阿含経十二因縁釈
第八章 十二因縁を断つ鍵となる環節
第一節 十二因縁の生死の連鎖及び順逆の生死の門
一、十二因縁の生死の連鎖
無明(末那識の無明)——行(身口意の行い)——識(六識及び業種)——名色(来世の五蘊)——六入(六根)——触(六根が六塵に触れること)——受(六識の受、これが末那識の受を引き起こす)——愛(六識の愛、主に末那識の貪愛)——取(六識の取、主に末那識の取)——有(三界五蘊の世間法)——生(五蘊身が三界世間に出生すること)——老病死苦(五蘊身の滅び)。
生死は無明によって生じ、末那識の無明が無量の生死を現行させます。末那識は無明の故に心を動かし、念いを起こし、何かを選択し、業行を造作しようと欲します。すると六識が出生して末那識の意に従い、身口意の業行を造作します。こうして三界世間の業種が残されます。三界の業種がある故に、必ず来世において三界中を流転します。死後の中陰段階で末那識は業に従って胎に入り、最初の名色が生じます。その後、六入が次第に具足し、触が現れます。触に続いて、識の受覚が現れます。受がある故に貪愛が止まず、受と塵境を執取し、業種が残されます。来世の有は必ず継続して出生・存在し、来世の生が現れ、老病死が必然的に現れます。
名色は、最初は末那識と受精卵であり、最後は五陰身です。入胎時には末那識と阿頼耶識が胎に入り、受精卵と和合して名色となります。完全な名色とは六識、六根に六塵を加えた十八界のことです。では、名色はどの識によって生じるのでしょうか? どの識を頼って出生するのでしょうか? 前世の六識を頼る必要があります。なぜなら、六識の造作は来世の五陰身の業種を残すことができ、種子があるからこそ五陰身があるのです。名色が具足して初めて、内外の六入の触が可能となり、その後、今世の六識が出生します。六入が具足して初めて六識が可能となり、六入が具足する時、五陰身が具足し、六識は身口意行を造作できます。業行があれば種子があり、種子があれば果があり、業行の後に業種が残り、これが来世の五陰身を資潤します。衆生はこのようにして生々不息なのです。
生死輪廻の苦を解脱しようとするならば、必ず十二の生死の連鎖を断ち切らなければなりません。最も重要な問題は種子です。六識がもはや業行を造作しなければ、業種は残りません。六識が業行を造作しないかどうかは完全に末那識の思心所によって決まります。末那識の思心所がもはや業行を選択しなければ、六識は身口意の業行を造作せず、種子を残しません。末那識の思心所が業を造作しないようにするには、末那識の無明を破らなければなりません。末那識の無明を破るには、四聖諦の法を修習し、十二因縁を修習し、定中の深細な観行を行い、五陰世間が空で無我であることを証得した後、次第に生死の連鎖が解かれ、解脱を得ます。
二、十二因縁を断つ鍵となる環節
十二因縁は三世に通じます。無明、行、識は前世の支分、名色、六入、触、受、愛、取は今世の支分、有、生、老死は来世の支分です。この理を思惟するには順と逆の二つの方法があります。十二因縁に順って思惟すれば、末那識が無明によって行いを起こし、生み出した六識の身口意行が、来世の五陰の生老病死苦を引き起こすことを理解できます。十二因縁に逆らって思惟するには二つの分派があります。一つは名色から前世の六識が造作した業行が残した業種を遡り、さらに末那識の無明に遡る分派です。もう一つは名色から生死の源である阿頼耶識に遡る分派です。
このうち逆因縁の第一分派は、老死から始めて前へ遡り、順に生、有、取、愛、受、触、六入、名色、六識、行、無明へと遡ります。今世で生死を断つ重点はどこにあるのでしょうか? 取、愛、受、触の四つの環節にあります。なぜなら名色と六入は必ず用いなければならず、今滅除することはできないからです。もし滅除しようとするならば自殺しなければなりませんが、自殺して死んでも来世の生老病死は避けられません。六識の業種は前世の身口意行の造作によって落ちたものであり、たとえ懺悔しても名色五陰を滅除することはできません。では、来世に生死を解脱しようとするならば、触、受、愛、取の四つの環節に重点を置いて修行しなければなりません。そして後ろの三つの環節は触から流転して出たものであり、全て直接的または間接的に触を縁として生じるので、触は非常に重要な環節です。
触とは六根が六塵に触れることであり、つまり内六入が外六入に触れることです。その後、六識が出生して了別を加え、さらに受が生じます。すると貪瞋が現れ、六塵境界への執取もそれに伴って現れます。これらの業行は今世と来世の生老病死苦を引き起こします。どうすれば六塵への触を避けられるのでしょうか? それには末那識の攀縁性を減らし滅除しなければなりません。末那識が六塵を攀縁しなければ、もはや六塵に触れようとせず、もし六塵に触れなければ後ろには何も起こらず、心は清浄になります。ですから鍵はやはり末那識にあります。
どうすれば末那識がもはや六塵を攀縁しないようになるのでしょうか? 一つは定を修めること、二つ目は理を明らかにすることです。定中で六塵境界の無常と生滅性を観行し、理を明らかにすれば無明を断除できます。無明がなければ末那識はもはや六塵境界を攀縁せず、六塵境界に興味を持たなくなり、自動的に攀縁が減り、触の回数と時間が減り、次第に心が清浄になります。心が清浄になれば受がなくなり、受がなければ愛がなくなり、愛がなければ取しません。
衆生は無始劫以来、六根が六塵に触れることに慣れており、全てを降伏・除去するのは非常に困難です。時には生存のために触れざるを得ない場合もあり、あるいは受動的に触れることもあります。一旦触れた後は、受を減らすか、または受けないようにしなければなりません。触れた時に心がなければ、受がなくなり、受がなければ愛せず、愛しなければ取りません。少受または無受を実現するには、禅定と観行の智慧が必要で、心が空になり、相を離れ、境界を受けず、心が清浄であれば、境界を執取することもなくなります。
もし境界を受けないことが困難で完全にはできないならば、境界を感受する際に、できるだけ貪瞋を生じさせず、受の無常と虚妄を思索し、境界の生滅と無常を思索すれば、心は降伏し、貪瞋は減らせます。愛と受は比較的密接に繋がっており、受の時に貪愛を生じさせないのは難しいです。この時には必ず禅定が必要で、定力が強くなければ愛を降伏させ、さらには断除することさえできます。そして愛を断除するには初禅以上の禅定がなければなりません。一切の法の修行過程において、禅定を離れることはできません。禅定が浅ければ煩悩は降伏できず、まして断除はおろか、解脱は望めません。
愛を降伏するこの環節で失敗したならば、愛するものを執取することはほぼ避けられません。取らないようにするのは非常に困難です。取が滅するのは三果の修行が円満した時で、四果ではもはや執取しません。一瞬の取は避けられないかもしれませんが、瞬間の後には智慧によって断除されます。もし常にこのような現象が起きるならば、解脱があまり堅固でない阿羅漢であり、臨終の無余涅槃の前に絶えず加行を行わなければ、瞬間に滅度・涅槃することはできません。
まとめると、触、受、愛、取の四つの環節はどれも重要です。前の環節を降伏・断除して初めて、後の環節が生じない可能性があります。ですから解脱の最も重要な鍵はやはり触という環節です。一切の法の修行において、環境は非常に重要な要素です。諸仏菩薩が修行する時は、皆、寂静で僻静な場所で、人もなく事もなく邪魔されないので、触が少なく、功夫の進展が速く、成道が速いのです。ですから私たちの修行は、やむを得ず縁に随う場合でも、静修の因縁条件を多く作り、触の因縁をできるだけ減らすことが大切で、そうして初めて修行しやすくなります。賑やかな場所では道業を成就することはできません。
無明という支分は三世に通じます。前世は無明の故に後の十一支分があり、今世も無明の故に触受愛取が絶えず、来世も無明の故にこれらのプログラムが継続して運作し、三世の生死が断絶しません。無明はどの環節で断除されるのでしょうか? 実は仏世の時、十二因縁を修行した人々の多くは、四聖諦を修行したことがあり、証果を得た人さえもおり、我見を断除した上でさらに十二因縁を修行したので、無明はすでに断除されていましたが、不十分で徹底していませんでした。ですから十二因縁を修行して縁覚辟支仏の果位を証得することは、阿羅漢の果位よりも高く、無明がより多く断除され、禅定と智慧が阿羅漢よりも深いのです。無明は多くの層に分かれており、辟支仏も無明を究竟に断じたわけではなく、諸仏のみが無明と生死を究竟に断ち切ったのです。
三、苦を滅する鍵となる環節
もし生老病死憂悲苦悩を滅除しようとするならば、十二因縁法の中で、どの環節が最も重要なのでしょうか? あるいは十二因縁法の中で、どの環節が最も直接的に生老病死憂悲苦悩を引き起こすのでしょうか? 取だと言う人もいれば、貪愛だと言う人も、受だと言う人も、触だと言う人も、六入だと言う人も、名色だと言う人も、六識だと言う人も、行だと言う人も、無明だと言う人もいます。
まず、取を滅すれば、もはや執取しなければ、来世の有は現れず、生死はここから消滅します。ですから取は比較的重要です。取がなければ、来世が出生する因縁条件はありません。もし取を滅しようとするならば、どうすればよいのでしょうか? もしある人が非常に貪愛しているならば、取を滅することができるでしょうか? 全くできません。ですから貪愛を滅除することも重要です。貪愛の滅除は我見を断った後に初禅定を修めて初めて可能になり、貪愛を滅除するとは三果・四果の人です。
しかし、もしある人が絶えず受をしているならば、貪愛が生じないように滅除できるでしょうか? 全くできません。ですから受を滅することも重要です。ではどうすれば受を滅するのでしょうか? 受は境界に触れることによって生み出されるので、触を減らし、触を滅して初めて受を減らし、受を滅することができます。ですから触を滅することも重要です。ではどうすれば触を滅するのでしょうか? 内六入があると絶えず触れざるを得ず、触れなければ非常に苦しく、触れないわけにはいきません。ですから内六入を滅することが重要です。
ではどうすれば内六入を滅するのでしょうか? 内六入は名色から来ており、名色があれば内六入があります。ですから名色を滅することが重要です。ではどうすれば名色を滅するのでしょうか? 名色は前世の業種から来ており、業種は六識が身口意行を造作して残したものです。もし六識が身口意行を造作しなければ、三界の種子はなく、したがって来世の名色五陰の出生もなく、生死は終わります。ですから六識及び六識の身口意行を滅除することが重要です。ではどうすれば六識を滅するのでしょうか? 六識の出生は末那識によって決まります。末那識が身口意行を造作しようと欲すれば、六識は必ず出生し、末那識の心行に従って造作します。末那識が三界世間法に心を置き、三界世間を行じるのは、末那識の無明によるものであり、末那識に無明がある限り、必ず心行があり、必ず業行を造作しようと欲します。
ですから末那識の無明を滅除することが重要であり、無明が一度滅すれば、三界五陰世間は必ず滅尽し、灰すら現れません。どうすれば無明を滅尽するのでしょうか? 修行はまず末那識の心行を降伏させ、六識の身口意行を降伏させ、六入の触を降伏させ、受覚を降伏させ、貪欲を降伏させ、取着心を降伏させた後でなければ断除できず、滅尽に至りません。降伏の過程とは、三十七道品を修行し八正道を修行する過程であり、戒定慧を修行する過程です。降伏した後、戒律が厳明になり、禅定が向上し、智慧が増進し、身心が軽安になると、まもなく初めての脱胎換骨が起こり、法眼が浄まり、初果を証得し、三昧に入ります。二度目の脱胎換骨は初禅定を修めた後で起こり、煩悩が次第に脱落・断除され、我執が断じ尽くされた時、三界世間苦から解脱します。
一つの環節を降伏させれば、他の環節は次第に降伏され、一つの環節を断除すれば、他の環節は次第に断除されます。この中で無明の断除が最も根本的であり、無明が断じられなければ、他の全ての環節は断尽できず、再び根を張り芽を出します。禅定がある時は、触が減り、受も減り、愛も減り、取も減り、これらの環節は降伏されます。しかし無明を断じなければ、これらの環節は再び盛んになります。出離心が生じないのは、苦を認識していないからであり、苦を認識できないのは無明があるからであり、無明が比較的重いからです。
これらの生死煩悩、生死無明の鍵は、全て末那識にあります。末那識を降伏させ、末那識の無明を断除することが最も重要です。末那識に無明があれば、攀縁し、その後選択し、その後六識が出生し、その後身口意行を造作し、その後業種が残り、その後再び名色に投胎して出生し、新たな生死が再び現れます。このように循環反復し、止む期がありません。我見を断って初果を証得することは、初めて末那識の無明を断除することですが、一部の無明のみを断じ、比較的粗重な部分だけを断じます。さらに修行を続け、さらに一部を断除し、智慧三昧が増進し、二果、三果を証得し、三界の無明煩悩が断じ尽くされ、四果を証得します。
四、十二因縁順生死門
十二因縁の第一支は無明です。衆生は皆無明を持ち、無明は生死の根源であり、生死を造り出す因です。無明とは何でしょうか? 無明とは心中が暗く、理解せず分からないことです。何が分からないのでしょうか? 生老病死が分からず、五陰十八界が分からず、四聖諦と十二因縁法が分からず、法界実相が分からず、生を了し死を脱し究竟して仏となる理が分からない、これら一切の分からないことが無明です。
無明があれば無明の業行があり、十二因縁の第二支は行であり、無明縁行です。末那識に無明がある故に万法を攀縁し、さらに種々の身口意行を生み出します。こうなれば必ず業種が残り、十二因縁の第三支行縁識となり、六識の業種が現れます。業種があれば必ず来世の名色を生み出します。身行とは五陰身の種々の造作、生産、商売、事業、政治、色身の存在を維持するなどの行為を指します。口行とは言語覚観、思惟、言行造作などの行為を指します。意行とは妄想、計画、心の中の企み、思量、追憶、推理、判断、想像などの心理活動を指します。
衆生の一切の行為は身・口・意のこの三つの行の造作を離れません。無明がある故に、身口意行は貪瞋痴の煩悩と相応し、造作されるものは染汚の業行であり、染汚の業種は阿頼耶識に収蔵され、将来業種が成熟すれば来世の果報身が出生し、生死苦悩が絶えません。六識が造作した業種がある故に来世の果報があり、十二因縁の第四支識縁名色が生じます。名色とは何でしょうか? 名とは名前だけの法であり、形色はありません。入胎直後は第七識を指し、六根が円満した時は七つの識妄心、つまり受想行識の四陰を指します。色とは受精卵であり、身体を代表し、名色とは身心五陰を表します。色身と識心が合わさって名色と呼ばれます。
十二因縁第五支は名色縁六入であり、六入とは六塵がそこから入ってくる六根のことです。名色が増長すれば五根が生まれ、元からある末那識と合わせて六入となります。名色がある故に六入が生じます。第六支は六入縁触であり、根の存在は六塵に触れるためです。故に六入があれば必ず触があります。眼根が色塵に触れ、耳根が声塵に触れ、鼻根が香塵に触れ、舌根が味塵に触れ、身根が触塵に触れ、末那識が法塵に触れます。六入と六塵が触れた後、六識が生じ、受があり、覚観と了別があります。
触の後に受が生じるので、十二因縁第七支は触縁受です。この受はまず受容、領納、感受であり、その後苦楽受と不苦不楽受があります。例えば耳根が声塵に触れると、耳識と意識が出生して了別し、苦・楽・不苦不楽の感受が生じます。音楽を聴けば楽受があり、争い声を聴けば苦受があります。触縁受は六根が六塵に触れた結果です。受の後に貪愛が生じるので、十二因縁第八支は受縁愛です。受が生み出された後、さらに喜厭の思想情緒が生まれ、更なる見聞覚知を望みます。
貪愛が生み出された後、塵境を執取し、塵境に対して取舍の心行を持つようになります。故に十二因縁第九支は愛縁取であり、好きな塵境が永遠に存在し失われないことを望み、好きでない境界はすぐに消えて現れないことを望みます。占有と執取の心行がある故に、阿頼耶識は末那識の執取に従い、三界の器世間と来世の五蘊身が生み出されます。故に十二因縁第十支は取縁有です。三界には欲界、色界、無色界の五蘊十八界があります。欲界には男女があり、男女欲があり、生存資具である財・色・名・食・睡があります。色界には性別のない天人の五蘊十八界があり、色界天の宮殿があります。無色界には六・七・八の三つの識と法塵があり、色身と五塵境がないので無色界と呼ばれます。末那識が三界法を執取する故に、三界法が感召され、三界の生死苦が現れます。
十二因縁第十一支は有縁生であり、三界有の因縁が具足した故に、生命は三界に出生します。生存条件が具足して初めて生命は出生し、具足しなければ出生できません。例えば湿生の衆生は必ず湿った環境でなければ生存できず、生命体が出生します。もしある場所が非常に乾燥し、水分がなければ、湿生の衆生は出生できません。湿った環境で初めて蚊が生まれます。故に四生九有の衆生は因縁条件が具足した時にのみ出生できます。末那識が執取すればするほど、因縁が早く具足し、生命の出生が早くなります。
生があれば必ず死があり、老いず死なないことは全くありません。故に生命が出生した後は、次第に成長し老死し、生老病死苦が現れ、全ての憂悲苦悩、純大苦聚が現れます。故に十二因縁最後の支は生縁老死です。外道は仙道を修めて永遠に死なないことを望みますが、実際には衆生はどれだけ長く生きても最終的には必ず死にます。生老病死は一つの生命循環周期です。万物には生住異滅があり、人には生老病死があり、宇宙器世間には成住壊空の循環周期があります。全ての衆生は生まれさえすれば、必ず死があり、これは避けられません。以上が順十二因縁であり、順生死門です。
五、十二因縁逆生死門
十二因縁を逆にすると、逆にすれば生死を逆にし生死を了し、生死苦を解脱します。逆十二因縁第一支は老死支です。なぜ老死現象が現れるのでしょうか? 生があるからです。生じれば必ず老い必ず死にます。逆因縁第二支は生支です。なぜ生があるのか、生命がなぜ世間に現れることができるのか? 末那識が三界法を執取する故に、三界器世間が現れ、五蘊身がそれに伴って現れます。第三支は有支、第四支は取支です。衆生はなぜ三界世俗法を執取するのでしょうか? 内に貪愛があるからです。第五支は愛支です。なぜ貪愛があるのでしょうか? 三界の中の六塵境界に覚受・感受があるからであり、感受があれば貪愛が生じるからです。第六支は受です。なぜ受が現れるのでしょうか? 触があるからです。六根は常に六塵に触れ、七識は触れた境に対して覚受を持ちます。
第七支は触支です。なぜ触があるのでしょうか? 六入がある故に、六塵と触れるからです。第八支は六入支です。なぜ六入があるのでしょうか? 名色がある故に、名色が増長すれば六入が生まれるからです。第九支は名色支です。なぜ名色があるのでしょうか? 六識が絶えず身口意行を造作し、業種を持ち、必ず業種に相応した名色が出生するからです。第十支は識支です。なぜ六識の業種が現れるのでしょうか? 末那識の心行が絶えず、六識に絶えず身口意行を造作させ、六識の業種を残すからです。第十一支は行支です。なぜ身口意業行が絶えないのでしょうか? 末那識に無明があり、世間を攀縁し続ける故に、十二因縁が循環反復し、最後の支は無明です。これが十二因縁の逆推です。
十二因縁の逆推にはもう一つの十因縁法があり、逆推は名色まで遡り、本を尋ね源を遡ると、根本的な思惟が生まれます。名色の真の源は何か、生命の源はどこにあるか、名色はどのように出生したのか? 名色は結局どこから来たのか? 辟支仏たちはここまで逆推すると、名色の本源は阿頼耶識であり、名色は阿頼耶識から生まれたことを知ります。さらに阿頼耶識から前へ推すと法はなく、阿頼耶識が生死の源であり、行縁識支と無明縁行支は名色が出生する助縁に過ぎません。中陰身において、末那識が阿頼耶識を連れて投胎します。阿頼耶識がなければ末那識も存在せず、投胎もできません。では名色の源は阿頼耶識であり、名色縁識と呼ばれます。
衆生には無明がありますが、もし無明だけがあって阿頼耶識がなければ、名色は出生できず、無明さえもありません。ですから衆生が出生する直接の根源は阿頼耶識であり、阿頼耶識がなければ無明もなく、生老病死もなく、三界世間もありません。阿頼耶識が受精卵を生み出すからです。すると受精卵という名色は、阿頼耶識に依って初めて生長・変異するので、名色は直接阿頼耶識に由来し、阿頼耶識も名色を借りて初めて顕現できます。
名色を離れると、阿頼耶識は顕現し作用できません。これを識縁名色、名色縁識と言い、識と名色は互いに依存し合います。阿頼耶識の存在がある故に、十二因縁の無明を滅して涅槃に入った後、全く何もない断滅空になるのではなく、涅槃本際である阿頼耶識が存在するのです。十二因縁の各支は全て阿頼耶識を根本依とし、そうでなければ無因唯縁の謬論となります。こうして四果阿羅漢と縁覚仏は無余涅槃に入ることを敢えてするのです。なぜなら涅槃は断滅空ではないからです。
六、末那識の十二因縁における決定的な作用
衆生に生老病死純大苦聚があるのは、全て無明があるからであり、この無明とは末那識の無明です。末那識に無明があるから思心所があり、その後六識の身口意行が現れ、身口意行があると業種が現れます。十二因縁第二・第三支分は全て末那識によって現れ、六識の身口意行は末那識に随順して存在し、落謝した種子も末那識の心行によって存在します。ですから来世の名色は末那識の無明攀縁によって存在します。故に末那識は生死に対して絶対的な主導作用を持ち、他の法に対しても推進作用を持ちます。末那識が染汚であれば六識も染汚であり、種子も染汚であり、名色の苦受も多く、特に三悪道の苦が多くなります。
名色が増長した後、六入が出生します。六入と六塵の触は末那識が主導し、末那識が多く攀縁すれば触も多く、生死業も多く、攀縁が少なければ触も少なく、生死業も少なくなります。触の後の受、愛、取は、六識の受愛取はありますが、実際に決定作用を起こし、次の支分を引き出すのは末那識の受愛取です。末那識に受愛取がなければ、次の支分は現れません。最後の三支の有、生、老死は、完全に末那識の取によって現れます。故に生死輪廻の出現において、末那識は決定的な作用を果たします。
十二因縁は、末那識が生死の根であることを明らかにし、解脱と沈淪は末那識にかかっています。生死を了脱しようとするならば、末那識の問題を解決し、末那識の無明を破らなければなりません。末那識はまた四聖諦苦集滅道の根でもあります。苦は末那識の無明心行が六識に業を造らせたことから来ており、集は末那識が六識に業を造らせて落とした種子から来ており、滅は末那識の無明心行を滅除することであり、道は末那識が法を証得することによって得られます。
末那識が生死輪廻においてこれほど巨大な決定的作用を持つ以上、末那識は一切の心所法を具足し、全ての善心所法と煩悩心所法、および不善不悪心所法を具足します。末那識の心所法は五識の心所法を決定し、意識の心所法を決定します。末那識の心所法が変われば、六識の心所法も変わり、一切の法がそれに従って変わります。もし末那識の心所法を変えなければ、六識の心所法が変わっても、再び元に戻ります。末那識の煩悩が絶えなければ、意識が煩悩を断っても、再び煩悩が生じます。末那識に禅定がなければ、六識に禅定があっても長く続かず、必ず再び散乱します。故に末那識は十二因縁において決定的な作用を果たし、末那識を修行することは極めて重要です。