衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 1173
<h2 style="text-indent: 2em;">第五章 法を観じて住す</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第三節 六内外処の法を観じて住す</h3>

原文:復次。諸比丘よ。比丘は即ち六内外処の法において、法を観じて住す。然り。諸比丘よ。比丘は如何にして六内外処の法において法を観じて住すべきか。此に於いて、諸比丘よ。比丘は眼を知り、色を知る。其の二者に縁って結びが生ずることを知る。而して未だ生ぜざる結びの生起するを知り、又既に生じたる結びの滅尽するを知り、又既に滅尽したる結びが、未来に再び生起せざることを知る。

釈:さらに続けて説く。諸比丘よ、比丘は六内処法と六外処法を観察すべきであり、心を六内処法と六外処法を観ることに住まわせるべきである。この観行について、諸比丘よ、比丘は如何にして六内処法と六外処法において法を観じて住すべきか。かくの如くである。諸比丘よ、比丘は眼根を了知し、色塵を了知し、眼根と色塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。そして、未だ心に現れざりし結縛が今、生起したことを了知し、かつ既に生じた結縛が今、滅尽したことを了知し、更に既に滅尽した結縛が未来に再び出生しないことを了知すべきである。

六内処法とは六つの内根を指し、勝義根内の五根及び意根である。意根は外根にも属し、内根にも属する。六外処法とは六塵を指し、勝義根内に落ちる色・声・香・味・触・法である。六根と六塵が相互に接触する時、もし意根が了別して身口意行を造作しようと決意すれば、如来蔵(注:如来の蔵、仏性の意)は六識を出生し、六識の心行が生起する。もし此処に貪愛や厭悪等の心行が現れれば、それが生死の結縛である。

結縛は総じて九つある:愛結・恚結・慢結・無明結・見結・取結・疑結・嫉結・悋結。全ての煩悩の結縛は根と塵の接触する処で発生する。もし意根が六塵を決して了別しなければ、六識は生起せず、これらの煩悩結も生じない。仮に六識が六塵を了別した後、了別の状況を意根に伝えても、意根に煩悩が無ければ六識に煩悩を生起させることはない。もし六識に煩悩が無ければ、それは意根を調御して熏染し、煩悩を生起させず、かくして生死の結縛は無い。故に観行する時は、多く六根が六塵に触れる時に観行し、心を六内法と六外法の処に住まわせれば、自らの心行を如実に了知し、自らの煩悩結を降伏・断除することができる。これが修行である。

眼根と色塵という対法を観行する時、定慧は増長し、心は次第に清浄となる。元来あった全ての結縛は徐々に淡薄化し消滅し、後には比較的徹底的に消滅して、遂には未来に再び現れなくなる。これが観行を通じて煩悩結を断除し、心が自在を得た状態である。これらの情況を全て了知し、心に明らかに知らねばならない。例えば、元来は山水を遊覧することを好んでいたが、観行によって山水遊覧に興味を失い、心は既に厭離し、再び遊びたいと思わなくなり、かつ将来に亘って再び山水遊覧に興味を持つことが無いと確信できるようになることである。

原文:又、耳を知り声を知る。其の二者に縁って結びが生ずることを知る。而して未だ生ぜざる結びの生起するを知り、又既に生じたる結びの滅尽するを知り、又既に滅尽したる結びが、未来に再び生起せざることを知る。乃至鼻を知り香を知り、其の二者に縁って結びが生ずることを知る。而して未だ生ぜざる結びの生起するを知り、又既に生じたる結びの滅尽するを知り、又既に滅尽したる結びが、未来に再び生起せざることを知る。乃至舌を知り味を知り、其の二者に縁って結びが生ずることを知る。而して未だ生ぜざる結びの生起するを知り、又既に生じたる結びの滅尽するを知り、又既に滅尽したる結びが、未来に再び生起せざることを知る。

釈:更に耳根を了知し、声塵を了知し、耳根と声塵に縁って生死の結縛が出生することを了知すべきである。そして、心に未だ出生せざりし結縛が今、生起したことを了知し、既に生起した結縛が今、滅尽したことを了知し、かつ既に滅尽した結縛が、未来に再び生起しないことを了知すべきである。

引き続き鼻根を了知し、香塵を了知し、鼻根と香塵に縁って生死の結縛が生起することを了知すべきである。また、元来生起しなかった結縛が今、生起したことを了知し、既に生起した結縛が今、滅尽したことを了知し、更に既に滅尽した結縛が、未来に再び生起しないことを了知すべきである。乃至于、舌根を了知し、味塵を了知し、舌根と味塵に縁って生死の結縛が生起することを了知すべきである。引き続き、未だ出生せざりし結縛が今、生起したことを了知し、既に生起した結縛が今、滅尽したことを了知し、更に既に滅尽した結縛が、未来に再び生起しないことを了知すべきである。

如何にして心に結縛が生起するかを観行するか?例えば、耳根が音楽と接触する時、元来心に貪愛が無かったが、聴くにつれて次第に好きになり、貪愛の結縛が出生する。その後、何らかの理由で、その音楽を好きではなくなり、その音楽への貪愛結は滅尽し、かつ将来再びこの音楽を聴いても好きにならないことを知る。如何なる色・声・香・味・触・法の境界に遭遇しても、自らの内心の結縛が何であるかを観察することを学ぶべきである。ただこれが生死の結縛であり、不如法であると知るだけで良い。この想い・見解を意根に伝え、徐々に意根を熏染すれば、意根は意識の気付かぬ内に思量し、一旦貪愛等の結縛が確かに良くないと知れば、自らの煩悩を圧伏する。定力が増強する時、煩悩結を滅尽することができる。

原文:乃至身を知り触を知る。其の二者に縁って結びが生ずることを知る。而して未だ生ぜざる結びの生起するを知り、又既に生じたる結びの滅尽するを知り、又既に滅尽したる結びが、未来に再び生起せざることを知る。乃至意を知り法を知る。其の二者に縁って結びが生ずることを知る。而して未だ生ぜざる結びの生起するを知り、又既に生じたる結びの滅尽するを知り、既に滅尽したる結びが、未来に再び生起せざることを知る。

釈:乃至于、更に身根を了知し、触塵を了知し、身根と触塵に縁って生起する生死の結縛を了知すべきである。未だ生起しなかった結縛が今、生起したことを了知し、既に生起した結縛が今、滅尽したことを了知し、既に滅尽した結縛が、未来に再び生起しないことを了知すべきである。乃至于、意根が法塵と接触する時、意根を了知し、法塵を了知し、意根と法塵に縁って生死の結縛が生起することを了知すべきである。未だ生起しなかった結縛が今、生起したことを了知し、既に生起した結縛が今、滅尽したことを了知し、既に滅尽した結縛が、未来に再び出生しないことを了知すべきである。

原文:かくの如く。或いは内法において法を観じて住し、外法において法を観じて住し、内外法において法を観じて住す。或いは法において生法を観じて住し、或いは法において滅法を観じて住し、或いは法において生滅法を観じて住す。尚又、智識によって成り、及び憶念によって成る、皆が法の思念として現前する。彼は依る所無くして住すべく、且つ世間の如何なる物にも執着せず。比丘はかくの如く、法において法を観じて住す。

釈:このように観行する。内法たる六根において法を観じて住し、或いは外法たる六塵において法を観じて住す。或いは同時に内外法たる六根と六塵を観察し、心を観法に住まわせる。或いはこれらの法について、生起の情況を観察し、次に滅去の情況を観察し、或いは同時に生起と滅去の情況を観察する。

内外法の観行を終えた後、生法と滅法の観行も完成すると、識心の心心念念の中には常に法の存在があり、憶念の中もまたこれらの法で満たされる。その後、これらの内外法の念想を空じ、心念は法に依らずに住し、かつ世間の如何なる物にも執着せずに住し、心中には一つの法も住まわせない。内法にも住まず、外法にも住まない。何故ならば、内外法が共に生滅変異し無常であり、依止すべきでないことを知ったからである。心中の全ての法を空却し、如何なる法にも依らずに住する。そして世間の如何なる一物にも執着せずに住する。かくして内心は極めて清浄に空尽される。比丘はこのようにして法において法を観じて住すべきである。

ページトップへ戻る