四念処経講話 第二版(新修)
第五章 法を観じて住す
第三節 六内処・六外処の法を観じて住す
原文:復た次に。諸比丘よ。比丘は即ち六内処・六外処の法におりて、法を観じて住す。然り。諸比丘よ。比丘は如何にして六内処・六外処の法におりて法を観じて住すであろうか。ここに於いて。諸比丘よ。比丘は眼を知り、色を知る。この二者に縁って結びが生ずることを知る。そして未だ生ぜざる結びの生起するを知り、また已に生じた結びの滅し尽きるを知り、また已に滅し尽きた結びが、未来に再び生起しないことを知る。
釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ、比丘は六内処の法と六外処の法を観察し、心を六内処の法と六外処の法を観ずることに住まわせるべきである。この観行について、諸比丘よ、比丘は如何にして六内処の法と六外処の法におりて法を観じて住すのであろうか。かくの如くである。諸比丘よ、比丘は眼根を知り、色塵を知り、眼根と色塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。そして心に現れていない結縛が今生起したことを了知し、また既に生じた結縛が今滅し尽きたことを了知し、更に既に滅し尽きた結縛が未来に再び生じないことを了知すべきである。
六内処の法とは六つの内根を指し、勝義根内の五根および意根である。意根は外根にも属し、また内根にも属する。六外処の法とは六塵を指し、勝義根内に落ちる色・声・香・味・触・法である。六根と六塵が接触する時、もし意根が了別して身口意の行いを造作しようとすれば、如来蔵は六識を生じ、六識の心行が生起する。もしここに貪愛や厭悪などの心行が現れれば、それが生死の結縛である。
結縛は総じて九つある:愛結、恚結、慢結、無明結、見結、取結、疑結、嫉結、悋結。全ての煩悩の結縛は根塵の接触する処で発生する。もし意根が六塵を了別しようと決定しなければ、六識は生じず、これらの煩悩の結びも生じない。仮に六識が六塵を了別した後、了別の状況を意根に伝えても、もし意根に煩悩がなければ、六識に煩悩を生起させることはない。もし六識に煩悩がなければ、意根を調御して染め、煩悩を生じさせないこともできる。そうすれば生死の結縛はない。故に観行する時は、多く六根が六塵に触れる時に観行し、心を六内法と六外法の処に住まわせれば、自らの心行を如実に了知し、自らの煩悩の結縛を降伏・断除することができる。これが修行である。
眼根と色塵という一対の法を観行する時、定慧が増長し、心は次第に清浄となり、元来あった全ての結縛は徐々に薄れ消滅する。後に更に徹底的に消滅し、遂には未来に再び現れなくなる。これが観行によって煩悩の結縛を断じ、心が自在を得た状態である。これらの状況を全て了知し、心に明らかであるべきである。例えば、元来は山水を遊覧することを好んでいたが、観行によって山水遊覧に興味がなくなり、心が飽きて再び遊びたいと思わなくなり、かつ将来に亘って再び山水遊覧に興味を持たないことを確信するようなものである。
原文:また耳を知り、声を知る。この二者に縁って結びが生ずることを知る。そして未だ生ぜざる結びの生起するを知り、また已に生じた結びの滅し尽きるを知り、また已に滅し尽きた結びが、未来に再び生起しないことを知る。乃至鼻を知り、香を知る。この二者に縁って結びが生ずることを知る。そして未だ生ぜざる結びの生起するを知り、また已に生じた結びの滅し尽きるを知り、また已に滅し尽きた結びが、未来に再び生起しないことを知る。乃至舌を知り、味を知る。この二者に縁って結びが生ずることを知る。そして未だ生ぜざる結びの生起するを知り、また已に生じた結びの滅し尽きるを知り、また已に滅し尽きた結びが、未来に再び生起しないことを知る。
釈:更に耳根を知り、声塵を知り、耳根と声塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。そして心に生じていない結縛が今生起したことを了知し、既に生じた結縛が今滅し尽きたことを了知し、更に既に滅し尽きた結縛が未来に再び生じないことを了知すべきである。
引き続き鼻根を知り、香塵を知り、鼻根と香塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。また元来生じていなかった結縛が今生起したことを了知し、既に生じた結縛が今滅し尽きたことを了知し、更に既に滅し尽きた結縛が未来に再び生じないことを了知すべきである。乃ち舌根を知り、味塵を知り、舌根と味塵に縁って生死の結縛が生ずることを了知すべきである。引き続き生じていない結縛が今生起したことを了知し、既に生じた結縛が今滅し尽きたことを了知し、更に既に滅し尽きた結縛が未来に再び生じないことを了知すべきである。
如何にして心に結縛が生起したかを観行するのか?例えば、耳根が音楽に接触する時、元来心に貪愛がなかったが、聴くにつれて次第に好きになり、貪愛の結縛が生じる。その後、何らかの理由でその音楽を好きではなくなり、その音楽に対する貪愛の結びは滅し尽き、かつ将来その音楽を聴いても再び好きにならないことを知る。如何なる色・声・香・味・触・法の境界に遭遇しても、自らの内なる結縛が何であるかを観察することを学ぶべきである。それが生死の結縛であり、法にかなわないものであると知るだけで良い。そのような考え方・見解を意根に伝え、徐々に意根を染めれば、意根は意識の気付かぬうちに思量し、一旦貪愛などの結縛が確かに良くないと知れば、自らの煩悩を抑え伏せる。定力が増強した時、煩悩の結縛を滅し尽くすことができる。
原文:乃至身を知り、触を知る。この二者に縁って結びが生ずることを知る。そして未だ生ぜざる結びの生起するを知り、また已に生じた結びの滅し尽きるを知り、また已に滅し尽きた結びが、未来に再び生起しないことを知る。乃至意を知り、法を知る。この二者に縁って結びが生ずることを知る。そして未だ生ぜざる結びの生起するを知り、また已に生じた結びの滅し尽きるを知り、また已に滅し尽きた結びが、未来に再び生起しないことを知る。
釈:乃ち身根を知り、触塵を知り、身根と触塵に縁って生じた生死の結縛を了知すべきである。元来生じていなかった結縛が今生起したことを了知し、既に生じた結縛が今滅し尽きたことを了知し、既に滅し尽きた結縛が未来に再び生じないことを了知すべきである。乃ち意根が法塵に接触する時、意根を知り、法塵を知り、意根と法塵に縁って生じた生死の結縛を了知すべきである。元来生じていなかった結縛が今生起したことを了知し、既に生じた結縛が今滅し尽きたことを了知し、既に滅し尽きた結縛が未来に再び生じないことを了知すべきである。
原文:かくの如く。或いは内法におりて法を観じて住し、或いは外法におりて法を観じて住し、或いは内外の法におりて法を観じて住す。或いは法におりて生法を観じて住し、或いは法におりて滅法を観じて住し、或いは法におりて生滅の法を観じて住す。尚お又、智識によって成り、及び憶念によって成る、全て法の思念が現前する。彼は依る所なくして住すべし。かつ世間の如何なる物にも執着せず。比丘はかくの如く、法におりて法を観じて住す。
釈:このように観行する。内法である六根におりて法を観じて住し、或いは外法である六塵におりて法を観じて住す。或いは同時に内外の法である六根と六塵を観察し、心を法を観ずることに住まわせる。或いはこれらの法におりて生起の状況を観察し、次に滅去の状況を観察し、或いは同時に生起と滅去の状況を観察する。
内外の法を観行し終えた後、生法と滅法も観行が完成し、識心の心心念念の中に常に法の存在があり、憶念の中も全てこれらの法である。その後、再びこれらの内外の法の念想を空じ、心の念いが法に依って住することなく、かつ世間の如何なる物にも執着せずに住する。心の中に一つの法も住まわせない。内法にも住せず、外法にも住さない。何故ならば内外の法は全て生滅変異し無常であり、依止すべきでないことを知ったからである。心の中の全ての法を空じ、如何なる法にも依らずに住する。かつ世間の如何なる一物にも執着せずに住する。そうすれば内心は非常に清く空じ尽くされる。比丘はこのように法におりて法を観じて住すべきである。