阿含経十二因縁釈
第三章 長阿含経における十二因縁法
第一節 長阿含大縁方便経第九
原文: その時、仏は阿難に告げた。縁って生があれば老死がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に生が無ければ、果たして老死があるだろうか。阿難は答えて言った。ありません。それ故に阿難よ、この縁によって、老死は生によることを知る。縁って生があれば老死がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:また阿難に告げた。縁って有があれば生がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に欲有・色有・無色有が無ければ、果たして生があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、生は有によることを知る。縁って有があれば生がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:また阿難に告げた。縁って取があれば有がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に欲取・見取・戒取・我取が無ければ、果たして有があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、有は取によることを知る。縁って取があれば有がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:また阿難に告げた。縁って愛があれば取がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に欲愛・有愛・無有愛が無ければ、果たして取があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、取は愛によることを知る。縁って愛があれば取がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:また阿難に告げた。縁って受があれば愛がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に楽受・苦受・不苦不楽受が無ければ、果たして愛があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、愛は受によることを知る。縁って受があれば愛がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、知るべきである。愛によって求があり、求によって利があり、利によって用があり、用によって欲があり、欲によって著があり、著によって嫉があり、嫉によって守があり、守によって護がある。阿難よ、護があるが故に、刀杖諍訟があり、無数の悪をなす。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、これはどういう意味か。もし一切の衆生に護が無ければ、刀杖諍訟が起こり、無数の悪を生じるだろうか。答えて言った。ありません。それ故に、阿難よ、この因縁によって、刀杖諍訟は護によって起こることを知る。縁って護があれば刀杖諍訟がある。阿難よ、私が説くところの意義はここにある。
原文:また阿難に告げた。守によって護がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に守が無ければ、果たして護があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、護は守によることを知る。守によって護がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、嫉によって守がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に嫉が無ければ、果たして守があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、守は嫉によることを知る。嫉によって守がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、著によって嫉がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に著が無ければ、果たして嫉があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、嫉は著によることを知る。著によって嫉がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、欲によって著がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に欲が無ければ、果たして著があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、著は欲によることを知る。欲によって著がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、用によって欲がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に用が無ければ、果たして欲があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの意義によって、欲は用によることを知る。用によって欲がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、利によって用がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に利が無ければ、果たして用があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの意義によって、用は利によることを知る。利によって用がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、求によって利がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に求が無ければ、果たして利があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、利は求によることを知る。求によって利がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、愛によって求がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に愛が無ければ、果たして求があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、求は愛によることを知る。愛によって求がある。私が説くところの意義はここにある。また阿難に告げた。愛によって求があり、守護に至る。受もまた同様である。受によって求があり、守護に至る。
原文:仏は阿難に告げた。縁って触があれば受がある。これはどういう意味か。阿難よ、もし眼が無く色が無く眼識が無ければ、果たして触があるだろうか。答えて言った。ありません。もし耳・声・耳識、鼻・香・鼻識、舌・味・舌識、身・触・身識、意・法・意識が無ければ、果たして触があるだろうか。答えて言った。ありません。
原文:阿難よ、もし一切の衆生に触が無ければ、果たして受があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの意義によって、受は触によることを知る。縁って触があれば受がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、縁って名色があれば触がある。これはどういう意味か。もし一切の衆生に名色が無ければ、果たして心触があるだろうか。答えて言った。ありません。もし一切の衆生に形色相貌が無ければ、果たして身触があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、もし名色が無ければ、果たして触があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、触は名色によることを知る。縁って名色があれば触がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、縁って識があれば名色がある。これはどういう意味か。もし識が母胎に入らなければ、名色があるだろうか。答えて言った。ありません。もし識が胎に入って出なければ、名色があるだろうか。答えて言った。ありません。もし識が胎を出て、嬰児が壊敗すれば、名色は増長を得るだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、もし識が無ければ、名色があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、名色は識によることを知る。縁って識があれば名色がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、縁って名色があれば識がある。これはどういう意味か。もし識が名色に住しなければ、識には住処がない。もし住処が無ければ、果たして生老病死・憂悲苦悩があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、もし名色が無ければ、果たして識があるだろうか。答えて言った。ありません。阿難よ、私はこの縁によって、識は名色によることを知る。縁って名色があれば識がある。私が説くところの意義はここにある。
原文:阿難よ、それ故に名色は識を縁とし、識は名色を縁とする。名色は六入を縁とし、六入は触を縁とし、触は受を縁とし、受は愛を縁とし、愛は取を縁とし、取は有を縁とし、有は生を縁とし、生は老死憂苦悲悩を縁とする。大苦陰が集まる。阿難よ、ここまでが語るべきことである。ここまでが応じるべきことである。ここまでが限界である。ここまでが演説である。ここまでが智観である。ここまでが衆生である。阿難よ、諸比丘はこの法において、如実に正観し、無漏の心解脱を得る。阿難よ、この比丘は慧解脱と名づけるべきである。
原文:かくの如く解脱した比丘は、如来が終わることも知り、如来が終わらないことも知り、如来が終わり終わらないことも知り、如来が終わりでも終わらなくでもないことも知る。なぜならば、阿難よ、ここまでが語るべきことである。ここまでが応じるべきことである。ここまでが限界である。ここまでが演説である。ここまでが智観である。ここまでが衆生である。かくの如く尽く知った後、無漏・心解脱の比丘は知らず見ず、かくの如く知見する。
原文:阿難よ、我を計る者は、いくつまでが我見と呼ばれるか。名色と受をともに計って我とする。ある者は言う、受は我ではない、私は受であると。あるいは言う、受は我ではない、私は受ではない、受法が私であると。あるいは言う、受は我ではない、私は受ではない、受法も私ではない、ただ愛が私であると。
原文:阿難よ、私を見ると言う者で、受が私であると言う者には、彼に語るべきである、如来は三受を説く、楽受・苦受・不苦不楽受と。楽受がある時は、苦受も不苦不楽受もない。苦受がある時は、楽受も不苦不楽受もない。不苦不楽受がある時は、苦受も楽受もない。
原文:その所以は、阿難よ、楽触によって楽受が生じる。もし楽触が滅すれば受もまた滅する。阿難よ、苦触によって苦受が生じる。もし苦触が滅すれば受もまた滅する。不苦不楽触によって、不苦不楽受が生じる。もし不苦不楽触が滅すれば受もまた滅する。
原文:阿難よ、二本の木が擦れ合えば火が生ずるが、別々に置けば火はない。これもまた同様である。楽触を縁として、故に楽受が生ずる。もし楽触が滅すれば、受もまたともに滅する。苦触を縁として、故に苦受が生ずる。もし苦触が滅すれば、受もまたともに滅する。不苦不楽触を縁として、不苦不楽受が生ずる。もし不苦不楽触が滅すれば、受もまたともに滅する。阿難よ、この三受は有為無常であり、因縁から生じ、尽きる法・滅する法・朽ち壊れる法である。それらは私のものでなく、私はそれらのものではない。正智をもって如実に観るべきである。
原文:阿難よ、私を見ると言う者で、受を私とする者は、それでは誤りである。阿難よ、私を見ると言う者で、受は私ではない、私は受であると言う者には、彼に語るべきである、如来は三受を説く、苦受・楽受・不苦不楽受と。もし楽受が私であるならば、楽受が滅する時、二つの私があることになる。これは過ちである。もし苦受が私であるならば、苦受が滅する時、二つの私があることになる。これは過ちである。もし不苦不楽受が私であるならば、不苦不楽受が滅する時、二つの私があることになる。これは過ちである。
原文:阿難よ、私を見ると言う者で、受は私ではない、私は受であると言う者は、それでは誤りである。阿難よ、私を計る者で、こう言う者、受は私ではない、私は受ではない、受法が私であると言う者には、彼に語るべきである、一切に受は無い。どうして受法があると言うのか。あなたは受法か。答えて、そうではないと言う。それ故に阿難よ、私を計る者で、受は私ではない、私は受ではない、受法が私であると言う者は、それでは誤りである。
原文:阿難よ、私を計る者で、こう言う者、受は私ではない、私は受ではない、受法も私ではない、ただ愛が私であると言う者には、彼に語るべきである、一切に受は無い。どうして愛があるのか。あなたは愛か。答えて、そうではないと言う。それ故に阿難よ、私を計る者で、受は私ではない、私は受ではない、受法も私ではない、愛が私であると言う者は、それでは誤りである。阿難よ、ここまでが語るべきことである。ここまでが応じるべきことである。ここまでが限界である。ここまでが演説である。ここまでが智観である。ここまでが衆生である。
原文:阿難よ、諸比丘はこの法において如実に正観し、無漏の心解脱を得る。阿難よ、この比丘は慧解脱と名づけるべきである。かくの如く解脱した心の比丘は、私があることも知り、私が無いことも知り、私があり私が無いことも知り、私が有るのでも無いのでもないことも知る。なぜならば、阿難よ、ここまでが語るべきことである。ここまでが応じるべきことである。ここまでが限界である。ここまでが演説である。ここまでが智観である。ここまでが衆生である。かくの如く尽く知った後、無漏・心解脱の比丘は知らず見ず、かくの如く知見する。
原文:仏は阿難に語った。私を計る者は、ここまでが定説である。私を計る者は、ある者は少色が私であると言い、ある者は多色が私であると言い、ある者は少無色が私であると言い、ある者は多無色が私であると言う。阿難よ、少色が私であると言う者は、定めて少色が私である、私の見るところは正しく、他は誤りであると言う。
原文:多色が私であると言う者は、定めて多色が私である、私の見るところは正しく、他は誤りであると言う。少無色が私であると言う者は、定めて少無色が私である、私の見るところは正しく、他は誤りであると言う。多無色が私であると言う者は、定めて多無色が私である、私の見るところは正しく、他は誤りであると言う。
原文:仏は阿難に告げた。七識住・二入処がある。諸沙門婆羅門は言う、この処は安穏である、救い護り、舎宅・灯火・光明・帰依処、虚妄ならず煩わしくなしと。
原文:何が七つか。ある衆生は若干種の身、若干種の想、天及び人、これが初の識住処である。諸沙門婆羅門は言う、この処は安穏である、救い護り、舎宅・灯火・光明・帰依処、虚妄ならず煩わしくなしと。
原文:阿難よ、もし比丘が初識住を知り、集を知り滅を知り、味を知り過患を知り、出要を知り、如実に知れば、阿難よ、その比丘は言う、それは私ではない、私はそれではない、と如実に知見する。
原文:ある衆生は若干種の身で一想、梵光音天がこれである。ある衆生は一身で若干種の想、光音天がこれである。ある衆生は一身一想、遍浄天がこれである。ある衆生は空処に住し、ある衆生は識処に住し、ある衆生は不用処に住す。これが七識住である。
原文:ある沙門婆羅門は言う、この処は安穏である、救い護り、舎宅・灯火・光明・帰依処、虚妄ならず煩わしくなしと。阿難よ、もし比丘が七識住を知り、集を知り滅を知り、味を知り過患を知り、出要を知り、如実に知見すれば、その比丘は言う、それは私ではない、私はそれではない、と如実に知見する。これが七識住である。
原文:何が二入処か。無想入・非想非無想入がこれである。阿難よ、この二入処に、ある沙門婆羅門は言う、この処は安穏である、救い護り、舎宅・灯火・光明・帰依処、虚妄ならず煩わしくなしと。阿難よ、もし比丘が二入処を知り、集を知り滅を知り、味を知り過患を知り、出要を知り、如実に知見すれば、その比丘は言う、それは私ではない、私はそれではない、と如実に知見する。これが二入である。
原文:阿難よ、また八解脱がある。何が八つか。色を観じて色となる、初解脱。内に色想無く、外の色を観ずる、二解脱。浄解脱、三解脱。色想を度り、有対想を滅し、雑想を念わず、空処に住す、四解脱。空処を度り、識処に住す、五解脱。識処を度り、不用処に住す、六解脱。不用処を度り、有想無想処に住す、七解脱。滅尽定、八解脱。阿難よ、諸比丘はこの八解脱において、逆順に遊行し、出入自在である。かくの如き比丘は倶解脱を得る。