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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 5537

第一章 雑阿含経第十二巻

第一節 十二因縁が生じる原因

(二八三)結によって縛られた法から生じる十二因縁

原文:かくのごとく我聞けり。一時、仏は舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、もし結によって縛られた法に対し、味わいへの愛着が生じるに従い、顧み念じて心が縛られるならば、愛が生じる。愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲悩苦が生ず。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積が生ず。

釈:世尊が舎衛国祇樹給孤独園における法会で因縁の法を説かれた時、諸比丘たちにこう告げられた。もしあなたがたが自心の煩悩の結びつきによって縛られている法(例えば六境の境界である財・色・名・食・睡など)に対し、縛られている法に従って愛着心や貪り心が生じ、心が常にそれらの煩悩に縛られた法を思い続け、六境の境界に浸りきっているならば、心は境界の法によって固く縛られ、離れることができなくなる。

煩悩の結びつきによって縛られた法に対し心に味わいへの愛着と耽溺が生じ、絶えず思い続けるならば、貪愛が生じる。煩悩の結びつきによって縛られた法に貪愛があるがゆえに、心に執着が生じ、執取して捨てられなくなる。執取して離れようとしないがゆえに、心は必然的にこの法から離れず、後世の業種が残される。こうして必ず後世の五陰世間が生じる。後世の業種が成熟すれば、五陰身は再び生じ、この法と離れることがなくなる。生があるがゆえに、老病死憂悲苦悩が五陰身に伴って生じる。かくして無量の生死の大いなる苦が再び集積するのである。

結とは、結縛・煩悩・係縛であり、心を閉じ込める枷である。結には九種類ある:愛結・瞋結・痴結・嫉結・我見結・取結・疑結・悋結・慢結。これらの結は自らをどこに縛りつけるのか。三界六道の輪廻に縛りつけるのである。結によって縛られた法とは何か。六境の境界である人事物理、三界の世間法である。「随生味着」とは何を意味するか。凡俗の世間法に滋味や趣味があると認め、自らの貪心などの煩悩を満たすことができると思い、心がそれを憧れ、そして顧念が生じることをいう。「顧念」とは何か。心が絶えず思い、気にかけ、望み続け、得ようと占有しようとすることであり、そうして絶えず執取し続けることである。

「心縛」とは何か。心がこれらの法によって絡め取られ、縛られることである。縛られた後、貪愛などの煩悩が生じる。貪愛が生じた後、どのような現れがあるか。執取し、掴み取り、保ち愛し、貪り執着して捨てられなくなる。誰が誰を掴み、誰が誰を縛るのか。表面上は自らの心が六境の法を執取し掴み取るが、実際には心が六境の法によって掴まれ縛られているのである。ゆえに心縛の最も深刻な結果は執取であり、そして業種を残し、後世の三界の有法を生じさせることである。

もし比丘またはいかなる修行者でも、自らの心を縛る生死の結縛に対し、その結縛に従って貪愛が生じ、これらの結によって縛られた法が非常に滋味深く、大いに楽しみ、非常に心地よいと認め、かつ心が常にこれらの法を思い続けるならば、心はこれらの結縛によって縛られ、そうなると貪愛が生じる。貪愛が生じた後、心に執着の心が生じ、そしてこれらの結縛を執取する。衆生の心に執着がある限り、後世に生まれる条件、すなわち因縁、または種子が形成される。後世に生まれる種子が形成された後、因縁が成熟する時、あるいは種子が成熟する時に、生命体は生じる。生命体が生じた後、老病死憂悲苦悩が生命体に伴って現れる。後世の生命体が生まれる因縁条件とは何か。三界の器世間の有:欲界・色界・無色界、および欲界の資生の具(生活資具)である。

貪愛が生じた後には執取し占有する身口意の行いがあり、業種が阿頼耶識に残り、後世には三界の有法が生じる。後世の五陰身の生存条件が整い、三界の法が生じ、生命は三界の法の中で生じる。生命が生まれた後、老病死憂悲苦悩が伴い、純粋な大いなる苦の集積が生じる。もし貪愛などの煩悩を滅除すれば、心の結び目は解け、縛りがなくなり、もはや三界の五欲六塵に束縛されず、こうして心は解脱する。

原文:人の樹を植えるがごとし。初めは小さく弱く軟らかい。これを愛護して安らかにせしめ、糞土をもって盛り、時に随って灌漑し、冷暖を調え適せしむ。この因縁をもって、その後、かの樹は増長して大となる。かくのごとく、比丘よ、結によって縛られた法を、味わい愛着して養い育てるならば、恩愛が生じる。愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死憂悲悩苦が生ず。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積が生ず。

釈:人が樹を植えるのと同じように、小さな苗木は植えた後もまだ弱く、少し注意を怠れば枯れてしまう。人が絶えず愛護し保護し、土を盛り、水をやり、肥料を与え、常に温度を調節し、健全に生長させ、正常に生長する因縁がすべて整って初めて、小さな苗木は次第に大きくなる。比丘たちよ、小さな苗木が生長する道理と同じく、煩悩の結びつきによって縛られた法が最初に現れた時、あなたがたがそれに貪着し、愛護し、保護し、養い育てるならば、心中に恩愛・貪愛が生じる。貪愛があると執着心が生じ、執取が絶えなければ三界世間が生じる。三界の縁が整うと、五陰身が生まれ、五陰身が生まれた後、老病死憂悲苦悩などの純粋な大いなる苦が集積する。

仏は小さな苗木をもって衆生の煩悩の結びつきを喩えられた。煩悩の結びつきがちょうど生じた時、衆生はそれを降伏させ滅ぼそうとせず、むしろそれを培い、煩悩をますます堅固にし、生死の輪廻は深みに陥るばかりである。修行とは常に自心を反観し、自らに煩悩があることに気づけば、降伏させ滅ぼすべきであり、養い育てたり培い愛護したりすべきではない。覚りを得ていない者、覚察力が不足している者、すでに煩悩に慣れきっている者は、自らの煩悩の結びつきを発見しにくく、往々にして自らの煩悩に従って行動してしまう。もし常に自らの煩悩に従うならば、煩悩はますます重くなり、生死の中に沈淪し、深みに陥ることもますます深くなる。煩悩が最初に生じた時、覚りもなく阻止もしないならば、煩悩をますます重くし、ひとたび根深い煩悩の習気が養われた後は、ついには断ち除くことが非常に難しくなる。

原文:もし結によって縛られた法に対し、無常観に随順し、生滅観に住し、無欲観・滅観・捨観を修め、顧み念ず、心が縛られ愛着しなければ、愛は滅する。愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老病死憂悲悩苦は滅する。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積は滅する。

釈:もし自らの煩悩の結びつきによって縛られた法(六境の境界)に対し、これらの法の生滅する無常性を観察し、心が法の無常性と生滅性に随順するならば、法に対し欲がなく求めることもなくなり、法は滅すべきもの、捨てるべきものと知るようになる。法に対してもはや顧念の心はなくなり、法を滅ぼし、捨てようと思うようになる。こうして心は法によって縛られず、それゆえ貪愛は滅する。貪愛が滅した後、執取の心はなくなり、それに従って滅する。執取心が滅すれば、三界の有はもはや生じず、有は滅する。三界の有が滅すれば、生命はもはや生まれず、生は滅する。生が滅すれば、老病死憂悲苦悩は現れず、老病死は滅する。こうして六道の生死における純粋な大いなる苦の集積は滅する。

原文:あたかも樹を植えるがごとし。初めは小さく弱く軟らかい。これを愛護せず、安らかにせしめず、糞土を盛らず、時に随って灌漑せず、冷暖適わず、増長を得ず。もしまた根を断ち、枝を截ち、段々に斬り截ち、分分に解析し、風に飄わせ日に炙らせ、火をもって焚焼し、焼いて糞となし、あるいは疾風に揚げ、あるいは流水に投ず。比丘よ、汝らの意いかん。かの樹の根を断ち截ち、ついには焚焼して、これを磨滅せしめ、未来世において生じない法となすにあらずや。答えていわく、かくのごとし、世尊。

釈:(煩悩の結びつきを断除することは)樹を植えるのと同じようである。最初、小さな苗木は小さく弱い時、それを愛護せず、養い育てず、安らかに生長する環境を与えず、また土を盛らず、常に水をやらず、寒暖が適わなければ、小さな苗木は生長できず、次第に枯れ死んでしまう。もしさらにこの小さな苗木の根を断ち、枝を截ち、少しずつ小さな苗木を分解し、それから風に晒し日に干し、最後に火で焼き尽くす。灰の粉になった後、あるいは風に乗せて捨てるか、あるいは流れる水に投げ入れて流れ去らせる。比丘たちよ、あなたがたはどう思うか。このようにしてこの小さな苗木を根元から断ち切ったのではないか? それを焼き、小さな苗木を跡形もなく消し去り、未来世に二度と生じないようにしたのではないか? 比丘たちは答えた:その通りです、世尊。

煩悩の結びつきに対してもこれと同じく、自らの煩悩が現れたことに気づいた時は、必ずそれに従い養い育ててはならない。煩悩を除き滅ぼす方法を考え、煩悩がさらに滋生し蔓延するのを許してはならない。そうすれば次第に煩悩は枯れ滅する。貪愛が一つ滅すれば煩悩はなくなり、未来の生老病死の苦悩は現れない。

原文:かくのごとく、比丘よ、結によって縛られた法に対し、無常観に随順し、生滅観に住し、無欲観・滅観・捨観を修め、顧み念ぜず、心が縛られ愛着しなければ、愛は滅する。愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老病死憂悲悩苦は滅する。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積は滅する。仏はこの経を説きおわったまいし。諸比丘、仏の説きたまいし所を聞き、歓喜して奉行せり。

釈:このように、比丘たちよ、煩悩の結びつきによって縛られた法、すなわち色声香味触法などの六境の境界に対し、これらの法の無常生滅性を観察し、これらの法の無常性を確認し、心は無常生滅性に随順し、これらの法はすべて生滅するという思想観念を生じさせ、内心は欲がなく求めることもなくなり、かつこれらの無常法を滅ぼし捨てようとし、もはや顧み、思い、気にかけ、執取し、掴み取ろうとこれらの法に向かわない。こうして心は縛られず、貪愛は断ち除かれる。貪愛が滅した後、執取の心は滅する。執取心が滅すれば、三界の有は滅する。三界の有が滅すれば、生は滅する。生が滅すれば、老病死憂悲苦悩は滅する。こうして六道の生死における純粋な大いなる苦の集積は滅する。

一切の法は絶えず生住異滅しており、すべて無常である。それゆえ、われわれは一切の法に対し随縁に捨て放つべきであり、捨て放てば苦悩はなくなる。掴み取れば掴み取るほど苦悩は深まる。三界の有為法を捨て放ち、随縁に生きるならば、心は縛られず、自在に解脱する。ある法を好み貪愛すれば、その法によって牽制され縛られる。貪愛が滅し、掴み取ろうとせず、もはや一切の法に執着しなければ、未来の三界の有も生も現れず、生老病死の苦もすべて消え失せる。

(二八四)取られる法から生じる十二因縁

原文:その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、もし取られる法に対し、味わいへの愛着が生じるに従い、顧み念じて心が縛られ、その心は駆け馳せ、名色を追い求めるならば、名色を縁として六入処が生じ、六入処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死憂悲悩苦が生ず。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積が生ず。

釈:世尊は比丘たちに告げられた。もしあなたがたが執取される法に対し貪愛の心を生じ、それらの法が良いと認め、その中に浸りきって抜け出せず、絶えず憶想し、顧み、期待し、それによって心が縛られるならば、そこへ駆けつけ、名色五陰を追い求める。名色が生じた後には六入(六根)処が生じる。六入(六根)があると触(六根と六境の接触)が生じ、六根が六境に触れると受(感受)が生じる。受があると貪愛が生じ、貪愛があると執取が生じる。執取した後には後世の三界の有が生じる。三界の法があると五陰身が生じる。五陰身が生じた後には老病死憂悲苦悩が伴い、こうして三界の生死の一切の苦悩が集積する。

「取られる法」とは何か。眼は色を取る。耳は声を取る。鼻は香を取る。舌は味を取る。身は触境を取る。意根は法境を取る。六根が六境を取る。これらの取られる法に対し、非常に滋味深く趣があると感じると、貪愛が生じ、それゆえその中に浸りきって抜け出せなくなる。自らが執取する法に対し、貪愛して抜け出せないと、心はそれを憧れ、念うことはすべて貪愛する法であり、心は固く縛られ、解脱も自在も得られず、生死の中に身を置き苦悩に満ちることは免れない。

一方、解脱自在の心は、攀縁せず執取せず、心中に事なく、心にかけ気にかけることもない。眼は色を見ても色相を取らず、耳は声を聞いても声相を取らず、鼻は香を嗅いでも香相を取らず、舌は味を味わっても味相を取らず、身は触を感じても触相を取らず、意は法を思っても法相を取らず、一切の法は用いたら即座に捨て、心の中で顧みもつれ合うこともない。「駆け馳せる」とはまた「取る」「執取する」ともいう。心に念うことはすべて気にかけ、得ようと望み、貪愛を縁として取が生じる。取があることは生死の業であり、未来世の生は避けられず、大いなる苦が集積する。苦の業はすべて自らが造り、自らが受ける。もし苦の果を受けたくなければ、苦の業を造ってはならない。苦を集積しなければ、苦の果もない。

衆生は生々世々と盲目的に五陰名色を追い求め、盲目的に世間の塵境を追い求め、立ち止まって深く省みることを知らない。求めることにはいったい何の益があるのか、何の実体があるのか、何に向かうのか、何をもたらす結果なのか。五陰生死の由来を思考することも、繰り返し生まれ死ぬことにはいったい何の意味があるのか、いかにして五陰生死の苦を避けるか、そして五陰世間の外にはさらに探求に値するものがあるのかどうかも知らない。

衆生が名色を追い求めて名色を得た時、名色の上には六入が生じる。外六入とはまさに内六根に入ろうとする六境であり、内六入とは脳の勝義根の中にある六根である。外六入と六根が触れると、六識が生じて六境を了別する。六識が六境が何であるかを知った後、感受が生じる。六境の境界を感受した後には貪愛の煩悩が生じる。貪心が生じた後は必ず執取してやまず、ずっと独占しようとする。執取した後は六境と離れず、生々世々ともずっと共にあり、そうなると未来世の生命は避けがたく絶えず三界の中に現れ、老病死憂悲苦悩が伴って現れ、大いなる苦が集積する。このように輪廻は絶えず、まことに苦しみに堪えない。この生死の連鎖を十二因縁の法という。

原文:あたかも大樹のごとし。根・幹・枝条・柯葉・華果あり。下根は深く固く、糞土をもって盛り、水をもって灌漑す。かの樹は堅固にして、永世朽ちず。かくのごとく、比丘よ、取られる法に対し、味わいへの愛着が生じるに従い、顧み念じて心が縛られ、その心は駆け馳せ、名色を追い求めるならば、名色を縁として六入処が生じ、六入処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死憂悲悩苦が生ず。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積が生ず。

釈:あたかも一本の大樹のようである。根・幹・枝条・葉・花があり、根を深く地中に植え付け、埋めて固定し、糞土を盛り、水を注ぐ。この樹は堅固に成長し、永遠に朽ち果てることはない。比丘たちよ、樹を植える道理と同じく、あなたがたが執取される法、例えば五陰・六根・六境・六識などに対し、法の出現に従ってその中に浸りきり、心に念うことは絶えず、心に縛られる。心は法によって駆り立てられ、五陰名色を追い求める。名色を縁として六入が生じる。六入を縁として触が生じる。触を縁として受が生じる。受を縁として愛が生じる。愛を縁として取が生じる。取を縁として有が生じる。有を縁として後世の生命が生じる。生命を縁として老病死憂悲苦悩が生じる。このようにして純粋な大いなる苦悩が集積する。

原文:もし取られる法に対し、無常観に随順し、生滅観に住し、無欲観・滅観・厭観を修め、心が顧み念ぜず、何ものにも縛られ愛着しなければ、識は駆け馳せず、名色を追い求めない。すると名色は滅する。名色が滅すれば六入処は滅し、六入処が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老病死憂悲悩苦は滅する。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積は滅する。

釈:このように比丘よ、もし自らが執取する法に対し、常にその無常性を観察し、法の無常性を証明し随順できるならば、心は一切の法は生滅するという思想観念に住し、もともと執取していた法に対し、もはや欲がなく求めることもなくなり、心はこれらの法を滅ぼし、厭離するようになり、もはや心に念うことはこれらの法を眷顧することはない。心はこれらの法によって縛られない。

七識心が法によって縛られなければ、もはや名色五陰十八界の法を追い求めず、未来世の名色は滅して現れなくなる。名色が滅した後、六入触処は滅する。六入が滅すれば、触は滅する。触が滅すれば、受は滅する。受が滅すれば、貪愛は滅する。貪愛が滅すれば、取は滅する。取が滅すれば、三界世間の有は滅する。有が滅すれば生命は滅する。生命体がもはや生まれなければ、老病死憂悲苦悩は滅する。こうして衆生の最大最根本の苦難はもはや集積せず、生死の苦は消え失せる。

原文:あたかも樹を植えるがごとし。時に随って愛護して安らかにせしめず、糞土を盛らず、時に随って灌漑せず、冷暖適わず、増長を得ず。もしまた根を断ち、枝を截ち、段々に斬り截ち、分分に解析し、風に飄わせ日に炙らせ、火をもって焚焼し、焼いて糞となし、あるいは疾風に揚げ、あるいは流水に投ず。比丘よ、汝らの意いかん。かの樹の根を断ち截ち、ついには焚焼して、これを磨滅せしめ、未来世において生じない法となすにあらずや。答えていわく、かくのごとし、世尊。

釈:(貪愛などの煩悩を滅除することは)樹を植えるのと同じようである。樹が植えられたばかりの時、常に愛護して安らかに生長させてはならない。土を盛ってはならない。常に水をやってはならない。寒暖を適切でなくさせなければならない。そうすれば小さな苗木は大きくなれない。もしさらに小さな苗木の根を切り、枝を截ち、木全体を一段ずつ截断し、少しずつに切り刻み、風に晒し日に干した後、火で焼き尽くし、灰燼にした後、あるいは風に乗せて散らすか、あるいは河川の水に投げ入れる。比丘たちよ、どう思うか。樹の根を切り、最後に焼き尽くし、小さな苗木を完全に消し去らなければ、小さな苗木がどうして未来世に生じないようになるのか? 比丘たちは言った:その通りです、世尊。

煩悩に対し、心が縛られている法に対しても、小さな苗木に対するのと同じように、生長に適した条件と環境を与えず、かつ善巧方便によって根本から煩悩の結びつきを破壊し、最後にすべての結びつきを断ち切り、跡形もなくする。

原文:かくのごとし。比丘よ、取られる法に対し、無常観に随順し、生滅観に住し、無欲観・滅観・捨観を修め、顧み念ぜず、心が縛られ愛着しなければ、識は駆け馳せず、名色を追い求めない。すると名色は滅する。名色が滅すれば六入処は滅し、六入処が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老病死憂悲悩苦は滅する。かくのごとくして、純粋なる大いなる苦の集積は滅する。

釈:仏は言われた:このように比丘よ、もし自らが執取する法に対し、その無常性を観察し、証明し随順するならば、心は一切の法は生滅するという思想観念に住し、もともと執取していた法に対し、もはや欲がなく求めることもなくなり、心はこれらの法を滅ぼし厭離する思いを抱くようになり、もはや心に念うことはこれらの法を眷顧することはない。心はこれらの法によって縛られない。

もし七識心がもはや名色五陰十八界の法を追い求めなければ、名色は滅して現れなくなる。名色が滅した後、六入触処は滅する。六入が滅すれば、触は滅する。触が滅すれば、受は滅する。受が滅すれば、貪愛は滅する。貪愛が滅すれば、取は滅する。取が滅すれば、三界世間の有は滅する。有が滅すれば生命は滅する。生命体がもはや生まれなければ、老病死憂悲苦悩は滅する。こうして衆生の最大最根本の苦難はもはや集積せず、生死の苦は消え失せる。

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