阿含経十二因縁釈
第六節 縁起法と縁生法
(二九六)縁起法と縁生法
原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。我今、因縁法及び縁生法を説かん。いかなるを因縁法というや。これ有るが故に彼れ有るという。無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至かくの如くかくの如くにして、純大苦聚を集ず。
釈:世尊は諸比丘に告げられた。我今まさに因縁法と縁生法とを説くべきである。何が因縁法か。それはこれ有るが故に彼れ有る、すなわち無明を縁として身口意の行あり、身口意の行を縁として六識の業種あり、六識の業種を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として触あり、触を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩あり、乃々至ってかくの如き純大苦聚を集ずるなり。
原文:いかなるを縁生法というや。無明行なり。仏の出世するも、未だ出世せざるも、この法は常住なり。法は法界に住す。彼の如来は自ら覚知し、等正覚を成じ、人の為に演説し、開示顕発す。無明を縁として行有る、乃至生を縁として老死有るなりと。仏の出世するも、未だ出世せざるも、この法は常住なり。法は法界に住す。
釈:何が縁生法か。縁生法とは、無明を縁として身口意の行あり、身口意の行を縁として六識の業種あり、六識の業種を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として触あり、触を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩ありと説かれるものである。仏が出世しようと出世しまいと、これらの理法は世間に常住し、この法は本来の法界の中に住している。
それらのこの法に依って修行成就した如来は、皆自ら覚り、自ら証して等正覚となり、その後処々で人々に演説し、開示と顕発とをなすのである。すなわち無明を縁として行あり、行を縁として六識の業種あり、乃至生を縁として老死憂悲苦悩あり、及びかくの如き純大苦聚なりと説くのである。仏が出世するあるいは出世しないにかかわらず、この理法は世間に常存し、縁生法は法界に常住する。
因縁法は実相の法ではなく、生滅の仮の法であり、阿頼耶識より来る。阿頼耶識がなければ因縁法はなく、生死もなく、純大苦聚もない。十二因縁法の示す真理は世間の真理に過ぎず、出世間の究竟なる真理ではない。このような真理は仮象に過ぎず、ただ阿頼耶識という理が最も真実に存在する。一切の法は阿頼耶識に依って有り、世俗相の法は皆仮の法である。仏の説く四聖諦もまた真理であるが、この真理は表相の真理であり、究竟の真理は阿頼耶識如来蔵である。阿頼耶識がなければ四聖諦もなく、十二因縁もない。これら二者も真理と呼ばれるが、ただ世俗法上の真理に過ぎず、まだ究竟ではない。
原文:彼の如来は自ら覚知し、等正覚を成じ、人の為に演説し、開示顕発す。生を縁とするが故に、老死憂悲苦悩有る。此等の諸法は、法は法に住し、法は空なり。法は法の如く、法は法爾なり。法は如より離れず、法は如に異ならず。審らかに諦らかにして真実、顛倒せず。かくの如くに縁起に随順する。これを縁生法と名づく。
釈:それらのこの法に依って修行成就した如来は、皆自ら覚り、自ら証して等正覚となり、その後処々で人々に演説し、開示と顕発とをなすのである。すなわち生という現象を縁として老死憂悲苦悩がある。これらの縁生法は世に常住する。しかしながら、これらの法もまた皆空であり、本来かくの如くであり、理既に是の如し。これらの法もまた真如より離れず、真如に異ならず、仔細に審らかにすれば皆真実の理であり、顛倒ではない。かくの如くに縁に随って生起する法が、すなわち縁生法である。
原文:無明、行、識、名色、六入処、触、受、愛、取、有、生、老死、憂悲苦悩。これを縁生法と名づく。
釈:具体的には無明を縁として身口意の行が生じ、身口意の行を縁として六識の業種が生じ、六識の業種を縁として名色が生じ、名色を縁として六入が生じ、六入を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲苦悩が生じる。これが縁生法である。
四聖諦、十二因縁、無明、生老病死などの世間の縁生法は世間に常住しているが、これらの法は相の上では有るが、実質的には無く、空である。これらは皆第八識の変現したものであり、また皆第八識そのものである。これが法如の意味である。第八識にも異ならず、第八識より来たり、第八識の属性を帯びる。これを不異如という。これらの理は本来かくの如くである。これを法爾という。すべての五陰法、六根法、六塵法、六識法、四聖諦法、十二因縁法は、皆真如より離れず、ただ真如のみが真実である。他の法は皆真如に随って出生したものであるから、仮の生滅無常のものである。ここに仏は明らかに説かれている。縁生法は真如より離れず、第八識より離れない。
原文:多聞の聖弟子は此の因縁法、縁生法に対し、正しく知り善く見て、前際を求めず。我は過去世に有りや無しや、我は過去世に何れの類ぞ、我は過去世に如何なるや、と言わず。後際を求めず。我は当来世に有るか無きか、如何なる類ぞ如何なるや、と言わず。内に猶豫せず。これは何等ぞ、如何にして此れ有る、前に誰ぞ終に当に如何なるや、この衆生は何れより来るか、此れに於て没して当に何れにか之く、と言わず。
釈:多聞の聖弟子は此の因縁法、縁生法に対し正知正見を具え、前世を貪らず、我は過去世には有ったようだ、無かったようだ、我は過去世には何の類の衆生であったか、我は過去世には何をしていたか、何の身分であったか、と言わない。また後世を貪求せず、我の未来世は有るか、無いか、何の類の衆生か、生活は如何に如何に、と言わない。多聞の聖弟子は内心にも此の類の疑問を懐かず、これは何等の衆生か、何故前に此のような身分があったか、最終的に如何なる衆生となるか、この衆生は何れの処所より来たか、此の世間で死んだ後は何処へ行くか、と言わない。
寂静解脱を求める修行者は、前世が何の身分であったかを考えず、また後世が如何なるかを求めない。前世に対する考えは全て無くなり、未来世に対する妄想も皆無くなる。ただ今生において苦を滅して解脱を得んことを求める。もし彼がなお未来世に如何に如何にせんことを思うならば、それは解脱を求める者ではない。しかし菩薩道を行ずる行者は、未来世に如何に修行し、如何に衆生を救い解脱せしめ、如何に仏道を成就すべきかを考慮する。故に解脱を求める阿羅漢の解脱には五蘊色は無いが、大乗菩薩の心解脱には必ず五蘊色がなければならない。
原文:もし沙門婆羅門が凡俗見に起りて所系せらるるもの、謂わく我見に所系せられ、衆生見に所系せられ、寿命見に所系せられ、忌諱吉慶見に所系せらるる者あらば、其の時に悉く断じ悉く知る。其の根本を断つこと、多羅樹の頭を截つが如し。未来世に於て生ぜざる法と成る。是れを多聞の聖弟子、因縁法縁生法に於て、如実に正知し、善見し善覚し、善修し善入するものと名づく。
釈:もし沙門婆羅門が以前、自ら起こした世間の凡夫俗人の知見に束縛されていたならば、すなわち我見に束縛され、衆生見に束縛され、寿者見に束縛され、世間の種々なる不如理な忌諱や吉慶の知見に束縛されていたならば、因縁法を証得した時、これらの知見は悉く断除される。我見・我所見の根本を断除し、多羅樹の樹頭を截断するが如く、これらの不如理な知見を未来世に再び生起せしめない。かくして多聞の聖弟子は因縁法と縁生法に対し如実に正しく了知し、かつ善く其の真実理を見、善く真実理を覚悟し、善く道を修め、善く道に入ることができる。
(二九七)大空法経
原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。我まさに汝等の為に法を説かん。初中後善く、善義善味、純一清浄、梵行清白なる、所謂大空法経なり。諦聴せよ。善く思え。まさに汝等の為に説かん。いかなるを大空法経というや。所謂これ有るが故に彼れ有り、これ起るが故に彼れ起る。無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至純大苦聚を集ず。是れを大空法経と名づく。
釈:世尊は諸比丘たちに告げられた。我まさに汝らの為に法を説くべきである。我の説く法は最初善く、中間も善く、最後も善し。其の義善きのみならず、法味も善く、純正清浄、梵行を具し清白無染なり。この法を大空法経と名づく。汝ら仔細に聴き善く思惟せよ。我今まさに汝らの為に説かん。
何が大空法経か。大空法経とは、此法有るが故に彼法有り、此法生起するが故に彼法も亦生起する、と説くものである。すなわち無明を縁として行有り、行を縁として六識の業種有り、六識の業種を縁として名色有り、名色を縁として六入有り、六入を縁として触有り、触を縁として受有り、受を縁として愛有り、愛を縁として取有り、取を縁として有有り、有を縁として生有り、生を縁として老病死憂悲苦悩有り、乃々至って純大苦聚を集ずる、と説くものである。
原文:生老死を縁ずる者。もし問うて言わく、彼れ誰が老死するや、老死は誰に属するや。彼れ則ち答えて言わく、我即ち老死なり、今老死は我に属す、老死は我なり。言う所の命は即ち身なり、或いは命は身に異なりと言う。此れは則ち一義にして、而も種種有りと言う。もし命は即ち身なりと見る言は、彼の梵行者には有ること無し。若し復た見て言わく、命は身に異なりと、梵行者には有ること無し。
釈:生を縁として老死有るという問題について、もし誰が老死するか、老死は誰に属するかと問うならば、汝らは答えて言え、我は即ち老死なり、今老死は我に属す、老死は我なりと。或る者は生命は即ち色身なりと言い、或いは生命は変異して無くなれば色身も変異して無くなる、と言う。これらの説は一つの意味であるが、却って多くの説が現れる。もし生命は即ち色身なりと言う者がいても、それらの梵行者(修行者)は最後には生老病死無く色身も無くなる。もし生命は変異すれば色身も変異する、と言う者がいても、それらの梵行者は最後には生老病死無く、生命と色身の変異も無い。
原文:此の二辺に於て、心の随わざる所、正しく中道に向う。賢聖出世して、如実に顛倒せず正見す。生老死を縁ずるなりと謂う。かくの如く生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、識、行あり。無明を縁として行有るなり。
釈:生命と色身の有無に関する両辺の説を離れ、心之に従って動転せず、初めて一心に中道涅槃に向かうことができる。賢聖が出世した後、これらの現象に対し如実正見を有し、十二因縁を顛倒せずに説く。所謂生を縁として初めて老死有り、有を縁として生有り、取を縁として有有り、愛を縁として取有り、受を縁として愛有り、触を縁として受有り、六入を縁として触有り、名色によって六入有り、六識を縁として名色有り、行を縁として六識の業種有り、無明を縁として行有る。
原文:若し復た問うて言わく、誰が行ぞ、行は誰に属するや。彼れ則ち答えて言わく、行は則ち我なり、行は我が所有なり。彼れかくの如く命は即ち身なりと言い、或いは命は身に異なりと言う。彼れ命は即ち身なりと見るは、梵行者には有ること無し。或いは命は身に異なりと言うは、梵行者にも亦た有ること無し。此の二辺を離れ、正しく中道に向う。賢聖出世して、如実に顛倒せず。正見の知る所、所謂無明を縁として行あり。
釈:もし更に誰が行か、行は誰に属するかと問うならば、汝らは答えて言うべきである、行は即ち我なり、行は我が所有なりと。もし或る者がかくの如く生命は即ち色身なりと言い、或いは生命は変異すれば色身も変異する、と言うならば、汝らの見る生命は即ち色身であるが、梵行者には生命も色身も無く、生老病死も無い。或いは生命は変異すれば色身も変異する、と言う者がいても、梵行者には生命と色身の変異現象も無く、生老病死も無い。
生命と色身の有無変異の知見を離れ、何れの辺にも着することなく、初めて正しく中道涅槃に向かうことができる。賢聖が出世した後、如実に顛倒せざる見地を有し、正知正見を具足し、無明を縁として行有り、行を縁として六識の業種有り、乃至生を縁として老病死憂悲苦悩有り、純大苦聚を集ずることを知る。
原文:諸比丘よ、もし無明離欲して明を生ずれば、彼れ誰が老死するや、老死は誰に属するやという者は、老死は則ち断ぜられ、則ち其の根本を断つことを知る。多羅樹の頭を截つが如し。未来世に於て生ぜざる法と成る。もし比丘、無明離欲して明を生ずれば、彼れ誰が生ずるや、生は誰に属するや、乃至誰が行ぞ、行は誰に属するやという者は、行は則ち断ぜられ、則ち其の根本を断つことを知る。多羅樹の頭を截つが如し。未来世に於て生ぜざる法と成る。
釈:諸比丘たちよ、もし貪欲を離れ無明を滅尽して明が生じたならば、誰が老死するか、老死は誰に属するかという問題に対し、老死が断尽し、老死は誰にも属さないことを知る。かくして生死は根本から断尽し、多羅樹の樹頭を截断するが如く、未来世に再び出生することはない。もし比丘が貪欲を離れ無明を滅尽して明が生じたならば、誰が生ずるか、生は誰に属するか、乃至誰が行か、行は誰に属するかという問題に対し、生乃至行が断尽したことを知る。生死は根本から断尽し、多羅樹の樹頭を截断するが如く、未来世に再び出生することはない。
原文:もし比丘、無明離欲して明を生ずれば、彼の無明滅すれば則ち行滅し、乃至純大苦聚滅す。是れを大空法経と名づく。
釈:もし比丘たちが離欲し無明を断尽して明が生じたならば、無明が滅すれば行も滅し、行が滅すれば六識の種子も滅し、六識の種子が滅すれば名色も滅し、名色が滅すれば六入も滅し、六入が滅すれば触も滅し、触が滅すれば受も滅し、受が滅すれば愛も滅し、愛が滅すれば取も滅し、取が滅すれば有も滅し、有が滅すれば生も滅し、生が滅すれば老病死憂悲苦悩も滅し、乃々至って純大苦聚も滅する。これを大空法経と名づく。
(二九八)縁起法
原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。我今まさに縁起法を説かん。法説と義説とあり。諦聴せよ。善く思え。まさに汝等の為に説かん。いかなるを縁起法の法説というや。これ有るが故に彼れ有り、これ起るが故に彼れ起る。無明を縁として行あり、乃至純大苦聚を集ず。是れを縁起法の法説と名づく。
釈:世尊は諸比丘たちに告げられた。我今まさに縁起法を説く。法説と義説の二種あり。汝ら仔細に聴き善く思惟せよ。今我汝らの為に説かん。何が縁起法の法説か。縁起法の法説とは所謂此有故彼有、此起故彼起、すなわち無明を縁として行が生じ、行を縁として六識の種子が生じ、乃至生を縁として老病死憂悲苦悩純大苦聚が有るに至る。これが縁起法の法説である。
原文:いかなるを義説というや。無明を縁として行ありという。彼れいかなるを無明というや。もし前際を知らず、後際を知らず、前後際を知らず、内を知らず、外を知らず、内外を知らず、業を知らず、報を知らず、業報を知らず、仏を知らず、法を知らず、僧を知らず。
釈:何が縁起法の義説か。無明を縁として行が生ずる。何が無明か。もし衆生が前世の有ることを知らず、後世の有ることを知らず、前世と後世とを知らず。内法の有ることを知らず、外法の有ることを知らず、内外法の有ることを知らず。業行を知らず、果報を知らず、業果報を知らず。仏を知らず、法を知らず、僧を知らず。
原文:苦を知らず、集を知らず、滅を知らず、道を知らず、因を知らず、因の起こす所の法を知らず、善不善を知らず、罪有り罪無しを知らず、習不習を知らず、劣なるか勝れるかを知らず、染汚清浄を知らず、分別縁起を知らず、皆悉く知らず。六触入処に於て、如実に覚知せず。彼の彼れを知らず見ず。無間等無く、痴闇無明大冥なり。是れを無明と名づく。
釈:五陰苦を知らず、五陰苦の集起を知らず、如何に五陰苦を滅除すべきかを知らず、苦を滅する道を知らず。法の生起する因を知らず、因より生起する法を知らず。善法と不善法を知らず、罪有りと無しとを知らず、習気と非習気とを知らず。劣なるか勝れるかを知らず、染汚か清浄かを知らず、分別か縁起かを知らず、これらの法を皆知らない。六触入処に対しても如実に覚知できず、これらの法を皆知らず見ない。内心に無間断の愚痴と黑暗と無明の大いなる幽暗がある。これを無明という。
原文:無明を縁として行ありという。いかなるを行というや。行に三種あり。身行、口行、意行なり。行を縁として識ありという。いかなるを識というや。六識身を謂う。眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、身識身、意識身なり。識を縁として名色ありという。いかなるを名というや。四無色陰を謂う。受陰、想陰、行陰、識陰なり。いかなるを色というや。四大及び四大の造る所の色を謂う。是れを色と名づく。此の色及び前に説きし名、是れを名色と為す。
釈:無明を縁として行有り。何を行というか。行に三種あり:身行、口行、意行。行を縁として識の業種有り。何を識というか。六識身:眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、身識身、意識身。識の種子を縁として名色有り。何を名というか。名は四つの無色陰:受陰、想陰、行陰、識陰。何を色というか。四大及び四大の造る所の色、これを色という。前の名と合わせて名色という。
身行、口行、意行の三種の行は皆、意根の心行によって掌握される。意根は無明の故に身口意の行を造作せんと欲し、六識が初めて出生する。六識が出生した後に初めて実際の身行、口行、意行が有り、業種を残す。もし六識が無ければ、身口意行も無く、業種も無い。例えば眠って六識が無ければ身口意行も無く、昏迷して六識が消失すれば身口意行も無い。無想定や滅尽定では六識が無いから身口意行も無い。故に先ず意根の心行有りて、初めて六識と六識の身口意行有り、業種有り、後世の名色が初めて出生する。
原文:名色を縁として六入処ありという。いかなるを六入処というや。六内入処を謂う。眼入処、耳入処、鼻入処、舌入処、身入処、意入処なり。六入処を縁として触ありという。いかなるを触というや。六触身を謂う。眼触身、耳触身、鼻触身、舌触身、身触身、意触身なり。
触を縁として受ありという。いかなるを受というや。三受を謂う。苦受、楽受、不苦不楽受なり。受を縁として愛ありという。彼れいかなるを愛というや。三愛を謂う。欲愛、色愛、無色愛なり。愛を縁として取ありという。いかなるを取というや。四取。欲取、見取、戒取、我取なり。取を縁として有ありという。いかなるを有というや。三有。欲有、色有、無色有なり。
釈:名色を縁として六入処有り。何を六入処というか。六つの内入処:眼入処、耳入処、鼻入処、舌入処、身入処、意入処。六入処を縁として触有り。何を触というか。六触身:眼触身、耳触身、鼻触身、舌触身、身触身、意触身。触を縁として受有り。何を受というか。三種の受:苦受、楽受、不苦不楽受。受を縁として愛有り。何を愛というか。三種の愛:欲界愛、色界愛、無色界愛。愛を縁として取有り。何を取というか。四種の取:貪欲取、我見取、禁戒取、我語取。取を縁として有有り。何を有というか。三有:欲界有、色界有、無色界有。
原文:有を縁として生ありという。いかなるを生というや。もし彼の彼の衆生、彼の彼の身の種類、一生を超越し和合出生し、陰を得、界を得、入処を得、命根を得。是れを生と名づく。
生を縁として老死ありという。いかなるを老というや。もし髪白く頂を露わし、皮緩やかに根熟し、支弱く背偻み、頭を垂れて呻吟し、気短く前輸し、杖を柱にして行き、身体黧黒(りこく)し、四体班駁(はんぱく)し、闇鈍垂熟し、行いを造るに艱難羸劣(るいれつ)なり。是れを老と名づく。いかなるを死というや。彼の彼の衆生、彼の彼の種類没し、遷移し身壊れ、寿尽き火離れ、命滅し陰を舎てんとする時至る。是れを死と名づく。此の死及び前に説く老、是れを老死と名づく。是れを縁起の義説と名づく。
釈:有を縁として生有り。何を生というか。生とは一個一個の衆生が、種々の色身種類の一生の生命として、出生した後に五陰有り、十八界有り、六入処有り、命根有り。これを生という。
生を縁として老死有り。何を老というか。老とは髪が白くなり、頭頂が禿げ、皮膚の代謝が遅くなり皺ができ、五根が熟して更新されず、四肢の力弱く、腰が曲がり背中が丸まり、頭を垂れて絶えず呻き、呼吸時に息切れし吸うそばから吐き出し、歩くには杖に頼り、身体がますます黒ずみ色が混じり純粋でなく、暗く鈍く、動作が困難で力無く、これらの現象があれば老である。何を死というか。一個一個の衆生が、一個一個の種類として消失し、身壊れ命終して他の種類の衆生の中に移り、寿命が尽き、生命の火が消え、生命が滅し、五陰を捨て去る時が来た、というのが死である。死と前に説いた老と合わせて老死という。これらの内容が縁起法の義説である。