阿含経十二因縁釈
第三節 四十四種の智を如何に実証すべきか
(三六七)四十四種の智を如何に実証すべきか
原文:その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、方便を勤めて禅思を修習し、内に其の心を寂せしむべし。何んのゆえにか。比丘よ、禅思し、内に其の心を寂せしめ、方便を精勤する者は、かくの如く如実に顕現するなり。
釈:世尊は諸比丘たちに告げたまわく、汝らは精勤して適切な方法を求め、禅定において清浄に思惟を修習し、内心を寂静ならしめるべきである。何故そうするのかというと、比丘が精勤して方便を修習し、禅定において思惟し、心が清浄寂静となった後、心中にかくの如く法が如実に顕現するからである。
原文:如何が如実に顕現するや。老死が如実に現れ、老死集、老死滅、老死滅道跡が如実に現る。生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、識、行が如実に現る。行集、行滅、行滅道跡が如実に現る。此の諸法は無常にして、有為有漏なりと如実に現る。
釈:如何なる法が心中に如実に顕現するのであろうか。老死という法が如実に顕現し、何が老死であるか及び老死の縁を証得する。心中に老死が如何に集起するかが如実に顕現し、老死の集は生の集起によって出現することを証得する。心中に老死の滅没が如実に顕現し、生の滅没によって老死が滅没することを証得する。心中に更に老死滅の修道の用功方法が如実に顕現し、八正道を修習して初めて老死の法を滅除できることを知る。
精勤して禅定と思惟観行を修習すれば、生という法が心中に如実に顕現し、生の縁を証得し、生の現象を知る。生の集起が心中に如実に顕現し、生の滅去の理が心中に如実に顕現し、生を滅する修道方法が心中に顕現する。同じく他の法、例えば有、取、愛、受、触、六入処、名色、六識、行らも皆心中に顕現し、乃ちこれらの支分の集、滅道跡までもが心中に顕現する。これらの全ての支分は生滅無常であり、有為法であり、また有漏の煩悩ある法であることを証得する。故に全てを断除滅尽して初めて生死の係縛から解脱できるのである。
仏の教える修道方法は、禅思を修習し、内に其の心を寂せしむることであり、これは禅定と観行智慧の双修の方法であって、二者は欠くべからざるものである。内に其の心を寂せしむる時、禅定は甚深となり、心に雑念無し、この時に初めて意根の思を用いることができ、法を証得し、諸法が如実に顕現するのである。方便の禅思が無く、内心が寂静でなければ、深く思惟し観行することができず、実証は不可能である。如実の顕現は現量の智慧境界を表し、意根の実証を表す。非量や比量は如実の顕現ではない。
十二因縁法が心中に如実に顕現することは非常に容易ではない。意識で解するのは、もちろん大変困難ではない。理解は比較的容易であるが、如実に実証し、十二因縁の実質と来歴を明瞭にすることは非常に困難である。困難は禅定の修習と観行智慧の不足にある。禅定がなければ観行智慧はなく、如何に実際の観行に着手すべきかを知らず、禅定が浅ければ観行智慧は不足し、観行も軌道に乗らない。禅定が無いこと、或いは不足していることは、真に法の深義を思量することを妨げ、表面だけに留まり、情思意解に陥り、智慧は浅薄で深透せず、生死の業障に耐えられない。故に如何なる法を修習するにも、甚深の禅定と熟練した観行智慧が必要であり、如何に観を起こし思量すべきかを知り、定慧等持の三昧が容易に生じるのである。
(三六八)四十四種の智を如何に実証すべきか
原文:その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、無量の三摩提を修すべし。専精に繫念すべし。無量の三摩提を修し、専精に繫念したる後、かくの如く如実に顕現す。如何が如実に顕現するや。謂わく老死が如実に現る。乃至行が如実に現る。此の諸法は無常にして、有為有漏なりと、かくの如く如実に現る。
釈:世尊は諸比丘たちに告げたまわく、汝らは無量の禅定を修習し、定中において一心不乱に精勤して十二因縁法を繫念すべきである。無量の禅定において精勤に十二因縁法を繫念した後、法義が初めて心中に如実に顕現するのである。如何なる法が如実に顕現するのか。老死という法が心中に如実に顕現し、老死の現象、老死の因、老死の縁、老死が如何に集起するか、老死が如何に滅去するか、老死を滅去するために修する八正道が、皆如実に顕現し、心中は非常に明瞭となる。
乃ち生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、六識、行らの法がそれぞれ心中に顕現し、これらの法の現象、これらの法を生じる因と縁、これらの法が如何に集起するか、如何に滅去するか、これらの法を滅去するために修する八正道が、皆心中に如実に顕現する。これらの法は皆無常であり、有為の有漏法である。この理が心中にかくの如く如実に顕現すれば、解脱の大智慧を得るのである。
如実とは法の本然の状態であり、真実で人知れざる状態である。衆知の表面現象ではなく、生滅、変異、無常、苦、空、無我である。心中がかくの如く法を顕現し得れば、智慧は刹那に生起し、心は解脱の境に住するのである。
(三六九)十二因縁を逆順に観察す
原文:その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、昔、毘婆尸仏が未だ正覚を成ぜざりし時、菩提の所に住し、久しからずして成仏せり。菩提樹の下に詣で、草を敷きて座と為し、結跏趺坐し、端坐正念す。一坐七日、十二縁起を逆順に観察す。所謂く此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起る。無明を縁として行あり、乃至生を縁として老死有り、及び純大苦聚の集まり、純大苦聚の滅ぶことを。彼の毘婆尸仏は正坐すること七日を以て已り、三昧より覚めて、此の偈を説きたまわく。
釈:世尊は諸比丘に告げたまわく、往昔、毘婆尸仏が未だ成仏せざりし時、菩提道場に住し、久しからずして成仏せり。毘婆尸仏は菩提樹の下に至り、草を敷きて禅座と為し、両脚を組んで静坐し、端身正念し、連続して七日坐し、十二因縁法について先ず順向に観察し、後に逆向に観察せり。此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起るという十二因縁を観察す。無明を縁として行有り、乃至生を縁として老病死憂悲苦悩の純大苦聚が集まり、純大苦聚が滅ぶことを観ず。毘婆尸仏は端身正坐すること七日の後、三昧より起座し、次の偈を説きたまう。
十方諸仏も、十方の大菩薩も、及び辟支仏・縁覚仏も、十二因縁法を観察する時は、皆甚深の禅定において観を起こし、定慧等持し、三昧定境を有し、観行成就し、以て実証し、解脱の三昧境界を得るのである。如何なる法門を実証するも皆甚深の禅定において観修し、戒定を離れずして三昧慧を証得する。禅定がなければ真実の観行はできず、実証は不可能である。故に諸仏菩薩や辟支仏・阿羅漢が推理の方式によって十二因縁或いは四聖諦を証得した、或いは明心見性したと誤解してはならない。聖賢が仏法を証得するは、一として甚深の禅定にあらざるはなく、一として禅定を具足せざるはなく、一人として推理や情思意解に依り、仏法を意解した者はない。
原文:此の如く諸法生ず 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離る 因縁生の法を知る
若し因の生む苦を知り 諸の受の滅尽を知り 因縁法の尽くるを知らば 則ち有漏の尽くるを知る
此の如く諸法生ず 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離る 因有って生ずる苦を知る
此の如く諸法生ず 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離る 諸の受の滅尽を知る
此の如く諸法生ず 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離る 因縁法の尽くるを知る
此の如く諸法生ず 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離る 諸の有漏を尽くすを知る
此の如く諸法生ず 梵志は勤めて禅を思う 普く諸の世間を照らす 日の如く虚空中に住するが
如し 諸の魔軍を破壊し 諸の結を覚めて解脱す。
釈:これらの法は如何に生ずるか、梵志は禅定において精勤に思量し、最後に思量が通達し、永遠に全ての疑惑を離れ、心開意解し、一切法は因縁所生であることを実証する。もし種々の因縁によって生老病死憂悲苦悩が生じることを証得し、全ての受が滅尽することを証知し、因縁所生の法が尽きることを証知すれば、この時に漏尽通を証得し、全ての煩悩漏は断除される。これらの因縁生法を、梵志は精勤に禅定において思量し、其の智慧を以て一切世間を普く照らし、太陽の如く虚空中に住し、一切の魔軍を破壊し、諸法を覚り、煩悩結を断除し、永く解脱を得るのである。