阿含経十二因縁釈
第三節 十二因縁は誰が作るのか
(二八八)舎利弗と摩訶拘絺羅の十二因縁に関する問答
原文:その時、尊者舎利弗と尊者摩訶拘絺羅は耆闍崛山におられた。尊者舎利弗は午後の坐禅より覚め、尊者摩訶拘絺羅のもとを訪れた。互いに挨拶を交わし慰め合った後、片側に坐り、尊者摩訶拘絺羅に言った。「お尋ねしたいことがございますが、お答えいただけるお時間はございますでしょうか」。尊者摩訶拘絺羅は尊者舎利弗に言った。「仁者(あなた)はどうぞお尋ねください。知っていることはお答えいたします」。尊者舎利弗は尊者摩訶拘絺羅に尋ねた。「尊者摩訶拘絺羅よ、老いは存在するのでしょうか」。答えて言った。「存在します」。
釈:尊者舎利弗がある日の午後、禅定から起きて尊者摩訶拘絺羅の住まいを訪れ、互いに挨拶を交わした後、片側に坐り、摩訶拘絺羅に言った。「一つお尋ねしたいことがございますが、お答えいただけるお時間がございますでしょうか」。摩訶拘絺羅は言った。「尊者、どうぞお尋ねください。私が知っていることであればお答えいたします」。舎利弗は拘絺羅に尋ねた。「尊者はどうお考えですか、世の中に老いという現象は存在しますか」。拘絺羅は「存在します」と答えた。
原文:尊者舎利弗がさらに尋ねた。「死は存在するのでしょうか」。答えて言った。「存在します」。さらに尋ねた。「では、老死は自ら作るのでしょうか。他が作るのでしょうか。自と他が共に作るのでしょうか。自でも他でもなく、無因で作られるのでしょうか」。答えて言った。「尊者舎利弗よ、老死は自ら作るものではなく、他が作るものでもなく、自と他が共に作るものでもなく、また自と他が共に作るのではないものでもなく、無因で作られるものでもありません。しかしながら、生という縁があるがゆえに老死が存在するのです」。
釈:舎利弗がさらに尋ねた。「世の中に死という現象は存在しますか」。拘絺羅は答えて言った。「存在します」。舎利弗がさらに尋ねた。「では、あなたはどうお考えですか。老死という現象は自然に存在するものですか、それとも他縁・他因によって造作されるものですか。あるいは自然と他縁が共同で造作するものですか。それとも自然に存在するのでもなく他縁によって造作されるのでもなく、何の縁因もなく現れるものですか」。拘絺羅は答えて言った。「老死は自然に存在する現象ではなく、他縁によって造作されるものでもなく、自然と他縁が和合して造作するものでもなく、また自然と他縁が和合して造作するのではないものでもなく、何の縁由もなく造作されるものでもありません。しかしながら生という縁があるがゆえに、老死が相随って生じるのです」。
原文:「同様に、生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、これらの現象は自ら作るのでしょうか。他が作るのでしょうか。自と他が共に作るのでしょうか。自と他が共に作るのでもなく無因で現れるのでしょうか」。答えて言った。「尊者舎利弗よ、名色は自ら作るものではなく、他が作るものでもなく、自と他が共に作るものでもなく、自と他が共に作るのではないものでもなく無因で作られるものでもありません。しかしながら、その名色は識を縁として生ずるのです」。
釈:舎利弗がさらに尋ねた。「同様に、生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、これらの現象は自然に存在するものですか、それとも他縁・他因によって造作されるものですか。あるいは自然と他縁が和合して造作するものですか。それとも自然と他縁が和合して造作するのでもなく、無因無縁で現れるものでもないのですか」。拘絺羅は舎利弗に答えて言った。「生という現象は自然に存在するものではなく、他縁に依存して造作されるものでもなく、自然と他縁が和合して造作するものでもなく、また自然と他縁が和合して存在するのでもなく無因無縁で存在するのでもありません。しかしながら三界の有という縁があるがゆえに、生という現象が現れるのです」。
三界の有は自然に存在するものではなく、他縁によって存在するものでもなく、自然と他縁が和合して存在するものでもなく、また自然と他縁が和合して存在するのでもなく無因無縁で存在するものでもありません。しかしながら執取という縁があるがゆえに、三界の有が現れるのです。執取という現象は自然に存在するものではなく、他縁によって造作されるものでもなく、自然と他縁が和合して造作するものでもなく、また自然と他縁が和合して存在するのでもなく無因無縁で存在するものでもありません。しかしながら貪愛という縁があるがゆえに、執取現象が生じるのです。貪愛は自然に存在するものではなく、他縁に依存して生じるものでもなく、自然と他縁が和合して生み出されるものでもなく、また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく無因無縁で現れるものでもありません。しかしながら受という縁があるがゆえに、貪愛が生じるのです。
受は自然に存在するものではなく、他縁によって生まれるものでもなく、自然と他縁が和合して現れるものでもなく、また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく無因無縁で現れるものでもありません。しかしながら触という縁があるがゆえに、受が生じるのです。触は自然に存在するものではなく、他縁に依存して現れるものでもなく、自然と他縁が和合して生み出されるものでもなく、また自然と他縁が和合して存在するのでもなく無因無縁で現れるものでもありません。しかしながら六入処という縁があるがゆえに、触が生み出されるのです。
六入処は自然に存在するものではなく、他縁に依存して生まれるものでもなく、自然と他縁が和合して造作されるものでもなく、また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく無因無縁で現れるものでもありません。しかしながら名色という縁があるがゆえに、六入処が現れるのです。名色は自然に存在するものではなく、他縁によって生み出されるものでもなく、自然と他縁が和合して生まれるものでもなく、また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく無因無縁で生まれるものでもありません。しかしながら六識の業種という縁があるがゆえに、名色が生み出されるのです。
原文:さらに尋ねた。「その識は自ら作るのでしょうか。他が作るのでしょうか。自と他が共に作るのでしょうか。自でも他でもなく無因で作られるのでしょうか」。答えて言った。「尊者舎利弗よ、その識は自ら作るものではなく、他が作るものでもなく、自と他が共に作るものでもなく、自と他が共に作るのではないものでもなく無因で作られるものでもありません。しかしながら、その識は名色を縁として生ずるのです」。
釈:舎利弗がさらに尋ねた。「あの六識の業種は自然に存在するものですか、それとも他縁に依存して生み出されるものですか。あるいは自然と他縁が和合して造作するものですか。それとも自然でも他縁でもなく、無因無縁で生み出されるものですか」。拘絺羅は舎利弗に答えて言った。「六識の業種は自然に存在するものではなく、単に他縁によって存在するものでもなく、自然と他縁が和合して生まれるものでもなく、また自然と他縁が和合して生まれるのではないものでもなく無因無縁で生み出されるものでもありません。しかしながら六識は名色があるがゆえに生み出されるのです」。
原文:尊者舎利弗はさらに尊者摩訶拘絺羅に尋ねた。「先ほどは『名色は自ら作るものではなく、他が作るものでもなく、自と他が共に作るものでもなく、自と他が共に作るのではないものでもなく無因で作られるものでもありません。しかしながらその名色は識を縁として生ずる』と言われました。ところが今度は『識は名色を縁とする』と言われます。この意味はどういうことでしょうか」。尊者摩訶拘絺羅は答えて言った。「今、譬えを申し上げましょう。智者は譬えによって理解を得るものです。譬えば、三本の葦が空地に立ち、互いに依りかかり合ってこそ、まっすぐに立つことができます。もしその一本を取り除けば、残りの二本も立つことができません。もし二本を取り除けば、残りの一本も立つことができません。互いに依りかかり合ってこそ、まっすぐに立つことができるのです。識が名色を縁とするのもまた同様で、互いに依りかかり合ってこそ、生長することができるのです」。
釈:舎利弗がさらに拘絺羅に尋ねた。「あなたは先ほど、名色は自然に存在するものではなく、他縁によって生み出されるものでもなく、自然と他縁が和合して生まれるものでもなく、また自然と他縁が和合して生まれるのではないものでもなく無因無縁で生まれるものでもないが、しかし名色には六識の業種があるがゆえに生まれると言われました。ところが今、あなたは六識には名色があるがゆえに生まれると言われます。これはどういう道理ですか」。
拘絺羅は答えて言った。「私は今、譬えを申し上げましょう。もし智慧のある人であれば、譬えによってその中の道理を悟るでしょう。譬えば、三本の葦を空地に立てるには、三者が互いに寄りかかり合わなければ、立つことができません。もし一本の葦を取り除けば、残りの二本も立つことができません。もし二本を取り除けば、残りの一本も立つことができません。三者が互いに寄りかかり合ってこそ、立つことができるのです。識と名色が互いに縁となり互いに依存するのもこれと同じで、互いに依存してこそ生長することができるのです」。
名色五陰は六識の業種を縁としてこそ生まれる。この道理はこうである。六識が絶えず身口意行を造作し、業種が残されるがゆえに、五陰世間は滅び去ることができず、後世もまた三界の中で五陰身を生み続ける。後世の業種があるがゆえに中陰身があり、後世の名色がある。意根は中陰身の中で業種に随って六道輪廻を流転し、阿頼耶識と共に胎に投じ、後世最初の名色が生じる。名とは意根第七識、色とは受精卵である。六識が名色を縁として生じる道理はこうである。衆生の胎児期の名色が成長を続け、六入処が成熟すると、六根が六塵に触れ、六識が名色五陰身の中に生じる。こうして名色と六識は互いに依存する関係となり、互いに生じ運行し続ける。こうして生死は絶えることがない。
十因縁の中にはさらに「識が名色を縁とする」「名色が識を縁とする」という説き方がある。ここでの識は六識の識ではなく、阿頼耶識の識、第八識の識である。意味は、阿頼耶識が名色五陰の縁に依ってこそ五陰世間において自らの運行と造作を持つことができ、名色もまた阿頼耶識を縁としてこそ生まれ、発展し、絶えず運行する。阿頼耶識が依るべきものなければ名色は生じず、名色がなければ阿頼耶識は無余涅槃の状態にある。
原文:尊者舎利弗は言った。「善いかな、善いかな。尊者摩訶拘絺羅よ。世尊の声聞弟子の中で、智慧明達、よく調御し畏れなく、甘露の法を見、甘露の法を具足し身をもって証する者、すなわち尊者摩訶拘絺羅は、かくの如き甚深なる法義の弁才をお持ちであり、種々の難問を皆よくお答えになる。あたかも無価の宝珠のごとく、世に頂戴される。私は今、尊者摩訶拘絺羅を頂戴するのもまた同様である。私は今、あなたのもとにおいて善利を得ることができ、その他の梵行者たちも数々あなたのもとを訪れ、また善利を得る。あなたがよく法を説かれるがゆえに、私は今、この尊者摩訶拘絺羅の説かれた法のゆえに、三十種の讃歎をもって称揚し随喜するであろう」。
釈:舎利弗は讃嘆して言った。「素晴らしい、摩訶拘絺羅よ、あなたは世尊の声聞弟子の中で智慧明達なる者、自心を調御するに巧みで、何ものをも畏れず、仏法の甘露を証見し、解脱の甘露法を完全に証得された方です。すなわち身をもって証する:我が身はすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになされ、自ら不受後有を知る。あなたはこのような甚深なる法義無礙の弁才をお持ちであり、他人の種々の問難に、よく解答し応弁なさいます。あなたはあたかも無価の宝珠のように世の人々に頂戴されています。私は今、尊者摩訶拘絺羅を頂戴するのもこれと同じです。私は今、あなたのもとで善法の利益を得、その他の梵行もあなたとたびたび教えを請い交流する中で善利を得ました。尊者がよく法を説かれるがゆえに、私は今、拘絺羅尊者が説かれた法教に対し、三十種の讃嘆をもって功徳を称揚し、功徳を随喜します」。
(二八九)如何にして五蘊に厭離を生じて解脱を得るか
原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。「愚痴で無聞の凡夫は、四大から成る身に対しては厭患し、離欲し背捨するが、識に対してはそうではない。なぜか。四大から成る身には増減があり、取捨があるのを見るからである。しかし心意識に対しては、愚痴で無聞の凡夫は厭離を生じ、離欲し解脱することができない。なぜか。彼らは長い生死の夜において、これを保惜し、我に繋ぎ、得たり取ったりし、『これが我である、我の所有である、我はこれに在る、これは我に在る』と言うがゆえに、愚痴で無聞の凡夫はそれに対して厭離を生じ、離欲し背捨することができないのである」。
釈:仏は諸比丘たちに言われた。「心性が愚痴で解脱法について何も聞いたことのない凡夫は、自身の四大から成る色身に対しては厭離心を生じ、色身に対する種々の欲望を離れ、色身を背棄し、色身を顧みることができる。しかし彼らは識心に対してはそうではなく、識心を離欲し、背棄し、捨離することができない。なぜそうなのですか。凡夫たちは四大から成る色身には増減変化があり、無常であり、固定不変ではないことを見ることができるからです。それゆえ色身には執着することもできれば捨てることもできるのです」。
「しかし自らの意識心と意根に対しては、愚痴で聞いたことのない凡夫は厭離心を生じることができず、離欲し解脱することができません。なぜそうなのですか。彼らは長い生死の長い夜において、自らの心識を特に愛惜し、識心を我であると見なして繋縛し、所得があり執取があり、『これこそが我である、これは私の所有である、我は識の中にある、識は我の中にある』と言うからです。それゆえ愚痴で聞いたことのない凡夫は識心に厭離を生じ離欲することができず、識心を背捨することができないのです」。
仏陀は「愚痴無聞凡夫」という言葉を用いられた。ある人々は聞きたくないかもしれないが、仏は人を罵ったり辱めたりしているのではなく、事実を述べておられる。凡夫とは愚痴で聞いたことのない者である。正法を聞いたことがなければ無明が深く、それが愚痴無聞である。もし聞いたことがあれば愚痴は破られ、智慧を持つようになる。
色身は比較的衆生に見破られやすい。なぜなら生滅変異が比較的明らかだからである。色身は地・水・火・風の四大種子が和合して生じる。地大には堅い性質があり、筋肉、骨、筋、髪、爪、歯、皮膚などこれらの物質は皆堅さを持つ。これらは地大種子を含む。堅さがなければ行住坐臥はできない。水大には湿潤の性質がある。身体の表面の皮膚や内臓器官、血液、汗、尿などは皆湿性を持ち、水大種子を含む。火大には温暖性がある。身体の内外に温度があり、これが火性であり、火大種子を含む。人が死ぬと火大はなくなり、死体は冷たくなる。風大には流動性がある。呼吸や血液の流れ、気脈の運行は全て風性の作用であり、風大種子を含む。風性がなければ血液は流れず、飲食も流動し消化吸収や排泄もできない。
全ての色法は地・水・火・風が一定の割合で和合して成る。どの成分が多いかによって、物質はその性質を主とする。和合の割合が異なれば、形成される物質も異なり、身体の各部位器官も異なる。私たちの色身だけでなく、宇宙世界の全ての物質は四大から成り、四大の和合する割合が異なれば、形成される物質も異なる。色声香味触法の六塵は全て四大から成り、色法に属する。ただ表現の形式が異なるだけで、色法を識別する識心が異なる。四大種子は如来蔵の中に存在し、如来蔵が四大種子を輸送して色身を形成する。それゆえ色身は如来蔵によって生み出されるのである。
身体の増減変化、例えば肥満や痩せ、身体器官の設置や摘出。これらの増減変化があることこそ、この身体が仮のもので実体のないものであることを示している。色身の生滅変異性を見破れば、厭離心を生じ、離欲し背捨することもできる。もはや従順に従いたくなく、保惜し愛護することもなく、身体はどうでもよく、仮の皮袋に過ぎず、真実の私ではないと感じる。
しかし愚痴で聞いたことのない凡夫衆生は、識心に対して厭離を生じることができず、離欲もできず、背捨もできない。その根源はどこにあるのか。衆生は皆、識の作用を貪り執着することを好むからである。識の作用は非常に真に迫り人を引きつけるので、絶えず掴み取り、己のものとする。色身のあらゆる機能作用は識があるからこそ生じる。例えば行住坐臥は、身識がなければ行えない。行住坐臥は身識が起こす作用であり、生命活動は行住坐臥といった活動から離れることはできない。それゆえ衆生は貪着する。身識があって動き、眼識があって見、耳識があって聞き、鼻識があって香りを嗅ぎ、意識心があって思考分別、分析判断、推理、妄想を打つ。各識が協力して種々の作用を生み出す。意識心と前五識が共に分別し、共に作用する。これらの機能作用は真に迫り、生き生きとして感じられる。これが私であり私の所有であると感じる。それゆえ貪着して捨てられない。
識心が非我であることは容易に証得できない。明らかに一切の法を了知する私がいるように感じられ、非常に真実である。私は確かにここに坐って法を聞いている。私の眼は色を見ることができ、確かに接触する一切の物質色法を見ることができる。私は確かに音を聞くことができ、眼耳鼻舌身の見聞覚知作用が虚妄であるとは思わず、それゆえ掴んで放さない。意識の種々の作用はなおさら虚妄であるとは認められない。意識は確かに思考でき、妄想を打ち、推理し、計画を立てられると感じる。それゆえ衆生は識心を虚妄であると見なすことができず、この関門を越えられなければ、大小の果を得ることはできない。
それゆえ仏は言われる。「愚痴無聞の凡夫は四大色身に対しては厭離を生じ、離欲し背捨することができるが、自らの識心に対しては離欲できず、厭離を生じず、背捨できない。自らの心を好み、何事も自らの心に従って行い、自らの心を離欲することができない。なぜならこの識心には確かにこれらの機能作用があると感じるからである」。
衆生は生々世々、生死の長い夜において保惜し我に繋ぎ、常に己の意に順い、自らを愛護し、自らの識心を保惜する。私は何かを得たい、私は何かを所有したい、私は何かを占有したい、これらは全てこの識心の意志である。それゆえこの識心の機能作用を我と見なし、実在する永遠不滅の自分と見なす。実際のところ識心はいくつかの状況下では滅する。例えば法を聞いている時、聞いているうちに眠ってしまい、後で何を言ったか分からなくなる。この時、識心は滅して存在しない。眠っていて夢も見ない時、この時の六識心も滅して存在しない。目が覚めた後、これらの識心はまた現れる。滅したり生じたりし、生じたり滅したりする。識心は常に生滅の過程で変化している。
しかし阿頼耶識の機能作用は、常にそのように存在し、変化せず、外縁に依存せず、機能作用は一切変化しない。阿頼耶識は常に一切の法を生じ、一切の法を変現する。誰もそれを妨げることはできない。あれこそが真実である。入定していようと眠っていようと、どのような状況でも、常に存在し、常にその機能体性作用がある。前六識はそうはいかず、常に生滅変化している。
原文:愚痴で無聞の凡夫は寧ろ四大から成る身に我・我所を繋ごうとするが、識に我・我所を繋ぐことはできない。なぜか。四大色身は十年住することもあり、二十年、三十年、あるいは百年に至ることもある。もしよく養生すれば、あるいは少しは長く生きることもある。
釈:仏は言われた。「愚痴で聞いたことのない凡夫は、四大から成る色身を我や我所と見なすことをむしろ好むが、識心を我や我所と見なすことはできない。なぜそう言うのか。四大から成る色身は、十年、二十年、三十年あるいは百年まで住世した後滅び去る。もしよく色身を世話すれば、住世は百年を超えることもあるかもしれない」。
原文:しかしその心意識は、日夜刻々、刹那に変化し、異なって生じ異なって滅する。あたかも猿が林樹の間を遊ぶが如く、瞬く間に方々を巡り、枝を攀じ登り掴み、一つを放てば一つを取る。その心意識もまた同様に、異なって生じ異なって滅するのである。
釈:しかし心意識は日夜刻々、刹那に流転し、刹那刹那に変化が起こり、この時に生じあの時に滅し、ここに生じあそこに滅する。あたかも猿が林の間を遊ぶように、ほんの一瞬で多くの場所を巡り、木に登って枝を掴み、この枝を放せば別の枝を掴み、決して暇がない。人々が言う心意識もまた同じで、異なって生じ異なって滅する。この時に生じあの時に滅し、ここに生じあそこに滅し、この法に生じあの法に滅し、あの法に生じこの法に滅し、この身に消えあの身にまた生じ、日夜刻々、種々に変化し、決して止むことがない。異なった時に生じ、異なった場所に生じ、異なった類に生じる。
凡夫の我見で最も深刻なのは、識心の機能作用を我と見なし、私の所有であると見なすことである。この我見は断ち除くのが最も難しい。色身の我見は断ち除くのがやや容易である。なぜなら色身の生滅変異の現象は観察しやすく、識心と分離できるからである。識心の生滅変異の現象は観察し理解するのが容易ではない。なぜなら五陰身の一切の機能作用は識心のものであり、あまりにも密接で連続的である。それゆえ真実に感じられ、自分が作用している、自分の作用であると感じ、識心の受想行識の作用を自分から分離し見破ることが非常に難しい。
もし識心を我や我所と見なせば、臨命終時、しっかりと識心を掴もうとし、一心に見聞覚知しようとする。見聞覚知が徐々に消えていくことを恐れる。明らかに識心の機能作用がますます微弱になり、身体がますます役に立たなくなるのを感知するが、識心を滅したくない。非常に苦しく、死という現象を受け入れられない。それでもなお凡夫は自らの識心が無常で生滅変異するとは思わず、これらの作用が再び働き続けることを望む。
原文:多聞の聖弟子は諸々の縁起について善く思惟し観察する。すなわち、楽触が縁となって楽受が生ずる。楽受を感じる時、楽受の覚りを如実に知る。その楽触が滅すれば、楽触の因縁によって生じた受もまた滅し、止み、清凉になり、息没する。楽受についてそうであるように、苦触、喜触、憂触、捨触の因縁によって捨受が生ずる。捨受を感じる時、捨受の覚りを如実に知る。その捨触が滅すれば、その捨触の因縁によって生じた捨受もまた滅し、止み、清凉になり、息没する。
釈:多聞の聖弟子は一切の縁起法について善く思惟し観察する。楽触の因縁が集まるとき、楽受が生じるのを観察する。楽受を感じるとき、如実に楽の受覚を了知する。楽触が滅した時、楽触の因縁によって生じた受覚も滅し、心は清凉に息止み滅没する。楽受についてそうであるように、苦触が生じるとき、如実に苦の覚受を了知し、喜触、憂触、捨触の因縁によって喜の覚受、憂の覚受、捨の覚受が生じるとき、如実に喜受、憂受、捨受を了知する。喜触、憂触、捨触の因縁が滅した時、喜触憂触捨触も滅し、心は清凉に寂止する。
原文:彼はこのように思惟する。この受は触によって生じ、触に楽触が縛られる。あのあの触が楽であるがゆえに、あのあの受が楽である。あのあの触が楽でなくなれば、あのあの受が楽であることもまた滅し、止み、清凉になり、息没する。
釈:多聞の聖弟子はこのように思惟すべきである。これらの受触が触の楽受を引き起こし触の束縛を生じる。一つ一つの触の楽受が生じるとき、一つ一つの楽受が生じる。一つ一つの楽触が全て滅した後、一つ一つの受楽もまた滅し、心は清凉に寂止する。
多聞の聖弟子は諸々の縁起について善く思惟し観察することができる。世の中の一切の法は因縁によって生じ、一法たりとも因縁によって生じないものはない。因と縁があれば世間法は集まり、因も縁もなければ法は現れない。縁が異なれば生じる法も異なり、衆生の色身も異なり、生存環境も異なる。縁はどこから来るのか。身口意業によって形成される種子である。多聞の聖弟子は諸々の縁起について善く思惟し観察することができるが、凡夫は善く思惟観察せず、五陰上の一切の法が現れるのは当然であり、道理にかなっていると考える。聖弟子は縁起を観察する時、生老病死の由来と因縁を深く究明し、最初のあの縁起まで探究する。
楽受を例に因縁生法を説明する。苦触、喜触、憂触、捨触は全て縁生によって生じる感受である。苦楽憂喜捨、これらの受の生起は全て触があるがゆえである。苦の触、楽の触、喜の触、憂の触、捨の触があるからこそ種々の心の感受がある。もしこれらの触の縁がなければ、これらの心の感受は生じない。それゆえ苦楽憂喜捨の触は全て虚妄であり、感受もまた虚妄で、生滅変化無常である。全ての縁が生じる背後には原因があり、奥秘がある。
捨受とは何か。苦も感じず楽も感じず、快適とも感じず苦痛とも感じず、自分を忘れたように感じ、それ以上の感受がない。これを捨受という。いつ捨受が生じるか。坐禅中に現れる捨受が多い。時折自分を忘れ、周囲の一切を忘れ、楽の受も生じず、苦の受も生じない。その時が捨受である。心に定がある時ははっきりと感じられる。今私は苦受を感じている、今私は楽受を感じている、今私は喜受を感じている、今私は憂いの感受を感じている、今私は確かにこれらの感受を知っている、私は如実に覚知している。もしそれらの苦楽憂喜捨の触が滅すれば、苦楽憂喜捨の受も消滅する。滅した後は寂静し、止息し、心は清凉に、寂静になる。
原文:このように、多聞の聖弟子は色に対して厭離を生じ、受・想・行・識に対して厭離を生じる。厭離のゆえに楽しまず、楽しまないがゆえに解脱する。解脱の知見を具足し、『我が生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになされ、自ら不受後有を知る』のである」。
釈:このように、多聞の聖弟子は色陰に対して厭離心を生じ、受陰・想陰・行陰・識陰に対して厭離心を生じる。厭離を生じたがゆえに色受想行識を楽しまず、色受想行識を好まないがゆえに心は解脱する。こうして解脱の知見を具足し、こう言う。「私の生命は終わろうとしている。清浄な梵行はすでに立ち上がった。私がこの一生になすべきことはすでに成し遂げられた。私は自ら私の死後に未来世の三界世間はなくなることを、未来世の三界法はなくなることを知っている」。