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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1868

第七節  縁起の法は法界常住の法である 

(二九九)縁起の法は法界常住の法である

原文:時に異なる比丘、来たりて仏の御所に詣でる。稽首して足を礼し、退いて一面に坐す。白して仏に言う。「世尊。縁起の法と謂うは、世尊の作ったものか、それとも他の人の作ったものか。」

仏、比丘に告げたまわく。「縁起の法は、我の作ったものではなく、また他の人の作ったものでもない。しかるにかの如来が世に出でても出でなくとも、法界に常住している。かの如来はこの法を自ら覚り、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別して説き演じ、開顕し示す。所謂く、此があるが故に彼があり、此が起こるが故に彼が起こる。謂わく、無明を縁として行があり、乃至、純大苦聚が集まる。無明が滅するが故に行が滅し、乃至、純大苦聚が滅するのである。」

釈:この時、他の部族から来た比丘が世尊に会い、頭を下げ合掌して仏を礼拝し、それから退いて世尊の側面に座り、世尊に言った。「世尊、縁起の法は世尊がお創りになったのですか、それとも他の人が造り出したのですか。」

仏はこの比丘に告げられた。「縁起の法は私が作ったものではない。また他の人が作ったものでもない。しかし如来が世に出ようと出まいと、法界には常住している。すべての如来は自ら縁起の法を覚り、等正覚を成就し、すべての衆生のために分別して説き、開顕し縁起の法の真実の意味を示すのである。それはいわゆる『此があるが故に彼があり、此が起こるが故に彼が起こる』であり、すなわち無明を縁として行があり、最後の生を縁として老死があり、純大苦が集まることである。また無明が滅するが故に行が滅し、行が滅するが故に六識が滅し、六識が滅するが故に名色が滅し、名色が滅するが故に六入が滅し、六入が滅するが故に触が滅し、触が滅するが故に受が滅し、受が滅するが故に愛が滅し、愛が滅するが故に取が滅し、取が滅するが故に有が滅し、有が滅するが故に生が滅し、生が滅するが故に老病死憂悲悩苦、純大苦聚が滅するのである。」

(三〇一)有も無も取らないことを正見と名付ける

原文:爾時、尊者[跳-兆+散]陀迦旃延、仏の御所に詣でる。仏足を稽首礼し、退いて一面に住す。白して仏に言う。「世尊。世尊の説かれる正見の如きは、何が正見でありましょうか。世尊は如何に正見を施設なさいますか。」仏、[跳-兆+散]陀迦旃延に告げたまわく。「世間には二種の依がある。有と無である。取によって触れられる。取によって触れられるが故に、或いは有に依り、或いは無に依る。」

釈:[跳-兆+散]陀迦旃延尊者が仏に言った。「世尊、世尊がおっしゃる正見とは、何が正見なのですか? 世尊はどのように正見を施設なさるのですか?」 仏は[跳-兆+散]陀迦旃延に告げられた。「世間には二種類の依るものがある。一つは有、一つは無である。取によって触れられ、執着することができる。取によって触れられた後、世間の人の知見は或いは有に依って『世間は有である』と考え、或いは無に依って『世間は無である』と考える。世間が有であるとか無であると考えることはどちらも正見ではない。凡そ取るところがあるものはすべて誤りであり、中道ではない。」

原文:もし此の取るものがなければ、心は境に繋がれて執着することなく、取らず、住せず、我を計らず。苦が生ずればそれに従って生じ、苦が滅すればそれに従って滅する。彼において疑わず惑わず。他によることなく自ら知る。これを正見と名付ける。これを如来の施設した正見と名付ける。

釈:もし有と無の二つを取らなければ、心は中道に住し、境に触れても有にも無にも執着せず、我に住することもなく、我があると計ることもない。苦が生じればそれに従って生じ、苦が滅すればそれに従って滅する。この中道の理について疑惑がなく、他人の教えや啓発によるのではなく、完全に自ら知ることを、正見と言い、これもまた如来が施設した正見である。

仏は言われた。いわゆる正見は、「他によることなく自ら知る」ことである。この言葉は非常に重要である。自ら知るとは自証の意味であり、他人の啓発による知ではなく、聞くことによる知でもなく、自らの努力によって参究し、ついに実証して知ることを指す。他人や外縁によって知ることは、意識の知であって自ら知ることではなく、正見でもない。真実に参究した意根の証こそが自ら知ることであり、正見である。だから耳から入る法は、結局は自分のものではなく、頼りにならない法である。この言葉は非常に重要である。

原文:何が故にそう言うのか。世間の集を如実に正しく知見する。もし世間に無いものがあれば、有とはしない。世間の滅を如実に正しく知見する。もし世間に有るものがあれば、無いとはしない。これを有無の二辺を離れて中道を説くと名付ける。所謂く、此があるが故に彼があり、此が起こるが故に彼が起こる。謂わく、無明を縁として行があり、乃至、純大苦聚が集まる。

釈:なぜそう言うのか? 世間の集(原因による生起)を如実に正しく知見し、もし世間が本来無いものであれば、世間を有であるとは見なさない。世間の滅(原因の滅による消滅)を如実に正しく知見し、もし世間が現象として有るものであっても、世間を有であるとは見なさない。これが有無の二辺を離れて説く中道である。これがいわゆる『此があるが故に彼があり、此が起こるが故に彼が起こる』である。無明があるから行があり、行があるから六識の業種があり、六識の業種があるから後世の名色があり、名色があるから六入があり、六入があるから触があり、触があるから受があり、受があるから愛があり、愛があるから取があり、取があるから有があり、有があるから生があり、生があるから老病死憂悲悩苦、純大苦聚が集まるのである。

原文:無明が滅するが故に行が滅し、乃至、純大苦聚が滅する。仏、此の経を説き終えたまう。尊者[跳-兆+散]陀迦旃延、仏の説かれたことを聞き、諸の漏を起こさず、心解脱を得て、阿羅漢となる。

釈:無明が滅するが故に行が滅し、行が滅するが故に六識の業種が滅し、六識の業種が滅するが故に名色が滅し、名色が滅するが故に六入が滅し、六入が滅するが故に触が滅し、触が滅するが故に受が滅し、受が滅するが故に愛が滅し、愛が滅するが故に取が滅し、取が滅するが故に有が滅し、有が滅するが故に生が滅し、生が滅するが故に老病死憂悲悩苦が滅し、乃ち純大苦聚が滅するのである。仏がこの経を説き終えられると、尊者[跳-兆+散]陀迦旃延は仏の説かれたことを聞き、もはや一切の諸漏を起こさず、心に解脱を得て、阿羅漢となった。

(三〇二)苦の根源

原文:阿支羅迦葉、仏に白して言う。「如何に瞿曇。苦は自ら作るものか。」仏、迦葉に告げたまわく。「苦が自ら作るというならば、これは無記である。」迦葉、また問う。「如何に瞿曇。苦は他が作るものか。」仏、迦葉に告げたまわく。「苦が他が作るというならば、これも無記である。」迦葉、また問う。「苦は自と他が作るものか。」仏、迦葉に告げたまわく。「苦が自と他が作るというならば、これも無記である。」迦葉、また問う。「如何に瞿曇。苦は自でもなく他でもなく、因無くして作られるものか。」仏、迦葉に告げたまわく。「苦が自でもなく他でもなく、これも無記である。」

釈:阿支羅迦葉が仏に言った。「瞿曇、どういうことですか。苦は自分から生じたのですか?」 仏は迦葉に告げられた。「苦が自分から生じたというなら、これは無記(答えない)である。」 迦葉がまた問うた。「では、苦は他縁から生じたのですか?」 仏は答えて言われた。「苦が他縁から生じたというなら、これも無記である。」 迦葉がまた問うた。「苦は自分と他縁の和合から生じたのですか?」 仏は答えて言われた。「苦が自分と他縁の和合から生じたというなら、これも無記である。」 迦葉がまた問うた。「苦は自分から生じたのでもなく、他縁から生じたのでもなく、無因から生じたのですか?」 仏は迦葉に告げられた。「苦が自分から生じたのでもなく、他縁から生じたのでもないというなら、これも無記である。」

原文:迦葉、また問う。「如何に無因にして作られるというのか。瞿曇。先に問うた『苦は自ら作るか』には『無記』と答えられた。『他が作るか』『自と他が作るか』『自でもなく他でもなく無因に作られるか』には『無記』と答えられた。では今、苦は無いのか。」仏、迦葉に告げたまわく。「苦が無いのではない。然るに此の苦は有る。」迦葉、仏に白して言う。「善き哉。瞿曇。苦が有ると説かれるならば、私のために法を説き、私に苦を知らせ苦を見させてください。」

釈:迦葉がまた問うた。「無因から生じるとはどういうことですか? 瞿曇、私は先に『苦は自分から生じたのですか』と尋ねたところ、『無記』と答えられました。『他縁から生じたのですか』『自分と他縁の和合から生じたのですか』『自分でも他縁でもない無因から生じたのですか』と尋ねたところ、すべて『無記』と答えられました。では、苦は無いということですか?」 仏は迦葉に告げられた。「苦が無いのではない。苦はあるのだ。」 迦葉は仏に言った。「素晴らしいです、瞿曇。苦があるとおっしゃるなら、私のために法を説き、私に苦を知らせ苦諦を見させてください。」

原文:仏、迦葉に告げたまわく。「もし受けること即ち自ら受けることであるならば、我は苦は自ら作ると説くべきであろう。もし他が受けること、他即ち受ける者であるならば、それは他が作るということである。もし受けること、自ら受けること、他が受けること、更に苦を加えるならば、このように苦受は自他が作るものである。我もまた説かない。もし自他を因とせず、無因に苦が生ずるならば、我もまた説かない。此の諸辺を離れて、その中道を説く。如来の説く法は、此があるが故に彼があり、此が起こるが故に彼が起こる。謂わく、無明を縁として行があり、乃至、純大苦聚が集まる。無明が滅すれば則ち行が滅し、乃至、純大苦聚が滅するのである。」

釈:仏は迦葉に告げられた。「もし受けることが即ち自分が受けることであるなら、私は苦が自分から生じたと言うべきであろう。もし他が受けることにおいて他が即ち受ける者であるなら、苦は他縁から生じたということになる。もし受けること、自分が受けること、他が受けること、それに苦を加えるなら、このように苦受は自作他作であるが、私はそうは言わない。苦受は自分でも他縁でもないものから生じたのではない。もし自分や他縁を因とせず、無因で苦が生じるなら、私はそうは言わない。苦は因縁から生じるのである。

如来の説く法はすべて両辺を離れて、中道の法を説く。中道の法とは『此があるが故に彼があり、此が起こるが故に彼が起こる』であり、すなわち無明を縁として行があり、行を縁として識があり、乃ち生を縁として老病死憂悲悩苦があり、純大苦が集まることである。また無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば六識が滅し、乃ち生が滅すれば、老病死憂悲悩苦、純大苦聚が滅するのである。

原文:仏、此の経を説き終えたまう。阿支羅迦葉、塵を遠く離れ垢を離れ、法眼清浄を得る。時に阿支羅迦葉、法を見て法を得、法を知り法に入り、諸の狐疑を度し、他によることなく知り、他を因とせず度され、正法と律において、心に畏れること無し。合掌して仏に白して言う。「世尊。我は今や已に度されました。私は今日より、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。一生の寿命を尽くして優婆塞となり、我を証知して下さい。」

釈:仏がこの経を説き終えられると、阿支羅迦葉の心は五陰塵世間の煩悩汚垢から遠く離れ、法眼清浄を得た。この時、阿支羅迦葉は十二因縁の法を見て因縁の法を証得し、十二因縁の法を証知し十二因縁の法に入り、十二因縁の法に対する一切の疑惑を滅尽した。他の因縁によって法を知ったのではなく、他の因縁によって度化を得たのではなく、正法と律儀に対して、心はもはや畏れることがなかった。そこで迦葉は合掌して仏に言った。「世尊、私は今すでに得度しました。私は今より、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。私の一生の寿命を尽くして優婆塞となり、どうか私の証しとなってください。」

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