衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年04月28日 閲覧数: 4863
<h2 style="text-indent: 2em;">第六章 出家と在家の篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、出家と在家の区別</h3>

まず、何が家なのか、家の概念は何かについて述べる。家とは、第一に、家族全員が一緒に生活し起居するための家屋があること。第二に、家族がいること、あるいは父母、あるいは配偶者、あるいは子どもたちがいて、互いに寄り添い、互いに依り頼み合うこと。第三に、飲食、起居、娯楽などのような、共通の俗世の生活があること。第四に、共同生活の基盤としての共有財産や物質があり、経済的な収入源があること。第五に、共通の生活目標とルールがあること。

これらの条件が組み合わさって一つの家庭となるが、これは娑婆世界の欲界の人間にのみ当てはまる。なぜなら、人間の衆生は欲望が濃厚であり、男女の欲事を他人に覗き見られ、嘲笑されないように、それを覆い隠す家屋が必要だからである。最初の娑婆世界の人間は、二禅の天人が地球に降りてきたものである。地肥を貪って食べたために身体が重くなり、天宮に飛んで帰れなくなり、やむなく地球に留まって生活することになり、人類となった。最初の人類は二禅の天人であり、男女の相はなかった。その後、人が増えるにつれて、人類の間に情感が生まれ、互いに貪愛するようになり、人類は男女の相に分かれた。これらの男女が一緒に欲事を行うようになり、最初は他の人を避けていたが、後に家屋を建てるようになり、次第に家庭を構成するようになった。子どもができるのはここから始まり、ここに至って家庭ができ、家が現れたのである。

このことから、家は男女と切り離せず、男女の欲事と切り離せないことが分かる。男女の欲事がなければ、人々の間で家庭が構成されることもなく、子どももできない。淫欲の薄い欲界の天人には家庭がなく、北倶蘆洲の人間にも家庭がない。色界のすべての天人は男女の相がなく、淫欲もなく、すべて禅定の中にあり、まして家庭などなく、家計を支えるためにあちこち奔走する必要もなく、経済的な収入源も必要としない。したがって、家は娑婆世界の人間にのみ当てはまるものであり、出家ということは、娑婆世界の人間にのみ存在する。家庭がなければ、出家するか否かには関わらない。さらに経済的な収入源が不要で、家計のためにあちこち奔走する必要もなければ、在家人にも属さないのである。

では、仏菩薩のいる仏国土は、すべて天界の環境であり、天界の環境よりもさらに殊勝でさえあり、男女の相がなく、俗世の生活もなく、生活のために奔走する必要もなく、世俗の事業もなく、行うことはすべて衆生を利楽するためであり、すべて仏事である。したがって、仏菩薩には、娑婆世界の人間と同じような所謂出家の相を現す必要はなく、頭を丸めて煩悩の糸を取り去る必要もない。彼らには煩悩がないからである。娑婆世界の人間の出家服を着る必要もなく、色身そのものに繋縛がなく、仏菩薩および衆生はいずれも色身の相に執着しない。彼らが現すどんな相も、すべて出家の相であって、在家の相ではない。なぜなら、いかなる在家の事もないからである。

我々娑婆世界の人間の衆生は、十方の諸仏と同列に論じることはできず、すべての等覚・妙覚の菩薩と同列に論じることもできず、十地の菩薩と同列に論じることもできないのに、この五濁悪世の衆生は出家の相を現す必要がなく、出家する必要もなく、出家人と同じであると考えるのである。

実際には、各人がこの世で生活するにあたり、出家と在家との差は甚だ大きい。在家人はみな俗世の生活に悩まされ、抜け出すことができず、修道において受ける制限が非常に大きい。多くの人が俗世の生活の負担に苦しみ、専心して修道することができない。出家したいと思っても、業縁に牽制されて出家できず、何度か出家しても業縁に再び牽制されて戻ってくる人もいる。これが娑婆世界の人間の真実の状況であり、我々はこのような現実に向き合わずに無視して、あえて在家と出家は同じで差がないと言うわけにはいかない。実際には差は甚だ大きく、各人は自らの胸に手を当てて自問することができる。自分に高帽子をかぶせて、自分は出家人と同じだと言ってはならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、出家は世俗法を隔離する最良の方法である</h3>

仏は経の中で、出家人はたとえ山中で一日中眠って過ごしても、世俗法の中で悪戦苦闘するよりはましである、と述べられた。なぜか。眠って過ごすことは修行ではないが、他の世俗法を熏染することもなく、次第に心の中の世俗法への攀縁が少なくなり、最後には世俗法を思わなくなる。この時になって睡眠を減らせば、道業の進歩は速くなるのである。

この道理は、極楽世界に往生して蓮華の宮殿に住む情形と同じである。蓮華の中では、世俗法の環境が隔離されているため、熏染される機会がなく、心の中の攀縁は次第に断たれ、悪念は次第に減り、悪業の種子は次第に枯れていく。心地が清浄になってから、蓮華が開敷し、仏に会って法を聞くことで、悟道することができる。これは最も愚かな方法であるが、それでも世俗法の悪熏に比べればましである。

それゆえ、人がどのような者であっても、仏はその出家を受け入れてくださる。たとえ出家しても努力して修行しなくても、悪熏を減らすことができる。かつて佛陀が成道された後、自らの家族の中で出家できる人をみな出家するように勧められた。婚姻の有無にかかわらず、神様の父である浄飯王と、将来王位を継ぐ者一人だけを残された。その中で、佛陀は自らの従弟である難陀に対して、非常に手段を選ばず、騙して出家させられた。難陀は妻を非常に貪恋していたため、正常な方法では出家するように勧導することができなかった。そこで佛陀は強引に彼を精舎に連れて行き、家に帰ることを許さなかった。彼の妻はそれさえ知らなかった。最後に佛陀は彼を連れて天宮と地獄をそれぞれ一回ずつ巡らせて、ようやく難陀は修道に安んじ、還俗することなく、最後には四果阿羅漢を証した。このことから、出家がいかに重要であるかが分かる。佛陀こそ様々な方法で人々に出家を勧め、辛苦して僧団を成立させ、娑婆世界に住持して、縁ある衆生を仏門に接引されたのである。

佛陀の時代の人で出家したいと思い、妻子がいる者は、離婚する必要もなく、妻子の意見を求める必要もなく、直接に妻子を人に譲り、その後の生活を手配してから、出家して修道した。たとえ妻子が新しい家庭でうまく生活していなくても、彼らは還俗して再び世話をすることはなく、道心は非常に堅固であった。

出家したいのに出家できない人は、もう何の口実も探す必要はない。探すべき口実など何もない。やはり自分の内心を点検すべきである。貪心が捨て難く世俗を捨てられない、ただこの一つの原因だけで、二つも他の理由もない。

出家人がいかに修行しないか、いかに如法でないかと不満を漏らす人をよく耳にする。如法な人は出家したがらず、修行する人は出家したがらない。この修行しない人たちがさらに出家しなければ、僧団には人がいなくなるのではないか。出家人はどこから来るのか。世俗法の中から来るのである。もし優れた人たちがみな世俗を貪恋せず、みな出家に来るならば、出家人はみな如法であり、みな修行のある者となり、仏教の事業はますます盛んになるだろう。今、多くの人は世俗の中でやっていけるなら世俗の中でやっていき、何かを掴み取れるなら世俗の中で何かを掴み取ろうとし、もう掴み取る方法のない人だけが出家する。このようでは、寺院や僧団がどこまで良くなれるというのか。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、逆縁もまた仏縁かもしれない</h3>

出家の僧が一緒に行う羯磨や懺悔は、他人が盗み聞きすることは許されない。在家菩薩の懺悔の内容も、軽々しく他人に知らせない。これは悪法の流布を阻止し、悪影響が生じるのを避けるためである。ある種の違縁は仏縁を成立させることがあるかもしれず、解いてはならないものは解くべきではない。解いてしまえば、仏縁は成立しなくなる。様々な疾病を含めて、構うべきでないものは構うべきではない。構ってしまえば仏門に入れなくなり、仏門に入った者は精進して修行しなくなる。世俗法が各方面で順調な人で、何人が正常に順調に出家して修道できるだろうか。仏縁のある人にとっては、逆縁は多ければ多いほど良く、一心に精進して修行することができる。その人の逆縁を取り除いてしまうと、かえってまじめに学仏修行しなくなってしまうのである。

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