阿含経十二因縁釈
第四章 阿含口解十二因縁経
原文:生死の趣を断ち、世の道を度せんと欲する者は、常に十二因縁を念じて却るべし。何等を十二と為す。一には本、癡を為す。二には癡より行を為す。三には行より識を為す。四には識より名色を為す。五には名色より六衰を為す。六には六衰より更を為す。七には更より痛を為す。八には痛より愛を為す。九には愛より求を為す。十には求より得を為す。十一には得より生を為す。十二には生より老病死を為す。是を十二因縁の事と為す。
釈:もし生死の道を断ち、世間の六道輪廻を超越せんと欲するならば、常に十二因縁を念じるべきである。何が十二因縁か。一には、生死輪廻の根本は愚癡無明である。二には意根の愚癡無明より造作の行が生じる。三には身口意の行より六識の業種が生じる。四には六識の業種より名色が生じる。五には名色より六入が生じる。六には六入より触が生じる。七には触より受が生じる。八には受より愛が生じる。九には愛より求取が生じる。十には求取より有が生じる。十一には有より生が生じ、十二には生より老病死が生じる。以上が十二因縁の法である。
原文:此の十二の事、起らんと欲する時は、当に四非常を用いて之を滅すべし。何等を四非常と為す。一には苦を識る。二には習を捨つ。三には尽を了知す。四には道を行ず。更に生を念い、老を念い、病を念い、死を念う。此の四事を念うれば、便ち却って十二因縁の道成る。此の四事を念うる道人は、世を度せんと欲するならば、当に十二因縁の事を断つべし。是を生死の根を断つと為す。
釈:この十二因縁が生じようとする時は、四つの非常法を用いてそれを滅除すべきである。何が四つの非常法か。一には苦を知り認識する。二には集を断ち、習気を捨てる。三には滅を慕い、苦を滅尽する道法を了知する。四には八正道を行ずる。また常に生老病死の四事を念ずれば、十二因縁は成就する。生老病死を念ずる修道者は、世間を超越せんと欲するならば、十二因縁の生死の事業を断つべきであり、そうすれば生死の根を断尽する。
原文:十二因縁に内外有り。一には内は癡を為し、外は地を為す。二には内は行を為し、外は水を為す。三には内は識を為し、外は火を為す。四には内は名色を為し、外は風を為す。五には内は六入を為し、外は空を為す。六には内は災を為し、外は種を為す。七には内は痛を為し、外は根を為す。八には内は愛を為し、外は茎を為す。九には内は受を為し、外は葉を為す。十には内は有を為し、外は節を為す。十一には内は生を為し、外は華を為す。十二には内は老死を為し、外は実を為す。人の生死は内十二因縁より起こり、万物の生死は外十二因縁より起こる。
釈:十二因縁は内法と外法に分かれる。一には内法は愚癡無明、外法は地大。二には内法は行、外法は水大。三には内法は六識、外法は火大。四には内法は名色、外法は風大。五には内法は六入、外法は空。六には内法は災難、外法は業種。七には内法は受、外法は根。八には内法は愛、外法は植物の茎。九には内法は取、外法は枝葉。十には内法は有、外法は節。十一には内法は生、外法は花。十二には内法は老死、外法は果実。人の生死は内十二因縁より起こり、万物の生滅は外十二因縁より起こる。
内十二因縁は心法、外十二因縁は色法である。内法とは識心と非常に緊密に結びつき、識心が直接に具える十二因縁の法を指す。外法は地・水・火・風・空・種子・根・茎・葉・節・花・果実であり、それぞれ十二因縁の内法に対応し、識心との関係は比較的疎遠であり、識心が本具する法ではなく、主に阿頼耶識によって執持される法である。
原文:何等を癡と為す。父母を礼せず、白黒を分別せず、是の因縁より痛を得て、棄つるを欲せず、今世も後世も信ぜず。已に是の事を作りて、便ち行に随い作らず。是も亦得ず。是を以て癡有れば便ち行を為し、已に行有れば便ち識を為し、已に識有れば便ち名色を為し、已に名色有れば便ち六入を為し、已に六入有れば便ち栽を為し、已に栽有れば便ち痛を為し、已に痛有れば便ち愛を為し、已に愛有れば便ち受を為し、已に受有れば便ち有を為し、已に有有れば便ち生を為し、已に生有れば便ち老死を為す。
釈:何が愚癡か。愚癡とは父母を礼敬せず、是非善悪を分かたず、愚癡の因縁より執着が生じ、しかも執着する法を捨てられないことである。今世の因があって後世の果があることを信じず、既に始めた善事を愚癡の故に続けたくなくなり、故に善果を得られない。それ故に愚癡があれば心の行いがあり、心の行いがあれば六識が生じ、六識があれば未来の名色があり、名色があれば六入があり、六入があれば触があり、触があれば受があり、受があれば愛があり、愛があれば執取があり、執取があれば後世の有があり、有があれば生があり、生があれば老死がある。
原文:故に人は生を取って十二因縁を得、十二因縁有れば生ず。因縁無ければ亦生ぜず。万物も亦爾り。十二因縁を断たざれば、生死を脱せず。三十七品経を行ずるは、是より道を得んが為なり。十二因縁に五事有り。一には癡。二には生死精行。是は前世の因縁。三には識。識より身を受けて生ず。四には名色。色身復た五陰を成す。是は今世の因縁。五には六衰。復た生死精行の種栽を作す。是は後世の因縁。前後三世転じて相因縁なる故に、五事有りと為す。
釈:それ故に人は生を受けて後、十二因縁を執取し、十二因縁が有るからこそ人は生まれる。因縁が無ければ人も生まれず、万物も生じない。もし十二因縁を断たなければ生死輪廻を脱することはできず、三十七道品を修行するのは道果を証得し生死を脱するためである。十二因縁は五つの種類に分かれる。一つは愚癡。二つは生死に精進する心の行い。この二つは前世の因縁であり、後世の生を絶えず生じさせる故に今世の五陰の生死がある。三つは六識。六識の業行の種子より色身が生じる。四つは名色。色身に五陰の機能作用を拡張させる。これは今世の五陰身が存在する因縁である。五つは六入。業行を精勤して造作する種子であり、後世の色身が生じる因縁である。十二因縁は前後三世を流転する生死の因縁であり、大まかにこの五種類に概括される。
原文:十二因縁、本より身の十事より出づ。身の十事、七事は一より、三事は四より。七事一よりとは、殺盗淫、両舌悪口、妄言綺語、共に色より一を為す。三事四よりとは、嫉嗔恚癡、痛痒思想生死識より。是の十事合わさって五陰を為し、便ち十二因縁と為す。地は名づけて癡と為し、行は盛陰と為し、便ち生死の行を作す。自ら種栽するを名づけて行と為す。已に行有れば便ち識有り、身を受けて生死す。識有れば便ち名色有り。
釈:十二因縁は本来、五陰身に現れる十種の現象である。この十種の現象の中で、七種の現象は色身の色法に現れ、三種の現象は受想行識の四種の心法に現れ、名色が五陰を構成し、名色上の十種の現象が五陰を構成する。七種の現象は殺・盗・淫・両舌・悪口・綺語であり、これら七つは色身に現れる。三種の現象は嫉妬・瞋恚・愚癡であり、受想行識の四法に現れる。十種の現象が合わさって五陰となり、十二因縁となる。愚癡を地に譬えて根本とし、意根の行いが五盛陰を生じる。五盛陰が愚癡の中で行い、五盛陰の業種が無明愚癡の地に現行して、意の行いが出現する。意の行いが生じた後、六識が五陰身の生死を受ける。六識があれば名色が生じる。
原文:身復た十事を作し、已に五陰を成す。名色有れば便ち六入有り、復た盛陰を行い、種栽を作して後当に復た受けて転相す。因縁生死なる故に名づけて因縁と為す。身の十事を十二因縁と為す者は、嫉を癡と為し、嗔恚を生死と為し、精疑を識と為し、殺を名色と為し、盗を六衰と為し、淫を更と為し、両舌を痛と為し、妄言を愛と為し、悪口を成と為し、綺語を願と為す。生有有る故に、十二因縁有りと為す。
釈:色身が更に十種の事を行い、以上の十種の現象が有り、五陰身となる。名色が出現した後、六入が有る。色身が再び五陰の身口意の活動を運行し、種子を蒔いて後世の五陰身が運転を絶えず行い、これによって生死の因縁となり、故に因縁法と呼ばれる。色身の行う十種の事業も即ち十二因縁であり、その内、嫉妬は愚癡、瞋恚は生死、心の疑いは六識、殺の業行は名色、盗の業行は六入、淫欲の業行は触、両舌の業行は受、妄語の業行は愛、悪口の業行は五盛陰を成就し、綺語の業行は願行である。こうして未来世の有が生じ、生命の有無が十二因縁を表す。
原文:何の故ぞ。淫を癡と為し、嗔恚を生死と為し、精疑を識と為す。内の三事を本と為す。已に三事有れば、便ち七事有り、五盛陰を成す。嫉は五陰の本たる故に疑と為す。五陰の行い、意に可ならば善く、意に可ならざれば嗔る。便ち生死の精なる十事を作す。外は身より、内は意なる故に、疑とは白黒を分別せず、生死を識らざるを謂う。故に識と為す。道人、十二因縁を断たんと欲するは、当に先ず身の十事を断つべし。便ち癡と為す。癡より五陰滅す。
釈:なぜそう言うのか。淫欲は愚癡のため、瞋恚は生死のため、心の疑いは六識のためであり、これら内在する三つの事は五陰の根本である。根本があれば、七種の事(殺盗淫妄両舌綺語悪口)が有り、五盛陰の業行を成就する。嫉妬は五陰の行いの根本であるから心の疑いの範疇に属し、もし満足すべき五陰身の行いであれば善く、満足しなければ心に瞋りが起こる。こうして生死の十種の業行を造作する。外法は色身に現れるが、それは内心の意思を体現し、心の疑いは内心が是非善悪を分別できないことを示し、生死を識別できないのが六識心である。修道の人が十二因縁を断除しようとするならば、先ず五陰身の十種の事業を断つべきである。そうすれば愚癡を断つことになり、愚癡無明が断たれれば五陰身は滅尽する。
原文:十二因縁も亦滅して断つ。身の十事とは、外は身より、内は意なる故に、身意の持つと謂う。殺さざると謂うは、亦外は口より、内は嫉を断つに由ると謂う。万物一切の意起こらざれば、便ち嗔恚止む。嗔恚止めば便ち殺止む。殺止めば便ち貪欲止む。貪欲止めば便ち泣止む。外の口とは声を謂う。声を止むるは、両舌悪口妄言綺語も亦止み、疑無ければ便ち道に入る。是を五陰に還し十二因縁の本を断つと為す。
釈:十二因縁の法を行じて十種の事業をなせば、五陰身を滅尽断除できる。外法の色声香味触法は色身に現れるものに依っており、内法は心意に随って有る。故に色身は心意によって保持され摂持されると言う。例えば殺業をしないとは、外は口に現れ、内は意で嫉妬を断除することによって生じる。万事万物において、ただ意が起こらなければ、瞋恚は滅止する。瞋恚が滅すれば殺業は滅して生じなくなる。殺業が滅止すれば貪欲は滅止する。貪欲が滅止すれば苦痛の涕泣は止む。外法が口より造作されるのは声であり、声を止めれば、両舌・悪口・妄語・綺語もまた滅止する。内心に疑いが無ければ道に入る。これが十種の事業が五陰に帰し、十二因縁の根本を断つことである。
原文:人、身を受くるに三の別有り。第一に五陰盛陰。第二に十八種。第三に十二因縁行。是の三事、身を得て三の別有り。第一の五陰盛陰とは、五陰は身の十事より出づ。眼より色陰を為し、耳より痛痒陰を為し、鼻より思想陰を為し、口より生死陰を為し、意より識陰を為す。心は念を主とし、是の六事に対し根本と為す。是を五陰の地と為す。
釈:人が生を受けて人身を得るには三種の差別がある。第一種は五陰盛陰における差別。第二種は十八界における差別。第三種は十二因縁行における差別。この三種の差別事が得られる色身に三種の差別をもたらす。第一種の五陰盛陰とは、五陰身が色身において十種の事業を造作できることを指す。眼根においては色陰を、耳根においては受陰を、鼻根においては想陰を、口においては生死行陰を、意根においては識陰を造作する。識心は念想を主導し、色声香味触法の六種の事業に対応する。これが一切の法の根本であり、以上を五陰地とする。
原文:第二に十八入十九根。十八種とは、五陰の行を盛陰と為し、有対有入を十二入の本と為し、六情を十八の間と為す。識有る故に十九根と為す。十八種と謂うは、識生ぜざる故に、十八種と為す。是は盛陰の行を説き、十八種十九根を生ず。
釈:第二に、十八類の法が十九根に帰入する。十八種の法は五陰身の運行であり、盛陰とも呼ばれる。六根が六塵に対すのは十二処の根本であり、六識心を加えて総計十八界、意根を加えて故にまた十九根と呼ばれる。十八種の法とは、第七識を含まない十八種のことであり、五盛陰の運行過程には十八種の法があり、意根という第十九の法が共同参与協力する。
原文:第三に十二因縁とは、五陰五盛陰の行を謂う。十二因縁を求めれば便ち身有り。是れ同じく身の十事なり。俱に之を分別するのみ。色より身を得、四陰より名字を得、名色より愛受を得、受より行癡を行ず。行癡便ち十二因縁を成す。道は当に断つ為に有る。
釈:第三種の十二因縁の法とは、五陰が熾盛に運行し、十二因縁を追求することにより、五陰身が有ることを指す。五陰身には十種の造作事があり、具体的に分類すれば、色陰より色身を得、受想行識の四陰より名字を得る。名色において愛と受が現れ、受において意行の愚癡が現れ、意行の愚癡が十二因縁の法を成就する。修道によって初めて十二因縁の法を断除できる。
原文:色は身と為さず。但だ名字を身と為す。眼耳鼻舌身意有りと雖も、亦復た身に非ず。何の故ぞ。設い耳是人なりとせば、当に一切を聴くべし。形より名字を得る。譬えば金字の如し。譬えば金を以て物を作るに、是に因りて字を得る。
釈:色身は衆生の身ではなく、受想行識の四陰の名字こそが衆生の身である。色身には眼耳鼻舌身が有るが、それもまた身ではない。なぜそう言うのか。もし耳根が人身であるならば、一切の法を聴き分けられるはずだが、実際には耳根は音声一法しか聴けず、他の法は聴き分けられない。一切の法は形相より名字を得る。譬えば金字、譬えば黄金で金物を造るのは、金の形相より名字を得るからである(金の指輪・金の腕輪など)。
色身に七つの識が有って初めて機能作用が有り、機能作用が有り、かつそれが完全な機能作用であってこそ五陰身である。もし七つの識が無ければ、土木の無情物の如きである。
原文:地水火風空、是の五事身を作ると雖も、亦復た身に非ず。何の故ぞ。身は細滑を知る故なり。人既に死すれば地は細滑を知らざる故なり。地水火風空の身に非ざるを知るべし。身も亦空、意も亦空、俱に空にして所有無し。亦痛痒無し。何の故ぞ。人既に死すれば亦復た痛痒を覚えず。是の如くを空と為す。意既に身を離るれば、亦痛痒無し。但だ因縁共に合する故に、還って無有に帰す。
釈:地水火風空の五大種子が色身を構成するが、これもまた身ではない。なぜそう言うのか。身は細滑触を了別できるが、人が死んだ後も依然として地水火風空は存在するが、細滑触を知らない。故に地水火風空で構成された色身は身ではないと知るべきである。実は身は空であり、意根もまた空であり、五陰は全て空である。空にして全く所有無く、受覚も無い。なぜそう言うのか。人が死んだ後は再び受覚が無いからである。それ故に一切は空であると言う。意根が身体を離れた後も、受覚は無い。五陰身はただ因縁和合によって有るに過ぎず、因縁が離散すれば、結局は無有に帰し空無となる。
原文:身中に十二の風有り。上気風・下気風・眼風・耳風・鼻風・背風・脇風・臍風・臂風・足風・曲風・刀風。刀風は病人に至り、生を殺す刀風。刀風は人命を断截す。生老病死。生とは初めて母の腹に堕つる時を生と為す。已に生ずれば便ち老ゆ。止む者とは意中に止むを謂う。止むを用うる故に敗れ、氣息出入す。身の本を見る。
釈:衆生の身中には十二種の風がある。上行気の風・下行気の風・眼根の風・耳根の風・鼻根の風・背中の風・脇の風・臍の風・腕の風・足の風・隠蔽部の風、それに刀風を加える。刀風は人を傷つけ病気にし、殺生する刀風。刀風は人の命を断ち切る。生老病死がある。生とは母の胎内に落ちた初めの時を生と言う。生まれた後は次第に老いる。生命の終止が死であり、終止するとは意根が色身上での作用が終わることである。意根が色身上での作用が終わる故に、敗壊した気息が現れ出入りする。この時、身の本来を知る。
原文:十事を合して敗ると為す。身中の五事。一には地。二には水。三には火。四には風。五には空。堅き者を地と為し、軟らかなる者を水と為し、熱き者を火と為し、気なる者を風と為し、飯食の出入るを得るを空と為す。亦余の因縁合して人と為す。自ら計りて是れ我が身と為す。若し万物を身と為さんと欲すれば、当に計りて身有るべし。亦五の因縁有りて共に合す。一には色。二には痛痒。三には思想。四には生死。五には識。是の十事共に合して、便ち生死を見る。
釈:十種の事が合わさって色身を敗壊させる。色身中の五事:一は地、二は水、三は火、四は風、五は空。堅いものは地、柔らかいものは水、熱いものは火、気息は風、飲食が出入りする所は空である。また他の因縁が和合して人となる。自己が五和合を我が身と執着する。もし万物を全て身に含めようとするならば、更に他の五つの因縁法(色陰・受陰・想陰・行陰・識陰)を和合させる。この十の因縁が和合して、生死法が現れる。