阿含経十二因縁釈
第二節 長阿含経巻一(十二因縁)
原文:仏、比丘に告げたまわく。太子、老いたる人、病める人を見て、世の苦悩なることを知り、また死せる人を見て、世を恋う情、滅し、及び沙門を見て、廓然として大悟し、宝車より下りし時、歩歩の中間、縛着を転じて遠ざかる。是れ真の出家なり。是れ真の遠離なり。
釈:仏は諸比丘たちに仰せになった。毘婆尸仏が太子であった時、宮廷の四つの大門を出た際、老人と病人を見てこの世が苦悩に満ちていることを知り、さらに死人を見た時、この世に貪り執着する心が消え、後に出家した沙門を見て大いに悟りを開き、宝車から降りた時、一歩一歩進むごとに、心は世間の煩悩の束縛から遠ざかっていった。その時、太子は真に出家し、真に世間の煩悩から遠離したのである。
これを善根と言い、無量億劫にわたる修持の結果である。これこそが仏陀の再来であり、世間に触れるやいなや、世間の苦を知り、速やかに煩悩の束縛から遠ざかり、世間の真実の理を徹見し、心が出家し、後に身も出家するのである。しかし、善根の浅い凡夫衆生は、世間のいかなる事に遭遇しても、心は麻痺して覚醒せず、世間が苦・空・無常・無我であることを知らず、世間に順じて貪・瞋・痴の煩悩に従い、煩悩の業を造り、生死の流れに逐われるのである。
原文:時に彼の国の人々、太子が鬚髪を剃除し、法服を着け、鉢を持ち、出家して道を修めることを聞き、咸(みな)相謂いて言う。『この道は必ず真実なり。乃ち太子をして、国の栄位を捨て、重んずる所を捐棄せしむ』と。時に国中、八万四千の人、太子のもとに往き就き、弟子たらんことを求め、出家して道を修む。仏、時に頌して曰く。『深妙の法を撰択し、彼は聞きて随って出家す。恩愛の獄を離れ、衆の結縛無し』。
釈:この時、国内の人々が太子が鬚髪を剃り、出家の衣を着け、鉢を持ち、出家して道を修めたと聞き、互いに慰め合って言った。「道を修めるというこのことは必ず非常に真実であるに違いない。だからこそ太子は国王の栄華富貴を捨て、負うべき重荷を投げ捨てたのだ」と。そこで国中の八万四千人が太子のもとに駆けつけ、弟子となることを願い出家して道を修めた。仏は一つの偈を述べられた。毘婆尸太子はあの甚深微妙な解脱の法に出会い、それを聞いて直ちに出家して道を修め、世間の恩愛の地獄を離れ、もはや数多くの生死の束縛はなくなったのである。
原文:時に太子、即ち便ち納受し、之とともに游行し、在在に教化し、村より村へ、国より国へ、至る所、恭敬せざる無く、四事を以て供養す。菩薩、念いて言う。『吾が大衆とともに諸国を游行す。人間は愦鬧(けいどう)たり。此れ我に宜しきに非ず。何の時に当たりてか、此の群衆を離れ、閑静の処を得ん。以て道の真を求めん』と。
釈:そこで太子はその時にこれらの弟子たちを受け入れ、彼らと共に各所を巡り歩き衆生を教化し、一つの村落から次の村落へ、一つの国から次の国へと渡り歩いた。訪れる所々で、民衆は皆恭敬の念を持ち、飲食・衣服・臥具・医薬の四事をもって供養した。太子菩薩は心に思った。「私が大衆と共に諸国を巡り歩くのは、人間界がかくも騒がしい。これは私がいるべき場所ではない。私はいつになったらこの人々から離れ、静かな場所で修行し、真の道の果を得ることができるだろうか」と。
原文:尋(すなわ)ち志願を獲て、閑静の処に於いて、専精として道を修む。復た是の念いをなす。『衆生は愍れむべし。常に闇冥の処に処り、身を受くること危脆(きぜい)なり。生有り、老有り、病有り、死有り。衆苦の集まる所なり。此処に死して彼処に生じ、彼処より生じて此処に生ず。此の苦陰(くおん)を縁とし、流転して窮まり無し。我は何の時に当たりてか、苦陰を暁了し、生老死を滅せん』と。
釈:間もなくして願いが叶い、空閑で静かな場所を見つけ、専心精進して道を修めた。太子菩薩は心に更にこのように思った。「衆生は憐れむべきである。常に暗く深い幽冥の世界におり、得た肉体は脆く危うい。生・老・病・死という多くの苦しみが集まっている。ここで死ねばあちらに生まれ、あちらで死ねばまたここに生まれる。彼らはこのような苦しみの集まり(苦陰)に執着し、生死を流転して際限がない。私はいったいいつになったらこの苦陰を明らかに理解し、生・老・病・死を滅することができるだろうか」と。
世尊のこの叙述からわかるように、諸仏菩薩が歴劫にわたって道を修める過程で、最初は皆、人のいない僻地で一人精進専修し、人々の騒がしさから遠ざかり、修行して成就を得た後、初めて人々の中で教化し、衆生を度脱するのである。なぜなら、道は寂静の中で得られ、寂静は慧(智慧)を生じ、寂静は三昧(禅定)を得させるからである。それ故に、修行で何らかの成就を得た者は皆、一人で静かに修行する段階を経て、世俗の貪・瞋・痴や騒がしさから離れ、名声や利養から遠ざかり、心が清浄になって初めて道に入ることができるのである。
原文:復た是の念いをなす。『生死は何より従(よ)りて来るか。何の縁によりて有るか』と。即ち智慧を以て、由(よ)る所を観察す。生有りて老死有り。生は老死の縁なり。生は有より起こる。有は生の縁なり。有は取より起こる。取は有の縁なり。取は愛より起こる。愛は取の縁なり。愛は受より起こる。受は愛の縁なり。
釈:太子が道を修める時、心に再びこのような思いが浮かんだ。「生死はどこから来るのか? 何の因縁によって存在するのか?」。この疑問を打破するために、智慧をもって生死の来由を観察し、最終的に証得した。老死は生から来る。生は老死が生じる因縁である。生は三界の有(存在)から来る。有は生という現象が生じる因縁である。有は執取(取)から生じる。執取は有が生じる因縁である。執取は愛(渇愛)から来る。愛は執取が生じる因縁である。愛は受(感受)から来る。受は愛が生じる因縁である。
原文:受は触より起こる。触は受の縁なり。触は六入より起こる。六入は触の縁なり。六入は名色より起こる。名色は六入の縁なり。名色は識より起こる。識は名色の縁なり。識は行より起こる。行は識の縁なり。行は痴より起こる。痴は行の縁なり。
釈:受は触(接触)から来る。触は受が生じる因縁である。触は六入(六処:眼・耳・鼻・舌・身・意)から来る。六入は触が生じる因縁である。六入は名色(精神と物質)から生じる。名色は六入が生じる因縁である。名色は六識(識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)から来る。六識は名色が生じる因縁である。六識は行(潜在的形成力、業)から来る。行は六識が生じる因縁である。行は痴(無明)から来る。無明は行が生じる因縁である。
原文:是れを縁として痴有れば行有り。行を縁として識有り。識を縁として名色有り。名色を縁として六入有り。六入を縁として触有り。触を縁として受有り。受を縁として愛有り。愛を縁として取有り。取を縁として有有り。有を縁として生有り。生を縁として老病死・憂悲苦悩有り。此の苦盛陰は、生を縁として有るなり。是れを苦集と為す。菩薩、苦集陰の時を思惟して、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、証を生ず。
釈:これが、愚痴(無明)があるから行があり、行があるから六識の業種(潜在的な識の種子)があり、六識の業種があるから名色があり、名色があるから六入があり、六入があるから触があり、触があるから受があり、受があるから愛があり、愛があるから取があり、取があるから有(三界の存在)があり、有があるから生があり、生があるから老病死憂悲苦悩がある、と言われる所以である。この苦しみの集まり(苦盛陰)は生があるが故に現れるのであり、これが苦集(苦しみの原因の集まり)である。太子菩薩が苦陰の集まり(苦集)を思惟した時、縁起の智慧(縁生智)が生じ、清浄な法眼が生じ、覚りが生じ、明達が生じ、通明が生じ、智慧が生じ、明証が生じた。
原文:時に菩薩、復た自ら思惟す。『何等無ければ老死無し。何等滅すれば老死滅す』と。即ち智慧を以て、由る所を観察す。生無ければ老死無し。生滅すれば老死滅す。有無ければ生無し。有滅すれば生滅す。取無ければ有無し。取滅すれば有滅す。愛無ければ取無し。愛滅すれば取滅す。受無ければ愛無し。受滅すれば愛滅す。触無ければ受無し。触滅すれば受滅す。六入無ければ触無し。六入滅すれば触滅す。
釈:この時、菩薩は再び独りで思惟した。「何が無くなれば老死は無くなるのか? 何が滅びれば老死は滅びるのか?」。この問題を明らかにするために、太子菩薩は智慧をもって老死が滅びる縁由を観察し、最終的に証得した。生が無ければ老死は無い。生が滅びれば老死は滅びる。三界の有が無ければ生は無い。有が滅びれば生は滅びる。執取が無ければ有は無い。執取が滅びれば有は滅びる。愛が無ければ執取は無い。愛が滅びれば執取は滅びる。受が無ければ愛は無い。受が滅びれば愛は滅びる。触が無ければ受は無い。触が滅びれば受は滅びる。六入が無ければ触は無い。六入が滅びれば触は滅びる。
原文:名色無ければ六入無し。名色滅すれば六入滅す。識無ければ名色無し。識滅すれば名色滅す。行無ければ識無し。行滅すれば識滅す。痴無ければ行無し。痴滅すれば行滅す。是れを痴滅すれば行滅す。行滅すれば識滅す。識滅すれば名色滅す。名色滅すれば六入滅す。六入滅すれば触滅す。触滅すれば受滅す。受滅すれば愛滅す。愛滅すれば取滅す。取滅すれば有滅す。有滅すれば生滅す。生滅すれば老死・憂悲苦悩滅す。菩薩、苦陰滅する時を思惟して、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、証を生ず。
釈:名色が無ければ六入は無い。名色が滅びれば六入は滅びる。六識の業種が無ければ名色は無い。六識の業種が滅びれば名色は滅びる。身口意の行(行為)が無ければ、六識の業種は無い。身口意の行が滅びれば、六識の業種は滅びる。無明が無ければ身口意の行は無い。無明が滅びれば、身口意の行は滅びる。それ故に言う:無明が滅びる故に行が滅び、行が滅びる故に六識が滅び、六識が滅びる故に名色が滅び、名色が滅びる故に六入が滅び、六入が滅びる故に触が滅び、触が滅びる故に受が滅び、受が滅びる故に愛が滅び、愛が滅びる故に取が滅び、取が滅びる故に有が滅び、有が滅びる故に生が滅び、生が滅びる故に老死憂悲苦悩が滅びる。太子菩薩が苦陰が滅びる時を思惟したならば、縁起の智慧(因縁智)が生じ、法眼が生じ、覚りが生じ、明達が生じ、通明が生じ、智慧が生じ、明証が生じた。
原文:爾の時、菩薩、十二因縁を逆順に観じ、如実に知り、如実に見ること已(おわ)りて、即ち座の上に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を成ず。仏、時に頌して曰く。『此の言は衆中に説く。汝等まさに善く聴くべし』。
釈:この時、太子菩薩は十二因縁を順に観じ、また逆に観じた後、十二因縁法を如実に証知し、如実の正見正智が生じ、十二因縁法を如実に証見した後、法座の上で阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)を成就した。仏はこの時に一つの偈を述べられた。「私は大衆の中でこれらの法を説く。あなたがたはよく聞くべきである」。
原文:過去、菩薩観ず。本(もと)未だ聞かざる法。老死は何の縁よりか。何に因りて有るか。かくの如く正観すること已りて、其の本は生に由ることを知る。生の本は何の縁よりか。何事に因りて有るか。かくの如く思惟すること已りて、生は有より起こることを知る。彼の彼を取ることを取るが已(すで)に、展転して更に有を増す。是の故に如来の説く所、取は是れ有の因縁なり。
釈:過去に、菩薩はかつて聞いたことのない十二因縁法を観じた。老死は何の因縁によって生じるのか? 何の因縁によって存在するのか? このように正しく観じた後、老死は本来、生によって現れることを知った。生は本来、何の因縁によって現れるのか? 何の故によって存在するのか? このように思惟した後、生は三界の有から生じることを証得した。諸法を執取(取彼取彼)した後、次第に有を更に堅固にした(展転更増有)。それ故に如來は、執取(取)が三界の有(存在)の因縁であると説かれたのである。
原文:衆の穢悪の聚(あつま)るが如く、風吹いて悪流演(ひろが)る。かくの如く取相の因、愛に因りて広普(ひろくゆきわた)る。愛は受より生ずるに由る。苦の羅網の本を起こす。染着の因縁を以ての故に、苦楽共に相応ず。受の本は何の縁よりか。何に因りて受有るか。是を以て思惟すること已りて、受は触より生ずることを知る。触の本は何の縁よりか。何に因りて触有るか。かくの如く思惟すること已りて、触は六入より生ず。
釈:多くの汚れや穢れたものが集まるように(衆穢悪聚)、風が吹けばその悪臭が広がる(風吹悪流演)。諸法の相を執取する(取相)因縁もこれと同じで、貪愛(愛)によって広く流布する(因愛而広普)。貪愛は感受(受)の因縁によって生じる(愛由于受生)。受は苦しみの羅網を生じさせる根本である(起苦羅網本)。諸法に染着する因縁によって(以染着因緣)、苦楽の感受が染汚と共に生じる(苦楽共相応)。受は本来、何の因縁によって生じるのか(受本由何緣)? 何の因縁によって受が存在するのか(因何而有受)? 菩薩はこの因縁を思惟し(以是思惟已)、受は触(接触)の因縁によって生じることを証知した(知受由触生)。触は本来、何の因縁によって生じるのか(触本由何緣)? 何の因縁によって触が存在するのか(因何而有触)? このように思惟した後(如是思惟已)、触は六入(六処)の因縁によって生じることを証知した(触由六入生)。
原文:六入の本は何の縁よりか。何に因りて六入有るか。かくの如く思惟すること已りて、六入は名色より生ず。名色の本は何の縁よりか。何に因りて名色有るか。かくの如く思惟すること已りて、名色は識より生ず。識の本は何の縁よりか。何に因りて識有るか。かくの如く思惟すること已りて、識は行より生ず。行の本は何の縁よりか。何に因りて行有るか。かくの如く思惟すること已りて、行は痴より生ず。
釈:六入は本来、何の因縁によって生じるのか(六入本何緣)? 何の因縁によって六入が存在するのか(因何有六入)? このように思惟した後(如是思惟已)、六入は名色の因縁によって生じることを証知した(六入名色生)。名色は本来、何の因縁によって生じるのか(名色本何緣)? 何の故によって名色が存在するのか(因何有名色)? このように思惟した後(如是思惟已)、名色は六識の業種(識)の因縁によって生じることを証得した(名色從識生)。六識の業種は本来、何の因縁によって生じるのか(識本由何緣)? 何によって六識の業種が存在するのか(因何而有識)? このように思惟した後(如是思惟已)、六識の業種は身口意の行(行為)の因縁によって生じることを証知した(知識從行生)。身口意の行は本来、何の因縁によって生じるのか(行本由何緣)? 何の因縁によって行が存在するのか(因何而有行)? このように思惟した後(如是思惟已)、行は愚痴(無明)の因縁によって生じることを証知した(知行從痴生)。
原文:かくの如き因縁の者、実義の因と名づく。智慧方便を以て観ずれば、能く因縁の根を見る。苦は賢聖の造るに非ず。また無縁に有るに非ず。是の故に変易の苦は、智者が断除する所なり。若し無明滅尽せば、是の時は則ち行無し。若し行有ること無ければ、則ち亦た識有ること無し。若し識永く滅せば、亦た名色有ること無し。名色既に已に滅せば、即ち諸入有ること無し。若し諸入永く滅せば、則ち亦た触有ること無し。若し触永く滅せば、則ち亦た受有ること無し。
釈:以上のような因縁法を(如是因縁者)、真実の道理の因縁法(実義因)と呼ぶ。智慧と方便をもって観察すれば(智慧方便観)、因縁法の根本(因縁根)、すなわち無明愚痴(痴)を見ることができる(能見因縁根)。生老病死の苦は聖賢が造り出したものではない(苦非賢聖造)。また、原因なくして存在するものでもない(亦非無縁有)。それ故に、智者は生滅変化する生老病死の苦(変易苦)を断除するのである(是故変易苦、智者所断除)。もし無明が滅び尽きれば(若無明滅尽)、その時は行が無くなる(是時則無行)。もし行が無ければ(若無有行者)、六識の業種も無くなる(則亦無有識)。もし六識の業種が永遠に滅び尽きれば(若識永滅者)、名色も無くなる(亦無有名色)。名色が既に滅び尽きれば(名色既已滅)、六入も無くなる(即無有諸入)。もし六入が永遠に滅び尽きれば(若諸入永滅)、触も無くなる(則亦無有触)。もし触が永遠に滅び尽きれば(若触永滅者)、受も無くなる(則亦無有受)。
原文:若し受永く滅せば、則ち亦た愛有ること無し。若し愛永く滅せば、則ち亦た取有ること無し。若し取永く滅せば、則ち亦た有有ること無し。若し有永く滅せば、則ち亦た生有ること無し。若し生永く滅せば、老病の苦陰無し。一切ことごとく永く尽きぬ。是れ智者の説く所なり。十二縁は甚深なり。見難く識知し難し。唯仏のみ能く善く覚(さと)る。因りて是れ有り、是れ無しと。
釈:もし受が永遠に滅び尽きれば(若受永滅者)、愛も無くなる(則亦無有愛)。もし愛が因縁によって滅び尽きれば(若愛永滅者)、執取も無くなる(則亦無有取)。もし執取が永遠に滅び尽きれば(若取永滅者)、三界の有も無くなる(則亦無有有)。もし有が永遠に滅び尽きれば(若有永滅者)、生も無くなる(則亦無有生)。もし生が永遠に滅び尽きれば(若生永滅者)、老と病の苦しみの集まり(老病苦陰)も無くなる(無老病苦陰)。一切の世間法は永遠に滅び尽きる(一切都永尽)。これが智者(仏)の説かれたことである(智者之説)。十二因縁法は甚深である(十二縁甚深)。見ることが難しく、認識し理解することが難しい(難見難識知)。ただ仏のみがよく一切の法が生じる因縁(因)の有無を覚り知ることができる(唯仏能善覚、因是有是無)。
原文:若し能く自ら観察せば、則ち諸入有ること無し。深く因縁を見る者は、更に外に師を求めず。能く陰・界・入に於いて、欲を離れ染め無き者は、一切の施を受くるに堪え、施者の恩に浄く報ゆ。若し四つの辯才を得ば、決定の証を得ん。能く衆の結縛を解き、断除して放逸無し。色・受・想・行・識は、朽ち故(ふる)き車の如し。能く此の法を諦観すれば、則ち等正覚を成ず。鳥の虚空に遊ぶが如く、東西風に随いて遊ぶ。菩薩、衆の結を断つこと、風の軽き衣を靡(なび)かすが如し。
釈:もし自ら十二因縁法を現前に観察できれば(若能自觀察)、六入などの法が根本的に存在しないことがわかる(則無有諸入)。深く因縁法を観察できる者(深見因縁者)は、もはや外に師を探し求めない(更不外求師)。法そのものが師であり、法に依って修行すれば解脱を得られる。五陰(色・受・想・行・識)・十八界・六入において貪欲を離れ染着の無い者(能於陰界入、離欲無染者)は、初めて一切の布施を受ける資格があり(堪受一切施)、布施者の恩徳を清らかに報いることができる(淨報施者恩)。もし四つの無礙の辯才(四無礙辯)を得れば(若得四辯才)、因縁法について最終的な決定を得ることができ(獲得決定證)、一切の煩悩の束縛を解きほぐし(能解衆結縛)、一切の煩悩を断除し、精進して放逸することはなくなる(断除無放逸)。色・受・想・行・識の五陰は、朽ち果てた古い車のようである(色受想行識、猶如朽故車)。この法(五陰の無常・苦・空・無我)を深く観察できれば(能諦觀此法)、等正覚(仏陀の悟り)を成就する(則成等正覺)。自由な鳥が虚空を飛び回るように(如鳥游虚空)、東へ西へと風に従って飛び回る(東西隨風遊)。菩薩が一切の束縛(煩悩)を断つことは(菩薩斷衆結)、風が薄い衣をなびかせるようなものである(如風靡輕衣)。
原文:毘婆尸は閑静なり。諸法を観察す。老死は何の縁よりか有る。何よりか得て滅す。彼は是の観をなすこと已りて、清浄の智慧を生ず。老死は生に由ることを知る。生滅すれば老死滅す。
釈:毘婆尸仏は静かな場所で(毘婆尸閑静)、十二因縁法を詳細に観察した(觀察于諸法)。老死は何の因縁によって存在するのか(老死何緣有)? 何の因縁によって滅びるのか(從何而得滅)? 彼(毘婆尸仏)はこのような観行をした後(彼作是觀已)、清浄な智慧が生じ(生清淨智慧)、老死は生によって存在することを知り(知老死由生)、生が滅びれば老死も滅びることを知った(生滅老死滅)。