衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 2405

第十一章 種子篇

一、業種が枯れる道理は甚深にして甚深であり、非常に深い道種智があって初めてこの深い意味を了知できる。全ての衆生は成仏する前に、全ての悪業障が受報し終わり、報い終わり、完全に消え去り、微塵ほども残らなければ成仏できない。ほんのわずかな悪業でも存在して消滅していなければ、成仏することはできない。衆生が無始劫より造ってきた悪業は、成仏を目前にした時点で全て受報しなければ消滅しないというのは、不可能である。無始劫より造ってきた悪業は実に多く、塵のように数えきれないほどであり、もし全て受報して初めて消滅するならば、三大阿僧祇劫では到底受報しきれず、それほどの長劫でも報い尽くせない。しかしながら、各仏陀はわずか三大阿僧祇劫を修行しただけで悪業の種子が既に消え尽きている。では、これらの業種はどのようにして消え尽きたのであろうか。

ある業種は長期間にわたり現行する縁がなかったため、次第に自ら枯れ、消滅する。特に比較的小さな悪業の種子は枯れ消滅しやすいが、あまりに大きな悪業の種子は枯れることができず、必ず菩薩地において受報し終わらなければならない。あるいは重業が軽業へと転じ、重罪が軽く報いられて消滅する。全ての悪業は消え尽きて初めて成仏できる。多くの大菩薩が人間界に来た際にも依然として悪業の果報を受けるのは、避けられないことである。一方で、菩薩は修行の過程で絶えず善業を修集するため、生生世世の善業が悪業をはるかに上回り、比較的小さな悪業の種子が生起する縁が常に具足せず、無限の長い時間を経て、意根は常に善業の種子と相応し、悪業の種子とは相応せず、心も次第に清浄となり、久遠劫前の種子は枯れ消滅する。

ある小さな悪業の種子は、もし長期間にわたり現行する機会がなければ、業種は必ず枯れる。意根の悪習気・劣習気は、もし長期間にわたり表現する機会がなく、その後良い善の習性が形成されれば、元の悪習も消滅する。消滅しうる業種とは、過去世の身口意が造った行為が種子となり、既に如来蔵に蔵され、将来縁に遇って悪果報を現行するものであり、果報は因縁が成熟して初めて実現する。我々が為すべきことは、懺悔によって業を消し、往世の悪業を上回る大善業を為し、善業の種子が常に現前するようにし、悪業が現前する機縁がなくなり、常に善報を受け、悪報を受けないか、あるいは少なくし、将来我々に承受能力が生じた時に改めて悪報を受けることである。その時には悪報を受けても苦痛を伴う事ではなく、完全に耐えられるようになる。

二、問:業種が枯れる道理は、「仮に百千劫を経ようとも、造った業は亡びず;因縁が会遇する時、果報は自ら受ける」という句と矛盾するように思われる。この四句の偈は業種が堅固であり、受報以外には決して消滅しないという意味を表しているように思われるが、どのように解釈すべきか。

答:この業種が枯れるという意味は、衆生が業を造る習慣勢力が、長期間にわたり業を造る機縁が現れないため、この勢力が次第に弱まり、ついには業行を造る能力も慣性も失ってしまうことである。まるで種子が長期間放置されていれば、生命力を失い、根を張り芽を出すことができなくなるのと同じである。大悪業を造った者が下品往生して極楽世界に生まれ、最長で極楽世界の蓮華の中に十二大劫留まる場合、そこで仏法を熏修し、全く業を造る機会が微塵もないため、最終的には心念上の悪も消滅し、再び業を造らなくなる。そうして初めて蓮華から出て、化身の観世音菩薩に面会し法を聞くことができるが、その意味を理解できない。これは全て往昔の罪業が遮障となっているためである。

なぜなら、彼は蓮華の中で長く業行がなくなり、悪業を造る慣性が消え、身口意の悪行が現起せず、習慣となったため、極楽世界の清浄と安寧を乱すことはない。しかし彼が往昔に造った悪業は、娑婆世界に戻った際に、大きな悪業の縁が熟せば依然として受報するが、業報は軽微であり、重くはならず、三悪道に堕ちて受報することは不可能で、ただ人間界で相応の苦報を受けるに留まる。これは重罪が軽く報いられ、軽罪は消滅しうることを示している。懺悔も同じ道理であり、懺悔によって悪業の種子を消滅させたり軽減させたりすれば、衆生は後に悪業の果報を受けずに済むか、軽く受けるだけで済み、業種は消滅する。故に、全ての業種が受報によってのみ消滅するわけではなく、多くは他の形式によって消滅するのである。そうでなければ成仏の時点で悪報が永遠に受け終わらず、成仏できなくなる。

三、悟り前に種子を浄化できるか

業種を浄化するには、一般的に煩悩を断除した後、煩悩業を造らなくなって初めて種子が清浄となる。煩悩習気を断除する過程で、習気が少し断除されるごとに、業種が少し清浄になる。煩悩が断じ尽くされていない時は、身口意が依然として悪業行を造るため、業種は浄化できない。悟り前は、諸法実相を証得しておらず、我見が残り、我を執着し続けるため、我のために悪業を造り続け、業種は清浄とならない。悟り後、真如を証得し、諸法が性空であり五陰に我がないことを知って初めて、次第に煩悩を降伏し、我のために造る悪業が少なくなる。初地に入って初めて、明らかな悪業を造らなくなり、種子が清浄になり始めるが、依然として煩悩習気と無明があるため、微細な悪業・不善業の出現は免れない。

仏法を学ぶ者は自心を反観する習慣を養うことで、速やかに煩悩を降伏できる。その後さらに努力して煩悩を断除し、初禅定を修得して初めて、次第に煩悩を断除し始められる。そうでなければ煩悩を抑圧するのみであり、後に縁に遇えば貪瞋痴の業を造り続ける。我見を断ち明心した後、初禅定があって初めて煩悩を断除する能力が得られる。これ以外は全て煩悩を抑圧するに過ぎず、草を根こそぎにしておらず、根が除かれなければ煩悩の草は再生する。一池の汚水を清浄にしたいなら、最低限それ以上汚水を注ぎ続けないことが必要で、その後初めて汚水を浄化する方法を考えられる。もし注ぎ続ければ、汚水を清浄にすることは不可能である。故に種子の浄化は悟り後にあり、悟り前は煩悩を抑圧し、出来る限り悪業を造らないようにするのみである。

四、種子は実有であるか

真に実有であるのは如来蔵のみである。七大種子は如来蔵に本有する種子であり、生滅したことがなく、万法を出生する真実の作用があり、実有であると言える。業種に関しては、後天的に生成され、生滅変異するものであり、実有ではない。仏性も不生不滅ではあるが、無余涅槃においては仏性は作用を起こさないため、完全に実有とは言えない。無余涅槃において七大種子は依然として存在するが、仏性は存在しない。七大種子はあたかも如来蔵の心臓のようであり、如来蔵と共に存在するため、実有と見做すことができる。その他は全て実有ではない。

五、何が定業か、何が不定業か

業果が実現する因縁がまだ成熟していない場合、この業は不定であり、懺悔で消え、証果で消え、明心見性で消え、入地で消え、いかなる果位を証得しても消える。業果の因縁が既に成熟したものは定業であり、一般的な人にとっては必ず受報する。しかし修行に力ある者にとっては、業果が実現する際に重罪を軽く報いられたり、業果を転化したりすることも可能であり、一概には言えない。

聖者にとって、全ての業果は不定であり、実現させることも転化して実現させないこともでき、全て当人次第である。究竟理地において言えば、全ての業果は不定である。もし業果に定があるならば、衆生は成仏できない。なぜなら衆生の無量劫の罪業は永遠に滅び尽くせず、罪業が滅び尽くさなければ成仏できないからである。しかし現実世界では、十方の諸仏は無量であり、罪業は既に余すところなく消え尽きている。故に全ての業果に定はないと言うのである。

六、修行の目的は心を転換することであり、特に意根を転換することである。悪業の種子が現前した際に、心が悪業に流転しなければ、悪業は消滅し、その後蔵されるのは清浄業の種子となる。修行によって心所法が清浄に変われば、業を造った後に蔵されるのは清浄な種子となる。心も転換して清浄になった後は、悪業の種子は消滅するものもあれば、前倒しで受報するものもあり、重罪は軽く報いられ、報い終われば消える。例えば証果の際には三悪道の業は消滅し、各種の仏法の修証はそれぞれ相応の悪業の種子を消滅させる。大きな悪業は依然として軽微な果報を受ける。

今世の修行は往世に蔵された染汚の種子にも影響を与える。そうでなければ修行は何の役にも立たない。無量劫の生死業種は無量無辺であり、修行が前世の業種を変えられなければ、無量無辺の生死業を受け続けなければならず、いつ受報し終わるのか、いつ成仏できるのか。

修行は生死の衆流を断ち切ることができる。悪業の種子がなければ、生死流はない。なぜ生死が流れるのか。無明があり、業行があるからである。なぜ悪報があるのか。悪業があるからである。悪報とは何か。三界の生死、六道の輪廻である。無明が造った悪業によって六道輪廻、特に三悪道の生死輪廻が生じる。三悪道の生死苦受を滅除するには、修行によって心地の無明を滅除することである。例えば証果の時、明心の時、初地に入る時に無明が一部滅除され、三悪道の業が滅除され、三悪道に苦を受けることはなくなる。

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