仏法雑談(第一部)
第四章 性障と煩悩篇(1)
一、我心我性の表れ
衆生の我心我性は、いかなる方面からも表れるものであり、たとえ自らを完全に偽装しても、必ず馬脚を現すところがあり、糸口となる痕跡は常に存在する。智慧なき者には見抜けぬが、智慧ある者は、そのわずかな痕跡からこの者の我心我性を窺い知ることができる。ましてや現代の衆生は煩悩の性質が甚だ粗重であり、表に現れるものは糸口のような淡く微細なものでは全くない。
いわゆる「我」は、多くの段階に分けることができ、小さな私我から大きな我まである。ある者は単独で五陰十八界を我及び我が所有するものと見なし、それによって業を造る。ある者はやや範囲を広げ、自らの父母・子女・家親眷属を我の一部と見なし、それによって業を造る。ある者は自らの属する小さな団体を我の一部と見なし、それによって業を造る。ある者は一地域を我の一部と見なし、それによって業を造る。ある者は自らの存在する国家を我の一部と見なし、それによって業を造る。
なぜ国家や団体を我の一部と見なして業を造るのか。そこには自らの私的利益が関わっているからである。自らの利益がなければ、一般の者は業を造ろうとはしない。自らの利益に関わる時のみ、業を造るのである。したがって、いかに大きな団体のために業を造ろうとも、実際にはやはり自分自身のためであり、依然として我心が存在するのである。
真の無我に修まることは容易ではない。各人には常に何らかの私欲があり、小さな我のためか、あるいはやや大きな我のためである。なぜなら大きな我の中には小さな我の利益があるからだ。衆生は往々にして金銭のためか、さもなくば権勢のためであり、権勢のためでなければ名声のためである。名声のためでない者は稀であり、それはより口にしやすい個人の利益、例えば仏法上の福徳・功徳・眷属等の利益のためである。要するに、衆生の内心には皆「我」が存在し、ある者は軽く、ある者は重く、ある者は浅く隠し、ある者は深く隠し、ある者は全く隠さず、真に無我である者は極めて稀である。
ある者の外見上の善は、同時に大いなる悪の表れでもある。大いなる悪は表面は善のように見え、表面ではやや多くの人々を利益するように見えるが、実際には依然として悪であり、それどころか大いなる悪である。なぜならより多くの人々の利益を損なうからだ。ある者は自らの国家のために光栄と思って戦場に赴き、名目上は自らの家園を守るが、しかし他者の家園を損なう。自らの家園が家園なら、他者の家園は家園ではないのか? しかし衆生はそうは見ない。我に関わる限り、必ず正当であり、相手の利益を考慮する必要はなく、必ず実行すべきだとする。そこで公然と業を造るのである。
ある者は、事を行うに団体のためであれば無我だと考えている。しかしこの団体に彼自身も彼の利益も存在しなければ、彼は無私に事を行い業を造ることを望まない。もし自らの団体のためになすことは全て善であるならば、より多くの団体や衆生の利益を損なう場合、この行為は果たして善なのか悪なのか? それは大いなる悪である。往々にして多くの者の外見上の善は、より大きな悪を隠している。しかし衆生は愚痴であり、この道理を理解せず、皆、意根がひそかに我を執着する外在的な表れである。
衆生は往々にして常に我を中心とし、我に関わる限り、いかなる状況でも守らなければならないと考える。正誤は問わない。実際にはそれは非常に強い我心我性である。いかなる程度の我であれ、自らの利益に関わる限り、皆、我心の表れである。我に関わるものは全て良く、我に関わらぬものは全て良くない。これが我心の表れである。衆生は多くの場合、内省できず、また内省したがらない。智慧が浅く短いため、己を守る心が極めて重いからである。
二、如何にして情執を破り道業を増進するか
現代の衆生は情執が甚だ深重であり、至る所で我が高くあなたが低いと争い、私は必ず最善最高でなければならず、私は必ず一番でなければならない、私の団体は必ず一番でなければならない、ただ一番であるだけでなく唯一でなければならない、私だけが存在すれば他は一切顧みない。学仏者の中にも同様の者がおり、世俗の人々や団体に全く劣らない。仏菩薩は衆生をはっきりと見抜いているが、衆生自身は自分を理解できず、内省する力がない。凡そ我に関わるものは全て良い、これが衆生の情執心理であり、また深重なる我執の習気である。衆生は常に如何なる代償を払ってでも自我及び自我に関わる家親眷属、大小様々な団体を守ろうとし、因果も結果も全く考慮しない。これは変え難い深重なる情執心理であり、往々にして業を造るのは情執のためである。
では、世の中に一番というものは存在するのか、誰が一番なのかを話そう。人には人外に人あり、天には天外に天あり、という言葉の意味は、常に自分より優れた者が存在するということである。仏以外に誰も一番ではなく、しかも仏仏道同じく、一番の仏も存在しない。諸仏は平等であり、皆無上尊であるならば、諸仏の間に第一第二は存在しない。菩薩は一番にはなれず、常に菩薩より高くより智慧ある者が存在する。凡夫はなおさら一番にはなれない。したがって世の中には争うべきものなど全く存在せず、争えば争うほど一番にはなれない。心に争いあるが故に、既に下位に落ちているのである。全く争わない者のみが、その心は高遠にしてかつ広大であり、頂点に到達し、峰の頂に至ることができる。
情執心理を破ろうとするならば、大智慧と禅定力に頼らねばならない。心を定め、深く細やかに思惟すれば、一切の法は夢幻泡影であると知ることができ、それでは何に執着できようか。よく考えてみよ。この世に何が存在するのか、どれが真実か、どれに執着する価値があるのか、どれが争う価値があるのか、どれが気に掛ける価値があるのか。仏法のみが心を用いる価値があり、努力して捧げる価値がある。しかし成仏のために人と争うならば、かえって成仏できず、修行の速度は遅くなり、かえって自らの成仏を遅らせることになる。成仏という事柄以外に、執着し気に掛ける価値あるものは存在しない。しかし依然として成仏への執着と気遣いを全て滅し除いてこそ、最終的に成仏できるのである。
三、性障と煩悩習気とは何か
性障とは心性に関する煩悩であり、貪・瞋・癡と相応し、自らの道業を障害する。煩悩習気とは、意根が無始劫以来積み重ねてきた慣性的作用である。四果の阿羅漢は貪・瞋・癡の煩悩の現行を断じ除くことのみができ、しかし習気の慣性を断じ除くことはできない。したがって時として習性は思わず発現するが、過ぎ去るのは非常に速く、内心に痕跡を留めず、長い時を経てもなお怒りや腹立ち、あるいは内心での恨みを抱き続けることはない。
凡夫は逆に煩悩を全て現行させる。具体的な表れは貪性の行為造作、瞋恚の行為造作、愚痴の行為造作であり、かつ内心の貪・瞋・癡の煩悩性の直接的な体現と流露である。習気は例えるなら車がブレーキをかけた後、慣性の作用でなおしばらく走り続けるようなものであり、直ちに停止するわけではない。しかしこの力は比較的小さく、この走行距離が初地菩薩から八地菩薩までの修行過程である。初地以前は全て煩悩の現行であり、煩悩は断尽されていない。三果以前、初禅定に修まらないうちは、貪・瞋・癡の煩悩は全て抑圧されており、全く断たれておらず、初禅の後になって初めて次第に煩悩を断ち始める。
明心見性せず、また証果もない者は、たとえ四禅八定を修得しても、煩悩は断たれず、抑圧されているに過ぎない。将来、禅定が退失する時、全ての煩悩は依然として現行する。したがって証果と明心見性の功徳は非常に大きく、衆生に将来、煩悩を断ち生死輪回の苦しみから出離する能力を与え、世々において非常に自在たらしめるのである。
四、性障煩悩が福徳に与える影響
一人の人間は一つの磁場のようなものであり、周囲の人・物・事に影響を与えることができる。慈悲柔和な性体は周囲に一片の祥和なる雰囲気をもたらし、周囲の一切を感化できる。それゆえ福徳が生じるのである。逆に、貪・瞋・癡が重く、性情が粗暴であれば、周囲の磁場を乱し、人心を乱し、他者の内心を不安にさせる。そうなれば自らの福徳を消耗することになる。一人の者が禅定を良く修められない理由は、一つには福徳が足りないためであり、一つには貪心が重く、心配事が多く、放捨できず、貪心が重いため、念頭が絶えず、禅定に影響するためである。もう一つは瞋心が重いためであり、瞋心が重ければ、内心にも多くの人・物・事がまとまらず、瞋心が禅定を障害するのは最も重く、特に初禅定を得られなくなる。
仏は貪・瞋・癡などの性障が禅定を障害すると説き、しかも慢心が最も道を障り、一切の善法の生起を障害すると説かれた。修行において煩悩を降伏させることは極めて重要である。煩悩は自らを障害するだけでなく、他者や一つの団体、周囲の一切に深刻な影響を与え、自らの福徳を損減させる。性情が柔順な者は教養が良く、福徳も大きい。福徳の大きい者は道業が急速に進歩する。一人の者の一つの顔は、その者の全ての風水であり、ここからその者の修為、その者の心性、一人の者の福徳、一人の者の性情が、全て隠すことなく表れるのである。
慢心というものは根深く固く、降伏させることが非常に難しい。深く細やかな我慢は、四果の阿羅漢になって初めて断つことができる。四果以下は皆慢心がある。慢心の表れは必ずしも表面にあるとは限らず、時として深く隠れている。如来蔵に眠っており、そのほとんどは現れる機会がない。因縁がまだ熟しておらず、慢心の条件が備わっておらず、自ら各方面で特別なところがなく、他者と比べて人に及ばないため、慢心は容易には現れない。一旦条件が整い、自らにわずかな資本があれば、慢心は直ちに現行する。たとえ自らが人に遠く及ばず、慢る資本がなくても、慢心は現れる。例えば、ある乞食が大通りを渡っている時、一台のリンカーン車が近づき、数回クラクションを鳴らして避けるよう促す。彼はやむなく避け、車が過ぎ去った後、背後で罵る:「ボロ車を運転して何が偉いんだ? 俺に金ができたら、お前の車より豪華な車に乗ってやる」。これが卑劣慢の表れである。彼が何生か何世かで成功した時、彼の慢心は完全に表れる。これが衆生である。ある者が何らかの方面で一旦勢いを得ると、まもなく慢心が現れる。自らは必ずしも発見できない。一つには心が粗いためであり、もう一つは自らが本当に優れていると考えるためである。
煩悩というものは根深く固く、無量劫を帯びて来たものであり、降伏させることが非常に難しい。一旦降伏させれば、智慧は急速に増進し、修行は非常に速くなる。煩悩は即ち道を障る因縁であり、自心を覆い隠し、光明を見ず、愚痴で智慧がなく、正しく他者を認識することもできず、また正しく自己を認識することもできない。貪心は境界に着き、瞋心は禅定を障り、慢心は一切を障る。特に智慧の開啓を覆い隠すことが最も深刻である。
この世界で災害が頻発し、果物が実らないならば、それは全て我々自身に関係がある。戦争が頻発し、世界が動乱するのも我々自身に関係がある。皆、自らの心が感応して招いたものである。自らの心を多く点検し、自らの業障を多く点検し、自らの非を多く見つけるべきである。人心が動揺し、貪・瞋が熾盛であれば、国家は平穏ではなく、世界もそれに伴って平穏ではない。心を良く修めれば、世界の一切は変化し、修行は一切を変えることができる。福のある人は福地に住み、福地には福のある人が住む。あなたに徳と福があれば、天災人禍が降りかかることを恐れる必要はなく、かつ世界や周囲の地域に安楽と祥和をもたらすことができる。修行は万能の鍵であり、解けない心の結び目はなく、渡れない川はない。皆様、自らの心性を多く点検なさってください!
五、煩悩の定義とは何か
ある者は、憂い・恐れ・悩みは煩悩であり、苦しみは煩悩であり、失意・不如意は煩悩であり、病苦は煩悩であり、内心の不愉快は煩悩であると言う。では、楽しみは煩悩なのか? 仏教で定義する煩悩は貪・瞋・癡・慢・疑・悪見であり、これらは煩悩である。これらの煩悩は我々が修行を通じて断除すべきものであり、一旦断除すれば三果・四果の人となり、煩悩を断尽して初めて涅槃を得て清涼となる。厳密に煩悩を定義するならば、心が寂止せず、心が寂静でないことが即ち煩悩である。
楽しみもまた煩悩である。多くの場合の楽しみは貪愛の煩悩の体現である。楽しんでいる時、心は喧騒で寂静ではなく、この時心が散乱していれば仏法を思惟する方法がなく、心が仏法に住さず、法理が通じなければ、法益を得ることができない。では、我々が一生楽しく過ごすことに何の益があろうか? 天人は非常に楽しく、彼らの一日の時間は人間界の数百年あるいは数千年に相当する。しかし楽しみのため時間が非常に速く過ぎ、すぐに寿命が尽きるため、やむなく人間界や三悪道に生まれ変わらなければならない。天人である時、楽しみのため仏法を学ぶことを望まず、仏法の受益がなく、空しく数千年を楽しく過ごすのである。
したがって我々が学仏修行するには、ただ楽しみを求めるだけでなく、自らの福徳資糧、戒・定・慧の資糧を多く培う方法を考え、これらの資糧を円満にして初めて、相応する道果を得て、真の法益を得ることができる。そうでなければ毎日自らの口舌をひけらかし、食べ物を言うだけでは腹は膨れず、仏法がいくら良くともあなたのものではない。たとえ本来仏であっても、あなたは凡夫に過ぎず、生死輪回は絶えない。
六、衆生の煩悩には下位の煩悩と上位の煩悩がある。下位の煩悩は貪・瞋・癡・慢・疑・悪見であり、これらの煩悩は四果阿羅漢で断尽される。上位の煩悩は開悟以後、修道位の菩薩が修証の道程で断ずべきものであり、貪・瞋・癡の煩悩とは相応しない煩悩である。初地以上の菩薩が次第に断ち始める。この煩悩はまた爾焰(ニルヴァーナの障り)とも呼ばれ、如何に成仏するか、如何に道種智を修行するか、如何により大きな智慧を得るか、如何にある種のより深い法を知るか、如何に各種の観行を修証するか、如何に地地で増上するか、如何に仏果を取証して菩提を円満にするか、等々を思考することである。また如何に外道法や邪法を破るか、如何に衆生を正しい道に導くか、等々を含む。そして衆生を邪見から救い出そうとする心がなく、衆生に解脱を得させようとする心がなければ、真の意味での菩薩ではなく、初地に入り如来の家に進む資格はない。これらの爾焰は、修するに随って生じ、修するに随って滅し、絶えず古いものを滅し去り、また絶えず新しいものを生じさせる。上位の煩悩を断尽して初めて仏道を成就するのである。
七、心に理にかなわない考えがあれば、隠すべきであり、なるべく口に出すべきではない。もし口にすべきでない言葉、理にかなわない言葉を公然と言うならば、内心の煩悩が非常に重く、抑制できず、内心に「我」があり、自分が重要だと思い、他人は自分に従うべきであり、皆自分を中心とすべきだと考えていることを示す。修行の不断なる進展に伴い、煩悩は次第に軽微になるべきであり、内心のそれら理にかなわない考えも、もはや現れないようにすべきである。そうして初めて修行に進歩がある。もし内心のこの「我」が深刻であれば、我見を断つことは非常に困難である。
修行とは、常に注意して自ら心中のあの「我」を点検し内省し、毎日毎月それが軽減され、縮小されているかどうかを観るべきである。もし依然として以前と同じように強大で、逆転不能であれば、修行は力を得ておらず、正軌に乗っていない。もし我見を断つことが難しいと感じるならば、明心はなおさら困難である。何と言っても明心に必要な福徳や各方面の条件はより高く、菩薩の心性がより良くなることを要求される。我心の重い者は、福徳が集積されにくい。無我の心は如来蔵と相応し、将来の菩薩道の修行は非常に速やかである。
八、現代の衆生は貪・瞋・癡の煩悩がほとんど皆非常に深重である。しかし衆生はまた自覚せず、しかも貪・瞋・癡は無辺の悪業を造り、未来は基本的に三悪道に堕ちる。再び人として生まれる望みは非常に少ない。衆生は無明があるからこそ貪・瞋・癡の業を造作する。そして正に無明のため、それが悪業であることを知らない。人は自らを知る明らかさを持つことが貴い。仏法を学ばず、因果を理解しなければ、無明の中にいる。あるいは仏法を学んでも依然として因果を理解せず、自らの一切の身・口・意の行いには果報があることを知らない。そこで任意に妄為し、結果を全く顧みない。事を行うことの正誤は、自らの判断は正確ではない。仏の説かれた理に頼って判断すべきである。衆生は無始劫以来広く悪業を造り、六道を輪回して止むことがない。人を得る機会は微々たるものであり、したがって皆人となることができず、人となる道理を理解せず、自らの貪・瞋・癡の煩悩を内省することもできない。
衆生が無量劫の間に人を得る機会について、仏は譬えて言われた。それはまるで、荒れ狂い奔騰する大海の中に一匹の亀がおり、海上に一本の丸太が漂っているようなものである。丸太には一つの丸い穴があり、丁度亀の頭が入る大きさである。この亀が風浪に向かって頭を丸太の穴に差し入れる。この確率は極めて小さい。仏は人を得る機会はこのように小さいと説かれた。ある時、仏は地面から一握りの土を掴み、また捨てて、大衆に言われた:「私の指の爪の中の土が多いか、それとも大地の土が多いか?」弟子は答えた:「大地の土が多いです」。仏は言われた:「衆生が人を得る機会は私の指の爪の中の土のように少なく、人を得ない機会は大地の土のように多い」。
仏は阿含経の中で、衆生の極めて大部分の時間は三悪道の中で過ごされると説かれた。三悪道の業が一部分消滅し、残ったわずかな福によって、再び人を得て人となる。人となった時また良くせず、多くの悪業を造り、死後また悪道に堕ちる。三悪道では、地獄の時間は劫を単位とし、悪鬼となる時間も劫を単位とし、畜生となる時は各種の畜生で最低五百回であり、悪業が消えて初めて再び人間界に戻る。したがって我々が見るに、極めて大多数の者は人となることができず、人の品德は良くない。それは彼らが三悪道の時間が長すぎ、人としての事をする機会がなく、したがって皆人となることができないからである。我々は今世人を得て、また仏法に出会った。真に良く修持し、あの長劫の苦受を免れるべきである。何のために自らの貪・瞋・癡の煩悩を満たすために悪行を造作しようとするのか。智慧ある者は、静かに心を落ち着けて思惟し、比較し、自らが如何にこの一生を過ごすべきか、未来に如何に再び苦しまないようにするか、生死の悩み苦しみという最大の問題を解決することを考慮すべきである。
九、各人には自らが知らない、あるいは観察し難い随眠煩悩がある。ただ一定の因縁条件の下で初めて顕現する。これらの随眠煩悩は、自ら進んで社会活動に参加して現れさせるのが良いのか、それとも門を閉じて独り修めて現れさせないのが良いのか?
煩悩随眠は主に煩悩習気を指す。貪・瞋・癡・慢・疑・悪見が即ち煩悩である。これらの煩悩は初禪定がなく、三果に修まらないうちは、断除できず、因縁があれば現行する。ただある者は軽くある者は重いだけである。煩悩随眠の意味は、煩悩の習気が識心に眠って隠れており、発見しにくいことである。この習気は初地菩薩から断ち始め、凡夫や阿羅漢たちはまだ断つ能力がない。煩悩の現行が重すぎるならば、多く禅定を修し、多く無我の理を思惟すべきである。もし自ら発見できず、なお降伏させたいならば、人々の中で多く自らを鍛錬し、かつ他者が指摘した時、自らが聞き入れ、善く随順すべきである。他者が指摘するのを見て、瞋恨を起こし、悪行を造作するならば、もしこのような状況であれば、人々の中に少なく行くべきである。そうでなければ、人々の中で多く自らの身・口・意の行いを内省し、虚心に他者の勧告を聞くべきである。
煩悩を降伏させ断除することは、皆、縁に歴り境に対する中で、煩悩の現起を発見し、回光返照し、その場で断ち切ることである。もし人々から遠ざかれば、煩悩は現前しにくく、発見できない。そうなれば煩悩は心に隠れ、断除する因縁がない。他の仏国土に至る時は皆順境であり、煩悩が現起する機会がないため、断除は困難であり、修行は非常に遅い。生きることは快適であっても、道業の進歩は非常に遅い。
十、もし一人の者のEQ(感情知能)が高く、IQ(知能指数)も高く、人情世故をよく理解しているならば、この者は無始劫以来、人中で生活した時間が他者よりやや長いか、あるいは三善道で生活した時間がやや長いことを示す。人間の生存環境に慣れ、人の心理を理解することに長け、人情世故に通じ、人として事を行うことに非常に長けている。彼の意根は長い時間人中の事柄を熏習したため、心性が人と相応する。たとえ前世が畜生道であっても、人に比較的近い畜生類に生まれ変わり、人に比較的近づくことができ、人の心理を理解している。例えば猫や犬のような畜生は、人と一緒に住むため、人の心理や習性を理解し、再び人に生まれ変わった時、人中の人情世故を理解し、人として事を行うことに非常に巧みで、八方美人ですらある。一衆生がどの道に住む時間が長いか、その道の習性が重い。したがって一人の者の習性を見れば、彼の前世がどの道の衆生に属し、どの道から生まれ変わって来たかが分かる。これは衆生の意根が熏染を受け、かつ熏染された種子を現行することを示している。では我々が長期にわたり仏法の熏染、大乗法の熏染、如来蔵法の熏染を受ければ、種子は植えられ、いつか種子は現行し、花を咲かせ実を結ぶであろう。
十一、心中に煩悩が生じた時、我々は静かにそれを見つめ、観察し、それがどこから現れたのか、その源はどこにあるのか、何によってこの煩悩が現れたのかを探求すべきである。それから現れた煩悩の原因を分析し、再びこの原因を解決する。心の中で絶えずその原因を思索し、再びその原因によって煩悩を生じる価値があるかどうか、これらの煩悩を生じる結果は何か、どれだけの問題を解決できるかを分析する。再び我々が幼い頃から大人になるまでどれだけの煩悩を生じたか、それらの煩悩は如何に解決され、如何に消失したか、最終的な結果は何であったかを回想する。再び我々が過去の生生世世無量劫の煩悩がどれほどあったか、悩み苦しみがどれほどあったかを思考する。それらの悩み苦しみ煩悩は皆我々の業報であり、報い終われば過ぎ去る。我々の今世の煩悩も同様に、如何なる状況でも過ぎ去る。何故正しくこれらの煩悩を見て、心の結び目を開き、理にかなって解決しないのか。
我々各学仏者は皆菩薩であると思惟すべきである。菩薩の職責は広く菩薩道を行じることである。それでは常に小さな我の煩悩に浸ってはいられない。我々は必ず心量を開き、未来に目を向けるべきである。我々の未来は無量劫の中で、十方の諸仏国土で広く菩薩道を行じ、無量の衆生を広く度すことである。菩薩の心には個人的な貪・瞋・癡の煩悩があるべきではなく、ただ仏法のより高い証量を得たいという思いから生じる上位の煩悩、如何により良く衆生を教化するかという思いから生じる煩悩、如何に正法を永続的に流布させるかという思いから生じる煩悩のみがあるべきである。心中に常に未来世の菩薩道行を思うならば、眼前の小さな煩悩に縛られることはなく、心量は大きくでき、心は開かれるであろう。未来に目を向けることは極めて重要である!
十二、漏とは、貪・瞋・癡・慢などの煩悩である。無漏とは、これらの煩悩が消失滅除されることである。有為とは、造作があり、運転があり、作為があることであり、身・口・意の行いを含む。無為とは、心行がなく、造作がなく、身・口・意の行いがなく、運転しないことである。第八識は無漏で煩悩がなく、無為法である。三界世間において心行がなく、身行・口行がなく、何も造作せず、自性清浄心である。
しかしそれにはまた有為法がある。それは七識の種子を輸送し、業種を収蔵し、業種を輸送し、一切の法を変生して顕現する。これがそれの有為の部分である。もし有為の部分がなければ、我々の五陰は生存できず、それは五陰に対して純粋に無私に奉献する。このような有為法は、我々が良く学ぶべきである。それの清浄無為の体性を転依することを学ぶと同時に、なおさらそれの無私奉献で見返りを求めない有為性を学ぶべきである。この二方面を我々が良く学び、徹底的に転依に成功すれば、我々の修行も終点に到達する。
煩悩を断除する前提は我見を断つことである。初禅以後、貪愛という煩悩を断ち始め、瞋恚の煩悩も断てば、即ち三果の人となる。貪・瞋・癡・慢の煩悩を断尽すれば、即ち四果の阿羅漢である。外道たちの修行は我見を断っておらず、心の状態が如何に清浄であろうとも、それは皆煩悩を伏せているに過ぎず、断っているのではない。したがって六道輪回を断たず、定力が退失した後、再び煩悩が生じる。それではただ定を修めるだけでは生死輪回から出離できず、必ず我見を断つ智慧と合わせ、智慧に頼って生死輪回の苦しみから出離しなければならない。
無漏の有為法とは、一つには第八識が煩悩なく五陰身の中で運行すること、二つには煩悩なき聖人の行いを指す。有漏の有為法は、三果以下の者の行為造作、特に凡夫の行為造作を指す。有漏の無為法とは、煩悩を断たない者が定中に入り、意識心も滅し、身・口・意の行いの造作がないことを指す。有漏の無為法と呼ばれ、無想定のみがこれに当たる。
十三、煩悩を降伏させることと断除することの区別
七識自体の識種子は清浄で煩悩がない。七識の心所法が運行中に現れる煩悩性である。いわゆる善悪性とは、識心・心所法の善悪性を指す。心所法は七識の運行に伴い、七識が清浄な時は、善十一心所法が七識の運行に伴い、七識が染汚な時は、煩悩心所法が七識の運行に伴う。
修行の後、七識自体は変化せず、心所法が不断に変化する。心所法が徹底的究竟に変化していない時、七識はただ煩悩を圧伏しているに過ぎず、将来も因縁に随って煩悩心所法を現行する。七識が転識成智する時、心所法は既に変化し、煩悩心所法は断除され、善心所法が増加し現行する。この時は三・四果の人に属し、煩悩は断除されており、降伏・圧伏の状態ではない。煩悩の降伏と断除には質的な違いがある。降伏・圧伏の時は、ただ煩悩が現行しないだけで、依然として存在している。煩悩を断除する時は、煩悩が根こそぎ取り除かれ、存在せず、将来再び現行しないことを指す。これが三・四果の人である。
したがって五蓋を降伏させることと、煩悩を断除することにも本質的な区別がある。五蓋を降伏させれば、煩悩は依然として存在するが、ただ現行しない。この時初禅定が現れることができる。当初禅定が現起した後、この定力に依って、先ず貪欲の煩悩を断つ。覚えておいてほしい、断除とは降伏ではない。貪欲の煩悩を断除した後、次第に瞋恚の煩悩を断つ。その間に瞋恚の煩悩を断除するのにどれだけの時間がかかるかは、人によって異なる。覚えておいてほしい、これは瞋恚の煩悩を断除するのであり、瞋恚の煩悩を降伏・圧伏するのではない。両者には質的な違いがある。瞋恚の煩悩は貪欲の煩悩より断ち難く、比較的困難である。瞋恚の煩悩を徹底的に断除した時、初めて真の三果の人となる。これが煩悩を断つ過程と細部であり、先ず降伏・圧伏して現行させず、その後禅定の作用の下で煩悩を断ち切るのである。
もちろんここに智慧は欠かせない。いわゆる智慧とは我見を断つ智慧、五蘊無我を知る智慧である。この智慧の証量がなければ、煩悩を降伏・圧伏することに属する。四禅八定を修得した外道たちは皆そうである。したがってあの外道たちは、人柄が相当良く、煩悩を現行させないが、しかし煩悩は根こそぎ断たれておらず、未来世に定力が消失した時、煩悩は依然として現行する。その時彼らは依然として六道の中で輪回しており、あるいは三悪道に堕ちるかもしれない。これが我見を断つ智慧があるかないかの区別である。
十四、一人の者に心に軽慢心がある時、口に出す言葉が悪業の種子となり将来悪報を受けるだけでなく、軽慢を表す表情さえも業種となり、将来それによって悪報を受けねばならない。さらには心の中の覚観の考えも種子として収蔵され、将来それによって悪報を受けねばならない。心が染汚されるため、業種は清浄でなくなるからである。
自らに軽慢心が現れたものは、いかなる形式であれ、皆速やかに懺悔すべきである。後世に悪報を受けないために、挽回するのにどれほどの代償を払う価値がある。また軽慢心より更に深刻な心行は、なおさら懺悔すべきであり、後世の大悪報を免れるためである。例えば欺瞞や虚言、故意の欺瞞や悪意の虚言は、皆速やかに懺悔すべきである。小さな因が大きな果を得る。これらの事柄は決して遊び事ではなく、果報は虚妄ではない。
昔、一人の小沙弥がある出家の師父について「食事が牛が草を噛むようだ」と言った。五百世牛となった。出家者が出家者の口業でさえあのように深刻である。ましてや在家者が出家者の口業を言うのは、なおさら深刻である。各人皆自らを点検すべきであり、少しの過ちがあれば懺悔し、将来報いを受けて後悔しても間に合わないようにすべきである。現代では三宝を誹謗する者が多く、少なからず、しかも公然と、理屈を並べて堂々と、理不尽で不可思議である。これらの者は地獄に堕ちて報いを受ける可能性がある。もし神通力があれば、地獄に一通り行くことができ、地獄の衆生は皆殺人放火の類ではないと分かる。学仏衆生が大悪業を造って行った者が少なくない。当時は自らが悪業を造っていると知らず、ある者は善業だと思い、何もないことだと思っている。これらの者の中には自ら修行がかなり良いと思っている者が少なくない。
貪・瞋・癡の煩悩が断除されていない限り、悪業を造る可能性がある。特に学仏者が自ら信頼する者に扇動され、頭に血が上り、何事でも敢えて行い、自らは何もないと思い、将来の果報が極めて重いと知らない。世の中でより尊貴な者、衆生に最も有益な者に対して悪業を造れば、罪業はより大きい。学仏者は先ず因果を理解し、身・口・意の行いに注意し、悪業を造作せず、悪報を受けないことが、賢明な者である。真に因果を理解できる者、真に深く因果を信受する者は、ほぼ初地菩薩に修まるところである。地前の菩薩は因果に対して完全に信受できず、ましてや凡夫はなおさらである。なぜなら如来蔵を証得し、如来蔵の運作を現観できる者は、身・口・意の行いは刹那刹那に如来蔵に収蔵され、漏れがなく、果報は避けられないと知っているためである。したがって僥倖の心理はない。
常に仏経に説かれた因果事例を読めば、因果を多く理解し、身・口・意の行いを非常に注意深くできる。頭に血が上り、理性的でない者は至る所にいる。無始劫以来の悪習が深重で、抑制し難い。知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとする。自らが理解していないことについては、軽々しく口を開いて評論・評価すべきではない。自らを過信すべきではない。自らを過信する者は往々にして損をする。皆自ら自らに損をさせるのである。自らを過信する者は、即ち我が強い。要するに、悪業を造り、悪報を受けるのは、依然として内心の「我」のためである。あの「我」が降伏されなければ、絶えず現れて悪業を造るのである。
内心に優越感があれば、即ち我慢であり、即ち「我」が存在する。内心で微細な一つの法を我と認める限り、即ち我慢である。我慢は断ち難く、自らも発見し難い。あまりに習慣的であるため、往々にして気づかず知らず、自然に表れる。大多数の者は非常に粗重な我慢を持ち、自らの慢心に気づく者は極めて稀である。定力が足りず、智慧が足りないため、自らの明らかな慢心と隠れた慢心を内省できず、もし他者が注意しなければ、それを放任して発展させる。
十五、煩悩と無明はどのような状況下で初めて断除できるか
衆生は神通力がないため、知ることは非常に限られており、眼界が狭く、視野が小さい。識心は五陰身に制限され、また煩悩と習気に制限され、業障に制限される。多くの事を知らず見ず証さない。これが無明である。無明を断尽すれば成仏する。多くの者は皆、境界を避け、人々を避け、煩悩と無明を次第に断尽しようとする。しかし無明業障はまさに人々に接触し、事を行う中で断除される。もし煩悩が現前せず、無明が現前しなければ、煩悩の現起に作意し観行することができず、煩悩を断除することもできない。人との交わりの中で、不如意な事に出会い、耐え忍び、一歩引くことは非常に容易ではない。そして煩悩と習気を断除することは、逆縁の中で耐え忍び、その後初めて断除できる。ある順境も、耐え忍び得意にならず、その後初めて順境への貪愛を断除できる。境界がなければ、煩悩を断つことはできない。心の奥深くの煩悩が見えず、煩悩が現前しなければ、断ち切ることができず、根こそぎ取り除くことができないからである。
十六、我執とは、五陰の我に対する執着不捨である。我執を断てば解脱を得、五陰に縛られず、十八界に縛られず、三界世間の如何なる法にも縛られず、智慧を持って三界を出離する。これが四果阿羅漢の境界である。彼らは我執を断った後、再び五陰の我を執着せず、寿終すれば自らを滅して無余涅槃に入る。
法執はまた法我執とも呼ばれ、蘊・処・界が和合して生じる一切の法の中に我が存在すると執着する。地上の菩薩は一分の無生法忍を修すれば、一分の法無我を証し、一分の法執を断つ。地上の菩薩は留惑潤生のため、五蘊身を保有し、故意に我執を断尽せず、法執を断ち始め、蘊・処・界が和合して生じる一切の法の中に我も我所有もないことを証得する。法執を断尽し、円満に成仏する。
十七、煩悩性の疑い、例えば我に執着し、我慢があり、見取見があれば、故なく他者や他法を疑い、自らの知見・見解を正しいと執着し、自らの間違いも正しく、他者の正しいことも間違いだとする。煩悩があり、愚痴があるため、仏語を信受せず、故なく師や法を疑う。阿羅漢は既にこの種の疑いを断っており、仏を疑わず、法を疑わず、師を疑わない。しかしこれは小乗の修証の面では疑わないが、大乗法では無量の疑いが解決されておらず、これらの疑いは貪・瞋・癡の煩悩とは関連せず、純粋に大乗の法理における理解不足である。これが無記の疑いである。仏は一切の疑いを断ち、一つとして明らかでないものはなく、一切種智を修証された。
声聞は多聞を厭うと言われる。彼らは大乗法を喜ばず、自ら修証した小乗解脱道に満足し、解脱心を得られれば既に満足するからである。縁覚は思惟を厭う。彼らは十二因縁法を逆推し、第八識阿頼耶識に至れば、一切の法は第八識から生じると知るが、心を起こして引き続き第八識を証しようとはせず、縁生法の修証に満足し、生死を出離できれば満足する。しかし菩薩は思惟観行に厭き足らず、勇猛精進に修行し、一切種智を探究し、遂に仏道を成就する。
声聞・縁覚には五陰解脱の智慧があるが、清浄ではなく、一切の法は皆空であると知り、一切智を証得した。しかし根器が漏劣であり、ただ自らが解脱を得、輪回を出離することのみを思い、大菩提心を発せず、衆生の苦しみを顧みず、仏道を成就しようとしない。仏の智慧は清浄で、根器は極めて大きく、大いなる心・大いなる量であり、一切の衆生を度すことを誓う。声聞・縁覚の行いは清浄でなく、ただ個人が解脱を得るためであり、広く菩薩の六度・十度・万行を行じ、広く衆生を利しない。たとえ衆生を成就するためであっても、小さな戒さえ犯すことを好まず、それによって涅槃に入り解脱を得られなくなることを恐れ、一切の行いはただ自らが解脱を得るためである。仏が菩薩であった時は、衆生のために、寧ろ殺業・邪淫業を犯し、自らが地獄に堕ちることを厭わず、衆生を救い度した。一切の行いは皆自らのためではない。声聞・縁覚は自らのために修行し、行いは皆限られたものである。しかし仏は三大阿僧祇劫の修行、六度・十度・万行、その行いは無量無辺であり、無数の衆生を度化した。