仏法雑談(第一部)
朝夕それぞれ少なくとも三十分は静座すること。座中では楞厳呪あるいは心経を誦することができ、ゆっくりと誦し、心を摂して誦すること。
毎日一日一善を行えればよい。できなければ、毎週一善を行ってもよい。毎日できるだけ福を修め、できれば毎日供仏すること。その他の法は、縁に随い力に随って修行する。毎日自分の戒行と心行を点検し、自分の起心動念を点検し、常に自心を観照すること。阿含経を読み、五陰十八界の概念と内包を明らかにし、毎日少しずつ内容を観行し思惟すること。心経あるいは金剛経を読誦し、暗誦し、一言でも思惟できればよい。行住坐臥のとき、心を一法に縁らせ、あるいは楞厳呪を誦し、あるいは心経を誦し、あるいは念仏 (buddhānusmṛti) する。時間があれば七つの識の功能体性を思惟観行し、さらに第八識の功能体性を思惟すること。
人それぞれ修行の内容と階層は異なる。自分の実際の状況に応じて修行内容を安排し、いかなる一日も空しく過ごしてはならない。毎日回光返照し、内心を点検し、煩悩が少し軽くなったかどうか、心境が平静で波瀾がなくなったかどうか、世俗への追求と掛念が減ったかどうか、享受をあまり好まなくなったかどうか、次第に出離心が少し生じてきたかどうか、心地が淳厚になってきたかどうか、世俗の智慧と仏法の智慧が増えたかどうか、自分の修行への信心が大きくなったかどうか、毎日の心理的な攀縁が減ったかどうか、内心が清明で愉悦になったかどうか、物事の処理が周全になったかどうか……を確認すること。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、知識は証量に等しくない</h3>現代人は知識が非常に豊富だが、福德と禅定 (dhyāna) が欠けているため証得できず、受用もなく、生死の問題を解決できない。昔の人は経を聴き法を聞くこと自体が容易ではなかったが、実証は容易であり、真の仏法、明心見性の法に一旦出会えば、参究する能力があり、実証は速く、多くの人が証量を持ち、仏法の真の受用があった。菩薩修行の果位は、実際の証量を基準とし、知識の多少によって決めるものではない。それぞれの観行 (vipaśyanā-caryā) がしっかりできていなければ、学識が五車に富んでいても、依然として相応の菩薩果位ではない。証量がなく、実際に証得していないからである。
逆に、文化や学識がさほどなく、多くの仏法を学んでいなくても、真の仏法に一たび触れると、思惟観行でき、それを基礎に、さらに多くの仏法を観行できるなら、その証量は実に大したものであり、学識五車の人より高く、生生世世にわたって仏法の利益を得られる。今、多くの人が自分は証果した、明心したと言っているが、本当にそうなのか、それとも単に理論上の知識であって実際には証得していないのか、自分で真剣に仔細に点検すべきである。生死の大事は曖昧にしてはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、口頭禅は仏教を滅亡させる</h3>末法の時期、大多数の衆生は口頭禅であり、学んだ法は理解の成分が多く、実証が少ない。定力が不足すれば実証は難しく、弁舌滔々と語っても無駄であり、それは自分自身の証量ではない。自分で修めない内容、衆生が修いたくない内容をことごとく否定し、菩薩六度を密かに何本か取り除き、仏法の頭と尾を掐み取れば、仏教正法は速く滅び、衆生は長期にわたって生死の火坑の中で自ら抜け出せなくなる。佛陀の教誨を考慮せず、仏教事業の発展の前途を考慮せず、ただ一方的に自分の不正な観念に随順したり、あるいは衆生の心理に迎合し、衆生を喜ばせるため、勢いに乗って衆生を導き如実に修証させることができなければ、魔王は喜ぶだろう。
今、口頭禅がまだ氾濫できるが、さらに一段階発展すれば、口頭禅さえなくなり、仏教は徹底的に衰微する。仏法が徹底的に滅亡するまでにはまだ八、九千年あるのに、これほど早く戒定慧の三学から二つを取り去り、六度が四度になってしまうとは、本当に身の毛がよだつ思いである。振り返って仏教の発展の歴史を見てみよう。興盛していたときはどのような状態だったのか、なぜ興盛したのか。衰敗したときはどのような状態だったのか、なぜ衰敗したのか。智慧ある人は見抜けるはずである。世尊の教えに合致し、完全に世尊の教えを遵守した時代は、仏法は必ず興盛する。逆に佛陀の教えに背き、断章取義し、仏教の法と一致せず、さらに対立すれば、仏教は必ず衰微する。
今の仏法は決して強大ではない。さらに佛陀の教えに背き、六度のうち四度しか修めなければ、未来には四度さえも修めなくなる。戒定慧の三学、一学だけであれば、将来には一学もなくなる可能性がある。諸位は自分で考えてみよ。あなたは仏教にレンガを積み加えるのか、それとも仏教からレンガを取り壊すのか。浮躁の時代が浮躁の衆生を作り出し、衆生の浮躁が時代をさらに浮躁させる。それなのに、あえて衆生の浮躁を推し進める人がいる。一体何のためなのか?
中国震旦の仏法は、狂禅の中で滅んだ。自分では頭頭是道、天花乱墜と語っているつもりでも、その中には実質的な内容がなく、実際に修証することができず、解脱の功徳受用も少しもなく、智慧の面でも狂慧と乾慧にすぎない。しかし衆生は分からず、大多数は素人で、ただ賑わいを見るだけで、誰が天花乱墜に語れば誰が道があると思い、どれほど長く付き従って学んでも、永遠に元のあのわずかな知見のままで、増進できない。三年五年、十年八年学んでも、まだその場で足踏みしているなら、あなたの学んでいる仏法に問題があるということである。問題のない仏法は、学べば日々進歩があり、向上が速い。
六祖以前の学人は皆坐禅を重んじていたが、六祖以後の学人は、六祖壇経を手にし、毎日口を極めて語り、もはや坐禅して実修せず、仏法を参究せず、まるで壇経が自分で語ったかのように、まるで自分がすでに実証したかのように、自分にはもう修うべきものは何もないかのように、ただ到る処で唇舌を売り歩き、これこそ道だと思っている。その結果はどうなったか。禅宗はこのように衰えて跡形もなくなった。これが歴史である。教訓を汲み取ろう。一つだけ覚えておいてほしい。どれほど多くの仏法を学ぼうと、どれほど多くの書物を読もうと、それらは自分のものではなく、自分の談資として到る処で売り歩くことはできない。これは乾慧よりもさらに乾慧であり、このようにすれば自分の前途を断送できるだけでなく、仏教の前途をも断送してしまう。
自分で実際に証到していない限り、自分に道があると思ってはならない。慢心が盛んに燃え、到る処で弁論して、何の意味があるのか。自分にどれほどの真の智慧があり、どれほどの真の受用が得られ、どの程度の解脱が得られるのか、はっきりと量り知るべきである。自分を正確に量り知ることこそ智慧であり、自我を降伏し慢心を降伏する過程でもある。他人を量り知ろうとするのではなく、しっかり自分を量り知ることこそ最も重要である。皆が衆生の欠点と弱いところに曲意逢迎すれば、仏法は支離滅裂にされてしまう。枝を断ち葉を抽く結果、真の仏法の滅亡を促し、実質がなくなる。仏教の前途も、私たち一人一人の手の中にある。自分とは無関係だと思って顧みず、意に任せて妄為してはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、仏法を学ぶにあたって名相に執着して研究に耽ってはならない</h3>いくつかの名詞概念については、あまり心を用いて研究に耽り、名相に執着して精力と貴重な時間を浪費する必要はない。名詞の真の意涵をはっきり理解できればそれでよく、その後は義に依って語に依らず、理と事を思惟して徹底させ、はっきり説明すればよい。それらの名言語彙の表相・表面の意味はあまり気にせず、義を得て言を亡きものとし、その根本義を取ればよい。文字語彙上で果てしなく葛藤する必要はなく、仏法の究竟義・真実義を深く理解することが最も重要である。それらの語彙名言に葛藤することは研究に似ている。仏法は研究を最も忌避する。実証者は黙々と事を行い修行し、言語の雑枝雑葉はできるだけ剪除し、いずれも構わずにいれば、修行の思路が明瞭になり、速やかに入道できる。
龍は海珠を銜え、遊魚は顧みず。重点となる主要な法をしっかり掴み、その他のことには気を散らさない。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ終えれば、後のあの事柄が分かる。なぜ自分が今まだ用のない事をあまりにも研究するのか。聡明な者はまず入門してからにせよ。門の外で門の中の事を研究するのは、多くの時間を浪費する。多くの人があの言語の葛藤を引っ張り合い、果てしなく自分を縛り、出離できず、実に智慧がない。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、仏法は研究するためのものではない</h3>自分に智慧があると思い込んでいる多くの人が、禅宗の公案の前で為す術がない。また、自分に道があると思い込んで禅宗の公案を講義する人もいるが、ことごとく世俗法に堕しており、俗人にはむしろ好んで読まれているが、その中に一体何の味があるのか分かっていない。
仏法を学ぶにあたって、文字の殻に潜り込み、文字を肢解し、語句語彙をあれこれ研究し、表面の意味が少し分かったような気がして、道を得たと思い込み、それから到る処に貼り付けて、慢心を大いに発する人がいる。実のところ、学佛修行は文字の殻に潜り込むことではなく、功夫は詩の外にある。菩薩六度の上で多く心を用いて修行し、煩悩を降伏し、心性の修養を高め、福德を培い、禅定 (dhyāna) を強化する。これらの面で用功修行すれば、菩薩の条件を絶えず完璧にできる。終日文字の山に埋もれて、それらの文字を研究することではない。もし学佛が単なる文字の功夫であるなら、大学院生や博士課程の学生は皆、大乗の明心見性の菩薩になれるはずだが、実際にはそうではない。
また、三帰依は不要、五戒は受けなくてよい、ただ真剣に文字を参究すれば明心見性できると強調する人もいる。ならば外道は皆聡明伶俐な人々なのだから、外道は仏を信じなくても、仏法を研究するだけで仏法を解悟できるはずである。しかし、彼らは永遠に大乗実義菩薩にはなれない。いくつかの答えを知っていても、大乗菩薩ではなく、智慧が生起しておらず、菩薩心性がないためである。聡明伶俐な人は到る処にいる。仏法をしばらく钻研すれば、いくつかの表面の内容は分かる。しかし彼らは菩薩心性を具備していないため、永遠に真の菩薩にはなれず、仏菩薩と護法善神の加持と庇護を受けることもできず、したがって真に証悟することもできない。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、修行はまず理を通すこと</h3>理論も実修の一部であり、しかも最も重要な一部である。学理を実修ではないものとして扱ってはならない。学理は正知見を得る主要な途である。正知見の指導があってこそ、正しい方法を取り、正しい方向に進むことができる。生死の解脱は正知見と正慧に依存し、仏道の成就は正慧に依存する。世尊在世のとき、弟子たちに法を講じ伝えるだけで、たまに禅定 (dhyāna) を教えることはあったが、弟子に具体的にどう修行するかを導くことはなかった。弟子たちは法を聴いた後、皆それぞれ一人で清浄な場所を探し、観行思惟して世尊の説いた法理を思惟した。思惟が通れば、法眼浄を得て証果した。多くの人が世尊の説法の当座に証果したのは、聴くと同時に思惟していたからである。それゆえ世尊は説法の前にいつも「諦聴諦聴、善く之を思念せよ、吾当に為に汝のために分別解説せん」と言ったのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、仏法学修の大体の内容</h3>大乗仏法は般若 (prajñā) 系と唯識系に分かれる。般若 (prajñā) の部分は六百巻の般若経であり、その他いくつかの経文もあり、大乗法の基礎であり、初地菩薩まで学べば基本的にもう学ぶ必要はない。大乗法で最も深い内容は唯識であり、唯識を全部学び終え、全部証得すれば成仏する。唯識の上で比較的深い仏経はいずれも唯識種智に関わるものであり、いずれも地上菩薩が修める内容である。『解深密経』と『深密解脱経』は比較的深い経典であり、さらに深い経典は、娑婆世界にはもうないかもしれないが、他方世界には必ずある。
体系的に唯識を学ぶには、八つの識の体性をすべてはっきりさせ、それから一つ一つ証いていく。証得した後、さらに縁に歴れ境に対してこれらの識心を観察し、その互いに和合して運作する関係を観察すれば、智慧は速やかに発揮される。阿含経には根塵識三者の関係がはっきり説かれている。三者の関係をはっきりさせ、さらに三者がいずれも第八識の生じたものであることを理解すれば、仏法には一定の基礎ができる。大乗法を学ぶにあたって小乗を軽視してはならない。特に小乗の観行 (vipaśyanā-caryā) の方法、禅定 (dhyāna) を修める方法、三十七道品を修める方法は、私たちが大乗法を修行する上で非常に大きな助けとなり、しっかり学べば、大乗見道への入門も速くなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、なぜ仏仏道同なのか?</h3>一言を聴いたり、一つの事物を見たりすると、十人には十の観点があり、百人には百の意見がある。なぜそうなるのか。各人の識心が異なるため認知が異なり、認知が異なれば感受が異なり、感受が異なれば反応が異なり、反応が異なれば言語行為の造作が異なる。識心が一致した認知に達していないため、それぞれに認知の程度があり、一つの事柄について共通認識を持つことは不可能であり、共通認識がなければ、一つの事柄の発展と成功を促すのは非常に難しい。世間の事がやりにくいのもここにあるのだろう!
別の面から言えば、仏仏道同である。なぜ道同なのか。それぞれの仏の修行はすでに円満に達しているからである。円満であるということは極尽であり、いずれも極尽していれば、程度は必ず同じである。しかもいかなる面においても同じであり、最も主要なのは智慧において同じであることだ。それなら、それぞれの仏のいかなる事柄に対する見方も同じであり、諸仏の間には永遠に分歧も争いもない。つまり、修行の智慧が高い聖人ほど、彼らの間の分歧の部分が少なく、共通の部分が多く、より調和し黙契し、共通認識に達するということである。
だから私たちの修行の目標は、自分の智慧を増進し、自分の知見を見地(得道以後の知見を見地と称する)に変え、さらに見地をますます円満にさせることである。そうすれば、すべての事柄は円融無碍になる。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、正しい聞思があってこそ正しい修証がある</h3>炎熱の夏、通行人が渇いて一つの水井を見つけた。水は清くて深いが、縄と水罐を探し求めたが、得ることはできない。やむなく渇きを忍ぶしかなく、清水を得て潤すことができない。井水はあるのに、自分とは全く関わりがない。学佛者もまた然りである。口では常に空を説くが、求証する方法がなく、徒にスローガンを叫んでいるだけで、まだ有の中にいる。常に放下を叫ぶが、何を放下するのか、どう放下するのか分からず、ただ常に執着しているだけである。方便の方法と手段がないだけである。解脱の方式方法を心得ていることが重要である。さもなければ、水井の縁に立ちながら口が渇いて舌が乾くようなものである。
仏法の修行は、聞・思・修・証である。まず多聞し、真の仏法を聴聞すること。それは佛の所説であり、仏理に契合するものである。佛説と符合しなければ、多聞すればするほど生死を増す。次は思惟であり、如理如法に正しく思惟すること。邪思邪解なら、さらに生死を増す。次は修であり、仏理に従って修めること。聞くことが不正で、思うことが誤謬なら、修めばたちまち偏り、正路に上れない。最後は証であり、聞くことが正しく、思うことが徹底し、修めることが的確で、時節因縁が具足してこそ、真を証得できる。真を証得してこそ真の受用がある。放下を空しく叫ぶことは、目標がどこにあるのか分からずに盲目的に発砲するようなものである。多く福を積み、厳かに戒を持ち、常に定を修め、よく慧を修めれば、解脱の大道は目の前にある。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、一仏乗法をどう修行するか</h3>仏法の中には実際には一仏乗法しかない。小乗解脱道の法義でさえ、成仏の法であり、一仏乗法の中の一部であり、これは成仏のために必ず修証しなければならない内容の一つである。小乗法が通達し、大乗般若 (prajñā) 法も通達してこそ、初地に入り、如来家に入り、地上菩薩となることができる。つまり、大根基の衆生は、前世ですでに我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じて証悟したことが何度もあり、直接大乗仏法を修学し、甚深の唯識の理を悟得でき、同時に小乗解脱道の法義も通達でき、特意に小乗法を修学しなくても小乗の無学 (aśaikṣa) に達することができる。
しかし、このような根基は極めて稀である。一般の衆生はやはりまず小乗解脱道の法義を修学し、小乗解脱道の基礎をしっかり固め、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じた後、大乗法の明心見性を求めるべきである。小乗で我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じた後、慧解脱の四果阿羅漢まで修め、徹底的に人無我を証得してこそ、小乗解脱の理を通達できる。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じた後、煩悩を断じようとするなら、五蓋を降伏し、初禅の定を修め出してこそ、次第に貪瞋痴慢の煩悩を断除し、心解脱・慧解脱の阿羅漢となることができる。そして五蓋の降伏は容易なことではなく、多くの人が一生かかっても降伏できず、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、明心見性しても五蓋を降伏できなかった人がいる。一旦五蓋を降伏すれば、初禅の定に入る能力があり、煩悩を断除でき、如来家に入る能力もある。これが仏法修行の歩むべき修行ルートである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、理を明らかにしてこそ放下できる</h3>無色界の天人は色身がなく、常に定の中にいて出定せず、彼らの識心の活動は非常に微弱で、思惟思考力がなく、まして仏法を参究する識心の活動もなく、心理にも情緒がなく、想像や幻想がなく、回憶がなく、打算がなく、煩悩がなく、苦痛がなく、歓楽がない。要するに、これらの心理活動はすべて免除されている。そうなると、彼らが我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じようと、明心しようとしても、本当に門路がない。中には色界天人や無色界天人の定功を学び、常に入定しようと望む人がいるが、学んでも学んでも、ただ無明の中を流転しているだけで、愚痴性を断除できず、三悪道の業は依然として免れない。私たちに色身があることは、仏法の修証に大きな便宜を提供してくれている。色身があれば身口意行があり、仏法を修証できる。色身があるのに、それをうまく利用して仏法を思惟観行し、参禅悟道せず、終日色身を放下せよと叫んでいると、結果として命終後に自分を三悪道へ放り込むことになる。なんと見事な放下か、本当に下へ放り込んでしまった。
多くの人が手に三蔵十二部経を捧げ、大乗経典を捧げながら、様々な邪解と誤解を生じている。経を読むのは経を解くためであり、経を解いてこそ、経を証くことができる。誤った知見があれば速やかに是正すべきである。ただ、自分の解釈が必ず正しいと偏執しないことが大切である。自分の智慧が不足しているのに、自分の理を死守し、誤区から出て行こうとせず、さらに他人を誤区に引き込もうとすることが恐ろしい。しかし現実には、このような人が非常に多く、打っても振り向かせられず、これらの人を勧導すると、振り向いて噛みつく人さえいる。様々な迹象から見ると、娑婆世界の衆生の心の中の無明は、実に深重また深重であり、多くの人は無明がいくらか軽減されるのを待ってからでなければ、度化できない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、修行は生処を転じて熟とし、熟処を転じて生とする過程である</h3>私たちは歴劫以来、世俗法に非常に馴染んでおり、念念とも世俗の五欲六塵である。一方、出世間法は熏習が少なく、非常に疎遠である。修行を通じて、私たちの心を世俗法から次第に脱離させ、世間法への用心を減らし、重心を徐々に出世間法へ移していく。世間法を行う中で仏法を忘れず、仏法から離れず、常に仏法と対号入座し、因を知り果を達する。世間法と仏法を融合させ、一体とする。最後には、念念とも仏法であり、念念とも菩提であり、覚悟の心で一切を観照し、さらに覚悟と観照を融解し、無上覚、正等正覚に達し、菩提果を円満させることができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、択法眼があってこそ法と師を正しく判別できる</h3>七覚支の中で二番目が択法覚支である。ここまで修めば択法眼があり、接触した法が正しいかどうか、接触した法師に道があるかどうかが分かり、それから正しい択択ができ、道を間違えない。これは証果開悟の前に具備すべき覚悟性であり、さもなければ証果できず、開悟できず、得道できない。
まだ択法覚支まで修めておらず、択法眼を得ていないときは、修行がまだ力を得ておらず、福德・定力・智慧のいずれも欠けており、師に智慧があるかどうか、智慧がどの程度か分からず、法の対錯、正邪が分からず、頭脳は混沌として開かず、正法に出会っても学ぶべきと知らず、邪法に出会っても避けるべきと知らず、正知見を得ることができない。択法眼のない一部の人は、疑蓋が除かれず、法を疑いまた師を疑い、法と師のいずれに対しても確信が持てず、このように修学すれば進歩も成功もない。疑心が重いのは善法ではなく、福德が欠けているからこそそうなる。弁別する能力があってこそ疑を除くことができ、道業を増進できる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、基礎を固めてこそ唯識をよく修められる</h3>真に唯識を通達した後、初めて弥勒菩薩のような程度に達することができる。これは一朝一夕のことではなく、最も基本的にも第八識を証得しなければならず、その後さらに禅定 (dhyāna) の修証を配合し、煩悩を断除し、煩悩習気を断除し、次第に一切法を証得でき、無明を破り尽くすことができる。『瑜伽師地論』の中のすべての法は、実証が求められている。基礎の法を証得していなければ、その上一層次の法は証得できず、さらにその上の層次の法はなおさら証得できない。
だから唯識を学ぶには、必ず大心を発して明心見性を求め、着実に菩薩の道を歩まなければならない。内門と外門の菩薩六度、いずれも修行を円満にしなければならない。真に衆生を利益できる大心菩薩になることを発願し、仏力の加持の下でこそ、唯識学を修め終え、妙覚菩薩の果位に達し、成仏を待つばかりとなる。学佛は理論を学ぶだけではなく、その中で仏の清浄 (viśuddha/pariśuddha) な大願を学び、仏の衆生に対する慈悲喜捨の心量を学び、仏の戒定慧を学び、仏の甚深の禅定 (dhyāna) を学び、仏が具備する一切の功徳をすべて学び取り、すべて実行してこそ、私たち自身が成仏できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、仏法の成就は自修に依る</h3>世尊在世のとき、弟子に仏法を伝授するのは、目下修学すべき法を講じた後はもう構わず、残りのことは弟子が独立して完成させた。当時の弟子たちは皆、世尊の説法を聴いた後、自分で静かで誰にも邪魔されない場所を探し、定の中で観行思惟した。世尊は弟子を率いて具体的に修行したことは一度もなく、弟子を率いて佛七をしたことも禅七をしたこともなく、どんな七もしたことがなく、皆弟子が自分で仏法を思惟観行し、独りで修行し、共修したことはなかった。
仏法を修学し、最大の受益を得ようとするなら、自分で多く思惟し多く観行 (vipaśyanā-caryā) しなければならず、できるだけ他人に法を細かく講じてもらわないこと。自分の観行 (vipaśyanā-caryā) が少なければ、受益も小さい。どれほどの代償を払えば、どれほどの利益が得られる。多く観行し、多く思惟し、間違えることを恐れるな。間違えたら振り返って、他の方向へ努力すればよい。各方面に観行が及べば、智慧も生まれてくる。観行 (vipaśyanā-caryā) から智慧が出る。観行 (vipaśyanā-caryā) は自分自身の事であり、他人に代わってもらわないのが最善である。大きな志気を持ち、現成のものを求めず、自分で多くの精力と心血を費やし、多く思惟し、自修自得、他修他得、不修不得とすべきである。修行実証した後、こそ大智慧を得て、真の解脱の功徳受用を得ることができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、六塵境界を貪らなければ苦受を減らせる</h3>生活・仕事・修行などの圧力は、心の感受である。心は毎日、毎時毎刻感受しており、苦を感受し、楽を感受し、不苦不楽を感受している。圧力は一種の逼迫感であり、一種の苦受である。すべての受は根塵の接触によって生じるものであり、六根が六塵に触れれば受がある。佛は『雑阿含経』の中で、貪愛を去り、受覚を減らし、あるいは受覚を滅するには、触を減らすか滅するかしなければならないと説かれた。私たちは触を滅することはできないが、できるだけ触を減らすべきであり、最善の方法は六塵の虚妄と無常性を観行 (vipaśyanā-caryā) することである。
六塵は外六塵と内六塵に分かれる。外六塵には私たちは根本的に接触できず、触れるのはすべて内六塵であり、それらは外六塵の影であり、自分の如来蔵 (tathāgatagarbha) が変現した仮象であり、真実ではない。仮象であって実相でない以上、私たちは逆に自分の心を調整し、私たちの心の六塵境界に対する執著性・攀縁性を減らせば、境界を淡く見るようになり、心の中の苦受は減り、圧力は軽くなる。
心を修め、智慧を増長し、境界を認識する以外に、他に方法はない。私たちの娑婆世界はまさに堪忍世界であり、到る処が苦受であり、到る処が圧力である。ただ絶えず自分の心を調整し、自分を説得し、境界を認識し、攀縁を減らすこと、これこそ真の修行である。外の境界を私たちは変える能力がないが、修行を通じて自分自身の心を変え、それによって自分の内六塵を変え、境界が私たちの心に随って転じるようにさせること、これが地上菩薩の境界である。少なくとも、私たちの心を常に境界に随って転じさせてはならない。修行は私たちの生生世世の事である。修行しなければ生生世世苦受があり、毎生毎世、私たちは業だけを掴んで、何も掴めず、結果はすべて一場の夢、一場の空である。圧力を動力に変えることに長け、努力して修行し、よく遊戯せよ。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、心を仏法に向ければ次第に清浄 (viśuddha/pariśuddha) になる</h3>内心に常に求めるものがあり清浄 (viśuddha/pariśuddha) できないときは、世俗法を追求する心を仏法を求める方向に転じ、世俗法を求めないか少なく求めれば、心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) で雑念がなくなる。五陰 (pañca-skandha) の世間での享楽を求めなければ、心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) に落ち着き、心地の染汚は減らせる。私たちの自性清浄心を多く学ぶことである。神様は一切法の上でいずれも無所求で衆生を利益し、無数の有為法を造作しながら、心地は無為無漏である。私たちは多く神様の清浄 (viśuddha/pariśuddha) 性に依止すべきであり、そうすれば心地は次第に清浄 (viśuddha/pariśuddha) になる。
私たちがたとえ求めるものがあったとしても、世俗法の上で度を過ぎてはならず、足りればよい。貪求が多ければ多いほど、仏法上の利益は得られない。たとえ大きな福報を修め出しても、人天福報を求めてはならず、ただ早日に得道できること、道業が絶えず増進すること、多く有縁を度することを求めるべきである。世俗法は少なく求めるが、仏法上の追求は必ず持つべきであり、さらに清浄 (viśuddha/pariśuddha) な大願を発し、願力に依って私たちをより速い進歩へ牽引させる。世俗法を貪求すれば堕落するが、仏法を貪求すれば善となる。これを努力精進という。菩薩六度の中に精進度があり、精進度が具足しなければ、得道できない。
私たちは出生した後、父母から人としての道理を教わる。それは一生だけではなく、後世の多生にわたって受用し尽くせない。ただ料理を作るという本事を教わっただけでも、種子として存留し、再び人となる時、見ればすぐでき、しかもうまくでき、多生多世にわたって受用し尽くせない。父母が私たちにしっかり勉強するよう教育すれば、私たちは来世には自ら学ぶことを好み、督促されなくてよい。それなら、私たちが仏法を修学する場合、仏法を少し学ぶごとに、種子として存留する。
このわずかな種子を侮ってはならない。未来世には参天の大樹に育ち、星星の火も原野を燎らすことができる。だから私たちは世俗法を貪著してはならない。どうあろうと、これらの世俗法はいずれ滅去し、未来世に持って行けない。過去の無量世、私たちが追求した世俗法は、すべて私たちを捨て去った。私たちが能動的にそれらを捨てたのではなく、実は持って行けなかったのである。今世も同様であり、臨終の時、これらの人事物とは別離せざるを得ない。せざるを得ないという心があれば、生死輪廻の苦を受けなければならない。精力を修道の中に転じ、世俗法はそこそこでよいとする方がましである。世俗の利益を捨てなければ、仏法の中の殊勝な利益は得られない。私たちは思惟択択に長け、智者となるべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、学佛は真修でなければならず、スローガンを高らかに叫んではならない</h3>私たちの学佛修行は、着実に足元から一歩一歩起修しなければならず、スローガンを高らかに叫ぶ方式を用いてはならず、終日スローガンを口辺に掛けていてはならない。それらのスローガンの多くは、十地菩薩という聖賢人が修証した内容であり、相応の位階まで修めていなければ、どんなにスローガンを叫んでも、依然として足元から半歩も動けない。例えば如夢観は、十回向位の菩薩が証得したものである。私たちが今どんなに一切法如夢と高らかに叫ぼうと、一切法がすべて夢のようだとどんなに理解しようと、内心では世俗界の一切を夢幻のように見なすことはできない。真に一切法如夢観を証得したときには、すでに十回向位の菩薩であり、初入する寸前である。
如夢観の理解については、十回向位まで修めていなければ、どの程度理解しようとも、結局は理解にすぎず、証得ではない。このような理解も慧と呼ばれる。もしこのような智慧を皆追求し満足するなら、成仏は実にあまりにも容易になる。成仏以前の様々な観行 (vipaśyanā-caryā) 理論をすべて取り出し、順次に学習理解し、様々な理解の智慧を生起させれば、私たちは十地・等覚菩薩と仏の智慧を持ったことになるのだろうか?
食を説いては飽くことができない。真に修行したいなら、スローガンを空しく叫ぶような修行方式を取るべきではない。言語では非常に高尚に聞こえても、実際の自分の内心は非常に卑小である。自分の内心の実際の状況に照準を合わせ、相応の切実に実行可能な修行方法を取って修行すればよい。短期的に、さらには長期的にもできないスローガンを叫んではならない。仏法は実際に観行 (vipaśyanā-caryā) し対治調伏して自心を治めるためのものであり、口舌を弄ぶためのものではない。一時の口舌を逞しくして、実際の真の修行を重視しないことはできない。
例えば、如来蔵 (tathāgatagarbha) のあの無住のように、私たちの七識心も如来蔵 (tathāgatagarbha) のように一切法に対して無所住であれというのは、実にあまりにも高遠すぎる。八地菩薩になってようやく一部分相応でき、完全に相応することもできず、初地以上の菩薩になってようやくいくらか相応でき、まして完全に相応することはできない。地前菩薩と悟前菩薩は理解できるだけで、心に法を住らせないことは非常に難しい。説るは説る、行うは行うであり、実際にその層次まで修行していなければ、説と行はどうしても統一できず、一致できない。証得していないため、実行できないのである。理解した後は語ることができ、証得した後こそ実行でき、その時になって説と行が統一調和できる。だから、私たちがある人たちが言うことと行うことが一致しないのに出会ったら、彼らは実際に証得しておらず、この法を証悟した者ではないと知るべきである。
また例えば、明心以後の最も浅い如幻観は、非常に深い連続した禅定 (dhyāna) がなければ、わずかでも幻化の観感を持つことはできず、禅定 (dhyāna) を離れてはこの感観は現れる可能性がなく、定が浅くてもだめで、まして禅定 (dhyāna) がなければなおさらである。多くの人が終日口頭に一切法は夢のよう、幻のようと掛けているが、実際には根本的に如幻にはできておらず、理解した如幻は結局真に作用を起こすことができず、事が臨んだとき、内心の覚受は少しも如幻ではなく、まして如夢ではあり得ない。私たちは皆着実に修行すべきであり、口頭禅を弄んではならない。それらの口頭禅は、自分の修行の座右の銘としてはもちろん良いし、追求の目標としてはもちろん良いが、それでも一歩一歩足跡を刻んで起修し、実直に福德と禅定 (dhyāna) を修め、実直に三十七道品を完成しなければならない。三十七道品を修めずに飛び越えて、大乗の様々な観行 (vipaśyanā-caryā) を完成できると期待してはならない。それは天方夜譚である。
戒と定のない慧は、すべて理解の慧である。理解の慧は、一人の凡夫が学習と情思意解を通じて、十地菩薩・等覚菩薩さらには成仏の法を講じられるようなものである。実際には彼はいかなる一段の道も歩いたことがないのに、各段の道の大略の歩み方を教えることができる。細かく講じることは絶対にできず、でたらめを言うしかない。では、他人が彼の講じた成仏の道に依って、速く歩めるかどうか、あるいは歩み通せるかどうか、いずれも問題である。
一方、本当にその道を歩いた人は、ただ一たび道を指せば、他人は指に従って行けば、速やかに目的地に達することができ、回り道をせず、迂回する必要がなく、曲折がなく、直線で到達できる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、修行は次第を重んじ、乱れて修めてはならない</h3>正常な状況では、修行は次第に修めるべきであり、一つの段階に一つの修行内容があり、修行の層次が異なれば、修行の内容も異なる。凡夫には凡夫の修行方法があり、賢人には賢人の修行方法があり、聖人には聖人の修行方法がある。凡夫が聖人の修行方法を使うことは絶対にできず、差が大きすぎて、根本的に力が入らない。
凡夫は五蘊の生滅変異無常を観行 (vipaśyanā-caryā) し、四聖諦の苦集滅道を観行 (vipaśyanā-caryā) するか、あるいは参禅して明心を求めることしかできない。凡夫は八地菩薩が証得した境界を観行 (vipaśyanā-caryā) できない。例えば無所住無所著、例えば一切法を空ずること、例えば相分別を取らぬこと、例えば任運自然などである。
凡夫と悟後の賢人は、まさに有心であり着相して善法を修める段階にあり、賢人はすでに初步的にいくつかの相を破したとはいえ、層次があまりにも浅い。この時期には相に著してはならず、相の上で一切法を認知してはならない。できないだけでなく、狂妄自大となり、因果を撥無してしまう。例えば凡夫が肉を見たら、これは衆生の肉であると思い、慈悲心から衆生の肉を食すべきではないと考えるべきであり、これが正しい修行方式である。この時期に肉を空と見、無相と見、真如と見て、食っても食わないのと同じだと思い、そこで大口で食べ、同時に自分が真如の境界に入ったと感じるのは、実は貪欲の境界に入ったのであり、これは誤った修行方法である。
例えば、凡夫が男相女相を見たとき、自分は男女相を空じ、すべて真如一相と見なしたと言い、内心で自分はもう男女相がないかのように感じ、何の顧慮もなく交際し、結果として定力が著しく不足し、二人とも軌道から外れてしまう。このような修行方法は、悪取空とも呼べるものであり、罪過が非常に大きい。異性が自分に特別な要求をしたとき、自分が執相せず、著相せず、相手を空と見、真如の化身と見て、そこで縁に随うと、結果として菩薩戒の十重戒を犯し、地獄には間違いなく登録される。いわゆる縁に随うとは、縁に随う本事を具備しなければならない。内心で空を証得し、真に心空、不起心、不著相ができなければならない。初禅の定力と初地以上菩薩の智慧がなければ、誰であれただ想一想し、語ってみるだけであり、根本的にできず、やはり実直に持戒修行し、修行の限界と次第を跨越してはならない。
凡夫が自分の過去に造作した罪業を懺悔しようとするなら、取相懺悔で自分の悪心悪行を懺悔し、悪い心行を変えることを期すべきである。しかし大乗無相懺悔を行い、一切の煩悩はすべて菩提であり、すべて真如相だと強引に思い込み、また無相を証得できないまま、このように思った後、心安になったと感じる。しかし心安は心安でも、罪業は依然として存在して消除されておらず、果報は人を赦さない。このようにやるのは悪取空であり、果報は毫釐も違わない。
私たちの学佛修行には次第と章法があり、みだりにやってはならない。菩薩ができることは、凡夫が必ずしもできるとは限らない。異性に対して縁に随って度化することは凡夫の能力の及ぶところではなく、それは甚深の禅定 (dhyāna) を持つ地上菩薩の所為であり、凡夫がこれを為せば、必ず三悪道に行く。
今の仏法は実に乱れ切っている。大多数の人の意識心は非常に聡明で、地上菩薩および佛陀の修行境界もある程度理解できるため、地上菩薩が修行すべき法を口頭に掛け、自分にもできると思っている。これは可能だろうか。あなたは善財童子ではない。善財童子の善根福德がなく、また着実に定を修め観行 (vipaśyanā-caryā) しようともしない。
私たちの修行は口頭禅の習慣を改めるべきである。仏法は実修してこそ実証でき、実修実証はスローガン式ではなく、実修の切実に実行可能な具体的な方法がなければならない。なければ、それは実修ではなく、実証もできない。私たちがたとえ佛の所説の言葉を講じられても、何の役にも立たず、ただスローガンを叫んでいるだけである。足元で一歩一歩歩みを進めてこそ、希望があるのである。