衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月11日 閲覧数: 1425

第三節 四十四種の智を如何に実証するか

(三六七)四十四種の智を如何に実証するか

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。方便を勤めて禅思を修習し、内にその心を寂(しず)めなさい。なぜならば、比丘よ、禅思し、内に心を寂める者は、方便を精勤するがゆえに、このように如実に現れるからである。

釈:世尊は諸比丘たちに言われた:あなた方は精勤して適切な方法を求め、禅定において清浄に思惟を修習し、内心を寂静にすべきである。なぜこのようにするのか。比丘が精勤して方便を修習し、禅定において思惟し、心が清浄寂静になった後、心の中にこのように法が如実に現れるからである。

原文:如何が如実に現れるか。老死が如実に現れる。老死の集(しゅう)、老死の滅(めつ)、老死滅の道跡(どうせき)が如実に現れる。生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、識、行が如実に現れる。行の集、行の滅、行滅の道跡が如実に現れる。これらの諸法は無常であり、有為(うい)で有漏(うろ)であることが如実に現れる。

釈:どのような法が心の中に如実に現れるのか。老死という法が如実に現れ、何が老死であり、老死の縁であるかを証得する。心の中に老死が如何に集起するかが如実に現れ、老死の集は生の集起によって生じることを証得する。心の中に老死の滅没が如実に現れ、生の滅没によって老死が滅没することを証得する。心の中に老死を滅する修道の方法が更に如実に現れ、八正道を修習しなければ老死の法を滅除できないことを知る。

禅定と思惟観行を精勤して修習すれば、生という法が心の中に如実に現れ、生の縁を証得し、生の現象を知る。生の集起が心の中に如実に現れ、生の滅する理が心の中に如実に現れ、生を滅する修道の方法が心の中に現れる。同様に他の法、すなわち有、取、愛、受、触、六入処、名色、六識、行が心の中に現れ、さらにはこれらの支分の集、滅、道跡までもが心の中に現れる。これらのすべての支分が生滅無常であり、有為法であり、また有漏で煩悩のある法であることを証得する。したがって、これらをことごとく断除滅尽しなければ、ついに生死の束縛から解脱できない。

仏が教える修道の方法は:禅思を修習し、内に心を寂めることである。これは禅定と観行の智慧を双修する方法であり、二者はどちらも欠かせない。内に心を寂めるとき、禅定は非常に深く、心に雑念がなく、このときに初めて意根の思(し)を起こすことができ、法を証得し、諸法が如実に現れるのである。もし方便による禅思がなく、内心が寂静でなければ、深く思惟し観行することができず、実証することはできない。如実に現れるとは現量(げんりょう)の智慧の境地を表し、意根の実証を表す。非量(ひりょう)や比量(ひりょう)は如実に現れるものではない。

十二因縁の法が心の中に如実に現れることは非常に容易ではない。意識で解することはもちろん、それほど困難ではない。理解は比較的容易であるが、如実に実証し、十二因縁の実質と来歴をはっきりと明らかにすることは非常に困難である。困難は禅定の修習と観行の智慧の不足にある。禅定がなければ観行の智慧はなく、実際にどのように観行すべきかがわからず、禅定が浅ければ観行の智慧が不足し、観行も軌道に乗らない。禅定がなく、あるいは禅定が不足していれば、真に法の深い意義を思量することはできず、表面をなぞるだけで、情思意解(じょうしいげ)に終始し、智慧は浅く深く透徹せず、生死の業障(ごうしょう)に耐えられない。したがって、いかなる法を修習するにも、甚深の禅定と熟練した観行の智慧が必要であり、如何に観を起こし思量すべきかを知り、定慧等持(じょうえとうじ)の三昧(さんまい)が生じやすくなるのである。

(三六八)四十四種の智を如何に実証するか

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。無量の三摩提(さんまてい)を修し、専精に系念(けねん)しなさい。無量の三摩提を修し、専精に系念した後、このように如実に現れる。如何が如実に現れるか。すなわち老死が如実に現れる。乃至(ないし)行が如実に現れる。これらの諸法は無常であり、有為で有漏であることが、このように如実に現れる。

釈:世尊は諸比丘たちに言われた:あなた方は無量の禅定を修習し、定中において一心に精勤して十二因縁の法を系念しなさい。無量の禅定において精勤して十二因縁の法を系念した後、法義が心の中に如実に現れるのである。何が如実に現れるのか。老死という法が心の中に如実に現れ、老死の現象、老死の因、老死の縁、老死が如何に集起するか、老死が如何に滅するか、老死を滅するために修する八正道が、ことごとく如実に現れ、心の中に非常にはっきりと明らかになる。

生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、六識、行といったこれらの法に至るまで、それぞれ心の中に現れる。これらの法の現象、これらの法を生じる因と縁、これらの法が如何に集起するか、如何に滅するか、これらの法を滅するために修する八正道が、すべて心の中に如実に現れる。これらの法はすべて無常であり、有為の有漏法である。この理が心の中にこのように如実に現れれば、解脱の大智慧を得るのである。

如実とは法の本然の状態、真実で人に知られていない状態であり、衆知の表面現象ではなく、生滅、変異、無常、苦、空、無我である。心の中にこのように法が現れることができれば、智慧は刹那(せつな)に生じ、心は解脱の境に住するのである。

(三六九)十二因縁を逆順に観察する

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。昔、毘婆尸仏(ビバシブツ)が未だ正覚(しょうがく)を成じていなかった時、菩提の所に住した。まもなく成仏し、菩提樹の下に詣(いた)り、草を敷いて座とし、結跏趺坐(けっかふざ)し、端坐して正念(しょうねん)し、一坐(いちざ)七日を経た。十二縁起を逆順に観察した。いわゆる此(こ)れ有るが故に彼(か)れ有り、此れ起こるが故に彼れ起こる。無明を縁として行あり、乃至生を縁として老死あり、及び純大苦聚(じゅんだいくしゅ)が集まり、純大苦聚が滅する。かの毘婆尸仏は正坐して七日を経た後、三昧より覚(さ)めて、この偈(げ)を説かれた。

釈:世尊は諸比丘に言われた:往昔、毘婆尸仏がまだ仏となっていなかった時、菩提道場に住し、まもなく成仏した。毘婆尸仏は菩提樹の下に行き、草を敷いて禅座とし、両足を組んで静坐し、端身正念し、連続して七日間坐った。十二因縁の法について先に順に観察し、後に逆に観察した。此れ有るが故に彼れ有り、此れ起こるが故に彼れ起こるという十二因縁を観察した。無明を縁として行があり、乃至生を縁として老病死憂悲苦悩の純大苦聚が集まり、純大苦聚が滅する。毘婆尸仏は端身正坐して七日を経た後、三昧の中から起座し、次のような偈を説かれた。

十方諸仏であれ、十方の大菩薩であれ、また辟支仏(びゃくしぶつ)や縁覚仏(えんがくぶつ)であれ、十二因縁の法を観察する時は、ことごとく甚深の禅定において観を起こし、定慧等持し、三昧の定境を具え、観行を成就し、それによって実証し、解脱の三昧の境地を得るのである。いかなる法門を実証するのも、ことごとく甚深の禅定において観修し、戒定を離れずして三昧慧を証得する。もし禅定がなければ、真実の観行はできず、実証することはできない。したがって、諸仏菩薩や辟支仏、阿羅漢が推理の方法によって十二因縁、あるいは四聖諦、あるいは明心見性を証得したと誤解してはならない。聖賢たちが仏法を証得するのは、ことごとく甚深の禅定においてであり、ことごとく禅定を具足している。推理や情思意解(じょうしいげ)に頼り、仏法を意解した者は一人もいない。

原文:かくの如く諸法の生ずるを 梵志(ぼんし)は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離れ 因縁の生ずる法を知る

若し因の生む苦を知らば 諸の受の滅尽を知る 因縁の法の尽くるを知らば 則ち有漏の尽くるを知る

かくの如く諸法の生ずるを 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離れ 因有(いんう)の生む苦を知る

かくの如く諸法の生ずるを 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離れ 諸の受の滅尽を知る

かくの如く諸法の生ずるを 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離れ 因縁の法の尽くるを知る

かくの如く諸法の生ずるを 梵志は勤めて禅を思う 永く諸の疑惑を離れ 尽く諸の有漏を知る

かくの如く諸法の生ずるを 梵志は勤めて禅を思う 普(あまね)く諸の世間を照らす 日に住するが如く虚空(こくう)に

諸々の魔軍(まぐん)を破壊し 諸の結(けつ)の解脱を覚(さと)る。

釈:これらの法はすべて如何にして生じるのか。梵志は禅定の中で精勤して思量し、ついに思量が通達し、永遠にすべての疑惑を離れ、心開意解し、一切の法が因縁によって生じることを実証する。もし種々の因縁によって老病死憂悲苦悩が生じることを証得し、すべての受が滅尽することを証知し、また因縁によって生じる法がことごとく滅尽することを証知すれば、この時に漏尽通(ろじんつう)を証得し、すべての煩悩漏(ぼんのうろ)が断除される。これらの因縁生法(いんねんしょうほう)について、梵志は精勤して禅定の中で思量し、その智慧をもって一切の世間を普く照らし、太陽のように虚空中に住し、一切の魔軍を破壊し、諸法を覚り、煩悩の結を断除し、永遠に解脱を得るのである。

ページトップへ戻る