阿含経十二因縁釈
第五章 陰持入経 上巻
原文:十二種とは何等か。求むること如く求むる等より生ず。痴を因縁として行有らしむ。行より識有らしむ。識より名字有らしむ。名字より六入有らしむ。六入より致(触)有らしむ。致より痛痒(受)有らしむ。痛痒より愛有らしむ。愛より受(取)有らしむ。受より後有有らしむ。有より生有らしむ。生より老死憂悲苦有らしむ。心に致し難き悩み。是の如く苦種を具足して、習を致す所以となる。
釈:十二種の因縁法とは何か。十二因縁法は世間法に対する一連の求取から生じる。意根の痴を因縁として身口意の行が生じ、身口意行の因縁によって六識の業種が生じ、六識業種の因縁によって名色が生じ、名色の因縁によって六入が生じ、六入の因縁によって触が生じ、触の因縁によって受が生じ、受の因縁によって愛が生じ、愛の因縁によって取が生じ、取の因縁によって有が生じ、有の因縁によって生が生じ、生の因縁によって老病死憂悲苦悩が生じ、一切の心に適わぬ事が絶え間ない内心の悩みを引き起こす。かくして生死の苦の業種が具足し、これらは全て触の習気によって造り出されたものである。
原文:痴が尽きれば即ち行尽き、行が尽きれば即ち識尽き、識が尽きれば即ち名字尽き、名字が尽きれば即ち六入尽き、六入が尽きれば即ち致(触)尽き、致が尽きれば即ち痛痒(受)尽き、痛痒が尽きれば即ち愛尽き、愛が尽きれば即ち受(取)尽き、受が尽きれば即ち有尽き、有が尽きれば即ち生尽き、生が尽きれば即ち老死尽き、老死が尽きれば憂悲苦の心に致し難き悩みも尽きる。是の如く苦種の具足も尽き果てる。
釈:もし意根の痴が断じ尽くされれば、行は尽きる。行が尽きれば六識の業種は尽きる。六識業種が尽きれば名色は滅尽する。名色が滅尽すれば六入は滅尽する。六入が滅尽すれば触は滅尽する。触が滅尽すれば受は滅尽する。受が滅尽すれば愛は滅尽する。愛が滅尽すれば取は滅尽する。取が滅尽すれば有は滅尽する。有が滅尽すれば生は滅尽し、生が滅尽すれば老病死憂悲苦悩は滅尽する。かくして衆生の具足する生死の苦の種子は滅尽するのである。
原文:彼の痴とは、四諦の存在を知らず、解せず、見ず、相応せず、受け入れず、出離を解せず、自他の根機利鈍を解さないことを名付けて痴という。彼の痴を因縁とする行とは何等か。六境に対する六種の受納である。何等を六というか。色声香味触法の六境である。これを身の六望受(六種の志向的受容)と名付け、これを行という。
釈:あの愚痴とは何を意味するのか。愚痴とは世間に四聖諦の理が存在することを知らず、四聖諦の教理を如実に理解できず、世間の四聖諦の理を見ず、出世間の解脱道に相応せず、四聖諦の真実の教理を受け入れることもできず、出離を理解せず、自他の根機の利鈍を理解しないことである。故に愚痴というのである。
愚痴の因縁によって生じる行とは何を指すのか。六塵に対する六種の受納である。六とは何か。色声香味触法の六塵である。これを色身の六つの志向する受(六望受)といい、これがいわゆる意根の行である。言い換えれば、意根が色声香味触法の領納と受容を志向することを指し、色身の六つの希望と趣向ともいい、また身口意の行ともいう。
原文:彼の行を因縁とする識は六身識(六識)である。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを六身識と名付ける。彼の識を因縁とする名字。字は色(色陰)を指し、名は四不色陰(受想行識)を指す。痛(受)・想・行・識、これが名である。色は四大種(地水火風)を本とす。上記の四陰が名であり、四大が色である。この二つが連なり合って名字(名色五陰)を成す。
釈:身口意行の因縁によって六識の種子が生じる。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識があり、これを六識身という。もし身口意行がなければ、六識の業種は残らない。六識業種の因縁によって後世の名字が生じる。字は色陰を指し、名は受想行識の四つの非色陰を指す。受想行識を名という。色身は地水火風の四大種子を根本とする。上記の四陰は名であり、四大は色である。名と色の二つが連なって名色五陰となる。
原文:彼の名字を因縁として、身の六入受(六入)が生じる。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを身六入受と名付ける。彼の六入を因縁として、身の六思望(六触)が生じる。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを身六思望と名付ける。彼の思望を因縁として、身の六痛(六受)が生じる。眼・耳・鼻・舌・身・心。これを身六痛と名付ける。彼の痛を因縁として、六身愛(六愛)が生じる。色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛。これを六身愛と名付ける。彼の愛を因縁として受(取)が生じ、四受(四取)となる。一に欲受(欲取)、二に見結受(見取)、三に戒願受(戒禁取)、四に身結行受(我語取)。これを四受と名付ける。
釈:名色を因縁として、色身上の六入、眼入・耳入・鼻入・舌入・身入・意入が生じる。これを身六入受という。六入を因縁として生じる触、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触を、色身上の六つの思念志向(六思望)という。六触を因縁として生じる六受、眼識受・耳識受・鼻識受・舌識受・身識受・意識受を身六受という。受を因縁として生じる六愛、色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛を六身愛という。愛を因縁として生じる取には四種ある。欲取・見取・戒禁取・我語取であり、これを四取という。
何故五陰身に六入受があるのか。色身に六入があるため、触塵のために用いられる。触塵の後には必ず受があるため、六入があれば受があり、これを六入受という。
何故六根が六塵に触れることを六思望というのか。この触は意根によって決択されるものであり、意根にこの決択があるのは、考え・希望・欲望・志向があるからである。そうでなければ六塵に触れることを決択せず、触がなければその後の受想行も生じない。触は極めて重要な段階であり、触の目的は了別弁別にあり、何かを造作し、何かを知ろうとすることである。これは意根が寂静ではなく、攀縁があり、法を相続して進行させたいと望んでいることを示す。意根にこれらの思想活動があるからこそ触を決定し、六根は六塵に触れるのであり、これは正に意根が主識として作用している現れである。
根塵が相触れて識を生じ、六識が出生した後は六塵に対して了別弁別を行い、その後六塵の微細な法を知る。六識が六塵を知ると、意根はそれに従って六塵の微細な処を知り、目的は次第に達成される。触という段階から、その者が修行があるか否か、心が静かであるか、内省的か外縁的か、求めるものがあるか否か、寂静で禅定があるかどうかを見て取ることができる。触の後には多くの是非が生じ、触れなければ是非はなく、心は寂静であり、六塵境に対して解脱している。逆であれば束縛がある。
原文:彼の受(取)を因縁として有が生じる。三有となる。一に欲界、二に色界、三に無色界。これを三有と名付ける。彼の有を因縁として生が生じる。上記の五陰・六根・六塵・六識である。既に三界の有があり、生があれば、生体が集起して六根を具足した後、三有中に堕する。これを生死と名付ける。何故生死というのか。生死は全ての人に存在するものであり、五陰身の生滅変異の過程を生死という。出生後の生命存続の期間を住といい、住後の毀壊を老といい、生命が既に謝滅し六根が閉塞して作用不能となることを死という。先に老があり、後に死がある。故に老死と名付ける。
釈:取を因縁として生じる有は、三界の有である。欲界有・色界有・無色界有であり、これを三有という。有を因縁として生じる生命体は、上記の五陰・六根・六塵・六識である。三界の有があり、更に生命体がある。生命体が集起して六根を具足した後、三有中に堕する。これを生死という。何故生死というのか。生死は全ての人に存在するものであり、五陰身の生滅変異の過程を生死という。出生して生命が存続する期間を住といい、住後に毀壊することを老といい、生命が既に謝滅し、六根が閉塞して作用しなくなることを死という。先に老があり、後に死がある。これを老死という。
原文:痴の相とは何等か。冥中に冥を見るが如し。如有(法)に解せず、これより行相の処に堕するに至らしめる。行の相とは何等か。後に再び有らしめることを令す。これが行の相である。上記より発起し、これより識の処に堕するに至らしめる。識の相とは何等か。物を識り事を識る。これが識の相である。これより名字の処に堕するに至らしめる。
釈:愚痴とはどのような相貌か。内心の頑冥によって、見えるものは全て暗黒で明らかでない。もし法に対して不如実に解すれば、法の行相の中に堕する。行とはどのような相貌か。後続を引き起こすことを令す(命令・指令)ことが行の相貌である。即ち行は命令や指令の如く、主宰・主導・決択の意味である。前に指令が行の処より発起し、後ろが指令に従って行の処より六識の処に落ち、六識を生起させて行の指令に従わせる。
六識とはどのような相貌か。六識は物を識別し、事理を識別するためのものであり、これが六識の相貌である。六識の身口意行によって、後世の名色の処に堕する。誰が後世の名色の処に堕するのか。意根と阿頼耶識であり、その後名色五陰身が出生する。
原文:名字の相とは何等か。俱猗(一切の依り所)である。これが名字の相である。これより六入の処に堕するに至らしめる。六入の相とは何等か。分別の根である。これが六入の相である。これより思望(触)の処に堕するに至らしめる。思望の相とは何等か。相会して更に生ずる(接触によって生じる)。これが思望の相である。これより痛(受)の処に堕するに至らしめる。痛の相とは何等か。更なる覚(感覚)である。これが痛の相である。これより愛の処に堕するに至らしめる。愛の相とは何等か。発生(引き起こすこと)である。これが愛の相である。これより受(取)の処に堕するに至らしめる。
釈:名色とはどのような相貌か。名色は一切法の依り所である。名色がなければ一切法は存在しない。名色があると、六入処の発生を引き起こす。六入とはどのような相貌か。六塵を分別するために存在する根である。これが六入の相貌である。六入処から触の中に堕入する。触とはどのような相貌か。塵と接触するために出生する法である。これが触の相貌である。触から受覚の中に堕入する。受とはどのような相貌か。覚(感覚)を引き起こすことである。これが受の相貌である。受から愛の処に堕入する。愛とはどのような相貌か。利養供奉を引き起こすことである。これが愛の相貌である。愛から取の処に堕入する。
原文:受(取)の相とは何等か。受持(占有保持)である。これが受の相である。これより有の処に堕するに至らしめる。有の相とは何等か。若干の処に堕することを令す。これが有の相である。これより生の処に堕するに至らしめる。生の相とは何等か。既に五陰有ることである。これが生の相である。これより老の処に堕するに至らしめる。老の相とは何等か。転熟(成熟変化)である。これが老の相である。これより死の処に堕するに至らしめる。死の相とは何等か。命根の尽きることである。これが死の相である。これより苦の処に堕するに至らしめる。
釈:取とはどのような相貌か。占有・保持・保有することである。これが取の相貌である。取から三界有の中に堕入する。有とはどのような相貌か。五陰を三界中の任意の処に堕することを令す。これが有の相貌である。有から生の処に堕入する。生とはどのような相貌か。既に五陰身が存在することである。これが生の相貌である。生から老の処に堕入する。老とはどのような相貌か。色身が成熟することである。これが老の相貌である。老から死の処に堕入する。死とはどのような相貌か。生命が終わり、諸根が無用となることである。これが死の相貌である。死から苦悩の処に堕入する。
原文:苦の相とは何等か。身の急迫(苦痛)である。これが苦の相である。これより不可意の処に堕するに至らしめる。不可意の相とは何等か。心意の急迫(不快感)である。これが不可意の相である。これより悒悒憂(憂戚)に堕するに至らしめる。悒悒の相とは何等か。五陰を憂うることである。これが悒悒の相である。これより愁悩の処に堕するに至らしめる。悲愁の相とは何等か。口に声を出して言う(怨嗟・嘆息・憤懣)。これにより悲憤・懊悩・憤懣に至らしめる。懣は懊悩であり、懊悩もまた懣である。
釈:苦とはどのような相貌か。身体の急迫(苦痛)である。五陰を不可意の処に堕入させる。不可意とはどのような相貌か。心意の急迫(不快感)である。これが不可意の相貌であり、五陰を憂戚の処に堕入させる。憂戚とはどのような相貌か。五陰を憂うることである。これが憂戚の相貌であり、五陰を愁悩の処に堕入させる。愁悩とはどのような相貌か。口に怨嗟・嘆息・憤懣の声を発する。悲憤・懊悩・憤懣に堕入させる。懣は懊悩であり、懊悩もまた懣である。死によって引き起こされる一連の苦衰の相であり、心境は低落し、情緒は苦悶愁苦に満ち、次第に低劣衰微していく。