仏法雑談(第一部)
いわゆる福とは、他人のため、団体のために事を行い、代償を払って得たものである。外に向かって付出すれば、報いを得ることができる。外に向かって付出し、他人を利益すること自体がすでに徳であり、仏法ではしばしばこの二者を連結して呼ぶが、世俗法と仏法修学における福徳には、やはり差別がある。例えば雷鋒が福を修め、衆生のために善事を行ったとしても、このような福徳は世俗法の中でしか享受できない。彼は仏法において善業を種え、因縁を種えていないので、仏法とはまだ縁がなく、仏法において利益を得ることができず、種子がなければ収穫もない。
一方、仏を学ぶ人は、世俗法において福を種えるだけでなく、仏法においても福を種える。三宝に帰依し、三宝を供養し、戒定慧を勤修することは、福を修めることでもあり、徳を修めることでもある。このような福徳は世俗法の中で享受できるだけでなく、仏法においても享受できる。福徳があれば、仏法における修行が非常に速やかになり、道業の増進が速い。福徳は私たちが仏道を成就する基礎であり、道糧であり、資糧である。福徳がなければ、仏を学び修行しても一事も成し遂げられない。それゆえ菩薩は修行において菩薩六度を修めるべきであり、第一度は布施による修福である。開悟の前には布施修福が必要であり、悟った後にも布施修福が必要であり、初地に入った後も、さらに布施修福をしてこそ、道業は絶えず増進できる。福徳がいかに重要であるかが分かる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、布施とは慳貪心を捨てることである</h3>いわゆる布施とは、最も重要なのは自分の慳貪心を布施することである。慳貪心があれば、必ず貧窮の果報を得る。誰が最も貧窮かというと、もちろん餓鬼が最も貧窮である。餓鬼は腹が鼓のように大きいが、咽喉は針の穴のように小さく、一切の飲食を口に入れることができず、ただ飢えるしかない。喉が渇いて川の水を見て飲みに行こうとしても、福が薄い缘故で、川の水はたちまち火に変わり、口に飲むことができず、喉の渇きの苦しみに耐えるしかない。このような貧窮の果報では、どうして菩薩になれ、菩薩道を行えようか?
菩薩は大福徳の人であり、生生世世、人の中、天において菩薩となり、果報は非常に殊勝である。人の中では人王となり、天では天王となり、転輪王となり、大鬼王となり、慈願力によらない限り、決して三悪道に堕ちない。菩薩の果報は、すべて生生世世、累劫にわたる布施の結果である。それならば、慳貪心は菩薩心と相応せず、慳貪心がある者や慳貪心の重い者は、菩薩になることができない。どれほど参禅に功夫しても、明心開悟することはできない。だから菩薩になるには、まず布施行を行い、自分の福徳を修集し、福徳資糧で自分を荘厳しなければならない。
布施行をよく修めた菩薩は、心心念念とも衆生を利益したいと考え、相手の立場に立ち、布施に慣れている。もし哪日、衆生に布施せず、衆生を利益しなければ、心が安らかでなくなる。菩薩は衆生とまだ会っていなくても、「私は彼に何をもたらせるだろうか」と考える。このような菩薩こそ大福徳の菩薩であり、生生世世、物質生活に恵まれ、常に衆生の首領となる。このことから見れば、修行において布施を軽視してはならず、布施をしないでよいということはなく、布施こそ最も実際的な修行であり、実修と名づけられる。菩薩道を行く人は毎日、自分が布施行を修めたかどうかを点検すべきである。そうすれば、道業は速く増進する。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、衆生に仏法の種子を種える果報</h3>衆生は仏法において少しでも善根を種えれば、それは種子として心中に存在し、永遠に消えることなく、将来仏道を成就するまで続く。この点の種子は、非常に大きな大木の種子のようなもので、種子は微小な一粒にすぎないが、種えてから徐々に天を衝く大樹に育つ。実に不可思議である。
仏法において善根を種えるのもまた同様である。仏は法華経の中で、衆生が一句「南無仏」と念じ、あるいは一たび頭を下げ、一たび微笑み、一たび合掌するだけで、皆共に仏道を成すと言われた。昔、一人の老人が出家を求めたが、阿羅漢たちは許さず、彼は八万大劫の間、善根を種えたことがないと言った。釈迦仏はこれを知って言われた。この老人は八万大劫以前に善根を種えたことがあり、出家して道を修めることができる、と。阿羅漢の神通では八万大劫以前のことを観察できない。当時この老人は樵夫で、一頭の虎に追われ、木に登って「南無仏」と一声叫んだ。この善根によって、八万大劫後の今日、出家して道を修めることができたのである。老人は出家した後、精勤に修行し、まもなく道果を証した。
仏は経の中で、釈迦仏の仏法において善根を種えた衆生は、将来弥勒仏が降生する時に人身を得、弥勒仏の三転法輪の中で、皆道を得ることができると言われた。前提条件は人身を得ることであり、もし三悪道にいれば、機会は大きくない。それゆえ衆生は三宝に帰依したか否かにかかわらず、仏・経・呪を念じ、仏に頷き、微笑み、合掌礼拝しただけで、すでに善根を種え、仏法と縁を結んでおり、将来必ず度される。
しかし三宝に帰依してこそ、修行は速やかになる。特に内心における真の帰依であり、形式を踏むことではない。真の帰依とは、内心の奥深くで三宝を依り所とし、深心に依頼し、信受して疑わないことである。信根がすでに確立され、信行が円満になれば、住位の修行に入る。真の帰依は、三宝護法の最大の加持力を得ることもでき、道業の進歩は速い。
私たちは同僚や親族の中で、縁ある人を見かけた時には、善巧方便をもって彼らに少し善根を種え、成仏の種子を種えるべきである。もし子供であれば、「仏を一声念じたら、飴を一つあげるよ」と言ったり、「仏を一拝したら、どんなご褒美がもらえるよ」と言ったりして、子供たちを導いて仏法において善根を種えさせ、種子を種えさせることができる。成人の場合は、挫折や病気の苦しみに出会った時に、少し因果を説いてやればよい。相手がどこまで受け入れられるかを観察し、度を過ごしてはならない。度を過ごせばかえってよくない。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、多く他人を利益し、多く善根福徳を種える</h3>永明延寿禅師はかつて自分に日課を定めた。一日一善を行うことである。彼の一善は要求される基準が比較的高く、私たちにはできない。しかしできるだけ速く福徳資糧を積み、菩薩の精神的品質を養い、早く菩薩性を具え、早く見道するために、私たちは基準を少し低く定めることができる。一言を発して他人を利益し、人に一つの正理、正知見を認識させ、他人の心の中の疑難や苦悩を解決すれば、この善行はすでに完成したのである。種子は如来蔵の中に種えられ、縁に出会えば受報する。必ずしも来世である必要はない。二人の如来蔵がそれぞれ記録を行い、二人の意識心は異なり、意根の執著も異なるので、なされた記録にも差別がある。他人を利益する心が発せられれば、それ自体ですでに福があり、まして自ら行えばなおさらである。真の菩薩になりたい人は毎日自問すべきである。私は今日、他人を利益しただろうか?
<h3 style="text-indent: 2em;">五、自分の福徳が具足しているかどうかをどのように点検するか</h3>自分の福徳が具足しているかどうかを点検するには、自分の修行が順調かどうか、障害があるかどうかを見る。修行は自分の意志のままにできるか、十分な時間と環境条件があるか。自分がやりたいことは、制限を受けずに自分で決められるか。戒を持ちたいと思えば、円満に持戒できるか。精進したいと思えば、精進できるか。定を修めたいと思えば、障縁がないか。智慧は絶えず増長しているか、修める法は思うままにできるか。出会った深法を堪忍できるか、意楽を感じ、随順したいと思うか。
もし菩薩六度の修行がすべて順調で障りがなければ、福徳は基本的に足りているので、精力を他の不足している方面に転じ、六度波羅蜜をすべて具足円満させればよい。もし仏に対して、真の如来蔵法に対して、真の僧に対して、信心がまだ具足せず、内心に疑いがあり、確信できないならば、信位菩薩の条件はまだ満たされておらず、三宝に対する信心を修め、信根を具足し、信力を生起させてから、十住位に転入して六度波羅蜜を修行する必要がある。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、誰の得る福徳が大きいか?</h3>舎利弗が釈迦仏を供養することと、釈迦仏が舎利弗を供養すること、どちらの得る福徳が大きいか?二人が同じ人に同じく一元を布施した場合、誰の得る福が大きいか?一人が二人にそれぞれ一元を供養する場合、誰を供養した方が福が大きいか?これらの福徳をどのように衡量するのか?一人が異なる心境で同じ人を供養する場合、いつ福が大きく得られるのか?
布施の時、心が無為であればあるほど、無所求であればあるほど、得る福は大きい。仏が布施される時、心は最も空で、最も無所求であり、得る福は最大である。舎利弗が布施したのは仏という最も殊勝な福田であるが、それでも心の空に及ぶ福の大きさではない。一切の聖賢は皆無為法をもって差別がある。小乗法の無為を証得することと、大乗法の無為を証得することでは、その無為の層次に大きな差別がある。同じ大乗法を証得しても、智慧の程度が異なれば、無為の層次も異なる。世間の一切の差別相は、心の差別である。心をよく修めさえすれば、一切は構わず放っておいても、自然に得られる。得たいと思わないほど多く得られ、得たいと思うほど少なく得られる。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、修行人は福報を少なく消耗すべきである</h3>真に善根のある人は、福徳が大きいため、今世に隔陰の迷があり、自覚せずに自分の福報を享受してしまう。仏菩薩および護法神は、彼が自分の福報を享受するのを阻止する。一つには、彼が仏門に入って修行しなくなることを恐れるためであり、二つには、福を享受しすぎると福徳が損なわれ、仏法において利益を得ることができず、大きな進歩ができなくなるからである。
だから私たちは仏を学び修行するにあたって、ただ快楽を求めるだけでなく、自分の福徳資糧、戒定慧資糧を多く養う方法を考え、これらの資糧を円満させてこそ、相応の道果を得、真の法益を得ることができる。さもなければ、毎日自分の口舌を売り弄するだけで、食を説いても腹は満たされない。仏法がどんなに素晴らしくても、それはあなたのものではない。たとえ本来は仏であっても、あなたは凡夫でしかありえず、生死輪回は絶えない。
福徳を積むのは容易ではない。心の中の貪吝の慣性の勢力は大きい。だから普段から、福徳を消耗しないように、あるいは少なく消耗するように注意し、さらに福徳を損減しないように注意し、できるだけ多く他人のために付出し、他人に自分のために付出させないようにすべきである。多く他人を恭敬し、他人を軽視蔑視しない。人として至る所で優位に立とうとせず、柔軟語を多く言うべきである。特に父母や師長を怒らせてはならず、父母や師長に多く孝順すれば、福は多くて速く得られる。福を得る最大の方面は供仏修福である。だから私たちは毎日、供仏・修法・敬僧を堅持すべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、功徳と福徳の区別</h3>問:梁武帝が仏寺を建てて僧を供養したところ、達磨祖師は功徳がないと言った。それは福徳ということになるが、どうすれば功徳があることになるのか?
答:功徳は性徳であり、心性の方面に備わる徳能である。例えば煩悩を降伏することは功徳であり、心を無漏にまで修めることは功徳である。智慧を得ることは功徳であり、戒定慧の三者がいずれも増進し、円満に趨向することは功徳であり、あるいは具足円満して、自ら受用できるだけでなく、他人にも利益を得させることができる。これが功徳である。一般に、功徳は退失しにくく、成仏に至るまで受用し尽くすことがない。一方、福徳は多くの場合自受用であり、享受し尽くすことができ、滅壊することができ、究竟のものではなく、福徳を利用して悪業行を造らないことを保証することもできない。功徳は心を漸次清静に転じさせ、福徳もまた増長させる。もし福徳と功徳を同時に得れば、福徳は牢固になり、絶えず増長していく。
そうはいっても、福徳も修めるべきである。福徳が足りなければ、功徳も現れにくく、二者は相輔相成である。しかし修めて得た福徳を世俗法の享受に用いてはならず、人天福報を求めず、この福徳をすべて仏道成就に回向すべきである。多く功徳を修めたいなら、戒定慧を勤修し、貪瞋痴を熄滅し、広く菩薩道を行じ、三蔵十二部経典を受持読誦し、参禅習定し、止観双運し、定慧等持し、我見を断除し、明心証悟を期求し、地地に増上して進修し、円成して仏果を成す。これらはすべて功徳であり、しかも大功徳であり、功徳が円満するまで続け、仏果を成就する。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、如来蔵銀行への預金と引き出しとはどのようなものか?</h3>修行人は毎日、如来蔵という銀行に預金すべきである。経を念じ、仏を念じ、呪を念じることは預金であり、定を修めることは預金であり、忍辱は預金であり、仏法を思惟することは預金であり、煩悩を降伏することは預金であり、帰依持戒は預金であり、経を聴き法を聞くことは預金であり、財物を布施することは預金であり、他人を利楽することは預金であり、菩薩六度万行はすべて預金である。
享受を貪ることは引き出しであり、飲食遊楽は引き出しであり、世間の一切の所需は引き出しであり、金を稼ぎ経営することは引き出しであり、自分のために消耗することは引き出しであり、戒行に違犯することは引き出しであり、他人を侵犯することは引き出しであり、貢高我慢は引き出しであり、人と利益を争うことは引き出しであり、他人の利益を得て報いようとしないことは引き出しであり、自己を誇示することは引き出しであり、人の讃嘆を喜ぶことは引き出しであり、人の供養を受けることは引き出しであり、父母師長に孝でないことは引き出しであり、一切の悪行は引き出しである。要するに、利己的で自分さえよければよいということが引き出しである。
多生多世にわたって修めた福徳も、一世の帝王将相になれば、すべて消耗し尽くす。修行によって得た福徳も、天に昇って一度福を享受すれば消耗し尽くして無くなる。預金の時に心が甘んぜず望まず、金銭が他人の私嚢に入ったと思って自分が損をしたと考え、やっとのことでしぶしぶ預金し、福を修めたのに、結果は一世半生で耗用し尽くし、また貧乏人となり、最初から福を集め直すことになる。本当に修行を分かっている人は、多く預金し、少なく引き出す。金銭は足りればよく、あまり稼ぐ必要はない。どれだけ稼いでも、それはすべて自分の如来蔵銀行から引き出したものであり、外から得たものではなく、命中に本来有ってこそ稼げるのであり、命中になければ、どれだけ努力しても労して得るものはない。才を懐きながら遇されない文人墨客がどれほどいるか、また精明強幹な能人がどれほど一生潦倒し、内心憤り不平を述べ、運命の不公を嘆いているか。実は前世で福徳を種えていないのであり、どれほど才幹があっても無益である。
福を種え福を惜しむのは智者のなすことであり、享受を貪るのは愚者の行うことである。生活は暮らしていければそれでよく、人と豪富を比べず、金銭や財は人を利するために用いる。人を利するのはすなわち自分を利することであり、一元を布施すれば、少なくとも千倍の預金が自分の如来蔵銀行に入り、三宝に布施すれば無量倍の預金が如来蔵銀行に入る。何を躊躇うことがあろうか。富人かどうかは、現世の目先の享受を見るのではなく、如来蔵銀行の中の預金の多少を見るべきである。ある人が、高級な家に住み、豪華な車を運転し、高級な服を着て、放蕩三昧で、銀行カードには金がないとすれば、まもなく窮困潦倒する。この人は富人とは名づけられない。逆に、大富長者は、衣食を倹約し、一切の所有をもって衆生を利楽する。富を顕さなくとも、預金は無量である。智者は思うべきである。臭い袋一つに、何の楽しみがあろうか。一切の所行は仏道成就のためであり、無我無私、究竟こそが楽である。普く衆生に勧める。菩薩行を行じ、心に小さな愛なく、大愛は無我であり、衆生を利楽し、早く仏智を円成せよ!
<h3 style="text-indent: 2em;">十、福徳不足の表れ</h3>仏を学ぶ人の福徳が足りなければ、修行の時に雑事の干渉があり、これは福徳不足の表れである。この時は福を修めることを考えるべきである。福徳が不足すれば、修行の進展は緩慢で、労多くして功少なし。世俗法の中で生きていくにも、福徳が不足すれば一事も成し遂げられない。仏を学び修行するという生死の事は、天下で最も大きな事であり、如来蔵銀行に預金がなければ、修行は順調にできない。どれほど大きな事を成し遂げたいなら、相応の預金がなければならない。福徳が不足すれば、どんな願いも実現できない。仏になりたいなら、仏のような大きさの福徳が必要である。八地菩薩になりたいなら、八地菩薩の福徳が必要である。初地菩薩になりたいなら、初地菩薩の福徳が必要である。明心開悟したいなら、十住位菩薩の福徳が必要である。福徳がなければ、一歩も進めない。
福徳が不足すれば、定力を修持して上げるのは非常に難しい。こちらで座禅を組むと、人や事が現れて干渉し、処理に行かざるを得なくなる。こちらが入定しようとした途端、あちらで干渉が現れ、やはり了別し処理に行かざるを得ない。反観して点検してみよ。各自はどの方面で絶えず福徳を消耗しているのか。反観できれば、自分の福徳を軽々しく浪費しないよう注意し、道業を速やかに増進させるべきである。現代社会は物質生活があまりに発達しているが、これは今の衆生の福徳が大きく、仏の在世時の衆生の福徳が小さかったことを示すのだろうか。世人は軽々しく福徳の種子を現金化して享受に用いるが、それは実に無智である。智慧のある人は往々にして福徳を修道のために残しており、現金化して世俗法となし、享受し誇示することはない。
多くの人が世俗法の生滅するものを誇りとし、それを誇示の資本とすることを好む。例えば、自分は某高官である、自分は某の地位や権威を持っている、あるいは自分は某であり無比の巨富である、自分は某の才能がある、自分は某の優れたところがある、などなど。これらはすべて世間の虚幻の法であり、牢固ではなく、まもなく滅し、あっても空である。世人は空を体得することが難しく、有だけを知っている。
過去、禅宗の祖師は自分の宗門を継ぐ弟子を探そうとし、弟子の見解を問い、開悟しているか、智慧があるかを観察した。結果、弟子が口を開いて話すと、師父は悟っていないと分かり、こう言った。お前は福が薄く、我が宗を継ぐことはできない、と。祖師の意味は、智慧が不足する重要な原因の一つは福徳の不足であるということである。私たちの思惟が乱れて明晰でないのも、常に自分自身の原因を探してみるべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、修福と菩薩心性</h3>菩薩心性のある人は成就が速い。これは多生累世の修行の結果である。修行をより速やかにするために、私たちは皆大心を発し、自利利人の菩薩行を修めるべきである。菩薩の心性は無我であり、無我は菩提と相応するので、速やかに菩提を証得できる。有我であることは、障道の根源である。もし一人の人が心心念念とも個人の利益のために修行し、仏教と衆生に関心を持たず、他人に関心を持たなければ、福徳は蓄積しにくく、智慧は増長しにくく、修行は非常に緩慢になる。ある人々は福を修めるように勧めても、どうしても修めようとせず、結果、長く学び、多くの精力を費やしても、知見は依然として哀れなほどで、正路に上がれない。修福は仏を学ぶ出発点であり、仏法を証得する基礎であり、非常に重要である。それでもなお福を修めることを望まない人がおり、福を修めれば損をすると思っているが、福を修めないことこそ大損であることを知らない。
布施修福において、どの場所で福を修めるかを選ぶことも非常に重要である。穀物を収穫したいなら、田んぼで種子を種えるべきであり、菜園で稲の種子を種えてはならない。大乗法において福を修めてこそ、大乗法を証得できる。真の仏法において種子を種えてこそ、大小乗法の実りを収穫できる。もし専ら福徳を修めるなら、布施行を修めるべきであり、財布施、法布施、無畏布施を含む。
布施は三宝の供養だけでなく、衆生に対する三種の布施を含む。財布施とは金銭や物品の布施である。法布施は、自分が仏法を証得していなければ、間接的な法布施を行うことができ、このように福徳を積むのも速く、より多くの衆生に大乗仏法を理解させることができ、自分の福徳も速やかに集まり、知見も速く確立され、見道も速い。無畏布施とは他人の苦悩や憂いを解決し、他人に後顧の憂いを持たせないことである。この三種の布施をある程度まで行えば、福徳は証果と明心見性に足るまで集まり、凡夫位から脱することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、菩薩は道業のために軽々しく福を享受してはならない</h3>菩薩は軽々しく天に昇って福を享受することを選ばない。衆生を度する方便のためである場合を除く。菩薩は人間にいる時、衆生を度する必要のため、あるいは仏法を護持する必要のためでなければ、大富貴の身を現さない。一般に、富貴の相を現さない。福報は消耗が速く、道業の増進が緩慢になるからである。過去、悟道した禅師は皆国王になることができたが、国王になりたがる人はほとんどいなかった。それは自分の福報が速く消耗することを恐れ、修道にも不利で、道業が大きな障害を受けるからである。今の人は、小さな課長になっただけで慢心が非常に重いが、私たち菩薩は天主さえなりたがらないことを知らない。
真の大富貴の人とは、如来蔵の銀行の中に数えきれない預金がありながら、軽々しく如来蔵から引き出して享受しない人を指す。三宝への布施、仏法の護持は別であり、これはまた如来蔵銀行への預金であり、しかも極めて高額な利息のつく預金である。如来蔵の中に財富が少ないか、財富の種子がなければ、依然として貧窮の人に属する。特に善業の種子と仏法修持の種子がない人は、なおさら貧窮の人である。だから仏を学ぶ人は、生活が暮らしていけるのであれば、足るを知るべきであり、財富をすべて引き出そうとする方法を考えるべきではない。すべて引き出さなければ、大部分は如来蔵の中に残り、永遠に自分のものであり、誰も持ち去ることができない。しかも如来蔵銀行は決して倒産せず、世界で最も安全な銀行である。神様は世間の中にいないからである。もし神様が世間の中にいるなら、間違いなく倒産の危険もあるだろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、布施もまた仏恩への報いである</h3>各自の我執は非常に重いが、仏を学び、世間の真実相を認識してこそ、我執は徐々に消融できる。前世で仏を学んだ期間が長い人もいれば、短い人もあり、それによって衆生の根基は異なる。しかしどんな根基であっても、仏法の中に入ったならば、他の衆生に先んじて覚った人であり、幸運に感ずべきである。私たちの後ろには、無数また無数の衆生がおり、人身さえ得られず、まして仏法に触れる機会はなく、苦難は辺際なく尽きることがない。私たちが成仏する時、彼らがどのような生存方式の衆生であるかさえ分からないだろう。だから私たち仏を学ぶ人は悲憫心を生起すべきであり、自分を憐れむだけでなく、衆生をも憐れむべきである。もし衆生を救度する心を発起できれば、自分の修行は速やかになる。
できるだけ多く福徳を修めるべきである。福徳が多くなければ、道業は進歩できず、智慧も増長できない。どれほど多くの人が福を修めることを重視せず、仏を学んで久しいのに、仏法の知見が依然として浅薄で、智慧が少しも進歩しないのは、根本的な問題が福徳の不足にある。積極的に福を修める人は進歩が速く、智慧の増進も速い。福を修めることが自分に有利か、それとも福を修めないことが自分に有利か、皆さんよく考えてほしい。
仏は福慧両足尊であり、成仏においては福徳と智慧のみが強調され、二者は相輔相成し、一つも欠くことができない。福徳と智慧は双子の兄弟であり、分離できない。各自がある程度まで修めると、福徳が足りなくなり、往々にしてあるところで行き詰まり、停滞し、退転する人もいる。これは私が一部の仏を学ぶ人を観察して得たことである。
仏法の修学には次第がある。相を破って布施し、相に住せず布施し、布施の果報を執著しないことは、凡夫には到底できない。もし布施の果報を執著することを恐れ、相に着した布施を恐れて、布施しようとしなければ、永遠に福のない凡夫でいることになる。明心してから、一定の果位に修めてこそ、徐々に無相布施ができるようになる。凡夫位では、布施は必ず相に着するものである。しかし相に着しても構わない。布施は結局福を得ることができ、福徳があれば道を得ることができる。これが最も重要である。
私たちは大乗法を修学するので、阿羅漢のように自分のことだけを顧み、衆生の苦を考慮してはならない。阿羅漢たちは皆自了漢である。自分の苦を了することができ、輪回から出る能力があるにもかかわらず、仏に焦芽敗種と呵責され、無為の坑に堕ち、仏法の根苗を生じ育てない。もし皆が阿羅漢のようであれば、この世界の衆生は誰が救うのか?私たちは皆仏菩薩に救度していただいている。阿羅漢は法を伝えず、菩薩も法を伝えなければ、衆生は永遠に生死苦海の中にあり、出る期がない。
私たちが得た滴水の恩は、すべて仏菩薩からいただいたものである。衆生は六道の中で輪回しており、皆菩薩に救われる必要がある。もし菩薩が法を伝えて人を度さなければ、私たちには仏法に出会える日が来ない。私たち皆、こうありたくはないはずである。ならば心を以て心を比べ、心の中に常に他の衆生の苦を思い、常に方法を考えて他の衆生を助け、苦悩を解除すべきである。これこそ仏菩薩たちの自分への関照を無駄にせず、自分を救いうる仏法に出会ったことを無駄にせず、仏菩薩の恩徳に報いることができるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、放生は消業と修福の代わりにはならない</h3>放生の後、生死輪回という事は改められるだろうか?三宝を誹謗した後、命終して地獄に堕ちるが、放生で地獄の果報を避けられるだろうか?他人に一万元の借金があり、放生の後、債は消えたのか?放生の後、証果と明心見性はできるか、極楽世界に往生できるか?前世と今世に殺した衆生との怨結は解けたのか?
一種の善行はすべての善行の代わりにはならず、まして清浄行の代わりにはならない。清浄行こそ心を清浄にし、それによって染汚心を消除し、染汚業種を改変し、果報を真に改変することができる。無所求であることは清浄行であり、貪らず瞋らず愚痴でないことは清浄行であり、無明を離れることは清浄行である。もちろん放生して善を行った後は、衆生と善縁を結び、福徳が増加し、戒定慧の増進を支え、心が清浄になり、証果と明心に資する。福徳が増加すれば、悪業は当面現前しないかもしれず、冤親債主も自分の徳行を敬服して、債の取り立てを締めなくなり、障害もなくなり、法を学び道を修めるのが順調になる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、仏法の修証には極めて大きな善根福徳が必要である</h3>仏法は証し難く修め難く、衆生が三大無量劫を修行する必要がある。もし仏法が容易に理解でき、容易に修め、容易に証せるなら、衆生は三大阿僧祇劫修行して初めて仏道を円満成就する必要はない。もし仏法が容易に理解できるなら、仏は衆生に相当程度の善根福徳と戒定慧があることを強調されなかっただろう。三蔵十二部経を、五遍読んだ人もいるが、仏法の縁には触れず、悟道の影さえ遠く望むこともできない。衆生は無量劫、迷惑顛倒し、虚妄の世間法に浸っており、甚深の仏法を理解するのは本当に容易ではない。
仏は四十九年法を説かれ、涅槃の時に、なお無数の衆生が仏法を一知半解しており、一知半解すらない者さえいた。阿難は、衆生の愚痴で度し難く、仏法を誤解することを見て、仏の涅槃後一百年に、自らも娑婆世界を離れざるを得なかった。本来、禅定力と福徳によって長く長く住世し、佛陀に代わって衆生を教化することができたのである。仏の涅槃後、一人の老和尚が小和尚に教えて、解脱道の法を「水老鶴」と念じさせていた。阿難が訂正させたが、老和尚は訂正せず、かえって阿難が老いぼれて仏の説かれた法をはっきり覚えていないと言った。そこで阿難は悲しみ、娑婆世界を離れたのである。
何度も何度も強調して、皆に多く福を修め、多く善根福徳を養うように言うが、福を修め、善根福徳を養おうとする人は多くない。だから仏法が分からないのはあまりにも当然であり、仏法は福を修めようとしない福のない人に容易に理解し証得できるものではない。仏法を証得するには大福徳が必要であり、大福徳があってこそ大智慧がある。小根小智は、甚深の仏法とは確かに相応しない。世間法の成就にも福徳が必要である。まして生死に関する出世間の大事においてはなおさらであり、自分の無量劫の煩悩を解脱する大事においてはなおさらであり、まして仏道成就というこの上なく不可思議な大事においてはなおさらである。心の中に自分しかおらず、自利だけを考える人が、どうして無我性の如来蔵大法と相応しえようか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、三宝をどのように供養するか?</h3>三宝の供養の福徳は最大である。仏への供養は、第一に毎日真心から仏に素食を供することであり、形だけの供養にしてはならず、真仏として供養すべきである。このようにして得る福徳は、応化身仏を供養する福徳と同じ大きさである。素食であれば、生でも熟でも、野菜、穀物、油を含め、すべて仏に供することができる。
第二の仏への供養は、念仏である。念仏の無量功徳は、応化身仏の無量功徳を念じるだけでなく、最も重要なのは法身仏を念じ、自性仏を念じることである。人人は皆自性仏を持っており、外仏を念ずることは自性仏を念ずることに及ばない。外仏を求めるより、自分の仏を求める方がよい。神様は何でもあなたに提供してくれる。外仏に帰依するより、自性仏に帰依する方がよい。自性仏はあなたを導いて輪回から抜け出し、涅槃の彼岸へ至らせてくれる。
毎日真如の体性を探求し、神様の功徳を学び、神様を了解し、神様を尋ね求め、神様を参究することは、すべて念仏であり、最後には念仏三昧を成就し、明心見性できる。すべての供養はこれに過ぎるものはなく、すべての念仏の方法の中で、このような殊勝なものはない。念仏して成仏する、法身を念じてこそ成仏できる。外仏だけを念じても、成仏できない。法の供養とは、毎日仏の経典を学び読誦し、仏経の義理を思惟し、真実義を探求し、世尊の教えに従って行うことである。一切の供養の中で、法供養が最も勝れている。僧の供養とは、僧は和合の義であり、僧宝の身口意行に対して清浄であり、如理如法に四事供養し、僧人の正しい如法な教えに従い、出家の師父の如理の教えに違わず、僧団の和合を維持し、僧団の正法弘通を護持し、天下の大衆を利益することである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、三宝供養の福は無量無辺に大である</h3>出家者の戒律に一坐而食というものがある。食事の時、飯が盛られたら、座って食べ、食べ終わるまで座り、食べ終わったら立ち去る。途中で立ち上がって再び飯を盛りに行ったり、一周歩き回って戻ってきてまた食べたりすることは許されず、二度三度と飯を盛って食べてはならない。体が立ち上がったら、すでに食事を終えたことを意味する。仏の在世時、出家者は日中一食であった。乞食は非常に時間がかかるので、日中一食であれば多くの時間を節約して修行できる。毎日二度三度乞食すれば、大量の時間を浪費するだけでなく、世人や外道に嘲笑され、出家者は終日乞食して食べてばかりで、貪食で修行がないと言われる。第三に、多く食べると腸胃が絶えず蠕動消化し、心が清静にならず、修行に影響し、多く食べることは自分の福徳も消耗し、道業が修め上がらない。いくつかの要因を総合して、僧団は日中一食の戒律を制定した。
出家者が乞食するのは、同時に衆生に種えるべき福田があるようにするためであり、衆生に福を修める機会、解脱する機会を提供するためである。衆生が布施すればするほど福徳は大きくなり、解脱する機会が多くなり、解脱の確率が大きくなる。出家者が乞食するからといって、衆生が貧窮になるのではなく、まったく逆に、衆生はますます富貴になる。出家者が毎日一度乞食するからといって、仏教が次第に滅亡するのでもない。仏教の滅亡には多くの要因があり、主なのは衆生の善根福徳がますます少なくなっていることであり、衆生は福がなく仏法に出会って解脱することができず、加えて波旬による仏教への破壊もあり、仏教は必然的に日々衰落し、最後に滅亡する。衆生が出家者に布施することは、仏制において拒否は許されず、衆生に福を種えさせ福を得させなければならない。さもなければ衆生は福がなく、永遠に六道を流落して貧窮の苦を受ける。自分に種えるべき福田があること自体、佛陀と僧、三宝に感謝すべきである。さもなければ、いつ解脱できるのか?
仏は経の中で、佛陀への供養の功徳は無量無辺に大であると言われた。特に佛陀が成道したばかりの時の最初の食事と、涅槃に臨む時の最後の食事であり、もし供養する機会があれば、この人は最も速く成仏でき、他の人を超越する。佛陀が成道後の最初の食事は、牧羊の女が供養した羊の乳であり、佛陀が涅槃に臨む時の最後の食事は、鍛冶屋の純陀が供養したものである。当時、非常に多くの人が世尊に哀願して佛陀に最後の食事を供養しようとしたが、佛陀はいずれも許されず、鍛冶屋の純陀が供養の請求を提出して初めて、佛陀は頷いて承諾された。そして佛陀は鍛冶屋が成仏することを授記された。これは佛陀が前世で、純陀が佛陀の涅槃に臨む時に最後の飲食を供仏することを承諾されたことがあったからである。佛陀と三宝を供養する機縁に恵まれることの福が、いかに計り知れないものであるかが分かる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、菩薩六度の中でどの法が先導か?</h3>六度の中で、般若 (prajñā) が主導であり、根本であり、中心であり、布施 (dāna) が先導であり、福徳が基礎である。世間、出世間のいかなる法も、福徳がなければ成功しない。布施は福を修めることであり、福があってこそ、よく持戒し、定を修め、忍辱を修め、観行 (vipaśyanā-caryā) が成功し、明心見性ができる。福徳は基礎であり、持戒は助縁であり、禅定は前提である。観行 (vipaśyanā-caryā) は正行であり、観行 (vipaśyanā-caryā) によってこそ般若 (prajñā) 智慧を得ることができる。福徳がなければ、戒を持ちたいと思っても、あなたの戒を破る者が現れ、持戒は常に障害が重々しく、円満できない。福徳が具足すれば、修行に障害はない。福と徳は常に連結している。自分のためでないことがすでに徳であり、世俗法の享楽を求めないことが徳であり、衆生を利楽することが徳であり、徳があれば福がある。
仏は六度を説かれたが、第一度は布施 (dāna) 修福であり、これが具足しなければ、般若 (prajñā) 智慧を得ることは不可能である。もし先に般若 (prajñā) 智慧があるなら、私たちは修行する必要がなく、観照に何の用があるだろうか?六度の概念、修行の内包を理解し、常に自分がどれを果たしたか、何がまだ具足していないかを観察し、六度の条件を円満させる方法を考えるべきである。