衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年06月15日 閲覧数: 3379
<h2 style="text-indent: 2em;">第8章 法義篇(2)</h2><h3 style="text-indent: 2em;">十九、推論は証得ではない</h3>

推論は必ずしも証得を意味するものではない。たとえば縁覚(辟支仏)が十二因縁あるいは十因縁を推究し、アーラヤ識(阿頼耶識)に至ったとしても、識のところで止まり、それを超えることはできない(アーラヤ識を越えられない)。それでもなお、第八識を見出し証得したわけではなく、アーラヤ識を実証した者ではない。アーラヤ識を実証する者は大乗の菩薩であり、大乗の見道(けんどう)であって、必ず大乗の善根・福德・因縁と発心(ほっしん)を具えていなければならず、いずれも欠かせない。もし外道や小乗にも大乗菩薩の発心があると言うなら、それは必ず大乗菩薩である。なぜなら菩薩がどのような法を学ぶにせよ、すべて大乗を中心とし、衆生を度(ど)し仏道を成就するためであるからだ。菩薩の願いを発(おこ)さないなら、その行いと結果は必ず菩薩ではなく、見道することはなく、菩薩の果徳を持つこともない。そうでなければ、外道の心を発しても仏になれることになる。仏が衆生に必ず大いなる心と願いを発し、自利利他の菩薩の清浄なる大願を発して仏道の修証過程を完成し、円満に成仏すべきことを強調する必要はなかったであろう。

縁覚は生死の源をアーラヤ識に推究したとしても、結局は涅槃に入って滅度(めつど)に向かい、畢竟(ひっきょう)菩薩の大道を行じて衆生を利楽(りらく)することはない。この点こそが縁覚が菩薩ではなく、アーラヤ識を実証していないことの十分な証左である。種子が正しくなければ、根が正しくなければ、どうして正しい結果を得られようか? あたかも悟り以前に一切の法を第八識に帰し、その源はすべて第八識であり、その本性はすべて仏性であると見做(みな)す人々がいるようなものである。このような見解を持っていたとしても、結局は理解と推論、想像に過ぎず、第八識を実証したわけではないので、明心(みょうしん)の菩薩には属さない。

禅宗に「万法帰一、一は何処に帰す」という公案がある。無数の人々がこの「一」とは如来蔵であり、万法はすべて如来蔵に帰し、如来蔵から来ると推測する。しかしそれでもなお、大乗の見道には属さず、破参(はさん)にも属さず、真実義の菩薩ではない。なぜなら依然として如来蔵を証得しておらず、「一」が何処に帰するかを知らないからである。何処か知らず、如来蔵が何処にあるかを見出せず、依然として無明の中にあり、証悟までどれほど遠い道程があるか分からない。相似(そうじ)の法は畢竟相似の法であり、真実の法に代わることはできず、真実の法の功徳を受用することがない。あたかも食べ物について話しても腹は膨れないのと同じである。

阿羅漢や縁覚はすべて第八識アーラヤ識を実証していると言う者もいる。もしそうなら、すべて菩薩と呼べばよい。わざわざ阿羅漢や縁覚と呼ぶ必要はなく、仏法を小乗の四聖諦、中乗の十二因縁、大乗菩薩の六度(ろくど)に分ける必要もない。すべて菩薩法と呼び、明心見性と成仏を根本目的とすればよい。実際には全くそうではなく、その区別は甚だ大きい。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十、識を明らかにすれば一切の法を明らかにできる</h3>

法法相通じるものであり、この法を学べば別の法に通じないということはない。三界は唯心、万法は唯識であり、唯識をよく学べば多くの経典が貫通する。唯識を学び、識の作用を観行(かんぎょう)することは非常に楽しみ深く、自らを理解し、他者や世界を理解し、徐々に愚痴(ぐち)から脱却し無量の智慧を得ることができる。一切の法は識に落ち着き、識があれば一切の法がある。識を明らかにすれば一切の法を明らかにでき、成仏できる。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、色(しき)について略述する</h3>

色とは色蘊(しきうん)であり、五蘊の一つである。相貌・形体・色彩があり、顕色(けんじき)・形色(ぎょうしき)・表色(ひょうしき)・無表色(むひょうしき)を含み、このうち後ろの三つは法処所摂色(ほっしょしょしょうしき)である。顕色は青・黄・赤・白。形色は大・小・方・円・長・短・広・狭。表色は色の形状や姿態、身体の運動や動作、行来去止(ぎょうらいこし)など。無表色は色相に現れる美・醜・魅力・風韻・気質・学識・教養・平静・憤怒・明朗・熱情など。法処所摂色は色・声・香・味・触の上に現れる法塵(ほうじん)であり、意根に対応し、意識によって了別(りょうべつ)される。色にはさらに衆生色(しゅじょうしき)、男女の色相、宇宙山河大地、植物鉱物、家屋宮殿などの無情物も含まれる。

『金剛経』に「もし色をもって我を見、音声をもって我を求むるは、この人は邪道を行じて如来を見ることを得ず」とある。これは如来、法身仏、真の仏を見ようとするならば、色相や声相をもって求めて見ることはできず、色や声、六塵の相があるものは真の仏ではなく、報身仏・応身仏・化身仏であり、三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)を有する。これは化現された有生有滅の仏であり、魔王波旬(はじゅん)も福力のゆえに仏の相貌を化現できる。仏涅槃後、第四祖優波鞠多(うばくった)は波旬に釈迦仏の身相を化現させて目撃瞻仰(せんごう)させた。波旬は実際に仏の色相を化現し、林の中から歩み出て、後ろに一群の弟子を従えた。優波鞠多は一見して本物の釈迦仏と思い、思わず礼拝した。波旬は礼拝に耐えきれず元の姿を現した。したがって如来を見るには色相に執着してはならず、色相から見てはならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、宗因喩(しゅういんゆ)</h3>

それぞれの論題は、一篇の小論文のようなものであり、自ら論点を持ち、論拠を展開し、譬喩(ひゆ)を用いて説明するか、具体的な事例を挙げる。

宗とは宗旨、すなわち自らの論点である。因とは証拠、論拠、事実であり、宗旨を補証するために用いる。喩とは適切で形象的な譬喩であり、宗旨を説明するものである。この本事を身につけて初めて論壇に登り、人と法を弁じることができる。この本事がなければ、いかなる弁論にも参加すべきではない。舞台下で口才を磨くのはまだ良い。しかし口才が良いからといって、論理的思考が良いわけではなく、事実を明らかに説明できるわけではなく、真理を掌握しているわけではなく、大智慧があるわけではない。口才は頭脳、論理的弁証能力には遠く及ばない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、如来と二種の阿羅漢の解脱には何の異同があるか?</h3>

仏も阿羅漢も三界世間の生死の纏縛(てんばく)を離脱でき、三界から解脱し、三界の生死の係縛を受けない。しかし仏は究竟(くきょう)の解脱であり、分段生死(ぶんだんしょうじ)を了(りょう)しただけでなく、変易生死(へんやくしょうじ)も了し、微塵の無明も自心を纏縛しない。したがって究竟の解脱である。阿羅漢の解脱はまだ究竟ではなく、無明が残り、変易生死がまだ了していない。慧解脱の阿羅漢はなお世間の因縁が尽きるのを待たなければ三界を離脱し生死を解脱できない。倶解脱(くげだつ)の阿羅漢は時を待たず解脱し、随時三界を離脱し生死を解脱できる。

阿羅漢が無余涅槃(むよねはん)に入った後、無余涅槃は三昧(さんまい)の境界ではない。三昧の境界には主がいるはずであり、三昧の境界に入る者がいる。将来には三昧の境界から出る者がいるはずである。しかし涅槃には主がおらず、涅槃に入る者はいない。阿羅漢の五蘊十八界はすべて滅尽し、意根も滅尽する。それでは阿羅漢はいなくなる。無余涅槃に入る者がいない以上、無余涅槃から出る者もいない。したがって無余涅槃は三昧の境界に属さないと言われる。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、凡夫衆生の現量認知はすべて非量である</h3>

娑婆世界では、人々は日常生活の常識を現量(げんりょう)認知と見做している。しかしこれらのすべての現量認知は八地菩薩に修至(しゅうし)したとき、おそらくすべて変わり、適用しなくなる。そのとき初めて、元来一切はそういうものではなく、一変しないものも法則もなく、山は山でなく、水は水でないことが分かる。一切の物質色法の虚妄性が物質色法の不安定性と不可靠性を決定している。

我々は火には燃焼性があり、一切の物質色法を焼き尽くすことができると思う。しかし八地菩薩に至れば、必ずしもそうではなく、火の性質は変わり、一枚の紙さえ焼けないかもしれず、ましてや菩薩の色身(しきしん)はなおさらだと知る。我々は水には没溺性(ぼつできせい)があると思う。しかし八地菩薩に至れば、必ずしもそうではなく、一枚の紙さえ濡らせないかもしれず、ましてや菩薩の色身はなおさらだと知る。我々は石は食べられないと思う。必ずしもそうではない。大修行者は完全に石を煮て山芋やジャガイモ、サツマイモのように食べることができる。したがって普通の衆生のいわゆる現量認知はすべて誤りであり、非量(ひりょう)である。衆生は自信過剰にならない方が良い。

泥人形はすべて泥で捏(こ)ねられるが、禅定がなければ捏ねられるだけである。普通の人は何を捏ねられるのか? 生死輪廻の苦しみを捏ねるだけである。現代人は言葉を学び楽しみ、暗誦を好み、知識を学び、学識豊富であることを好み、禅定中の実証を好まない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、回向(えこう)とは何を意味するか?</h3>

回向とは、意根が功徳を他の衆生に送ることを願い、他の衆生の意根もそれを受け入れることを願うことである。二人の如来蔵は協力して引き継ぎの仕事を行う。蠢動含霊(しゅんどうがんりょう)は自ら福や慧を修める力がなく、他の衆生や諸菩薩の回向に完全に依存して若干の福徳を積み、この微薄な福徳の力を借りて、その生命の質と層次を絶えず改善し、無数劫の後、初めて人に生まれ変わる。したがって我々はすでに人に生まれ変わり、かつ仏法を学び修行する機縁を得たので、我々を度脱(どだつ)した諸仏菩薩や善友に感謝すべきである。どのように感謝するかといえば、諸仏菩薩が我々を度脱したように衆生を度脱すべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、牢関(ろうかん)とは何か?</h3>

牢関とは、文字通り牢獄の関所である。牢獄とは何か? 三界は牢獄であり、五陰(ごおん)世界は牢獄である。牢獄を出る関所はどこにあるか? 我見を断ち我執を断つことにあり、かつ如来蔵というこの我にも執着せず、心を空しく清浄にすることにある。これは如来蔵を証得した上で初めて論じられることである。したがってこれは禅宗の第三関であると言われる。この点を成し遂げれば、生死の牢獄の関所を出て、三界から解脱し、五陰身の束縛から解脱できる。小乗で言えば、少なくとも三果の解脱功徳があり、心は解脱し、貪愛と瞋恚(しんに)の煩悩を断除し、命終に我執を断除し、一念無明を断除すれば、無余涅槃を取証する能力を持つ。

禅定においては初禅定があればよく、あまり高い禅定は必要ない。もちろん禅定は高ければ高いほど良い。しかしある者が言うように五陰身を木のようになるまで修める必要はなく、あるいは滅すことができるなどというものではない。これは幾地菩薩、あるいは八地菩薩でなければ修められない。禅宗第三関の前後に位置する者は十行位(じゅうぎょうい)と十回向位(じゅうえこうい)の菩薩に属し、八地菩薩にはまだ遠く離れている。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、心の清浄は分別しないことと等しくない</h3>

心が清浄かどうかは、分別するかしないかにあるのではなく、心を滅して用いなければ清浄になるというものではない。心が運行し分別する過程において、誤りや異想がなく、無明や煩悩がないことにある。長年寝て過ごし、分別せず仕事もしない者がいるが、彼の心が清浄であることを意味しない。ある日一旦目が覚めると、仕事をすれば貪瞋痴の煩悩が山ほど現れる。諸仏は累劫(るいこう)衆生を度することを止めないが、その心は絶対に清浄である。如来蔵は永遠に清浄であるが、運行と分別を止めたことは一度もない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、菩薩の六度(ろくど)</h3>

我々が仏法を学び如来蔵を証得し、明心見性し、真の菩薩となるためには、菩薩が修すべき法を修しなければならない。菩薩は菩薩の六波羅蜜を修行すべきである。六波羅蜜の第一は布施波羅蜜である。菩薩として必ず布施度を修めなければならない。一方では衆生と善縁を結ぶためであり、衆生に必要なものを布施すれば、衆生はあなたを信服し、あなたに従って一緒に仏法を学び修行する。他方では自らの福徳を修めるためである。自らの福徳が具足して初めて、悟りを開く機会を得て真実義の菩薩となり、仏門に入ることができる。

明心の菩薩は仏門に入る。明心していない菩薩はまだ仏門の外にあり、真の意味の菩薩ではない。したがって菩薩となるにはまず必ず布施行を修め、自らの福徳を具足させなければならない。さらに衆生と縁を結ぶことも重要である。衆生と縁を結べば、衆生を度する機縁もでき、衆生は喜んであなたの随学弟子となり、あなたは衆生を導いて一歩一歩修行を進め、将来成仏したとき、これらの衆生はすべてあなたの仏国土で仏法を護持するであろう。したがって布施は非常に重要である。

第二は持戒波羅蜜である。持戒すれば心は矩(のり)を越えず、清浄になり、罪業や過ちを犯さず、悪業の牽累(けんるい)も受けない。持戒によって心が清浄になり、初めて禅定を持つことができる。定があって初めて観行や参禅ができ、真理を明らかにし、第八識を証得できる。したがって菩薩は持戒すべきであり、心行を清浄にする。犯戒の考えを持つ菩薩は一人もいない。もし故意に戒を犯すなら、それは真の菩薩ではなく、彼の性障(しょうしょう)がまだ重く、仏門に入る資格がなく、真の菩薩にはなれないことを示している。したがって真の菩薩となるには必ず持戒し、最初は受動的に持戒し、自動的に自覚的に持戒・守戒し、最後には持戒すべき戒がなくなるようにすべきである。心がすでに清浄になり、犯戒の心がなければ、一切の行為・造作は自性清浄心に相応し、この時は能動的に持戒する必要がなく、持たずして持つことになり、時処諸縁において身口意の行いがすべて戒律に合致し、仏法に合致し、如来蔵の体性と一致する。これが持心地戒(じしんちかい)である。

第三は忍辱(にんにく)波羅蜜である。忍辱を修めることも心を清浄にし、自らの性障を降伏(ごうぶく)し、衆生と善縁を結ぶことである。衆生が多くの辱(はずかしめ)の境を与えるが、心を忍伏(にんぶく)し、衆生に報いず、衆生に瞋恨(しんこん)せず、そうすれば衆生との冤仇(えんきゅう)を解き、善縁も結べる。自らの心性、性障の煩悩も効果的に降伏できる。これは真の菩薩の心行であり、真の菩薩としての標識である。したがって必ず忍辱波羅蜜を修めなければならない。

第四は精進波羅蜜である。菩薩として必ず仏法において精進努力し、懈怠(けたい)してはならない。どの面で精進すべきか? 布施において精進し、福徳を修め衆生と善縁を結ぶ上で精進し、持戒において精進し、忍辱においても精進し、禅定を修める上でも精進し、自らの般若智慧を修める面でも精進し、時処諸縁において精進修行すれば、善法は速やかに増長し、速やかに明心見性できるようになる。これが精進波羅蜜であり、生死の彼岸に至ることができる。

第五は禅定波羅蜜である。菩薩は必ず禅定を修め、心を一境に住し、散乱もせず昏沈(こんじん)もせず、定力を修め出して、初めて様々な観行ができ、仏法を証得できる。この定は一つには四禅八定の定である。もう一つは心得決定の定である。大乗の法、如来蔵の法に対し、菩薩は心得決定し、確信して疑わず、退転しない。明心見性して真の菩薩となる法、成仏する法、般若実相の法に対しても心得決定する。四禅八定の功夫、特に初禅以前の未到地定(みとうじじょう)は必ず修持し出さなければならない。これは観行参禅の基礎であり、この定があって初めてよく観行でき、自心の本性を証得できる。したがって禅定は非常に重要である。定があれば同時に福も生じる。これを定福という。最も主要なのは、定があれば大乗般若の智慧を増長できることである。したがって定を修めれば生死の彼岸に至ることができる。

菩薩の六度の最後は般若智慧である。般若とは何を指すのか? それは我々の自性清浄心如来蔵であり、不生不滅の心体である。般若経典は主に600巻の『大般若経』であり、すべて如来蔵を中心に説かれている。『心経』『金剛経』など多くの般若に関する経典はすべて如来蔵の般若体性を説いている。これらの内容を我々は修習し、理を明らかにしなければならない。理を明らかにした後、禅定を修め出せば、参禅できる。これらの六度の条件が具足して初めて、参禅する能力があり、時節因縁が具足すれば、自性如来蔵を証得でき、明心見性できる。

菩薩の修行として、主にこの六つの面を修める。最後の一条は般若波羅蜜であり、これは最も重要な修行内容である。一切の修行は大智慧を獲得するためであり、智慧があれば一切の法を成就でき、智慧に依存して初めて解脱を得られ、智慧に依存して初めて生死を度し仏道を成就できる。したがって我々は皆、努力して般若智慧、如来蔵の法を薫修(くんじゅ)すべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十九、なぜ受けるものはすべて苦なのか?</h3>

苦には三種類ある:苦苦(くく)、行苦(ぎょうく)、壊苦(えく)。あるいは八苦に分ける:生老病死苦、求不得苦(ぐふとっくく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)、五陰熾盛苦(ごおんしじょうく)。行苦の「行」とは運行と変化を意味する。五陰身心は少しずつ変化し壊れ、根本的に留まることができず、把握できない。したがって五陰には行苦がある。壊苦の「壊」とは破壊、消散、変異を意味する。五陰も把握できない。したがって五陰には壊苦がある。一切の苦そのものが一種の苦であり、これが苦苦の意味である。衆生には三苦、八苦だけでなく、拡大細分すれば無量の苦がある。しかし愚痴の衆生は苦の中にいながら苦を知らず、わざわざ仏陀に娑婆で苦聖諦を開示してもらい、開示された後もなお苦を認識できず、苦を断つこともできない。

受は苦受、楽受、不苦不楽受に分かれる。どの受も苦である。楽受の中にも行苦があり、楽受の後は壊苦である。楽受と同時に、心の中には依然として苦があり、楽の時は純粋な楽ではなく、しかも衆生は様々な楽受のために一定の代償を払わなければならない。したがって五陰世間には真に苦のない楽受は存在しない。

無色界では、非想非非想処天(ひそうひひそうしょてん)の禅定境界は極めて楽しい。しかしそこにも行苦があり、時間が非常に速く過ぎ、定中八万大劫はあっという間に過ぎ去り、過ぎ去った後は一切の苦悩が現前する。衆生は楽しい時に楽が消えないことを望むが、この望みそのものが苦であり、有所求の苦に属する。衆生が仏法を追求する時には辛苦の代償を払わなければならず、これ自体も苦である。しかし苦中には楽受があり、その後一切の苦は徐々に楽受に転化する。したがって我々は精進して仏法を修学し、困苦と艱難を畏れず、修め終わればすべて楽受と捨受に変わるべきである。どの受も無常であり、無常なものは苦である。したがって受けるものはすべて苦であると言われる。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十、捨識用根(しゃしきようこん)の意味</h3>

捨識用根という説は正しくない。もし識心がなければ、誰が根を用いるのか? 根はどのように用いられるのか? 根でもあり識でもある意根第七識を除いては、六識を離れても作用を起こせるが、普通の人はそれはできない。一切の法は心によって支配され、心識がなければ修行について語ることはできない。我々が仏法を学び修行するには、仏法の基本道理をはっきりさせて初めて着手して修行を始められる。

いわゆる捨識とは、六つの識をすべて滅して用いず、六根だけを用いて修行し一切に対応することである。しかしもし眼識がなければ、眼根は色を見ることができない。もし眼根だけで色を見られるなら、死人も色を見られ、眠っている時も色が見られることになる。そうなれば人は死もなく眠りもない。六つの識が滅すれば、人は一切の法を了知できず、根があっても作用を起こせない。根は六塵を受納する受納器であり、六識を出生するために用いられる。識がなければ根は無用である。したがって修行は捨識用根であると言うことはできない。我々が用いるのは識であり、一切の法は識が作用し分別している。識のない衆生はあたかも一塊の木のようであり、思惟・分別・計画・打算・推論・判断ができない。

もし意識がなければ、前五識も存在できず、やはり根を捨てられない。仮に用いられたとしても、眼識は色の粗相(そそう)しか見られず、耳識は音声の粗相しか聞こえない。意識心の分析・判断・推論・思惟がなければ、何の法も了別できない。眼根は自ら自らを用いることができず、眼識・意識・意根・第八識が和合して初めて用いられる。耳根・鼻根・舌根・身根もすべてそうである。識がなければ根は何の作用も持たない。もし意根が単独で作用を起こせるなら、必ず四禅八定と神通を有していなければならない。甚深の禅定であっても、意根は依然として六塵境界を了知できず、修行もできない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十一、エネルギーはすべて物質色法である</h3>

音楽は声塵(しょうじん)であり、四大から成る物質色法である。物体が衝突して発する音は外声塵(がいしょうじん)であり、我々がそれを聞いたなら、聞いたのは内声塵(ないしょうじん)である。音楽の旋律は音声に依ってあり、五塵上の法塵に属し、法処所摂色である。楽譜を見て想像した音楽の旋律ならば、それは独影境(どくえいきょう)である。もし楽譜も見ずに、空しく想像した音楽の旋律ならば、なおさら独影境であり、すべて四大から成る色法である。

異なる物体が衝突すると異なる音を発し、衝突の力が異なれば音も異なり、衝突の角度や時間が異なっても異なる音を発する。したがって異なる物体を叩き、異なる力と角度を用いれば、一連の異なる音が形成され、リズム感がある。これがいわゆる音楽の旋律であり、生滅変異し、非常に虚妄で、執着すべきでなく、把捉(はそく)すべきでない。したがって音楽を好むことも愚痴であり、貪愛でもあり、生死輪廻を出ない。

これにより思うに、エネルギーも物質色法であり、四大から成り、物質運動によって生じるものであり、消耗・逓減もでき、生滅変異無常で、把捉できない。熱は触塵(そくじん)であり、四大から成り、物質色法であり、エネルギーである。電子運動、水の運動はどちらもエネルギーを生み出し、物質色法であり、実際の功用があり、六識によって感知できる。音も一種のエネルギーと言え、物体の運動エネルギーであり、エネルギーに属する。飲食の中にはエネルギーがあり、身体に力を与えられる。物質色法だけが身体に力を与えられ、温度や暖かさを持ち、身体を変えられる。

物質形態が変わればエネルギーを生み出せ、形態が異なればエネルギーも異なる。水力発電は水の運動がエネルギーを生み出す原理を利用したものである。身体のエネルギーが少なければ、多く運動し、走れば熱量を生み出し、身体を温められる。電磁波・磁場は一種のエネルギーであり、飲食を成熟させられる。

地大も一種のエネルギーであり、人を打ち殺せるのは地大のエネルギーの作用である。火大も一種のエネルギーであり、命を生かし、人を焼き殺せる。水大も一種のエネルギーであり、堤防を崩壊させ、人を溺れ死なせ、渇きを癒せる。エネルギーはまた一種の力とも呼ばれ、四大はすべて力を持ち、力を形成できる。静止した物体は遮断・遮蔽の作用を起こせ、これも一種のエネルギーである。力がなければ遮断の作用を起こせない。土地も一種のエネルギーであり、衆生や物体を支えられる。力がなければ支えられない。静止した川の水も一種のエネルギーであり、物体を浮遊させ、物体を載せられる。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十二、なぜ蚯蚓(みみず)は体が何段かに分かれても死なないのか?</h3>

人は二つに分かれると、一つの部分または両方とも死ぬ。蚯蚓は七つ以上の部分に分かれても生きられる。理由は虚空に福のない衆生が多く、身体がなく、常に機会を求めて生まれ変わるためである。蚯蚓の色身は低賤で福がなく、これらの無身無福の衆生に適している。蚯蚓がいくつかの部分に分かれた後、衆生の如来蔵は直ちに他のいくつかの身体に投じ、蚯蚓のそれらの部分の身体はすべて生き返る。一つの部分は元の蚯蚓自身のものであり、残りは無福の衆生が後から入ったものである。虚空の中に身体のない衆生は非常に多く、身体に頼れず、皆苦悩している。したがって様々な衆生は生まれ変わる縁に遭遇すれば、どんな胎であれ生まれ変わることを考え、生まれ変わった後の運命や苦痛を考慮する余裕はない。

大千世界の衆生はあまりにも多く、三悪道の苦難の衆生は数えきれないほどである。ただ一つの衆生の体上の細菌さえ無数であり、ましてやすべての衆生の体上のもの、ましてや虚空の中のもの、ましてや十方世界のものである。したがって我々はすでに人身を得て、しかも仏法に遭遇したので、精進修行し、人身を保ち、再び三悪道に堕ちてはならない。多くの衆生のことを考え、自ら無始劫(むしごう)の父母親族のことを考えても、精進修行すべきである。天下の衆生を憐れむため、心を発して精進修行すべきである。人身を失えば万劫(まんごう)も回復し難く、幸いにも仏法に遭遇したのはいかに容易でないか。必ず機会を掴んで修め出し、以後無量の衆生を広く度すべきである。これらの苦難の衆生を見て、自ら大誓願を発し、自利利他とすることは難しくない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十三、衆生に無明がなければ仏となる</h3>

衆生は無始劫以来、無明を持ち、心は一度も明らかになったことがない。もし衆生の無明が断じ尽くされ無明がなければ、それは仏である。衆生は一度も仏になったことがない。もし衆生が仏になったことがあれば、永遠に再び衆生に戻ることはない。『円覚経』にこの段が説かれている。世尊は例を挙げて言われた:「たとえば金鉱から真金を精錬すれば、真金は永遠に金鉱に戻らない。」つまり成仏した後は永遠に衆生に戻らないという意味である。これはまた衆生が無始劫以来無明を持っていることを示しており、これについて道理を講ずることはなく、法爾(ほうに)如是(にょぜ)である。『楞厳経』第四巻で阿難は世尊に無明はどこから来るのか、なぜ無明があるのかと尋ねた。世尊は無明には来処がなく、原因なく存在すると言われた。もし原因があるなら、それは無明ではない。

仏法を学び修行する目的は成仏のためであり、仏は大智慧の成就者である。したがって我々の修行の究極目標は大智慧を獲得するためであり、智慧による解脱、智慧による成仏である。一切の方法手段は智慧を獲得するためである。智慧があれば無明はなく、無明があれば智慧はない。無明を破れば智慧を得る。我々が布施波羅蜜を修めれば智慧を得て彼岸に至ることができる。持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜もすべて智慧を得て彼岸に至り、究竟の解脱を得ることができる。

波羅蜜とは彼岸に至ること、生死の此岸(しがん)を離れることを意味する。我々の本覚心(ほんがくしん)には無明がなく、生死がなく、生死の此岸にはなく、また非ずともない。生死のない彼岸にあるが、また彼岸にあるわけではなく、彼岸があるわけではなく、これが本覚の中道性である。我々が修行してすべての無明を破り、究竟智(くきょうち)を得れば、本覚に相応し、生死もなく、非ずとも生死でなく、即ち仏地の解脱色(げだつしき)を持つ。即ち涅槃に在りながら涅槃に入らず、これが仏地の無住処涅槃(むじゅうしょねはん)であり、在在処処(ざいざいしょしょ)に自在ならずといえず、解脱せずといえず。もし我々の修行方法が智慧を得られず、解脱を得られなければ、真実の受用はない。我々は再び思考し、正しい修行方法を選択して、より速やかに仏地に向かい究竟智を得るべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十四、多くの仏法学習者はほとんど皆、意識と潜在意識の区別がつかない</h3>

多くの心理学者など社会人々は仏法を信じ学ばないが、意識と潜在意識を比較的はっきり区別できる。我々のような仏法や唯識を学ぶ者は、両者の区別がつかず、言うのはまことに汗顔慚愧(かんがんざんき)である。唯識学者、唯識学の専門家、その観察思惟の智慧が、もし禅定や般若唯識の智慧を持たない心理学者に及ばないなら、何をもって唯識の専門家・学者と呼べようか。なぜこのような状況が生じるのか分からない。

甲:私はこう理解している:ある学者、芸術家、研究員はよく研究のために日夜考え、ついには定力が強くなり常に三摩地(さんまじ)の状態に入ることに気づかない。したがって微細な観察ができる。

乙:その通り。彼らは禅定を持っているが、わざわざ修めたものではなく、非常に大きな興趣と愛好心がある。彼らは宗教の枠に執着せず、宗教の是非善悪にも執着しない。私は多くの宗教徒がかえって自らを制限し、思惟概念の世界に生きているのを見てきた。これらの学者は研究探求の仕事に情熱と責任感を持ち、したがって一心に専念でき、他の人々や事柄には興趣がなく、真理と事実を発見できる。

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