらの受が主か。この時は身体の覚受が主であり、同時に精神上の軽微な覚受もある。しかしある人は精神上の苦受がないかもしれず、寒さを苦とせず、意志が堅固で楽観的で、環境を意に介さない。
もし天気が非常に寒く、肉体の苦受が深刻に感じられると、ある人は精神上の苦受が増加する。身体の感受が実に苦しいと、心に煩悩が生じ、精神上の苦受が顕著になる。いつどの感受が主になるかは一定でなく、両者が完全に平等に同時に現れるわけではない。もし修行のある人、意志の強い人、何かを追求する人は、肉体の苦受をあまり気にせず、彼の精神は苦を感じない。これは人によって異なり、人の耐性と追求による。
身体の苦受が長く続くと、精神の苦受に転換する。例えば病気の時、最初は針を刺されても心は苦しく感じないが、毎日針を刺されると、心は煩わしく感じる。特に病状が好転する兆しがなければ、心に負担がかかり、精神の苦受が多くなる。故に感受は時には身体の面に偏り、時には心理面、すなわち精神面に偏る。突然叩かれると、身体は非常に痛むが、ある人は心には反感がなく、その時は心に苦受がない。しかし常に叩かれると、内心は耐えられなくなり、その時は身も苦しく心も苦しく、心の苦しみが比較的顕著になる。故に身心の感受は変化し、重点は移る。
肉体の苦受を感じる時は心に知り、精神の苦受を感じる時も心に知るべきである。毎日外に出て風に吹かれ日差しにさらされ、重い肉体労働をすれば、肉体に苦受がある。家に帰ると身体のあちこちが痛み、不快である。あるいはリウマチがあれば、身体は非常に重く感じる。これらは全て身体上の苦受である。苦受が多くなると、心は非常に焦燥し、心の苦受が強くなり、ますます多くなる。身が苦しく心も苦しい時が最も苦しい。ある人は仕事が非常に辛くて苦しいが、疲労は苦なのか。しかし彼は心は喜んでいる。他人に叩かれても、おそらく喜んでいるかもしれない。故に色身の苦と精神の苦は、必ずしも同時に現れるわけではない。
原文:又、精神の苦受を感ずる時は、我れ精神の苦受を感ずることを知れ。
釈:精神の苦受を感じるとは、心の苦しみを担うことであり、主に意識の苦受である。心に『我れ精神の苦受を感ず』と知るべきである。
もし心が細やかでなければ、精神・心霊上の苦受も観察しにくく、感知しにくい。実際には衆生は精神面の苦受の方が多い。敏感であればあるほど、様々な不如意・不如願・気に入らないことを感知し、憂い・煩い・苦痛・忍耐・煎熬といった煩悩が生じる。これが精神上の苦受である。もし愚痴で麻痺しているか、大雑把な人なら、軽微な煩悩は感じられない。修行者が無心の状態に達した場合は除く。彼らは何も意に介さない。
ある畜生は非常に苦しいが、彼らは苦しいと知らず、覚悟がない。なぜ苦しいと知らないのか。愚痴のためである。人間は非常に苦しいが、なぜ多くの人は一生苦しみながらも苦しいと知らないのか。これも愚痴のためである。衆生が愚痴であるが故に、仏は人間界に来て衆生を教え導き、五蘊は苦であり、十八界は苦であり、三界は全て苦であると告げ、衆生に苦を覚悟させ、その後出離心を発起させ、精進して仏法を修学させる。もし衆生が愚痴でなければ、仏が私たちを教え導く必要はなく、仏は衆生に苦集滅道の四聖諦法を説く必要はない。私たちが愚痴でこの理を理解せず、苦諦を知らないが故に、仏は教化に来られるのである。
今、四念処を修めるのは、私たちを愚痴にさせないためであり、常に感受し覚知し、心に常に一つの知を持ち、常に一つの覚照を持たせるためである。因縁が熟せば、この受が苦であると知る。苦を知った後は、苦を滅する方法を考える。苦を滅するには仏法を修学し、四諦の理を修行するしかない。苦を滅する方法は、四聖諦を学ぶことによって知る。心を滅することであり、心が滅すれば苦が滅し、解脱を得る。何の心を滅するのか。貪愛の心を滅する。これも好き、あれも好き、何もかも好きで、好きに好きを重ね、貪心が絶えず、自らは欲界に束縛され、解脱できない。実際には貪っても何も得られず、却って貪のために生死の業行を造作し、苦受や苦報を貪ってきたのである。
貪の結果は何か。結果は全て苦受である。もし貪らなければ、心に求めるものはなく、貪求がなければ熱悩もなく、心は軽く自在で、束縛もない。衆生はこれ以後生死の業行を造作せず、六塵の境界に束縛されず、心は解脱できる。三悪道に束縛されず、三界に束縛されず、六道輪廻から出られない。衆生が不自在なのは、内心に貪瞋痴の煩悩があり、一切の法を執取し、一切の生死の業行を造作するからである。そうすれば生死の果報を受け、こうして苦受が来る。故に衆生の一切の苦報は貪愛を根本とする。
受あるものは皆苦という道理を知った後は明らかになり、もはや貪愛せず、貪愛しなければ苦受は少なくなる。好きであればあるほど貪愛し、心はますます清浄でなく、ますます掛かり碍が生じ、一切の事柄はますます不如意になり、心はますます苦しくなる。私たちが精神の苦受を感じる時は心に知るべきであり、各種の苦受を全て知るべきである。心に常に知を持てば、智慧が生じる。私たちの一切の法に対する感受は全て苦であり、楽の時でさえ苦である。この苦諦を理解すれば智慧が生じ、以後は感受を追求せず、徐々に貪愛から離れる。
原文:或いは肉体の不苦不楽受を感ずる時は、我れ肉体の不苦不楽受を感ずることを知れ。
釈:観行する人が肉体の不苦不楽受を感受している時は、『我れ肉体の不苦不楽受を感ず』と知るべきである。
第三種の受は不苦不楽受である。身体の現在の状態が不苦不楽である時も、心に知るべきである。現在の身体はあまり楽でもなく、あまり重くも煩わしくもなく、あまり疲れも苦しくもなく、比較的中庸で、中和されて非常に平穏な時は、ほとんど色身の存在を感じない。これを忘身と呼ぶ。忘身とは、時折身体の存在を知らず、身体の感受が苦でも楽でもない状態である。捨受の時は、往々にして色身の存在を感じない。
時には心が別の重要な問題を考えており、身体に注意を払わない。この時、身体は不苦不楽の受である。このような状況は多くない。もし禅定の功夫が比較的良いなら、身体の楽受は多くなる。禅定の功夫が良くない時は、普段身体の苦受が比較的多く、不苦不楽受も時々現れる。眠って夢のない時は、六識がないため身体を感じない。夢のある時は、時々身体の疲労や疲れを感じることもある。
原文:又、精神の不苦不楽受を感ずる時は、我れ精神の不苦不楽受を感ずることを知れ。
釈:身体上の不苦不楽の感受は常に知るべきであり、精神上・心理上・意識心上の不苦不楽の受も、常に知るべきである。不苦不楽の受は比較的平穏で安定している。苦と楽のある感受は心が清浄でなく、必ず喧騒である。衆生の心は平静で安定している時が少なく、心理上精神上は苦か楽かであり、常に騒いでいることを示している。遊び楽しむ時は非常に楽しく感じるようだが、楽しい時は心は清浄でなく平静でない。宴が終わり人が散った後、その寂寥とした感受は苦である。楽の当時も苦であり、心はこの感受が消えることを望まず、楽が過ぎ去ることを望まず、ずっと掴んでいたいと思う。その時心は苦しい。人・事・物・理を掴み取ろうとする、この掴み取る心は苦しいのではないか。凡そ求めるものがあれば、皆苦である。
各楽受の中に苦を含んでいるのか。私たちはどの楽受の中に苦がないか探すことができる。苦には苦苦・行苦・壊苦の三種がある。壊苦は、この事柄が楽受を生じさせたが、長くは続かず、この事柄は結局消え失せる。楽受を感じると同時に、心は失うことを心配する。これが楽受の中の苦受である。事柄がついに過ぎ去ると、心に喪失感が生じる。これも苦受である。楽しんでいる時、楽受は遷流変化し、内心はこの楽受が終わることを望まず、故に心は苦しい。しかも楽受が長く続くと、自然に楽と感じなくなり、心が慣れてしまい、もはや楽受はなくなる。
昇進して財を成した時、親族が集まる時は、楽受が多いが、同時に苦受もある。内心が非常に喜楽の時、心は平静でなく、それ自体が一種の喧騒で寂静でない。故に楽受自体が苦である。親族が集まると心は喜ぶが、喜びの中にも苦悩がある。一方では親族が散ることを心配し、一方では集まりのため多くの準備をし、多くのことをしなければならず、非常に面倒である。集まっている時、様々な事柄を処理する必要があり、おそらく多くの矛盾もある。これは苦受ではないか。全て苦受である。正月や節句に美味しいものを作り、食べて非常に喜ぶが、様々な準備作業をし、その後は衛生を整える必要がある。これも全て苦である。実際には一つの楽の中に苦がないものはなく、楽しすぎるとこの楽が消えることを恐れ、しかもこの楽のために代償を払わなければならない。故にこの世の中に純粋な楽はない。行苦は、各人・事・物・理を経験する時に行苦があり、生住異滅があり、最後は全て消え滅び、長く存続できない。これを行苦と呼ぶ。老病死自体が苦であり、楽しいことではなく、故に苦苦と呼ぶ。
最後に仏は一つの真理を告げられる:全ての受は苦受である。もし受の中に楽があれば、仏は私たちに受は苦であると観じさせず、感受を追求するなと告げられない。もし受が全て楽ならば、私たちは感受を断除しようとせず、感受を貪求する。受あるものは皆苦であるからであり、楽受も苦であり、苦自体も苦であり、不苦不楽の中にも苦がある。故に一切の受は苦である。
もし天界から降りてきて人間界に来たばかりなら、人間界でどんなに楽しいことがあっても、自らは楽しいと感じられるか。もちろんできない。人間界と天界の落差が大きすぎ、心に深刻な喪失感が生じる。他人が様々な楽受に浸っていると、自らは非常に苦悩し、非常に鬱屈する。なぜなら私たちは天界に住んだことがあり、天界がどのような境界か、どれほど殊勝で美妙かを知っているからである。人間界を見れば、比べものにならない。この二つの落差は実に大きすぎ、心は喜べるか。一人の天女が天界でどんな生活をしていたか、こちらに来て農民に嫁げば、彼女はどんな感受か。
一人の人がもし美しい事物に触れた後、醜く卑しいものに触れれば、心は確かに受け入れられない。では私たちがもし人間界から突然天界に行けばどうか。低い所から高い所への飛翔は、真の快楽である。故に一切の楽受は、相対的な差別があり、愚痴であればあるほど満足しやすく、楽を感じやすく、世間を多く見た人ほど満足しにくく、楽を感じにくい。なぜなら彼は経験した事柄が多く、眼界が開け、見聞が広く、良し悪しを識別する智慧があり、容易には満足せず、容易には快楽を感じないからである。
仏は弟子たちに不苦不楽の受も知るよう求められる。身体が不苦不楽の受を感じている時は、はっきりと知るべきである。例えば坐禅の時、さっきまで身体はずっと重かったが、今は気脈が少し通り、身体はやや快適になる。感受は苦受から少しずつ不苦不楽の受に転じ、最後に身体に一種の楽受が現れる。この中には一種の不苦不楽の受があり、心が細やかであれば感知できるはずである。時には私たちが精力を集中して何かを考えると身体を忘れる。身体は本来苦受であるが、この時忘れると、苦受ではなく不苦不楽の受となる。そうでなければ苦受または楽受を引き続き感知する。
精神上心理上の不苦不楽の受も知るべきである。もし心が麻痺していれば感じられない。明らかにこの事柄は非常に苦しく苦痛であるが、愚痴な人は苦痛を知らず、内心が麻痺している。修行の良い人、無心の人は、心も麻痺しており、逆境や苦境に苦受がなく、順境にも楽受がなく、どうとも思わず、常に不苦不楽の受と相応する。定と慧は連動しており、智慧があればあるほど、一切の受が苦であると観察でき、もはや受に貪着しない。もし更に智慧を修められれば、一切の苦受の上で、不苦不楽の受を感じることができる。
故に衆生の感受はそれぞれ異なる。これは各人の素質と智慧の程度・覚悟の程度・法を学ぶ程度・聡明さ・利発さによる。なぜ一人一人感受が異なるのか。心の認知が異なり、智慧の境界が異なるからである。同じ事柄が起こっても、ある人はこういう感受で、ある人はああいう感受である。例えば一つの村落に、千年以上も経った非常に大きな木がある。百人の人がこの大木を見に来れば、百の観念と見解がある。木は同じだが、人の心が異なり、感受が異なり、知見と見方が異なる。各人の心に差があれば、あらゆる事物が心に現れる状態が異なり、認知が異なる。認知が異なれば感受が異なり、感受が異なれば身口意行が異なり、身口意が異なれば造作する業行果報が異なる。事柄を感知し領解する時、聖人も感知し凡夫も感知するが、認知と感受が異なるのは、心が異なり智慧の境界が異なるためである。
仏は私たちに定を修め慧を修める方法を教えられる。私たちは各法の概念と内包を理解し、観行する時、注意力は全て自らの感受を観ることにあり、少しの雑念もなければ、定は直ちに現れる。定があれば、更に観行し、観行はますます深く細かくなる。故に定慧は同時に存在し、定慧等持である。
定があれば慧がある。禅定を得なければ観行は非常に困難であり、観慧が不足すれば観行も非常に困難である。もし本当に観行を良くしたいなら、誰にも邪魔されない時、一時間二時間観行し、注意力が全て観行の内容にあれば、自らを忘れ、心は観行の法に満たされる。その時の身体状態、心理状態は非常に軽快で愉悦である。色身の気脈が通じ、身体は軽く、心理的感受も快適である。外界の境界が再び来ても無関心である。これが定慧である。故に道を修めるのは良い。もし道を修めなければ、心理は非常に煩乱する。
どの方法でも掌握し、道理が通じれば、修行はそれほど困難ではなくなる。難易は人による。観行の方法に慣れていない時は、着手点がないと感じる。万事は開始の段階にいくらか困難がある。慣れた後は、その中の観行内容を理解でき、その後自ら決心し、適切な時間と方法を見つけ、努力して観行すれば、道に入ることができる。修行は徐々に不慣れから慣れに変わり、慣れた後は行住坐臥で観行でき、随時随所で観察・観行し、智慧と禅定が同時に増長し、身体の覚受も良くなる。これが修行である。
原文:かくの如く、或いは内受に於て受を観じて住し、外受に於て受を観じて住し、又は内外受に於て受を観じて住す。
釈:このように観行した後、比丘たちは或いは心を内受に住まわせて受覚を観じ、また心を外受に住まわせて受覚を観じ、更に心を同時に内受と外受に住まわせて受覚を観じる。
ここには内受と外受という二つの概念が関わっている。受も内受と外受に分けられる。内身に対する感受は内受であり、外身に対する感受は外受である。内身とは色身の内の五陰身を指し、外身とは山河大地などの六塵境界を指す。内受は、一つは自身の身体上の感受、もう一つは心が回想・思念する時に生じる感受、湧き起こる酸・甘・苦・辣の味わいであり、外法に接触せずに生じる受覚である。例えば身体の痛みを感じるのは内受であり、心がある事柄を思い出して苦悶・憂い・煩いを感じるのは内受である。坐禅で身体が非常に快適に感じるのは内受であり、気脈が胃腸に通じて非常に快適に感じるのは内受であり、坐禅で非常に愉悦し快適に感じるのは内受である。凡そ自らの身心世界を巡る感受は、全て内受である。
心が外界の色・声・香・味・触に接触する時に生じる感受は外受に属する。例えば目が突然日光に照らされ、まぶしいと感じるのは外受である。一つの石が身体に当たり、痛みと重さを感じるのは外受である。耳が突然外の鋭い音を聞き、耳障りに感じるのは外受であり、同時に心が苦しいと感じるのは外受である。香りが漂ってきて、心が非常に香しいと感じるのは外受であり、臭いが漂ってきて非常に臭いと感じるのは外受である。
実際に外などあるのか。全て内であり、仮に外と名付ける。自らの六識が接触し了別する一切の法は、五陰十八界の内にあり、全て自らの内相分であり、厳密に言えば全て内に属する。外界の六塵に対する感受を仮に外と説く。小乗は内外を分けるが、大乗の法は内外を説かない。小乗の声聞人は、全て如来蔵から出生した一切の法であることを知らない。故に内外界と内外受を分けるが、実際には全て自らの五陰十八界の内の法であり、六識心の心内法でもある。外界の色・声・香・味・触・法が現れる時、外触と外受がある。外界の触とは何か。太陽の光が色身に照りつけ、風が色身に吹きつける。日光や風などの法は外界に属するように見え、身体に触れて身心の感受が現れるのは外受に属するように見える。しかし実際には外界の境界はなく、全て心内の境界である。故に全て内受である。
そして又、内外受を同時に観じて受に住する。今、修行して心量が比較的大きくなり、定力が増強されれば、内受と外受を同時に了知できる。例えば現在身体が非常に調和して快適であることを知り、同時に外の日光の照射によって身体が暖かく感じられることを知る。この二つの感受を心で同時に知る。この時は定力がより高く、慧力もより強い。知る事柄が多ければ多いほどはっきりし、慧力が強ければ強いほど、定力は確かに高い。定慧が具足する時、一切の感受を内心で明らかに知る。日光が身体に照射される時の身体の覚受を心で知り、身体の内の感受も知り、香りに対する覚受も知り、音声を聞く感受も知る。一切の受を心で知る。定力が非常に強い時、初めてこれら一切の法を知ることができる。
慧が強い時、一切の法を分別して非常に明らかである。智慧とは何か。知ること、それが智慧である。知らなければ智慧はない。尋ねられれば知らない、それでは智慧はない。一つとして知らないものがない、それが智慧である。特に正しい知、誤った知でない、それが大智慧である。智慧がない時は、何事も知らず、尋ねられても三つ知らない。日常生活の小さな事柄でさえ尋ねられても三つ知らない。この人は智慧がなく、自らも分からず、他の人・事・物も分からず、観察ができない。故に観行する時は、常に一つの知を保つ、それが定慧双修であり、一切の法を証得する。
原文:或いは受に於て生法を観じて住し、受に於て滅法を観じて住し、又は受に於て生滅法を観じて住す。
釈:比丘は或いは受覚の上に新しく生じた法に住まい、或いは受覚の上の滅する法に住まい、或いは受覚の上の生法と滅法に住まう。
何の法を生法と呼び、何の法を滅法と呼ぶのか。何の法が生じ、何の法が滅したか。観行する時は心に明らかにすべきである。どの感受が生じたか、なぜ生じたか、感受にどんな変化があったか、心で知るべきである。例えば今の心が不苦不楽受であるが、突然一つの感受が現れ、無から有へ、新しく生じた一つの感受である。実際に感受が生じるのは、転化したのであり、元の不苦不楽受から苦受または楽受に転じたか、あるいは別の苦受に転じた。この受が生じれば、あの受はなくなる。
また例えば今非常に苦しい時、突然百万円を得れば、内心は苦しみを感じず、快楽に転じる。苦受が消え、楽受が生じ、受覚は転化した。この転化は時には完全な転化、時には不完全な転化である。もし苦受が五分なら、楽受に一分転化すれば、この苦受は四分残る。楽受に二分転化すれば、苦受は三分残る。完全に楽の時は苦はない。実際に完全に楽受の時でさえ、苦受はあるが、ただ苦受が深く細かく、観察しにくいだけである。
この受が生じ、あの受が滅する、心で知るべきである。この知の中に定と慧がある。定がなければ、心が散乱してどの法が生じたか、どの法が滅したか分からない。色身上、内受外受も同時に知る。この時の定慧は非常に強く、おそらく眼で六路を観、耳で八方を聞くことができる。定慧が強い人は、一つの事をする同時に、他の事柄を全て了知し、分析し、しかも手配できる。こちらの面、あちらの面の事柄を同時に考え配慮できる。これは人の精力が非常に充実し、する事柄が非常に多く、効率も非常に高いことを示す。こうして仏法の修行は、世間法において応用され、受益を得る。
原文:尚又、智識の成せる所及び憶念の成せる所、皆な受の思念現前せん。彼は依る所無くして住すべし。且つ世間の如何なる物にも執着せず。諸比丘よ。比丘はかくの如く、受を観じて受に住す。
釈:智慧の認知によって形成されたもの、及び憶念によって形成されたもの、心念には受覚に関する念いが現れるであろう。汝らは何の法にも依り頼まずに住し、かつ世間のいかなる物にも執着してはならない。諸比丘よ、比丘はこのように、受覚において受覚を観察して住すべきである。
受念処を観行する時、心は受に住する。観行の最後はこうであり、心に念々と受覚を体得し、受に住する。この感受の心念は六識心のものであり、識心が様々な感受を体得し、様々な感受の虚妄無常性を観行し、一定の智慧を持つ。智慧ある識心を智識と呼ぶ。もし感受を知らず、感受が虚妄であることを知らない時も識はあるが、智識ではない。観行が成功した後、心に念々とある様々な受を、心で知るべきである。この識は智慧がある、それが智識である。
智識の中は全て受覚である。最後にはこの様々な受覚も捨てるべきである。受も無常であると観じ、観に住してはならない。岸に着けば船を捨てる。観に住すれば心は空でなく、観から智慧が出れば再び観に住してはならない。再び全ての受も空じるべきである。受覚も空・無常・苦・非我であると覚知するため、心の奥深くでこの点を認識すれば、我見を断つことができる。心中で再び受に貪着せず、感受を執着せず、受を滅すべきである。受を滅するとはどのような思想境界か。阿羅漢たちのように、感受を真実と認め取らず、様々な感受を執取せず、様々な感受を追求せず、もはや貪愛しない。内心の感受を滅除することも、生死輪廻を滅する一つの環節である。十二因縁には受という生死の連鎖があり、因縁法を修行するにも受を空じる必要がある。
受念処観の観行が最後に至れば、内心の全ての受を捨てるべきである。その後心は依る所なく、依る所なくして住す。心は如何なる法にも依らず、如何なる事物にも頼ってはならない。何故なら全て虚妄であり、何も頼れないからである。依る心があることも生死であり、輪廻を脱しない。一切の受を捨てた後、内心は空空漠漠として、一法も着せず、五蘊が全て虚妄であると認めれば、我見を断つことができる。受覚に心が依らないだけでなく、世間の如何なる法・如何なる物にも依らず執着せず、心念は空となる。この時は声聞の三果四果の境界である。これが観受の全過程である。
仏はこれらの観行をすぐに説き終えられるが、弟子たちが教えを受けて修行成就する時は、かかる時間は一定でない。数年修行する者もいれば、数ヶ月、数日、数時間でこれらの内容を修め、小乗声聞の果位を証得する。四念処観は観修を完成する。大乗人であれ小乗人であれ、一人一人の根基が異なり、根基が異なれば道を修める速度も異なる。修行は各人の福報にもよる。福報がなければ、連続して観行するまとまった時間がない。福報がある人は時間を割いて連続して観修でき、すぐに修められる。修行は福報にも一定の関係があり、定力にも大きな関係があり、慧力により一層関係がある。
ある人は元々心が清浄で、心が乱想せず、座って観行すれば、一修で成功する。ある人は心の攀縁が重すぎ、心念を効果的に収束できず、どう修めても妄想が山積みで、修行は非常に困難である。智慧が十分でない人は、観をどう努力しても観行できず、いくつかの名相概念もはっきりせず、観行はさらに困難である。衆生の根基は千差万別で、修行の速さは人によって異なる。各人が具える修行の条件がどれだけ具足しているかを見よ。条件が具足しないほど修行は遅く、条件が具足するほど修行は速い。ある人は常に修行する時間がないと言い、忙しくて疲れている。原因は何か。福報が具足しないためである。
なぜ福報が具足しないのか。前世あるいは貪り、あるいは吝嗇で布施せず、あるいは煩悩性障が重く、福德が集まらず、福報を消耗する所が非常に多く、煩悩が現前し発作すれば、確かに福德を損なう。各人は自らの心行を検査し、自らの六度の条件を検査し、自らの福德を早く具足させ、多く自らの原因を探し、自らの不足を見つけ、その後不足を補う方法を考え、自らを変えなければならない。一途に外界の原因を強調し、自らの原因を探さなければ、事態に益なく、修行に不利である。これらの原因が如何にして造成されたかを認識すべきである。
なぜそうなのか。実際には全て自らの原因である。誰が自らをこんなに忙しくさせ、生活のために奔走させたのか。あの天人はなぜ生活のために奔走しないのか。あの菩薩はなぜ十方諸仏国土で生活問題を考えないのか。他の人はなぜ暇な時間を修行に使えるのか。原因を見つけ、方法を考えて補う。もはや以前のようであってはならない。そうすれば多く福を修め、多く慧を修め、貪瞋痴を減らし、様々な煩悩の習気を減らし、自らの福德の流失を少なくし、多く福德を集め、福が多くなれば修行は速くなる。