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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年09月17日 閲覧数: 5003

第六節  因縁法と縁生法

(二九六)因縁法と縁生法

原文:尔时。世尊告诸比丘。我今当说因缘法。及缘生法。云何为因缘法。谓此有故彼有。谓缘无明行。缘行识。乃至如是如是。纯大苦聚集。

解釈:世尊は多くの比丘たちに告げて言われた:私は今、因縁法と縁生法を説くべきである。因縁法とは何か。それは「此れ有るが故に彼れ有り」、すなわち無明に縁って身口意行があり、身口意行に縁って六識の業種があり、六識の業種に縁って名色があり、名色に縁って六入があり、六入に縁って触があり、触に縁って受があり、受に縁って愛があり、愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に縁って老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があり、乃至このような純大苦聚が集まるのである。

原文:云何缘生法。谓无明行。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。彼如来自所觉知。成等正觉。为人演说。开示显发。谓缘无明有行。乃至缘生有老死。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。

解釈:縁生法とは何か。縁生法とは、無明を縁として身口意行があり、身口意行を縁として六識の業種があり、六識の業種を縁として名色があり、名色を縁として六入があり、六入を縁として触があり、触を縁として受があり、受を縁として愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有があり、有を縁として生があり、生を縁として老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があるということである。仏が出現しようと出現しなかろうと、これらの理法は世間に常住し、この法は本来の法界の中に住している。

この法に依って修行して成就した如来は、みな自ら覚り、自ら証して等正覚となり、その後あちこちで人のために演説し、縁生法を開示し顕発した。すなわち、無明に縁って行があり、行に縁って六識の業種があり、乃至生に縁って老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があり、そしてこのような純大苦聚があるのである。仏が出現しようと出現しなかろうと、この理法は常に世間に存し、縁生法は法界に常住している。

因縁法は実相法ではなく、生滅する仮法であり、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) から来るものである。阿頼耶識 (Ālayavijñāna) がなければ因縁法もなく、生死もなく、純大苦聚もない。十二因縁法が明らかにする真理は世間の真理にすぎず、出世間の究竟の真理ではない。この真理は一種の仮の姿であり、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) という理のみが最も真実に存在するものであり、一切の法はすべて阿頼耶識 (Ālayavijñāna) に依って有り、世俗相を有する法はすべて仮法である。仏が説いた四聖諦も真理であるが、この真理は一種の表相の真理であり、究竟の真理は阿頼耶識 (Ālayavijñāna) 如来蔵 (tathāgatagarbha) である。阿頼耶識 (Ālayavijñāna) がなければ四聖諦もなく、十二因縁もない。この二者は真理とも呼ばれるが、世俗法上の真理にすぎず、まだ究竟ではない。

原文:彼如来自觉知。成等正觉。为人演说。开示显发。谓缘生故。有老病死忧悲恼苦。此等诸法。法住法空。法如法尔。法不离如。法不异如。审谛真实。不颠倒。如是随顺缘起。是名缘生法。

解釈:この法に依って修行して成就した如来は、みな自ら覚り、自ら証して等正覚となり、その後あちこちで人のために演説し、縁生法を開示し顕発した。すなわち、生という現象に縁って老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があるのである。これらの縁生法は、常に世間に住しているが、それにもかかわらず、これらの法はすべて空であり、本来このようであって、理はまさにこのようである。これらの法はすべて真如を離れずに有り、真如と異ならず、よくよく審らかに観察すればすべて真実の理であり、顛倒ではない。このように縁起に随順して生じる法を、縁生法と名付ける。

原文:谓无明行识。名色六入处。触受爱取有。生老病死忧悲恼苦。是名缘生法。

解釈:具体的に言えば、無明を縁として身口意行が生じ、身口意行を縁として六識の業種が生じ、六識の業種を縁として名色が生じ、名色を縁として六入が生じ、六入を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) が生じる。これが縁生法である。

四聖諦、十二因縁、無明、生老病死といったこれらの世間の縁生法は、みな世間の中に常住しているが、しかしこれらの法はすべて相の上では有り、実質的にはなく、空である。すべて第八識が変現したものであり、すべて第八識でもある。これが「法如」の意味である。第八識とも異ならず、第八識から来て、第八識の属性を帯びている。これを「不異如」と呼ぶ。これらの理は本来このようである。これを「法爾」と呼ぶ。すべての五陰 (pañca-skandha) の法、六根の法、六塵の法、六識の法、四聖諦の法、十二因縁の法は、いずれも真如を離れず、真如のみが真実であり、その他の法はすべて真如に随同して出生するものである。それゆえ、仮の生滅無常の法である。ここで仏は明らかに説かれている。縁生法は真如を離れず、第八識を離れないと。

原文:多闻圣弟子于此因缘法。缘生法。正知善见。不求前际。言我过去世。若有若无。我过去世何等类。我过去世何如。不求后际。我于当来世。为有为无。云何类何如。内不犹豫。此是何等。云何有此为前。谁终当云何之。此众生从何来。于此没当何之。

解釈:多聞の聖弟子は、この因縁法・縁生法に対して正知正見を有し、前世を貪り求めない。「私の過去世は有るようでもあり無いようでもあり、私の過去世はどんな種類の衆生であったか、私の過去世は何をしていたのか、どんな身分であったのか」と言わない。また後世を貪り求めない。「私の未来世は有るのか無いのか、どんな種類の衆生なのか、どんな生活を送るのか」と言わない。多聞の聖弟子は、内心里にこのような疑問も抱かない。「これは何等の衆生なのか、なぜ先にこのような身分があったのか、最終的にどんな衆生になるのか、この衆生はどこから来たのか、この世間で死んだ後どこへ行くのか」と。

寂静解脱を求める修行者は、前世がどんな身分であったかを考えず、後世がどうなるかをも求めない。前世に対する考えはすべてなくなり、未来世に対する妄想もすべてなくなり、ただ今この一生で苦を滅して解脱を得ることを求めるのみである。もし未来世にどうこうしようとまだ考えているなら、それは解脱を求める者ではない。しかし菩薩道を行ずる行者は、未来世にどう修行し、どう衆生を救い脱らせ、どう仏道を成就するかを考えなければならない。それゆえ、解脱を求める阿羅漢の解脱には五蘊の色がなく、大乗菩薩の心解脱には必ず五蘊の色がなければならない。

原文:若沙门婆罗门。起凡俗见所系。谓说我见所系。说众生见所系。说寿命见所系。忌讳吉庆见所系。尔时悉断悉知。断其根本。如截多罗树头。于未来世。成不生法。是名多闻圣弟子。于因缘法缘生法。如实正知。善见善觉。善修善入。

解釈:もし沙門・婆羅門が、以前に自ら起こした世間の凡夫俗人の知見に繋縛されていたなら、すなわち我見 (satkāya-dṛṣṭi) に繋縛され、衆生見に繋縛され、寿者見に繋縛され、世間の種々の如理に非ざる忌諱と吉慶の知見に繋縛されていたなら、因縁法を証得したとき、これらの知見はすべて断除される。我見 (satkāya-dṛṣṭi) と我所見の根本を断除し、多羅樹の樹頭を切り截るように、これらの如理に非ざる知見が未来世に二度と生起しないようにする。このように多聞の聖弟子は、因縁法と縁生法に対して如実に正しく了知し、その真実の理をよく見ることができ、真実の理をよく覚ることができ、よく修道し、よく入道することができる。

(二九七)大空法経

原文:尔时。世尊告诸比丘。我当为汝等说法。初中后善。善义善味。纯一清净。梵行清白。所谓大空法经。谛听。善思。当为汝说。云何为大空法经。所谓此有故彼有。此起故彼起。谓缘无明行。缘行识。乃至纯大苦聚集。

解釈:世尊は多くの比丘たちに告げて言われた:私はあなたがたのために法を説くべきである。私の説く法は、初めも善く、中間も善く、最後も善く、その義が善いだけでなく法味も善く、純正清浄 (viśuddha/pariśuddha) で、梵行清白無染を具えている。この法を大空法経と名付ける。あなたがたはよく聞き、よく思惟しなさい。今からあなたがたに説こう。大空法経とは何か。大空法経とは、この法が有るが故に彼の法が有り、この法が生起するが故に彼の法もそれに伴って生起するということを説くものである。すなわち、無明に縁って行があり、行に縁って六識の業種があり、六識の業種に縁って名色があり、名色に縁って六入があり、六入に縁って触があり、触に縁って受があり、受に縁って愛があり、愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に縁って老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があり、純大苦聚が集まるまでのことである。

原文:缘生老死者。若有问言。彼谁老死。老死属谁。彼则答言。我即老死。今老死属我。老死是我。所言命即是身。或言命异身异。此则一义。而说有种种。若见言命即是身。彼梵行者所无有。若复见言。命异身异。梵行者所无有。

解釈:生に縁って老死があるという問題について、もし誰かが「誰が老死を有するのか、老死は誰のものなのか」と問うなら、あなたがたはこう答えなさい:私こそが老死であり、今、老死は私のものであり、老死は私である、と。生命は色身であると言う人もいれば、生命が変異して色身がなくなれば変異してなくなると言う人もいる。これらの説はいずれも一つの意味でありながら、多くの説き方が現れるのである。もし生命は色身であると言うなら、しかし梵行を修する者は最後には生老病死がなく色身もなくなってしまう。もし生命が変異すれば色身も変異すると言うなら、しかし梵行を修する者は最後には生老病死がなく、生命と色身の変異もなくなってしまう。

原文:于此二边。心所不随。正向中道。贤圣出世。如实不颠倒正见。谓缘生老死。如是生有取爱。受触六入处。名色识行。缘无明故有行。

解釈:生命と色身の有無という両辺の説を離れ、心がそれに随って動転しなければ、はじめて一心に中道涅槃に正しく向かうことができる。賢聖が出世した後は、これらの現象に対して如実の正見を有し、顛倒せずに十二因縁を説く。すなわち、生に縁ってはじめて老死があり、有に縁ってはじめて生があり、取に縁ってはじめて有があり、愛に縁ってはじめて取があり、受に縁ってはじめて愛があり、触に縁ってはじめて受があり、六入に縁ってはじめて触があり、名色があってはじめて六入があり、六識に縁ってはじめて名色があり、行に縁ってはじめて六識の業種があり、無明に縁ってはじめて行があるのである。

原文:若复问言。谁是行。行属谁。彼则答言。行则是我。行是我所。彼如是言命即是身。或言命异身异。彼见命即是身者。梵行者无有。或言命异身异者。梵行者亦无有。离此二边。正向中道。贤圣出世。如实不颠倒。正见所知。所谓缘无明行。

解釈:もし誰かがさらに問うて言うなら:誰が行なのか。行は誰のものなのか。あなたがたはこう答えるべきである:行は私であり、行は私のものである、と。もし誰かが生命は色身であると言ったり、生命が変異すれば色身も変異すると言ったりするなら、あなたがたの見るところでは生命は色身であるが、しかし梵行を修する者には生命も色身もなく、生老病死もない。あるいは誰かが生命が変異すれば色身も変異すると言うなら、しかし梵行を修する者には生命と色身の変異現象がなく、生老病死もない。

生命と色身の有無変異という知見を離れ、いかなる一辺にも執着しなければ、はじめて中道涅槃に正しく向かうことができる。賢聖が出世した後は、如実にして顛倒しない見地を有し、正知正見を具足し、無明に縁ってはじめて行があり、行に縁ってはじめて六識の業種があり、乃至生に縁ってはじめて老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) の純大苦聚があることを知るのである。

原文:诸比丘。若无明离欲而生明。彼谁老死。老死属谁者。老死则断。则知断其根本。如截多罗树头。于未来世成不生法。若比丘无明离欲而生明。彼谁生。生属谁。乃至谁是行。行属谁者。行则断。则知断其根本。如截多罗树头。于未来世成不生法。

解釈:多くの比丘たちよ、もし貪欲を離れて無明を滅し尽くし、明を生起させたなら、誰がまだ老死を有するのか、老死は誰のものなのかという問題については、老死が断じ尽くされれば老死はなく、老死は誰のものでもなくなることを知る。このように生死は根本から断じ尽くされ、多羅樹の樹頭を切り截るように、未来世に二度と出生することがなくなる。もし比丘が貪欲を離れて無明を滅し尽くし、明を生起させたなら、誰がまだ生を有するのか、生は誰のものなのか、乃至誰がまだ行を有するのか、行は誰のものなのかという問題については、生乃至行がすべて断じ尽くされ、生死は根本から断じ尽くされたことを知る。多羅樹の樹頭を切り截るように、未来世に二度と出生することがなくなる。

原文:若比丘无明离欲而生明。彼无明灭则行灭。乃至纯大苦聚灭。是名大空法经。

解釈:もし比丘たちが貪欲を離れて無明を断じ尽くし、明を生起させたなら、無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば六識の種子が滅し、六識の種子が滅すれば名色が滅し、名色が滅すれば六入が滅し、六入が滅すれば触が滅し、触が滅すれば受が滅し、受が滅すれば愛が滅し、愛が滅すれば取が滅し、取が滅すれば有が滅し、有が滅すれば生が滅し、生が滅すれば老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) が滅し、乃至純大苦聚が滅する。これを大空法経と名付ける。

(二九八)縁起法

原文:尔时。世尊告诸比丘。我今当说缘起法。法说义说。谛听。善思。当为汝说。云何缘起法法说。谓此有故彼有。此起故彼起。谓缘无明行。乃至纯大苦聚集。是名缘起法法说。

解釈:世尊は多くの比丘たちに告げて言われた:私は今、縁起法を説くべきである。法説と義説の二種がある。あなたがたはよく聞き、よく思惟しなさい。今からあなたがたに、縁起法の法説とは何かを説こう。縁起法の法説とは、いわゆる「此れ有るが故に彼れ有り、此れ起こるが故に彼れ起こる」であり、無明に縁って行が生じ、行に縁って六識の種子が生じ、乃至生に縁って老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) の純大苦聚があるまでのことである。これを縁起法の法説と名付ける。

原文:云何义说。谓缘无明行者。彼云何无明。若不知前际。不知后际。不知前后际。不知于内。不知于外。不知内外。不知业。不知报。不知业报。不知佛。不知法。不知僧。

解釈:縁起法の義説とは何か。無明に縁って行が生じたということである。無明とは何か。もし衆生が前世があることを知らず、後世があることを知らず、前世と後世を知らない。内法があることを知らず、外法があることを知らず、内外の法を知らない。業行を知らず、果報を知らず、業果報を知らない。仏を知らず、法を知らず、僧を知らない。

原文:不知苦。不知集。不知灭。不知道。不知因。不知因所起法。不知善不善。有罪无罪。习不习。若劣若胜。染污清净。分别缘起。皆悉不知。于六触入处。不如实觉知。于彼彼不知不见。无无间等。痴闇无明大冥。是名无明。

解釈:五陰 (pañca-skandha) の苦を知らず、五陰 (pañca-skandha) の苦の集起を知らず、五陰 (pañca-skandha) の苦をどう滅除するかを知らず、苦を滅する修行の道を知らない。法が生起する因を知らず、因によって生起する法を知らない。善法と不善法を知らず、有罪と無罪を知らず、習気と非習気を知らない。劣か勝かを知らず、染汚か清浄 (viśuddha/pariśuddha) かを知らず、分別か縁起かを知らず、これらの法をすべて知らない。六触入処 (ṣaḍāyatana) に対しても如実に覚知することができず、これらの法に対してすべて知らず見ない。内心里に間断なき愚痴の黑暗と無明の大幽暗がある。これを無明と名付ける。

原文:缘无明行者。云何为行。行有三种。身行口行意行。缘行识者。云何为识。谓六识身。眼识身耳识身。鼻识身舌识身。身识身意识身。缘识名色者。云何名。谓四无色阴。受阴想阴。行阴识阴。云何色。谓四大。四大所造色。是名为色。此色及前所说名。是为名色。

解釈:無明に縁って行がある。行とは何か。行には三種ある:身行、口行、意行である。行に縁って識の業種がある。識とは何か。六識身である:眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、身識身、意識身である。識の種子に縁って名色がある。名とは何か。名とは四つの無色陰である:受陰、想陰、行陰、識陰である。色とは何か。四大と四大が造る色であり、これを色と名付ける。この色と前に説いた名とを合わせて名色と呼ぶ。

身行・口行・意行の三種の行は、すべて意根の心行によって掌控されている。意根が無明のゆえに身口意行を造作しようと欲して、はじめて六識が出生し、六識が出生した後に初めて実際の身行・口行・意行があり、業種が残される。もし六識がなければ、身口意行はなく、業種もない。たとえば眠って六識がなければ身口意行はなく、昏倒して六識が消滅すれば身口意行はなく、無想定や滅尽定のように六識がなければ身口意行はない。それゆえ、先に意根の心行があって、はじめて六識と六識の身口意行があり、業種があり、後世の名色がはじめて出生するのである。

原文:缘名色六入处者。云何为六入处。谓六内入处。眼入处。耳入处。鼻入处。舌入处。身入处。意入处。缘六入处触者。云何为触。谓六触身。眼触身。耳触身。鼻触身。舌触身。身触身。意触身。

缘触受者。云何为受。谓三受。苦受乐受。不苦不乐受。缘受爱者。彼云何为爱。谓三爱。欲爱色爱。无色爱。缘爱取者。云何为取。四取。欲取见取。戒取我取。缘取有者。云何为有。三有。欲有色有。无色有。

解釈:名色に縁って六入処 (ṣaḍāyatana) がある。六入処 (ṣaḍāyatana) とは何か。六つの内入処である:眼入処、耳入処、鼻入処、舌入処、身入処、意入処である。六入処 (ṣaḍāyatana) に縁って触がある。触とは何か。六触身である:眼触身、耳触身、鼻触身、舌触身、身触身、意触身である。触に縁って受がある。受とは何か。三種の受である:苦受、楽受、不苦不楽受(捨受 (upekṣā-vedanā))である。受に縁って愛がある。愛とは何か。三種の愛である:欲界愛、色界愛、無色界愛である。愛に縁って取がある。取とは何か。四種の取である:貪欲取、我見取、禁戒取、我語取である。取に縁って有がある。有とは何か。三有である:欲界有、色界有、無色界有である。

原文:缘有生者。云何为生。若彼彼众生。彼彼身种类一生。超越和合出生。得阴得界。得入处得命根。是名为生。

缘生老死者。云何为老。若发白露顶。皮缓根熟。支弱背偻。垂头呻吟。短气前输。柱杖而行。身体黧黑。四体班驳。闇钝垂熟。造行艰难羸劣。是名为老。云何为死。彼彼众生。彼彼种类没。迁移身坏。寿尽火离。命灭舍阴时到。是名为死。此死及前说老。是名老死。是名缘起义说。

解釈:有に縁って生がある。生とは何か。生とは、一つ一つの衆生が、種々の色身の種類の一生の生命を有し、出生した後に五陰 (pañca-skandha) があり十八界があり、六入処 (ṣaḍāyatana) があり、命根がある。これを生と名付ける。

生に縁って老死がある。老とは何か。もし髪が白くなり頭頂が禿げ上がり、皮膚の代謝が緩慢になって皺が寄り、五根がすでに熟し尽くして更新されなくなり、四肢の力が弱まり、腰が曲がり背が丸まり、頭を垂れて呻吟が止まず、呼吸のたびに息が短く吸えばすぐに吐き、歩くのに杖を頼りとし、身体がますます黒くなり、色が雑で純粋でなく、陰暗で鈍重になり、動作が困難で無力である。これらの現象があるのが老である。死とは何か。一つ一つの衆生が、一つ一つの種類の中に没し、身が壊れて他の種類の衆生の中へ移り、寿命が尽き、生命の火が熄まり、生命が滅し、五陰 (pañca-skandha) を捨離すべき時が到来する。これが死である。死と前に説いた老とが和合して、老死と名付ける。これらの内容が縁起法の義説である。

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