衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 25

第四章 性障と煩悩の篇(3)

三十八、証果の後は三悪道の業は消えますが、これらの業は人間界で報いを受けます。人間界でいかなる報いを受けるにせよ、それは三悪道の苦しみよりも軽いものです。人間界における最大の悪報は短命であり、殺害されることや拷問されて死ぬことさえも、三悪道の苦受より軽いのです。六識の心があれば感受があり、苦楽や不苦不楽を感受できます。聖人も同様ですが、聖人は心を用いることが少なく、心が五欲六塵に留まらないため、苦楽の感受は非常に軽微です。もし六塵に心を留めるならば、苦楽の感受も多くなります。

煩悩があれば業行があり、過ちを犯します。悟りを開き証果した後も同様です。煩悩が軽微であれば、犯す過ちは少なくなり、煩悩を断てば、過ちはさらに少なくなります。煩悩を断った後も煩悩の習気は残り、わずかな過ちも生じます。八地菩薩に至って我執が断尽し、煩悩の習気が断尽して初めて、私に関する業行はなくなります。四地菩薩以上は四禅八定を得て神通力を有するため、苦受はほとんどありません。彼らは容易に人間界には来ず、特に七地・八地の菩薩は、人間界に来る必要が全くありません。

三十九、飲食が禅定に及ぼす影響

飲食も禅定に影響する重要な要素です。体内に必要量を超える栄養素を取り込むと、身体に反応が生じます。その後、識心に影響し、識心の反応はやや落ち着きがなくなり、心念は清浄でなく、感情は制御しにくくなったり、強制的な制御が必要になったりします。これらの栄養には魚肉類、煙酒類、葱蒜類などの葷腥物だけでなく、素食も含まれます。素食でも栄養過剰になると、身体や情緒に過剰反応を引き起こし、身体と心理的な負担が増加し、心が清浄になりにくくなり、禅定に影響します。

したがって、禅定が難しいと嘆く多くの人は、自身の食事構造を点検すべきです。栄養が過剰ではないかどうかを。現在は物質生活が豊かで多彩なため、人々は口腹や栄養に執着し、色身や美味を過度に愛惜するあまり、身心が清浄でなくなり、貪りと瞋りを降伏させにくくなり、煩悩が重く、禅定は当然成就せず、仏法の観行と実証は困難を極めます。そうなると、学仏は広く多聞であり理論に熟達し、雄弁ではあっても、内心の実証は結局成就せず、ただ知解の宗徒や理論の雑家に終わってしまいます。

世尊は『楞厳経』で弟子たちに葷腥を断ち、欲心と瞋心を降伏させ、道業を速やかに増進するよう求められました。しかし現代社会では物質生活があまりに豊かなため、素食であっても同様に身心の清浄に影響し、欲心と瞋心を増長させ、道業は速やかに増進できません。これは我々広大な学仏の弟子が注目し、自身の食事構造を調整し、修行に資するべき点です。

四十、心が柔軟になる前提は、修行の理を明らかにすることです。仏法中の正しい知見を学び、世間の一切の法が仮相であることを知り、かつ縁に歴り境に対しこの心を磨きこの心を消融させてこそ、心は徐々に柔軟になります。無我を証得しようとするなら、まず自我が虚妄であることを知り、自我が如何に虚妄であるかを観行し、真に認可して初めて無我を証得できます。しかしながら煩悩はまだ断たれておらず、引き続き深く観行する必要があり、煩悩はようやく淡薄になります。欲界の要求が減少し、初禅を証して初めて、様々な煩悩を少しずつ断除し始めます。これ以前は、全て煩悩を圧伏しているのであって、断っているのではありません。

我見を断ち無我を証して初めて、意根の自我への執着を破る能力が生まれ、初めて自我なき人となります。そして五陰十八界の我という虚妄見を破った後は、身口意の様々な活動において、真実で虚妄ならず、常に作用している真心の如来蔵を発見する能力が生まれます。初果と明心は一つの階位しか違いませんが、この中で福德と智慧は大きく異なります。後者にはより大きな福德とより深い智慧、無我智に大乗の智慧を加えることが必要です。言うは易く行うは難しです。ただ自身の信心を堅固にすれば、知らず知らずのうちにこれらの条件を満たし、真実義の菩薩となるでしょう。努力を怠らなければ、皆成就できます。

四十一、仏法は本来一服の清涼薬であり、人々の心を清涼にし解脱させることができます。どのような状況下で、この清涼薬が毒薬となり、服用すれば生死を増やし、地獄三悪道へ向かうのでしょうか?

貪瞋痴の煩悩心をもって法を学ぶ場合です。学法の目的が無我の解脱功徳を得るためではなく、自我の重りを増やし、あらゆる人を圧倒し、あらゆる人を凌ぎ滅ぼし、あらゆる人を操り、あらゆる人を支配するためです。

したがって仏法を学べば学ぶほど、我性はますます強烈になり、思わず仏法の刀杖を持って一切を斬り殺し、ついには煩悩と業障がますます増勝し、貪瞋痴がますます深刻化し、我性がますます強固になります。こうして仏法の中で悪業を造作した後、最終的には地獄へ、三悪道へ向かい、解脱を得られないばかりか、かえって生死の苦厄を増長させます。

明心見性を求める人の中には、人上人になりたい、あらゆるものを超越し、あらゆる人の肩の上に立ちたいと思う人もいます。このような人は我相・人相・衆生相・寿者相を破るどころか、かえって我相・人相・衆生相・寿者相を増やし、我執を増やし、生死の束縛をますます強くします。これは倒錯した衆生です。

衆生の生死煩悩を最も救えるのは仏法という清涼剤だけです。もし仏法の知識を自らが世間法を得る重りとするならば、仏法は煩悩散となってしまいます。そうなると、このような人は最早救いようがなく、学仏しない方がましです。

四十二、初地菩薩以前に比較的造作しやすい悪業は、おおよそ仏陀の修証の標的と軌道を変更すること、説く法義が仏意でないこと、仏の教法を歪曲すること、衆生の法身慧命を誤らせることなどです。また世俗的利益を争ったり、誹謗業などを造作することもあります。この点について、菩薩が造る悪業の因縁果報を記した幾つかの仏経があり、その果報も甚だ悲惨です。

初地菩薩以前は、煩悩を断じておらず、軽微な煩悩が時として現行します。深刻な時は、比較的大きな悪業も造作することがあり、このような大きな悪業は仏法の修証に関するもので、世俗法上の大悪業は通常は造りません。例えば殺人放火などです。このような大悪業は我見を断っていない者も造らず、仏法を学ばない者も造りません。

四十三、真に解脱を望む学仏者は、日常生活の中で、自心の様々な覚受を仔細に点検し、何に貪愛しているか、何事に心を留めているか、何事に心思いと精力を費やしているかを点検すべきです。点検した後は、これがどのような心理か、どのような意味があるか、結果は何かを分析します。そして自らの貪愛と覚受を対治する方法を考えれば、修行は遮障を掃除し、道業の進歩は速くなります。

我々は無始劫以来の貪習が重く、自らはなかなか気づけません。慣れてしまい、当然のことと思っているからです。ただ、貪習を除き降伏した経験者だけが、自他ともに貪心を発見できます。長く香りの良い庭に居れば香りを感じず、長く糞尿の桶に居れば臭さを感じないのと同じです。庭の外の者だけが清香を嗅ぎ分け、桶の外の者だけが臭穢を嗅ぎ分けます。

貪の範囲は広く、欲界の一切の法で、好きであれば全て貪です。詩詞歌賦に長けた文豪や、縦横無尽の画匠は、ほとんど鬼道へと洒脱に行ってしまいます。それらは全て貪に属するからです。ましてや他の方面、情愛などはなおさら貪であり、鬼道での受生から離れられません。常に馬を描く者は、描くことが神似し、死後は馬の腹に投生します。常に鬼類の小説を書く者は、極めて神妙に書き、死後は鬼に転生します。頭の中で常に何を思うかで、死後はその何かと伴侶となります。画匠が馬を描くことに非常に集中し、心が馬と相応すれば、来世は馬に托生します。常に鬼神小説を書く人は、心が鬼神の中に投入され、鬼神と相応し、死後は鬼となります。我々が今念仏するのは、心が仏と相応し、仏の傍らに生まれるからです。心が善と相応すれば善道に托生し、心が悪と相応すれば悪道に托生します。

鬼道の業報が終わると、なお若干の福德が残り、畜生道に受生します。畜生道の業報が終わり、なお若干の福德が残った者だけが、再び人間界に戻って受生します。したがって人身を得る時間は非常に短く、三悪道にいる時間は非常に長いのです。あらゆる衆生は苦受が多く、楽受は極めて少ないです。それ故に我々は来世のことを考え、福を少なく享楽し、後世のためにより多くの福を残すべきです。福が大きければ速やかに人身に生まれ変われるのです。

善根福德が深い人は仏の傍らにあり、仏の督励と薫染を受け、修行は非常に速いです。仏がなくとも、煩悩を断った菩薩の傍ら、阿羅漢の傍らでは、修行も非常に速いです。朱に近づけば赤くなる、墨に近づけば黒くなるという通りです。心中の大貪心は細かく観察できますが、微細な貪心は極めて多く、ほとんど誰も観察できません。煩悩を断った者でなければ。人身を得る機会がいかに稀少か、人身を得る時間がいかに短いか、人身を得て証果し解脱を得ることがいかに稀少で容易でないか。既に人身を得た我々は、この得難い時機を如何に把握し、精勤して修証し、微少な解脱を得るか、これこそが我々が常に深く思惟すべき問題です。

四十四、智慧が不足している時は、現量に依って判断することができません。正確に判断するには高い智慧と相当に良い択法眼が必要です。多くの人が自らの意識の理解を現量観察だと思い込んでいます。もし証拠が確かでなければ、現量観察で得られたものではあり得ません。現量観察の智慧を持たない人は90%以上で、世俗法においてさえそうなのです。それ故に現量観察を提唱し、現量に依って判断することは、非常に難しいことです。

多くの人は、自らに現量観察の智慧がないことを実事求是に観察できず、多くの法を現量観察できません。特に比較的高深な法はなおさら現量観察できません。しかし衆生は往々にして自らを是とし、自らに現量があると思い込みます。これではどうしようもありません。多くの人が「私の学ぶ法は正法であり、他の人が学ぶのは全て邪法だ」「私の師は正師であり、他の師は全て邪師だ」「私の観点は全て正しく、他人の観点は全て間違っている」と言います。このような深刻な我執・我所執があり、自らの誤った執着を決して反省しないからです。

衆生が度し難いのは、愚痴性の難しさにあります。愚痴ゆえに自らが愚痴であることを知らないのです。愚痴の範囲は極めて広く、極めて細かく、細かさは九地菩薩・十地菩薩に至ってもなお深細な愚痴無明が破られる必要があるほどです。一切の煩悩は愚痴から引き起こされ、貪も含み、瞋も含み、慢も含み、疑も含み、あらゆる邪見を含みます。それ故に愚痴が滅尽すれば、煩悩は滅尽し、無明は滅尽し、そうなれば仏法で学ぶことは最早何もなく、完全に卒業です。

三悪道の衆生の中では、畜生道の衆生が最も度し難いです。極めて重い愚痴性があるため、愚痴ゆえに何の法義も吸収できず、反省もできないからです。鬼道の衆生と地獄道の衆生は、悪業が重いものの、人の言葉を理解でき、思考できるため、救済する方法があります。

もしある人に現量の智慧がなく、正教量に依ろうとしても、それも容易ではありません。仏経は白紙黒字ですが、どれほどの人が誤解し、どれほどの人が誤解しているでしょうか? たとえ原文のまま一字一句違わず経文を復唱しても、声に抑揚がつけば経文の意味を変えてしまいます。現在の大蔵経には、現代人が再整理校訂したものが多く含まれており、句読点さえ誤って打たれています。古文の仏経の句読点は通常句点だけですが、現代人が校訂すると現代文の句読点に改められ、その結果経文の意味が歪み、原意が分からなくなります。要するに一言、愚痴であれば智慧が不足し、智慧が不足すれば何事も良く成せません。

四十五、慢心の危害性

多くの人は称賛と批判に耐えられません。その原因を究めれば、やはり我執心により、慢心が現れるのです。三果・四果以前は誰もが慢心を持っています。ただ因縁が具足しない時は、慢心は随眠して隠れています。因縁が現前した時、慢心は現行します。ほとんど全ての人がこの段階を経験します。ただ時間の長短と深さが異なるだけです。

最も卑屈な人でも、一旦権勢を得ると、往々にして心が最も慢心になります。卑屈・自卑も慢心・我執心の一つの表現形態だからです。我執心がなければ、自卑を感じることはありません。それ故にどれほど自卑しているかで、どれほど慢心しているかが分かります。

ほとんど全ての慢心は、世俗法の面で表れます。例えば富貴で金持ちゆえに慢心する者、地位が高いゆえに慢心する者、権勢があるゆえに慢心する者、容貌ゆえに慢心する者、如意の家親眷属がいるゆえに慢心する者、経験が広いゆえに慢心する者、ある種の特技があるゆえに慢心する者、自らの聡明才智ゆえに慢心する者です。多くの人は色身のゆえに慢心し、大多数の人は頭脳の智慧ゆえに慢心します。これらの慢心の種類は多く、全て内心に我執・我所執があり、身見・我見が重いことにより引き起こされます。

慢心は最も道を障げ、慢心は最も魔に入りやすいです。ある人は自身の顔のあばたに気づかず、他人の顔ばかりを凝視し、毎日他人を点検します。これは内心に自他があるためです。

四十六、正法を誹謗すると往生・解脱できない理由

『無量寿経』第十八願(極楽浄土に往生する条件):設(もし)我れ仏を得んに、十方の衆生、至心に信楽し、我が国に生まれんと欲して、乃至十念せん。若し生まれずんば、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するを除く。

五逆罪とは、仏身より血を出すこと、阿羅漢を殺すこと、和合僧を破ること、父を殺すこと、母を殺すことです。正法とは、衆生を解脱させ得る正しい法義であり、大乗と小乗の法を含みます。

なぜ五逆の重罪を犯すと極楽浄土に往生できず、証果も明心も解脱もできないのでしょうか? なぜ正法を誹謗すると証果も明心も解脱もできないのでしょうか?

まず仏身より血を出すことについて。仏の業種は完全に清浄であり、如何なる悪業・悪縁も感召せず、如何なる悪報もありません。したがって如何なる衆生も仏を殺すことも仏を傷つけることもできず、仏の色身に血液を流させることもできません。なぜ仏身より血を出すという説があるのでしょうか? 仏の血脉とは法脈、すなわち仏法の流伝です。仏身より血を出すとは、法脈を失伝・断流させ、正常に伝播できなくすることです。仏法は衆生を生死から離脱させ解脱を得させることができます。仏身より血を出すことは非常に深刻であり、この悪業の果報は無間地獄の業です。この悪業を造った者は解脱を得ず、生死の苦から離れられません。

阿羅漢は一切の煩悩を断尽した解脱聖者であり、その解脱徳により人天とも供養すべきであり、応供と呼ばれます。八地以上の菩薩の解脱証量は四果の大阿羅漢に相当し、初地から七地の菩薩の解脱証量は三果の聖人に相当します。わずかな惑業を留め、解脱果を取らず、解脱の正位に入らず、無余涅槃に入らないことを保証します。阿羅漢を尊重・供養する果報は、煩悩を断除し、解脱を得、生死を解除することです。逆に、阿羅漢を殺せば煩悩を解脱できず、解脱を得られず、生死を出離できません。生死の苦を出離できる一切の解脱路が全て閉塞されるため、極楽浄土に往生できず、証果も明心見性もできません。

和合僧団について。僧:サンスクリット語 Samgha、詳しくは僧伽。出家修行する男性仏教徒を指し、衆・大衆・団契の意。広義には女衆を含み、男女の出家衆を総称して僧尼と言います。僧伽は四人以上の一群の仏法に依る出家者が組織する宗教団体です。もし出家の身分と資格がなければ僧尼には属さず、人数が多くとも団体を構成しません。聖義僧については、真に証果し真に明心見性した僧でなければなりません。意識で仮に証果・明心した者は依然として凡夫僧であり、意識が操作していない時は、完全に証果も明心もしていない意根の本性が露呈し、必ず意根の思想見解と煩悩に随意に生死輪廻します。

和合とは、六和敬の宗旨に従って共に居住することです。六和敬とは、見和同解(見解が和合し同じく理解する)、戒和同修(戒律が和合し同じく修する)、身和同住(身体が和合し同じく住む)、口和无諍(口が和合し争わない)、意和同悦(意が和合し同じく悦ぶ)、利和同均(利益が和合し同じく均しくする)です。もし意見・観点が一致しなければ和合ではありません。もし皆が三帰五戒・八戒・比丘戒・比丘尼戒・菩薩戒を遵守せず、修する戒律の内容が一致せず、仏陀の制定に合わなければ和合ではありません。もし色身が共同の場所に居住できず、東西南北に雑居すれば和合ではありません。もし内部で互いに争い、罵り合い、攻撃し足を引っ張り、是非紛争が絶えなければ、なおさら和合ではありません。もし会って共にいる時皆が不快で、内心で憤り悦ばず、隔たりが多ければ和合ではありません。もし衆生間で利益が均等でなく、如何なる利益であれ一方が犠牲と付出だけをし、見返りがなく、他方がただ要求と占有だけをするなら、同様に和合ではありません。もし一条でも違反すれば、和合僧団を構成できません。

真の和合僧団は、仏陀に代わって正法を千古に伝え、衆生を生死の火海から救うことができます。これを破壊することは、衆生が生死を出る舟筏を破壊することであり、果報は生死の苦から解脱を得られないことです。したがって極楽浄土に往生できず、証果も明心もできません。不和合の僧団にはこの過失はなく、不和合の僧団は衆生に煩悩と苦果をもたらし、衆生の煩悩の上に更に煩悩を増やし、束縛と枷鎖を増やし、生死をより苦しくします。

父母は自らに肉身を与えます。この色身があれば正法に遇い修学でき、解脱を得る機会が得られ、永久に生死を離脱できます。それ故に父母の恩は山よりも重く、粉骨砕身しても父母の生養の恩に報いるのは困難です。衆生は供養しないばかりか、殺害します。父を殺し母を殺す罪は比類なく重く、死後無間地獄で解脱を得られません。したがって父を殺し母を殺す者は極楽浄土に往生できず、証果も明心もできません。

正しい仏法を、衆生が依って修学すれば、解脱の因となり、解脱を得て生死を了えます。もしこれらの法義を誹謗すれば、正法を信じないことであり、信じることさえ不足しているのに、どうして修学できましょうか? 修学できなければ、どうして解脱できましょうか? 法は生死の海を渡る舟筏のようなものです。舟筏を破壊すれば、衆生は何を頼りに生死の海を渡れるでしょうか? 正法を誹謗すれば、自ら信じないばかりか、他の人々が信受するのをも妨げ、その罪は甚大で、自ら必ず生死を出離し解脱を得られません。したがって極楽浄土に往生できず、証果も明心もできません。

衆生を解脱させ得る法には、小乗の四聖諦・十二因縁、大乗の如来蔵系列の法(般若・方広・唯識)、五識・六識・七識・八識の理論、戒定慧の三無漏学が含まれます。四聖諦と十二因縁は衆生に小解脱を得させますが、永久究竟の解脱は得られません。大乗如来蔵の法は衆生に永久真実究竟の解脱を得させます。そして第七識意根の法は、衆生の小解脱を保証し、衆生の大解脱をも保証し、ついには究竟解脱に至らせます。一切の解脱は、程度に関わらず、意根の解脱にあります。意根が解脱しなければ、全て仮の解脱であり、煩悩は断たれず、生死は了えず、苦海は出られず、涅槃の清涼寂静にはなりません。

五逆罪を犯す者は極めて稀ですが、正法を誹謗する者はますます増え、至る所で見られ、普遍的にそうなっています。したがって大衆に勧めます。自ら禅定の智慧が不足し、証量が足りないならば、時々刻み謹言慎行し、審査員となる資格がない時は黙って自らを修持し、たとえ暫時証果も明心もできず唯識種智がなくとも、世間の智者となり、自ら災いや禍を招かず、自らの解脱の道に障害を設けないようにすべきです。

四十七、今我々は皆、娑婆世界に十億の南瞻部州(地球)があることを知りました。心量は全ての地球の生命輪廻に拡大すべきです。自らの生死輪廻を考慮するだけでなく、六道一切衆生の生死問題も考慮すべきです。心は一つの制高点に立ち、一切の法を観察すべきです。もう小さな一つの地球に局限せず、ましてや自らの個人的な私利に局限してはなりません。もし自らの眼前の小さな利益にだけ局限するなら、その心量と智慧はあまりに狭く、自らの五受陰に惑わされ遮止されてしまい、こうなると後世には生死の苦痛だけがあり、一片の楽しみもありません。

慢心の重い人は観察してみてください。自らは十億の地球の中で、もうこれ以上ないほど微細ではないでしょうか? 一つの技能を持ち、若干の理論知識を知り、一定の権勢・地位・資産などを持っていることが、何になりましょうか? 天の外に天が、人の外に人がいます。半瓶の者が最も慢心しやすいです。少しはあるがまだ足りず、揺れ動く余地があるからです。満ちた人は、眼界が開け見識が広大で、目に映るのは広大な天地であり、心量も大きいため、自らをあまり大したこととは思いません。実際、我々一人一人が十億の地球の中で何番目になりましょうか? たとえ幾地の菩薩に修めても、自らに問うべきです:私は何番目か? 十方世界の八地菩薩は数えきれず、十地菩薩は数えきれず、自らは何になるというのでしょうか?

しかし一方で、菩薩戒では仏も菩薩に、必ず菩薩の尊貴さを認識するよう求めています。菩薩は自らを軽賤してはならず、自らをよく保護し、安易に危険な境地に置いてはなりません。菩提心を発した一柱の菩薩は、菩提心を発した時から成仏に至るまで、無数の衆生を利楽し、辺際なき衆生が菩薩の発心によって生死の火坑から救い出されるからです。

我々は計算してみましょう。十億の地球上に、究極どれほどの衆生がいるでしょうか? 人類はどれほど、鬼類はどれほど、地獄の衆生はどれほど、畜生道の衆生はどれほど、大畜生たる大鵬金翅鳥はどれほど、最も微細で肉眼に見えない細菌の衆生に至るまで、誰も絶対に想像できません。計算はおろか、無数のコンピューターでも計算できません。ただ一つの衆生の身体上の細菌さえ数えきれないのに、ましてや空中の、全ての衆生の身体上の細菌の衆生はなおさらです。したがって我々各菩薩は任重くして道遠しです。自らを大切に保重すべきですが、ただあまりに重い慢心を持ってはなりません。我々は皆かつて多くの仏菩薩に救われてきました。それ故に心を発し、同じく他の有縁の衆生を救い度し、仏菩薩の救済の恩徳に報い、無数の衆生が自らや親人を養育してくれた恩徳に報いるべきです。

四十八、如何にして貪愛の煩悩を断除するか

修行は貪愛を断除するためです。貪愛は六根が六塵に触れる処で生じます。それならば六根が六塵に触れる処で貪愛を止めるべきです。眼根が色塵に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めます。耳根が声塵に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めます。鼻根が香塵に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めます。舌根が味塵に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めます。身根が触塵に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めます。意根が法塵に触れる時、心に貪愛が生じなければ、貪愛を止めます。内心の貪愛の習気に従い、本来は色声香味触法への貪愛が生じるべきですが、修行に力があるため、貪愛の現起を制止し、貪愛を止めます。これが修行の功です。貪愛がなければ修行の徳であり、こうして修行は功徳を生じます。徳とは、品徳・德行であり、心の善の行相です。善があれば解脱に向かい、善があれば自在に近づきます。貪瞋痴の煩悩は束縛であり、解脱せず、自在ではありません。

功徳は容易に現れません。無始劫以来の貪瞋痴の煩悩が根深く固く、習気が深重で、降伏し抜除しにくいからです。長久多劫の思惟観行を経て、貪愛の苦を観行し、少しずつ貪愛を降伏させる必要があります。もし貪愛の苦を知らなければ、貪愛を降伏できません。衆生は皆楽を好み、楽に向かい、苦を避けるからです。もし現前に苦を観察できれば、初めて苦を避ける選択をし、苦患を消除します。したがって修行の第一歩は、苦を観察し、苦を認識し、苦を感知することです。そうして初めて心を六塵に触れる処から引き戻し、六塵の中に深入りしなければ、貪愛の苦を生じません。第一歩の苦を観る・苦を知るがなければ、第二歩の集を断つもなく、第三歩の滅を慕うもなく、第四歩の道を修するもありません。それ故に一人の人が道心を発すことは非常に容易でなく、貪愛の習性によるものです。

四十九、それほど多くの人が毎日「大道は至って簡易である」と言いますが、簡易とはどこにあるのでしょうか? ここに簡易があります。ただ自我を放下し、自我を除去すれば、無我に達します。しかし実行するとなると簡単ではありません。なぜでしょうか? 習気が根深く固く、自心の遮障があまりに深刻で、自我を放下するのが難しく、自我を見破ることさえもあのように難しいからです。ましてや放下など言うまでもありません。

学仏修行の目標は無我と解脱を証得することです。それならば我々はなぜ個人の自我の利益を追求するのでしょうか? これは自らの初心に背くものではありませんか? 学仏で無我の果を証得できない原因は、心中に我執があり、無我と相応しないからです。我執があれば障害石や邪魔者であり、どうして速やかに除去しないのでしょうか?

智慧ある者は、無我の果を追求しながら、一方で自我を中心とし、様々な我執を擁護・弁護し、小我の私利を追求してはなりません。道に逆らい背くことは賢明ではありません。どうしてここまで矛盾するのでしょうか? 無始劫以来の我執の煩悩習気によるものです。もし自ら自心のこのような煩悩の汚穢を知らず観察せず、対治する方法を考えず、常に我執・我性に随順するなら、いつ無我解脱を得られるでしょうか? 解脱自在が快適か、自我束縛が快適か? 両者を比較し、どちらを選ぶべきでしょうか? それほど多くの人は考えるのは明白ですが、行うのは愚かであり、それ故に無我の理を証得できず、解脱の果を得られないのです。

学仏修行には福德善根が必要です。仏法の中で善根福德を種まきしたことのない者は、自然と仏法で何らかの利益を得られません。三宝に帰依せず、仏にも帰依しない者は、たとえ世智弁聡であっても、智慧解脱を得られません。したがって世俗人はいくら聡明であっても、依然として仏法上の智慧を具えず、仏法の中の人ではありません。仏法は仏教に帰依し、仏教を信重し、三宝の中で善根福德を種まきすることを願う者だけを度すことができます。三宝に帰依したくない者は度し難く、彼らが法を学びに来ても、研究に没頭し、仏法を気晴らしとして利用し、証果や開悟によって仏法上の利益を得ることはできません。信根がないため、五根もなく、五根がなければ五力もなく、三十七道品を具足できず、したがって深く観行し証果・明心することもできず、仏法の中の人となることができないからです。

五十、一切衆生を概観すると、六塵上の楽触を貪愛せずにはおらず、六塵への触受を放棄しようとしません。実際には貪愛は全て苦受であり、楽受はありません。しかし衆生は皆貪愛の苦の中にありながら自ら知りません。無数の学仏者は、学仏の目的が依然として世俗生活を享受するためであり、楽受を追求しています。しかし結果は全て苦です。ただ無始劫以来智慧がなくこの理を認識できず、盲目的に楽を追求しても、真の楽しみを享受できなかっただけです。これが愚痴です。愚痴の煩悩は最も脱却が難く、世尊が苦口婆心で勧めても、衆生は依然として愚痴無明の中にあります。修行は容易でしょうか? 非常に容易ではありません。それ故に、最初に我見を断つ難しさは天に登るよりも難しいと言われるのです。この点を認め、実事求是に、自惚れてはいけません。

五十一、修行の目的は、果位に目を留めてはいけません。果位は副産物です。煩悩を降伏させ無明を取り除くことを目標とし、大智慧無量の智慧を得ることを目標とし、衆生を救い度すことを目標とします。このような目標であれば純粋で障りがありません。

戒定慧の実質は、心を戒め心を定め、心に智慧を生じさせることです。戒とは煩悩を戒め、我性を戒め、遮障を戒めることです。これが戒の根本的な作用です。遮障を戒め、心に非が起きなければ、初めて定が生じ、思惟が深く透徹し、智慧を発起します。

五十二、修行の目的は一切の無明を破り、解脱を得ることです。無明がなければ煩悩もなく、生死もなく、束縛もありません。一切の煩悩は無明から来ます。もし修行を他の方面と結びつけるなら、それは無明であり、解脱を得られません。

そして無明を取り除き我執心を断ち解脱を得ようとするなら、他人を助けて共に解脱を得ることから離れられません。他人を助けると同時に、福德の資糧を得、一切の無我の見道資糧を得、自らの無我の解脱心を養い、自らの慈悲喜捨の菩提心を養います。したがって他人を助けることは自らを助けることであり、二者は対立するものではなく、統一されたものです。

どれほどの人が学仏の目的が知識を得るためであり、掌握した知識理論を用いて世間の名聞利養を得、他人の恭敬を得、他人を支配できる権勢を得、より強大な自我を得るためでしょうか? こうなると無明を増やし、より束縛され、より解脱しません。このような知識理論は煩悩です。しかし実証の後はそうではなく、自心は相応する一部分の解脱と軽安を得、同時に他の人々に清涼をもたらし、周囲の環境を改善し、他人を利楽させ、自他ともに利益を得ます。

衆生の無明は幾大劫でも言い尽くせません。もし暇があれば少しずつ数え上げれば、どれほどの人が驚くことでしょう。自らはどうしても考えられなかった、内心は全て無明だと。無明から生じない法を見つけることはできません。誰もが無明を持ち、いつでも無明があり、どんなことにも無明があります。無明は広く普遍的に存在します。明を見つけ出すことさえ困難です。ある人が自ら無明がなく全て明であると思う時、それが無明です。愚痴は天に満ち地に遍く、無始劫以来から無始劫の後まで、あまりに多すぎます。

五十三、もし修持がなく、ただ他人に説くだけなら、耳根のない聾者が他人に音楽を流すようなものです。音楽は美しいですが、自らは全く聞こえません。仏法を修持していない者も同様です。大海の舟子(船頭)のように、よく人を載せて大海を渡りますが、彼自身は大海で命を落とすかもしれません。仏法を修持していない者も同じです。

五十四、現代人は皆、着実に修行することを知りません。毎日口を開けばしゃべり、至る所でしゃべり続けます。何を言うか、究極なぜか、また何を図っているのか? 学仏修行はただ自我を顕示し、他人に自分が修行し多くを理解していると思わせるためでしょうか? ある人々は想像力は豊かですが、実修実証が欠けすぎており、よく仏法を推測し、実際に観行せず、それでいて自信満々です。禅定のない思惟は全て推測に属し、自らの修証から遠く離れた仏法を思惟することも推測に属し、自ら推測した仏法で他人と論争することも、全て自我を顕示する類の人間です。

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