仏法雑談(第一部)
衆生は修行がある段階に達しておらず、智慧が生起していないとき、経典を読み解くことは不可能である。多くの人が自分は仏経を読み解いたと思っているが、実際には依文解義に過ぎず、世尊が表そうとされた思想とはかけ離れている。人は自分を信じすぎると、往々にして自らを誤る。
仏は四十二章経の中で言われた:汝意不可信,证阿罗汉果才可信汝意。これは声聞の弟子たちに対して言われたものであり、大乗の菩薩の弟子たちに対しては、仏はおそらくこう言われたであろう:汝意不可信,证得自心本性才可信汝意,あるいはこう言われたであろう:具有唯识种智,入如来家,才能信汝意。なぜならこのときには、すでに諸法の実相を証得し、智慧がすでに開発され、しかもかなり深く透徹しているからである。それ以前には、衆生は少なくとも擇法眼を持つところまで修してこそ、いくらかの法の正誤を弁別でき、擇法眼があってこそ擇師眼もあり、両者は相依っている。
今見られる大部分の衆生は、擇法眼を持つところまで修していないので、判断した法も師も判断を誤っている。師を判断するのは名声によるところであり、外相に依拠するのであって、師の智慧によるのではない。自分自身にまず智慧がないので、師の智慧の深浅を見分けることもできない。衆生は自信すぎても師を信じすぎても、自らを誤る。法を善く思惟し、師を善く弁別し、自分の智慧の水準を正しく判断すべきである。最も重要なのは多くの福德を修めることであり、福德が具足すれば誤りは少なく、智慧が生じる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) が熾盛で法に依して修することができない</h3>短い一部の心経は、わずか260余りの文字しかないのに、十人が読めば十通りの理解があり、百人が読めば百通りの解釈がある。みな依法不依人と言うが、ならば大乗法を学ぶ者はまず心経に依止しなければならない。心経は大乗法の総綱であり、心経を読み解いてこそ、はじめて菩提を証悟しやすい。現在のような状況では、一人が理解すれば一通りの様になり、どうやって心経に依止するのか。みな自分は法に依っていると思いながら、法に対する理解は誤っており、それではどうして本当に依止できようか。みな自分の理解が正しいと思っているが、正しい法は一種しかなく、百人に百通りの理解があれば、九十九人の理解は誤りである可能性があり、これではどうして法に依止すると言えようか。
仏は処々において真空妙有を説かれたが、一部の人は真空を否定し、一部の人は妙有を否定する。この二種の人はもともと知見が矛盾対立しているのに、しかも互いに融合し合い、互いに肯定し合うことができる。奇妙ではないか。なぜこのような状況が生じるのか。原因は衆生がみな自分の知見が果たしてどうなのかを了解しておらず、法に対する弁別力がないからである。それゆえに現在、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) こそ熾盛であり、邪法こそ広く流布でき、衆生はこれを覚らず知らない。末法の時期、衆生は福が薄く、進んで誤導を受けようとする。衆生の福德が修持されなければ、未来の正法は憂うべきであり、おそらく速やかに滅亡するであろう。そのとき衆生はさらに熱悩の中にあって、自ら抜け出すことができなくなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、何を依法不依人というのか</h3>いわゆる依法不依人とは、法とは聖言量、あるいは証量を指し、真理であって、世俗の説ではなく、また誤り漏れのある説でもない。佛陀の説かれた解脱の理に適い、佛陀の説かれた真如の理に適うものであり、佛陀の説かれた三蔵十二部の経教はすべて依るべき法であり、この経教と符合し契うすべての言論もまた依るべき法であり、実修によって出された経教に適合する論もまた依るべき法であり、この法が何人によって説かれたかにはかかわらない。たとえ鬼神が経教と吻合する法を宣説できるとしても、それも依るべき法であり、鬼神の身分を見るのではない。たとえば弊衣の中に宝があるようなもので、直ちに宝蔵を取り、弊衣を取らないのである。
一方、人に依る者は、人の身分、地位、財色と名声しか観察できず、自分が喜び楽しみ仰ぎ慕う人を選び取るだけであり、その人が何かを言説すれば、すべて金口玉言と見なしてしまい、その言説が聖言量に適合するか、仏説に適合するかを弁別できない。その害は甚だ大きい。本当に人に依ることができる者は、万に一つを選び出すほどで、これも甚だ難く甚だ難く、選び出すことが非常に難しい。
どうすれば法に依ることができるのか。まず法を理解してこそ法に依ることができ、法を理解しなければ法に依る方法がない。法に依ることができないときは、みな人に依っている。しかし衆生は福德がひどく欠けており、また相応の擇法眼を修めておらず、相当に優れた弁別能力がなく、情執もまた深重であるため、法に依る能力がなく、極大多数の人は人に依っており、とりわけ自分と縁のある人に依り、名声のある人に依っている。
たとえば心経は法であると言って、我々が心経に依止して自分を修正しようと思うなら、心経の真実の義を明らかにし、心経の主旨が何であるかを明らかにし、それから心経に依って修行し、般若 (prajñā) の大智慧を修し、五蘊皆空を照見してこそ、それこそ真の依止である。しかしながら全世界の学仏人中、何人が心経の般若 (prajñā) の主旨を明らかにし、心経という法に依って修行できるであろうか。おそらく極少数であろう。心経全体に依ることができなければ、一言に依ること、あるいは不生不滅の四字に依ることができてもよい。しかしこの不生不滅の四字でさえ、その般若 (prajñā) の内包を明らかにしている人は多くなく、それではどうやって心経に依止して修学するのか。それゆえ依法は言うのは易いが、行うのは相当に困難であり、智慧と福德が不足しているゆえである。般若 (prajñā) 経典に依ることすらこのように困難であるのに、唯識経典に依るとすれば、何人が依れるであろうか。おそらく千万人の中から一人を選ぶほどで、選び出すのも難しく、ほとんどすべてが名声に依り権勢に依っていて、法に依れず、ましてや実際の証量に依れない。
もし皆が明心開悟したいのであれば、心経の中の不生不滅の四字を徹底的に明らかにしなければならない。不生不滅とは果たして何を意味しているのか、この意味を明らかにすれば、自分や他人が悟った法が生滅なのか不生不滅なのか、心経の所説に適合するかどうかを検査できる。もし悟ったものが生滅の性質の法であれば、それは虚妄法であり、不生不滅の真実法ではなく、それでは悟りを誤ったのである。不生不滅のものだけが真実法であり、心経の所説の通りである。
我々は知らなければならない、悟るとは何を悟るのか、悟りの対象は何か、悟りとはどんな状態か、悟るとき知見はどの程度に達しているか、身心の状態はどうか。それから根塵識の三者のそこでの運作の状況を知らなければならず、五陰 (pañca-skandha) の活動運作も知らなければならず、それら話頭の内包の秘密も知らなければならず、如来蔵 (tathāgatagarbha) の体性はなおさら知らなければならず、如来蔵 (tathāgatagarbha) の運作の状況も知らなければならない。そうしてはじめて般若 (prajñā) の大智慧を具え、真真正正の明心開悟となる。これ以後、はじめて本当に般若 (prajñā) 経典に依り、如来蔵 (tathāgatagarbha) 法に依り、般若 (prajñā) 智慧に依ることができる。
我々は普段から着実に修行しなければならず、広く学び多く聞くだけでなく、多くの理論知識を学ぶだけでなく、専精に実証しなければならない。ある人は学仏の心が非常に精進で、処々で仏法の理論知識を学び、仏法知識は確かに豊富になったが、自分が学んだ知識が正しいかどうか、実証できるかどうか、いつ実証するのかを考えたことがなく、これらの問題を一切考慮せず、仏法知識に出会えば吸収し、とりわけ誰が有名になれば、専らその有名な、名のある人の説く法を吸収し、少しも弁別しようと思わない。弁別する能力がないからである。仏経の中で仏は、名のある人は大善知識であり依止すべきであると一度も説かれたことはなく、繰り返し依法不依人を叮咛されたのである。
普段福を修めなければ、仏法に出会っても、正しいか正しくないかを弁別する能力がなく、名声に依り、公認のものに依ることしかできない。公認とは何をいうのか。公とは大衆であり、公認とは大衆がみなそう認めることである。しかし真理は永遠に極少数者の手の中にあり、大衆の智慧はまだ仏法の層次を弁別するに足りず、大衆はみな無明深重の者が多い。大衆の知見に依ることは、絶対に当てにならない。いかなる団体でも、世俗の中のものであれ仏教の中のものであれ、智慧のある人を探してみよ、何人見つけられるか。万に一つを選ぶほどで、一人選び出せるかもしれないし、一人も選び出せないかもしれない。各団体の中は黒々とした無知な人々の群れであり、智慧のある者はほとんどいない。公認を信じるなら、無明を信じるのと同じである。
なぜ佛陀は涅槃に臨むとき、弟子たちに依法不依人を告げられたのか。依法というようなことは、なかなか実行できないことであり、法を理解せず福德の欠けた人は、根本的に法に依れず、人に依るしかない。人に依って正しく依れたなら、それは自分の前世に修めてきた福德であり、因縁の成るところでもある。大多数の人は正しい人に依れておらず、もし正しい人に依れれば、修行は速やかであり、一生何ものにもならないことはないであろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、善根福德の不足により多くの人が法に依れない</h3>人は皆依法不依人を叫んでいるが、法に依れる者はほとんどおらず、人に依る者が多い。仏法はこのように難しく、前世の自分の善根福德も不足しており、法を理解できず、如理に法の正しいか正しくないか、正しい層次と正しくない程度を判断できず、どちらも判断し出すのが難しく、法に依ろうとすれば、それは非常に非常に困難である。それゆえ人に依るしかなく、自分と縁のある人に依り、名声の大きい人に依り、いわゆる公認の人に依る。衆生はここまでしかできず、法に依ることは難しく、これが現在の仏教内の非常に普遍的な現象である。もし人に依るなら、正しい人に依れればそれでもよい。この人の説法の程度を判断でき、正しければ依ればよく、これは人に依るとも言え、法に依るとも言える。法を理解しない依り方は盲目的な依り方であり、大当たりを引くようなもので、すべて大いなる福德に支えられている。
凡夫は確かに法に依って人に依らないことが難しい。では明心以後の人は完全に依法不依人できるのか。明心以後の菩薩は、自分にもっと多くの法が分からないことに気づき、以前は自分がこのように無知であることを一度も知らなかったので、慢心が四溢し、よく人と高低上下を比べていた。明心以後になると自分が実は非常に無知であることを知り、そのとき慌てて急いで修行し、日夜精進し、仏法の中のより多くの奥義を思惟し探索する。それゆえ明心以後もなお塵沙無明惑があり、愚痴もなお甚だしく、完全に依法不依人をすることはできず、とりわけ情執の重い者は、大多が人に依っていて、完全に法に依ることができない。
それゆえ依法不依人は、学仏人一人ひとりができる限り実行すべきである。容易ではないが、多く福德を修めれば、正しい法に依れ、正しい人に依れる。そして正しい人に依れれば、それは法に依ったのと等しい。それゆえ真の善知識である限り、我々はやはり依止すべきである。このような人に依ることは、その人の説く真の仏法に依るのであって、法に依止するのと等しいのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、何を依法不依人というのか</h3>個人崇拝をせず、いかなる一人をも尊とせず、如理如実に仏法を観行 (vipaśyanā-caryā) できるなら、それが依法である。依法は難しく、いくつかの深法は、自分の禅定力が不足して観行 (vipaśyanā-caryā) できず、極大多数の人はこのとき人に依ることを選び、すでに名望のある人に依り、これは大多数がすでに公認した人であり、必ず間違いはないと考える。しかし我々は、大多数が果たして何人であるかを知らず、まして極大多数が何人であるかも知らない。娑婆世界は天を覆い地を満たすほど、一介の凡夫ばかりであり、凡夫の智慧と認知はすべてそれほど当てにならず、まして禅定と智慧の浅い人は、その智慧と認知も当てにならない。それゆえ聖人と絶対真理は投票選挙によって選ばれるものではない。人に依る者はやはり天を覆い地を満たすほど多く、佛陀がどのように我々に法に依るよう告げようとも、智慧と福德と禅定が不足すれば、根本的に法に依れず、人に依るしかない。名声の大きい人に依るのはもちろん栄えがある。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、どうすれば依法不依人を実行できるのか</h3>法とは事実の真相であり、すべての学人は事実の真相に依拠しなければならない。もし自分が事実の真相が何であるかを知らなければ、第一に口を閉ざすことを選び、評論せず、評価せず、是か否かの態度を表明しない。第二に努力して事実の真相を探し発見し、ある法が果たして事実の真相であるかどうかを証明するよう努力し、証拠があって証明する前には、沈黙を選ぶ。
このようにすれば、盲目的に人に依る現象を避けることができる。仏でない限り、誰が説く法にも必ず欠陥と不足がある。人に依ることを選べば、欠陥と不足のところまで依ることになり、このような後果は楽観できない。仏の説かれた法であっても、面と向かって聴聞したのでなければ、中間で輾転相伝され、伝え誤った部分があり、誤伝の現象がある可能性がある。仏弟子としても、できる限り実証しに行き、輾転相伝された法が果たして真実かどうか、道理があるかどうかを見て、真実の智慧が生じていないときは、軽々に評価しないことである。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、人に依ることは道業の進展を誤らせる</h3>もし学仏人が理性なく、智慧なく、名人や名声を崇拝する心理があり、名人の文字を背誦するのを好み、自心を起こして思惟しないなら、自分の思惟は容易に限礙され、思路は容易に阻塞され、後世、後々の世に至るまでこれらの限礙を突破することが難しく、いたずらに自身の道業を誤る。惜しまないであろうか。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、如理な判別の智慧がなければ法に依れない</h3>意識と意根は二人の人間に相当する。一人の人がもう一人の人の心理を観察できないとき、その人にある種の心理がなく、ある種の想法や情緒などがないと断言してはならない。このように言うのは過失がある。それゆえ意識は煩悩の遮障を受けており、転識成智していないので、意根の各種の功能作用を観察することは難しく、観察できないときは、意根に定論を下してはならない。
一つの法を定義する標準が明らかでないときは、二つの法を比較してはならず、甲が乙に適合せず、乙と一致しないからといって、甲は誤りであると言ってはならない。このような判断はあまりに唐突で無理性である。乙は必ずしも標準ではなく、必ずしも正しいとは限らず、甲と乙が一致しないことは、甲が誤りであることを説明できない。
一人の人が智慧高超で、甲を了解し、乙も了解し、また正しい標準が何であるかを知っていれば、甲が果たして正しいかどうかを判断し定論することができ、乙が正しいかどうかも定論判断できる。これを依法不依人という。逆に、法の究竟の標準が何であるかを知らず、甲と乙が標準に適合するかどうかを判別する智慧がなく、一方的に乙こそ標準であると断定し、大衆の公認により、甲が乙に適合しないから甲は必ず誤りであるとする。このような状況は絶対に依人不依法に属し、情執の心理に属し、無明の心理に属する。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、依法不依人はどうすべきか</h3>依法とは、純粋に仏法本来の真実相に依拠して信受することであり、如実に法の正しさと法の誤りを判断でき、正しければ依止修学し、誤りならば迂回して学ばず、しかも輾転して同修の学侶に告げる。法の正誤を判断できれば、人名が著名かどうかを特別に気にかけず、人がどうであるかを構わず、法義のみに注目する。法義が正真であれば、作者が波旬と標注していても、気にかけなくてよい。法義に邪見 (mithyā-dṛṣṭi) が多ければ、釈迦仏の名と標注されていても、興味を持つべきではない。
本当に依法不依人によって無上法を修学したい者よ、もし我々が仏経に波旬の名を標し、波旬の著作であると言い、また波旬の説いた法に佛陀の名を標し、仏経として扱ったなら、あなたがたは中の内容をどう判断するのか。この二種の法義をどう扱うのか。もし我々がすべての文字文章の著作者の名を全部乱し、あるいはすべて無名氏と標したなら、あなたがたはこれらの文字内容をどう扱うべきか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、真理は衆生の狭隘な認知に依って存在するのではない</h3>一切の客観的に存在する事理は、某々の衆生、あるいは一部の衆生、全体の衆生が了解認知するかどうかにかかわらず、また衆生が承認するか否かにかかわらず、客観的事実は事実である。盲人は天日を見ないが、天日がないことを意味しない。それゆえ、たとえば花の美しさの性が存在するか、五塵上の表色・無表色が存在するかなどの法は、衆生の見識と認知によって移転するものではない。真理と客観的事実は、無知な衆生が絶えず探索し発掘する必要があるものであり、探索がなければ発見がなく、発見がないことは客観的真理が存在しないことを意味しない。客観と呼ばれるのは、事実と法則が衆生の個人と集団の意志によって移転しないからであり、衆生に発見と認知する智慧があるかどうかと言えるだけである。
衆生はみな自分の意識を重んじすぎるので、意識が愚痴のとき愚痴を知らず、真理がないと恨む。真理は目の前にあるのに、どんな眼光で見るかが大きな問題である。娑婆世界において、全体の衆生、大部分の衆生が仏法を認識せず、仏法に賛同しないとき、仏・聖者はこの世間に来て法を伝え教を伝えることはない。覚醒したくない衆生は光明を感召できず、たとえ光明が頭上で絶えず照らしていても、なお昏睡して覚めない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、依義不依語はすなわち依法</h3>四依四不依の中に、依義不依語がある。義とは何を指し、語とは何を指すのか。仏が法を説かれるとき、衆生に仏の説かれた法の中の真の義に依り、仏の説法の表面の言語に依らないと告げられた。言語は表面の意味であり、義は暗に含まれた真実の意味である。では仏が法を説かれるとき、なぜ真実の意味を直接説かず、表面の意味の中に自分の真実の意味を隠し秘められるのか。
言語は意識と相応し、浮浅な表面の意味にある。言語文字の背後には、深層の意根が表現したいと思っている意味がある。特殊な状況の下では、ある人は話をしたり文章を書いたりするのに、自分の真の想法を直接表現するのが不便で、望まず、難しく、すべて隠含し暗含して表現するので、聴く者は弦外の音を聴き、文字言語の表面にない背後の意味を理解しなければならない。衆生が表面の意味を理解するのは少し容易であるが、あくまで真実の意味ではなく、まだ究竟ではない。深層の意味は衆生が理解しにくいが、それこそ説く者が本当に表現したい意味であり、我々に告げたいと思っている意味である。
それゆえ仏は般涅槃に臨むとき、弟子に依義不依語を告げ、衆生に究竟義に依らせた。究竟義は仏が表現したい真の意味である。もし衆生が言語の表面だけで理解し文章を作るなら、仏の真の意味を理解していないのであり、仏の真実の義を曲解したのである。
普通の人が話すにも、明指と暗指がある。明指は表面の意味であり、暗指は真の意味である。明指は意識が言語文字で表現したものであり、暗指は言語文字の背後の真の用意である。なぜ自分の真の想法と用意を直接表現しないのか。いくつかの場面では、いくつかの想法は直接表現できない。一つには相手が受け入れられない、理解できないことを顧慮し、相手に誤解されるのを恐れるから。一つには方法と策略の問題であり、人を啓発して深く考えさせ、自分で深細に思惟して得た答案のほうが、より受け入れられ、智慧がより深いからである。
言語芸術を講じる人は、このように善巧方便である。仏の説法でさえ、時には比較的間接で、心中の真実の義を直接表現しないことがある。一つには衆生が理解できない、あるいは誤会を生じるのを恐れるから。一つには衆生を導いてより深く思惟させ、自分で結論を出させ、それによって智慧と信心を増長させるためであり、とりわけ異なる根基の衆生が混じり合っているときは、なおさら深義を直接表現してはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、凡夫衆生が口にする依法不依人はただのスローガン</h3>今の人はみな定 (samādhi) を修めず、定 (samādhi) をうまく修めず、口先だけで遊び、二冊の本を読み、意識で理解しただけで自分は悟ったと思い、解悟にすらならないのに、自分は証悟だと言う。それゆえ末法の時期の衆生に、意根と意識の区別を了解させ、大衆に何が解悟か、何が証悟かを知らせ、衆生の大妄語を避ける必要がある。
末法の時期の乱象は非常に深刻であり、衆生の情執は深重で、口では常に依法であって人に依るなと言いながら、実際は正反対である。もし衆生が皆如理如法に修行し、本当に依法不依人なら、スローガンを少なく叫び、実際のことを多くし、できる限りやり遂げるべきである。本当に仏の所説に依れば、仏もいくらか心が寛ぎ、仏に違逆せず、教に依って奉行することは、仏恩に報いるのと等しい。情執を少し降伏すれば、事実の真相が少し見え、道業を重んじ、情執を重んじないことである。情執は人を救えず、各人の業は各人が受け、誰も誰かを代替できない。
もし心を大きくでき、精力が充実しているなら、仏教を重んじ、衆生の生死を重んじるべきである。そしてまず佛陀の恩を知り、佛陀の恩に報いる方法を考え、話や行いで佛陀を傷つけ悲しませないことである。如来蔵 (tathāgatagarbha) は刹那刹那に種子を蓄めており、我々が話をし事を行う、身口意行のその一つひとつの当下において、如来蔵 (tathāgatagarbha) が監督し記録している。それゆえ我々は必ず如来蔵 (tathāgatagarbha) を畏れ敬い、因果を畏れ敬わなければならない。口頭で高らかに叫ぶだけで、実際はそうでないことがあってはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、衆生は盲信のゆえに法に依れない</h3>一切の法を自ら証得でき、現量で観察できること、これは何よりも重要である。たとえ佛陀が親口で説かれた言葉であっても、自ら観察し実証して、はじめて最後に疑いなく確認できる。自分で自ら証験した理は事実であり、事実は佛陀の言葉より信頼できる。そして佛陀の親口の所説は流伝する仏経より信頼できる。なぜなら仏経はすでに他の口と他の手を仮りており、転述に属するからである。仏経は等覚菩薩の論より信頼でき、等覚菩薩の論はその他の菩薩の論より信頼でき、その他の大菩薩の論は凡夫の言葉より信頼できる。結局のところ、経論がどれほど信頼できようとも、実証ほど信頼できるものはない。
しかしながら現在、たとえ佛陀が自ら法を伝えに来られても、すべての衆生は仏経しか信受できず、佛陀の親口の所説を信受できない。なぜなら佛陀が世に降臨されたことを知らず、自分に法義が正真かどうかを弁別する智慧がないので、その信は盲信・崇信であって、証信でも真信でもなく、仏の名声と威望を信じるだけである。もし衆生が佛陀が自ら娑婆世界に法を伝えに来られたと信じるなら、衆生は仏陀の相貌を現した佛陀の所説を信じ、必ずしも仏経を信じなくてもよくなる。たとえ仏経が非常に正真であっても。これはまた、衆生が佛陀およびその所説に対して盲信と崇信であり、証信ではないことを示している。もし仏陀の相貌のある人の説く法を信じるなら、波旬が仏陀の像を現して法を伝えに来たら、どう扱うべきか。それも完全に信じ、それからひっくり返されて生死の中に沈淪し、解脱を得られなくなる。
それゆえ言える、千言万語、実証だけが最も信頼でき、事実だけを信じ、真理だけを信じること、これがすべての人が依従すべき準則である。真理を証得することは極めて難しく極めて難しいことであり、極めて大きな福德と智慧が必要である。それゆえ衆生はやむを得ず他の口の所説を信じるしかなく、これもやむを得ない挙である。それゆえまた佛陀は去られるとき、弟子たちに千叮咛万囑咐し、必ず四依四不依でなければならないとされた。この四依四不依がきっと極めて実行困難であり、ほぼ百分之九十九の人は実行できないことが見て取れる。福德、禅定と智慧の欠落のゆえである。
一方、実証を信じるべきだと言うと、一部の我慢深重の人がいて、自分の推論と所解だけを信じ、これは自分が実証したものだと考え、もはや実証者の所説を信じなくなり、ますます慢心が強くなり、ついには自欺欺人に至り、最後にはやはり法利を得られない。末法時期の学仏の現象は、仏が来られても対応が難しく、衆生は左か右か、盲従か我慢による過信かで、智慧の不足した人は適切な尺度をつかむことが難しく、比較的適切な度合いを把握することが難しく、まさに「世医拱手(世の医者も手を拱くばかり)」と言えるほどである。
根本のところがひどく誤っていれば、枝葉の正誤はもうどうでもよくなる。開悟せずに唯識を講じるのは一種の笑談であり、開悟の智慧でも唯識をうまく講じられず、唯識に対して修証がなければどうやって唯識を講じるのか。現今世界の唯識は、もし後世に流伝され、もし当人に名聞と権威があれば、後世の人はまた五体投地して崇拝し、真に修行する広大な仏子がどれほど誤られるか分からない。世人は往々にして、名聞のある大徳の著作はすべて正確無誤であり、唯識を講じられる人はすべて修証のある人だと錯会する。衆生の無知はまさにここにあり、救いようがない。
もしこのような唯識を宣伝し修学するなら、宣伝すればするほど罪責は大きく、学べば学ぶほど解脱を得られない。修行の道は険しく、各種の罠に出会う。多く福德を修め、智慧を増長することが最も切要である。後世に至れば、これらの説法はすべて古文となり、人は往々にして古を崇める。もしこのような誤った古文を崇拝するなら、人を害するではないか。世に何人の開眼した人がいて、古文の正誤と是非を弁別できるのか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、生公说法顽石点头</h3>道生和尚はこんな一言を残した:一阐提人也能成佛。仏経の依拠と証明がなかったため、皆はこの説は誤りだと考えた。しかし生公和尚は自説を堅持し、改めようとしなかった。そこで衆人は彼を僧団から追い出した。やむを得ず生公はこの道理を石に講じたところ、結果石は感動して頷いた。まもなく大涅槃経が西インドから中国の震旦に伝わり、その中で仏は一闡提の人がすべての無明業障を消除した後、成仏できると説き、道生和尚の所説が正しかったことが証明され、彼はようやく僧団に受け入れられ、再び僧団に戻った。見て取れる、正真の法は、仏経を依拠としなくても、それでも真理であり正見であり、真理は人々の意志によって移転するものではなく、仏の説でなければ真理でないということも必ずしもないのである。