衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年03月20日 閲覧数: 4917
<h2 style="text-indent: 2em;">第三章 性障 (kleśāvaraṇa) と煩悩篇(2)</h2><h3 style="text-indent: 2em;">二十四、貪愛執著は生死輪回の因</h3>

生死の因は何であるか、この点をはっきりさせておかなければならない。生死輪回は貪瞋痴の煩悩によるものであり、五陰十八界に対する貪愛と執著であり、三界の世俗法に対する貪愛と執著である。執著がなく、貪愛がなく、煩悩がなく、煩悩がすべて断じ尽くされていれば、自然に生死輪回を出離することができる。もし他人への恭敬が実質的には自分の煩悩性の現前であって、真の恭敬でないならば、それには生死がある。煩悩の現れでないならば、それは生死とは関わりがなく、仏への恭敬も含まれる。清浄 (viśuddha/pariśuddha) 心と真誠心をもってすれば、かえって福徳を増し、生死の煩悩を解消するのに有益である。楞厳経第一巻には、阿難が出家した因は仏に対する貪愛であって、恭敬だけでなかったと記されている。それゆえ仏は、仏を愛楽する心はどれか、どこにあるのかを問い、この貪愛心を降伏させてはじめて生死の問題を解決できるようにされたのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、四禅八定を修することは涅槃を証得して解脱を得られるか</h3>

涅槃とは、心解脱と慧解脱を得た阿羅漢が証する境界であり、禅定と関係するだけでなく、主として解脱の智慧と関係する。たとえ初禅・二禅・三禅・四禅を修しても、解脱を得ることはできず、なお生死輪回の中にある。生死の根源である我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除していないからであり、それゆえ我に関わる煩悩も断除されておらず、煩悩に繋縛され、心は解脱を得られず、涅槃を証していないのである。

心の解脱は小乗三果人の境界であり、初禅以上の禅定があるだけでなく、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、貪欲と瞋恚の煩悩および三縛結を断じており、これが有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) を証得したものである。さらに我慢・我執を断除し、三界に対する貪愛をすべて断じ尽くし、解脱の智慧を獲得すれば、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ることができる。

したがって、禅定だけでは煩悩を断除することはできず、煩悩を圧伏できるだけで、心は解脱を得られず、智慧も解脱を得られない。心解脱とは智慧に禅定を加え、煩悩を断除して獲得した解脱境界であり、慧解脱も同様に、解脱の智慧に禅定を加え、すべての煩悩を断除して獲得した解脱境界である。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、心の中に我があってこそさまざまな煩悩感情が生じる</h3>

多くの人は毎日、話すために話し、自分を表明し、自分を誇示するために口を慎まず、心の中の我が非常に重く、回光返照して自分の身口意行を点検することを知らない。修行とは何を修めるのか。毎日無我と叫びながら、心の中の我はなお重く、自分で自分を点検して、修行は一体何を修めたのか、力強さがあったのかを問うべきである。

自分の心の中を点検して、なぜ不愉快な感情があるのかを考えてみよ。もし心の中に我がなく、我が重くないならば、不愉快にならないでいられるだろうか。我に順う者は楽とし、我に逆らう者は悲しみ・憂え・恨み・苦しむ、これこそ十分すぎるほどの我であり、無我と正反対である。修行の最終目的は無我に到達することであり、毎日心の中の我を溶かし去ること、これこそ最良の修行である。千経万論を学ぶのは無我に到達するためであって、仏法を学ぶために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶ目的は無我を実現することにある。もし毎日自分の我のために仏法を学び、自分を誇示するならば、それは修行に背馳するのではないか。

第七識の意根の我執が重い原因は、我相に執着し、常に自分を際立たせ、自分を表明しようとし、自分がどうしたこうしたと言うことにある。それが間違っていると告げて、そうではないと言えば、すぐに自分のために弁明したり、憤然と立ち去ったりする。これらはすべて深刻な我心である。真に速やかに修行し、速やかに道業を進めたいならば、毎日自分の煩悩心所法を点検し、以前より減ったかどうか、感情的な表現が減ったかどうか、慢心と我心が軽減したかどうかを見るべきである。これこそ正しい修行である。大量の知見を学んで、かえって我心と慢心を増長するようでは、学び方が間違っており、逆に学んでいるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、見惑と思惑とは何か</h3>

見惑とは知見上の煩悩を指し、知見が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく正しくないことを見惑と称し、見道の時に断じられる。見惑とは、衆生が五陰十八界を真実の我とし、生滅しない我とみなすことであり、それゆえ執著して捨てないのである。五陰十八界を我とする知見を断除することを、断見惑と名づける。

思惑とは思想上の迷惑顛倒を指し、貪瞋痴の煩悩と煩悩の習気、すべての無明惑であり、修道以後にしか断除できない。小乗の思惑は貪瞋痴の煩悩、三界の世間に対する貪愛を指す。大乗の思惑はこれに加えて、衆生の心地にあるすべての塵沙無明惑を含む。小乗の思惑を断じ尽くせば四果阿羅漢であり、大乗の思惑を断じ尽くせば仏世尊である。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、すべての煩悩は我に因って来たる</h3>

世俗の争いは、すべての人の身心を疲弊させる。争って争って、結局我を争っているのであり、自我を放下すれば、あなたも良し私も良し、みんなが良し、なんと快適であろうか。なぜ自分だけが良くて、他人が良くないのでなければならないのか。各人の心の中のあの我は、巨石のように重く、息もできないほど圧しつけられ、毎日毎月毎年毎生毎世、非常に苦しく、疲れ、重く生きている。今からでも、我々は無我という道具を使って、この我ありの巨石を少しずつ叩き割り、大きな石を小さな石にし、小さな石を砕石にし、砕石を少しずつ心の中から離れさせて消し去ることを学ぶべきである。そうすれば心は軽くなり重苦しさがなくなり、心は解脱して自在となり、心は愉悦で楽しく安らかなものとなる。

すべての争奪と闘争は、我があるために生じるものであり、無我なら争奪も闘争もしない。無我の性は程度に分かれ、我の性も程度に分かれる。我の性が軽微であるほど断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) は容易であり、逆ならば容易でない。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の過程においては、我の性は次第に軽減され、無我に近づいてはじめて、最後の観行 (vipaśyanā-caryā) の時に我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除できるのである。

日頃の修行の過程においては、常に自分の我が次第に弱まっているかどうかを点検しなければならない。人付き合いの中で、自分の煩悩がまだ重いかどうか、慢心と執著がまだ重いかどうかを観察する。もし自分の慢心が重く、我心が重いと観察できたら、自分を調伏し、圧伏する方法を講じなければならない。

人は何ゆえに慢心を持つのか。自分の五陰の身は他人より勝れており、自分は他人より重要であると自ら考え、それゆえ慢を起こすのである。この知見を降伏しなければ、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) は非常に難しい。自分の五陰の身を真実とみなし、自分の覚知心を真実とみなし、自分の所有する色声香味触法や財・色・名・食を真実とみなすからこそ、内心に自覚するしないにかかわらず慢心が生じ、他人を凌ぎ滅ぼし、心に高低の不平が生じるのである。修行の過程では、これらの慢心を努力して克服しなければならず、慢心と我心が軽微になってはじめて、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) が可能となる。

すべての煩悩は我に因って来たるものであり、無我なら煩悩はなく、無我であればあるほど煩悩はなく、究竟の無我に至れば、煩悩および習気はすべて断じ尽くされる。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十九、自分自身の革命を起こしてこそ解脱を得られる</h3>

心を観ずることを知らず、心を観ずることができず、心を観じられない人は、自心を覚ることができない。自心を覚ることができなければ、自心を変えることもできない。多くの人が学仏しても、心を勝手に漂流させ、自分の貪瞋痴の煩悩に随順し、自分の我の性に随順し、自分に悪心があり、不善心所があると考えたことがなく、それゆえ自分を変えようと考えたこともない。それゆえ、時々処処に自我と逆らい、自分の煩悩習気と逆らい、自分の愚痴無明と逆らうことがなく、我心我性に随順することは生死に随順することであり、三悪道に随順することであり、苦業に随順することであることを知らないのである。

革命とは、誰の革命か。自分自身の革命であり、意根の革命である。そうしてはじめて解脱を得、大自在を得ることができる。ところが多くの人は毎日他人の革命を起こし、他人を変えようと努力して、自分の我の性に随順させ、自分の私欲と貪婪を満足させている。このような人こそ無明の深重な人である。心を観じられない人はみな、煩悩習気の深刻な人、我の性の重い人、自大自慢の人である。このような人は、意識心すら覚っていないのに、内心の深処にある意根がどうして覚り、解脱し、自在であろうか。

大多数の人は仏法に出会わなければ、内心は迷い覚らず、仏法に出会っても、やはり迷い覚らない。外境を抓取して我が所有とし、我が用とし、我見と我慢を増やし、卑劣な手段を惜しまず個人の私欲私利を達成しながら、堂々と自分には修行があり、手段があり、聡明才智があると思い込む。決して回光返照して自分を観ずることができず、法を学んだ後は、仏法の知識を一種の偽装として自我を強大化し、自我を増長する。実に愚痴であり、しかもそれを自覚しないのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十、いかに煩悩の賊を捕らえるか</h3>

修行してある程度覚った人は、しばしば回光返照して自分を観ずるので、内心の深処にあるあの我が常に頭をもたげようとすることに気づく。これは良いことであり、覚っていない人には発見できない。頭をもたげるあの我を発見したら、この我を観察し、彼が一体どこから来てどこへ行くのか、どのように生起し、どのように滅し、どのように運作するのか、心行はどのようであるか、どんな目的があるのかを見る。しばしばこのように観察すれば、必ず重大な発見がある。

このように修行する人は、自分を意図的に圧制してはならない。煩悩に頭をもたげさせ、それから捕らえて審判し、その来龍去脈をはっきりさせれば、大きな収穫がある。以後の断煩悩も同様であり、煩悩を意図的に圧制せず、煩悩の起こるところを見て、素早く捕らえ、しっかりと審判・審査すれば、必ず改造できる。修行はやはり娑婆世界の中で行うのが良く、処処が賊を擒める機縁である。賊を擒めることができれば、彼を識ることができ、自家の宝蔵はこれ以上損失しなくなる。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十一、四相があるからこそ是非紛争がある</h3>

人の心が平らかでなく、是非紛争が絶えないのは、なぜ平らかでないのか。心の中に四相があり、相には好悪と凹凸があり、心の中に存するので、心が平らかでないのである。心はもとより自ら平らかであり、平らかでないのは相を見るあの心である。どうすれば心を平らにできるか。相を平らに抹平するのである。どうすれば抹平できるか。相を平等一如と観じ、相の実質と本質を見抜くのである。相の実質と本質とは何か。七大種子の組合せにすぎず、如来蔵 (tathāgatagarbha) の造るところにすぎず、真実の相があって我々が見るところとなるなどあろうか。眼に翳病があれば、見るものに高低・上下・美醜があり、病眼は空花を望むが、病が去れば空花はない。修行とは、病を除いて実相を見ることであり、これ以外にない。これは人を勉めるためであり、自らを勉めるためでもある。

では、争い闘うことを好む人に出会ったらどうするか。彼を忍び、彼に譲り、数年経ってから彼を見る。彼に争わせ、彼に闘わせ、彼に第一位を取らせ、彼に高大であらせ、すべての相を彼の心の中に置かせる。我々は逆にすべての相を空ずるのであり、空ずれば空ずるほど良く、懦弱であればあるほど良く、無我であればあるほど良い。四相が空じて清浄 (viśuddha/pariśuddha) となれば、掛礙なく、心は解脱し、常楽我浄となり、成仏するに有余る。そうすれば、最後に誰が第一位か、誰が勝つのか。智者は為さず、愚人は求める。

すべての争闘は、自心と争い、自心と闘うのであり、他人を闘うことはできず、自分自身を闘うしかない。内心に無明があれば、他人を見、自我を見、争うべき利益を見る。無明がなければ、自他を見ず、如来蔵 (tathāgatagarbha) が一切法を総持していることだけを見、一真法界だけを見る。

我々が是非に直面し、他人の過ちに直面した時、これらの境界を空ずることも避けることもできず、これらの人事を解決しなければならない場合、どうすればよいか。人事の境界の虚幻不実の性を観行 (vipaśyanā-caryā) し、一切法に我なく、人なく、衆生なく、事相がないことを観行 (vipaśyanā-caryā) すべきである。口でどうしても人事を論じなければならないなら、意識心のレベルで客観的に評価し、如理の方式で如理に解決するだけであり、内心に騒動があってはならず、人事情節に牽引されて、その中に陥って抜け出せなくなることがあってはならない。そうすればすべての覚照の力を失い、我相・人相・衆生相・事相がすべて現前し、しかもそれを真実と執して、心が事相に染汚され、染汚の業種が自分の如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に存入され、後世に果報を自ら受け、損のほうが大きくなる。

他人の過失を自分の心の中に蔵し、自家の田地を侵し汚し、後世に累を及ぼして清浄 (viśuddha/pariśuddha) を得られないような智者がどこにあろうか。他人の過失を見たら、回光返照して自心を観ずり、人を責めて己を責めないことがあってはならない。誰が修行すれば誰が了するのであり、誰が他人に代わって修行し、人に代わって成就し、自分が業果を背負うということがあろうか。そんな道理はない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十二、学仏は自心を覚照し煩悩を降伏するために用いるものである</h3>

多くの人が仏法を十数年、あるいは二三十年学びながら、今なお学仏は何のためであるかを知らず、多くの仏理を学びながら、それを自心を覚照し、自心を降伏し、自心を変えるために用いることを知らず、かえって他人を覚照するのに用いる。そのため煩悩のある人事に出会うと、心に大波が立ち、長く平静になれず、是非紛争が絶えず、学仏修行の目的と方向から逸脱してしまう。学んだ理は依然として理であり、出会った事は依然として事であり、理事が結合できず、円融もできず、自心の功徳受用を得られない。もし学仏人が事を見る時に理から著しく離れ、単独に存在する事になってしまえば、学んだ理も意味を失ってしまう。

では、どうすれば娑婆世界の人事の紛争と煩悩に直面すべきか。大乗法を学んだ人は、一切法はすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) が幻化したものであり、実際に存在する人事物理はなく、すべて如来蔵 (tathāgatagarbha) という魔幻師が縁に依って七大種子を出力して生成したものであることを知っている。絵師が墨をふりまいて描き出した一幅一幅の画像のように、我々は画像を真実の物とみなしてはならず、画像の中の人物や風景を真実とみなして貪ったり厭ったりしてはならない。すべての画像はただ彩色と墨で噴き描かれたものであり、一山の顔料の堆積にすぎず、一山一山の顔料を執著し分別して心を動かし念を生じるような智者がどこにあろうか。真の智者はまた、如来蔵 (tathāgatagarbha) が七大種子で堆積した人事物理や山河大地に対して執念を生じるべきではない。

この観行 (vipaśyanā-caryā) を多く行い、しばしば覚照すれば、自心が人事の紛争の中に陥って抜け出せなくなり、学仏修行の真実の利益を得られず、いたずらに各種の仏学理論知識の蓄積に功を用い、絵に描いた餅で空腹を満たすようなことにはならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十三、衆生は愚痴で自らを救うことを知らない</h3>

人は誰も今生今世に苦難・苦悩・波折・挫折を経験してきたが、衆生はなお覚らず、仏法に出会い、仏が苦諦の真実の義を説いても、衆生はなお覚らず、なお苦に貪着し、出離しようとしない。衆生の愚痴無明はまさにこのようであり、どれほどの苦難を身をもって経験しても、反省して自らを救うことを知らず、仏が救度に来ても受け入れない。無明が薄く、善根が厚く、煩悩が軽微な人は、煩悩に出会えば解決と回避の方法を講じるが、愚痴な人は耐え続け、深く陥っていても抜け出そうとしない。食べることは覚えていても打たれることは覚えていないのである。

衆生は自らを救うことを知っているだろうか。もし知っているならば、仏陀が娑婆世界に来て苦聖諦を説く必要もなかったはずである。しかし仏陀が苦聖諦を説き終えて、我々の末法時期の劣根の人に何の役に立つのか。意識と意根の一方でも自らを救うことを知り、苦を知り、苦からの出離を知っていれば、仏陀が救度に来る必要もない。しかし今では仏陀が再び自ら来ても大きな作用はなく、衆生の無明があまりに深重で、愚痴で救いがたいのである。

地蔵経の中に記述されている:佛告阎罗天子。南阎浮提众生。其性刚强。难调难伏。是大菩萨。于百千劫。头头救拔如是众生。早令解脱。是罪报人。乃至堕大恶趣。菩萨以方便力。拔出根本业缘。而遣悟宿世之事。自是阎浮众生结恶习重。旋出旋入。劳斯菩萨。久经劫数。而作度脱。閻浮の衆生は悪習の結縛が重く、地獄から出てはまた入り、出たり入れたり、家に帰るように頻繁である。この菩薩を労させ、久しく劫数を経て、度脱を行じさせる。菩薩たちは十分に忍耐強いのに、衆生は慚愧を感じない。なんと下劣なことか。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十四、いかに魔を懺悔し罪魘を除くか</h3>

多くの人が仏法を修学した後、世間法上の利益の追求から、仏法修学上の利益の追求へと転じるが、実際にはなお自我への追求と執著であり、内心の我を断たず、我執を断たず、我見と我執を增益する。私はより多くの弟子を、私はより大きな権利を、私はより高い名声を、私はより多くの衆生からのより多くの恭敬を欲する。すべての目的は心理的な心地よさのためである。しかし、この心の心地よい覚受に実在の意味があるだろうか。衆人に追捧されれば私は心地よい。この心地よい覚受は意識心の感覚であり、この意識心は生滅幻化のもので、もとより虚妄であり、長く存在し得ず、生じては滅し、日夜断滅するものである。

真の修行人は、しばしば心を静め、常に反観して自心を観じ、私は一体何を追求しているのか、と問うべきである。私は財を抓むが、財を抓む目的は何か。私は今、享受を貪り覚受を貪っているが、その目的は何か。何の意味があるのか。何の過失があるのか。私は各種の欲望を持っているが、これらの欲望の最後の結末は何か。自分の内心を見極め、しかも勇敢に自分の内心と向き合い、自分が仏法を修学する最終目的は何であるかをはっきりさせ、いかに如理如法に仏法の修学を通じてこの目的に達するかを明らかにし、自分の最終の目標に背馳しないようにしなければならない。もし内心に求めるところがなければ、速やかに目的に達することができる。私はなお何を追求するのか。しばしば自分に何が欲しいのかを問うべきである。争い奪い合って何を図るのか。解脱を得られるのか。実際の意味があるのか。追求する一切は如来蔵 (tathāgatagarbha) が幻化した影像ではないのか。求めても失うことになるのか、あるいはさらに多くを失うのか。このような如理でない作意と追求は、自分を束縛する枷鎖を増やすのか、それとも解脱の功徳受用を増やすのか。

人が得ようとするものが多ければ多いほど、失うものも多くなるのが常である。我々が学仏するのは心の負担を軽減するためであり、世間の虚妄の相に両目を迷わされてはならない。他人をはっきり見るだけでなく、自分をさらにはっきり見て、常にこのように自分を反観すべきである。学仏において相の上でばかり貪り、心の上で功を用いなければ、相への貪着のために世間で争い奪い合い、自分の魂を売り渡し、心に逆らって事を行い、自分の煩悩と心の負累を増やすしかない。仏法を世間の利益を争奪する道具、個人の貪欲の道具、他人を圧倒する道具としたなら、実に罪過であり、禍患は窮まりない。修行人が自分と衆生の心の上の煩悩を軽減する方法を講じるのでなく、逆に煩悩の上に層層の枷鎖を加え、さらに種々の不善業を造作するなら、仏教と衆生に殃及し、昇ろうとしてかえって堕ち、損のほうが大きい。実に無智の挙であり、速やかに悔い改め、罪魘を除くべきである。  

<h3 style="text-indent: 2em;">三十五、有為法は必ずしもすべて有漏であるとは限らない</h3>

四果羅漢の身口意行は有為法であり、地上菩薩の身口意行は有為法であるが、無漏と相応しており、無漏とは煩悩性がないことである。ただし習気は免れない。仏の身口意行は完全徹底して無漏であるが、有為法であり、仏が衆生を度し、無量の仏国土を現ずるのは、すべて有為法であり、すべて無漏である。もし有為法が無漏であり得ないなら、衆生が学仏修行しても無用である。第六識・第七識が煩悩を断除すれば、その心行は無漏と相応し、六七識が転識成智した後は、なおさら無漏と相応し、その智慧も無漏であり、心行の上でだけ無漏なのではない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十六、大乗小乗の見道者は煩悩が軽微</h3>

証果の後は三悪道の業は消滅するが、これらの業は人中で受報しなければならず、人中でどのように受報しても、三悪道より軽微である。人中で最大の悪報は短寿であり、人に殺されるか虐待されて死ぬことも、三悪道の苦受より軽微である。六識心があれば感受があり、苦楽および不苦不楽を感受できる。聖人も同様であるが、ただ聖人は用心することが少なく、心が五欲六塵の上にないので、苦楽の受は非常に軽微である。もし六塵を意にかければ、苦楽の受もやや多くなる。

煩悩があれば業行があり、過ちを犯す。開悟と証果の後も同様である。煩悩が軽微なら過ちは少なく、煩悩を断除すれば過ちはさらに少ない。煩悩を断除した後も煩悩の習気があり、わずかな軽微な過ちもある。八地菩薩に至って我執を断じ尽くし、煩悩習気を断じ尽くして初めて、我に関する業行がなくなる。四地菩薩以上は、四禅八定があり、神通があるので、苦受はほとんどなく、彼らは軽々しく人間に来ない。特に七八地の菩薩は、人間に来る必要がまったくない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十七、飲食が禅定に与える影響</h3>

飲食も禅定に影響する重要な要素である。身体に過剰の栄養物質を摂取し、身体の必要を超えれば、身体は反応を起こす。その後識心に影響し、識心の反応はやや躁動不安となり、心念は清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく、情緒は制御しにくくなるか、あるいは強制的な制御が必要となる。これらの栄養には、魚肉類・煙酒類・葱蒜類などの葷腥物質だけでなく、精進料理も含まれる。精進料理でも栄養が過剰なら、身体と情緒の過激な反応を招き、身体と心理の負担が増え、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になりにくく、禅定に影響する。

それゆえ多くの人が禅定は修めにくいと訴えるなら、自分の飲食構造を点検し、栄養が過多過剰でないかを見るべきである。現在は物質生活が豊富多彩であるため、人々は口腹と栄養に貪着し、色身と美味を過剰に愛惜し、そのために身心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなくなり、貪も瞋も降伏しにくく、煩悩が重く、禅定は当然成就できず、仏法の観行 (vipaśyanā-caryā) と実証は難上加難となる。そうなれば、学仏は広博多聞で、理論に熟練し、弁舌は懸河のようであっても、その内心の実証は結局成就せず、知解宗徒と理論雑家にしかならない。

世尊は楞厳経の中で弟子たちに葷腥を断除し、欲心と瞋心を降伏させ、道業を速やかに増進させることを求められた。しかし現代社会では物質生活があまりに豊富で、精進料理であっても同様に身心の清浄 (viśuddha/pariśuddha) に影響し、欲心と瞋心を増長させ、道業は速やかに増進できない。これは我々広大な学仏弟子の注意を喚起すべきことであり、自分の飲食構造を調整して修行に資するようにすべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十八、煩悩を断じる過程</h3>

心を軟化させる前提は、修行の理を明らかにすることである。仏法の中の正しい知見を学び、世間の一切法はすべて仮相であることを知り、しかも歴縁対境してこの心を磨き、この心を消融させてはじめて、心は徐々に軟化する。無我を証得しようとすれば、まず自我が虚妄であることを知り、自我がいかに虚妄であるかを観行 (vipaśyanā-caryā) し、真に認めてはじめて無我を証得できる。しかしまだ煩悩が断たれていないので、引き続き深く観行 (vipaśyanā-caryā) して、はじめて煩悩は淡薄になる。欲界の需要が減り、初禅を証して、はじめて少しずつ各種の煩悩を断除し始める。これ以前は、すべて煩悩を圧伏しているのであって、断ではない。

断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) し、無我を証した後に、はじめて意根の自我への執著を破除する能力を得て、自我のない人となる。五陰十八界の我の虚妄見を破除した後には、身口意の各種の活動の中に、真実にして虚妄でなく、常に働いている真心如来蔵 (tathāgatagarbha) を発見する能力が得られる。初果を証することと明心とは一つの階位の差しかないが、この中で、福徳と智慧は大きく異なる。後者はより大きな福徳と深い智慧が必要であり、無我智に大乗の智慧を加えなければならない。言うのは容易いが、行うのは容易くない。ただ自分の信心を堅持すれば、知らず知らずのうちにこれらの条件を満たし、真実義の菩薩となることができる。努力し懈けなければ、すべて成就できる。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十九、清涼剤も煩悩散になることがある</h3>

仏法はもとより一剤の清涼薬であり、人の心を清涼 (viśuddha/pariśuddha) にして解脱させることができる。どのような場合に、この清涼薬が毒薬となり、服用すれば生死を増やし、地獄三悪道に趣向するのか。

貪瞋痴の煩悩心で法を学べば、法を学ぶ目的は無我の解脱功徳を得るためではなく、自我の重しを増やして、すべての人を圧倒し、すべての人を凌ぎ滅ぼし、すべての人を駆使し、すべての人を支配するためである。それゆえ仏法をますます学べば学ぶほど、我の性はますます強烈になり、思わず仏法の刀杖を手にして一切を砍殺し、煩悩と業障はますます増勝し、貪瞋痴はますます深刻になり、我の性はますます強壮になる。このように仏法の中で悪業を造作した後、最終的には地獄に趣向し、三悪道に趣向し、解脱を得られないばかりか、かえって生死の苦厄を増長する。

明心見性を追求する人は、人上人になりたいのであり、すべてを超越し、すべての人の肩の上に立ちたいのである。このような人は、我相・人相・衆生相・寿者相を破除できないばかりか、かえって我相・人相・衆生相・寿者相を増やし、我執を増やし、生死の繋縛はますます緊くなる。これは顛倒した衆生である。

衆生の生死煩悩を最も救度できるのは仏法という清涼剤だけであるが、仏法の知識を自分が世間法を得るための重しにする時、仏法は煩悩散となってしまう。このような人は、もはや救い薬がなく、学仏は学ばないほうがましである。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十、貪の習気があることの果報</h3>

真に解脱したい学仏人は、日常生活の中で、自分の内心の各種の覚受を仔細に点検し、自分が何に貪愛しているのか、何事に意を用い、何事に心思と精力を費やしているのかを点検すべきである。点検した後、これがどんな心理であるか、何の意味があるか、結果は何かを分析しなければならない。それから自分の貪愛と覚受を対治する方法を講じれば、修行は遮障を払除し、道業の進歩は速くなる。

我々の無始劫以来の貪の習気は非常に重く、自分ではなかなか発見できない。習慣になり、常態化しているからであり、貪の習気を去掉し降伏したことのある过来人だけが、自分と他人の貪心を発見できる。香の庭に久しく住めば香を覚えず、糞の壺に久しく処すれば臭いを覚えないのと同様であり、香の庭の外にいる人だけが清香を嗅ぎ、糞の壺の外にいる人だけが臭穢を嗅ぎ取ることができる。

貪の範囲は非常に広く、欲界の中の法であれば、好きなものはすべて貪である。詩詞歌賦に長けた文豪、揮洒自在の画匠は、ほとんど皆鬼道に瀟洒に行ってしまった。それらはすべて貪に属するからであり、ましてその他の方面、情情愛愛はなおさら貪であり、鬼道から受生を離れられない。しばしば馬を描く人は、神韻に似て描けば、死後に馬腹に投生する。しばしば鬼類の小説を書く人は、極めて神妙に書けば、死後に投胎して鬼となる。頭の中でしばしば何を考えていれば、死後は何と仲間になる。画匠が馬を描くのは非常に専注であり、心が馬と相応すれば、来世には馬に托生する。しばしば鬼神小説を書く人は、心が鬼神の中に投入され、鬼神と相応すれば、死後に鬼となる。我々が今念仏 (buddhānusmṛti) すれば、心が仏と相応し、仏の身辺に生まれる。心が善と相応すれば善道に托生し、心が悪と相応すれば悪道に托生する。

鬼道の業報が終わり、なおいくらかの福徳があれば、畜生道に受生に行く。畜生道の業報が終わり、なおいくらかの福徳が残っている人が、はじめて再び人間に戻って受生する。それゆえ人身を得る時間は非常に短く、三悪道にいる時間は非常に長く、どの衆生も苦受が多く、楽受は極めて少ない。それゆえ我々はやはり未来世のために考え、福を少なく享楽し、後世のために多くの福を残すべきであり、福が大きくてはじめて速やかに人に投生できる。

善根福徳の深厚な人は仏の身辺にいて、仏の督導と薫染を受け、修行が非常に速い。仏がなくても、煩悩を断除した菩薩の身辺、阿羅漢の身辺では、修行が非常に速い。いわゆる朱に近ければ赤くなり、墨に近ければ黒くなる。心中の大きな貪心はやや粗く観察できるが、細微な貪は極めて多く、煩悩を断じた人でない限り、ほとんど誰も観察できない。人身を得る機会はなんと微少であり、人身を得る時間はなんと短く、人身を得て証果し解脱を得ることはなんと稀で容易でないことか。すでに人身を得た我々は、この得難い時機をいかに把握し、精勤に修証して微少の解脱を得るか、これは我々がしばしば深く考えるべき問題である。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十一、自分を正しいと思い込むことは愚痴である</h3>

智慧が不足している時は、現量に依って判断することができない。正確に判断するには非常に高い智慧と、相当に優れた擇法眼が必要である。多くの人が自分の意識の理解を現量の観察とみなしているが、証拠が確実でなければ、現量の観察から出たものであるはずがない。現量観察の智慧のない人は九割以上を占め、世俗法の中でも同様である。それゆえ現量観察を提唱し、現量に依って判断せよと言っても、これは非常に難しいことである。

多くの人は、自分には現量観察の智慧がなく、多くの法を現量観察できず、特に高深な法はなおさら現量観察できないということを、実事求是に観察できない。しかし衆生は往々にして自分を正しいと思い込み、自分には現量があると考えるので、どうにもならない。多くの人が、自分の学んだ法は正法であり、他人の学んだのはすべて邪法であり、自分の師は正師であり、他の師はすべて邪師であり、自分の観点はすべて正しく、他人の観点はすべて誤りであると言うのと同様である。このような深刻な我執と我所執があるため、自分の誤った執を反省することが決してないのである。

衆生が度し難いのは愚痴の性にある。愚痴であるがゆえに自分の愚痴を知らないのである。愚痴の範囲は極めて広く、極めて細かく、九地菩薩・十地菩薩にもなお深細な愚痴無明があって破除する必要があるほどである。すべての煩悩は愚痴から引き出されたものであり、貪を含み、瞋を含み、慢を含み、疑を含み、すべての邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を含む。それゆえ愚痴を滅し尽くせば煩悩は滅し尽くされ、無明は滅し尽くされ、仏法においてはもはや何も学ぶことがなく、完全に卒業となる。

三悪道の衆生の中では、やはり畜生道の衆生が最も度し難い。畜生は極めて重い愚痴の性があり、言語が通じず、法義を吸収できず、また反省しないからである。鬼道の衆生と地獄道の衆生は、悪業は重いが、なお人語を聞き分けることができ、思考できるので、救度する方法がある。

もし人に現量の智慧がなく、正教量に依ろうとしても、それも容易ではない。仏経は白紙黒字であるが、何人の誤解があり、何人の錯解があるか。経文を一字一句そのまま復述しても、声を発し、抑揚をつければ、経文の意味を変えてしまう。現在の大蔵経には、現代人が改めて整理・校対したものが多く、句読点さえ間違えて打たれている。古文の仏経の句読点は一般に句号であるが、現代人が校対した後、現代文の句読点に変え、経文の意味がねじれ、原意が見えなくなった。とにかく一言で言えば、愚痴なら智慧が不足し、智慧が不足すれば何事もうまくできない。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十二、慢心の危害性</h3>

多くの人は賛美と批判に耐えられないが、その原因を究めれば、やはり我心のために慢心が現れるのである。三果四果以前は誰もが慢心を持っており、ただ因縁が具足しない時には、慢心は随眠として隠れている。因縁が現前する時が来ると、慢心は現行する。ほとんど誰もがこの段階を経なければならず、ただ時間の長短と深浅が異なるだけである。

最も卑微な人は、ひとたび自分が得勢すると、往々にして心が最も慢な人である。卑微と自卑もまた慢心我心の一つの表現形式であり、我心がなければ、自卑を感じることもない。それゆえ、どれほど自卑であれば、どれほど慢である。

ほとんどすべての慢は、世俗法の方面に現れる。たとえば富貴多金ゆえに慢な人、地位が高いゆえに慢な人、権勢があるゆえに慢な人、相貌ゆえに慢な人、如意の家親眷属があるゆえに慢な人、閲歴が広いゆえに慢な人、ある種の特技があるゆえに慢な人、自分の聡明才智ゆえに慢な人、多くの人が色身のゆえに慢であり、多くの人が頭脳の智慧ゆえに慢である。これらの慢の種類はかなり多く、いずれも内心に我と我所があり、身見と我見 (satkāya-dṛṣṭi) が重いことによって生じたものである。

慢心は最も道を障げ、慢心は最も魔に入りやすい。ある人には顔一面にあばたがあるのに自分では見えず、終日他人の顔を睨みつけ、毎日他人を点検している。これは内心に自と他がある原因である。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十三、正法を誹謗すると往生と解脱ができない原因</h3>

無量寿経第十八願(極楽世界に往生する条件):设我得佛。十方众生。至心信乐。欲生我国。乃至十念。若不生者。不取正觉。唯除五逆。诽谤正法。

五逆罪とは、出仏身血・殺阿羅漢・破和合僧・殺父・殺母である。正法とは、衆生を解脱させることのできる正しい法義であり、大乗と小乗の法を含む。

なぜ五逆の重罪を犯すと極楽世界に往生できず、証果も明心も解脱もできないのか。なぜ正法を誹謗すると証果も明心も解脱もできないのか。

まず出仏身血について言えば、仏の業種はすでに徹底的に清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、いかなる悪業も悪縁も感召できず、いかなる悪報もない。それゆえいかなる衆生も仏を殺すことはできず、仏を傷つけて仏の色身から血液を流させることもできない。なぜなお出仏身血という説があるのか。仏の血脈とは法脈であり、仏法の流伝であり、出仏身血とは法脈を失伝断流させ、正常に伝播できないようにすることである。仏法は衆生を生死から出離させて解脱させるものであり、出仏身血は非常に深刻なことであり、この悪業の果報は無間地獄の業であり、このような悪業を造った人は解脱を得られず、生死の苦を離れられない。

阿羅漢は一切の煩悩を断じ尽くした解脱の聖者であり、その解脱徳ゆえに人天が供養すべきであり、応供と称する。八地以上の菩薩の解脱証量は四果の大阿羅漢に相当し、初地から七地の菩薩の解脱証量は三果の聖者に相当し、一糸の惑業を留め、解脱果を取らず、解脱の正位に入らず、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入らないことを保証する。阿羅漢を尊重し供養する果報は、煩悩を断除し、解脱を得、生死を解除することである。それゆえ逆に、阿羅漢を殺せば煩悩を解脱できず、解脱を得られず、生死を出離できず、生死の苦を出離できるすべての解脱の道がことごとく閉塞不通となる。それゆえ極楽世界に往生できず、証果できず、明心見性できない。

和合僧団について、僧とは、サンスクリットの Samgha で、詳しくは僧伽と称し、出家修行する男性の仏教徒を指し、衆・大衆・団契を意味し、広義には女衆も含み、男女の出家衆を総称して僧尼という。僧伽とは四人以上の一群の仏法に依る出家人が組織した宗教団体である。もし出家の身分と資格がなければ、僧尼に属さず、人数がどれほど多くても団体を成さない。聖義僧に至っては、真に証果し真に明心見性した僧人でなければならず、意識が仮に証果し仮に明心した人はなお凡夫僧人に属し、意識が操作していない時には、完全に露呈するのは証果と明心のない意根の本性であり、必ず意根の思想見解と煩悩に随って生死輪回する。

和合とは、六合敬の宗旨に従って共に居住することを指す。六和敬とは、見和同解・戒和同修・身和同住・口和無諍・意和同悦・利和同均である。もし意見や観点が一致しなければ、和合ではない。もし三帰五戒・八戒・比丘戒・比丘尼戒・菩薩戒を遵守せず、修める戒律の内容が一致せず、仏陀の制定に符合しなければ、和合ではない。もし色身が共同の場所に居住できず、東西南北各所に雑居するなら、和合ではない。もし内部で互いに争い、互いに罵り合い、互いに攻撃し足を引っ張り合い、是非紛争が絶えなければ、なおさら和合ではない。もし会って一緒にいても心地よくなく、内心に憤り不悦があり、隔たりが多ければ、和合ではない。もし衆生の間で利益が均等でなく、いかなる利益であれ、一方だけが犠牲を払い報酬がなく、他方はただ取得と占有だけなら、同様に和合ではない。そのうちの一つに違反すれば、和合僧団を構成できない。

真の和合僧団は、仏陀に代わって正法を千古に流伝させ、衆生を生死の火海の中から救度することができる。これを破壊するなら、衆生を生死から出生させる舟筏を破壊することであり、果報は解脱を得て生死の苦を出られず、それゆえ極楽世界に往生できず、証果と明心ができない。和合でない僧団にはこの過はなく、和合でない僧団は衆生に煩悩と苦果をもたらし、衆生の煩悩の上にさらに煩悩を加え、繋縛と枷鎖を増やし、生死はさらに苦しい。

父母は自分に肉身をもたらし、この色身があって正法に出会って修学でき、解脱を得る機縁があり、永久に生死を離れることができる。それゆえ父母の恩は山のように重く、粉骨砕身しても父母の生養の恩に報いることは難しい。衆生は供養しないばかりか、かえってこれを殺す。殺父殺母の罪はその重いこと比類なく、死後に無間地獄で解脱できず、それゆえ殺父殺母は極楽世界に往生できず、証果と明心ができない。

正しい仏法は、衆生がこれに依って修学すれば、解脱の因であり、解脱を得て生死を了することができる。これらの法義を誹謗するなら、それは正法を信じないことであり、信がなお足りないのに、どうして修学できようか。修学できなければ、どうして解脱できようか。法は生死の海を渡る舟筏のようなものであり、舟筏を破壊すれば、衆生は何に凭って生死の海を渡れるのか。正法を誹謗すれば、自分が信じないばかりか、他の人の信受をも阻止し、その罪は甚だ大きく、自分は必ず生死を出離して解脱することができず、それゆえ極楽世界に往生できず、証果できず、明心できない。

衆生を解脱させる法には、小乗の四聖諦・十二因縁を含み、大乗の如来蔵 (tathāgatagarbha) 系列の法、たとえば般若・方広・唯識、五識・六識・七識および八識の理論、戒定慧の三無漏学を含む。四聖諦と十二因縁は衆生に小解脱を得させ、永久究竟の解脱は得られない。大乗の如来蔵 (tathāgatagarbha) 法は衆生に永久真実究竟の解脱を得させることができる。そして第七識の意根の法は、衆生に小解脱を保証できるだけでなく、大解脱、さらには究竟解脱をも保証できる。すべての解脱は、いかなる程度であれ、意根の解脱にある。意根が解脱しなければ、すべて仮の解脱であり、煩悩は断てず、生死は了せられず、苦海は出られず、涅槃の清涼 (viśuddha/pariśuddha) 寂静を得られない。

五逆罪を犯す者は極めて少ないが、正法を誹謗する者はますます増え、随所に見られ、普遍的である。それゆえ大衆に勧める。自分の禅定と智慧が不足し、証量が足りないならば、時々処処に謹言慎行すべきであり、評価者になる資格のない時は、黙って自分を修持すべきである。たとえ暫く証果と明心ができず、唯識種智がなくても、世間の智者となり、自分に災い禍を招かず、自分の解脱の道に路障を設置しないようにすべきである。

意根の無始劫以来の煩悩は六識を薫染し、六識に自覚せずして業行を造作させ(意根の指図による)、業種はまた第八識に存入され、再び意根を薫染する。このように反復して薫めれば、衆生には本当に解脱の日がない。衆生は業を造ると、顧みず恐れず、天も地も恐れず、見る人の心を直に戦慄させる。菩薩は各種の業行がどのような果報を受けるかを直接感じ取ることができ、それらの果報は受けるのが本当に苦しく、地上菩薩でさえも耐えがたい。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十四、視野が開けてこそ心量も広大になる</h3>

今我々は、娑婆世界には十億の南贍部洲の地球があることを知った。我々の心量は、すべての地球の生命の輪回にまで拡張されるべきであり、自分の生死輪回を考えるだけでなく、六道のすべての衆生の生死の問題をも考えるべきである。心は一つの制高点に立って一切法を観察すべきであり、小さな一つの地球に局限してはならず、まして自分個人の私利に局限してはならない。もし自分の目の前の小さな利益だけに局限すれば、その心量と智慧はあまりに狭隘であり、自分の五受陰に迷惑され遮止されているので、後世には生死の苦痛しかなく、一糸の楽しみもなくなる。

慢心の重い人は観察してみよ。自分は十億の地球の中で、小さくなりようのないほど小さくないか。一つの技能を持ち、いくらかの理論知識を知り、一定の権勢地位や資産などを有していて、何ほどのことか。天の外に天があり、人の外に人がいる。半瓶の水が最も慢になりやすい。少しはあるが足りず、揺れ動く空間があるからである。満ちた人は、視野が開け、見識が広大で、目に広大な天地を収め、心量も大きいので、自分をあまり当てにしない。実のところ、我々の一人ひとりが十億の地球の中で何ほどの者であろうか。たとえ何地かの菩薩に修めても、自分に問わなければならない。私は何ほどの者か。十方世界には八地菩薩が数え切れず、十地菩薩が数え切れない。自分は何にすぎないのか。

しかし他方、菩薩戒の中で仏はまた、菩薩は必ず菩薩の尊貴を認識しなければならず、菩薩は自分を軽賎してはならず、自分をしっかり保護し、自分をみだりに危険な境地に置いてはならないと求めている。菩提心を発した菩薩は、菩提心を発した時から成仏に至るまで、無数の衆生を利楽でき、無辺無際の衆生が菩薩の発心によって生死の火坑から救度されるからである。

我々は計算してみよ。十億の地球の上に、果たしてどれほどの衆生がいるのか。人類はどれほどいるか、鬼類はどれほどいるか、地獄の衆生はどれほどいるか、畜生道の衆生はどれほどいるか、大鵬金翅鳥のような大畜生はどれほどいるか、最も微小で肉眼に見えない細菌の衆生に至るまでどれほどいるか。誰にも絶対に想像できず、計算は言うまでもなく、無数のコンピュータでも算出できない。単独の一つの衆生の身体上の細菌だけでも数えきれないのに、まして空中の、すべての衆生の身体上の細菌の衆生はなおさらである。それゆえ我々の一人ひとりの菩薩は任重くして道遠く、自分をしっかり大事にすべきである。ただ慢心があまり重くあってはならない。我々は皆かつて多くの仏菩薩に救度されたことがある。それゆえ同様に発心して、他の有縁の衆生を救度し、仏菩薩の救度の恩徳に報い、無数の衆生が自分と自分の親を養育した恩徳に報いるべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十五、いかに貪愛の煩悩を断じるか</h3>

修行は貪愛を断除するためであり、貪愛は六根が六塵に触れる処で生起するのであれば、六根が六塵に触れる処で貪愛を止めなければならない。眼根が色塵に触れる時、心に貪愛を生起させなければ、貪愛を止めたことになる。耳根が声塵に触れる時、心に貪愛を生起させなければ、貪愛を止めたことになる。鼻根が香塵に触れる時、心に貪愛を生起させなければ、貪愛を止めたことになる。舌根が味塵に触れる時、心に貪愛を生起させなければ、貪愛を止めたことになる。身根が触塵に触れる時、心に貪愛を生起させなければ、貪愛を止めたことになる。意根が法塵に触れる時、心に貪愛を生起させなければ、貪愛を止めたことになる。内心の貪愛の習気に従えば、本来は色声香味触法に対する貪愛を生起すべきであるが、修行に力強さがあるため、貪愛の現起を制止し、貪愛を止めた。これが修行の功であり、貪愛がないことが修行の徳であり、こうして修行から功徳が出生する。徳とは品徳、徳行であり、心の善の行相であり、善があれば解脱に趣向し、善があれば自在に近づく。貪瞋痴の煩悩は束縛であり、解脱せず、自在でない。

功徳は容易には現れない。無始劫以来の貪瞋痴の煩悩は根深蒂固であり、習気が深重で、降伏し抜除しにくく、長久多劫の思惟観行 (vipaśyanā-caryā) を経て、貪愛の苦を観行 (vipaśyanā-caryā) し、少しずつ貪愛を降伏しなければならない。貪愛の苦を知らなければ、貪愛を降伏できない。衆生は皆楽を好み、皆楽に趣向し、苦を避けるからであり、現前に苦を観察してはじめて、苦を避けることを選択し、苦の患を消除する。それゆえ修行の第一歩は、苦を観察し、苦を認識し、苦を感知することであり、はじめて心を六塵に触れる処から縮め戻し、六塵の中に深入りしなければ、貪愛の苦は生じない。第一歩の苦を観じ苦を知ることがなければ、第二歩の断集もなく、第三歩の慕滅修道 (glossary: 慕滅修道) もなく、第四歩の修道もない。それゆえ、人が道心を発起することは非常に容易でない。貪愛の習性のなすところである。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十六、心の中に我があれば無我の解脱を証できない</h3>

あれほど多くの人が終日大道は至って簡素だと言うが、簡素さはどこにあるのか。簡素さはここにある。ただ自我を放下し、自我を剔除すれば、無我に達するのである。しかし行うのは簡単ではない。なぜか。習気が根深蒂固であり、自心の遮障があまりに深刻で、自我を放下することが非常に難しく、自我を見破ることさえあれほど難しいのに、まして放下は言うまでもない。

学仏修行の目標は無我と解脱を証得することである。それなら、なぜ我々はなお個人の自我の利益を追求するのか。これは自分の初衷に背馳するのではないか。学仏が無我の果を証得できない原因は、心の中に我があり、無我と相応しないことにある。我があることは絆脚石であり、路を塞ぐ虎である。なぜ速やかに除去しないのか。

智慧ある者は、無我の果を追求する一方で、なお自我を中心とし、各種の我を維擁護衛し、小我の私利を追求して、道と相逆相違するようなことをしてはならない。そうすれば聡明ではない。どうしてこれほど矛盾するのか。無始劫以来の我を執する煩悩習気のなすところではないか。もし自分が知らず、自心の中のこの煩悩の汚穢を観察せず、対治の方法を講じず、常に我心我性に随順するなら、いつ無我の解脱を得られるのか。解脱自在で心地よいか、それとも自我の束縛で心地よいか。両者を比較して、どちらを選ぶのか。あれほど多くの人が考えることは分かっていても、行うことは糊涂である。それゆえ無我の理を証得できず、解脱の果を得られないのである。

学仏修行には福徳善根が必要であり、仏法の中に善根福徳を種んだことがなければ、自然に仏法の中で受益することができない。三宝に帰依せず、仏にも帰依しない人は、たとえ世智辯聡であっても、智慧の解脱を得られない。それゆえ世俗人はどれほど聡明伶俐であっても、なお仏法上の智慧を具備せず、仏法中人ではない。仏法は仏教に帰依し、仏教を信重し、三宝の中に善根福徳を植え付けることを願う人だけを度すことができる。三宝に帰依することを願わない人は度化が非常に難しく、彼らはたとえ法を学びに来ても、研究をやっており、仏法を消遣としており、証果と開悟によって仏法上の利益を得ることができない。信根がないので五根もなく、五根がなければ五力もなく、三十七道品を具足できず、それゆえ深く観行 (vipaśyanā-caryā) して証果と明心し、仏法中人となることができない。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十七、学仏修行の目的</h3>

修行の目的は心の解脱であり、果位に目を凝らしてはならない。果位は副産物であり、煩悩を降伏し、無明を除去することを目標とし、大智慧・無量の智慧を獲得することを目標とし、衆生を救度することを目標とする。このような目標があれば純正で障害がない。

戒定慧とは実質的に戒心と定心であり、心に智慧を生じさせることである。戒とは煩悩を戒除し、我の性を戒除し、遮障を戒除することであり、これが戒の根本的作用である。遮障を戒除し、心に非を起こさなければ、はじめて定があり、思惟が深く透徹し、それによって智慧を発起する。

修行の目的は一切の無明を破除し、解脱を得ることである。無明がなければ煩悩がなく、生死がなく、束縛がない。一切の煩悩は無明に因って来たる。もし修行を他の方面と結びつけるなら、それは無明であり、解脱を得られない。

そして無明を去除し我心を断除して解脱を得ようとするなら、他人を助けて共に解脱を得ることから離れられない。他人を助けると同時に、福徳の資糧を獲得し、一切の無我の見道資糧を獲得し、自分の無我の解脱心を培い、自分の慈悲喜捨の菩提心を培う。それゆえ他人を助けることは自分を助けることであり、両者の間は対立ではなく、統一である。

どれほど多くの人が、学仏の目的が知識を獲得することにあり、掌握した知識理論で世間の名聞利養を獲得し、他人の恭敬を獲得し、他人を支配できる権勢を獲得し、より強大な我を獲得することにあるのか。このようにすれば無明が増し、さらに束縛され、さらに解脱できなくなる。このような知識理論は、すなわち煩悩である。しかし実証の後はそうではなく、自心に相応する一部分の解脱と軽安があり、同時に他の人にも清涼 (viśuddha/pariśuddha) をもたらし、周囲の環境を改善し、他人を利楽でき、自他ともに利益を得る。

現代人は誰も踏み実に修行することを知らず、終日口を開けば言い、到る所で語り語り語る。何を言っているのかにかかわらず、一体何のためで、何を図るのか。学仏修行は、まさか自分を誇示し、他人に自分には修行があり多くを知っていると思わせるためなのか。一部の人は想像力がなかなか豊かであるが、実修実証があまりに欠けており、しばしば仏法を推測するだけで、実際の観行 (vipaśyanā-caryā) ではなく、しかも自信満々である。禅定のない思惟はすべて推測であり、自分の修証から遠く離れた仏法を思惟することも推測であり、自分の推測した仏法で人と弁論することは、すべて自我を誇示する類の人である。

もし修持がなく、ただ人に講義するだけなら、耳根のない聾者が人に音楽をかけるようなものであり、音楽はどんなに良くても、自分は少しも聞こえない。仏法を修持しない人もまた同様である。大海の中の舟子(船頭)のように、しばしば人を載せて大海を渡るが、彼自身が大海の中で命を落とす可能性もある。仏法を修持しない人もまたこのようである。

衆生の無明は幾大劫をかけても語り尽くせない。もし暇があって少しずつ数え上げれば、どれほど多くの人が驚嘆することか。自分がもともとどうしても思い及ばなかった、内心はすべて無明であると。無明によらず生起した法は何一つ見つからず、誰にでも無明があり、いつでも無明があり、何事にも無明があり、無明は広く普遍的に存在する。明を見つけ出すことさえ困難であり、誰かが自分には無明がなくすべて明であると思う時、それこそ無明である。愚痴は漫天遍野であり、無始劫以来から無始劫以後に至るまで、あまりにも多すぎる。

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