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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 2282

第五節  世間の集と滅

(二九三)仏が異なる比丘に縁起の法を説く

原文:その時、世尊は異なる比丘に告げられた。私はすでに疑いを度し、ためらいを離れ、邪見の刺を抜き、もはや退転せず。心が何ものにも執着しないゆえに、どこに我があって彼らの比丘のために法を説くことがあろうか。彼らの比丘のために、賢聖の出世した空相応なる縁起随順の法を説く。すなわち、これがあるがゆえにこれがあり、これがあるがゆえにこれが起こるのである。

釈:世尊は他から来た比丘に言われた。私はすでにすべての疑いを滅し尽くした。解脱の法に対するためらいを離れ、すでに邪見の毒刺を抜き取り、無上菩提の道においてもはや退転しない。心が住むところがないゆえに、どこに我があるとも見ず、それらの比丘たちのために法を説き、それらの比丘たちのために賢聖たちが証得した出世間の空相応なる縁起随順の法を説かれる。縁起随順の法とはすなわち、これがあるがゆえに、あれが現れるのであり、これがあるがゆえにあれが生じるのである。

原文:すなわち、無明によって行があり、行によって識があり、識によって名色があり、名色によって六入処があり、六入処によって触があり、触によって受があり、受によって愛があり、愛によって取があり、取によって有があり、有によって生があり、生によって老死憂悲悩苦がある。このようにして、純粋なる大苦が集積する。さらにはこのようにして、純粋なる大苦聚が滅する。

釈:これがすなわち十二因縁の法である。無明があるゆえに身口意の行が生じ、身口意の行があるゆえに六識の業種が生じ、六識の業種があるゆえに後世の名色が生じ、名色があるゆえに六入が生じ、六入があるゆえに触が生じ、触があるゆえに受が生じ、受があるゆえに愛が生じ、愛があるゆえに取が生じ、取があるゆえに有が生じ、有があるゆえに生があり、生があるゆえに老病死憂悲苦悩があり、その後、生死の大苦が集積する。さらには修行によって、生死の大苦聚が消滅する。

疑いを度すとは、仏がすでに無明を断じ尽くし、一切の疑惑がなく、心が非常に確かに一切の法を知り、世間・出世間の一切の法がどのような道理であるか、これらの法の実相が何であるかを知っておられるという意味である。しかしながら、衆生はまだ疑いを度しておらず、疑惑があまりにも多く、理解できない法が多すぎるため、事相においてはみな迷いと執着に満ちており、これらすべては無明に由来する。無明の範囲は広く、衆生の無明疑惑は数えきれないほど多い。もし数量で計算すれば、衆生の無明は十方世界の塵ほどもある。

 無明には三種類がある。一念無明、無始無明、塵沙無明である。たとえ開悟した後も、なお成仏の道において理解できない法は塵や砂のように多い。等覚菩薩でさえもなお一品の無明が破れておらず、これを破り尽くして初めて成仏する。長く無明にいるとは、長く暗闇にいることである。最も根本的な邪見は我見である。なぜなら、我があるゆえに、すべての煩悩が現れ、一切の邪見は我に由来するからである。我見が断たれれば、他の邪見は一つずつ順に断たれていく。世尊は邪見の刺を抜き取り、一切の正しくない見解をすべて断じ尽くし、無明を断じ尽くされた。無明があれば邪見がある。開悟した後もなお邪見はあり、成仏して初めて邪見がなくなる。

原文:このように説法したが、その比丘にはなお疑惑とためらいがあった。以前には得たという思い、獲たという思い、証したという思いがあったが、実際には法を得ておらず、証果も得ておらず、解脱も得ていなかった。今、世尊が十二因縁の法を説かれるのを聞き、心に憂い苦しみ、悔恨が生じ、蒙昧で障害が生じた。なぜならば、この甚深なる所、すなわち縁起は、さらに倍して甚深で見難く、すなわち一切の取を離れ、愛が尽き、欲が無く、寂滅涅槃に至るからである。

 釈:世尊がこのように説法されたが、その比丘にはなお疑惑とためらいがあり、決断ができなかった。彼は以前、自分が法眼浄を得た、解脱を得た、証果を得たと思っていたが、実際には法を得ておらず、証果も得ておらず、解脱も得ていなかった。今、世尊が十二因縁の法を説かれるのを聞き、心に憂苦、悔恨が生じ、心に迷いが生じ、心の障害があった。なぜこのようになったのか。十二因縁の法は、彼が以前に修学した四聖諦の理よりもさらに甚深で証し難いからである。証し難い点は、十二因縁の法を修めると最後には一切の三界の法への執着を離れ、三界への貪愛を滅し尽くし、貪欲を断じ尽くし、寂静涅槃を得る点にある。

原文:この二つの法、すなわち有為と無為である。有為なるものは生じ、住し、異なり、滅する。無為なるものは生ぜず、住せず、異ならず、滅しない。これを比丘よ、諸行は苦であり、寂滅は涅槃であるという。因が集まるゆえに苦が集まり、因が滅するゆえに苦が滅する。諸々の径路を断ち、相続を滅する。相続が滅し尽きる、これを苦の果てという。比丘よ、彼らは何を滅するのか。すなわち有余の苦である。それがもし滅し止むならば、清凉、息止、滅没する。すなわち一切の取が滅し、愛が尽き、欲が無く、寂滅涅槃に至る。

釈:有為と無為というこの二つの法は、比丘の置かれた一切の行苦と寂滅涅槃という二つの状態を示している。有為法は生住異滅の現象が存在し、無為法には生住異滅の現象が存在しない。比丘が涅槃に入る前は有為であり、すべての五蘊の行苦が滅した後は涅槃の無為となる。諸行苦の因が集起する時、苦が集起し、行苦の因が滅すれば苦が滅する。こうして生死に通じる径路を断ち切り、生死の相続を断ち切る。生死の相続が滅し尽きれば苦の果てに至る。

比丘よ、阿羅漢や辟支仏たちはどの法を滅したのか。無明煩悩を断除した後に残る苦を滅除した。有余苦がもし滅除され止息すれば、一切の行が止滅し、心が清凉、息止、滅没を得る。これがすなわち一切の取の心行を滅除し、貪愛が永遠に尽き、もはや貪欲がなくなり、寂滅涅槃の楽を得るということである。仏がこの経を説き終えられると、比丘たちは仏の説かれたことを聞き、歓喜して奉行した。

阿羅漢や辟支仏たちは修行の最後に、一切取離、愛尽、無欲、寂滅、涅槃に至り、心は一切の法に執着せず、一切の法に固執せず、より多くの法を所有しようと望まない。これが取の滅である。取が滅すれば貪愛がなくなり、貪愛も尽きれば無欲となる。この三界世間に対してはもはや何の考えも追求もなくなる。もしなお考えや意志があれば、意根の執着が断たれず、次の世が生じる。愛が尽きず、欲が離れなければ、寂滅涅槃できない。ゆえに無欲の後は寂滅であり、寂滅すれば涅槃となる。こうして五陰がすべて滅し尽きれば、無生住異滅の涅槃心である第八識だけが残る。これが涅槃の境界である。

四聖諦の法と十二因縁の法は小乗の有為法であり、小乗の有為法は無為法である阿頼耶識を離れない。仏は一切の法の出生は有為、住も有為、変異は有為、滅失も有であると説かれる。宇宙の大千世界にはすべて生・住・異・滅があり、みな有為法である。無為とは生ぜず住せず、異ならず滅しないものである。どの法がそうなのか。第八識だけがそうである。ゆえに阿羅漢と辟支仏が無余涅槃に入れば無為となる。なぜなら有為の七識心と行がないからである。身口意行というこれらの有為法の中には無為法が含まれており、そうでなければ有為法も現れない。有為と無為の二つが同時に運行し、有為が滅すれば、無為一つが残る。これが寂滅涅槃である。

有為には苦がある。一切の苦は結果である。果があれば因がある。身口意行が因である。因が造り出されれば、果は未来世に現れる可能性があり、現在に現れる可能性もある。ただ因縁が具足すれば、果は現れる。もし因縁が具足しなければ、因として、種子として蓄えられ、将来結果を結ぶ。修行とは因を植えることである。果はいつ現れるのか。因縁がいつ具足するかによる。因縁が具足すれば果を得る。開悟の因縁とは何か。菩薩の六度である。菩薩の六度を円満にすれば、明心の果が現れる。速やかに果を得ようと望むなら、速やかに菩薩の六度という因縁を具足させよ。もし菩薩の六度の修行を重視しなければ、明心の因縁は具足せず、いつの生まれ、いつの世にいつ明心するかは定かではない。

修行の果を命終の時に得ようと計画する人もいる。命終時に西方極楽世界に往生できることを求めるのである。しかし、命終時に極楽世界に往生する因縁が必ず具足するとは限らない。誰も命終時に往生の因縁が必ず具足することを保証できない。もし仏が保証を与えられなければ、誰が保証しても無意味である。現世に生きている間に往生の因縁を具足できることを保証できるか、あるいは生きている間に極楽世界が自分の三昧の中に現れるか、あるいは阿弥陀仏が自分の三昧の中に現れるか、このような三昧力と仏の加持力によってのみ、命終時に往生を保証できる。

(二九四)六触入処における解脱と係縛の差別

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。愚痴無聞の凡夫は、無明に覆われ、愛の縁によって係縛され、この識身を得る。内にこの識身があり、外に名色がある。この二つの因縁によって触が生じる。この六触入所触によって、愚痴無聞の凡夫は苦楽の受覚を生じ、さまざまな原因によって起こる。何が六つか。眼触入処、耳鼻舌身意触入処である。

釈:世尊は諸比丘たちに言われた。愚痴無聞の凡夫は無明の覆障があるため、貪愛の障縁によって自分の六識身を係縛されている。内に六識身があり、外に名色五陰がある。内外の六入の二者が和合して触を生じ、六つの触入処で触が生じた後、愚痴無聞の凡夫はさまざまな苦受と楽受の覚受を生じる。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処であり、これを六触入処という。

衆生の心はみな無明に覆われている。もし無明を取り除けば、心の地に光明が透け、一切の事理が明らかになる。仏の心には覆いがなく、心は光明を放って天を照らし地を照らし、十方法界がすべて明るい。どの凡夫の心にも愛の因縁による係縛があり、それゆえ眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、意識身がある。この六識身を識身という。愛がなければこれらの識身はない。六識身があれば十一の色法および心法に触れ、苦楽捨受を生じる。

衆生は無始劫来の貪愛によってこの六識身がある。六識はなぜ身の内の識なのか。勝義根の内に生じる識だからである。名色はなぜ外身に属するのか。名色は外入であり、勝義根の外から勝義根に入り、六識と触れて受覚が生じ、その後、身口意行が絶えず、六識が絶えない。もし六根が六塵に触れなければ、六識は滅し、六識が滅すればさまざまな受覚はなくなり、何もなくなる。ここまでくれば、十二因縁のこの連鎖が明らかになり、五陰身の一切の活動が明らかになる。意根の無明が滅しなければ、身口意行は常に現れ、こうして業種は絶えず累積し、未来世の名色は絶えず生じる。これが来世の名色が生じる因である。

原文:もし聡明な智慧ある者が無明に覆われ、愛の縁によって係縛され、この識身を得るならば、このように内に識身があり、外に名色がある。この二つの縁によって六触入処が生じる。六触所触のゆえに、智慧ある者は苦楽の受覚を生じ、さまざまな原因によって起こる。何が六つか。眼触入処、耳鼻舌身意触入処である。

愚夫と聡明な智慧ある者とが、私の所で諸々の梵行を修めることには、何の差別があるか。比丘は仏に言った。世尊は法の根、法の眼、法の依り所です。善いかな、世尊。どうか演説してください。諸比丘は聞いた後、受け奉行いたします。

釈:もし聡明で智慧ある者が無明に覆障され、貪愛の因縁によってこの六識身を係縛されれば、このように内に六識身があり、外に五陰名色があり、二者が和合して触れた後、六入触処が生じ、この六処で触れることによって、聡明な智慧ある者はさまざまな苦楽受を生じる。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処である。

愚痴の凡夫と聡明な智慧ある者は六入触処においてともに苦楽などのさまざまな受がある。もし彼らがともに私の法の中で諸々の梵行を修めるならば、彼らの間に何の差別があるのか。比丘たちは仏に言った。世尊よ、あなたは法の根源、法の眼目、法の依り所です。世尊よ、どうかこの意を開演してください。比丘たちは聞いた後、信受奉行すべきです。

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。よく聞き、善く思惟せよ。まさに汝らのために説こう。諸比丘よ、あの愚痴無聞の凡夫は無明に覆われ、愛の縁に係縛され、この識身を得る。彼らは無明を断たず、愛の縁を尽くさない。身壊命終の時、再び身を受ける。再び身を受けるゆえに、生老病死憂悲悩苦から解脱できない。なぜならば、この愚痴な凡夫はもとより梵行を修めず、正しく苦を尽くし、苦の果てに至ろうとしないからである。ゆえに身壊命終の時、再び身を受け、再び身を受けるゆえに、生老病死憂悲悩苦から解脱できない。

釈:この時、世尊は諸比丘たちに言われた。あなたがたは注意深く聞き、細心に思惟せよ。私は今、あなたがたのために解説する。諸比丘よ、あの愚痴無聞の凡夫は無明に遮障覆われているゆえに、貪愛の因縁に係縛され、この六識身を生じる。彼らは無明煩悩を断たないため、貪愛の因縁を断じ尽くせず、身壊命終の時、再び生を受けて六識身を受用する。愚痴無聞の凡夫がなお六識身を受ける以上、生老病死憂悲苦悩から解脱できない。なぜこのようになるのか。あの愚痴無聞の凡夫はもとより清浄な梵行を修行せず、正しく苦を尽くすこと、究竟の苦恼の果てに至ることを望まない。それゆえ身壊命終の時、再び身を受け、再び身を受けるゆえに、身壊命終において生老病死憂悲苦悩から解脱できない。

原文: もし聡明な智慧ある者が無明に覆われ、愛の縁に係縛され、この識身を得るならば、彼は無明を断ち、愛の縁を尽くす。無明が断たれ愛の縁が尽きるゆえに、身壊命終の時、再び受けることがない。再び受けないゆえに、生老病死憂悲悩苦から解脱する。

 釈:もし聡明で智慧ある者が無明に遮障覆われ、愛の縁に係縛されているゆえに、六識身を生じるならば、しかしこの智慧ある者は梵行を修行することによって無明を断除し、愛の縁も断じ尽くし、もはや貪愛しない。無明を断除し愛の縁が尽きるゆえに、智慧ある者は身壊命終の後、再び六識身を受けず、再び入胎することはない。再び生を受けないゆえに、生老病死憂悲苦悩から解脱する。

原文:なぜならば、彼は先に梵行を修め、正しく苦を尽くす方向に向かい、苦の果てに至ったからである。ゆえに彼は身壊命終の時、再び受けることがない。再び受けないゆえに、生老病死憂悲悩苦から解脱する。これを凡夫および聡明な智慧ある者が、私の所で諸々の梵行を修めることの、さまざまな差別という。

釈:なぜこのようになるのか。智慧ある者は精進して梵行を修行するゆえに、正しく苦を尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに至る。それゆえ身壊命終の時には再び生を受けることがない。再び生を受けないゆえに、生老病死憂悲苦悩から解脱する。これが愚痴無聞の凡夫と智慧ある者が私の法の中で梵行を修行することによって生じる、さまざまな差別である。

聡明な智慧ある者はみな、理由なく智慧があるのではない。彼には前世の基礎があり、かつて清浄な梵行を修めたことがある。それゆえ今世において正しく苦を尽くす方向に向かい、苦を滅する果てに至り、最後には究竟の苦の果てに至って解脱を得る。一方、前世に梵行を修めたことがなく今世初めて法を聞いた者は、精進して修行しなければ無明を断除できず、次の世が生じる。衆生が仏法を学び修行するには速い者も遅い者もいる。これはみな前世の根基と一定の関係がある。同じように仏法を修学しても、ある者は受け入れが早く、ある者は非常に遅い。差別は前世の根基が異なることによるが、最後にはみな大解脱を得る。たとえ三悪道の衆生が仏法を聞いても、理解できなくとも種子を植えることになり、再び人身に転じた時には、他の者よりも根が利くのである。

(二九五)世間集滅の因縁

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。この身は汝の所有ではない。また他の人の所有でもない。六触入処が絶えず運行して滅せず、自らのさまざまな願行を満たすことによって、この身を受けるのである。何が六つか。眼触入処、耳鼻舌身意触入処である。

釈:世尊は諸比丘たちに言われた。あなたがたの現在の色身はあなたがたの所有ではなく、また他の人の所有でもない。六触入処が絶えず運行して滅しないため、自らのさまざまな願行を満たし、生を受けることによって、この色身がある。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処である。

原文:彼の多聞の聖弟子は諸々の縁起に対して、善く正しく思惟し観察する。この六識身があるゆえに、六触身、六受身、六想身、六思身がある。すなわち、これがあるがゆえに、未来の生老病死憂悲悩苦がある。このようにして、純粋なる大苦が集積する。これを因有り縁有りて世間集まるという。

釈:あの多聞の聖弟子は一切の縁起法に対して、よく正しく如理に思惟観察する。六識身があるゆえに、六触身、六受身、六想身、六思身がある。すなわち、これがあるがゆえにあれがあるとは、六識身があるゆえに未来世の生老病死憂悲苦悩があるという意味である。このように純大苦が集積する。これを因有り縁有りて世間が集積するという。

仏は衆生に六識身、六触身、六受身、六想身、六思身があると説かれる。六識身とは眼識、耳識、鼻識、身識、意識である。六受身とは眼触生受、耳触生受、鼻触生受、舌触生受、身触生受、意触生受である。六触身とは眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触である。六想身とは眼触生想、耳触生想、鼻触生想、舌触生想、身触生想、意触生想である。六思身とは眼触生思、耳触生思、鼻触生思、舌触生思、身触生思、意触生思である。思とは択択決定と行為造作である。たとえば眼根が色塵に触れて思が生じるとは、眼識が択択を生じ、かつ行為造作があり、さらに運行を続けることであり、これは行陰に属する。

眼が色を見るとき、眼識には思と行があり、択択と行為造作がある。耳が声を聞くとき、耳識には択択と行為造作があり、分別することが行為造作であり、これを六思身といい、また六行ともいい、行陰ともいう。ゆえに思には行が含まれる。思と想は異なる。想は了別執取の行為、あるいは六・七識の妄想、分別、打算などの思想活動である。この思は主に択択と択択後の行為造作にある。六識の行為造作は身口意行である。しかし択択の後、静止寂滅し、身口意行の造作がないこともある。

これがあるがゆえにあれがあるとは、十二因縁を説いている。前の連鎖が因であり、後の連鎖が果である。二番目の連鎖から始まり、各連鎖は前の連鎖の果であると同時に次の連鎖の因でもある。最後の大苦聚は果のみであり因ではない。最初の無明は因のみであり果ではない。前の因がない、すなわち無始からある。十二因縁は縁起法である。世間の一切の法は縁起法である。もし因も縁もなければ、一切の法は現れない。これを因有り縁有りて世間集まるという。世間は因縁によって集積される。因有り縁有りて世間滅す。滅もまた因有り縁有りであり、理由なく滅するのではない。

しかし一つの法は因縁の中になく、因縁によって生じたものではない。それは万法の因であり、万法はこれがあるゆえに現れる。それは阿頼耶識第八識である。それはいかなる縁によっても存在せず、これを生じる法はない。それは法爾としてこのように存在する。ただこの法の存在にはなぜかはなく、原因がない。それ以外の一切の法の存在にはなぜかがあり、因縁がある。第八識があるゆえに、世間の一切の仮相が建立される。宇宙、虚空、大千世界、衆生の五陰身。それは万法の因であり、また万法の根、万法の縁である。それ自体には根も縁もない。

原文:すなわち、これが無いゆえに、六識身は無く、六触身、六受身、六想身、六思身は無い。すなわち、これが無いゆえに、未来の生老病死憂悲悩苦は無い。このようにして、純粋なる大苦聚が滅する。

釈:因有り縁有りて世間集まるとは、この因縁が無いゆえに、六識身がなくなり、続いて六触身、六受身、六想身、六思身も消滅するという意味である。この因縁が消失するゆえに、未来の生老病死憂悲苦悩がなくなる。このように、純大苦聚も滅する。

原文:もし多聞の聖弟子が、世間の集まりと世間の滅びについて、如実に正しく知り、善く見、善く覚り、善く入るならば、これを聖弟子はこの善を招き、この善法を得、この善法を知り、この善法に入り、世間の生滅を覚知し見て、賢聖の出離を成就し、実に寂滅の正尽苦を成し、究竟の苦の果てに至るという。なぜならば、多聞の聖弟子は世間の集まりと滅びを如実に知り、善く見、善く覚り、善く入るからである。

釈:もし多聞の聖弟子が世間の集まりと世間の滅びについて如実に正しく認知し、よく観察し、よく覚り、よくこの法に入ることができるならば、聖弟子はこの善法を招集し、この善法を得、この善法を知り、この善法に入り、世間の生と滅を覚り証見し、賢聖の出離果を成就し、真実に寂滅の正尽苦を証得し、究竟の苦の果てに至ることができる。なぜこのように言うのか。多聞の聖弟子は世間の集まり、世間の滅びをすでに如実に了知し、よく観察し、よく覚り、よくこの法に入ることができるゆえである。

これが無ければあれも無いという道理。たとえば無明がなければ、身口意行がなくなる。行がなければ、六識の業種がなくなる。六識業種がなければ、名色がなくなる。名色がなければ、六入がなくなる。六入がなければ、触がなくなる。触がなければ、受がなくなる。受がなければ、貪愛がなくなる。貪愛がなければ、取がなくなる。取がなければ、有がなくなる。有がなければ、生がなくなる。生がなければ、老病死憂悲苦悩がなくなる。無明がなければ、生老病死がなくなる。中間のいずれかの連鎖が断たれても、十二因縁全体の生死循環は断たれる。

生死苦楽の鍵は執取するか否かにある。執取が絶えない限り、苦恼は絶えない。なぜなら、何を掴んでも苦を掴むことになり、何を掴んでも刺を掴むことになり、何を掴んでも毒薬を掴むことになるからである。執取貪愛とは苦を掴むことである。貪愛は苦であり、貪愛の集まりは苦の集まりであり、取の集まりは苦の集まりである。私たちは決して覚えておかねばならない。取る限り、苦を取り、毒薬を取り、最終的に害を受けるのは自分自身である。

世間の苦集、苦滅の道理を知り、賢聖の出離果を成就する。この知は意識の理論上の知だけでは不十分である。主に意根が知らねばならない。なぜなら意根は主として決断する識であり、意根が知って初めて苦業を造らないよう択択し、苦を滅し苦集を断ち、生死を解脱できる。意識が苦を知っても、意根が知らなければ、相変わらず主として苦因を造作する。なぜなら意根が一切の身口意行を決定するからである。意識は決定的な作用をせず、苦を知ってもどうしようもない。ゆえに法を学ぶには意根を修めねばならず、意根の心に学び入れる。意識心も非常に重要ではあるが、意根はさらに重要である。

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