阿含経十二因縁釈
第七章 仏説老母経
原文:聞く如し。一時仏は維耶羅国に在り。所止処を楽音と名づく。時に八百比丘僧と菩薩万人と倶なりき。
釈:阿難が言う。私は自らこの経を仏陀から聞いた。仏がかつて維耶羅国の楽音という地におられた時、仏はある時八百の比丘僧と菩薩万人と共におられ、これらの比丘僧衆と菩薩衆のために説法された。
比丘僧とは一般に仏陀に従って小乗の苦集滅道という四聖諦を修学する常随衆を指し、四聖諦の法を修学すれば我見を断じ、人無我を証得し、三界の生死輪廻の苦から解脱し、五陰十八界が苦・空・無常・無我であることを証得する。五陰十八界が苦であるならば、苦なるものは我ではなく、空であるならば空なるものは我ではなく、無常であるならば無常なるものは我ではない。我は苦ではなく、我は空ではなく、我は常住であるが、五陰十八界には真実の、常住の、苦ならざる我性がない。したがって五陰十八界は我ではない。
この理を認めたことにより、元来五陰を我と見なしていた誤った知見が除かれ、こうして五陰が我であるという我見邪見が断たれ、以前自らを縛って生死流転させていた三縛結が断たれ、初果の須陀洹を証得する。続いて貪瞋痴の煩悩が淡薄となり、二果の斯陀含を証得する。初禅定を修めた後、欲界の貪欲心を断じ、さらに瞋恚心を断じて三果の阿那含(アナガミン)を証得する。続いて修行を重ね、我慢が断尽し、意根の自我への執着が滅尽し、一念無明の四住地煩悩が断尽し、四果の大阿羅漢を証得する。捨寿の時が来ると、阿羅漢の意根はもはや主となって六識を生じ六塵に触れることがなく、意根にもいかなる心行もなくなる。こうして六根・六塵・六識が滅尽し、色受想行識の五陰の機能が滅尽し、無余涅槃に入り、再び三界に来ることがなくなり、これをもって生を了し死を脱し、三界を出離して解脱を得るのである。
菩薩には出家と在家の二種があり、菩薩は主に布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若智慧という六波羅蜜、および全ての自利利他の菩薩行を修め、十信位・十住位・十行位・十回向位・十地位・等覚・妙覚という五十二の階位を経て、三大阿僧祇劫の修行により、最後に円満に仏道を成就する。
六度行の修行において、布施には財施・法施・無畏施が含まれる。持戒には小乗の五戒と大乗の菩薩戒の持戒が含まれる。忍辱は主に自らの心性を調柔にし、一切の人・事・物に対して忍を修め、空に随順し、五蘊世間の諸法が空・無我であることに忍び、難を畏れず精進して修行を堅持することである。精進とは、布施に対して精進し無量の福德を広く集め、持戒に対して精進修行し、忍辱に対して精進修行し、禅定に対して精進修行し、般若智慧を修めることに対しても精進修行することである。第五の度は禅定であり、未到地定または初禅定の定力を具足し、この定力をもって仏法を思惟参究し、大小乗の空理を観行し、空果を証得する。最後は般若智慧度であり、般若の理、如来蔵の理を熏習し、明心見性の基礎を築くことである。これらの修行が菩薩の六度を修行することであり、菩薩の六度が修し満たされると、機縁が到来して無生忍と無生法忍を証得する。
無生忍とは、五陰十八界に真実の出生がなく、全て如来蔵の生じた不実の法であることに忍ぶことを意味する。したがって全ては空幻・虚仮であり、一切法が無生・無行・無実・無所有であること、五陰世間法には真実の出生がなく、全て空相・仮相であり真実の我性がないことを忍可する。小乗が初果から四果を証得し人無我を得ることも、一種の無生忍である。菩薩の無生忍は、明心見性して如来蔵を証得し、如来蔵の実相法が不生不滅で真実不虚であることを了知すると同時に、万法は全て如来蔵によって生じ変現され、虚妄・生滅・不実・無我であることを了知する。このような忍を無生忍という。
無生法忍の智慧は無生忍の智慧をはるかに超える。これは初地から妙覚菩薩に至るまでが修証する智慧であり、地上の菩薩は如来蔵が生じた三界世間の一切法が全て如来蔵によって生じられ、全て一真法界中の法であり、全て真如性であることを証得する。そのため心識は寂滅し、不退の位を堪受する。これを無生法忍という。菩薩たちの無生法忍の智慧は地を追うごとに増進し、仏地に至って初めて円満具足する。悟る前は六度を修め、開悟した後も内門で菩薩の六度を修め、条件が満たされると初地に入ることができる。初地の菩薩は六度の基礎の上に、さらに菩薩の四度:方便波羅蜜・願波羅蜜・力波羅蜜・智波羅蜜を加える。十度波羅蜜を修行し終えると、十地菩薩の果位を証得する。これが菩薩たちが修める菩薩道である。
原文:時に貧窮の老母有り。仏所に来至して。頭面を地に着けて。仏に礼を作し。白して仏に言く。願わくは問いたきこと有らんと。仏言く。善哉善哉、問うべし。老母言く。人生老病死は。何れの所より来たりて何れの所へ至るか。色痛痒思想行識は。何れの所より来たりて何れの所へ至るか。眼耳鼻舌身心は。何れの所より来たりて何れの所へ至るか。地水火風空は。何れの所より来たりて何れの所へ至るか。
釈:この大法会の中に、一人の非常に貧しい老母が世尊の御前に来て、頭面を地に着けて世尊に礼拝し、それから世尊に言った。私はお尋ねしたいことがございますが、よろしいでしょうか。仏は言われた。善哉善哉、尋ねてよい。老母は尋ねた。人の生老病死はどこから来て、どこへ行くのですか。色受想行識はどこから来て、どこへ行くのですか。眼耳鼻舌身心はどこから来て、どこへ行くのですか。地水火風空はどこから来て、どこへ行くのですか。
老母は一連にこれらの問題を尋ねた。一つは生老病死の問題、一つは五陰の問題、一つは六根の問題、最後は地水火風空の五大種子の問題である。これらの問題はどれも深奥で、仏法修行上の根本問題であり、六道輪廻の生死の大問題である。老母の尋ねたこれらの問題から、この老母が一般人ではないことが分かる。彼女の前世の修行の善根は非常に厚く、もし善根が厚くなければ、財・色・名・食・睡などの世俗的利益に関する問題を尋ねたであろう。
老母は生死の大問題の根源を尋ね求めようとしており、生命の根源を探求することは、仏法修行の重要な法門である中乗の辟支仏が修学する十二因縁法に関わる。十二因縁法は衆生の五蘊世間の一切法の出現と滅去の因縁、衆生の生老病死の現象の出現と滅去の因縁、三界六道の衆生の生死輪廻の因縁を明らかにする。老母の尋ねたこれらの問題は、実際には全て因縁法の問題に属する。
阿羅漢と辟支仏は四聖諦と十二因縁法を修行し、最後に一念の無明を滅し、我執を断尽して無余涅槃に入ることができる。色身の五陰が滅尽すれば、生老病死憂悲苦悩もなくなり、苦を離れ楽を得、三界の生死輪廻を出離する。しかし阿羅漢と辟支仏も真の楽を得ておらず、ただ苦を離れているだけである。色身の五陰が苦を受けることがなくなり、三界を離れ、三界の生を了し、三界の死を脱し、三界の解脱を得るのである。なぜ楽を得ないのか。阿羅漢たちの五陰身が楽を受けることがないからである。苦を受ける身心がなければ、当然楽を受ける身心もなく、苦楽は全て生滅する身心によって受けるものである。
老母の尋ねた問題に関連する概念を簡単に説明する。五陰とは、受精卵から死に至るまでの一期の色身を色陰という。受陰は苦・楽・不苦不楽の感受であり、六受身ともいう。六根が六塵に触れる時に受がある。想陰は六根が六塵に触れる時に心が六塵の相を取り、六塵の相を了知することで、六識による六塵の了別であり、六想身ともいう。行陰は六識の身口意行を指し、身体の行為造作、言語覚観の行為造作、思想観念の行為造作を含む。行とは行為・運作・遷流・変化であり、時間の変化、場所方位の移動、身口意行が刹那刹那に変化することが行陰である。六識が六塵を分別する時には全て行陰がある。識陰は六つの識による六塵の了別作用である。
色身を形成する地・水・火・風・空の五大種子は全て阿頼耶識の中の大種子である。地性は堅硬性で、支え持つ作用がある。例えば外界の土地・山川・樹木・金属・鉱物などは堅硬性で地大を主とし、色身の中にも地性があり、例えば骨格・筋肉・筋・脈などは地大を主とする。水性は湿潤性で、例えば河川・大海・種々の液体など、身体の中の尿・汗・唾液・血液・涙・鼻水などは全て湿潤の水性に属する。火性は熱量・温度・エネルギーであり、外界と身体内界の両方に火性がある。例えば外界の陽光・燃える火、体内の温度などである。
風性は漂動・流動の属性であり、外風と身体の中の内風に分かれる。外風は宇宙虚空中に現れる大風・台風・暴風・微風など外界の風であり、身体内界の風は呼吸と身体内を運行する各種の気息である。身体の中に風の流動性があるからこそ、飲食したものが腸胃の中で徐々に消化・吸収・排泄され、血液が流動し、心臓・脈搏が拍動する。これらには全て風性の作用がある。風がなければ物質は流動せず、身体は運転しない。風は流動性を代表し、一種の運動エネルギーである。衆生の言語の発生も風性の作用を離れず、内心に考えや覚観が生じると風が生じ、風が臍に触れ、さらに心臓に触れ、順に気管・舌根・口腔に触れて音声が発せられ、言語が生じる。これも風性の作用である。
空大とは虚空性であり、外界の虚空と空間、身体内の空隙と空間に分かれる。外界に空間があるからこそ一切の色法を容納でき、物質が運行でき、音声・気体・味塵が伝播でき、各種のエネルギーが伝達でき、衆生が虚空の中で生存できる。外界の虚空は全ての衆生の阿頼耶識が共同で空大種子を出力して形成したものであり、全ての衆生の阿頼耶識が共同で執持する。各種の物質の中にも空隙と空間があり、その空隙の多少の違いが物質の構造の違いを生み、密度が異なり、物質の物理的性質が異なる。物質の中の空間もまた共業衆生の全ての阿頼耶識が共同で形成し執持する。
身体の中の各組織構造には全て空隙と空間がある。空間があるからこそ、飲食・気体・血液が流動する。身体の中で最も小さな細胞組織の中にも空間があり、細胞の中の各種の分子構造の中にも空隙がある。そうして分子・イオンなどの各種微粒子が運行でき、細胞が新陳代謝を行える。したがって四大に空大を加えて衆生の三界世間を構成し、五大種子は遍く一切の処に存在する。
阿頼耶識が五大種子を出力し、五大種子が和合して各種の物質を形成する。外界の山川・大地・樹木・河川・星体などは全て五大種子が和合したものであり、ただそれぞれの比率が異なるため形成される物質が異なる。地水火風空が和合して衆生の色身も造り出す。骨格の中には地性だけでなく火性・風性・水性もあるが、色身の上の五大種子はこの衆生の阿頼耶識が独自に出力したものであり、色身は別業衆生の個体阿頼耶識が独自に出生し執持する。
外界の花草樹木もまた地水火風空の五大種子から成る。例えば樹木を圧迫すると水が出るのは水大が含まれていることを示し、点火すると燃えるのは火性が含まれていることを示す。樹木が堅いのは地大が含まれていることを示す。樹木が生長できるのは風性が含まれていることを示す。樹木の中にも空大があり空隙があるため、風が中を流通でき、水が中を潤すことができる。石の中には地大・水大・火大・空大が含まれている。石を圧迫すると水が出て、打撃すると火花が出る。中に空隙があり、分子の間に空隙がある。空隙があるから分子が運動でき、風が中を流動できる。中に空大の比率が異なるため石の性質種類が異なる。したがって一切の物質は地水火風空から成る。
原文:仏言く。人生老病死は。所従来なく去るも亦所至なし。色痛想行識は。所従来なく去るも亦所至なし。眼耳鼻舌身心は。所従来なく去るも亦所至なし。地水火風空は。所従来なく去るも亦所至なし。
釈:仏は言われた。人の生老病死には来る所なく去る所もない。色受想行識には来る所なく去る所もない。眼耳鼻舌身意には来る所なく去る所もない。地水火風空には来る所なく去る所もない。
世尊は小乗中乗の空相の上から説かれ、大乗の真実の義理からは説かれなかった。当機者が二乗の根基であるため、世尊は衆生の根基に依り、因縁法の空相の上から説かれ、大乗真実義を説かれなかったのである。仏は人の生老病死には来る所がなく、去る所もないと言われた。人の色身に来る所があるならば、私たちはこの来る所を推究探求するが、結果としてどうしても来る所を見つけられない。もし人身が父母から来て母胎から来て受精卵から来るならば、私たちは観察考証して父母も受精卵にも来る所がないことを発見する。したがって人身には来る所がない。もし人身が虚空から来るならば、しかし虚空にも来る所がない。したがって人身には来る所がない。
衆生が死亡し色身が滅去した後、人身にも去る所がない。もし去る所があるならば、人生生世世に無量無辺の色身があり、一小劫の中の一つの色身を積み上げても須弥山よりも高く大きくなる。すると全ての衆生の色身を積み上げれば虚空を満たすことができ、虚空はなくなる。したがって人身は来る所なく来ず、滅しても去る所がない。また例えば病気はどこから来るのか?どこにこれらの病症が蓄えられて身体に来るのか?病気には来る所がない。病気を治した後、病気はどこへ行くのか?もし病気が虚空へ行くならば、虚空に無数の病気が蓄えられていると衆生は皆病気の中に生活することになり、病でない時はなくなる。したがって病気は虚空へ行かず、他の所へも行かず、来る所もなく去る所もない。これは万法が皆空であることを示す。
色陰には来る所も去る所もなく、受陰も同様である。例えば音楽を聴いて快楽を感じる時、この快楽の感受はどこから来るのか?快楽の感受が消えてどこへ行くのか?来る所も去る所もない。想陰にも来る所も去る所もない。眼が色を見て知性があるが、この知はどこから来るのか?眠りにつくと外の色は分からなくなる。この知性はどこへ行くのか?去る所がない。行陰も同様に来る所も去る所もない。例えば机を打ち付けるという行為はどこから来るのか?机を打ち付けるという行為が消えてどこへ行くのか?来る所も去る所もない。識陰である六識による六塵の了別性・知覚性も同様に来る所もなく去る所もない。
万法には来る所もなく去る所もない。例えば林の中の樹木はどこから来るのか?もし樹の種子から来るならば、種子は小さく大樹の相はなく、樹の種子にも来る所がない。大樹にはなおさら来る所がない。虚空にも大樹の相はない。樹が破壊された後はどこへ行くのか?去る所がない。虚空中に台風が現れる時、台風はどこから来るのか?来る前にどこに隠れていたのか?台風が止んだ後、どこへ行くのか?来る所もなく去る所もなく、本来幻である。
天上に暗雲が立ち込めて雨が降る時、雨粒はどこから来るのか?もし雲から来るならば、空には常に雲があるのに、なぜ常に雨が降らないのか?もし雨粒が虚空の中に隠れているならば、虚空は常にあるので常に雨が降るべきである。雨が止んでも雨粒には去る所がなく、雲や虚空に隠れることはできない。地球が破壊される時、天から落ちる雨粒は象ほどにもなり、水害を形成して初禅天まで浸水する。それほどの大量の雨水にはなおさら隠れる所がない。水害が消えた後、大水はどこへ行くのか?去る所がない。諸法は皆来る所なく来ず、去る所なく去る。
外で火がついて枯れ草が燃える時、その火は燃える前にどこにあったのか?火をつける人の手や虚空の中にはなく、火には来る所がない。消えても去る所がない。もし虚空の中に火があるならば、一切の物は焼かれ、何も存在しなくなる。火が太陽から来るならば、一切時に一切の物を焼き、到る所が灰となる。また例えば人が目眩を感じて目に金の花がちらつく時、それらの金の花はどこから来るのか?もし虚空から来るならば他人には見えず、目眩も感じない。もし目から来るならば常に目に金の花がちらつくはずである。頭が眩まない時、それらの金の花はどこへ行くのか?来る所なく来ず、去る所なく去る。このように観察すれば諸法が全て空であり、一つとして真実のものはなく、空から来て空へ去り、魔術師が幻を現わすように、来る所も去る所も見つからず、全ては幻化の仮相であることが分かる。
原文:仏言く。諸法も亦くの如し。譬えば両木相い鑽りて火を出す。火は還って木を焼き、木尽きて火は便ち滅す。仏、老母に問うて言く。是の火は本より何れの所より来るか。滅して何れの所へ至るか。老母、仏に報じて言く。因縁合会して便ち火を得。因縁離散して火は即ち滅す。
釈:仏は言われた。諸法もまたこのように、来る所なく去る所もない。例えば二本の木が互いに擦れ合って火を出し、火は木を燃やし、木が焼き尽きると火も消える。仏は老母に言われた。この火は元々どこから来たのか?消えてどこへ行くのか?老母は仏に答えて言った。因縁が和合して火が生じ、因縁が滅すれば火も消える。
火が生じる因縁は何か?二本の木を人が一緒に擦り合わせ、ある程度まで擦ると暖相が現れ、木が発熱して火が生じる。二本の木、人、人の力、これらの縁が集まり、さらに火を生じる因である阿頼耶識の中の火大種子が加わる。こうして因縁が和合して火が生じる。例えば両手を擦り合わせると熱量が生じる。熱量が現れる因縁は両手が合わさり、力を入れて擦ることによって現れる。しかし両手の間で互いに擦るだけでは火は生じない。この縁は火を生じる縁ではないからである。
例えば衆生がこの世に生まれるのは因と縁があり、因縁が和合して初めてこの世に生まれることができる。この世に生まれる因縁は何か?まず三界の業種を造ることが必要であり、さらに父母の縁、貪欲心が必要である。これらの縁に出生の因である阿頼耶識が加わって、衆生は入胎し出生できる。衆生がこの世の縁が散れば寿命は終わる。したがって万法は皆因縁によって生じ、因縁によって生じた法は皆空である。因に依り縁に依って生じた法は不自在・幻化・虚妄である。
原文:仏言く。諸法も亦くの如し。因縁合会して乃ち成る。因縁離散して即ち滅す。諸法も亦所従来なく。去るも亦所至なし。眼、好しき色を見れば即ち是れ意なり。意は即ち是れ色なり。是の二者は倶に空なり。所有なく成る。滅も亦くの如し。
釈:仏は言われた。諸法もまたこのように、因縁が和合して生じ、因縁が離散して滅する。諸法は皆来る所もなく去る所もない。眼が好ましい色を見るのは心意であり、心意は即ち色である。心と色の二者は共に空であり、生ずるに来る所なく、滅するに去る所もない。
諸法には色法と心法が含まれる。いかなる法も因縁が和合して初めて形成される。縁が具足しなければ、何の法も生じない。各種の法の生起にはそれぞれ相応の因縁があり、一つの縁が散れば法は滅失する。したがっていかなる因縁を離れても法は生じない。例えば私がここで説法するには場所が必要であり、コンピューターが必要であり、聴衆が必要であり、さらに私の健康が必要であり、光明などの外縁が必要である。一つの縁が欠けても説法の事は成就しない。すると説法の事は因縁所生の法であり、空幻であり、因縁が離散すれば消失する。例えば一つの家族は因縁が和合して共に生活し、縁が滅すれば一家は散る。したがって親族に対しても執着・貪恋してはならず、皆空幻であり、永遠に散じない宴席はなく、永遠に退かない舞台はなく、皆因縁が和合し、聚散は無常である。
衆生の心は常に好ましい色を見たいと思うが、見られる色は心の想いから生じる。色を見る心と見られる色は共に空であり、色法と心法は共に空である。生じる時に隠れる所がなく、滅しても滅する所がない。外界の一切の色法は各種の縁に依って生じるが、生じても来る所がなく、因縁が散れば色は消失し、消失しても去る所がなく、来る所なく来ず、去る所なく去る。そして色を見る心もまた因縁の聚散であり、来る所なく来ず、去る所なく去る。全て虚妄である。
原文:諸法は譬えば鼓の如し。一つの事を用いて成らず。人有って桴を把りて鼓を捶てば。鼓は便ち声有り。是の鼓声も亦空なり。当来の声も亦空なり。過去の声も亦空なり。是の声も亦木革桴人手より出ずず。諸物を合会して。乃ち鼓声を成す。声は空より尽きて空に至る。諸の所有する万物一切も亦くの如し。我人寿命も亦くの如し。本際は皆浄く所有無し。所有無きより因として法を作る。法も亦所有無し。
釈:諸法は鼓のようなものである。鼓の中は空空で一物もない。もし人が鼓槌で鼓を叩けば、鼓は音を発する。今聞こえる鼓の音は空であり、後に現れる鼓の音も空であり、滅した鼓の音も空である。これらの鼓の音は鼓槌から来ず、人の手から出ず、鼓の革皮から出ず、鼓・鼓槌・人手が和合して形成される鼓の音である。鼓の音は空から空へ、所有する一切の万物もこのようであり、我・人・寿命もこのようであり、本体は皆空浄で所有なく、所有無しを因として生じた法は、法も所有無しである。
仏はさらに鼓を叩くことを例に挙げて言われた。一切法は虚空から来ず、一切の物から来ず、無因で来ず、虚空は物がなく、いかなる物質色法も現れない。鼓槌を持って鼓を叩くと、鼓は皮革でできており、鼓槌が叩かれるとドンドンという音が出る。その音はどこから来るのか?もし手から来るならば手にも音はなく、鼓槌から来るならば鼓槌に音はなく、鼓にも音はなく、虚空にも音はない。もし音があれば虚空とは言わない。鼓を叩かない時、ドンドンという音はどこへ行くのか?手の中か、小槌の中か、虚空の中か、鼓の中か?鼓の音はどこへも行かず、鼓の音は虚妄であり、来る所なく来ず、去る所なく去る。
諸法は鼓の音のように虚妄である。人が鼓槌を持って打ち鳴らすと、鼓は音を発することができる。するとドンドンという鼓の音は因縁所生の法であり、因縁所生の法はそれ自体が空である。鼓自体が因縁所生であり、鼓を叩くことはさらに因縁所生であり、鼓から生じる音も因縁所生である。諸法は皆空で自性がない。今の鼓の音は空であり、将来の鼓の音は空であり、以前鼓を叩いて生じた音も空であり、これら全ての音は空である。音は鼓から生じず、人の手から生じず、虚空から生じず、これらの因縁が和合して初めてこれらの鼓の音が生じる。この鼓の音は来るにも来る所がなく、去るにも去る所がなく、空から空へ、空から来て空へ去る。諸法もまたこのようであり、全ての万物もまたこのようであり、空から来て空へ去り、来る所もなく去る所もない。
また例えば地球の生住異滅、地球が徐々に形成される時、地球はどこから来るのか?地球が破壊されると、地球という大きな星体はどこへ行くのか?須弥山は地球より無数倍大きく、破壊される時には須弥山全体がなくなり、一片の破片も見えなくなる。須弥山はどこへ行くのか?後で徐々にまた一つの須弥山が形成されるが、この須弥山はどこから来るのか?宇宙全体の器世間はどこから来てどこへ行くのか?来る所もなく去る所もない。
人の寿命もまたこのようである。衆生は往々にして、五陰が我人であり、我相人相衆生相であり、この我人の中に我人の寿命があると考え、これが寿者相であり、四相:我相・人相・衆生相・寿者相の一つに属する。我相は私の五陰十八界の相、人相は人の五陰十八界の相、衆生相は全ての衆生の五陰十八界の相である。四相は全て虚妄であり、来る所なく来ず、去る所なく去る。これらの法相の本際は空浄で所有なく、本際は本体の本来の意味であり、諸法は本来空で所有なく、来る所がなく、所有無き法が新たな法を形成し、新たな法も空で所有無きものである。
原文:譬えば雲起り。陰冥して便ち雨す。雨は亦龍身より出ずず。亦龍心より出ずず。皆龍の因縁の所作。乃ち是の雨を致す。諸法は所従来なく。去るも亦所至なし。
釈:例えば虚空の雲が集まり、非常に暗く重くなると雨が降る。雨水は龍の身から出ず、龍の心からも出ず、全て龍の関係で因縁が和合し、雨が生じる。諸法は来る所なく、去るにも去る所がない。
雲の中に大量の雨水が含まれると暗く重く、雲層が雨水を支えきれなくなり雨が降る。雨水はどこから来るのか?龍の身から出ない。雨を降らすことは龍が管轄しているが、龍の身には雨はなく、龍の体がどれほど大きくてもこれらの雨を隠せない。雨水は龍の心から生じるのでもなく、龍の心の中にこれらの雨水は入っていない。衆生の善悪業の因縁が和合して雨が生じるのである。
何の因縁か?衆生の善縁が成熟した時、雨が土地を潤し飲用に供されるべきであると、龍は雨を降らせ、雨が生じる。衆生の悪業の因縁が成熟すると、龍は過剰な雨を降らせ、衆生は水害を受け、あるいは連年雨が降らず、衆生は旱魃に遭う。したがって因縁が会合して現れる法は空であり、所有無きものである。一切法は雨水のように来る所なく、滅するにも滅する所がない。
原文:譬えば画師。先ず板素を治め。却って後ち衆彩を調和す。便ち所作に在りて作す。是の画は亦板素彩より出ずず。其の意に随う。為す所のもの悉く成る。生死も亦くの如し。各々異類なり。地獄禽獣。餓鬼天上。世間も亦爾り。是の慧有る者は着かず。着けば便有り。
釈:一人の画師が絵を描こうとする時、まず画板を準備し、必要な絵の具を調合し、さらに筆が必要である。画師が筆を持ち、調合した色彩を付けて画板に絵を描く。画師が描き出す山水画であれ人物画であれ、彩画はどこから来るのか?彩画は画師の手から出ず、絵の具からも出ず、画板からも出ない。しかし彩画は画師の心意に従って描き出される。生死もまたこのようであり、四生二十五有の各種の衆生と世間もまたこのようである。この真理を了知する者は智慧があり、世間の一切の法に執着しない。もし世間の一切の法に執着すれば、生死の苦がある。
衆生の生死も彩画のように、来る所がなく去る所もなく、地獄・畜生・餓鬼・天人・人類も皆このようであり、生ずるにも来る所がなく、消滅しても去る所がなく、一切法は皆このように虚妄であり、このように空幻であり、このように無常である。無常は苦である。真にこれらの道理を理解する智慧ある者は、もはやこれらの因縁所生の虚妄法に執着しない。もしなお執着貪求の心があれば、世間の万法が生じ、三界の有が生じ、生死を了脱することはできない。
原文:老母、仏の言を聞きて大いに歓喜す。即ち自ら説きて言く。天中天の恩に蒙りて法眼を得たり。身は老いて羸たりと雖も。今安隠を得たり。
釈:老母は仏がこれらの因縁法理を説かれた後、非常に歓喜し、仏に言った。天中天であるあなたの恩徳により、私は法眼浄を得ました。私のこの身体は老いて弱っていますが、今心が安らかになりました。
天中天とは世尊を指す。天人の中の天人で、天人よりも尊く、三界の衆生の中で天人が最も尊く、天人の中で最も尊いのが世尊である。仏は三界の至尊である。法眼浄を証得するとは、小乗の我見を断ち、初果から四果の人となることである。老母は世尊の説かれた因縁法を聞き、五陰が空で無我であることを証得し、法眼浄を得た。法を観る眼が清浄で智慧があり、賢聖の人となり、三悪道の業を消除し、心が安らかになった。心が解脱し、貪愛を断ち、これは三果と四果の人の境界であり、涅槃に入る能力があり、三界の生死を出離でき、未来世に再び苦を受けることがない。したがって心が安らかになるのである。
原文:阿難、衣服を正し。長跪して仏に白して言く。是の老母は仏の言を聞きて即ち解す。何の因縁ぞ智慧乃ち爾るか。仏言く。大徳巍巍たり。是を以ての故に即ち解す。是の老母は。是れ我が前世菩薩の意を発したる時の母なり。阿難、仏に白して言く。仏の前世の時の母。何の因縁ぞ困苦貧窮の如く是の如き。
釈:この時阿難は衣服を整え、仏の前に長跪し、仏に尋ねた。この老母は仏の説法を聞いて即座に法眼浄を得ましたが、何の因縁でこのような智慧があるのですか?仏は言われた。この老母は非常に徳行と修行のある人である。何故なら彼女は生生世世にわたり道を修め、善根が非常に厚く、大威徳がある。それ故に仏の説法を聞いて証解できたのである。この老母は私が過去世に初めて菩薩道の心を発した時の母親である。阿難は仏に言った。世尊の過去世の母親であるならば、何の因縁でこのように貧しく困苦しているのですか?
原文:仏言く。乃ち昔、拘楼秦仏の時。我、菩薩道を為さんとす。意、沙門と作らんと欲す。母、恩愛を以ての故に。我が沙門と作ることを聴かず。我、憂愁して一日食わず。是を以ての故に。前後世間に生まるること五百世。是の如きに遭う。
釈:仏は言われた。往昔、拘留仏が在世の時、私は菩薩道を修行するために出家して沙門となり道を修めようとした。しかし私の母は私への恩愛が深いため、私が出家して沙門となることを許さなかった。私は憂愁苦悩して丸一日食事をしなかった。この因縁により、私の母はこの世に生まれてくる度に、前後合わせて五百世にわたり、このような貧困苦厄に遭ったのである。
以上が世尊の説かれた老母の貧困の因果物語である。老母が菩薩道の心を発した息子を悲しませ、丸一日食事もさせず、出家の願いも叶えさせなかったため、五百世の貧困困苦の果報を受けた。因果はこのように不可思議であり、因は小さく果は大きい。衆生は無明のため往々にして因は小さいと軽視するが、実際には事の起因は大きく、結果は甚だしく重大であることに自ら気づかない。したがって修行者は必ず身口意の三業を善く護り、因を知り果に達し、不善業を造らず、善は小さいからといって為さず、悪は小さいからといって為すなかれ。蟻の穴が堤防を決壊させる。特に三宝と生死に関わる大事には、一言一行を一層注意深く慎重にすべきである。
もう一つの因果物語は仏の子である羅睺羅に関するものである。羅睺羅の前世で修行していた時、鼠の騒音が修定の妨げになるのを嫌い、鼠の穴を六日間塞いで鼠を窒息死させた。その果報として母胎の中に丸六年間閉じ込められた。この六年間にどれほどの苦しみを受けたことか。人間は母胎の中に数ヶ月いるだけで耐えられず、八、九ヶ月で出てくるが、羅睺羅は六年間もいた。五蘊身はとっくに成熟しており、牢獄にいるよりもはるかに苦しく感じただろう。母体の中で圧迫されながら身体は動かせなかった。
老母が経験した五百世とは人間として生まれた五百世を指し、その中には人間でない時もあり、合わせるとその時劫は非常に久遠である。人間として生まれることは大海の中から頭を出したようなもので、人間として良く生きられなければまた海に落ち、下の三悪道に堕ちる。老母は前後五百世にわたり人間界に来たが、皆このように貧困困苦であった。わずかな業行が感得する果報は極めて大きい。またある者は一言のために無間地獄に堕ちる。因果はこのように畏るべきものである。したがって身口意は必ず清浄にし、極力些細な過ちも犯さないようにすべきである。
原文:仏、阿難に語りて言く。是の老母は寿終わりて。当に阿弥陀仏の国中に生まるべし。諸仏を供養し。却って後ち六十八億劫を経て。当に作仏すべし。字は扶波健。其の国名は化作とす。所有の被服飲食。忉利天の上の如し。其の国中の人民は皆一劫を寿く。
釈:仏は阿難に言われた。この老母は寿終わった後、極楽世界阿弥陀仏国土に往生し、そこで十方諸仏を供養するであろう。その後六十八億劫の時を経て、成仏するであろう。仏の名は扶波健といい、その仏国土の名は化作という。化作国中の人民の全ての衣被飲食は、忉利天のようであり、国中の人民の寿命は一劫である。
老母はすでに証果しており、最低でも中品上生で極楽世界に往生し、あるいは上品上生であり、蓮華の宮殿に住む必要がなく、天人のように極楽世界を随意に遊行し、随意に他の仏国土に往来し、十方世界の諸仏を供養する。供養には身口意行、飲食臥具の供養、および仏の側で仏に随って修学する法供養が含まれる。老母が将来成仏する国土の中の人民の全ての飲食生活資具は忉利天のようであり、全て変化によって現れ、心に飲食の念を起こせば百味の飲食が悉く現前し、一嗅ぎすれば食べ終わる。国土の中の人民の寿命は皆一劫である。一劫が大劫か小劫かは具体的に説明されていない。小劫は一千六百八十万年、大劫はさらに八十倍する。国中の人民の寿命はこのように長い。すると扶波健という仏の寿命は少なくともこれほど長く、おそらくこれ以上であろう。
世尊が老母に授記した成仏の時劫は六十八億劫後である。時間は非常に久遠であるが、それでも数はある。成仏には三つの無量数劫が必要であり、八地菩薩に修するには二つの無量数劫を経て、さらに一つの無量数劫で成仏する。六十八億劫は最後の一つの無量数劫の中にある。すると八地以上の菩薩であり、老母が証得した果位は四果の大阿羅漢または辟支仏であることを示す。仏が菩薩に授記するのは一般に菩薩が八地菩薩に修した時である。この老母はこの時すでに解脱を得ているので、四果阿羅漢であるべきであり、極楽世界に往生した時大乗に回心し、仏の説法を聞いて八地菩薩の果位を証得し、成仏まで最大で一つの無量数劫を残すのみである。これは老母の修行が感得した非常に殊勝な果報である。
原文:仏、此の経を説き已りて。老母及び阿難等。菩薩比丘僧。諸天龍鬼神阿須倫(アシュラ)皆大いに歓喜す。前に頭面を地に着けて。仏に礼を作して去る。
釈:仏がこの経を説き終わると、老母および阿難、菩薩たち、比丘僧たち、さらに天人、鬼神、阿修羅(アシュラ)は皆非常に歓喜した。皆頭面を地に着けて世尊に礼拝し、信受奉行を表して去った。こうしてこの法会は終了した。