仏法雑談(第一部)
心を静めて自分の内面にあるいわゆる「我」を点検してみれば、どんなに修行ができていると感じていても、心の中には至る所に「我」があり、何をするにも習慣的にまず自分の利益や損得を考え、自分の私的利益から出発し、その次にようやく他人の利益を考慮できることが分かるでしょう。一切の法を実有とみなすからこそ、一切の法と張り合うのです。真に無我を成し遂げるのは非常に難しいことです。無始劫以来の慣性の習気は、自分で点検して見出すことさえ容易ではありません。ましてやそれを調伏し断除することなどなおさらです。
無量劫にわたって仏法を学び修行してきたのは、一体何のためでしょうか。それは徹底的な無我に到達するためです。いかなる一法をも我とみなさず、実有とみなさず、いかなる一法とも張り合わないことができれば、私たちはもう仏法を学ぶ必要も、修行する必要もなくなり、大乗も小乗もすでに無学 (aśaikṣa) となるのです。
どのように心の中の様々な「我」を対治すればよいのでしょうか。まず、いわゆる「我」が何を指すのか、その範囲がどれほど広いのかを知らなければなりません。まず最も狭隘な「我」の知見を断除し、次に我性を降伏し、我執を断除します。その後にはさらに広範な我見があります。三界の世間の一切の法を我とみなし、真実とみなすのです。これは今後の修行の道の上で徐々に降伏し断除していくべきものであり、すべて断じ尽くせば、そこから天下は真に太平となり、もう何の事もなくなります。究竟常楽我浄であり、これはなんと快いことでしょうか!
一法でも実有とみなしてそれと張り合うなら、それが我性です。真に張り合わないとき、内面は相当に平和で、相当に柔軟で、相当に従順で、相当に慈愛に満ち、相当に光明に満ちており、内心は明るく通徹し、豁達で大らか、比類なき光明に輝いています。いつ完全にこのようになれるのでしょうか。一法として情に当たるべきものはない、と言うのは容易ですが、実行するのはあまりに難しいことです。習気があまりに深厚で、除き尽くすことが難しいのです。
一人とも対立せず、一事とも張り合わず、一法とも仇とせず、心中は坦々蕩々、平穏和合、磊磊落落、光明堂々、輝きわたり、寂然静謐、空々落々、融融和和であること、これこそが徹底的な無我の心境かもしれません。このような生命こそ真の価値を持ち、真の意義を持ち、保つに値するのです。しかし、もはや保とうとする心念すらなく、内心は一法をも重んじず、一法をも軽んじない、ほとんど如来蔵 (tathāgatagarbha) の境地と等しくなっています。