衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 4394

第八章 出家と在家の章

一、出家と在家の区別

まず家とは何か、家の概念について述べる。家とは、第一に、家族全員が共に生活する住居があること。第二に、家族、すなわち両親、配偶者、あるいは子などが互いに寄り添い、支え合い、依存し合う存在がいること。第三に、飲食、起居、娯楽など共通の世俗生活があること。第四に、共同生活の基盤となる共有財産や物資、経済的収入源があること。第五に、共通の生活目標と規則があること。

これらの条件が組み合わさって家庭となるが、これは娑婆世界の欲界人間にのみ適用される。なぜなら人間界の衆生は欲望が強く、男女の情事を他人の目から隠し、嘲笑されないよう家屋で覆う必要があるからである。娑婆世界の人間は元々、二禅天の天人たちが地上に降りたものである。彼らは地肥を貪り食べたために身体が重くなり、天宮へ飛び帰れず、地上で生活せざるを得なくなり人類となった。最初の人類は二禅天の天人であり、男女の区別はなかった。後に人口が増え、人間同士に情愛が生まれ、互いに貪愛するようになると、人類に男女の相が現れた。これらの男女が情事を行う際、当初は他人を避けていたが、後に家屋を建て、次第に家庭を形成し、子をもうけるようになって初めて家庭が生まれ、家が出現した。

このように、家は男女の存在、男女の情事から切り離せない。もし男女の情事がなければ、人々は家庭を形成せず、子孫も生まれない。淫欲の薄い欲界の天人は家庭を持たず、北倶盧洲の人間界にも家庭は存在しない。色界のすべての天人には男女の相がなく、淫欲もなく、常に禅定にあり、家庭も持たない。家計を支えるために奔走する必要もなく、経済的収入源も不要である。したがって、家は娑婆世界の人間界にのみ適応するものであり、出家という事柄も娑婆世界の人間界にのみ存在する。家庭がなければ出家の是非は問題にならず、さらに経済的収入源が不要で家計を支えるための奔走も必要ないため、在家者にも該当しない。

では、仏菩薩が住まう仏国土はすべて天界の環境、あるいはそれ以上に優れた環境であり、男女の相はなく、世俗生活もなく、生活のために奔走する必要もなく、世俗の事業もない。為すことすべては衆生の利益と安楽のためであり、すべてが仏事である。したがって仏菩薩は、娑婆世界の人間界のような出家の相を再び現す必要はなく、煩悩の糸を断つために頭を剃る必要もない。彼らには煩悩がなく、娑婆世界の人間界の出家衣を着る必要もない。色身そのものに束縛はなく、仏菩薩も衆生も色身の相に執着しない。彼らが現すいかなる相も出家の相であり、在家の相ではない。なぜなら在家としての事柄が一切ないからである。

我ら娑婆世界の人間界の衆生は、十方諸仏と同列に論じることはできず、すべての等覚・妙覚の菩薩とも同列に論じることはできず、十地の菩薩とも同列に論じることはできない。この五濁悪世の衆生が出家の相を現さず、出家しなくても、出家者と同じであるなどと考えてはならない。

実際、この世で生活する各人にとって、出家と在家の間には大きな隔たりがある。在家者は世俗生活に振り回され、そこから抜け出せず、修行の道において非常に大きな制約を受ける。多くの者が世俗生活の負担に悩まされ、修行に専念できず、たとえ出家を望んでも、業縁の束縛によって出家できない者もいる。中には数度出家しても、再び業縁に引き戻される者もいる。これが娑婆世界の人間界の実情であり、我々はこの現実を直視せずにはいられない。在家と出家は同じで違いがないなどと言うべきではない。実際にはその差は甚だしく、各人が自ら胸に手を当てて問うべきである。自分は出家者と同じだなどと、自分を過大評価してはならない。

二、出家は世俗法から隔離する最善の方法

仏は経典の中で、たとえ山の中で一日中眠っていても、出家者は世俗法の中で揉まれ苦しむよりましであると説かれている。なぜか。大寝すること自体は修行ではないが、他の世俗法に染まることもない。次第に心の中の世俗法への攀縁が減り、ついには世俗法を思わなくなる。その時になって睡眠を減らせば、道業の進歩は速くなる。

この道理は、極楽浄土に往生し蓮華の宮殿に住む状況と同じである。蓮華の中では、世俗法の環境から隔離され、染まる機会がなくなるため、心の中の攀縁は次第に断たれ、悪念は徐々に減り、悪業の種子は次第に枯れていく。心が清浄になった後、蓮華が開き、仏に会い法を聞けば、悟りを開くことができる。これは最も愚直な方法ではあるが、それでも世俗法の悪しき影響に染まるよりはましである。

したがって、いかなる者であれ、仏はその者を出家として受け入れる。たとえ出家後に修行に励まなくても、悪しき影響に染まることを減らせるからである。かつて仏陀が成道された後、ご自身の一族で出家できる者を皆、出家に勧められた。婚姻の有無に関わらず、父である浄飯王と、将来王位を継ぐ者一人だけを残された。中でも仏陀は従弟の難陀に対しては、非常手段を用いて出家を促された。難陀は妻への執着が非常に強く、通常の方法では出家を勧誘できなかったため、仏陀は強引に彼を精舎に連れ帰り、帰宅を許さなかった。彼の妻さえもそのことを知らなかった。最後に仏陀が彼を天宮と地獄にそれぞれ連れて行き、難陀はようやく修道に専念し、還俗することなく、最終的に四果阿羅漢を証得した。ここに見られるように、出家がいかに重要であるか。仏陀は様々な方法で人々に出家を勧め、苦労して僧伽を設立され、娑婆世界に住持し、縁ある衆生を仏門に導き入れたのである。

仏陀の時代、もし出家を望む者に妻子がいた場合、離婚する必要もなく、妻子の同意を得る必要もなかった。妻子を人に託し、今後の生活を整えた後、そのまま出家して修道に励んだ。たとえ妻子が新しい家庭でうまく生活できなくても、還俗して再び世話をすることはなく、道心は非常に固かった。

出家を望みながら出家できない者は、言い訳を探す必要はない。言い訳など存在せず、ただ自らの心を点検すべきである。貪欲が強く世俗を捨てきれない、これただ一つの原因のみであり、他に理由はない。

出家者がいかに修行せず、いかに法にかなっていないかと愚痴る声をよく耳にする。法にかなった者は出家を望まず、修行する者は出家を望まない。このような修行しない者たちさえも出家しなければ、僧伽は無くなってしまうのではないか。出家者はどこから来るのか。世俗法の中から来るのである。もし優れた人々が皆、世俗に執着せず出家するならば、出家者は皆、法にかなった者、修行する者となり、仏教事業は発展していくであろう。現在、多くの者は世俗でやっていけるなら世俗に留まり、掴めるものは世俗で掴み取ろうとする。掴み取る手段がなくなった者だけが出家する。これでは寺院の僧伽が良い状態であるはずがない。

三、出家僧が集まって行う羯磨や懺悔は、他人に盗み聞きされることを許されない。在家菩薩の懺悔の内容も、安易に他人に知らせてはならない。これは悪法の流布を防ぎ、悪影響が及ぶのを避けるためである。ある違縁(障害となる縁)は仏縁を促すかもしれない。解くべきでないものは解いてはならない。もし解いてしまえば、仏縁は成立しなくなる。様々な病気も含め、関わるべきでないものには関わらないこと。関わってしまうと、仏門に入らなくなり、仏門に入っても精進して修行しなくなる。世俗法のあらゆる面が順調な者で、正常かつ順調に出家修道できる者が果たして何人いるだろうか。仏縁のある者にとっては、逆縁(逆境の縁)は多ければ多いほど良い。それによってひたすら精進して修行に励むことができる。その逆縁を取り除いてしまうと、かえって仏法を学び修行しようとしなくなる。

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