仏法雑談(第一部)
昔、歯の揃っていない老僧がおり、食事の様子があまり見栄えの良いものではありませんでした。一人の小沙弥がそれを見て言いました。「あなたの食事は牛が草を噛むようだ」と。この一言のために、沙弥は死後に五百世にわたり牛身に堕ち、草を食べ草を噛み続けました。釈迦仏が世に住まわれた時、彼は人身を得て仏に随い出家し道を修めました。彼は出家して沙門となったものの、前世の業が消えきっておらず、なお余業があったため、食事の際には依然として牛が草を噛むような様子でした。仏に随いしばらく修行した後、彼は阿羅漢果を証得しましたが、食事時には相変わらず牛が草を噛むような様子でした。
そこで仏は彼に言われました。「お前のこの様子は多くの衆生に嘲笑されるであろう。彼らはお前のゆえに悪業を造作し、その果報はお前の以前の果報よりもさらに重い。お前はすでに阿羅漢であるから、天上に住むがよい。人間界の僧団に用事がある時に降りてくればよい」。彼は仏の言葉に従い天上に住み、用事がなければ人間界に降りてこず、衆生が目にして悪業を造ることを避けました。そのため仏が涅槃に入り娑婆世界を離れられた時も、彼はそれを知りませんでした。この阿羅漢は誰でしょうか。それはキョウハンハッテイ(嬌梵波提)です。因果は明らかで誤りがありません。身口意が造作するその瞬間、善悪を問わず、すべてが記録され、業種として収蔵されます。因縁が集まるとき、必ず果報を受けます。皆様は身口意を慎み護り、悪果を免れるべきです。
出家した沙弥が出家した老僧を嘲笑しただけで、五百世にわたり牛となるという重い悪報を受けるのです。では、在家の者が出家者を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるべきでしょうか。在家の者が出家者の説法を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるべきでしょうか。在家の者が出家者の説法を誹謗すれば、どのような悪報を受けるべきでしょうか。在家の者が得道した出家者を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるべきでしょうか。在家の者が得道した出家者の説法を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるべきでしょうか。在家の者が得道した出家者の説法を誹謗すれば、どのような悪報を受けるべきでしょうか。
因果は一般の者が思い計れるものではありません。もし慢心を持ち、他人を嘲笑することを好む者がいれば、相手が誰であれ悪報があります。もし嘘をついて他人を騙すことを好み、あれこれと妄言綺語を弄し、常に正しく語らない者がいれば、相手が誰であれ悪報があります。もし他人を呵責することを好む者(父母師長を除く)が、尊卑長幼の別なく、己の聪明才智を顕わにすれば、やはり悪報があります。
要するに、身口意の行う十不善業には、すべて悪報があります。ですから仏を学ぶ者は因果を理解すべきであり、戒律を守るべきであり、身口意の行いを護るべきであり、善悪の区別を識り、努力して悪を断ち善を修めるべきです。心性が転じ、聖賢の心性に近づいてこそ、初めて聖賢人となる機縁が得られます。聖賢人となるための前提条件は、聖賢人に近い心性を備えていることであり、そうして初めて聖賢人となる資格が得られるのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、凡夫が阿羅漢を妄りに議する</h3>仏のような徳があれば、完全に阿羅漢聖者を焦芽敗種(役立たずの種)と言うことができます。しかし、阿羅漢の修証レベルに達していない者は、たとえどのような者であれ、言ってはならず、言えば必ず悪報があります。凡夫の善根は阿羅漢の一毛にも及ばず、阿羅漢を焦芽敗種と誹謗する資格は全くありません。証拠があってもいけませんし、事実であってもいけません。必ず悪報があります。在家の者が普通の出家者を言うこともならず、やはり悪報があります。徳の高い者は徳の低い者を言うことができ、戒律を持つ者は戒律を持たない者を言うことができ、先に戒を受けた者は後に戒を受けた者を言うことができます。戒とはすなわち徳です。出家戒を持つことは徳であり、菩薩戒を持つことは徳であり、敢えて出家することは徳であり、世俗を捨て出家できることは徳です。修証があればなおさら徳であり、修証が高ければ徳も高くなります。徳の低い者は徳の高い者を言うことはできず、徳のない者はなおさら徳の高い者を言うことはできません。そうしなければ悪報は軽くありません。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、因果が三世に通じるとはどういう意味か</h3>因果は三世に通じます。三世とは前世、今世、未来世のことです。では現在行うこと、および遭遇する善悪は、果かもしれず因かもしれません。いわゆる果とは、前世に因があり今世に果を受けることです。いわゆる因とは、今世に行うことが因となり、未来世に果があることです。もし他人があなたに対して善法であれ悪法であれ造作したならば、それは果かもしれず因かもしれません。もし果であるならば、前世にあなたが因を蒔いたため、今世あなたがこの果を受けるべきなのです。もし果ではなく因であるならば、相手はあなたの上に因を蒔いたのであり、未来に彼が果を受けることになります。これが因果が三世に通じる法則です。ですから現在の遭遇は必ずしも果ではなく、必ずしも因でもありません。神通を持つ者あるいは大智慧を持つ者だけが、このことが果なのか因なのかを判断できるのです。
もし遭遇したことが果であるならば、私たちは必ず縁に随い、気にすべきではありません。もし因であるならば、私たちは必ず造作に注意し、できる限り人に対しても己に対しても良き因、善き因を蒔き、将来善果を得られるようにすべきです。もし尽力しても何も変えられないならば、縁に随います。しかし最も基本的に、私たちは自分が蒔くものはすべて善因であることを保証し、悪因を蒔かず、未来世に悪果に遭遇しないようにすべきです。
因果において、因は非常に細やかですが、果は無限に大きくなります。菩薩は因果を理解しているため因を畏れ、凡夫は因果を理解せずただ果を畏れます。菩薩は良くない因を蒔くことを恐れ、大悪果を受けるのを避けます。一方凡夫は大悪果報が来た時に初めてこの運命が恐ろしいと感じます。恐ろしいと感じても、依然として悟らず、恐ろしい果報が自分自身の細やかな心行によってもたらされたことを知りません。因果というものは、来ようとする時には誰にも阻むことができず、どれほど強大な勢力を持とうとも、誰も因果に対抗することはできません。他人を攻撃することを好む者、三宝を誹謗することを敢えてする者には、因果が非常に速く訪れ、洪水のごとく勢いが止められません。因果を明らかにすれば、私たちの心は大いに平安を得ます。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、万法皆空、因果は空か空でないか</h3>空とは、実体がなく幻化であるという意味であり、生滅の意味です。因果もまた生滅し幻化し実体がありません。もし因果が空でなければ、業因を造作すれば永遠に果報が現れ、果報は終わることがなく、衆生は永遠に業を消すことができず、永遠に解脱を得ることはできません。これは理にかなっていません。例えば地獄の業種が現行し、地獄の業の報いが終われば、その後も報いを受け続けることはありません。もし報いを受け続けるならば、衆生は人身を得ることができません。衆生の生死が終われば、果報も終わり、その後仏となります。もし因果が際限なく受け続けるならば、どの衆生も仏となることはできず、六道輪廻から離脱することはできません。
人を殺す業の報いが終われば、その後永遠に人を殺す業報を受け続けることはありません。このような因果が理にかなっています。あなたが私に百元借りたなら、返せばそれで終わり、この件は終了します。永遠に返し続ける必要があるでしょうか? そのような因果はありません。因果は結局空なのか空でないのか? もし空でないなら、私は至る所でお金を撒き散らし、お金を得た者は無量劫をかけても返しきれないほどになり、私は永遠に布施や福を修める必要もなく、坐して成り行きに任せていればよいことになります。これは理にかなっていません。したがって因果もまた空であると言い、来るところなく、去るところなく、報いが終われば因果はなくなるのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、因果はなぜまた幻化し実体がないのか</h3>果報は正報と依報に分けられます。正報は五陰身(五蘊の身)であり、依報は宇宙器世間の生存環境です。因果の実現は主に五陰身を通じて行われ、果報は五陰身に報いられるため、五陰身は正報です。一方生存環境は依報であり、また衆生の因縁果報を体現しています。五陰は幻化であり、十八界は幻化であり、私たちが生活する宇宙・器世界は幻化であり、生存環境は幻化であり、果報因果は幻化して実体がありません。
私たちの一切の果報がこれらの虚妄の法から現れている以上、果報は虚妄です。例えばあなたが受ける善報や悪報は、裕福になることであれ、病気になることであれ、災難に遭うことであれ、すべてこれらの虚妄の法の上で報いを受けているのではないでしょうか? これらの虚妄の法が虚妄であるならば、果報は虚妄ではないでしょうか? もちろんすべて虚妄です。すべての果報は、五陰身に体現されるに過ぎません。五陰身が虚妄であるならば、果報も虚妄です。そしてこれらの果報は生滅変異し、無常です。無常であるものは虚妄です。したがって、一切の因果もまた幻化であり、一切の法は幻化であり、如来蔵を除いて、すべては幻化された法です。
例えば貧窮の果報、六根不具の果報、そしてすべての楽報と苦報、これらの果報は幻化ではないでしょうか? すべて幻化であり、如来蔵が業種と様々な因縁に従って幻化したものであり、実法はありません。また例えば善報を得て、昇進したり裕福になったり、あるいは親族が団欒したり、財・色・名・食・睡など様々な善報、これらの報いはどこに報いられるのでしょうか? すべて五陰身に報いられ、五陰身から現れます。五陰身が幻化であり、実体がなく虚妄であるならば、これらの果報はなおさら虚妄であり、幻化であり、実体がなく、真実の法ではないのです!
また例えば善報として、今世で世間の国王となったり、天上で天主となったりする場合、国王・天主の玉座は幻化ではないでしょうか? 生活する宇宙・器世間・宮殿は幻化ではないでしょうか? 錦衣玉食(豪華な衣服と美食)は幻化ではないでしょうか? すべての僕・大臣・宰官・側近の侍従、これらはすべて幻化ではないでしょうか? 接触する一切のもの、これらはすべて善の果報に属し、これらの果報はどこから来るのでしょうか? 如来蔵が業種・因縁に従って幻化したものです。したがって国王・天主となる善報は幻化であり、実体がありません。
また例えば殺されること、交通事故で死亡することなどの悪果報、これらの果報はすべて五陰身が受けます。五陰身はなぜ殺されるのでしょうか? なぜ牢獄に閉じ込められるのでしょうか? なぜそれほどの財産や親族を失うのでしょうか? これらはすべて悪報に属し、これらの悪報はどこから来るのでしょうか? すべて如来蔵が業種、様々な因縁に従って幻化した仮の相であり、すべて五陰身に体現されています。悪報を受けると、覚受は苦受となります。この苦受は識心の受ではないでしょうか? 識心の覚受はどこから来るのでしょうか? 如来蔵が幻化したものです。一切の法は善報であれ悪報であれ、すべて如来蔵が幻化したものです。如来蔵がなければ、一切の法はありません。
幻化されたものである以上、それは生滅し、実体がなく、変異し、空です。それゆえそれは私ではなく、真実でもなく、私が所有するものでもなく、無我と呼ばれます。如来蔵に基づけば、すべては不実の法であり、したがってすべては空幻の法です。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、衆生が貪食によって払う代償は何か</h3>地球が形成された初期、その時はまだ衆生はおらず、人類もいませんでした。二禅天の光音天の天人たちが地球表面に飛来し、着地すると、地球表面に厚く堆積した地肥(大地の滋養分)を見て、とても美味しそうに思い、好奇心から、それぞれの天人が一口二口味見をしました。その結果、この一口二口の美味のために、天人の身体は重くなり、飛べなくなる者、高く遠くまで飛べなくなる者が現れました。食べれば食べるほど身体は重くなり、飛べなくなり、こうしてこの天人たちは地球に留まり、天上に戻れなくなりました。彼らは人数が少なく、寂しさを恐れ、他の天人仲間を呼び寄せました。仲間が地球に来て皆地肥を味見したため、皆飛んで帰れなくなりました。こうして地球上の人類はますます集まり、これらの人々が地球最初の人類となりました。
誰に借りがあって良いのでしょうか? 何を貪って良いのでしょうか? 縁を結べば業縁が繋がり、縁が分けられなくなります。ある者は生きる上での考えとして、食べられるなら食べ、食べたいものを食べ、食べなければ損だ、と考えます。この貪りの結果は何でしょうか? 貪食によって、飲食に束縛され、解脱を得られず、欲界で無量の苦悩を抱えることになります。したがって貪食は得るものよりも失うものの方が大きいのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、如何に衆生を慈しみ憐れむのが正当か</h3>三悪道を出た衆生は、愛欲によって生まれ、貪愛の後世果報として、大多数は鬼道に行き業果を償い、貪愛が軽微な者は人となるか、天に昇ることができます。貪愛は水性に属し、水は下に流れます。下とは三悪道です。楞厳経で仏はそう説かれています。お経を調べることができます。ある者は大々的に仏を学ぶ者に男女の貪愛を奨励し、縁を結ぶためだと言います。縁は確かに結ばれますが、善であるかどうかは仏の意に照らせば良い結果はなく、六道輪廻、生死の苦悩に陥ります。
ある者は出家して間もなく、彼女に絡まれ戻され、再び出家するとまた絡まれ戻され、このように七度も繰り返し、非常に苦悩しました。あなたが解脱しようとすれば、彼女はあなたを絡み、解脱させまいとし、生死の冤家です。一人の者が清浄を望むのに、他人に絡み続けられるその味わいは、非常に辛く耐え難いものです。ある者は言うかもしれません。菩薩は衆生を慈しみ憐れむべきであり、妻子もまた衆生であるから、当然より一層慈しみ憐れむべきだと。しかし慈しみ憐れみは適切で、程々にすべきです。もしただ自分の家親眷属や有縁者だけを慈しみ憐れみ、すべての時間と精力を極めて少数の者に費やし、これらの者たちの根器が十分でなく、それによって自分の道業を遅らせるならば、それは価値がありません。このような慈しみ憐れみは貪愛であり、解脱を得られず、仏が提唱するものではありません。
菩薩の慈しみ憐れみは、大多数の人々を慈しみ憐れむことを主とすべきです。精力を集中して修持し成就すれば、無量数の家親眷属や有縁者を利益し、生生世世無量劫の父母妻子を利益します。現在の一妻一子一父一母に主要な精力を注ぐべきではありません。小愛と大愛を比べれば取るに足らず、小愛に摂持されれば道業に影響します。菩薩の目は長遠で広大であるべきであり、自分の智慧の光で天下のすべての衆生を照らすことを願い発すべきです。大慈大悲の心こそ真の菩薩心であり、小慈小愛はただ道を妨げるだけです。速やかに捨てるべきです。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、誹謗(そしり)とは何を言うか</h3>雑阿含経に、外道やある居士が世尊の弟子に仏法を請い、弟子が答えた後、こう考えたと記されています。「私のこの答えは世尊の法教に合致しているだろうか、世尊に背かず世尊を誹謗していないだろうか?」そこでこの弟子は世尊に請いに行き言いました。「世尊よ、外道が私に仏法を問うたので、私はこのように答えました。これはあなたを誹謗したことになりますか?」世尊は言われました。「お前の答えは正しい。私を誹謗してはいない」。ここから私たちは知るべきです。話すことや言葉による表現が事実に合致しないならば、それは誹謗です。弟子が伝える仏法が仏の意に合致せず、仏と一致しないならば、それは仏を誹謗することです。もし仏が「ある種の法はかくかくである」と言われ、弟子が「そうではない」と言えば、それは仏を誹謗し、また法を誹謗することです。仏の説かれた法教に対して「不」の一字を言うだけで、すでに仏を誹謗し法を誹謗しているのです。
では僧を誹謗することもまた容易です。僧の誹謗は凡夫僧を誹謗することと、得道した比丘僧や菩薩僧を誹謗することに分かれます。前者の罪業はまだ軽い方ですが、後者の罪業は非常に大きく、果報は計り知れません。比丘僧や菩薩僧を否定し、「不」の一字や「そうではない」「間違っている」と言い、事実がそうでないならば、誹謗罪が成立します。衆生は往々にしてこれらを気に留めず、他人を否定することに何の過ちもないと考え、軽々しく「間違っている」や「そうではない」と口にします。これは単なる過ちの問題ではなく、罪業の問題であり、根本問題に触れるものは往々にして地獄の罪であり、後世には自ら勝義僧を誹謗した極大の悪報を受けることになります。後世に実際に悪報を受ける時、往々にしてなぜこのような悪報を受けたのか分からず、そうしていい加減に報いを受け、またいい加減に業を造ります。衆生はこのように愚痴で無知なのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、重罪を犯した者は如何に罪を滅すか</h3>破戒の前提はすでに戒を受け、戒法を持っていることであり、もし戒を受けていなければ破戒ということはありません。破とは破壊の意味です。戒を受けていなければ破ることはできませんが、悪業が重い者には遮障もあります。もし重戒を犯したならば殷重に懺悔し、好相(瑞相)を見る必要があり、必要に応じて再び戒を受けるべきです。
重戒を犯しても極楽世界に往生できます。臨終に遮障がなければよいのです。もし臨終の一念で悪業の境界が心に現れれば、直ちに悪業に随って悪報を受けます。臨終前に心の念を清浄にし、雑念が現れないようにしなければ、三悪道に行くことはありません。初果向や初果を得ても罪を滅ぼせます。ただ業障の遮障によって初果向を得られないことを恐れるべきです。
仏は自ら重戒や重罪を犯した弟子に、実相を説き、五陰の空相を説かれました。弟子は罪を滅ぼすだけでなく、実相を証得しました。例えば勇施菩薩が開悟する前に邪淫戒を犯し人を唆して殺させた罪がありましたが、仏が大乗の無生の理を説かれると開悟し実相を証得しました。アジャセ王(阿闍世王)は父を殺しましたが、仏が五陰の虚妄不実を説かれると、アジャセ王の極重罪を滅ぼし無根信を得ました。しかし初果向は証得しませんでした。罪が大きすぎたためです。もし仏が彼に法を説かれなければ、彼は無根信すら得られなかったかもしれません。しかしもしアジャセ王が母を殺したならば、罪を滅ぼせず、無根信を得られなかったかもしれません。
戒を受けた後で戒を破ると、性罪(心性の罪)と戒罪(戒律に背く罪)があります。戒を受けていない者には、性罪による遮障のみで、戒罪による遮障はありません。しかし戒を受けなければ戒律が円満でなく、道業は進展せず、証果や明心見性を妨げます。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、明心見性した菩薩が悪業を造作した場合、果位は失うか</h3>菩薩瓔珞本業経で、仏は菩薩が菩薩に違背する業行を造作すれば、三賢十地はすべて失われると言われました。地前の菩薩は煩悩が断じ尽くされていないため、時折煩悩によって悪業行を造作することもあります。地後の菩薩にもまだ断じ尽くされていない煩悩習気があり、煩悩習気によって微細な悪業行を造作する可能性もあります。それらの煩悩余習は深く細かく、断じ尽くすのは容易ではありません。一度断じ尽くせば、八地に入り八地菩薩となります。しかし八地以上の菩薩にも微細な無明、すなわち非常に微細な愚痴があり、極めて深細な仏法に対して無知な部分があります。仏地になって初めて完全に断じ尽くされます。
普通の衆生は我見を断たず、あるいは我見を断じ尽くさない者は、まだ我見によって三悪道に入ります。衆生が業を造るのは「我」のためであり、無数の煩悩は「我」から来ます。したがって修行によって我見を断じ尽くし、かつ我執を降伏させる必要があります。しかし人我執を断じ尽くしても、さらに微細な法我執が待っており、すべて断じ尽くさねばなりません。煩悩習気も軽視できません。地上の菩薩には煩悩習気の現行があり、これも断ち難いものです。したがって地上の菩薩にも過失は免れず、微細な悪業行があり、もし仏戒に違背すれば、その菩薩の果位も失われます。
したがって私たちが仏を学び修行する際は、毎日自らの主な煩悩結縛がどこにあるかを反省し、次に観行によって解決することに重点を置き、深重な煩悩が自らの修行を妨げないようにすべきです。煩悩の断除の有無と智慧の程度に基づいて賢人と聖人に分けられます。我見を断った初果・二果の者もなお賢人であり聖人ではありません。三果・四果の人と初地以上の菩薩が聖人です。地前の菩薩は賢人です。貪瞋痴がまだ断たれていないため、その徳行は聖人たるに足りません。真の聖人、聖人としてのすべての徳行を具足する者は、ただ仏一人です。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、地獄に下り罰を受けるのは第何識か? その中でいくつの識が一緒に地獄に行くか</h3>意根と第八識が一緒に地獄に下り、次に六識が直ちに生じます。意識は気づきます。「あれ? なぜ私は地獄に落ちたのだろう?」次に身識は刑具による罰の激しい痛みを感じ、意識は比類ない苦痛を感じます。六識はすべて苦痛を感じ、意識はやむなく様々な苦痛の折磨を受けます。業報が尽きるまで続き、やっと地獄を出られますが、何劫もの時間が過ぎ去っています。無間地獄には広大な鉄床があります。地獄がどれほど広大であっても鉄床はそれだけ広大です。地獄は辺際なく広大であり、鉄床も辺際なく広大です。鉄床がどれほど大きいかで色身もそれだけ大きくなります。すべての刑具が同時に色身に加わり隙間がなく、全身の各部位が刑具の残酷な折磨を感じ、苦痛に耐えられず、痛みで気絶しても直ちにまた正気に戻り、さらに折磨を受け続けます。三宝を誹謗すれば、このような末路をたどるのです。
三宝の誹謗には、有根誹謗と無根誹謗が含まれます。有根誹謗とは、その人の言うことが事実であることを指しますが、それでも罪があります。そのため仏陀が僧のために制定した戒律は在家の者に見ることを許されていません。在家の者が戒律を知って出家者が戒律を犯したと責めること、これが三宝を誹謗することを恐れるためです。無根誹謗とは、全くそのような事がないのに事があると言い、事実を捏造することです。罪過はさらに大きく、両者とも罪過があります。したがって皆様は三宝の過ちを言うべきではなく、事実があるかどうかにかかわらず、口を閉ざすことを知るべきです。果報は恐ろしく、見るに忍びません。昔、阿羅漢を誹謗した者がいました。阿羅漢は人々を集め、誹謗業を造った者に公の場で懺悔させ、その者の罪過を消そうとしました。その者は公の場で阿羅漢に懺悔し、自らの罪過を消しました。しかし命終にはやはり地獄に落ち悪報を受けました。ただ悪報を受ける時間が短かっただけです。もし懺悔しなければ、地獄から出るのは難しく、地獄で受ける苦しみも非常に重いものでした。
もし三宝の中に、大小乗の果位を証得した聖賢人がいる場合、聖賢人に誹謗業を造作すれば、その罪業は言い表せないほど重大です。仏法上の誹謗であれ、世俗の日常生活における個人の行為の誹謗であれ、事実であるかどうかにかかわらず、一律に罪過は際限がありません。出家者の身口意の行いは、いかなるものであれ、非難してはなりません。そうしなければ罪業は深重で、必ず悪報を受けます。特に得道した出家者は、その身口意の行いの少しの過ちすら非難してはなりません。煩悩が極めて重い者は、三宝に近く住むことは必ずしも良いことではありません。なぜなら煩悩が極めて重い者は、誰に対しても悪業を造ることができ、相手が誰であろうと気にせず、自制できないからです。したがってこのような者は、三宝から遠く離れている方が良いのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、凡夫は聖人の行為を安易に真似てはならない</h3>聖人の為すことは、道を得ていない者が盲目的に追随してはなりません。智慧が異なり、用心が異なれば、結果も異なります。心地を明らかにしていない者は無相の相を見ず、無生の理を知らず、法を実有と見て、究竟を知りません。心を明らかにした者は、法は無生であり、相は本来有るものではなく、虚妄で実体がなく、人の目を惑わすものであることを知ります。相を実有と見れば、すなわち業行があります。相が相でないと見れば、業行もまた虚妄です。心の智が異なれば、業果も異なります。昔、ある道人が諸仏菩薩の名号を下着に書き記し身に着けていました。一人の愚者がそれを見て真似し、数日後に血を吐いて亡くなりました。
聖心を学ばず、ただその相だけを学び、独特の用心があることを知らないため、衆生は愚かさ故に己を害し続けます。昔、丹霞禅師が相に執着する者を度するために独特の手段を用い、木仏を焼きました。道人の心中では、無生を実証し、四相もなく、一切の相もありません。木仏は仏ではなく、舎利はなく、舎利があるかないかは真の仏ではありません。真の仏は無相であり、火で焼かれず、水に溺れず、風に吹かれず、石で打たれず、山に押し潰されず、唾を吐き罵り、侮辱誹謗してもやはり染まらず、たとえ天帝でもどうすることもできません。衆生は愚かです。丹霞を真似てはなりません。木仏や石仏は像で人に示し、心に恭敬を抱けば福は即ち増長します。もし礼拝できれば、その福は辺りなく、慢心の柱を折り、己の心を摧伏します。精進修行し、早く無生を悟り、己の心を識り、即ち仏の心であることを見て、見性成仏すべきです。他によるものではありません。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、衆生は愚痴ゆえに因果を信じず、悪業を敢えて造る</h3>末法の時期の衆生は心が浮ついています。しかしある者はまさに衆生の浮ついた心理に順応し、衆生に気に入られようとします。もし少しも衆生の悪習に逆らわないならば、どうして衆生の悪習を捻じ曲げ、どうして衆生に解脱を得させることができるでしょうか? 衆生は貪るだけでなく愚かでもあり、どうしても刀の先端にある蜜を舐めようとします。最後に得るものは何でしょうか? 誰も考えません。大多数の者はただ目の前のわずかな所謂利益だけを顧み、三悪道に行くリスクを冒します。一見大胆に見えますが、実際は愚痴のためであり、目先のことで、未来の久遠の大利益を考えられないのです。
大多数の者は実際には個人の利益のために考え打算しています。しかし行うことは、自分が利益を得られないだけでなく、往々にして既にある利益さえも失わせます。しかし誰もこの点を考えず、またこの点を見えません。なぜでしょうか? 無明愚痴のため、煩悩が自らの両目を覆い、自分自身を見えず、真の利害得失を見えないからです。
因果について、多くの者は真に信じておらず、常に僥倖の心理を抱き、因果はすべて他人の頭上に落ち、自分には落ちないと思っています。そこで自分の利益のために、他人が自分の指示に従わなければ必ずある種の悪果報があると言い、自分の悪果報がまさに来ようとしていること、自分がまさに悪果報の因を造っていることを知りません。私が初めて仏を学び経典を読んだ時、因果に関する真実の物語をいくつか読み、因果が真実で虚妄でないことを信じ、身口意を注意深く造作しました。しかし現在の仏を学ぶ者は、全く経典を読まず、経典が何を説いているのか知らないため、心が盲目で因果を理解していません。
現在はネットワークが発達し、悪業を造ることは以前よりはるかに容易です。指をちょっと動かせば、悪業は全国に広まります。本当に嘆かわしいことです。誰も指を動かした後の悪果が何か自覚していません。無知であるからこそ恐れず、心が塞がれ、他人に盲従し、善悪を知らず、大悪業を造り、悔恨を知りません。ある者は悪業を造るのは他人に唆され教唆されたためで、自分は事情を知りません。例えば「あなたはこうすれば問題ない、因果は私が担う、あなたには善果のみで悪果はない」と言われ、そうして心の盲目な者はこの者の言うことを信じ、この者が本当に自分の因果を代わって担えると思い込みます。因果が来た時にはそれぞれがそれぞれの果報を受け、互いに代わることは全くできないことを知らないのです。たとえ実の父母であってもどうすることもできません。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、生死流転の業縁は貪愛である</h3>因果は命終に現れ、秋の後に清算するようなものです。もちろん夏に清算することもあり、業果が非常に大きい時は果報は早く熟し、秋を待たずに清算されます。各人が臨終の際、もし心が貪念であれば、家親眷属を貪るにせよ、人間の生活を貪るにせよ、財を貪り情を貪るにせよ、すべて鬼道に生を受けることになります。もし臨終の一念が瞋念であれば、何を瞋るにせよ、比較的重ければ、地獄に生を受ける可能性があります。
したがってすべての望みを臨終に託し、自分は臨終に念仏でき、心を清浄に保てると考えることは非常に頼りになりません。臨終にはどんな状況が起こるか分からず、自分がどんな心念か分かりません。もし普段の心念さえ把握できないならば、臨終に四大が分解し、業障が再び現前し、冤親債主が債権を請求しに来れば、大多数の者は業縁に随って心を動かし念を起こし三悪道に行き、三悪道に入らないと保証できません。福報が非常に大きな業行は例外で、天に昇り福を享けることができます。
三悪道に入らないと保証できるのは、一つは我見を断つこと、二つは明心見性すること、三つは観無量寿経の地観成就です。念仏して預知時至(往生の時を予知する)も保証できません。臨終に念仏の心が専一でなく、誠心が足りなければ、仏は迎えに来られません。90%以上の仏を学ぶ者は、臨終に三悪道に生を受けており、その大多数は鬼道に行っています。なぜなら100%の者に貪心があり、貪欲を断ち切っていないからです。貪欲を断ち切る状況は我見を断った後、初禅定を得て、定の中で貪欲と瞋恚を断つことです。これ以外はすべて貪欲心があります。しかし初果や二果の者はたとえ微細な貪欲心があっても、三縛結を断っているため、鬼道に生を受けることはなく、欲界天か人中に生を受け再び貪るか、あるいは再びゆっくり貪りを断つだけです。
六道輪廻はこのように無情で、情け容赦がありません。真の修証がなければ、命終にはあっという間に業縁に随って去り、貪念に随って去り、選択の余地はありません。普段訓練せず、また訓練に成功していないからです。ただ我見を断った後の者だけが訓練に成功した人なのです。
しかし真に我見を明らかにしていない者は、依然として訓練に成功しておらず、依然として三縛結を断っておらず、依然として貪念に随って鬼道に生を受けざるを得ません。避けられません。特に五戒菩薩戒に違反した者はそうです。無数の仏を学ぶ者は自覚せず、依然として毎日食べ物を貪り衣服を貪り住まいを貪り、享受を好み、所謂自由を好み、風光を好み、快適さを好み、琴棋書画などの様々な芸術を好みます。これらの好みは煩悩結縛であり、自分を六道に縛りつけるものであり、心病です。各人は享受すべきことはすべて享受し、一生を生きて自分を損なうことはありませんでした。しかし後世はどうするのでしょうか? 現在享受することが重要か、それとも後世に三悪道の苦受を免れることがより重要でしょうか?
またある高邁な修行方法は、肉を食べる時に肉を食べていると思わないと言います。肉を食べる時に本当に肉を食べていると思わない、すでに心地を転じた者は、済公和尚が一人いるくらいで、他に何人できるでしょうか? すでに肉に興味がないなら、なぜわざわざ肉を食べなければならないのでしょうか? 畜生を一匹少なく死なせてあげるのは良くないことでしょうか? 臨終の時、肉の主が債権を請求しに来た場合、返済しない能力はあるでしょうか?
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、なぜ仏を学ぶ者は学べば学ぶほど試練が多いのか</h3>仏門に入り仏を学ぶ者は、すべて善根のある者であり、一生一世や幾生幾世で初めて仏を学び修行を始めた者ではありません。修行時間は劫で計算されます。三宝への信心が具足し、自身への信心が具足している者は、おそらくすでに十万劫もの間修行してきたのであり、もし十住位で菩薩六度を修行する者ならば、すでに十万劫の修行時間をはるかに超えています。
大多数の者は仏を学ぶのは何らかの因縁があって仏門に入ります。あるいは身体に病苦があり、あるいは諸事が順調でないためです。仏を学びしばらくすると、病苦が軽減し、事が順調になり、仏を学ぶことは良いと感じます。仏を学ぶことへの信心が具足した時、様々な障縁が現れ、様々な事が順調でなくなり、身体に病気などが現れる状況が生じます。衆生は無始劫以来ずっと業を造っており、業障は非常に深重です。仏を学び始めた時は、護法や菩薩たちが護持し、重い業障が仏を学ぶことを妨げないようにします。この時点ではまだこれらの業に耐えられず、業報の出現は衆生の信心を退失させるからです。しばらく修行し、ある程度の業障に耐えられるようになると、護法はもはや業障の現行を遮りません。耐えられない業障はまだ少し遮ります。このようにして、しばらく学ぶと自らの業障が現前したことに気づきます。
不順なことにはもう一つ重要な理由があります。それは修行が非常に力強い時、後世に受けるべき果報を今世に前倒しで受けることです。前倒しで受けることは重罪軽報であり、悪の果報は早く受ければ受けるほどその報いは軽く、善の果報は後ろに受ければ受けるほどその報いは大きくなります。これは銀行に預金する理屈と同じで、仏法では孽息(利息)と言います。預金を早く引き出せば利息は少なくなり、悪業は軽く、善業も軽くなります。したがって悪業は早く受けるべきで、早ければ早いほど良いのです。善業は後ろに受けるべきで、後ろであればあるほど良いのです。もしやりくりがつくなら、善業はできるだけ後ろに受けるべきで、そうすれば果報は非常に大きくなります。銀行預金はますます増え、利子が利子を生むのと同じです。
衆生が造業する業種は如来蔵に蓄えられています。如来蔵は銀行のようなもので、この銀行の預金利率は非常に高く、最低で百倍、最高は無量倍です。したがって少し善法を蒔けば天に昇り福を享けることができ、少し悪業を蒔けば地獄に落ち苦しむことになります。しかも如来蔵という銀行は永遠に倒産せず、業種は失われません。つまり善業悪業の果報は誰にも盗まれず奪われず、ただ自分が受け、他人は代われないということです。金剛経第十六品で仏は、ある者が金剛経を受持した後、先世に造った罪業は本来彼を悪道に堕とすはずだったが、もし人が彼を軽賤すれば、彼の先世の罪業は消滅し、ただ人に軽賤されるという果報だけを受けて報いが終わると言われています。これが重罪軽報です。
したがって菩薩が明心見性した後は、三悪道の業は消滅しますが、なお様々な試練があり、すべて重罪軽報であり、人中で苦しみ、永遠に三悪道で報いを受けることはありません。では修行がある程度進むと、耐えられる様々な業障が徐々に現れます。これは良いことであり、後世にさらに大きな業報を受けるよりはるかに良いことです。これらの業報を受けた後、障縁が減り、その後の修行は速くなります。
これらの業障のいくつかは護法神が掌握制御しており、彼らは修行者を世話し、時には業障を遮り、時には遮らず、あるいは一部を遮り、別の一部は遮りません。したがって私たちが仏を学び修行する際は、毎日私たちの護法神に回向し、彼らが皆明心見性し、道業が絶えず増進し、護法の功徳が円満で殊勝であることを願うべきです。私たち自身が障縁に遭遇しても不平を言わず、またできるだけ福を享けず、如来蔵銀行からお金を引き出さないようにすべきです。それらの善金は失われず、引き出して享受すれば無くなります。しかも如来蔵銀行に預金が多ければ多いほど、私たちはますます富貴になり、菩薩道を修める資糧が多くなり、仏となるこの道で歩みが速くなります。私たちが仏法を修学する資糧がますます多くなり、道業の増進がますます速くなりますように!
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、どのような者が三悪道の業を免れるか</h3>ただ真に我見を断ち真に明心して三縛結を断った者だけが、三悪道に行かないと保証できます。もし真に我見を断っておらず、ただ心の中で五陰は無我であると思っているだけであれば、三縛結が断たれず、三悪道は免れません。法を弘め衆生を度す心は貴いですが、自分自身が修持して出ていないならば、衆生を生死から離れさせて度すこともできず、自分の道業も遅らせます。一度煩悩愚痴の業種が現行すれば、直接三悪道です。因果は一つは発心にあり、もう一つは事実にあります。
自分が得度していないのに先に人を度す者は、発するのは菩薩心ですが、真の道行がなければ、後果も恐ろしいものです。自分が三悪道を免れることができるなら、法を弘め衆生を度すために出て、個人の道業を犠牲にすることは、問題ありません。ある者は言うかもしれません。「私は我見を断った、私は明心した、三悪道を免れることができる」と。しかし真に我見を断ったかどうか、真に明心したかどうかは、自分で決めることでもなく、また誰かが証明したから決まることでもありません。因果には自ずと道理があります。
ある者は五戒を守り犯さなければ人身を得られると言います。しかし無色界天の天人は八万大劫の間心が清浄で、一糸の悪業も造らず、命終の時に無始劫以前の悪業が熟し、直接地獄に落ちます。欲界天の天人、色界天の天人も同様です。今世悪業を造らなくても、無始劫以前に皆大悪業を造り、非常に多くの悪業がまだ報いを受けていません。命終に一旦それらの悪業の縁が熟せば、即ち業に随って流転し、全く自主能力がありません。ただ真に我見を断ち三縛結を断って初めて三悪道の業を消滅できます。しかしもし再び大悪業を造れば、やはり三悪道に行き報いを受けます。