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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1048

第六章  中阿含大縁経(抜粋)

原文:阿難よ。いかにして我を観察すべきか。阿難よ。受に対し、或いは受を以て我の我とし、或いは受は実に我の我に非ずとし、感受することを得ざる者、即ち我の我なりとす。阿難よ。かくの如く我を観察するなり。或いは受は実に我の我に非ずとし、又感受することを得ざる者も亦た我の我に非ずとし、我は我の領納に依るべきなり、即ち受の法こそ我の我なりとす。阿難よ。かくの如く我を観察するなり。

釈:仏は説きたまわく、阿難よ、いかにして我を観察すべきか。阿難よ、受の観察には三種あり、一つには、或る者は受を五蘊の我の中の我と認め、他の一つには、或る者は受は確かに五蘊の我の中の我ではなく、何ら感受しない者こそが、いわゆる五蘊の我の中の我であると認め、阿難よ、或る者はかくの如く我を観察する。第三には、或る者は受は確かに五蘊の我の中の我ではなく、且つ何ら感受しない者も亦た五蘊の我の中の我ではなく、我は我の領納機能作用に依るべきである、即ち受法こそが、いわゆる五蘊の我の中の我であると認める。阿難よ、或る者はかくの如く我を観察する。

この抜粋内容は、受が我であるか非我であるかの角度から十二因縁法を説いたものであり、仏は初めに三種の人々の三種の観察法と、そこから導き出された三種の結論を説かれたが、その結果は悉く正しくなかった。以下において仏は、如何にしてそれが正しくないかを弁証され、仏の挙げられた論拠は充分であり、弁駁の余地なきものである。

原文:阿難よ。此の中に於いて、受を我の我なりと言う者に対しては、かくの如く言わざるを得ず。友よ、此の受には三種あり、是れ楽受、苦受、不苦不楽受なり。此等の三受の中に於いて、汝は何を以て我と見るか。阿難よ。若し或る時に於いて、楽受を領納する時は、其の同時に苦受を領納せず、又不苦不楽受を領納せず、其の時は唯だ楽受を領納すべきなり。

釈:阿難よ、受を五蘊の我の中の我であると言う第一種の人々に対しては、かくの如く言わざるを得ない:善き友よ、この受には楽受、苦受、不苦不楽受の三種がある、この三種の受の中で、汝はどの受をもって我とするか。阿難よ、もし或る時に楽受を領納している時は、同時に苦受を領納せず、また不苦不楽受を領納せず、この時はただ楽受のみを領納する。

原文:阿難よ。若し又或る時に於いて、苦受を領納する時は、其の同時に楽受を領納せず、又不苦不楽受を領納せず、其の時は唯だ苦受を領納すべきなり。阿難よ。若し又或る時に於いて、不苦不楽受を領納する時は、其の同時に楽受を領納せず、又苦受を領納せず、其の時は唯だ不苦不楽受を領納すべきなり。

釈:阿難よ、もしまた別の時に苦受を領納しているならば、この時は同時に楽受を領納できず、また不苦不楽受を領納できず、この時はただ苦受のみを領納する。阿難よ、もしまた或る時に不苦不楽受を領納しているならば、この時は同時に楽受を領納できず、また苦受を領納できず、ただ不苦不楽受のみを領納する。

仏陀のこの段の闡明は、我にとって観察しやすく、もし受を我とするならば、受には三種ある故に、我も三種となる。しかし同一時においては、ただ一つの受しか存在せず、そうなるとその受のみが我であり、他の二種の受は我ではない。これでは矛盾が生じる。明らかに受を我とするのは正しくない。これによって受は我ではないと説明されるのである。もし受が我であるならば、三種の受は同時に悉く我であるべきであるが、三種の受は同時に存在せず、受は互いに対立するものであるから、受を我とするのは誤りであることが明らかとなる。

或る者は言うであろう、受は当然第八識というこの我ではない、しかしこれらの文字や観察の内容は、第八識と結びつけることができようか。明らかにできない。声聞の者は悉く第八識を現前に観察することができない故に、受が第八識であるか否かを証明することはできず、たとえ受が第八識ではないと証明できたとしても、依然として受非我を証得したことにはならない。何故ならば、この我は第八識を指すのではなく、能く主宰をなす五蘊の我を指すからである。特に未だ我見を断たざる凡夫の声聞人には、第八識を開悟し実証することが不可能であるから、受は第八識ではないという結論を導き出すことはできない。もし観行の次第が顛倒しているならば、実証はあり得ない。何故ならば、誰しも第八識を想像して現前に観察することはできず、想像し出したものは憶測・臆想と呼ばれ、何の役にも立たないからである。

原文:阿難よ。楽受は実に無常にして有為、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅法なり。阿難よ。苦受も亦た実に無常にして有為、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅法なり。阿難よ。不苦不楽受も亦た実に無常にして有為、縁起の法、滅尽の法、壊敗の法、離欲の法、滅法なり。

釈:阿難よ、楽受は確かに無常なる有為法であり、種々の因縁によって生起する法、能く滅尽する法、壊敗する法、この受に対する貪欲を離れる法、滅する法である。阿難よ、苦受も確かに無常なる有為法であり、種々の因縁によって生起する法、能く滅尽する法、壊敗する法、貪欲を離れる法、滅する法である。阿難よ、不苦不楽受も確かに無常なる有為法であり、種々の因縁によって生起する法、能く滅尽する法、壊敗する法、この受に対する貪欲を離れる法、能く滅する法である。

原文:若し楽受を領納する時、尚も思惟して、此れは我の我なりとすれば、彼は又楽受の滅に依って、実に思惟すべからず、我の我滅せりと。若し苦受を領納する時、尚も思惟して、此れは我の我なりとすれば、彼は又苦受の滅に依って、実に思惟すべからず、我の我滅せりと。若し不苦不楽受を領納する時、尚も思惟して、此れは我の我なりとすれば、彼は又不苦不楽受の滅に依って、実に思惟すべからず、我の我滅せりと。

釈:もし楽受を領納している時に、尚もこの能く楽受を領納するものが我であると考えるならば、然るに楽受が滅した時を見るに、確かに再び能く楽受を領納する我が滅したと考えるべきではない。もし苦受を領納している時に、尚も能く苦受を領納するものが我であると考えるならば、然るに苦受が滅した時を見るに、確かに能く苦受を領納する我が滅したと考えるべきではない。もし不苦不楽受を領納している時に、尚も能く不苦不楽受を領納するものが我であると考えるならば、不苦不楽受が滅した時を見るに、確かに能く不苦不楽受を領納する我が滅したと考えるべきではない。

原文:かくの如く言う者、受は我の我なりとする者は、現に見る法に於いて、我は無常なりと観察すべきなり。楽も苦も皆消滅に帰する生滅法なりと。阿難よ。是の故に此れに依って、受は我の我なりと観察することは不可能なり。

釈:第一種の人、即ち受は五蘊の我の中の我であるとする説に対しては、現前に接触し得る法の中において、この我は無常であると観察すべきである。楽受、苦受は悉く滅し得る生滅法に帰するものであると。阿難よ、それ故に受は無常生滅の現象であることに依って、受が五蘊の我の中の我であると観察し出すことは不可能である。

原文:阿難よ。此の中に又言う、受は実に我の我に非ず、感受することを得ざる者、即ち我の我なりと。彼に対してはかくの如く言うべきなり。友よ、一切の所受なき処、其の処に於いて、尚も思惟して我有りと得るか。世尊よ、実に然らず。阿難よ。是の故に此れに依って、受は実に我の我に非ず、感受することを得ざる者、即ち我の我なりと観察することは不可能なり。

釈:阿難よ、第二種の人はまた言う:受は確かに五蘊の我の中の我ではなく、受以外の感受なき想・行・識こそが五蘊の我の中の我であると。このような正しからざる見解を持つ者に対しては、かくの如く問うべきである:善き友よ、苦楽受も不苦不楽受もない処、即ち色・想・行・識の処において、汝は尚も色・想・行・識に我があると考えるか。阿難は答えて言う:実に色・想・行・識を我と考えるべきではない。仏は説きたまわく:阿難よ、それ故にこのような説に依って、受は確かに五蘊の我の我ではなく、受以外の色・想・行・識こそが我であると観察し出すことは不可能である。

原文:阿難よ。此の中に又言う、受は実に我の我に非ず、我の我も亦た感受することを得ざる者に非ず、我は我の領納に依るべきなり、即ち我の我は受法なりと。彼に対してはかくの如く言うべきなり。友よ、一切の感受が完全に消滅する時、即ち一切の受無きに至る時、此の受の滅によって、尚も思惟して、此処に我の我有りと得るか。世尊よ、実に然らず。是の故に阿難よ、此れに依って、受は実に我の我に非ず、感受することを得ざる者も亦た我の我に非ず、我は我の領納に依るべき、即ち我は受法なりと観察することは不可能なり。

釈:阿難よ、第三種の人はまた言う:受は確かに五蘊の我の我ではなく、我も非受なる色・想・行・識ではなく、我は我の領納性に依止すべきである、即ち五蘊の我の中の我は受法であると。このような観念を持つ者に対しては、かくの如く彼に言うべきである:善き友よ、一切の感受が悉く消滅した後には、一切の受が無くなる、受が滅した故に、汝は尚も能く領納する受法こそが五蘊の我の中の我であると考えるか。阿難は答えて言う:受は確かに我ではない。仏は説きたまわく:阿難よ、それ故に能く領納する受に依止して、受は確かに我ではなく、受を離れた色・想・行・識も我ではなく、我は我の領納性を受け入れる、即ち領納こそが我であり、我は能く領納する受法であると観察し出すことは不可能である。

衆生の考える我には五種ある。第一は色我、色蘊を以て我とし、我は色蘊である、色蘊は我であると認める。第二は受我、受を以て我とし、我は受である、受は我であると認める。第三は想我、想を以て我とし、我は想である、想は我であると認める。第四は行我、行を以て我とし、我は行である、行は我であると認める。第五は識我、識を以て我とし、我は識である、識は我であると認める。衆生が受を以て我とする時、心中には受我という我の思想観念が生じる。衆生が我見を断たざる時、或いは五種の我の何れかを以て我とし、他のものを以て我所とし、或いは五受蘊悉くを以て我とする。これが我見の範疇である。

原文:阿難よ。是の故に比丘は、受を以て我と観察せず、亦た感受することを得ざる者を以て我と観察せず、又我は我の領納に依るべき、即ち我の我は受法なりと観察せず。かくの如き我を観察せざる者は、彼は世間の如何なる者に対しても、悉く執着せず。執着せざるが故に、恐怖有ること無し。恐怖無きが故に、独り般涅槃す。自ら生は已に尽き、梵行は已に立ち、所作すべきことは已に作り終え、更に後有無きことを知る。

釈:阿難よ、それ故に比丘たちは受を以て我とすべきではなく、また色・想・行・識を以て我とすべきではなく、更に我の領納性に依止すべきではなく、私は受法であるという観念を持つべきではない。これらの法を以て我としない者は、如何なる法に直面する時も、執着を生じない。内心に恐怖がない。恐怖がないが故に、ただ涅槃を取証するのみである。自ら生死は既に尽きたと証知し、清浄な梵行は既に建立された、この生に修すべき解脱は既に修し終え、再び後世の有法を受けることはない。

原文:阿難よ。かくの如く、心解脱の比丘は、如来に問わず、死後有りやと。若し彼が是の言に執着するならば、彼は正しからず。如来に問わず、死後無しやと。若し彼が是の言に執着するならば、彼は正しからず。

釈:阿難よ、かくの如く、心解脱の比丘は如来に問わない、我は死後なお後世の有があるかと。もし比丘が執着して死後もなお三界の有があると考えるならば、彼は未だ正知見を具足せず、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。心解脱の比丘はまた如来に問わない、我は死後一切の法が存在しないのかと。もし比丘が執着して自分が死後一切の法が悉く滅すると考えるならば、彼は未だ正知見を具足せず、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。

原文:如来に問わず、死後亦有り亦無しやと。若し彼が是の言に執着するならば、彼は正しからず。如来に問わず、死後亦非有、亦非無やと。若し彼が是の言に執着するならば、彼は正しからず。

釈:心解脱の比丘はまた如来に問わない、我は死後は後世の有もあり、また無もあるのかと。もし彼が執着して自分が死後は有もあり無もあると考えるならば、彼は正知見がなく、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。心解脱の比丘は如来に問わない、我は死後は後世の有でもなく、また無でもないのかと。もし彼が執着して自分が死後は後世の有でもなく無でもないと考えるならば、彼は未だ正知見を具足せず、阿羅漢の正位に入っておらず、心得解脱の阿羅漢ではない。

既に正位に入った四果阿羅漢は、心解脱し、一切解脱し、知見も解脱し、死後有るか死後無いか、有もあり無もあるか、非有非無かを考えず、心中に一切の不正知見を泯絶し、死後が有るか無いかに執着せず、死後が有るか無いか、或いは非有非無かにかかわらず、一切の念想執着が滅尽して初めて解脱を得、命終して無余涅槃に入る。

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