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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 1026

第六章  中阿含大縁経(抄出)

原文:阿難。要如何観察我耶。阿難。受に対し。或は受を以て我が我とする者あり。或は受は実に我が我に非ざるが故に。感受を得ざる者を即ち我が我とする者あり。阿難。是の如く観察する我。或は受は実に我が我に非ざるが故に。又感受を得ざる者も亦我が我に非ず。我は応に我が領納に依る。即ち受の法こそ我が我なり。阿難。是の如く観察する我。

釈:仏は説きたまう。阿難よ。如何にして我を観察すべきか。阿難よ。受に対する観察には三種ある。一には、受を五陰我中の我と見做す者あり。二には、受は確かに五陰我中の我に非ず、一切の感受なき者こそ五陰我中の我なりと見做す者あり。阿難よ。かくの如く我を観察する者あり。三には、受は確かに五陰我中の我に非ず、且つ感受なき者も亦五陰我中の我に非ず。我は我が領納作用に依るべきなり。即ち受法こそ五陰我中の我なりと見做す者あり。阿難よ。是の如く我を観察する者あり。

この抄出内容は受を我あるいは非我の角度より十二因縁法を説く。仏は初めに三種の人々の三種の観察法と、そこから導き出された三種の結論を説くが、いずれも正しからず。以下に仏は如何にしてこれらが誤りであるかを弁証され、仏の挙げられる論拠は充分にして反駁の余地なし。

原文:阿難。此の中に於て受を以て我が我なりと説く者に対し。是の如く言わざるを得ず。友よ。此の受に三種あり。楽受・苦受・不苦不楽受なり。此等三受の中に於て、汝は何れを以て我と見るか。阿難。或る時に於て楽受を領納する時は、其の時に同時に苦受を領納せず、又不苦不楽受を領納せず。其の時は唯だ楽受を領納すべし。

釈:阿難よ。受を五陰我中の我と説く第一の者に対し、かく言わざるを得ない。善き友よ。この受には楽受・苦受・不苦不楽受の三種あり。この三種の受の中、汝は何れを以て我と見るか。阿難よ。或る時に楽受を領納する時は、同時に苦受を領納せず、また不苦不楽受を領納せず。その時はただ楽受を領納するのみなり。

原文:阿難。又或る時に於て苦受を領納する時は、其の時に同時に楽受を領納せず、又不苦不楽受を領納せず。其の時は唯だ苦受を領納すべし。阿難。又或る時に於て不苦不楽受を領納する時は、其の時に同時に楽受を領納せず、又苦受を領納せず。其の時は唯だ不苦不楽受を領納すべし。

釈:阿難よ。また或る時に苦受を領納する時は、この時同時に楽受を領納せず、また不苦不楽受を領納せず。この時はただ苦受を領納するのみなり。阿難よ。また或る時に不苦不楽受を領納する時は、この時同時に楽受を領納せず、また苦受を領納せず。ただ不苦不楽受を領納するのみなり。

仏陀のこの段の闡明は、我を観察するに容易ならしむ。もし受を以て我と為せば、受に三種ある故に我も三種あることとなる。然るに同一時に於ては、ただ一つの受のみ存在す。即ちこの受のみが我であり、他の二種の受は我に非ず。ここに矛盾が生ず。明らかに受を以て我と為すは正しからず。これにより受は我に非ざることを示す。もし受が我ならば、三種の受は同時に皆我であるべきなり。然るに三種の受は同時に存在せず、受は互いに相対立す。これにより受を以て我と為すは誤謬なることを示す。

或る者は言わん。受はもちろん第八識たるこの我に非ず。然るにこれらの文と観察の内容は、第八識と関連付け得るか。明らかに不可なり。声聞の者全ては現前に第八識を観察し得ず、汝は受が第八識に非ざることを証明し得ず。仮に受が第八識に非ざることを証明し得たとしても、なお受非我を証得せざるなり。この我とは能作主宰の五陰我を指す。特に未だ我見を断たざる凡夫の声聞は、第八識を開悟実証し得ず、従って受非第八識との結論を導き得ざるなり。もし観行の次第が顛倒せば、実証は不可能なり。何れの者も第八識を現前に観察せんと想像すること能わず。想像するは猜測臆想に過ぎず、何らの作用もなし。

原文:阿難。楽受は実に無常にして有為、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅法なり。阿難。苦受も亦実に無常にして有為、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅法なり。阿難。不苦不楽受も亦実に無常にして有為、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅法なり。

釈:阿難よ。楽受は確かに無常なる有為法、種々の因縁によって生起する法、滅尽すべき法、壊れ敗れる法、この受への貪欲を離るべき法、滅する法なり。阿難よ。苦受もまた確かに無常なる有為法、種々の因縁によって生起する法、滅尽すべき法、壊れ敗れる法、貪欲を離るべき法、滅する法なり。阿難よ。不苦不楽受もまた確かに無常なる有為法、種々の因縁によって生起する法、滅尽すべき法、壊れ敗れる法、この受への貪欲を離るべき法、滅する法なり。

原文:若し楽受を領納して、尚思惟して此れを我が我と為す者は、彼は又楽受の滅に依り、実に思惟すべからず。我が我の滅を。若し苦受を領納して、尚思惟して此れを我が我と為す者は、彼は又苦受の滅に依り、実に思惟すべからず。我が我の滅を。若し不苦不楽受を領納して、尚思惟して此れを我が我と為す者は、彼は又不苦不楽受の滅に依り、実に思惟すべからず。我が我の滅を。

釈:楽受を領納する時に、なおこの能領納を以て我と為す者は、楽受の滅を見る時、実に能領納たる我の滅を思惟すべからず。苦受を領納する時に、なお能領納を以て我と為す者は、苦受の滅を見る時、実に能領納たる我の滅を思惟すべからず。不苦不楽受を領納する時に、なお能領納を以て我と為す者は、不苦不楽受の滅を見る時、実に能領納たる我の滅を思惟すべからず。

原文:是の如く言う者、受を以て我が我とする者に対し、現見の法に於て我が無常なるを観察せしむべし。楽苦皆滅尽すべき生滅法に帰す。阿難。是の故に此れに依り、観察すること不可能なり。受を以て我が我とするを。

釈:第一の者、受を五陰我中の我と為す説に対し、現前に見る法においてこの我が無常なるを観察すべし。楽受・苦受は皆滅尽すべき生滅法に帰す。阿難よ。故に受を無常生滅の現象と見るに依り、受を五陰我中の我と観察することは不可能なり。

原文:阿難。此の中に又言う。受は実に我が我に非ず。感受を得ざる者即ち我が我なりと。彼に対し是の如く言うべし。友よ。一切の所受なき処に於て、其の処に還って我有りと思惟するを得んや。世尊。実に然らず。阿難。是の故に此れに依り、観察すること不可能なり。受は実に我が我に非ず、感受を得ざる者即ち我が我なりと。

釈:阿難よ。第二の者はまた言う。受は確かに五陰我中の我に非ず、受以外の感受なき者(色・想・行・識)こそ五陰我中の我なりと。この誤った見解を持つ者に対し、かく問うべし。善き友よ。苦楽受及び不苦不楽受なき処、即ち色・想・行・識の処に於て、なお色想行識を以て我と為すか。阿難は答えて言う。実に以て然るべからず。仏は説きたまう。阿難よ。故にこの説に依り、受は確かに五陰我中の我に非ず、受以外の色想行識こそ我なりと観察することは不可能なり。

原文:阿難。此の中に又言う。受は実に我が我に非ず。我が我も亦感受を得ざる者に非ず。我は応に我が領納に依る。即ち我が我は受法なりと。彼に対し是の如く言うべし。友よ。一切の感受完全に滅尽せし時、即ち一切の受無し。此の受の滅に由り、還って思惟するを得んや。此れに我が我有りと。世尊。実に然らず。是の故に阿難。此れに依り観察すること不可能なり。受は実に我が我に非ず、感受を得ざる者も亦我が我に非ず。我は我が領納に応ず。即ち我は受法なりと。

釈:阿難よ。第三の者はまた言う。受は確かに五陰我中の我に非ず、我もまた非受の色想行識に非ず。我は我が領納性に依るべきなり。即ち五陰我中の我は受法なりと。この観念を持つ者に対し、かく言うべし。善き友よ。一切の感受が完全に滅尽した後、一切の受無き時、受の滅に由り、なお能領納たる受法を以て五陰我中の我と為すか。阿難は答えて言う。受は確かに我に非ず。仏は説きたまう。阿難よ。故に能領納たる受に依るに、受は確かに我に非ず、受を離れた色想行識も亦我に非ず。我が我の領納性に依る、即ち領納即ち我、我は能領納たる受法なりと観察することは不可能なり。

衆生の考える我に五種あり。第一は色我、色陰を以て我と為し、色陰即ち我、我即ち色陰と見做す。第二は受我、受を以て我と為し、受即ち我、我即ち受と見做す。第三は想我、想を以て我と為す。第四は行我、行を以て我と為す。第五は識我、識を以て我と為す。衆生が受を以て我と為す時、心中に受我という我の思想観念を生ず。衆生が我見を断たざる時、或いは五種の我の何れかを以て我と為し、他のものを以て我所と為し、或いは五受陰を悉く我と為す。これ即ち我見の範疇なり。

原文:阿難。是の故に比丘。受を以て我と観察せず。亦感受を得ざる者を以て我と観察せず。又我は我が領納に依る。即ち我が我は受法なりと観察せず。是の如き我を観ぜざる者は、彼は世間の如何なる者に対しても執着せず。執着なき故に恐怖無し。恐怖無き故に独り般涅槃す。自ら生已り尽き、梵行已に立ち、所作已に作られ、更に後有無きことを知る。

釈:阿難よ。故に比丘たちは受を以て我と為すべからず、また色想行識を以て我と為すべからず、また我が領納性に依るべからず、我是受法との観念を持つべからず。これらの法を以て我と為さざる者は、如何なる法に対しても執着を生ぜず、内心に恐怖無し。恐怖無きが故に、独り涅槃を証得し、自ら生死の尽きたることを証知し、清浄なる梵行は已に立ち、この世に為すべき解脱は已に修め終わり、再び後有を受くること無し。

原文:阿難。是の如く。心解脱の比丘は如来に問わず。我が死後に有りやと。若し彼是の言に執着せば、彼は正しからず。如来に問わず。我が死後に無しやと。若し彼是の言に執着せば、彼は正しからず。

釈:阿難よ。かくの如く心解脱した比丘は如来に問わない。我が死後に三界の有あるやと。もし比丘が死後に尚三界の有あると執着せば、彼は未だ正知見を具足せず、阿羅漢の正位に入らず、心解脱の阿羅漢に非ず。心解脱の比丘はまた如来に問わない。我が死後に一切法存在せざるやと。もし比丘が死後に一切法滅尽すと執着せば、彼は未だ正知見を具足せず、阿羅漢の正位に入らず、心解脱の阿羅漢に非ず。

原文:如来に問わず。我が死後に亦有り亦無しやと。若し彼是の言に執着せば、彼は正しからず。如来に問わず。我が死後に亦非有り亦非無しやと。若し彼是の言に執着せば、彼は正しからず。

釈:心解脱の比丘は如来に問わない。我が死後に有り且つ無しやと。もし彼が死後に亦有り亦無しと執着せば、正知見無く阿羅漢の正位に入らず、心解脱の阿羅漢に非ず。心解脱の比丘は如来に問わない。我が死後に非有り非無しやと。もし彼が死後に非有り非無しと執着せば、未だ正知見を具足せず、心解脱の阿羅漢の位に入らず。

正位に入った四果阿羅漢は心解脱し、一切解脱し、知見も解脱す。死後に有り無し、亦有り亦無し、非有り非無しと執着せず、心中一切の不正知見を泯絶し、死後の有無に執着すること無く、一切の念想執着を滅尽して解脱を得、命終して無余涅槃に入る。

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