仏法雑談(第一部)
菩薩とは、自分自身がすでに覚悟しているだけでなく、他人をも覚悟させ、自利もでき利他もできる人のことを菩薩と称する。自分だけの利益を求め、他人の利益を顧みず、心中に自分しかいなければ、基本的な菩薩の品格をまだ備えておらず、菩薩と称することはできない。このような人にとって、大乗菩薩道という道は歩むのがとても苦しく、菩薩道の修行には大きな欠落と障害が生じる。菩薩は大誓願を発して広く有情を利益することによってこそ、諸仏菩薩および護法龍天の加護を得ることができ、未来に仏道を成就できる。さもなければ、修行の途中で障縁が次々と現れ、小乗の中に堕してしまう。仏もまた数え切れない清浄な大願を発し、一切の衆生を救済し、一切の衆生がみな救い得て涅槃の彼岸へ解脱することを望まれた。菩薩たちは仏の慈悲喜捨の四無量心を学ぶべきであり、そうしてこそ道業を絶えず増進させ、最終的に成仏し、無上正等覚となることができる。
仏法を学ぶ人が凡夫の境界から脱しようとするなら、絶えず心性を降伏させ、大心願を発し、菩薩道を修行し、自分の心性を次第に聖賢へと向かわせ、聖賢人の心性に近づいてこそ、最終的に超凡入聖し、聖賢となることができる。仏法の修行は、理論の上でだけ心を用いてはならず、最も重要なのは自分の心地上で功夫し、心性の降伏に功夫することであり、そうして将来こそ菩薩の慈悲喜捨の大心量を備え、真実義の菩薩摩訶薩となることができる。これが正しい修行である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、衆生を度すことこそ菩薩と呼ばれる</h3>菩薩は覚悟した有情であり、自利利人である。もし衆生を度さなければ、それは羅漢の心态(心構え)であって、菩薩ではない。菩薩は衆生を度すことを通じて、一つには自分の福德を培い、もう一つは智慧を増長する。最も重要なのは、菩薩が仏道を成就する過程において、絶えずますます多くの衆生と縁を結ばなければ、無量無辺の各階層の弟子たちを持つことができず、未来に仏国土を建立することができないということである。
菩薩が成仏し、一つの仏国土を建立するには、無数の各階層の弟子たちの擁護と協力があってこそ、無量の衆生を広く度すことができる。弟子がいなければ孤家寡人であり、仏国土を建立することもできない。しかも自分の道業の増進も弟子たちに依拠する。ちょうどピラミッドのように、自分が塔の先端であり、底の層がなければ、どうして塔の先端があろうか。つまり、衆生を度すことは自分を度すことであり、菩薩は無条件に衆生を度してこそ成仏できる。逆に言えば、自分の道業の増進はまた善知識や諸仏菩薩たちの引き上げと助けから離れられないので、真の善知識と縁を結ぶことも非常に重要である。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、菩薩と阿羅漢の違い</h3>菩薩は発心を貴しとし、発心によって衆生を度して苦海から出離させるので、将来無上菩提を成就し、正等正覚となることができる。一方、阿羅漢は個人の解脱だけを求め、生死輪回から出離することを望むが、衆生の生死の苦を考慮せず、そのため無余涅槃に入ることを選び、灰身泯智する。
菩薩は修証の階層に依って五十二の階位に分けられる。明心以後の菩薩は、大小乗の果位を同時に得るので、初果菩薩、二果菩薩、三果菩薩、四果菩薩がある。したがって菩薩は明心以後も見惑と思惑を断ずるが、思惑をすべて断じ尽くすことはせず、少し残して、未来世の五陰の出生を保証し、引き続き自利利人し、仏道を成就できるようにする。阿羅漢は見思惑を断じ尽くすことしかできず、明心見性を追求せず、成仏を望まないので、無始無明を断ずることもできず、塵沙惑も断じない。これらの無明惑は菩薩だけが断ずる能力を持ち、断じ尽くせば成仏する。
阿羅漢は四禅八定を修めて神通三昧を得ることができるが、彼らの神通は非常に限られている。一方、菩薩は四禅八定を修めて神通三昧を得るだけでなく、さらに無数の意生身を有し、それによって無数の衆生を利楽する。菩薩の神通は無量無辺に広大であり、これは阿羅漢が比肩できないものである。
菩薩は同時に阿羅漢でもあり、阿羅漢の行持も有し、禅定も必要であり、心の清浄無煩悩も必要であり、解脱の智慧も必要である。菩薩の行持は阿羅漢より高くなるだけで、阿羅漢より低くなることはない。阿羅漢の品徳は菩薩がすべて備えるべきであり、無余涅槃に入りたくないという点を除けば、これこそ真の大菩薩である。もし菩薩が煩悩を非常に重く抱えているなら、当然阿羅漢に及ばず、初果須陀洹にも及ばず、それは真の菩薩ではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、留惑潤生とは何か</h3>留惑潤生とは、少しの思惑煩悩を断じずに残し、未来世の受生を滋潤するという意味である。もし煩悩をすべて断じ尽くし、意根が三界の法に少しも未練を持たなければ、命終時に四果阿羅漢のように五陰を滅し、無余涅槃に入ることができる。菩薩は明心以後、八地菩薩になる前までは、少しの思惑を断じ尽くさずに残さなければならない。この少しの思惑があるからこそ、世世に投生し、五蘊身を有し、引き続き仏法を修学し、自利利他することができる。もし菩薩が明心以後、すべての思惑煩悩を断じ尽くすなら、阿羅漢のように寿が尽きれば五陰を滅し、無余涅槃に入ることになり、そうなれば菩薩はいなくなり、引き続き仏法を修学することもできない。
七地菩薩まで修めば、菩薩は思惑煩悩がすべて断じ尽くされ、禅定の功夫が非常に優れており、いつでもどこでも滅尽定に入ることができるので、少し不注意だと涅槃に入ってしまう。そこで仏は常に菩薩を見守り、菩薩が滅に入らず、順調に八地の修行に入ることを保証される。もし清浄な大願で維繫しなければ、地上菩薩は容易に無余涅槃に入ってしまう。これは禅定の功夫がますます良くなり、三界の世間法に対してますます淡薄になり、七地に至ると、念念に涅槃に入りたがるからである。それゆえ仏は菩薩たちに、初地に入る時に、華厳経の中の十の無尽願を発するよう教えられた。この願は成仏するまで尽きることがなく、この願力のゆえに、世世に投生して滅に入らず、五蘊が出生し、無量の衆生を広く度すことができ、ついには仏果を成就するに至る。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、義菩薩と名菩薩とは何か</h3>義菩薩とは、すでに了義法を証得し、明心見性した真実義の菩薩であり、すでに見道位に入り、七住位以上の菩薩である。名菩薩とは、名ばかりで実のない菩薩であり、まだ開悟しておらず、真実の法を悟っていない菩薩で、名義上の菩薩にすぎない。義菩薩は久修の菩薩であり、その心行は名菩薩とは大きく異なり、善根福德が非常に深厚で、智慧は深く鋭利である。
名菩薩の多くは新学菩薩であり、逆境に遭うと容易に道心を退失し、布施 (dāna) の習慣が少なく、菩薩六度がまだ修習成就していない。久修菩薩は広く菩薩六度を修め、しばしば非常に強い布施の習慣を有し、心は常に人を利することを考え、利己の心性が減少している。それゆえ久修菩薩は福德が大きく、仏法を学び修行すれば正法に出会うことができ、まもなく悟道し、しかも自ら悟ることができ、他人の助けを必要としない。久修菩薩も過去には名菩薩であったことがあり、名菩薩も将来久修菩薩になるであろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、明心見性を求めるにはどう修めるべきか</h3>我々が今生で真に明心見性を求めるなら、厳格に菩薩六度に従って修学しなければならない。慧学の面では、六百巻の大般若経を読誦して渉猟し、その理を少し通じておくべきであり、特に心経と金剛経である。阿含経も読誦できればなお良い。五陰 (pañca-skandha) が虚妄不実であるという理を明らかにし、五陰に我なく実なしと証得することは、参禅に役立ち、諸法実相に速やかに悟入できる。この時に小乗の果位を証得すれば、それは菩薩五十二階位の第六住位であり、明心まであと一階位しか差がない。この時に参禅すれば、悟道は速く、阿含を解せず証果していない人よりはるかに速く、しかも悟りを誤ることがなく、意識心の種々の境界を第八識として悟ることもなく、何もない空を悟って究竟と考えることもない。
しかも阿含経を解することは、以後の菩薩道の修行のための堅固な基礎をも築く。大小乗の理がともに通じてこそ初地に入ることができ、以後三、四地菩薩位において、改めて小乗の四聖諦と十二因縁法を観行 (vipaśyanā-caryā) することになる。現在の修学は、解しても解さなくても、証しても証しなくても、すべて種子として如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に存在し、将来縁に遭えばすべて開花結果する。しかし解しているのと解していないのとでは、如来蔵の中に保存される種子は異なるので、仏法を学んだことは無駄にはならない。たとえ畜生が仏法を解さなくても、仏法を聞いた後には、その如来蔵の中に植え付けられ、将来仏法に出会えば、歓喜して受け入れるであろう。
定学の面では、未到地定 (anāgamya-samādhi) まで修め、欲界の最高の定であり、行住坐臥いずれも参禅し仏法を思惟 (manasikāra/manana) して心が散乱せず、心思が細密であってこそ、入道できる。戒律の面では、必ず菩薩戒を受けなければならない。菩薩戒があってこそ、菩提大願を発起し、成仏して衆生を利楽する心を発起できる。菩薩戒を守持すれば、諸仏菩薩・護法神の護持があり、道業の進歩は速くなる。
忍辱の面では、主に如来蔵の法に対する認同であり、謗らないことであり、如来蔵の不生不滅などの中道の理に忍びてこそ、徐々に如来蔵と相応し、最後に如来蔵を悟得できる。布施 (dāna) の面では、主に大乗法の布施であり、大乗法を宣伝する道場と出家の師父があれば、必ずその宣伝を補助し、その利益を維護しなければならない。このように福を集めるのは速く、福德も最大である。ちょうど田を耕すように、何を収穫したいかによって、その田に相応する種を蒔くのであり、田と種を間違えれば、相応する実は収穫できない。精進の面では、以上の修学すべてに対して精進不懈怠に、努力して行うことである。修学の全過程は菩薩六度を修めることであり、相対的に具足してこそ、明心悟道できる。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、いかにして良い菩薩になるか</h3>修行を速くし、良い菩薩になりたいなら、人と話すときは柔和でなければならず、言辞が鋭く、威圧的であってはならない。諍訟を善く和らげ、できる限り衆生を凝集し摂受すべきである。菩薩四摂法はできる限り行い、衆生を摂受することを第一とし、敵を作ることは菩薩たるものの大忌である。菩薩の眼中には敵対があってはならず、すべての衆生は自分が摂受すべき対象である。それゆえ道場を戦場とみなし、舌戦を休めず、勝敗を争い、我が高く汝が低く、我が強く彼が弱いとするべきではない。
各人の内心の中の我は、厳格に管理し、常に鋒芒を露わにせず、強壮な我の心で他人を触悩させてはならない。自己を降伏すること、自己を隠匿することに長け、煩悩を調伏することこそ真の修行であり、常に他人を降伏させ、他人を抑圧しようとすることではない。菩薩の心性は柔和でなければならず、他人に対しては情をもって動かし、理をもって諭すべきであり、理を得ても人を許さないべきではない。時に一歩譲ることは、かえって人を折伏し摂受するのに更に効果的である。
人を度すことも修行も、剛柔相済でなければならない。自分に対しては剛で、悪劣な境遇に対しては剛であり、人に対してはできる限り柔でなければならない。そうしてこそ衆生をみな自分の周囲に摂受し、衆生と打成一片することができる。もし話し方が人を千里の外に拒むようであれば、衆生を遠ざけるだけで、衆生と疎遠になり、衆生と善縁を結ぶことができず、それは合格した菩薩ではなく、衆生を摂受することもできない。
心性が剛であれば、折れやすく卒暴しやすい。心性が柔であれば、曲がっても折れない。菩薩たるものは弾力性を持ち、彎に随えば彎に従い、また元の位置に引き戻して不変異を保つことができなければならない。菩薩は本来、種々の諍訟を調和することに長け、しばしば紛争を引き起こして止まないべきではない。良い菩薩になることを学び、柔順調和し、衆生を摂受することを学ぶことは、すべての菩薩の必修課程である。理を得ても人を許さないことは菩薩の大忌であり、言辞が鋭く威圧的であることも菩薩の大忌である。これに違犯すれば衆生を違遠し、衆生と悪縁を結び、菩薩四摂法に違犯することになる。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、菩薩と衆生の関係</h3>弥勒仏が下生する時、第一会の説法には九十六億の人天が道を得、法を聞く者はさらに数え切れない。第二会の説法には九十四億の人天が度され、第三会の説法には九十二億の人天が度される。法を聞く者はいずれも数え切れない。
仏菩薩は永遠に法を学ぶ衆生が多いことを嫌わず、度すべき衆生は多ければ多いほど良いと望んでおられる。衆生の苦難を慈しみ、衆生の生死流浪の苦を悲憫されるからである。それゆえ菩薩は大悲心をもって広く仏法を伝え、できる限り多くの衆生を度脱しようとする。菩薩は「春蚕死して絲方(まさ)に尽く、蝋燭灰と成りて涙始めて乾く」という自己犠牲の精神を抱き、自らを燃やして衆生を照らす。我々はどうして菩薩に感謝せず、菩薩たちに倣って敬意を表することがあろうか。もし菩薩が住世して法を伝えなければ、世界に永遠に仏法はなく、衆生は永遠に仏法に出会い、解脱を求める機会を得ることはない。
菩薩は敬うべき讃嘆すべきものであるが、阿羅漢は必ずしもそうではない。仏は決して阿羅漢を自分の真の仏子とは認められない。彼らは仏恩を報いることを解さず、衆生恩を報いず、個人の解脱、離苦得楽だけを顧み、慈悲心に欠けるからである。それゆえ仏はしばしば彼らを焦芽敗種と呵責された。この点から見れば、大乗法は永遠に小乗法より殊勝である。心量がより大きいがゆえに、真実に衆生を利益するがゆえに、衆生を慈憫するがゆえに。
衆生が三果まで修めて煩悩を断じた時、その我性が初めて完全に消融し、その時には派閥や争いをせず、自我を際立たせなくなる。諸仏は互いに讃嘆し、互いに推薦し合われる。さらには仏が菩薩の身分で、倒駕慈航して他の諸仏の弘法を護持し、身分が下がることを恐れず、衆生を度脱できるさえすればよいとされる。仏仏は互いに協力し、互いに讃嘆し助け合う。文殊菩薩は本来とっくに成仏しているはずであるが、仏位を取らず、専ら諸仏の弘法を輔助し、仏の助手となり、仏の栄耀を争うことなく、まったく自我がない。諸仏菩薩はみな我々の学ぶべき模範である。
菩薩は悪縁がなければ、煩悩を除去することができない。悪縁がなければ、業障を滅除することもできない。菩薩に衆生がなければ、もちろん菩薩になることはできず、菩薩に度すべき弟子がなければ、自分の道業を増進することができない。衆生を度さなければ、確かに自分の道業を成就することはできない。菩薩が得る智慧は、すべて衆生を度すことの中で出生し増長する。衆生の磨きがなければ、菩薩の智慧は進歩できない。ちょうど真妄が和合して互いに依存するように、菩薩と衆生は確かに互いに依存する関係であり、これがなければ彼もない。多くの人が仏法を学んでも大心を発せず、利己的で、衆生の苦を考慮せず、結果として自分の道業は増進しにくく、長期間原地で足踏みしている。衆生を度さなければ成仏できず、衆生がすべての仏を成就させ、仏はまた振り返ってすべての衆生が生死の深淵から出離するのを助ける。実はすべて互恵互利であり、単独で得られる良いことは何もない。
常に自分の苦を観察すると同時に、衆生の苦も観察しなければならない。自分と衆生の苦を見て、衆生を慈憫する心を発し、衆生とともに解脱を得る心を発すること、これが菩提心を発するということである。この心があれば、諸仏菩薩の加持があり、自分の道業が増進し、仏道に勇往直前することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、地上菩薩は苦受がないのか</h3>身あるものは皆苦し。四果羅漢が世間に生存している間は、有余依涅槃と呼ばれ、まだ余苦が色身に依って現行しうるという意味であり、阿羅漢はこれらの余苦を感受しなければならない。阿羅漢の身体は依然として疼痛、寒熱、風吹日晒、蚊虫の刺咬を感受でき、飢飽、渇餓、疲労、および色身の種々の疾病の苦痛を感じることができる。羅漢が涅槃以後は無余依涅槃と呼ばれ、すでに色身がなく、識心がなく、いかなる苦受も彼を見出すことができない。
初地以上の菩薩から七地菩薩までは、小乗の果位では四果慧解脱の阿羅漢に相当する。色身の存在がある限り、苦を感受する。しかし菩薩の心の感受は凡人よりはるかに軽微であり、意に介さないことが非常に多く、世俗法においてはもう何の追求もなく、感受する苦は軽微であり、極大部分は仏法上の追求である。衆生を教導することの上ではまだ多くの苦受があり、特に五濁悪世においては、衆生は剛鄙で調伏しにくく、煩悩が深重で、根性が低劣で、正邪好悪を分別しないので、菩薩たちは心力を尽くさなければならず、それゆえいくらかの苦受は免れない。釈迦仏在世の時、雪山の苦行のために背部が風寒を受け、衆生のために背痛を示現し、微苦があることを示現された。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、菩薩の心行は衆生には測り知れない</h3>菩薩の心行は、衆生には測り知れない。特に密行を行ずる菩薩の心行は、衆生には解することができない。たとえば釈迦仏が菩薩であった時、一人を殺したことがある。この人は船に乗った時に船上の五百人の菩薩を殺そうとした。仏はこれを知り、この人が無間地獄に堕ちないよう保護するために、極めて重い慈悲心をもって彼を殺し、地獄業を造らせないようにし、自分がそのために地獄に堕ちて苦報を受けることをむしろ望まれた。その他にも、仏菩薩が衆生を度す慈悲の善巧方便を示す事例がいくつかあるが、一つ一つ語ることはできない。さもなければ煩悩心の重い衆生がこれを口実にして悪業を造るからである。
人が善であるか悪であるかを見るには、その時の外表の行為だけを見てはならず、主にその人の心行と心地を見、その人が事を行う目的は何か、どのような結果を達成しうるかを見なければならない。このような智慧は、普通の人は一般に備えておらず、大菩薩たちは分寸と火加減を把握し、取捨と方便を善く知ることができる。衆生は表面の現象しか見ることができず、その実質を見ることができず、真実の目的を知らない。それゆえ多くの事について、菩薩は衆生に明白に告げることができない。衆生が理解できないからであり、智慧が浅陋であるがゆえである。
菩薩は衆生を度すために、衆生の中に潜伏し、屠殺人の身、娼婦の身、客の身、賭博師の身に化して衆生と交わり、その目的は衆生を生死の火坑から救い出すことである。衆生を救度できるさえすれば、菩薩は自分を黒く塗り替えることも、衆生の誤解と誤認も、一切の代価を払うことも惜しまない。何人が菩薩の慈悲、忍辱負重の心行を見出すことができようか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、菩薩の生死に対する態度</h3>生死の流に順う者は凡夫であり、生死の流に逆らう者は阿羅漢であり、順わず逆らわぬ者は菩薩であり、彼岸に到る者は仏である。生死の流に対して、菩薩の態度は、順わず逆らわぬことである。生死の流に順えば、菩薩は流転して苦しく、自度できなければ、どうして他を度せようか。生死の流に逆らえば、生死を捨てなければならず、阿羅漢のように無余涅槃に入れば、色身五陰がなくなり、自分は引き続き修学して仏道を成就することもできず、広く衆生を度すこともできず、それは自分の誓願に背くことになる。それゆえ菩薩は生死に対して、逆らわず順わない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、菩薩が修める三観</h3>菩薩の修行する三観の順序は、空・仮・中である。空観とは一切法を観じて、すべて生滅空幻であり、一切法空を証得することである。この空観を基礎として引き続き進修し、第八識を証得以後は、一切法はすべて第八識が変現したものであると観じ、それゆえ一切法はすべて仮であり、すべて第八識が幻化したものであると観ずる。さらにこれを基礎として引き続き進修し、一切法はすべて第八識の有為の功用であり、一切法は実はなく、すべて第八識であり、一切法の全体が即ち真如であり、十方世界が即ち一真法界であると観ずる。ここに至れば、仏果はすでに円満し、仏道はすでに成り、仏道はすべて歩み終え、仏法はすべて修め尽くされ、大乗の無学 (aśaikṣa) となる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、菩薩の衆生に対する慈柔心</h3>波旬のような悪い子に対しても、師父は一方で呵責しながら、一方で手で彼の頭を撫で肩を叩き、素直におとなしくするように告げ、お前も将来仏になるのだから、もういたずらをするなと諭す。衆生がみな成仏できるということを考え、衆生の苦を考えれば、菩薩は一方で凶悍な相を現しながら、一方で慈心満々で、柔腸千転する。
慈悲心を修出した菩薩は、衆生の壊乱相を見ると、一方でため息をつき衆生の愚痴を憐憫しながら、一方で心は虚空のように一切を包容する。内心は広大無辺であるだけでなく、異常に柔軟でもある。今、私の心は無比に軽柔であり、いたずら好きの悪いやつらも非常に好きである。幼い頃からあのいたずら好きの小さなやつらと付き合ってきたので、私は彼らを嫌いではない。
世俗人の愛は、すべて小さな個人の何らかの利益を前提とする。もし個人がこの利益の保障がなければ、そのいわゆる愛は消え、あるいは憎しみに変わる。一方、仏菩薩の大愛は、無我無私であり、衆生が利益を得るためのものである。それゆえ仏教のため、衆生のために一切の代価を払うことを望み、衆生の誹謗や無理な騒ぎを意に介さないのである。
菩薩は覚悟すべきである。一切法は如来蔵 (tathāgatagarbha) が化したものであり、実際には一切法もなく、すべて如来蔵の空相と空性 (śūnyatā) であり、如来蔵の中に隠れて清凉を享受するのは、なんと自在で、なんと心地よいことであろうか。この二日間、弟子が言ったには、早く如来蔵を見つけ、それから如来蔵の中に隠れて清凉寂静を享受し、心中には一切の是非紛擾相がない、と。
諸法無行経の「行」とは、運行・運転して現れるという意味であり、諸法は実際にはその実がなく、運転しない。なぜそうなのか。一切法はすべて涅槃相であり、寂静で何もなせず、不生不滅であり、繋縛もなく、解脱もなく、常に自ら寂静で虚空のようである。
一切法はすべて如来蔵相であり、如来蔵を見れば、一切法を見ず、これが如来蔵の中に隠れるということである。どの法が如来蔵でないのか。すべて如来蔵の空性 (śūnyatā) である。それゆえ三界世俗法相はなく、善悪相はなく、壊乱相はなく、対立相はない。菩薩は常に畢竟空に遊び、心は常に定 (じょう) に在って無所着である。もし所着があれば、それは菩薩ではない。もし一切の好悪相を見れば、それは菩薩ではない。それゆえ私の心は軽柔で、柔軟の極みであり、言葉では言い表せない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、菩薩には菩薩格がある</h3>明心以後は、真の大乗菩薩である。もし心性が明心以前に真に転換されていなければ、合格した大乗菩薩の心性をまだ備えておらず、真の大乗菩薩になることは難しい、あるいはできない。菩薩には菩薩格があるべきであり、人には人格があるべきであり、仏には仏格がある。その心性はすべてその果位に相応すべきであり、これが正常である。さもなければ偽の菩薩、偽の仏である。人格を備えていない人は、完全な人ではなく、真の意味での人ではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、仏法に帰属はない</h3>菩薩は無量劫にわたって十方諸仏菩薩に学び受けてきた。説法のうち正しい部分は十方諸仏の法に属し、誤った部分は自分の修証がまだ完全でない法に属する。仏法は一尊の仏の所有に帰することはできず、ましてある菩薩の所有に帰することはできず、凡夫はなおのこと仏法を有することはできない。仏法を有するのは仏であり、菩薩法を有するのは菩薩であり、凡夫法を有するのは凡夫である。各階層の人には各階層の法がある。それゆえ各人は大心を発し、早く仏法を具足してこそ、早く成仏できる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、菩薩の証悟はすべて戒定慧三無漏学から離れられない</h3>法に対する観察で最も究竟なのは仏であり、菩薩の悟後の観察は徹底究竟できず、程度が十分でない。それゆえ菩薩の証悟は無数の階層に分けられ、すべての法を頓に悟ることはできず、最も徹底して悟ることもできない。菩薩の福德が異なり、禅定が異なり、智慧が異なれば、悟る階層も異なる。ある時期に至り、もし菩薩が四禅八定を修めなければ、以後の法を悟ることができず、制限を受ける。極大多数の仏法は、依然として極めて深い禅定を通して悟られるのである。
ある人々はあえて禅定の作用を否定しようとするが、菩薩が禅定を修めなければ、道業は根本的に増進できず、ある階位に引っかかり、ある階層で先へ進めなくなる。細法と極細法は、禅定と神通の配合がなければ証得できず、完全に証得できない。甚深の智慧も、極めて深い禅定と神通の配合の下で証得されるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、菩薩はいかにして性障煩悩を阿羅漢のように降伏するか</h3>菩薩が永伏性障如阿羅漢を望むなら、初禅の定力を備えなければならず、それによって初めて貪瞋痴煩悩を断除する能力を得る。その後、三界の中の四住地無明煩悩は断じ得るのに断じ尽くさず、少しの軽微な思惑煩悩だけを残して断じない。これを永伏性障如阿羅漢と呼び、ここまで修めばすでに初地満心菩薩である。もし初禅定がなければ、少しの煩悩も断じることができず、多くても一時的に伏するだけであり、初地菩薩の伏性障とは差が極めて大きい。初地菩薩が性障煩悩を阿羅漢のように伏するのは、初禅以上の定力を備えた条件下で、貪瞋痴慢疑邪見 (mithyā-dṛṣṭi) をすべて断除し、四住地無明は少しだけ残して、すべて断じ尽くすことはできない。もしすべて断じ尽くせば、無余涅槃に入ってしまう。それゆえ菩薩は断じ得るのに断じず、故意に残す。これを留惑潤生と呼ぶ。
もし菩薩の道の上で引き続き上へ進修するなら、悟後は必ず初禅定を修めなければならない。初禅定があってこそ貪瞋痴煩悩を断じ、三果人になることができる。三果・四果人になって初めて初地に入る能力があり、初地に入れば、永伏性障如阿羅漢となることができる。これは菩薩が必ず通らなければならない道であり、迂回できない。今生でこのように歩まなければ、来世いずれこのように歩かなければならず、さもなければ三果を証得できず、まして初地に入ることはできない。禅定は硬い指標であり、どんなに難しくても修めなければならず、禅定がなければ果位は語れない。各種の果位の施設にはすべて相応の基準があり、相応の定がなければ相応の慧は語れず、定慧は一体であり、定慧等持である。
仏の説かれた戒定慧三無漏学は、修行の総持である。我々は戒を不要とすることはできず、戒を受けず持たずに直接慧を修めることもできず、定を不要とし修めずに直接慧を修めることもできない。戒がなければ定力の発起はなく、定力がなければ真の智慧の生起はない。定水の滋潤がなければ、慧があっても浅慧と乾慧であり、内心の真実の受用がなく、貪瞋痴煩悩を降伏できない。貪瞋痴煩悩を断じなければ、解脱の功徳受用はない。特にこの汚濁した末法の時代において、我々の修行は必ず仏陀の教えを廃棄し違背してはならず、仏陀の説かれた三無漏学に厳格に従って修行してこそ、成就を得ることができる。悟前に三無漏学を修行し、悟後にも三無漏学を修行し、地上菩薩も依然として三無漏学を修行してこそ、速やかに一切法を円満成就し、早く成仏することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、菩薩は阿羅漢のように思惑煩悩を断じ尽くすことができない</h3>一念無明は、見一処住地煩悩、欲界愛、色界愛、無色界愛を含む。菩薩は一念無明をすべて断じ尽くすのではなく、留惑潤生をしなければならない。惑とは迷惑であり、痴業であり、無明であり、小乗では主に貪瞋痴慢疑などの思想観念上の迷惑顛倒を指す。見とは見惑であり、我見 (satkāya-dṛṣṭi) であり、知見上の迷惑顛倒である。一念無明をすべて断じ尽くした人は四果人であり、大乗の中では八地菩薩に相当する。菩薩が初地に入る時、小乗の果位は四果人に近く、初地満心に至れば、完全に一念無明を滅し、我執を断じ尽くし、真の四果人となることができる。しかし菩薩は八地以前には、我執を断じ尽くしてはならず、一念無明を断じ尽くしてはならない。さもなければ三界を出て無余涅槃に入らなければならず、そうなれば自利利他する五蘊身がなく、成仏することもできない。それゆえ菩薩は十の無尽大願を発し、永遠に衆生を利楽して窮まりなく、三界を出離して苦難を逃避することはできない。それゆえ菩薩は我執を断じ尽くしていない時に、すでに法執を断じ始める。
菩薩は広く衆生を度すために、無余涅槃に入らず、見惑をすべて断じ尽くし、ほんの少しの思惑煩悩だけを残して断じ尽くさない。どのような思惑煩悩を残すのが適切であろうか。最も軽微な思惑煩悩、すなわち無色界愛を残すべきであり、無色界の禅定の境界を軽微に貪着してもよく、それによって自分が涅槃に入らず、世世に色身を保有し、自利利他することを保証する。あるいは仏法に対する貪愛を保有し、この種の貪によって三界に留まり、引き続き仏法を修行する。もし欲界の貪愛煩悩を保留すれば、道を著しく障げることになり、初禅定を失うだけでなく、三果の証量も退失し、初地の功徳も退失する。それゆえ地上菩薩は必ず欲界愛を非常に徹底的に断じており、少しも残すことはできず、欲界の貪と瞋恚は徹底的に断除しなければならず、慢心も断除しなければならず、無色界の禅定に対する貪だけを保留するか、あるいは仏法に対する貪愛を断じずに保留するかで、その他の惑業煩悩はすべて断じ尽くさなければならない。六・七地菩薩に至れば、無色界の禅定への貪愛も断除しなければ道業は増進できず、成仏の法への精進な追求だけが、無余涅槃に入らないことを保証できる。
初地菩薩は一分の無生法忍慧を証得し始め、妙観察智をもって蘊処界の和合によって生じた法の中に無我無我所であることを観察できる。衆生はまだ妙観察智を有するまで修めていない時は、法無我を観察し証得する能力がなく、法我執を断除する能力もない。初地菩薩は留惑潤生のために、世世に五蘊身を保有して世間で自利利他するので、我執を完全に断じ尽くすことはできない。さもなければ三界を出てしまう。しかしこの時にはすでに法執を断じ始めている。初地菩薩は百法明門を修学以後、蘊処界の和合によって生じた百法の中に無我無我所であることを証得し、それから二地に入って倶生法執を破除する修行をし、法執を断じ尽くせば、十地・等覚菩薩である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、菩薩は衆生をどのように見るのか</h3>菩薩は覚有情であり、自分自身がすでに覚悟のある有情であり、それから他の有情を覚悟させる。自利するだけでなく、利他もしなければならない。菩薩はまた大心衆生であり、個人の安楽を得るためではなく、ただ願わくは衆生が苦を離れることを願い、心量は寛宏大度で、一切を包容する。ちょうど弥勒菩薩のように、大腹は天下の容れがたい事を容れる。真の菩薩の眼中には、是非がなく、対立がなく、内心は通達しており、一切の人事物と怨対しない。菩薩はすべてを自分であると見なし、すべて自心の影像であり、心外に物はない。菩薩の眼中には悪人はなく、ただ因縁が熟しておらず、暫く教化できない衆生だけがある。
菩薩は衆生を観ずるに、表面の善悪を見ず、実質を重んじ、善根を見、潜在力を見、福德を見、因縁を見、智慧を見る。観音菩薩はしばしば種々の形像に変化して、衆生を度化される。しかし度化される衆生は、必ずしも表面の善人ではなく、因縁の熟した人である。因縁の熟した人は、たとえ表面は悪くても、善根は無比に深厚である。度してしまえば、善を造る力度は小善人の百千万倍、さらには無量倍にも強い。『楞厳経』の中のある淫女は、世尊に度化されて四果阿羅漢となったが、あの善人たちは依然として一人の凡夫のままであった。勇施比丘は重戒を犯したが、世尊に度化されて開悟した大菩薩となったが、あの持戒比丘たちは依然として凡夫であった。唐朝の時に、常に鹿を殺す猟師がいたが、出家の因縁が熟した時に禅師に出会い、禅師の数句の対話によって比丘として修道するよう度され、まもなく明心悟道した。
それゆえ善悪という事は非常に言い難く、衆生の根性も非常に言い難い。多くの場合、悪人と見なされる人は、善根が深厚で、智慧が高く、縁に遭って修行すれば非常に速い。一方、心性の通じていない小善人たちは、後から必死に追いかけても追いつくことができない。仏は智慧解脱、智慧成仏と説かれた。心性が通達し、一切を包容すること、これが即ち智慧である。
我々の如来蔵 (tathāgatagarbha) を見てみよ。いかなる法とも対立せず、常にすべての人事物を包容し、善悪是非好悪を問わず、衆生が何をしようとも、すべて随順して過ぎさせる。衆生が天に上れば、天に上るのに随順し、衆生が地に入れば、地に入るのに随順する。このようにして、祂(神様)は一切法を円満に成就される。いかなる法でも、祂は現すことができ、少しの滞碍もない。祂は直に遇えば直とし、曲に遇えば曲とし、方に遇えば方とし、円に遇えば円とする。心性は剛直であるが、彎に随って彎となることを妨げない。このようにしてこそ、祂は永遠に卒暴せず、永遠に砕かれず、永遠に生滅しない。心性が通達すれば、無量の福德と智慧の徳能がある。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、衆生界は不増不減であり、阿羅漢が涅槃に入っても断滅しない</h3>仏は、阿羅漢は煩悩の現行だけを断じ、習気を断じないと説かれた。習気は初地菩薩から断じ始め、七地満心に至って初めて断じ終える。八地菩薩はすでに煩悩習気がなくなっているが、まだ塵沙無明が断じ尽くされておらず、断じ尽くせば成仏する。大迦葉は倶解脱大阿羅漢であるが、音楽を聞いてまだ舞い踊る。これは習気であって、煩悩の現行ではない。難陀比丘は大阿羅漢であるが、説法の時にまず女衆を見て、後で男衆を見る。これは習気であって、煩悩の現行ではない。またある阿羅漢は、恒河女神を小女中と呼んだ。これは慢の習気であって、我慢の現行ではない。これらの習気は阿羅漢たちにはまだ断除する能力がなく、それでも涅槃に入ることはできるが、成仏はできない。
彼らは無始無明と塵沙無明がどちらも破除されておらず、法界実相を証得していない。つまりまだ愚痴があり、法界の理で解さないものが非常に多い。世尊は慈悲深く、彼らが涅槃に入る前に、特意に彼らの心中に大乗の種子を植えられた。この種子があって、因縁が熟した時に種子が発芽し、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は再び六根を生じ、いくつかの識心を生み出し、五蘊十八界が具足する。出生以後、大乗種子の作用によって、彼らは明心見性を求め、引き続いて開悟して実相を証得する。それゆえ阿羅漢は仏と等しくなく、仏世尊にはるかに及ばない。一法を知らなければ仏ではない。仏の名称は一切種智 (sarvākārajñatā) であり、阿羅漢は一切智であり、「種」という字がない。つまりまだ阿頼耶識の種子の功能作用を解しておらず、仏道を成就するにはまだ非常に久遠な時間がかかる。もし涅槃に入らず、大乗道に回心すれば、まだ速くすることができる。
涅槃は五蘊十八界の一切法を滅尽することである。仏はなぜ彼らに種子を植えられるのか。この種子がもし七つの識心に植えられるなら、七つの識心はすべて滅すべきものであり、種子を植えて何の用があろうか。必ず涅槃の中に滅しないものがあるからこそ、仏はこのように苦心されたのである。もちろん阿羅漢の第八識は滅しない。種子はそこに植えられてこそ、いつの日か発芽結果し、阿羅漢は涅槃の中から出て、色身を有して引き続き修行するのである。
仏は、衆生界は不増不減であると説かれた。もし阿羅漢が涅槃後、何も残らず、第八識心もなくなれば、この衆生は永遠に消滅し、衆生界は減少することになる。そうすると、一人が涅槃に入れば、法界は衆生を一つ減らし、無数の人が涅槃に入れば、法界は無数の人を減らす。もしすべて羅漢法を学んで涅槃に入れば、法界の衆生は存在しなくなり、世界は空無となる。このようなことがありうるであろうか。これは仏の説かれたことと相違逆する。法界は永遠に不増不減であり、衆生の数は減少せず増加もしない。阿羅漢が涅槃に入った後は、何も残らないのではなく、断滅法ではない。
仏の声聞弟子たちは仏に随って修学する時、すべて先に法住を知り、後に涅槃を証した。常住不滅の一つの法があることを知り、それから涅槃は五蘊十八界の自己を滅することであり、すべて滅した後でも断滅空 (uccheda-śūnyatā) ではないことを知る。それゆえ四果羅漢は自己を滅することを恐れず、敢于て自己を滅する。これには一定の道理がある。死後に一了百了、何も残らないことを望む人はおらず、衆生は誰も法界の中から永遠に消えることを望まない。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、三明六通倶解脱大阿羅漢の境界</h3>三明とは、漏尽明、天眼明、宿命明である。漏尽明とは、貪瞋痴慢疑悪見の煩悩の現行がすべて断じ尽くされ、見惑と思惑がなくなったことである。天眼明とは、天眼通を発起し、天上地下の大千世界すべてを観察できることである。宿命明 (pūrvanivāsānusmṛti) とは、自他の前後各八万大劫の事を知ることができることである。六通とは、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通 (pūrvanivāsānusmṛti)、漏尽通である。外道は前の五通しか得られず、漏尽通を得ることはできない。倶解脱は慧解脱と定解脱を兼ねる。慧解脱は、禅定が初禅定に達し、解脱生死の智慧を有し、智慧をもって三界を出離する。定解脱は、四禅八定と神通を有するが解脱智がなく、寿終時に禅定に依って三界を出離し、解脱を得る。慧解脱と定解脱の二種の功徳を具足するものが、倶解脱の三明六通の大阿羅漢である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、菩薩と阿羅漢の異なる修行結果</h3>阿羅漢の修行結果は、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa)、断我執、三界法の解脱である。四聖諦法を修行することを通じて、五陰十八界の虚妄を観行 (vipaśyanā-caryā) し、五陰十八界が確かに我ではないと証得すれば、五陰を我とする誤った知見を断じ、初果を証する。貪瞋痴が非常に淡薄になれば、二果となる。引き続いて初禅定を修出し、貪愛を断じ、瞋恚を断じれば、三果となる。我慢を断除し、色界無色界に対する貪愛を断除し、五陰への執著を断じ尽くせば、慧解脱の阿羅漢となる。
菩薩たちの修行結果は、明心見性し、真心自性を証得することであり、それによって一方では五陰十八界の虚妄を証得し、他方では第八識が五陰身の中で運作することを知り、こうして智慧が開かれ、根本無分別智を有する。開悟したばかりの時の果位は一般に住位菩薩であり、以後さらに如幻観、陽炎観、如夢観を証得して、十住位、十行位、十回向 (pariṇāma) 位となり、さらに一分の無生法忍慧を証得すれば、初地に入り、如来家に入り、聖人となる。それ以前はすべて賢人である。もし前世の多くの世で悟ったことがあれば、今生で再び開悟する時、必ずしも第七住位ではなく、もっと高いかもしれない。それゆえ開悟の時、各人の悟りの深浅は一様ではなく、悟りが深いほど果位が高い。
明心開悟し、大乗菩薩になりたいなら、菩薩六度を修行しなければならない。六度は一度ずつ修行することもでき、斉しく修めることもできる。各時期の修行の重点は異なるべきであり、最も基礎的な部分と比較的薄弱な部分を重点的に修めるべきである。もし布施 (dāna) と持戒の両面が比較的弱ければ、この二度を重点的に修め、後のものも同時に修めるべきである。もし定力が比較的弱ければ、禅定を練習し、定力を強化しなければならない。持戒の面では、五戒と菩薩戒をできる限り受持し、まず皈依して五戒を受け、よく守持してから、菩薩戒を受ける。最後の般若 (prajñā) の度は、般若の熏修が修行の全過程を貫くべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、成仏を望む者は三界を離れてはならない</h3>成仏したいなら、出離することだけを考えてはならない。そうすれば将来阿羅漢のように三界を離れ、成仏できず、衆生も救い度す人がいなくなる。決心を固め、自分に一切を捨てなければならないと命じること、これが阿羅漢の自利しか知らない思想である。一切を捨てれば、世間で引き続き修行する五蘊がなく、仏道を成就することもできない。成仏したいなら、少しの出離心で十分である。もし強烈な出離心を生起すれば、それは小乗の道を歩むことであり、将来必ず涅槃に入り、一切法を滅し、何も要らなくなり、成仏できない。世界も要らず、思想も要らなければ、五蘊世間がなく、修行の道具と環境もない。自分のこの心と外物をすべて捨てることは、修道の道具を捨てることであり、成仏できない。
阿羅漢が涅槃以後、いかなる世俗法も残らない。意根が一たん滅すれば、万法を持ち去り、すべて存在しなくなる。残った第八識は、いかなる相もなく、仏眼でも覗き見ることができない。第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) 以外はすべて堅固でなく、久しく住せず、早晚滅去するものであるなら、我々はなぜかくも貪執しなければならないのか。縁に随って日を過ごすのがどれほど良いことか。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、三乗人の異なる智慧</h3>仏教の中の果位は、証得した智慧の境界によって区分される。智慧解脱、智慧成仏であるからである。たとえば小乗の四聖諦法を修習し、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) し、人無我の智慧を得るのが初果であり、解脱の一切智の智慧を得るのが四果羅漢である。中乗の縁覚は十二因縁法を修習し、同様に人無我の智慧を証得するが、この無我の智慧は阿羅漢たちより高い。縁覚・辟支仏は因縁法を修習し、衆生の生老病死の根源と由来を思惟 (manasikāra/manana) 推算することができる。根源は無明であり、由来は第八識である。この智慧は四聖諦法を修する羅漢たちよりはるかに高く、しかも独覚仏は仏と法が住世していない状況下で、自分独りで覚悟することができ、智慧はさらに高深である。
彼らはすべて解脱を得て生死を出離するが、智慧の境界の差異は極めて大きい。それゆえ中乗辟支仏の果位は小乗阿羅漢の果位より高い。さらに高い大乗菩薩の果位がある。大乗菩薩たちは明心の時、人無我智も証得し、縁覚たちのように衆生の由来が第八識であることを知っただけでなく、第八識という自性清浄涅槃を証得した。この智慧はさらに高深であり、声聞縁覚たちが望塵の及ぶところではない。
大乗菩薩たちは声聞縁覚たちのように人無我を証得するだけでなく、法無我をも証得でき、声聞縁覚のように煩悩を断除できるだけでなく、煩悩の習気をも断除できる。同様に解脱を得るといっても、その智慧の境界は同じ日に語るべからざるものである。大乗菩薩たちは声聞縁覚のように分段生死 (pariccheda-maraṇa) を断除し、有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) と無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) を得ることができるだけでなく、変易生死 (parināma-maraṇa) も断除し、最終的に無生死の大涅槃――仏地の無住処涅槃に到達できる。つまり菩薩たちは四種の涅槃を得ることができ、声聞縁覚は二種の涅槃しか得られない。菩薩の智慧は深広無辺であるから、大菩提果を得ることができ、声聞縁覚の智慧は限られているから、得るのは中菩提果と小菩提果である。智慧は一切の力の源である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、小乗果が退する現象</h3>四果阿羅漢が世俗界に戻れば、四果から三果に退転し、再び出家して世俗を離れた後、再び四果阿羅漢となる。四果阿羅漢が退転しうるなら、三果はもちろん退転しうる。禅定も消失しうるし、心行も退転する。さらには二果が初果に退ることもある。四果阿羅漢は執著を断除しても、なお退転して再び執著を生起することがある。まして三果においてはなおさらである。
仏経の中に具体的な事例が証拠としてあるが、その果位を証得していなければ、体会できない。低位の身で高位を見抜くことはできず、高位を論評することもできない。事実の真相を把握するには、自ら体験するしかない。ちょうど現在、多くの人が明らかに凡夫の段階にありながら、終日仏地の境界を論争し、顔を赤くして争っているが、すべて机上の空論であり、何の意味もない。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、大小乗の聖人はいずれも供養に値する</h3>供養の含意は比較的広い。奉持は供養であり、必要なものを与えるのは供養であり、教えに依って奉行するのは供養であり、尊重するのは供養であり、信受するのは供養であり、礼拝するのは供養であり、読誦するのは供養であり、憶念するのは供養であり、讃嘆するのは供養である。
阿羅漢は煩悩と我執を断じ尽くし、その心は欲界・色界・無色界を超越し、世間第一であるから、もちろん世間の人天大衆の供養に値する。菩薩は煩悩を断除し、留惑潤生し、自利利他し、己を捨てて衆生のために尽くすので、さらに人天大衆の供養に値する。すべての衆生は仏菩薩と阿羅漢を供養すべきであり、供養する能力があり、供養を解しているさえすればよい。一匹の犬でも仏菩薩と阿羅漢を供養でき、獅子も虎も供養でき、仏菩薩・阿羅漢の侍衛と随従となり、尊重礼拝し、教えに従うことは、すべて供養であり、無量の福を得る。さらには細菌が仏菩薩の飲食を発酵させることも一種の供養であるが、細菌は無知無心であるため、その得る福は甚だ微少である。鬼神はなおのこと三宝を供養でき、三宝の田地の中に福を植え、三宝の加持力に乗じて悪道から脱し、解脱果を得ることができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、三果人の断煩悩</h3>境界に対して貪がなくなれば、それが三果人であり、すでに貪と瞋の煩悩の現行を断除している。境界に対して執著がなくなれば、それが四果阿羅漢であり、意根の我執と三界に対する貪愛を断除している。三果以前は、心がどんなに清浄 (viśuddha/pariśuddha) であっても、煩悩を圧伏しているだけであり、断煩悩ではない。煩悩は内心に潜んでいて、あまり現れないが、重大な事柄が現れた時には、必ず隠しきれず、必ず煩悩を現し、煩悩を現行させる。自分の煩悩を真に全面的に検出できる人は非常に少なく、それゆえしばしば自分には煩悩がないと考えたり、あるいは自分は二果になったと考えたりするが、実際には二果からは程遠い。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、大乗種子を留存した阿羅漢はいかにして再び無余涅槃から出るのか</h3>阿羅漢は三界世間の生死業種を滅除したため、三界に未練を持たず、命終時には五陰身を滅するだけでなく、意根の思心所も引き続き留存することを決定せず、如来蔵 (tathāgatagarbha) は意根の識種子を生じなくなり、そこで意根は滅し、一つの如来蔵だけが残り、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) のあの状態となる。
もし阿羅漢が涅槃の前に大乗仏法を熏修し、仏陀の説かれた大乗経を聞いていれば、一たん耳根に歴れば永く道種と為り、大乗法の種子が植え付けられ、如来蔵の中に存在する。阿羅漢の如来蔵は異熟識と呼ばれ、異熟識の中の大乗種子は早晚成熟し、生根発芽しなければならない。無余涅槃の中で、異熟識が大乗種子の縁が熟したことを一旦了別すれば、異熟識は縁に依って意根の識種子を出生し、意根が出生する。そこで意根はやはり色身を依拠として必要とするので、異熟識は祂(神様)のために中陰身を出生し、中陰身の中で、意根はやはり真の色身を依拠したいと考えるので、業種と縁に依って投胎し、三界の中に出生する。成長した後、大乗法の縁が熟し、大乗法の修学の中に身を投じ、生生世世菩薩となり、最後についに仏道を成就する。