衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 182

第五章  法を観じて住す

第三節  内外六処の法処を観じて住す

原文:復次に、諸比丘よ。比丘は即ち六内外処の法において、法を観じて住す。然り、諸比丘よ。比丘は如何にして六内外処の法において法を観じて住すべきか。此において、諸比丘よ。比丘は眼を知り、色を知る。此の二者を縁として結が生ずることを知る。未だ生ぜざる結の生起を知り、又すでに生じたる結の滅尽を知り、更にすでに滅尽したる結が未来に再び生起せざることを知る。

釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ、比丘は六内処法と六外処法を観察し、心を六内処法と六外処法を観ることに住すべきである。この観行について、諸比丘よ、比丘は如何にして六内外処法において法を観じて住すべきか。かくの如くである。諸比丘よ、比丘は眼根を了知し、色塵を了知し、眼根と色塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。そして未だ現れざる結縛が今生起したことを知り、更にすでに生じた結縛が滅尽したことを知り、またすでに滅尽した結縛が未来に再び生じないことを了知しなければならない。

六内処法とは六つの内根を指し、勝義根内の五根及び意根である。意根は外根にも内根にも属す。六外処法とは六塵を指し、勝義根内に触れる色声香味触法である。六根と六塵が接触する時、意根が身口意行を造作しようと了別すれば、如来蔵は六識を生じ、六識の心行が現れる。ここに貪愛や憎悪等の心行が現れれば、即ち生死の結縛となる。

結縛は総じて九種ある:愛結・恚結・慢結・無明結・見結・取結・疑結・嫉結・慳結。全ての煩悩結縛は根塵相接する処に発生する。意根が六塵を了別せざれば六識は生ぜず、これらの煩悩結も生じない。仮に六識が六塵を了別し、その状況を意根に伝えても、意根に煩悩なき場合は六識に煩悩を生起させず。六識に煩悩なき時は意根を調伏し、煩悩を生ぜしめず。かくして生死の結縛は生じない。故に観行する時、六根が六塵に触れる際に観行し、心を六内法と六外法の処に住せしめれば、自らの心行を如実に了知し、煩悩結縛を降伏断除できる。これが修行である。

眼根と色塵の対法を観ずる時、定慧は増長し、心は次第に清浄となる。元来の全ての結縛は徐々に薄れ消滅し、後には徹底的に滅尽し、未来に再び現れざるに至る。これが観行によって煩悩結縛を断除し、心が自在を得た状態である。これらの情況を全て了知し、心中明らかであるべきである。例えば元来山水遊覧を好みし者が、観行により山水遊覧に興味を失い、心が厭離し再び遊ばず、且つ将来再び山水遊覧に興味を持たぬことを保証するようなものである。

原文:又耳を知り声を知る。此の二者を縁として結が生ずることを知る。未だ生ぜざる結の生起を知り、又すでに生じたる結の滅尽を知り、更にすでに滅尽したる結が未来に再び生起せざることを知る。乃至鼻を知り香を知り、此の二者を縁として結が生ずることを知る。未だ生ぜざる結の生起を知り、又すでに生じたる結の滅尽を知り、更にすでに滅尽したる結が未来に再び生起せざることを知る。乃至舌を知り味を知り、此の二者を縁として結が生ずることを知る。未だ生ぜざる結の生起を知り、又すでに生じたる結の滅尽を知り、更にすでに滅尽したる結が未来に再び生起せざることを知る。

釈:更に耳根を了知し、声塵を了知し、耳根と声塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。未だ生ぜざる結縛が今現れたことを知り、すでに生じた結縛が滅尽したことを知り、更にすでに滅尽した結縛が未来に再生せざることを了知しなければならない。

引き続き鼻根を了知し、香塵を了知し、鼻根と香塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。未だ生ぜざる結縛が現れたことを知り、すでに生じた結縛が滅尽したことを知り、更にすでに滅尽した結縛が未来に再生せざることを了知しなければならない。更に舌根を了知し、味塵を了知し、舌根と味塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。未だ生ぜざる結縛が現れたことを知り、すでに生じた結縛が滅尽したことを知り、更にすでに滅尽した結縛が未来に再生せざることを了知しなければならない。

如何にして心中に結縛が生起するかを観ずるか。例えば耳根が音楽に触れる時、元来心中に貪愛なき者が、聴くにつれ次第に愛着し、貪愛結縛が生ずる。後にある因縁により、再びこの音楽を好まなくなり、この音楽への貪愛結が滅尽し、将来この音楽を聴いても再び愛着せぬことを知る。如何なる色声香味触法の境界に遇うとも、自らの内なる結縛を観察することを学ぶべきである。これが生死の結縛であり、法に適わぬと知るだけで良く、この想いを意根に伝え、徐々に意根を調伏すれば、意根は意識の知らぬ間に思量し、一旦貪愛等の結縛が真に良からぬと知れば、自ら煩悩を抑え、定力が増す時、煩悩結縛を滅尽し得る。

原文:乃至身を知り触を知る。此の二者を縁として結が生ずることを知る。未だ生ぜざる結の生起を知り、又すでに生じたる結の滅尽を知り、更にすでに滅尽したる結が未来に再び生起せざることを知る。乃至意を知り法を知り、此の二者を縁として結が生ずることを知る。未だ生ぜざる結の生起を知り、又すでに生じたる結の滅尽を知り、更にすでに滅尽したる結が未来に再び生起せざることを知る。

釈:更に身根を了知し、触塵を了知し、身根と触塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。未だ生ぜざる結縛が現れたことを知り、すでに生じた結縛が滅尽したことを知り、更にすでに滅尽した結縛が未来に再生せざることを了知しなければならない。更に意根が法塵に触れる時、意根を了知し、法塵を了知し、意根と法塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。未だ生ぜざる結縛が現れたことを知り、すでに生じた結縛が滅尽したことを知り、更にすでに滅尽した結縛が未来に再生せざることを了知しなければならない。

原文:かくの如く、或いは内法において法を観じて住し、外法において法を観じて住し、内外法において法を観じて住す。或いは法において生法を観じて住し、或いは法において滅法を観じて住し、或いは法において生滅法を観じて住す。尚又、智識の成せる所及び憶念の成せる所、皆法の思念として現前する。彼は依る所無くして住すべく、且つ世間の何ものにも執着せず。比丘はかくの如く、法において法を観じて住す。

釈:このように観行する。内法たる六根において法を観じて住し、或いは外法たる六塵において法を観じて住す。或いは内外法たる六根六塵を同時に観察し、心を観法に住せしむ。或いはこれらの法において生起を観じ、滅去を観じ、或いは生滅を同時に観ずる。

内外法を観行し終えた後、生法と滅法も観行完成す。識心の心心念念には常に法の存在があり、憶念にもこれらの法が満ちる。更にこれらの内外法の念想を空じ、心念を法に依らずして住し、且つ世間の何ものにも執着せずして住す。心中一法も住せず。内法にも住せず、外法にも住せず。内外法が皆生滅変異無常なることを了知し、依止すべからざる故に、心中全ての法を空じ、何ものにも依らずして住す。且つ世間の何ものにも執着せずして住せば、内心は極めて清浄に空ずる。比丘はかくの如く法において法を観じて住すべきである。

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