仏法雑談(第一部)
第十四章 仏法雑談篇
一、私たちの視野は限られており、地球を見ることはできません。地球を見ることができなくても、私たち自身が地球の上に足を踏み入れ、地球の上で生活し、地球の支えと養育に依存していることを知っています。このような知は現量の直接的な認知でしょうか、それとも理上の認知でしょうか? それは確かに理上の認知です。なぜなら、この理を理解すれば、私たちがまさに地球の上にいることを判断できるからです。仏が説かれた多くの道理も同様で、ただちに証得することは困難ですが、累世の善根に頼り、択法眼を得るまで修行すれば、如理の思惟判断を通じて、仏法が正しいこと、それに依って解脱を得られ、仏道を成就できることを知ることができます。
例えば、阿羅漢たちはまだ涅槃に入っていませんが、法を学び思惟することによって、我執を断ち、三界の貪愛を断じ尽くせば解脱を得られることを了知でき、心の中でこの方法が涅槃に入る解脱をもたらすと確信します。まだ入っていなくても、涅槃に入る時に至って初めてこの修行方法が涅槃に入れることを知る必要はありません。これが仏の説かれた理上から思惟判断し、正しい結論を導き出すことです。多くの事柄は、私たちが自ら経験しなければ有無や是非を知る必要はなく、智慧的な認知によって多くの道理を明らかにします。智慧がなければ、たとえ自ら経験してもその所以を知ることはできません。諸道友にお勧めします。自分が知らない事理については、軽々しく「違う」「正しくない」「ない」「間違い」と言ってはいけません。常に自らの智慧がどの程度に達しているか、正しい思惟推理判断ができるかどうかを量りなさい。あなたが導き出した結論は必ずしも正しくありません。特に仏の説かれた法について判断を誤れば、それは誹謗となり、仏と法を誹謗する結果は非常に深刻です。
二、法を説くには、衆生の根基に対応するだけでなく、衆生の根基を超越し、衆生の根基を導き高めるべきです。なぜなら、衆生の根基は千差万別であり、低く浅い次元の法だけを説くことはできません。深い法やさらに深い法も説き出すべきです。説き出すことは必ずしも現前の衆生のためだけではなく、後世の衆生のため、大根器の者のためでもあります。根器が足りない者は、聞いただけで流し、理解できなければ疑問として留め置き、軽々しく結論を下してはいけません。
私が法を説く際は、まず下準備をします。三六九等の衆生すべてに配慮し、今世後世にも配慮します。さらに主に仏教全体の発展を考慮するため、各衆生の具体的状況に完全に対応することはできません。当然、一部の人々、あるいは多くの人々が相応しないこともありますが、これは正常な現象です。たとえ仏が在世中に説法されても、すべての法がすべての衆生の根基に適応するわけではありません。すべての事柄は仏が自らお取り計らいになります。釈迦仏は娑婆世界の仏法について全体としての計画を持ち、背後で導いておられます。私たちは知りませんが、ただ安住していれば良いのです。当面は自らに相応する法を吸収し、深い法は一時的に置いておきます。
世尊が娑婆世界で成道されたばかりの時、大心の菩薩衆生に華厳経を説かれました。無量の諸天大衆や人の中の弟子、特に声聞弟子たちは、まるで聾唖のようでしたが、世尊はそれでも華厳経を説かれました。娑婆世界の仏法全体の下準備をし、成仏の道を明らかに説くことで、弟子たちは仏法修行全体の次第を理解し、心の中で見通しを持つことができたのです。華厳経を説き終えてから、世尊は初めて弟子たちに最も粗浅な仏法を教え、大衆を導いて四阿含経を修行させ、我執を断って初果を証得することから始められました。
三、自分に目盛りがない、あるいは物差しが短すぎる場合、他人や物を測れるか
世間法において審判を下すには、審判の対象について通達了知していなければなりません。つまり、その道に通じている必要があります。例えば、ある大学教授の教育水準を評価するには、自分の学識がその大学教授以上か、少なくとも同等でなければなりません。大学生の論文水準を評価するには、大学教員でなければなりません。仏法の修証において、ある人が悟りを得たかどうか、見性したかどうかを判断するには、自分自身がまず明心見性の者でなければなりません。その道を歩み、その道に慣れてこそ、他人が歩む道が正しいかどうか、また他人がどの位置にいるかを知ることができます。
仏法の判断について、最低限の要求は択法眼を持つことです。できれば主要な仏法についてあまり疑いがなく、さらに望ましくはその法を証得して、初めて比較的正確な判断が下せます。この程度まで修めた人は非常に少ないです。他人が果を証得したかどうかを判断するには、まず自分が果を証得しなければなりません。初果を証得して初めて疑いが断たれ、自分が果を証得したかどうか、師が果を証得したかどうか、法が衆生に我見や我執を断たせることができるかどうかを疑わなくなります。そうでなければ他人を判断できません。自分にまだ目盛りがない時は、他物を測ることはできないのです。
四、いつまで修行すれば分別しないことができるか
衆生の七つの識の存在は、分別の作用を起こすことです。もし分別しないようにするなら、識心を滅した時には分別できなくなります。入定後は分別が微細になります。知性があり、知る対象と結果があれば、分別は完了します。一般の人が言う分別しないとは、善悪や你我彼女などに対して分別的な扱いをせず、平等に扱うことです。しかし、平等に扱うことも分別です。そうでなければ平等に扱うことはできません。心の中で皆が平等だと感じてこそ平等に扱え、覚えがあり視ることがあるのはまさに分別です。平等に扱うことは分別の結果であり、過程でもあります。
仏の平等性智は、一切の衆生を平等に扱い、善悪を分けず、因縁が熟せば教え導き救済します。仏陀は「私は善人だけを救い、悪人は救わない」とは言わず、善人だけを憐れみ悪人を憐れまないこともありません。むしろ逆に、仏陀は悪人をより憐れむかもしれません。なぜなら、彼らがさらに多くの苦しみを受けるのを恐れるからです。それゆえ、より心を砕いて悪人を救済し、彼らが救済される因縁がいつ熟するかを観察します。これは仏陀の大悲心平等性智によるものです。仏陀は私たちのように、善人善人だけを気にかけ同情し憐れみ、悪人を憎むことはありません。仏陀にはそのような分別心はなく、一切の衆生を平等に扱います。しかも、往々にして衆生の仏性だけを見ます。なぜなら、衆生の仏性は平等であるため、仏陀は衆生を一律平等に見るのです。
五、仏在世時に人々が仏法を問うたのに、なぜ仏は答えなかったのか
ある問題は、衆生の智慧が足りない時、世尊がどう説いても衆生には理解できません。世尊はそれを宣説しません。説いても意味がなく、かえって衆生の迷いを増すだけだからです。そこで世尊は宣説しません。例えば、外道が世尊に問題を問うた時、世尊は彼の根基がこの問題の答えを理解できないと観て、この問いは無記であると言い、答えませんでした。また、弟子が世間の最初の興り、最初の仏がどのように修行して成仏したか、最後の仏に救うべき衆生がいないのにどう成仏するかなどを問うた時も、世尊は答えませんでした。
仏法は浩瀚無辺ですが、世尊は娑婆世界でほんのわずかしか説かれませんでした。その他の法はこの世界の衆生の修学に適しておらず、衆生の受け入れる能力は実に限られており、理解できないものは誹謗するからです。それゆえ、無量無数の仏法を、世尊が説きたくないのではなく、衆生自身の業障が重すぎ、福徳が薄く、智慧が浅いためです。私たちは自らの業障をよく懺悔し、当面理解できない道理については論評や断言をせず、誹謗の業行を造って未来世に悪果報を受けないようにすべきです。
六、甘露を毒の入った杯に注げば、たちまち毒薬に変わります。器が清浄でないためです。仏法の甘露が衆生の心に入っても、衆生は邪解を生じます。智慧が清浄でないためです。邪見の種子が衆生の八識田中にあり、縁に遇えば即座に邪解を生じます。甘露の法相が衆生の識心によって歪められ、生み出された内相分はもはや甘露ではなくなります。識心が歪められた内相分に触れれば、邪見が生じます。邪見の種子が再び八識田中に植えられ、将来咲く花もやはり邪見の花、結ぶ実も邪見の実となります。なんと悲しいことでしょう!意根の染汚性を取り除くことが、仏法を学ぶ者の急務です。これには意識心が常に正しい法理を正しく思惟し、常に意根を薫染させ、ある日意根の邪見が転換した後、修行は正しい道を歩むことができるようになります。
七、心が境に随って転ずるとは、外の境界が内心に影響を与え、波瀾を生じることです。一つの原因は定力が足りないこと、もう一つの原因は智慧が不足し、直面する境界を正しく如理に認知分析できないことです。人が最も好むのは自心に随順することであり、その心が善か悪かを問わず、自分に順えば喜び、自分に背けば苦しみを感じます。なぜなら、人は内心の感受をあまりにも重視するため、往々にして人事物の判断が正しくないからです。同じ人でも、ある時は非常に良いと感じ、ある時は非常に悪いと感じます。これは完全に自心の感受から出発しており、客観的で公正な角度からではありません。これは私たちの心識の虚妄性、境界の虚妄性を示しています。それらは常に絶えず変化する状態にあり、永遠不変ではありません。つまり、それは真実の法ではなく、頼りにならない法です。私たちは完全にこれらのものに依存することはできません。そうでなければ、これらのものが滅した時、どうして良いか分からなくなってしまいます。
八、四大不調にはどのような症状があるか
四大が不調和になれば、百病ことごとく生じます。すべての色身の疾病は四大不調によって引き起こされます。四大不調の原因は、一つは業障によるもの、もう一つは後天的な環境によるものです。四大が不調和になるとは、四大種子の成分が変化し、身体はそれに伴って変化し、様々な疾病が現れます。単一の大が不調和になるだけで、それに相応する疾病を引き起こします。例えば、水大が不調和になれば、身体の中の水が多すぎるか少なすぎるかのどちらかであり、水の成分が多すぎても少なすぎても疾病を引き起こします。浮腫、皮膚乾燥、腎病、湿疹、皮膚炎、血液粘稠、心脳血管病など、水に関連するこれらの疾病です。
風大が不調和になれば、風に関連する疾病、例えば呼吸器系の疾病、風疹、リウマチなどを引き起こします。火大が不調和になれば、火に関連する疾病、例えば身体の冷えや熱の病、寒涼病、高熱、微熱などを引き起こします。地大が不調和になれば、地の堅さや支持性に関連する疾病、例えばカルシウム不足、四肢無力、体弱、猫背、全身の痛みなどを引き起こします。一大が不調和になれば百病が叢生します。まして四大すべてが不調和なら、なおさら病障が重なります。総じて、すべて衆生が無始劫に造った業が感召した果報であり、ごく少数の場合はたまたま外界の環境が変化して身体が一時的に適応できないために起こります。多くは業障病です。
業障病であれ、たまたまの環境不適によって引き起こされたものであれ、その変化はすべて如来蔵のなせる業です。四大種子が如来蔵から送り出され、その中の比率や成分が変化すれば、物質色身は相応の変化を起こします。四大種子成分の変化は、如来蔵が主となって決定します。如来蔵は何を根拠に四大種子の出力を変えるのでしょうか?一つは業種に依ります。如来蔵は業種を了別でき、その運行は必ず業種に依って行われなければなりません。もう一つは色身の触れる環境に依ります。なぜなら、如来蔵は身根と器世間の環境を了別でき、如来蔵はそれに依って、絶えず環境と身根に随順して四大種子の構造を変えるからです。こうして身体は絶えず様々な変化の中にあります。各衆生の色身はすべてこのように刹那刹那に変化しており、変化しないものはありません。すべて自らの如来蔵のなせる業です。
九、仏法に執着することは果たして良いことか
執着について言えば、自我である五陰に対する執着は、四果阿羅漢以前の者にはすべてあります。仏法に対する執着は、大乗無学位に至っていない菩薩にはすべてあり、法執を滅すれば仏となります。八地菩薩は修行が無心無為に達していますが、仏法修証上はなお修すべき多くの法があり、法執も断じ尽くしてはいません。
仏法は霊丹妙薬であり、衆生が苦海から脱出する指路明灯であり、摩尼珠であり、大宝聚であり、生死海を渡る船であり、救命の藁です。あらゆる良い言葉を仏法に当てはめることができます。各仏典にはすでに多く、良く、はっきりと説かれており、非常に多くの譬えもあります。仏法はまさに川を渡る船であり、岸に着いて初めて船を捨てられます。衆生が生死海に漂っている時、船をしっかり掴んでいなければ、海に落ちて溺れ死んでしまいます。得道していない凡夫の衆生はなおさら仏法を掴み、自らの命を救い、苦を離れ楽を得ることを期待すべきです。
凡夫人の大多数は仏法に執着しません。仏法に執着する人は少なく、非常に少ないです。もし仏法に執着できれば、もはや自我や世俗法に執着せず、生死輪廻を絶え間なく続けることはありません。仏法に執着することは良いことです。すべて学び通達し、貫通した後、法執を断じ尽くせば、彼岸に登ることができます。もしまだ生死凡夫であるなら、仏法に執着しなければ、確かに世俗法に執着するでしょう。仏法の修行においては懈怠し、身体も心も懈怠した人は、確かに仏法に執着せず、修めるかどうかもどうでもよく、何を修めるかもどうでもよく、どのように修めるかもどうでもよいのです。疑いの余地はありません。
最初に仏法を学び修行する際、仏法に執着することには多くの益があります。仏法を貪ることは善なる貪りであり、何らかの利益を得られ、自我や世俗に対する執着を仏法に移し、五陰の自我や世俗の五欲六塵を貪ることを転じて、仏法に執着し仏法を貪ることで、心は解脱を得られます。仏法が通達し貫通した後、段階的に仏法への貪りと執着を取り除いて、初めて仏道を成就できます。
十、世界は虚空中に建立され、虚空は如来蔵の中にあり、一片の雲が大海原に点るが如しです。娑婆と極楽世界は最も近く、なお十万の仏国土を隔てています。大千沙界はどれほど広大なのでしょうか。自心を征服すれば、宇宙を征服し、十方世界を征服し、一真法界を征服したことになります。心を掘り出し、その中の法をすべて明らかにすれば、無量の世界はあなたのものとなります。実際に世界を征服することは自心を征服することであり、心の外には本来法はありません。
私たちは毎日、小さな世俗法に執着し、小さなことで心を動かし念を起こせば、あまりにも小さく見えます。宇宙虚空の中に立って観察すれば、世の中で何事が事足りるでしょうか?いつ自らの心量を如来蔵と同じく拡大するかによって、十方世界海を所有する時が決まります。仏は言われました:「たとえば、澄み切った百千の大海を棄てて、ただ一つの浮き泡の体を認め、全潮と目し、瀛渤を窮め尽くすがごとし。汝らは即ち迷いの中の倍人である。」仏のこの言葉を聞けば、私たちは本当に早く目覚めるべきであり、もう迷い執着してはいけません。
十一、小乗の修行はやはり仏の説かれた阿含経、特に雑阿含経を基準とすべきです。他の人の論著には多かれ少なかれ不正確な点があり、その細部は仏説と一致しません。たとえ四果阿羅漢の説く論著も仏説と食い違いがあり、すべてを信受することはできません。
小乗の論著における誤りや論争は、古代唯識の論争よりも多いです。それほど単純な法でも、争いあい意見が一致しないのです。仏法の修行が容易でないことがわかります。小乗解脱道の修行次元が比較的低いため、著書や論を書く人も多く、内容も比較的雑多で、各々が各々の言葉を説くことも少なくありません。これはすべて娑婆世界の衆生の業が感召したものであり、他の世界にはこのような状況はありません。
仏経には、初果の後、初禅定を修めて初めて貪瞋痴などの煩悩を断じ、その後慧解脱の阿羅漢となれると説かれています。しかし、小乗の論著には、慧解脱の阿羅漢には初禅も未到地定も必要ないと説いています。少しも禅定を修める必要なく煩悩を断じて四果となるとは、天方夜譚です。
私たちが今世で精進修行せず、基礎を固め、何らかの成就を得なければ、後世の仏法はさらに乱れて変遷し、もはや是非を弁別できず、魔王の設置した穴に容易に落ちて出られなくなるでしょう。魔王の手口は非常に多く、防ぎきれません。それゆえ、私たちはやはり三宝に帰依する願を発し、仏力の救護に依って解脱の正しい道を歩むべきです。この世間は至る所に魔障があり、福徳が少しでも劣れば障られ、自らは知らず、知っても解脱する力がありません。福徳を多く修め、定力を増強し、業障を降伏させることが最も重要です。その時が来れば、業障が現前しても、打ち破って出ていく力があります。
十二、中国の漢字の意味については、私たちはさらに思惟分析研究を加え、その中の真実の意味を明らかにしなければなりません。文字に障害のない人こそ、容易に正しく仏法を理解でき、智慧が絶えず生起できます。文字障のある人は、一節の文字を見てもその実質的な意味を真に理解できず、往々にして誤解し、智慧を高めることができません。衆生同士の交流において、言語文字に障害があれば、互いに理解し合いコミュニケーションが取れず、交流すれば苦悩と無念が生じます。人意を善く解する人は、言語文字の障害が少なく、他人の心理を見抜くことに長け、人とコミュニケーションしやすく、人と交わる際の障害が少ないです。
各人による文字の理解度は非常に差があります。なぜ一部の人は文字の理解度が非常に低いのでしょうか?心が粗く細やかでないこと、定力が欠けていること、智慧がないこと、福徳が不足していること、これが最も主要な問題点です。文字の中に明らかにその意味がないのに、一部の人は理解するとその意味があると思い込み、自らを振り返って反省せず、回光返照しようとしません。多くの人は他人だけを照らし、自らを照らさないのです。それは我が重い表れです。そして自らの理解が正しいと思い込み、躊躇なく他人を否定し、他人と論争します。この衝動性こそ禅定が欠けている表れであり、智慧がなく、自らを反観できず、自他を正しく評価できない結果です。賢明な人は、心が非常に細やかな人であり、他人を如実に観察でき、自らを真実に反観できます。観察力と反観力がなければ、定力が劣り、智慧が不足していることを示します。
十三、阿含経中の起世因縁経には、一大劫には四つの中劫があり、一中劫には二十の小劫があり、一小劫は1680万年であると説かれています。地球の成住壊空の一周期は80×1680万年であり、これは極楽世界の一日に当たります。極楽世界の一大劫は他の世界の一日に等しく、他の世界の一日はまた別の世界の一日に等しい。このように絶えず、各仏国土の時間はすべて同じではありません。
顕無辺浄土功徳経には、十方世界の諸仏国土の中で、娑婆世界の劫が最も短く、この国土で修行することが最も速いと説かれています。娑婆世界の成住壊空の一周期、すなわち一大劫は、極楽世界ではわずか一日です。一日の時間と一劫の時間を比べれば、後者の修する内容は非常に多く、道業の進歩は他の世界と比べて非常に速いです。各世界での修行にはそれぞれ利点と弊点があります。苦の世界は劫が短く、修めるのが速いです。楽の世界は非常に享受できますが、劫が長く、修行は比較的遅いです。
十四、仏法を学び修行する者は誰でも様々な苦難を経験します。これは必然です。無始劫以来の業力と対抗することは非常に容易ではなく、たとえ菩薩が再来してもそうです。逆縁が多すぎます。修行は流れに逆らう舟の如く、大風大浪の中で戦う勇気と頑強な毅力が必要であり、菩薩の大願があって初めて風浪に打ち負かされません。
道が一尺高まれば魔が一丈高まる。上を向く心さえあれば、必ず苦難を受けます。凡そ修行上に明らかな進歩があれば、業障は必ず現前します。自らの道心と勇猛精進心は不可思議であり、仏力も同様に不可思議です。長遠な精進心を発すれば、必ず仏力の護佑があり、魔障は私たちに手出しができません。この点を信じれば、万難を克服できます。人に遠慮がなければ必ず近くに憂いあり。私たちは眼光を長く放ち、未来に着眼すれば、足元の道は容易に踏み出せ、目の前の難関は容易に克服できます。
十五、真の正信には、現量観察の智慧が必要です。そうでなければ、信は偏信や盲信に流れがちです。たとえ仏経であっても、真に智慧ある者も疑いを持ち、実際に証験する方法を考えるべきです。まして仏の説かれざるものについてはなおさらです。
ネット上には、六祖は仏の再来であり、説かれた法は仏の証量を持ち、六祖はすでに仏を修成したと主張する人が少なくありません。私は本当に、これらの人々が何を根拠に六祖についてそのように断定するのか分かりません。ある人を大学教授レベルと認定するには、その大学教授の水準よりも高いか、少なくとも同等でなければならず、相手に認証を与えられます。今の末法の衆生はすでにすべて仏を修成したかのようであり、そして仏の智慧で六祖がすでに成仏し、仏の智慧証量を備えていると認証します。六祖壇経という薄い冊子を、おそらくこれらの人々で理解できる者は一人もおらず、そうでなければ誰もこのような断定を下せないでしょう。
十六、衆生の業は、やはり衆生自らが了(りょう)じなければなりません。主に心を了じ、心が了じて初めて業が了じます。心を了じるには、仏力の加持だけでは不十分で、自ら積極的に協力し、自心を改め、無明を破らなければなりません。そうして初めて業を了じられます。もしあなたに人を殺す業があっても、仏菩薩が代わって了じても、あなたにまだ殺心があれば、将来また悪業を造ります。それで何の業を了じられるでしょうか?貧窮の業は、誰が代わって了じられるでしょうか?福徳は個人が修めるものであり、他人は代わって修めることはできません。禅定は自ら修めるものであり、他人は代わって修めることはできません。戒律は自ら守るものであり、他人は代わって戒を守ることはできません。明心は自ら明らかにするものであり、他人は代わって明心見性することはできません。仏は自ら修めて成るものであり、他人は代わって成仏することはできません。
十七、どのような人なら随縁できるか
凡夫がもし随縁するなら、毎日毎年毎生毎世、どのような縁が多いかによって、随縁はどこまで随えるでしょうか?随縁不変、不変随縁は、第八識だけが完全に成し得ます。地前の菩薩は成し得ず、不変であることは不可能です。地後の菩薩、八地菩薩以前も完全には成し得ません。六七識心がまだ熏染を受ける限り、不変で随縁することは不可能です。仏はどのような縁に随っても、心は変わりません。なぜなら、六七識は熏染を受けないからです。
外道の禅定はあれほど良く、八万大劫入定し、煩悩はすべて降伏しています。しかし、煩悩を断じていないため、後世欲界に生まれれば、やはり縁に随って貪瞋痴の煩悩業を造作し、再び悪業苦悩の中を流転します。阿羅漢は三界世俗の縁に熏染されるのを恐れ、三界を避けて無余涅槃に入ります。凡夫の心は、縁に随えば必ず変わり、非常に頼りになりません。誰かがすべての希望を凡夫に依止すれば、必ず後悔します。
十八、諸仏の解脱身
阿羅漢は解脱を得て、三界を出離した後、五陰身は滅びて再び現れません。解脱していますが身はありません。仏はすでに究竟の大解脱を得ていますが、なお色身五蘊を保ち、これによって無量の衆生を利楽するため、仏の五蘊身は解脱色と呼ばれます。仏が証得するのは無住処涅槃であり、永遠に灰身泯智することなく、衆生を顧みず捨てて自ら楽しむことはありません。仏は無量世界で縁に随って普く救済し、心の中に一法も住せず、この世界での縁が尽きれば、他の仏国土にまた一つの色身を現し、再び広く衆生を利するため、無住処涅槃と呼ばれます。
仏はどの世界でも応化色身を現出し、その色身は他を利するために現れるものであり、他受用身と呼ばれます。仏の五蘊身はすでに大解脱大自在を得ており、いかなる執着や束縛もないため、解脱身とも呼ばれます。衆生が仏となった後はすべて無量の分身と化身を持ち、随意に無量の諸仏国土を建立できます。釈迦仏の分身仏は無量無辺多く、名前もすべて異なります。仏の報身は一つだけですが、応身仏化身仏は無量無辺多く存在します。応身仏は必ず人間界に降臨し八相成道し、母胎から出生し、世間人と同じように示現します。化身仏は形式に拘らず、随意に化現し、八相成道を用いず、凡人のように示現することもできます。仏経によれば、釈迦仏には百の分身があり、百の仏国土で応身仏として活動します。阿弥陀仏はその中の一尊の仏であり、実際にはおそらくこれ以上多いでしょう。釈迦仏の化身は無数に多く、十方世界に散らばって無量の衆生を広く救済します。
十九、諸仏がすべて涅槃に入った後、世界はまだあるでしょうか?世界はありません。何もなく、空さえもありません。世界は人によってあり、人の業によってあり、人の縁によってあり、人の願力によってあります。もし人がいなければ、業もなく、縁もなく、願力もなく、世界がどうして単独で存在できましょうか?衆生の五陰十八界は、五陰がなければ十八界はありえません。世界がない時は、空空寂寂であり、空空寂寂さえもありません。なぜなら、空は世間を表し、寂は状態を表すからです。世界がなければ、空間も状態もありません。
衆生が仏となった後、救うべき衆生がいなければ、諸仏は国土世界で何をするのでしょうか?為すべき事がなく、用いる心もなく、ただ入定するだけです。長期入定するなら涅槃に入るに如かず、結果は同じで違いはありません。阿羅漢たちは世俗の事業など行わず、仏は何ができるでしょうか?一日中入定していますが、入定に何の役目があるでしょうか?諸仏は何をしても役に立たず、何もしなければさらに役に立たず、入定と涅槃に違いはありません。衆生が集まれば互いに争うこともできますが、成仏後は心は絶対に太平で、為すべき事がありません。
成仏後は、ただ衆生を救う一つの事だけが為すべきことです。もし救うべき衆生がいなければ、何事もなく、成仏後はすべてが余計です。では、私たちは今何をあれこれしているのでしょうか?同様に無意味です。今集まって互いに争い合うことに何の意味があるのでしょうか?何を争い戦うのでしょうか?何も役に立ちません。私たちは今から自らを律し、悪法はできる限り一つも行わず、善法は行い、最後には善法さえも余計になります。善法も行いません。そうしてこそ心はますます無為になり、成仏が速くなります。
二十、なぜ仏はあれほど慈悲深いのに、天上で悠々自適と娑婆世界の衆生が様々な苦悩に遭うのを見ていられるのでしょうか?仏はそれを見ていられるのでしょうか?
私が母が亡くなった時、ちょうど陽炎観の関を越えていました。その何年も前から、母の死にどう向き合うか準備をしていました。心の中では常に、母は何で構成されているのか、本当に母という人はいるのかと考えていました。母の葬儀を執り行う過程で、各人の六七識心を観察し、すべての人の心理状態を観察し、それによって陽炎観を証得しました。一切の人は私の心の中でそのように空幻であり、私はまるで行尸走肉のようにすべてに対応していました。心の中はまだ悲しかったですが。
では、仏の無量の智慧で衆生を見れば、衆生は何でしょうか?宇宙世界、人事物理はすべて何でしょうか?衆生の色身は四大の微粒子であり、識心は識の種子です。仏が衆生を見ると、衆生はおらず、その事も理もありません。これが一つです。二つ目に、衆生には自ら苦しみを受ける業縁と業力があり、因縁が熟さなければ、救っても無駄です。ただ衆生が生死海に漂流し、浮き沈みするのを見守るしかありません。因縁が熟した時、初めて手を差し伸べて救うことができます。
二十一、衆生は救い尽くせるか
一つの如来蔵が一つの衆生に対応し、一つの衆生を出生するため、如来蔵は衆生界とも呼ばれます。心経には如来蔵は不生不滅であり、衆生界は不増不減であると説かれています。不増不減とは不変異であり、不生不滅とは永遠に生じず滅せず、それゆえ如来蔵の数は永遠に固定され不変であり、しかも無限無尽に多いです。衆生が多すぎ、如来蔵が多すぎて数え切れないため、無量数と言われるのです。
これほど多くの数の如来蔵がこれほど多くの衆生に対応する中、衆生は救い尽くされるのでしょうか?衆生界が増えなければ、仏菩薩がますます多くなり、衆生は遅かれ早かれ救い尽くされます。数が多くても救い尽くされる日はありますが、時間は定まらず、無限に長く、不可説不可説の無限の長さです。衆生がすべて仏となった時、救うべき衆生がいなければ、諸仏の住世も必要なく、意味もありません。すべて涅槃に入るべきです。諸仏たちが無事に事を探す必要はなく、十方世界も存在する必要はありません。最後に仏となるそれらの衆生の修行は非常に省力であり、一尊の仏が一衆生を護持し、修行はまるでロケットのようです。最後の一群の衆生はもはや悪業を造る機会がなく、無明の業種が非常に速く消滅し、衆生を救うことなく仏となります。無明がなくなれば仏となるからです。
二十二、いわゆる衆生を救うとは、必ずしも煩悩業障の深い衆生を一気に聖人にまで救い上げることを意味するのではありません。衆生の修為を相応の程度に高め、以前と比べて大幅に向上させれば良いのです。一気に聖人になることは不可能です。苗を助長する結果は、衆生を死に至らしめ、三悪道に救い落とし、仏教が破滅することです。聖人となる因縁が熟していない時は、長期にわたって薫習し、聖人に近い品格に至って初めて凡夫を超越させることができます。急功近利で人を救えば、ただ人を救うだけで、心は依然として凡夫であり、頭と手が分離します。
二十三、菩薩性はどのように出現するか
衆生に七八識だけがあり五蘊身がない時、どの衆生に菩薩性があるでしょうか?もし菩薩性がなければ仏となることはできず、十方世界のあれらの仏や菩薩はどこから来たのでしょうか?意根は無始劫以前に先天的な菩薩性はありませんでしたが、五蘊身を得た後、後天的な環境の薫染を受け、自らと衆生の苦を見て、菩薩性を生じさせ、最終的に仏となることができます。菩薩性を発起するこの行為が最も貴重であり、衆生の苦を見て、憐憫心を生じることが最も貴重です。これが菩薩種性です。
二十四、仏の悲心もまた虚妄か
仏の悲心には二種類あります。一つは先天から具わる大悲心であり、無始劫以来ずっと慈悲をもって物を利し、さらに人を利してきました。この心は能動的に慈悲の感情を生じさせず、衆生が憐れみ救われるべき存在であることも知りませんが、その行為は無我で衆生に随順し、その結果は衆生を豊かにし、衆生を慈しみました。これは仏の如来蔵無垢識が具える悲心です。
仏のもう一つの悲心は、後天的に修行によって修められたものであり、仏の意識心すなわち妙観察智が表す衆生への憐憫心です。この心は仏の意識心妙観察智の出現に伴って現れ、妙観察智の暫滅に伴って現れず、生滅変化するものであり、永遠に存在するものではありません。永続する心ではない以上、仏の無垢識が生み出した虚妄であるため、虚妄です。
仏の二種類の悲心はどちらも動転しません。菩薩の意識心の悲心はなお動転し、凡夫の意識心の一時的な悲心はすべて境に随って転じ、常にあるわけではなく、恒常的に存在せず、究竟せず、智慧性も具えません。仏が悲心を生じても、境に随って流転せず、境を真と認めず、対象を分けず、真に縁なき大慈、同体の大悲であり、你我彼女の分別的な扱いがなく、一切の衆生を一律平等に見ます。
衆生が人を扱うことは往々にして不平等であり、自我を中心点として、少しずつ外に拡がり、外側の人ほど生じる慈悲心は少ないか、あるいは全く慈悲心がありません。ある人はたとえ最も親しい人でも、少しの慈悲心も生じません。それゆえ衆生は私心が重く、我心が重く、他人を考慮することは少ないか、あるいは全く考慮せず、他人の立場に立って問題を考えることができず、仏の縁なき大慈とはかけ離れています。
二十五、即身成仏の問題について、即身成仏であれ、即生成仏であれ、すべて最後身菩薩妙覚菩薩の事であり、凡夫は関わりがありません。即身成仏とは、弥勒菩薩のような妙覚菩薩だけが即身成仏できますが、それでも時節因縁を選択しなければなりません。これ以外に即身成仏する者はもういません。
衆生の修行にはすべて次第があり、非常に高い次元を飛び越えることは不可能です。凡夫から一躍して仏となることは、すでに仏となった者が表法として示現する場合を除いてありえません。しかし、仏が住世する仏国土では示現しません。一仏国土に二仏なしの故です。凡夫衆生はまず阿含解脱の理を修め、解脱果を証得し、その後大乗般若と唯識の理を修学し、順序を追って進むべきです。一生で明心見性できれば、すでに相当に良い根基です。一般の衆生は我見を断ち、初果を証得するだけでさえ、難上難であり、糸口もつかめません。即身成仏のことは考えないでください。一般の衆生は如来蔵法を学ぶだけでさえ理解できず、一生で如来蔵の中のすべての種子の機能作用を証得して一切種智となることは不可能です。一般の衆生は四禅八定以前の未到地定さえ修められず、まして四禅八定や滅尽定を修め出し、無量の神通道力、無量無数の分身を得ることは、根本的に不可能です。
一般の衆生は自らを救うことさえ困難であり、まして無量無辺の衆生を救い、自らの仏国土の弟子とすることはなおさら不可能です。衆生を救えなければ、無量数の弟子を得られず、弟子がいなければ、一人で一つの仏国土を成就できません。国王になるには補佐する大臣と千軍万馬がいて国家を建設し維持します。仏となるにはさらに多くの大菩薩弟子が左腕右腕として補佐し弘法救済に当たる必要があります。衆生を救ったことがなければ、大菩薩弟子が補佐役として自らの弘法を助けることはありません。それゆえ、娑婆世界の衆生はやはり堅実に一歩一歩修行し、高望みせず、自らの道業を遅らせてはいけません。
二十六、修行はただ現在に生きるだけでなく、ただ現在を管理するだけでなく、最も重要なのは未来を考慮することです。未来に再び輪廻の苦しみを受けず、再び迷い無知にならず、再び無明にならないようにすることです。もしただ現在に生き、心の中に未来がなければ、前方を見通せず、道を誤りやすくなります。しかもこの現在は念念生滅し、一つの現在と言えば、すでに過去となっています。どこに現在があるでしょうか?過去の無数の現在はすでに消え、この現在は滅びつつあり、以後の現在はまだ来ていません。あなたはどの現在を得たいのでしょうか?過去の識心はすでに滅び、現在の識心は念念滅びつつあり、未来の識心はまだ来ていません。あなたはどの心を得たいのでしょうか?三心は不可得であり、不可得なのは識心であり、無常虚妄の心です。生滅するものをどうして得られ、どうして掴めましょうか?
しかし、一つの心があり、後から得たものではありません。先天からあります。たとえあなたがそれを望まなくても、それはあなたを見捨てず、あなたが天に昇ればそれに随い、地獄に落ちてもそれに随います。あなたがどこへ行っても、それは従います。あなたが苦しみ悪報を受けても、それも嫌いません。無始劫以来、決してあなたから離れたことがありません。この心はなんと素晴らしいのでしょう!修行とはこの心を証し、この心を明らかにし、その中の奥義を探求し、大智慧を開発することです。大智慧があって初めて仏祖となることができます。
二十七、いわゆる世界とは、ただ一つの感覚に過ぎません。異なる心境には異なる感覚があり、異なる人には異なる感覚があります。では、これらの感覚は何でしょうか?何でもなく、幻化に過ぎません。ではどうすれば良いでしょうか?不如実不如理の感覚を、如実如理の感覚に変えれば、真実に回帰し、覚性に回帰し、一真に回帰し、涅槃に回帰し、寂静に回帰します。
二十八、実修する者にとっては、特に意根を説く必要はありません。彼らは自ら証得できます。実修しない者には、必ず解悟と証悟の違いを教え、皆が解に満足せず、必ず実証するように伝えなければなりません。これは末法時期の浮ついた衆生への特別な待遇です。衆生の心は非常に浮ついており、苦労を厭い、戒を守らず、定を修めようとしません。戒を守ろうとし、定を修めようとしても、環境要因のためできず、したがって観行できず、実証できません。ただ毎日本を読み、意識で理解するだけです。理解がある程度に至ると、外に向かって自ら証悟したと言います。それゆえ、この特殊な時期にいくつかの特殊な法を説く必要があります。特殊な衆生には特殊に説法し、これこそが衆生の根基に対応し、衆生の実際的で根本的な問題を解決します。
二十九、誰でも仏経や仏意を誤解する可能性があります。しかし、自らの見解を断定的に表現しなければ、大きな過失はなく、必ずしも他人を誤導するわけではありません。仏法を学ぶ過程では、必ず一つの誤りをまた一つの誤りを犯します。誰も免れません。鍵は自らの見解をどのような態度で抱くか、どの程度で自らの見解が正しいと自信を持てるかです。この点は必ず加減をよく計らなければなりません。誤りのない者は、ただ仏一人だけです。弥勒菩薩が説法しても、仏は百パーセント肯定はされません。
悟りを開いた菩薩が説法しても誤りがあり、悟りを開いていない時に説法すれば誤りはさらに多くなります。一般的な誤りは問題ありません。鍵は最も重要な点で誤りがないことです。なぜなら、重要な点は随学する衆生が証悟できるかどうかの大問題に関わるからです。これは衆生の生命の転換点であり、この転換点では必ず誤りがあってはなりません。目標と方向に問題がなければ、残りはすべて小問題であり、修正し転換できます。私たちが仏法を学ぶのは、努めて勤めて証悟を求め、証悟した後、学ぶ法に随い、学ぶごとに得られ、往々にして努力半分で倍の効果が上がるからです。