仏法雑談(第一部)
法とは軌持義であり、世間に現れ出るものであれば、どれほど虚妄であろうと、自分や他人が認知できるかできないか、体得できるかできないかにかかわらず、影像さえあれば、それはすべて法である。
たとえば、人、事、物、理。どのような人であれ、どのような衆生であれ、存在する限り、それは法である。事については、どんな事であれ、食事をし、着物を着て歩き、行き、座り、臥し、言談し語り笑い、花が咲き花が散り、人事の和合と紛争、偉大な事業とささやかな事業、世間に存在する限り、いつ存在していようとも、今まさに起きていようとも、内心で想像していようとも、すべて法である。心の中に想像し、幻想し出したものも、すべて法であり、心の中の相である限り、すべて法であり、心もまた法である。
物については、目の前であれ背後であれ、過去であれ現在であれ、想像したものであれ思い出したものであれ、接触できるかできないかにかかわらず、影像さえあれば、すべて法である。
理については、世間のあらゆる法則、規律、制度、章程、善悪是非、正しさと誤り、あらゆる思想観念、あらゆる念頭、あらゆる仏法の中の真理の観点、心の中に現れ出ることのできるものは、すべて法である。
これらの法は、すべて心の中の影像であり、すべて心の中の幻相であり、すべて衆生の五陰身が働き出したものであり、十二処が和合して働き出したものであり、十八界の中で輾転して生じたものであり、無窮無尽である。最後の最も究竟した一つの法、それが如来蔵 (tathāgatagarbha) であり、衆生が祂を認めようと認めまいと、祂を知ろうと知るまいと、祂を識ろうと識るまいと、祂は一種の終極の真理として存在している。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、法とは真理である</h3>法とは、事実の真相であり、真理である。それゆえ菩薩が法を説くということは、事実の真相を説き、真理を説くことである。そして、それぞれの事物の事実の真相はただ一つしかなく、各人が自分自身の角度から観察して、もし正確無誤に観察できたならば、観察し出された事実の真相はすべて同じであり、やはりただ一つの事実の真相しかない。もし各人の観察から導き出された結論が異なるというなら、それは多くの人が観察に誤りがあり、如実に観察できていないことを示している。観察が正しくない原因は数多くあり、各人の原因は必ずしも同じではないが、共通する特徴は観察力の不足である。
法を説くということは事実の真相を説くことである以上、この事実の真相は、できれば自分自身で親しく証明したものであるのがよく、そうして説き出すのが最も説得力があり最も親切である。もし法を説くのに他人の言論を引用することしかできないなら、それにも相当に優れた弁別力が必要であり、他人の言論の説くところが確かに事実の真相であると弁別し証明できなければならない。我々が現在確定できるのは、仏の説かれたことすべてが事実の真相であるということだけであり、しかし自分自身にも実際に証明する能力はなく、ただ仏陀の聖言に対する仰信と崇信にすぎず、正信と真信にはまだ達していない。真信には証量が必要である。それならば、仏陀以外の人に対して仰信し崇信するには、一定のリスクを冒さなければならず、正信、証信、真信だけが信頼できる。しかし証信は非常に非常に困難であるので、末法時期の衆生の大多数は仰信、盲信、崇信であり、正信や証信・真信ではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、法界とは何か</h3>法界は出世間法界と世間法界に分けられ、世間法界は十八界、十法界、三界世間に分けられる。十八界とは衆生の六根、六塵、六識界であり、十法界とは四聖六凡の法界である。界とは、機能、界限、種子の差別であり、分界線である。異なる界は、機能・作用が異なり、六根の機能は六塵の機能と異なり、六識の機能とも異なる。六道の衆生はそれぞれの界限を有し、四種の聖人はそれぞれの界限を有する。十法界はそれぞれの界限を有する。三界とは欲界、色界、無色界であり、これにも界限があり、法界と言うこともでき、三界もまたそれぞれにそれぞれの界限の差別を有する。
出世間法界は一真法界と呼ばれ、それは真如如来蔵 (tathāgatagarbha) であり、祂は三界世間に属せず、三界の中になく、三界世間相を有しないが、しかし三界世間にないというのでもない。三界世間のすべての法、および十方諸仏の国土、華蔵世界および世界海は、すべて一真法界の中にあり、いずれも真如心の外に出ない。衆生が修行して妙覚位に至り成仏する前に、兜率内院で候補として待ち、因縁の熟するのを待って、下生して人間において八相成道する。人間の衆生の根性が熟したとき、妙覚菩薩の成道の時節も到来し、人間に下りて八相成道しなければならない。それゆえ諸仏はみな人間に来て仏果を成就するのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、功徳とは何か</h3>功徳とは智慧の受用であり、智慧があれば業を消す。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) し明心すれば、三悪道の業を消すことができ、智慧的な懺悔にも功徳があり、業を消すことができる。修行の過程における智慧の増長は、いずれも程度の差こそあれ業を消すことができ、悪業が尽きてすなわち成仏する。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、乾慧とは何か</h3>乾慧とは、乾は乾いたという意味、水がないという意味である。乾慧とは、定水に潤されていない慧、カラカラに乾いた慧である。このような慧には、実際の指導的作用がなく、土の中に水がなくて泥とならず、泥の粘性がなくて壁を塗れず、地面を敷けず、建築ができないのと同じである。乾慧も同様で、口が乾き舌が渇くほど説く智慧は、実際にはどれも自分の胸襟から掏り出したものではなく、実証したものではなく、意識が学んだもの、推理し出したもの、分析し出したものであり、これはただ学語の流れであって、真の智慧ではない。これは修行の最初の一つの段階であり、もしこの段階に留まり続けて、これを究竟と心得るなら、そこで足を止めて前に進めず、真の宝山に入ることができない。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、正法とは何か</h3>いわゆる正法とは、衆生をして無明を破除する方向に向かわせ、解脱に向かわせることのできる法である。真の正法とは、真如自性の法を指す。真如は世間・出世間において最も正しいものであり、一切法の根であり、一切法は皆これより出る。自性はまた、衆生をしてこれに依って解脱を得させ、これに依って涅槃を証させ、これに依って仏道を成就させ、一切の苦厄を遠離させる。それゆえ真如自性は正法であり、真如自性に関する法もすべて正法である。
仏の説かれた法、および仏の説かれた解脱と般若 (prajñā) に関する法に符合するものは正法であり、その他の、たとえば外道法や世間の善法は、衆生をして解脱を得させ、明心見性して無明を破除させることができないので、いずれも正法ではない。世間の善法は衆生をして悪を伏し善を修め、良い人、合格した人とならせることはできるが、多くても一時的に人身を保つか天に生まれて福を享楽させることができるだけで、解脱に向かわせることはできず、それゆえ正法に属さない。衆生はたとえ世間の善法を修行しても、必ずしも衆生に出離心を生じさせ、解脱を求める心を生じさせるとは限らず、かえって生死の繋縛を増加させることもある。
仏法と世俗の善法は矛盾せず、互いに抵触することもなく、逆に両者は相輔相成の関係である。仏が最初に法を説かれたときも人天善法を説き、五乗の法を説かれたが、最後には一仏乗に回帰し、いずれも成仏の法である。世間の善法は非常に必要なものであり、大いに提唱されるべきであり、これは仏法を修学する基礎である。しかし世俗の善法はあくまで仏法ではなく、仏法の代わりにはならない。もし仏門の中の善法が多くなり、これらの善法を真の仏法と見なすなら、真の仏法が充満され、最後には真の仏法が薄められ代用され、仏法は急速に滅亡し、その後世俗の善法も存在しなくなるであろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、法塵の定義</h3>問:内六塵は色声香味触、法処所摂色であるが、法処所摂色は法塵そのものであるか。その具体的な定義は何か。五塵とこの法塵の関係は、平等、平行、それとも摂属の関係か。
答:法処所摂色とは、法塵のことであり、内五塵に依ってさらに改めて変現し出された法塵であり、これも四大の微粒子から構成され、物質の色法に摂属し、五塵と和合して、完全な色声香味触を構成する。五塵は色声香味触の一部分の内容にすぎず、完全な五塵の色法ではなく、法塵は色声香味触の大部分の内容であり、合わせて初めて完全な色法となる。たとえば、色塵と色塵上の法塵が合わさって初めて完全な内色塵となり、声塵と声塵上の法塵が合わさって初めて完全な声塵となる。五塵と法塵は平行並列の関係であり、互いに依存する関係であり、法塵は五塵に依って生じ存在する。内五塵は五識が了別し、法塵は意識が了別する。ここから、単独の五識は色声香味触を了別できず、単独の意識も色声香味触を了別できず、必ず五識と意識が和合して初めて、完全な色声香味触を了別できることが分かる。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、内外六塵の関係</h3>外六塵は共業の衆生の如来蔵 (tathāgatagarbha) が共同で変現し出した生存環境であり、これは必ずなければならないものである。如来蔵は外六塵に依って初めて、六識が了別する内六塵を変現することができる。外六塵は単独の衆生が独りで所有できるものではなく、単独の如来蔵が独りで変現できるものでもない。外六塵があるので、我々自身の如来蔵は外六塵に依拠して、自分の後脳の勝義根 (indriya) の中で外六塵と一模様の内六塵を変現し、それから六根と六塵が相触れ、如来蔵が六識を生じて内六塵を了別する。しかし衆生はみな、了別したものは実有の六塵境界であると考え、自分の六識が見聞覚知した六塵境界を真実と見なして執著しやまず、さまざまな業行を造作し、それらがすべて幻化されたものであることを知らないので、生死輪回が絶えず、苦悩がやまないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、外六塵の存在をいかに証明するか</h3>たとえば外の山河大地は、外色塵であり、これは多くの衆生が共同で所有するものであって、一人が所有するものではない。それゆえ、あなたが山河大地を見ることができ、他の衆生も山河大地を見ることができ、自分が眠り昏迷し死亡するとき、自分は山河大地を見ることができないが、他の衆生は依然として山河大地を見ることができる。これは、山河大地が一人の所有するものではなく、すべての衆生が共同で所有するものであることを示している。
またたとえば、あなたの家の家屋は、あなた一人が所有するものではなく、あなたの家族も家屋を享受でき、家屋の中に住むこともできる。あなたが家を出て家屋に接触できなくなったときも、家屋は依然として存在し、あなたの家族は依然として家屋の中に住んでおり、家屋は彼らのものにも属している。あなたの全家が家屋を離れたときも、他の人々は依然として家屋を見ることができ、引っ越して住むこともでき、彼らも家屋の主人になることができる。
外六塵がなければ内六塵はなく、内六塵は外六塵に依って有るものであり、鏡の中の影像と同じである。我々はみな鏡の中の影の中に生きており、影の外にはまだ実体があり、他の衆生の如来蔵はその実体に依って、さらに影を幻化し出して、他の衆生に了別させることができる。もし実体がなければ影はなく、鏡は理由もなく影を現すことはない。外六塵は天上の月のようであり、内六塵は水中の月のようであり、千江に水あれば千江の月であり、いずれも月の影であり、天上の月はただ一つであり、それが外五塵の一つである色塵境である。
外六塵もまた唯心所現であり、如来蔵が変造し出したものであり、虚妄不実であり、生滅変異し、消失滅亡し、久しく住することもない。我々がこの地球に生まれる前に、地球はすでに存在していた。では、地球はあなたの心が単独で変造し出したものなのか。明らかにそうではなく、それは共業の衆生の如来蔵が共同で変現し出したものであり、外六塵の一つである。我々が死んだ後も、地球は依然として存在し、他の衆生に用いられる。すべての衆生と地球との縁が尽き、衆生がみな死亡した後、地球は滅びる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、虚空と色相</h3>虚空は色の縁辺であり、色相のない一種の色である。これが虚空の定義であり、この言葉は理解しにくいかもしれない。虚空は色に依って顕発することはできるが、色に依って存在するのではない。虚空の来源は如来蔵であり、如来蔵に依って存在し、如来蔵があるからこそ虚空の顕現がある。色相もまた、如来蔵があるからこそ顕現することができ、これが一切法の根本の来処である。それらの表面の虚偽の現象は、色相が虚空に依って顕発され、虚空が色相に依って顕発され、両者が互いに襯托し合うということである。色相がないときも、虚空は依然として存在する。宇宙が形成される前は、一片の空無の虚空であり、少しの色相もなかった。これは、虚空が色に依って存在するのではないことを示している。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、空間と虚空の区別</h3>空間はときに虚空と等同され、ときに等同されず、ある座標物に依って区分される。たとえば部屋は、家屋があって初めて家屋の空間があり、家屋がなければ、それは虚空である。たとえば中国の領空は、中国の空間とも呼ばれ、中国があって初めて中国の領空があり、中国がなければ中国の空間はない。空間もまた衆生が争奪する目標の一つであり、みな自分の生存活動空間を拡大しようとするので、争奪が生じる。
人類は地球の空間が足りないと不満を持ち、さらに他の星球の空間を占領しようとする。地球とすべての星球がなければ、星球空間はなく、他に依って有る法は依他起性であり、虚幻不実である。外宇宙の星空は第一回目の変現であり、実ならず幻の如し。外星空に依って変現した内星空は第二回目の変現であり、さらに虚幻不実である。星空の色法に依って襯托し出された内外の空間は、とりわけ虚幻不実である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、三種の無明</h3>凡夫の衆生の六七識には、いずれも無明があり、一念無明と無始無明を含み、さらに無量無辺の塵沙惑がある。一念無明とは、自我の五陰 (pañca-skandha) に対する貪愛と執著であり、三界世間の一切法に対する貪愛執著である。一念無明があるので、三界の生死輪回の苦がある。生死輪回の苦を断除しようとするなら、一念無明を滅尽しなければならず、まず五陰を我とする我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除し、それから初禅を修し、順次に貪瞋痴慢などの諸煩悩の結縛を断除すれば、自我の五陰に対する貪愛と執著は断尽でき、三界世間法に対する執著も断尽でき、一念無明が断尽できれば生死輪回の苦から解脱できる。
七識の中の無始無明とは、無始劫以来、衆生が法界の実相が何であるかを一向に知らず、諸法の実相心である如来蔵 (tathāgatagarbha) があることを知らず、祂が生じさせた三界世間の万法であることを知らず、そこで世間の万法を真と執著することであり、これが無始無明である。法界実相心を証得して明心見性するとき、無始無明を打破する。七識が諸法の実相を認識し、般若 (prajñā) の大智慧を有した後、無始無明がすべて断尽されるとき、七識の無明は滅尽し、徹底的に転識成智し、究竟に成仏し、如来蔵は無垢識 (amala-vijñāna) と改められる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、共業と別業</h3>衆生の共同の部分は、共同の業力であり、共同の外界の山河大地、宇宙の器世間、共同の生活環境であり、その他は共同ではなく、いずれも各自が各自の五陰十八界と第八識を受用する。それぞれの衆生は自分自身の八つの識を有し、共用せず、それゆえ衆生は千差万別であり、心心異なり、一人一人に考えがあり、一人一人に作為があり、一人一人に果報がある。
第八識は不生不滅であり、本来有るものであり、誰も祂を変現することはできない。第八識は縁があれば万法を変現し、縁がなければ変現せず、縁に随って変現するときも、自分自身は決して変わらない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、八識の機能体性</h3>いわゆる妄念とは、意根が攀縁し作意し、意識が生じ出した念頭と考えであり、ときには七識が和合して念を起こすこともある。七識は存在する限り、起用しなければならず、七識が起用すれば、必ず念頭の出現がある。八識はいずれも五遍行心所法を有する。作意、触、受、想、思である。思とは、思考、思量 (manasikāra/manana)、択択、決定、造作である。想とは、心の上で相を取著し、相を認め、相を識別することである。受とは、領受、領納、接受であり、作意とは、心を境に引き、境に専注することである。触とは、識心が境界に接触することである。第八識が取る相は前七識と異なり、思量する内容が異なり、領納する対象の内容が異なり、作意する対象が異なり、触れる対象が異なり、処処において前七識と異なる。
識とは分別であり、分別がないようにしようとするなら、識を滅しなければならず、それは眼識を滅して見ず、耳識を滅して聞かず、鼻識を滅して嗅がず、舌識を滅して嘗めず、身識を滅して触を覚らず、意識を滅して覚知せず、意根を滅して作主せず、こうして万法もそれに随って滅する。しかし四果阿羅漢の境界に修行し至らなければ、意根を滅することもできない。もし第八識も滅するなら、万事はすべて廃され、一了万了となる。仏も第八識を滅することはできないのであり、まして他の人はなおさらである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、身心世界が完全に脱落すれば成仏する</h3>問:円覚経は、一切衆生が枉って四大を自身の像と認め、六塵縁影を自心の像と認める、と説く。この謎を解けば、仏法も説き終わることになるが、多生多劫の愛恨の種子はどのように除くのか。
答:身心の問題が解決しても、仏法はまだ説き終わっておらず、唯識種智の問題が極めて多く極めて広く、修学が必要である。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) し、さらに明心見性し、唯識種智を有して初地に入れば、染汚の種子は徐々に清除され、愛恨の種子が断尽すれば、成仏する。因縁が現前するときに、内心の煩悩習気を清除する必要があり、それで染汚の種子を断除するのである。
しかし身心の問題が完全に徹底的に究竟に解決されれば、それで成仏したことになる。仏法とは身心の問題を解決するために用いられるものであり、身には内身の色身を含み、外身の宇宙器世間の生存環境も含まれる。心とは、七つの識である。七識がすべて転識成智すれば、身心世界は徹底的に脱落し転変し、報身仏 (saṃbhoga-kāya-buddha) と化身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) がともに成就し、世界は純浄な仏国土となる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、経典を引用して自分の邪見 (mithyā-dṛṣṭi) が謗仏謗法であることを証明する</h3>円覚経は、全部が仏性の妙用を説き、如来蔵 (tathāgatagarbha) の性を説いている。見聞覚知性の七識の妄心にも仏性のようであれと言っているのではない。もし円覚経の経義を七識の作為を闡述するものと理解するなら、それは大きな誤会である。六祖が壇経の中で真如自性を説いているのと同様に、無数の人々がそれを見聞覚知性の七識の妄心を説くものと誤会しており、誤会は実に甚だ大きい。
一切法はすべて如来蔵であり、すべて如来蔵性である。この理を証得していないなら、経典を引用して自分の見解を印証してはならない。経典を引用して自分の正しくない観点を正しいと印証することは、仏と法を誹謗することであり、罪過は小さくない。もし現前して貪瞋痴の性を観察し、いかにしてそれが仏性であるか、いかにして究竟覚性覚相であるかを観察できるなら、それではじめて「一切の淫怒痴はすなわち究竟覚であり、智慧と愚痴は通じて般若 (prajñā) と為る」と言うことができる。さもなければ、沈黙を保ってほしい。
証量がないときは、経義が深く難解な仏経や甚深の法義を議論しないほうがよい。とりわけ自分とあまりにもかけ離れた仏地の境界については、我々は沈黙を選ぶべきであり、私自身も仏地がどうこうとは語らないので、他の人はなおさら語るべきではない。語る根拠が何にあるのか。高談闊論とは何を言うのか。自分の証量と理解の範囲を超えた内容を、もし語るなら、それが高談闊論である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、心不相应行法とは何か</h3>心不相应所行法は、全部で二十四个ある。得、命根、衆同分、異生性、無想定、滅尽定、無想報、名身、句身、文身、生、住、老、無常、流転、定異、相应、勢速、次第、時、方、数、和合性、不和合性である。
心不相应行法は、八識心王、五十一心所法、十一色法が共同で顕現したものである。たとえば、無常という心不相应行法は、第八識、第七識、第六識と五識が共同で和合して働き顕現したものであり、八つの識の万法に対する作意、触、受、想、思の心所法によって顕現したものであり、十一の色法の上に顕現したものである。心法の上にも無常を顕現することができ、いずれも八つの識と心所法が共同で働き顕現したものである。これらの無常法は七識の妄心によって決定されるものではなく、七識の認知に随ってその無常性を変えることがない。それゆえ心不相应行法と呼ばれる。
五陰 (pañca-skandha) の無常には、八識が共同で和合して働き顕現したものがある。八識と心所が共同で五陰を生じ、感受を生じ、了別を生じ、さまざまな造作を生じ、眼耳鼻舌身、色声香味触、法処所摂色の和合するところに顕現し、六識及び心所のところに顕現する。その他の心不相应行法もすべてこのように顕現する。我々の覚知心によって決定されるものではなく、我々の心がどうであれ、いかに認知しようとも、無常は無常であり、我々の貪愛のために、五陰世間が常と変わることはない。これは心によって決定されるものではないからである。同理に、時、方、数、老などの二十四个の心不相应行法は、いずれも八識、心所と十一色法が共同で顕現したものであり、七識の妄心によってその存在の有無が決定されるものではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、時空はどのように顕現するのか</h3>時間は物質の色法に依って顕現されるものであり、物質の色法の生滅変異が時間を顕現し襯托している。物質の色法は心法と心所有法に依って顕現されるものであり、心所有法は心法に依って運行し、心法は第八識に帰する。物質の色法の次第の遷流が、心と不相应の行法である時間を幻化し出す。時間とは心不相应行法である。
物質の色法が出現し、識心が出現すれば、識心は物質の色法に依って時間と空間を識別し判断することができる。物質の色法がなければ、時間を顕現できず、空間も顕現できない。もし識心がなければ、なおさら時間空間を識別し、認知し、判断することができず、あってもないのと同じである。考えてみよ、太陽がなく、樹木、家屋、山林がなければ、どのように時間を了別できるのか。もし虚空さえなく、山林河池、大海、高山もなければ、空間をどのように区分し界定するのか。それならば、ある法に依って初めて顕現できる法は、心と不相应の行法であり、物質の色法よりもさらに虚妄であり、七識心よりもさらに虚妄である。
虚空は物質の色法に襯托される必要がなく、標的のある空間とは少しの差異がある。虚空は心不相应行法ではなく、如来蔵が空大の種子を用いて生成した、物質の色法と異なる色法であり、色相のない色法である。