衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年01月24日 閲覧数: 911
<h2 style="text-indent: 2em;">第十二章 仏法と外道の法の章</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、修行して仏となり涅槃に向かう二つの道</h3>

仏法を学び修行するには二つの道がある。どの二つか。第一の道は、最初の仏である威音王仏のように果断な智慧を持ち、勇気をもって真理を探究し、他人の理論に依存せず、自らの智慧の潜在能力を開発して智慧の成就を得る道である。第二の道は、現存する理論を信受した上で、努力して実証し、智慧の成就を得る道である。

最初の仏は、世の中が未開の時代に、いかなる真理も発見される前に、ただ一人で極めて忍耐強い意志力と大いなる恐れを知らない果断な精神をもって、勇気をもって真理を探究し、未開の地を開拓し、無限の荒地を十方世界の仏国土とした。また、仏が世にいない時代の独覚(どっかく)仏のように、一念の世間法への疑問から、自らの過去世の善根菩提の種子を呼び起こし、衆生の生命の成り行きを探究しようと志し、十二因縁法と十因縁法を見出し、生命の源を証得した。その源とは、一つは実在しない無明であり、もう一つは実在する第八識である。

真理とは客観的法則であり、真理とは客観的に存在する理法であり、真理とは世の中で運行している真相であり、真理とは覆すことのできない事実であり、真理とはいかなる者の意志にも左右されない定律であり、真理とは衆生を解脱へと導く灯台であり、真理とは衆生を彼岸へ運ぶ船である。真理はもともと存在していたが、ただ発見する者がいなかった。威音王仏は極めて大きな善根と勇気をもって、真理を探究する艱難辛苦の道を歩み、それによって世間・出世間のあらゆる真理を発見し証明し、後世の人々のために真理への道を開拓した。解脱を志す後世の者は、その道に従えば解脱の終点に到達できるのである。

威音王仏はすでに後世の人々のために解脱涅槃へ向かう道を開拓している。後世の者は自ら新たに道を切り開く必要はないが、すでに開拓された真理の道に従う中で、なおいくつかの枝道や曲がりくねった小道があり、道の入り口を見つけられなかったり、航路標識が見えなかったりするかもしれない。これには、各自が威音王仏の真理を探究する果断さと智慧に倣い、勇気をもって実践し探究し、困難を突破して大道に至るまで努力する必要がある。

仏が修行する第二の道とは、諸仏がすでに発見した真理を信受した上で、改めてこれらの真理が確かに真実の理であり、すべて実証可能で発見可能で再現可能であることを一つ一つ実証しようと努めることである。それによって智慧による解脱は、最初に真理を発見した諸仏と同等となる。なぜ真理を信受し、真理を知り、真理を理解した上で、なお実証する必要があるのか。最初の仏は真理を探究し発見した者であり、探究の過程で、発見の度ごとにそれは証明となる。したがって威音王仏が真理を発見した時、これを真理であると宣言し、私は証明したと言えた。では、第二の仏および後世の諸仏、そして未来世の衆生たちは、最初の仏が発見した真理を理解したとして、私が真理を発見し、真理は確かにそうであると言えるだろうか。もちろん言えない。信じることは証することではなく、同じ智慧を得たことにはならない。再び試験し証明することによってのみ、その所以を知り、それによって智慧も得る。そうして初めて真理を掌握し、真理を得たと言えるのである。

「確か」という二字は何を表すか。それは自ら証明したこと、実際に経験したこと、実験したことを表す。実験したものであり、理解した真理に合致し、前提と一致し、心に疑いがなくなり、無明の結縛を断ち切って初めて、確かにそうであると言える。ここに至って、智慧は最初の仏と同等となるが、歩んだ道は最初の仏と同じだろうか。払った代償、経験した艱難辛苦は最初の仏と同じだろうか。いずれも同じではない。未開の地を開拓する者が最も苦労し、払う代償は最大で、経験することも最も多いのである。

十方世界の無限の時空の中で、威音王仏はただ一尊のみであり、二つも三つもない。最初の開拓者が持っていた善根・福德・智慧・忍耐力・果断さ・強さなど、あらゆる常人には備わっていない資質。大きな真理、巨視的な真理においては、最初の仏を越える者はなかったが、具体的な微視的な真理においては、それぞれの衆生が完全に自ら探究し発見することができ、何事も諸仏世尊に完全に依存する必要はない。これもまた善根福德智慧が深く厚い者にのみ可能なことである。

釈迦仏が娑婆世界に残した仏法は、爪の先ほどの土ほどしかなく、まだ衆生に残されていない仏法は、大地の土ほどもある。なお極めて多く、極めて多くの真理が、大いなる心量と大いなる智慧を持つ衆生によって開発され、発掘され、探究される必要がある。真理である限り、事実である限り、仏が説いたかどうか、残したかどうかに関わらず、真理は真理であり、事実は事実であって、仏の態度によるものではない。もちろん仏は決して真理を否定せず、事実の真相を無視することはない。

我々は威音王仏の思考様式、真理を探究する方法、問題を処理する手法、そして威音王仏の人格・品格・菩薩格を学び、威音王仏のような善根福德智慧を積み上げ、さらに諸仏と仏法の光明の導きがあれば、必ずやさらに微細な真理を開発できる。信心もまた善根福德智慧の現れであり、この三つがあれば向かうところ敵なく、必ずや早く一切の真理を証得するであろう。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、外道の苦行は道ではない</h3>

仏が在世の時には九十六種の外道がおり、彼らの修行は苦行が中心であった。世俗法の一切を捨てていた。我々が今仏法を学ぶのは、彼らの精進と苦労に耐える精神には遠く及ばない。彼らは故郷を離れ山中に住み、衣食住行は非常に苦しく、草や牛糞を食べる者もおり、自らを故意に飢えさせて骨と皮になるまで痩せ細らせる者もいた。こうするのは業を消すためであり、業が消えれば輪廻から脱せられると考えていたが、これは邪見であり、戒禁取見(かいごんしゅけん)である。彼らが捨てたのは全てであり、世俗の心は根本からなく、捨てることも徹底的に捨てきっていた。しかし彼らは成就しただろうか。仏は苦行で業を消すと言われたが、その業は消し尽くせるだろうか。もし外道たちのあのような捨て切る苦行の修行方法で成就できるなら、釈迦仏も常寂光土から出てきて人間界で八相成道し、四十九年苦労して衆生を度す必要はなかったのである。

世尊が出家したばかりの時、ある外道の師に従い苦行と四禅八定を修学した。仏は四禅八定をすべて修め終えた後、これは道ではなく智慧を生み出せず成仏できないと気づいた。それから苦行を捨て離れ、菩提樹の下で坐禅し、仏法を思惟した。夜に明星を見て悟りを開き仏となった。したがって修行には正しい理論による指導が必要であり、単純に捨てるという簡単な考えで通るものではない。なぜ捨てるのか、何を捨てるのか、どのように捨てるのかを知らなければならない。仏が教えられた方法に従って修行すべきであり、誰かが独自に創り出した方式や理論方法に従って無理に進めるべきではない。我々のすべての修行理論と法則は仏説に合致しなければ成就できない。なぜなら仏はすでに成就した者であり、その教えられた方法はすべて正しく誤りがないが、他の者のものはそうではなく、石を探りながら川を渡るようなもので、到底川を渡れないからである。仏の教えと経典から離れれば、何も成し遂げられない。仏弟子たちは肝に銘じよ!

<h3 style="text-indent: 2em;">三、外道が速やかに証果できる理由</h3>

なぜ世尊在世時の外道たちは、帰依もなく戒も受けず、世尊の説法を聞いただけで阿羅漢果を証得し、さらにはその場で涅槃に入ることができたのか。それぞれの仏が仏道を成就し衆生を度すのは、演劇のようであり、一座の劇団、一連の人馬が世尊と共に演じる必要がある。世尊は一人芝居はできない。世尊が人間界に下る前、兜率天の内院ですでに配置を始め、多くの者を先に人間界に生まれさせ、世尊の降誕を待たせた。

彼らは人間界に生まれるため、様々な階層、様々な場所、さらには九十六種の外道の中にも分布した。彼らは外道の中に示現し、外道を率いて共に修行し、影響衆としての役割を果たした。世尊は因縁に基づいて彼らを度し仏門に入れ、仏門に入った後、ある者は世尊の右腕となり世尊を助けて弘法した。ある者は世尊がまさに入涅槃しようとする時に世尊に度化され、それによって大勢の外道弟子が仏門に入る影響を与え、仏法の殊勝さを顕現させた。これらの外道は単なる阿羅漢の示現だけでなく、大菩薩の示現もあり、最後になって初めて世尊は彼らの真実の身分を明かされた。したがって彼らは世尊が説法し度化する時、速やかに証果することができたのである。

第二の理由は、当時の外道は皆、輪廻から解脱し生死を離れたいと願い、出離心が非常に強かったが、ただ正しい修行方法がなかったことである。彼らの多くは世俗を遠く離れ、五蓋(ごがい)はすでに修除され、深い禅定はすでに発起し、四禅八定はすでに具足していた。したがって彼らの根性は非常に良く、五戒を受けていなくとも、身口意の行為には全く犯戒の現象が存在せず、ただ最後の観行の智慧が具足していなかっただけである。これは世尊が正しい解脱の道理で導かなければならない。

以上の道理に基づき、彼らは世尊が解脱道を説くのを聞いた時、解脱の智慧が発現し、速やかに相応の果位を証得できたのである。一見容易に見えるが、実際には彼らも長い時劫修行し、大きな代償を払い、世俗法を捨て去り、ひたすら生死の解脱を願っていた。では我々が今、証果し解脱を得ようとするなら、自らの条件が具足しているかどうか、出離心があるかどうか、内心の世俗法がどれほど離れているか、禅定はどうか、心がどれほど清浄か、外道たちと比べてどれほど差があるかを見なければならない。

もし自ら外道ほど心が清浄でないならば、世尊が教えられた解脱修行の次第に従い、三十七道品を修行し、これらの向法次(こうぼうじ)の補助的な修行方法を良く修めた後でなければ証道できない。三宝への帰依を含め、清浄な戒律を受持し、それによって自らの身心を律し、自心を清浄にし、心を止めて定を得るのである。我々が今いる末法時代は、人心が濁悪で、汚染が深刻であり、情報は繁雑で、心の縁(えん)は極めて重く、静止するのは非常に難しい。したがって禅定を修めるのは困難である。普遍的に定力が不足しており、世尊在世時の外道とは比べものにならず、証果しようとするのは実に至難である。世尊は言われた。正法の時代には、衆生は戒を持てば成就し解脱を得るが、末法の時代には、戒を持つだけでは解脱できず、ましてや戒を受けず戒を持たなければ、なおさら解脱しないと。

五戒や八関斎戒(はっかんさいかい)を持つだけでなく、菩薩戒を厳格に持つ者さえ、解脱の影さえ見ることができない者がどれほど多いことか。なぜならこれらの者は心で戒を持つのでなく、心中に戒がなく、ただ身体で戒を持つだけで、内心は相変わらず世俗法に貪染しているからである。こうして禅定を修めるのは難しく、観行の智慧を持つことができず、どうして成就できようか。したがって我々は、あの外道たちが帰依も戒も受けずに証果したからといって、自分たちも帰依せず戒を受けなくて良いと思うべきではない。それは世尊の教えに背き、通じない。我々の根基はあの外道たちに遠く及ばない。我々は仏法の内道を学んでいるが、心性は全く異なる。やはり世尊の教えに従い、まず次法(じほう)・助道の法を修め、戒律を厳守し、三宝に帰依し、三宝の護法龍天の加護に頼って解脱を得るべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、仏教と他の宗教の区別</h3>

世界には多くの宗教があるが、いずれも衆生を生死輪廻の苦から離脱させることができず、ただの精神的信仰に過ぎない。なぜならそこには衆生が依り頼んで解脱を得られる実質的な内容がないからである。仏教はそうではない。仏教は衆生に生命の実質をありのままに認識させる教育である。仏陀は苦労してこの五濁悪世に来られ、四十九年間弘法して衆生を度し、様々な異なる面から衆生に生命の実質的意義を理解させ、生命の源と帰趨を知らせた。衆生はこれに依って修学すれば、自らおよびすべての衆生の生命の意義を認識し、無量劫以来の生死輪廻の根源を認識できる。

したがって自心を覚り、自らの生命の源を探し求め、生死の苦難を徹底的に解脱し、究竟の解脱の道に向かい、最終的には自らの福德と智慧を円満にして究竟大覚世尊となる。そして無量億万の衆生を率いて、同様に生死輪廻から脱し、一切法を円満に覚り、無上の大涅槃を証得するのである。他の宗教は主に人を善に向かわせ、善人となり、善行をなし、人と善くし、最終目標は天に昇り福を享受することである。しかし福が尽きれば、なお三悪道に落ちて苦しむ。それらの宗教は六道輪廻に触れず、衆生に六道の輪廻があることを示さず、六道輪廻の根源も知らない。したがって衆生を依り頼ませて六道輪廻の生死の苦から離脱させることはできない。

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