衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 4127

第十三章 証果と明心の篇

一、実に、在在処処に、満目青山にして荒草無し。一茎の葉、一本の草、一縷の糸も、実にして虚無く、しかも跡形も無い。衆裏に彼を尋ね千百度、驀然と首を回らせば、灯火は闌珊たり、在在処処、何れの処か是れに非ざらん。かつて心盲にして眼更に盲けり、今や満眼は金光なり。これ悟道者の感慨である。

証果と明心の条件が具足すれば、因縁に遇うが、如何なる因縁であれ、証果と明心を成し遂げられる。もし仏の説法に遇えば、更に証果と明心見性が可能である。仏の威徳と加持力は非常に大きく、仏の説法の法会の磁場効果も極めて大きい。況して仏世の修行者は普遍的に甚深の禅定を有し、心は清浄で、出離心を持ち、煩悩は軽微であり、善根と福徳は深厚である。ゆえに法を一たび聞けば、仏の音声に随って観行思惟し、直ちに証果と明心が可能である。

我ら末法の時期の衆生は、仏世の衆生の根基とは比べ物にならない。善根は軽く福は薄く、内心は浮躁で、多くは禅定が無い。仏法が如何に細かくとも心に入らず、真の証果は何も得られず、多くは理解する程度で大したものである。衆生に普遍的に禅定が無いため、禅定を具足できず、「禅定を修めず直接に仏法を観行できる」という説が現れる。しかし禅定無くして如何にして観行の能力があろうか?何を観行できるというのか?どれほどの時間観行できるのか?どの程度まで観行できるのか?各自で試みるがよい。禅定有る前の観行と、禅定有る後の観行では、効果の差は如何ほどか。違いは甚だ大きく、本質的に同じことではない。

一つの法義を、禅定有る時に思惟するのと無い時に思惟するのでは、天と地ほどの差がある。ゆえに多くの者が仏法を思惟しても真に理解できず、誤解が多く、真実義を理解できず、実際に証得し現量で観行することは極めて困難である。それでも多くの者は自身の理解力を過信し、頻りに経文を引用して自説を証明しようとする。実は経文の意味と自説は一致せず、自ら多くを誤解していることに気付かない。

多くの経典研究者は、経典の真の義理を如実に理解できず、自分はよくできると思い込んでいる。実は仏法は研究で得られるものではなく、甚深の禅定中に如理に思惟観行参究して初めて真に理解し実証できる。研究では実証できない。

一部の者は仏経に「衆生が仏の説法を聞く当座に証果と明心した」とあるのを見て、彼らは禅定を修めず直接に証果したように思い、法を聞き少し思惟すれば証果でき、特別に禅定を修める必要は無いと誤解する。この誤解は甚だ大きく、聞法当座に証果した者たちは既に禅定を具足し、善根福徳が深厚で、因縁を待っていただけだと知らない。仏の説法という最殊勝の因縁に遇えば、当然容易に証果と明心見性ができるのである。

彼らは証果者の最終結果しか見ず、証果者がどれほどの修行の道程を歩んできたか、仏の説法を聞く前に如何に精進したか、如何に発心し行持したか、如何に努力して禅定を修めたか、これらの必要条件を見ず、専ら最後の証果の部分だけを切り取る。これは最も深刻な断章取義である。

現代人は浮躁で皆近道を望み、簡素で直接的なほど良いとし、仏が歩んだ道すら歩もうとせず、自らの方法が仏より実用的で直接的だと思い、苦労せずに済むと思う。まさか凡夫が仏より優れ、仏より智慧があるというのか?仏の修行は回り道で、自らの歩む道が最も直接的で、基礎を築く必要もなく、代償も払わず、苦労して禅定を修め自心を降伏させる必要もなく、研究だけで大きな成果を得られるというのか?研究で得た果は紙張り子で、風が吹けば壊れ、火に遇えば溶ける。今世間には偽りの果が多く、押されているのは大根の印章で、風の前の塵にも耐えられず、死後の果報は自ら知るであろう。

衆生は無明と業力の違いにより、異なる果報を招感し、異なる色身の正報と生存環境の依報を持つ。業報が終われば、また別の業報に入る。業報が異なるため、色身が異なり、脳の組織構造が異なり、顕れる智慧が異なり、行為の表現が異なる。

二、悟る前は出来るだけ業を消すのが良く、悟った後に業力に押し潰されたり転がされたりせず、無駄に悟ることを避けられる。開悟時に福徳が不足していると、悟ると直ぐに業障が現れ、様々な魔障の干渉が現れる。定力が更に不足している者は引きずり込まれ、退転し、道心を失う。たとえ道を退かなくとも、色身や各方面の変故は大きく、耐えるべき圧力は少なくない。

開悟は着実に水到渠成となるのが最良で、各方面の条件が具足せず福徳が欠けているのに焦って悟ろうとすれば、たとえ極めて無理に悟れても、魔障が次々と来て、普通の者には耐え難い。最も恐ろしいのは強大な圧力の下で退道し、再び戻る時期が分からなくなることである。普段は多く福を修め、多く業を消し、多く懺悔し、享福を少なくすべきである。肝心な時に福徳に支えられ、願力の大きい者は願力に支えられ、仏菩薩と護法神に護持されて初めて難関を乗り越えられる。

三、我見を断つのは第六住位であり、明心は第七住位である。我見を断たずして明心すれば、二つの我が現前し、慢心が深重となって大騒ぎする。

もし五蘊の我の虚妄を証得しなければ、どうして無我に相応できようか?証得せずに相応していると思うのは、意識の自認であり、根拠が無く、情思意解に属する。意識の錯覚こそが我性の表現であり、自分と実情を理解せずに自らを過大評価する者が多い。何の法も証得していないのに、心が空じ、四相が無く、夢幻の如く、涅槃に入ろうとし、有相戒を修めずに心地戒を修め始めるなど、直ぐに高慢になる。これは仏法修証に対する極めて大きな誤解である。

四、法身を生かすには、五陰を我とする邪念を消滅させ、五陰の我を立てなければ、法身は発見され易い。しかし法身を尋ね求める過程に参究の念があり、世俗法の貪瞋痴の念を圧伏する。このように努力精進すれば、いつか法身を見ることができる。

しかし参究の過程を経ない悟りが、果たして悟道と言えるか、結果が如何なるものかは、仏も言うことはできず、因果と閻魔大王が決める。死神が最も物を言い、権利が最大である。もし自らが証果明心の者であり聖人であることを強く望み、事実の真相を顧みなければ、これは依然として深刻な我である。「我は必ず如何なるものだ」というのが我である。もし真に我見を断ち無我となり、真に明心して五蘊の空を証得したならば、自らの解脱の心を充分に示すべきで、自らが何の果位か、どのような果位かは重要でなく、関係もない。無我ならば果も無く、我有って初めて果がある。

或る者は言うであろう:我見を断つことと明心は共に初果であり、初果は煩悩を断っておらず、煩悩は凡夫と同じで、解脱の功徳は無いと。では我見を断つことと断たないことの違いは何か?初果を証しても解脱の功徳受用は微塵も無く、明心して如来蔵を証得しても解脱の功徳受用は微塵も無く、凡夫と同じである。では何を果徳と言うのか?一切の果には徳がある。証果後、果徳が無ければ、それは単なる名称、名相に過ぎず、何の意味も無い。この名称が仮に仏から与えられたものであっても、元々有る不生不滅のものではない。故に実質的な意味も無い。しかし実証と妄語には、それぞれの因果がある。

真に修道を始める時には既に一定の功徳受用がある。三十七道品を修める過程で、程度の差はあれ功徳受用がある。ただその時は解脱の功徳受用は無い。我見を断たなければ解脱しないからである。しかし我見を断ち明心した後は、程度の差こそあれ解脱の功徳がある。初果には初果の解脱徳があり、二果には二果の解脱徳があり、三果には三果の解脱徳があり、四果には四果の解脱徳がある。煩悩を断つのは三果以降のことだが、初果人の煩悩は凡夫とは大きく異なる。学仏者が修道の過程で、修道を始めていない者と比べて、煩悩にも一定の違いがある。そうでなければ学仏修行に何の意味があろうか?

多くの者が果を好むのは、何故に果を好みながら事実を重んじないのか?そこには深刻な我と我執が作用しているからである。仮に仏が特別に果を与えても、自らの徳がその果に相応しなければ、実際には真に証果していないのに、自らはなおその果を強く気にし執着する。これも我見と我執であり、依然として一つの我である。このように偽りの果を得て、心は喜び、至る所で宣伝し、至る所で威張り散らす。これは我性が依然として重く、生死を出ていない証拠であり、自欺欺人と言う。

真の修行者は、如何なる果にも構わず、内心に変化があるか、真に解脱しているか、修行に功徳受用があるかを重んじるべきである。もし真に功徳受用があれば、仮に仏が証明書を与えず、誰も自らが果を得たと認めなくとも、実際に自らは果があり解脱の証量を得て、解脱を得られる。逆に、自らに功徳受用が無く、真の解脱の証量が無ければ、仮に仏が証明書を発行し、誰もが恭敬して大徳阿羅漢菩薩と認めても、実際には自らは依然として凡夫であり、生死の業障の中にある。

各自が学仏修行で求めるのは真の解脱、真の道業であり、虚栄ではない。虚栄のものは信頼できず、もたらすのは依然として虚栄で、泡の如し。我らは泡が美しいからと言って見てはならず、泡影を好んではならず、実際を求め、真実を得るべきである。言うは易く、実際に行うのは難しい。証果の波が過ぎ去って初めて、仏教界は実務を始められる。今は猛烈に果と栄誉を求める時期であり、真の修行者には出会い難い。華やかさが褪せて初めて、真実が顕れる。

五、二乗の行者は見道した行者と未見道の行者に分かれる。見道した行者は五陰十八界が生滅変異し真実性が無く、我の主宰性が無いことを証得し、無我三昧を証得し、四相を破り、我相・人相・衆生相・寿者相が無く、法眼浄を得た。ゆえに心中で四相に対し空の感覚、不実の感覚を持ち、人我の四相における有為法が次第に少なくなる。道共戒の故に、内心は自然に貪欲が軽減し、人我是非が軽減し、煩悩を降伏できる。初禅定を修めた後、煩悩が断除され、貪欲と瞋恚の煩悩が滅尽する。この時、異性と接触しても愛欲心が無く、内心は自在で無碍である。しかし出家の戒律があるため、衆生に模範を示し、また衆生に誤解させないために、三四果人は言行挙止において戒律を遵守し規範に合致し、内心は無拘束である。

出家者は衆生の依止であり、外見は威儀を重んじる。衆生が見て初めて三宝に恭敬の心を生じ、善根を植えられる。仏世に世尊が僧団を創設したのは、一に衆生が俗を離れ解脱を得るため、二に衆生の依止となり、衆生を導き俗を離れ三宝に帰依させ、解脱の種を植えさせるためである。各出家者は見道の有無に関わらず、身を以て則を示し、模範的に戒律を遵守し、言行は規範的で、諸々の威儀を具える。彼らが托鉢乞食する時は接触する衆生が多く、更に諸々の威儀を具えるべきで、衆生に笑われて悪業を造り悪果報を受けるのを避ける。ゆえに彼らは乞食の時、道を歩く際、うつむいて前方の道を見つめ、左右を顧みず、横目も使わず、面前の衆人を直視せず、施主に遇っても当然男女・美醜を区別せず、鉢飯を受け取れば振り返らず去り、挨拶も無い。行者たちは生死の解脱を一心に願うため、心は六塵の境界にも世俗にも無く、こうして初めて道を証得し、世俗の五欲六塵に束縛されないことを保証できる。

声聞人は三果以後、煩悩は伏除ではなく断除である。断除であるからこそ、五欲六塵に牽引されず、三界を離脱し解脱を得られる。伏除は煩悩を圧伏することで、二果以前、特に見道前に煩悩を降伏し、三果で初めて煩悩を断除する。伏除では煩悩を離脱できず、解脱を得られない。

大乗菩薩の修行も、声聞行者が行うところを離れられない。小乗の修行を離れれば、菩薩とは名乗れず、凡夫に過ぎない。菩薩は最初、個人の修道過程において、声聞人と同じく戒律を遵守し、諸々の威儀を具え、衆生の模範となる。戒律を遵守して初めて禅定を得て見道できる。菩薩も小乗の我見を断つことから修め始め、証果しなければ大乗見道はできない。小乗の戒定慧と見道による法眼浄は、大乗菩薩たちも越えられない。さもなければ大乗菩薩も小乗行者も存在しない。

菩薩たちは小乗見道で初果を証した後、更に初禅定を加修し、五下分結(三縛結に貪欲と瞋恚の煩悩を加えたもの)を断除しなければならない。その後初めて大乗仏法において禅宗の三関、及び陽炎関と如夢観を通過する資格を得て、初地に入る資格を得る。初地に入った後、意図的に煩悩を断尽せず、阿羅漢の如き正性離生(四果阿羅漢の果位を取証すること)を取らず、極めて微細な煩悩を残して断たない。こうして初めて無余涅槃に入らずに済む。無余涅槃に入れば仏種が断たれる。

菩薩が如何に悟りを急いでも、小乗の各関門を越えることはできない。故意に越えようとする者は、真の修行者ではなく、まして大乗菩薩ではない。四相と煩悩を具足した菩薩は菩薩ではなく、凡夫と同等である。もし菩薩に悟りを急ぐ心行があれば、この心は求める心であり、無為の心ではない。私的目的のある心には必ず四相があり煩悩がある。即ち凡夫の心である。凡夫の心に相応すれば、真の菩薩には成れない。真の菩薩は必ず相を破った菩薩であり、我相・人相・衆生相・寿者相が無く、証果相や開悟相も無い。これらの相有る者は即ち凡夫である。

六、我見を断つこと先、明心はその後

一切の法の修証は、最初は皆身見を降伏し、身見を断除することから始まる。衆生が無始劫以来初めて仏法に接触する時は、皆五陰の色陰から認識し、どれほどの劫を修めたか分からず、善根福徳が深厚になって初めて大乗菩薩法に接触し、次第に自身の中に真心如来蔵という自らの本心が在ることを認識する。しかしこの時も依然として身見と我見を降伏しておらず、まして断除などしていない。

我見を断除するのは明心の前、即ち菩薩の七住位の前である。我見という仮の我が倒れた後、初めて真心が発見され、この時明心は住位の第七住果位となる。故に必ず我見を断つこと先で、真心を証得すること後である。大乗菩薩が参禅する場合も、参究の過程で次第に身見と我見を降伏し、次に身見と我見を断除する。明心後に身見我見が依然として存在する道理は無い。もしこのような現象が存在すれば、この者は明心しておらず、真の参禅の段階を経ておらず、深く参究もしておらず、その果位は怪しく、或いは出所不明である。

七、何処で業を造ったか、その場所で真摯に懺悔し、再び犯さないと誓い、何人に対して業を造ったか、その人数の前で真摯に懺悔すべきである。もし悪業の影響が非常に大きく、学法が相当の程度に達していれば、実相懺悔を取ることができる。実相懺悔は二種に分かれる。一つは小乗の無生理に基づく懺悔で、定中に五陰の不実性、五陰の造作する身口意の業行の不実性を観察し、初果或いは初果向を証得し、法眼浄を得て初めて懺悔清浄となる。

もう一つは大乗法の如来蔵無生理に基づく懺悔で、先程の身口意行が如何にして現れたかを観行し、最終的に自らの身口意行は如来蔵が少しずつ出生したものであり、身口意行の真実性が無く、五陰は虚妄であり、五陰に依って有る身口意行も即ち虚妄であると証得し、業が消える。勿論未到地定を具足して初めて如来蔵を実証する望みがあり、その後初めて身口意が究竟如何にして如来蔵から出生したかを観察できる。一旦仏法を証得すれば、三悪道の業は皆消滅し、無始劫以来の三悪道の罪業を含む。しかしこれは非常に容易ではなく、相当に良い善根・福徳・禅定・智慧、及び因縁が必要である。

八、定力と福徳が不足していれば、無理に明心しても、その後の進歩は皆遅くなる。定力不足で明心すると、覚明の時間は極めて短く、後続の禅定は生じ難く、貪瞋痴の煩悩は軽減できない。定力不足のため、観行の智慧も生じ難く、多くの法を観行できない。証果と明心は必ず極めて良い定力の下で得るべきである。その後禅定は迅速に生じ、この機会に間もなく初禅に修められる。この時期を過ぎると初禅定は生じ難く、二果三果は得難く、禅宗の二三関は通過し難く、今世初地に入る望みは無くなる。

九、禅宗の三関は、智慧が増進する関門である。第一関は如来蔵を証し、第二関は如来蔵性即ち仏性を見る。六塵の上に皆如来蔵の起す作用を見られる。第三関は牢関であり、この関を過ぎれば生死の大事は解決でき、涅槃に入る能力が得られる。禅宗の参禅は終了し、その後は方広唯識を学ぶ。

禅宗で証悟する時は小乗の初果に相当し、第三関は小乗の三四果に相当する。大乗果を取る時は同時に小乗果も有るが、小乗果を証しても大乗果は有るとは限らない。これは大乗が小乗を含むことを示す。羅漢が空を見るのは人我の空を見ることで、五陰十八界が空であり我ではないと知るが、如来蔵は未証得である。菩薩が空を見るのは如来蔵が真実であり空性心であることを証得し、同時に如来蔵が生じた五陰十八界法が空であることを知る。二者共に空を証するが、内容は完全には同じではない。

十、煩悩垢及び染汚垢は、我見を断つか明心見性して初めて修断できる。それ以前は皆煩悩を圧伏し、表面上は現れないが、実は煩悩は依然として隠れている。我見を断つか明心見性した後、五陰が確かに真実の我ではないと知り、内心の我が緩み、禅定が現れ次第に深まる。初禅定を修めた後、貪瞋痴の煩悩が一つずつ断除でき、意根の自我への執着が少しずつ滅除できる。心の煩悩の垢が除去されれば、心は清浄になる。

我見を断った後、五陰十八界法が悉く虚妄であると知る。その後参禅して真心を証する時は、再び虚妄法を真実と見做さず、最も重要なのは意識心の各種の細相を第八識として悟らないことで、誤って悟らない。第八識を見つけた時、それが生滅するか、十八界の法に属するか、変異性があるか、無常性があるかを観察し、それが確かに真実で永遠に不変であり、七識の体性とは大きく異なることを発見できる。更に第八識が如何にして五陰を生じ、如何にして五陰七識と配合して万法を生じるかを観察できる。こうしてこの心こそ第八識の真心であると確認でき、これが真の明心証悟である。

我見を断つ当座に、一気に煩悩を断除できるか?これは必ずしもそうではなく、我見を断つ前の煩悩降伏の程度と禅定の修行程度による。もし煩悩が依然として重く、常に現行し、定力も良くないなら、煩悩の断除には一定の時間を要する。故に煩悩を断除する時間の長短は人により一概には言えない。世尊在世時、世尊の説法を聞く前に既に高い禅定に修め、煩悩は効果的に降伏されていた者が、説法を聞き心中で五陰が非我であると確認した当座に、全ての煩悩が一時に脱落し、当座に阿羅漢となった。もし我らが修行で禅定の功夫が無ければ、我見を断って初果人となっても、煩悩を断つには長い時間を要し、一生かけても煩悩を断てず、依然として貪瞋痴の煩悩を具足した初果人に過ぎない。

十一、真に如来蔵を証得するのも容易ではない。我らは歴劫以来、五陰十八界の仮相に執着して離さず、七識の機能作用を我とし真実としてきた。それ故自性を遮蔽し、真の法を識らず、仮相のみを認めてきた。もし先に我見を断ち、その後参禅して如来蔵を尋ね求めれば、比較的容易になる。それには小乗法『阿含経』を修め、我見を断ち、初果・二果となった後、五陰十八界の仮相を一つずつ排除し、これらの仮相の中に真実を探す。

五陰生滅の虚妄法の中で、あの不生不滅の明珠を探すには、我見を断って初めて容易に見つかる。仮相を全て排除すれば真実が現れる。我見を断つ前は、五陰のこれらの妄相を明珠と見做し易い。もし五陰を明珠と見做せば、あの真の自性如来蔵という明珠は見つけ難い。真偽が混ざり区別し難い。我らが五陰十八界を全て排除した後、自性清浄心を見つけ易くなり、直ぐに仏門に入る。

十二、仏の摂受力は催眠に類似する

勇施が重戒を犯して無生を悟った話は、勇施菩薩が出家して具足戒を受けた後、殺戒と淫戒の二つの重戒を犯し、命終すれば地獄に堕ち苦しむべきであった。彼は自らの果報を恐れ、文殊菩薩に救済を求めに行った。文殊菩薩は彼を連れて仏に会いに行き、仏は勇施菩薩に分析した:勇施比丘という者がいるか、勇施比丘が殺した者がいるか、殺人という事があるか。勇施菩薩は直ちに思惟した後、明心開悟し無生を悟り、真の菩薩となり、単に我見を断ち初果を証するだけでなかった。勇施菩薩が仏に遇えたのは非常に幸運で、業を消して地獄に堕ちず、証悟して菩薩となり、三悪道の業を免れた。

世尊が勇施菩薩に無生理を説いた時、催眠法を用いた。勇施菩薩は当時極度に恐慌し、恐れ、恥じ、心は乱れていた。仏は彼の心緒を安定させ、人無我を思惟するよう導き、背後にある造作者を思惟するよう導いた。最終的に勇施菩薩の意根が無我の理を確認し、造作者を証得し、我見を断つと同時に明心した。仏に遇い自らを催眠してもらうには、どれほどの善根と福徳が必要か。我らは皆多く福を修め、将来仏に遇い、自らを催眠してもらい、地上菩薩となり聖人となるべきである。

また『大涅槃経』に、世尊が阿闍世王の心の結び目を解く際に説いた我見を断つ部分の内容は非常に優れている。阿闍世王が父を殺した後、現世報を受け、内心は非常に惶恐不安であった。仏に会った後、仏は彼の業を消し、阿闍世王に問うた:お前の父という人は真に存在するか?お前は真に存在するか?父を殺した事があるか?阿闍世王はこれを聞き思惟し、無いと答え、その後無根信を証得した。初果や初果向を証得しなかったのは、父殺しの業障が遮止したためである。無根信が有れば地獄の業も消え、命終すれば極楽世界に生まれる。これも仏が衆生に用いた催眠法であり、福徳ある者にのみ遇える。故に福徳は非常に非常に重要である。或る者は自己のためだけに、福を修めることを望まず、利己的であることは愚かであり、自ら利益を得られない。

十三、唯識の見道は三果四果を証した後

唯識の見道は主に一分の唯識種智を証得することを指す。小乗の修証は三果以後、四果に近い時であり、大乗の修証は禅宗三関と如夢観以後である。初地菩薩は必ず小乗の三果人で、煩悩は断除されているが、或いは少しの我慢と五陰或いは三界世間への執着が未断である。

普通の者が唯識法を学んでも同様に悟道でき、一旦開悟すれば、その見地は深細で究竟である。禅宗から悟道する場合、智慧はやや粗雑で浅薄である。般若智慧は唯識智慧ほど深細ではないからである。

初地以上の菩薩から七地菩薩は、惑を留めて生を潤すため、小乗四果阿羅漢の正位に入れず、四果を取証できない。さもなければ必ず涅槃する。菩薩が少しの貪愛を留めるのは、娑婆で修行と弘法を続けるのに有利である。それ以外には全く必要が無い。

十四、如何なる理論も、自ら理解した後、理解し、分かり、知り、運用でき、流暢に答えられ、他人に講じられ、明白に講じられ、心中明々白々となる。

然るに、実証に等しいか?自らの理論・知見に等しいか?見地に等しいか?理論を熟達させるのは難しくなく、流暢に答え、一を聞いて十を知ることも難しくない。難しいのは求証の段階に進み、一歩一歩実証することで、最も難しいのは実証の段階を順調に通過し、真に実証を得ることである。

十五、衆生が四果を証得し、俱解脱の大阿羅漢となるのは、簡単な事ではない。普通の者が初果を証得できれば既に喜ばしい成就であり、三悪道の業を免れ、永遠に三悪道に行かない。このような成果に対し、仮に世の全てを費やしても非常に非常に価値がある。もし金銭でこの果報と交換すれば、無量億でも換えられず、これは無価の宝である。地獄三悪道の衆生は、仮に地球の全ての資産を持っていても、必ずしも一人の人身と換えられない。一人の無始劫以来の執着を一生の時間で滅するのは、飛行機に乗るのと同じで、飛行機もこれほど速くはない。

世間の貪執を断除した三四果人は学仏前、世間で生活する時往々にして世間の一切を見慣れず、時には苦痛を感じ、自らの行為挙止が至る所で普通の衆生と異なり、異分子の如く、何故そうなのか理解できないことが多い。学仏して初めて自らが衆と異なることを理解する。もし一人が時々刻々の身口意行が他の者と何の違いも無く、衆生が貪瞋痴なら自らも同様に貪瞋痴であり、衆生の煩悩がどれほど重くとも自らの煩悩も同様に重ければ、この者は今世初果を証得するのも難しく、四果は論外である。

十六、涅槃には四種ある:第一種は自性清浄心涅槃で、菩薩が明心時に証得する。この涅槃は自性本心の不生不滅性・清浄性・寂静性である。

第二種は有余依涅槃で、三四果人が証得する。即ち羅漢に色身が存在する時、余苦が依るものあり、色身には依然として若干の苦受がある。例えば病苦・天熱の苦・蚊に刺される苦など。菩薩阿羅漢もこの涅槃を証得できる。

第三種は無余依涅槃で、四果羅漢が証得する。命終時に自らの五陰を滅し涅槃に入り、灰身泯智し、再び如何なる苦受も無く、苦は依るべき五陰身が無くなる。菩薩阿羅漢もこの涅槃を証得するが、涅槃に入らず、永遠に自らを滅度しない。

第四種は無住処涅槃で、仏が証得する。仏は涅槃に住せず、生死にも住さず、大解脱、究竟の解脱であり、解脱色がある。衆生を慈憫し、無数の色身を化現して衆生を度脱し、永遠に衆生を捨てない。

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