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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年09月16日 閲覧数: 3753

第二章  雑阿含経第十三巻

第一節  先に法住を知り、後涅槃を知る

(三四七)先に法住を知り後涅槃を知るという意味

原文:时彼须深默然受请。诣王舍城迦兰陀竹园。时众多比丘。出房舍外。露地经行。尔时须深。诣众多比丘。而作是言。诸尊。我今可得。于正法中。出家受具足。修梵行不。

时众多比丘。将彼须深。诣世尊所。稽首礼足。退住一面。白佛言。世尊。今此外道须深。欲求于正法中。出家受具足。修梵行。尔时。世尊知外道须深。心之所念。告诸比丘。汝等当度。彼外道须深。令得出家。时诸比丘愿度须深。

解釈:外道の須深は黙って外道たちの請いを受け、王舎城の迦蘭陀園へ行って出家しようとしました。このとき多くの比丘たちが房舎の外の露地で経行していました。須深は比丘たちのところへ歩み寄ってこう言いました。「諸尊者よ、私は今、正法の中で出家して具足戒を受け、梵行を修行することができますか」。そこで多くの比丘たちは須深を連れて世尊の住処へ行き、稽首礼足して退いて一面に立ち、仏に申し上げました。「世尊よ、今この外道の須深は、正法の中で出家して具足戒を受け、梵行を修行したいと望んでおります」。そのとき世尊は外道須深の心の中の念を知り、諸比丘たちに告げました。「汝らはその外道須深を度して出家させよ」。そこで比丘たちは須深を度することを承諾しました。

原文:出家已经半月。有一比丘语须深言。须深当知。我等生死已尽。梵行已立。所作已作。自知不受后有。时彼须深语比丘言。尊者。云何学离欲。恶不善法。有觉有观。离生喜乐。具足初禅。不起诸漏。心善解脱耶。比丘答言。不也须深。

解釈:須深が出家して半月経った後、一人の比丘が須深に言いました。「須深よ、知るべきである。我ら比丘の生死はすでに尽き、清浄な梵行はすでに確立され、なすべきことはすでになし終え、我らは自ら知って後有を受けないことを知っている」。須深は比丘たちに言いました。「尊者よ、どのように学べば、貪欲や悪不善法を離れ、覚観 (vitarka-vicāra) あり、離生喜楽を具足して初禅を具足し、諸漏を生起させず、心よく解脱することができるのでしょうか」。比丘たちは答えて言いました。「そうではない、須深よ」。

外道たちは、四禅八定を具足してはじめて解脱を得られると誤って考えていましたが、仏法はそうではありません。仏法における解脱は定慧具足の解脱であり、初禅以上の禅定があるだけでなく、解脱の智慧も必要で、無我の解脱の道理を証し、四聖諦の見地が通达してはじめて解脱できるのです。もし我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つ智慧がなければ、たとえ四禅八定を具足していても、なお生死を解脱しない凡夫です。外道たちはこの道理を理解していなかったので、須深は貪欲の悪不善法を離れ、初禅定を修出しさえすればよいと思い込んだのです。だから比丘たちは須深の問うた初禅定を否定したのです。

原文:复问。云何离有觉有观。内净一心。无觉无观。定生喜乐。具足第二禅。不起诸漏。心善解脱耶。比丘答言。不也须深。复问。云何尊者离喜舍心。住正念正智。身心受乐。圣说及舍。具足第三禅。不起诸漏。心善解脱耶。答言。不也须深。 

解釈:須深はさらに問いました。「どのように覚観 (vitarka-vicāra) ある境界を離れ、内は清浄にして一心となり、覚なく観なく、禅定により喜と楽を生起させ、色界の第二禅を具足し、諸漏を生起させず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えて言いました。「そうではない、須深よ」。須深はさらに問いました。「尊者よ、どのように喜びの心を離れて心の喜びを捨て、正念正智に住し、身心に楽を受け、喜を捨てて楽を得、第三禅を具足し、諸漏を生起させず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えて言いました。「そうではない、須深よ」。

須深は比丘たちが初禅を修してもまだ解脱できないと言うのを聞くと、第二禅・第三禅も修える必要があると思い、比丘たちに第二禅・第三禅をどのように修出すのかを尋ねましたが、結果として比丘たちはまた否定し、第二禅・第三禅を修出しても解脱を得ることはできないと言ったのです。

原文:复问。云何尊者。离苦息乐。忧喜先断。不苦不乐舍。净念一心。具足第四禅。不起诸漏。心善解脱耶。答言。不也须深。复问。若复寂静。解脱色无色。身作证具足住。不起诸漏。心善解脱耶。答言。不也须深。

解釈:須深はさらに問いました。「尊者よ、どのように苦受を離れ、楽受を滅し、憂喜の心をともに断除し、苦でも楽でもない捨心に住し、心念清浄にして心を専一とし、第四禅を具足し、諸漏を生起させず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えて言いました。「解脱を得るのはそのように修するのではない」。須深はさらに問いました。「どのように心を寂静させ、色界と無色界の繋縛を解脱し、身をもって作証し、完全に解脱の中に住し、諸漏を生起させず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えて言いました。「解脱を得るのはそのように修するのではない」。

原文:须深复问。云何尊者。所说不同。前后相违。云何不得禅定。而复记说。比丘答言。我是慧解脱也。作是说已。众多比丘。各从座起而去。

解釈:須深はさらに問いました。「なぜ尊者のおっしゃることが解脱の実証と異なり、前後で矛盾するのでしょうか。なぜ四禅八定を証得しないのに、自ら証して後有を受けないと記説なさるのでしょうか」。比丘は答えて言いました。「私は智慧によって解脱したものである」。こう言い終わると、多くの比丘たちはそれぞれ座から立ち去っていきました。

須深は、証果して解脱を得るのは四禅八定を修してこそできると考えており、解脱の智慧と見地も必要であること、智慧をもって解脱法を知り、解脱法を証すべきであることを知らず、それゆえ誤解が生じ、あの阿羅漢たちの言う自証の境界は解脱の境界と一致しないと思ったのです。阿羅漢には慧解脱の者もあれば、定解脱の者もあり、俱解脱の者もあります。

慧解脱は初禅定があれば足り、解脱の智慧は必ず具足していなければならず、寿命が終わるときに解脱の智慧に依って無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ることができます。定解脱の阿羅漢は、四禅八定が必須であり、同時に解脱の智慧もあり、主に禅定に依って解脱を得、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入り、寿命は自らの掌握するところとなり、長くも短くもできます。俱解脱の阿羅漢は、四禅八定があるだけでなく、滅尽定も必要で、解脱の智慧も具足していなければならず、滅尽定の中でいつでもどこでも無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ることができ、寿命が終わるのを待つ必要がありません。

原文:尔时。须深知众多比丘去已。作是思惟。此诸尊者。所说不同。前后相违。言不得正受。而复记说。自知作证。作是思惟已。往诣佛所。稽首礼足。退住一面。白佛言。世尊。彼众多比丘。于我面前记说。我生已尽。梵行已立。所作已作。自知不受后有。

解釈:このとき須深は比丘たちが立ち去ったのを見て、こう思惟しました。これらの尊者たちの言うことは解脱と異なり、前後で一致せず、禅定の正受を得ていないと言いながら、記別して自分はすでに解脱を証明でき、後世がないと自分で言っている、と。須深はこう考えた後、仏の住まいに行き、頭を下げて仏足を頂礼し、退いて傍らの一面に立ち、仏に申し上げました。「世尊よ、先ほど多くの比丘たちが私の面前で、我生已尽、梵行已立、所作已作、自ら知って後有を受けない、と記説しました」。

原文:我即问彼尊者。得离欲恶不善法。乃至身作证。不起诸漏。心善解脱耶。彼答我言。不也须深。我即问言。所说不同。前后相违。言不入正受。而复记说。自知作证。彼答我言。得慧解脱。作此说已。各从座起而去。我今问世尊。云何彼所说不同。前后相违。不得正受。而复说言。自知作证。

解釈:私はあの尊者たちに尋ねました。すでに貪欲の悪不善法を離れ、さらには身をもって作証し、諸漏を生起させず、心よく解脱しているのかと。彼らは私に答えて、そうではない、須深よ、と言いました。私は尋ねました。おっしゃることが解脱の状況と異なり、前後で一致せず、四禅八定の正受がなくても記別して自ら作証でき、後有を受けないと言うのかと。彼らは私に答えて、慧解脱を得た阿羅漢は四禅八定がなくてもよい、と言い、言い終わると立ち去りました。私は今世尊にお尋ねします。なぜ彼らのおっしゃることが実際の解脱の状況と異なり、前後で一致しないのに、自ら作証できると言うのでしょうか。

原文:佛告须深。彼先知法住。后知涅槃。彼诸善男子。独一静处。专精思惟。不放逸住。离于我见。不起诸漏。心善解脱。须深白佛。我今不知。先知法住。后知涅槃。彼诸善男子。独一静处。专精思惟。不放逸住。离于我见。不起诸漏。心善解脱。

解釈:仏は須深に告げて言いました。「彼らは先に法住を知り、それから涅槃を証知したのである。あの善男子たちはみな独り静かなところで、専ら精進して思惟し、不放逸の修行に住し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を離れたので、諸漏を生起させず、心よく解脱したのである」。須深は仏に申し上げました。「私は今なお、先に法住を知り後涅槃を知るという、あの善男子たちが独り静かなところで専ら精進に思惟し、不放逸の修行に住し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を離れて諸漏を生起させず、心よく解脱することを知りません」。

原文:佛告须深。不问汝知不知。且自先知法住。后知涅槃。彼诸善男子独一静处。专精思惟。不放逸住。离于我见。心善解脱。须深白佛。唯愿世尊为我说法。令我得知法住智。得见法住智。

解釈:仏は須深に告げました。「私は汝が今知っているか知らないかを問わない。汝自身まず先に法住を知り、それから涅槃を知るのである。あの善男子たちはみな独り静かなところで、専ら精進に解脱法を思惟し、心不放逸に修行し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を離れ、心よく解脱したのである」。須深は仏に申し上げました。「どうか世尊が私のために法を説き、私に法住智を知らせ、法住智を見させてください」。

先に法住を知るとは、どの法がどの法に住しているかを知ることです。それは十二因縁法を知り、しかも十二因縁法の中に住することができ、心に他念がないことです。先に法住を知るとは、先に第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) を知ることだと言う人がいますが、この説は正しくありません。ここでの法とは十二因縁法を指し、第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) ではありません。先に十二因縁を了解し、定の中で十二因縁法を思惟してはじめて、涅槃を証得し、解脱を得ることができるのです。法住智とは十二因縁を証得した智慧であり、第八識を証得した智慧ではありません。この法理をはっきり理解していなければ、十二因縁法を実証して解脱を得ることができません。

後に涅槃を知るとは、どのように解脱を得るかを知り、涅槃を証得できることを指します。心よく解脱した人は、必ず初禅定がなければならず、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) して初果を証得した後、この定の中でこそ、この禅定によって貪瞋痴の煩悩結縛を断除し、三果人と四果阿羅漢となり、それによって心得解脱し、有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) と無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) を証することができるのです。

原文:佛告须深。我今问汝。随意答我。须深。于意云何。有生故有老死。不离生有老死耶。须深答曰。如是。世尊。有生故有老死。不离生有老死。

解釈:仏は須深に告げて言いました。「私は今汝に問う。随意に答えよ。須深よ、汝の意はどうか。生があるがゆえに老死があり、生を離れて老死があるのではないのか」。須深は答えて言いました。「その通りです、世尊。生があるがゆえに老死があり、生を離れて老死があるのではありません」。

原文:佛又问。如是生有。取爱受触。六入处名色。识行无明。有无明故有行。不离无明。而有行耶。须深白佛。如是。世尊。有无明故有行。不离无明而有行。

解釈:仏はまた問いました。「このように、有があるがゆえに生があり、有を離れて生があるのではなく;取があるがゆえに有があり、取を離れて有があるのではなく;愛があるがゆえに取があり、愛を離れて取があるのではなく;受があるがゆえに愛があり、受を離れて愛があるのではなく;触があるがゆえに六入処 (ṣaḍāyatana) があり、触を離れて六入処 (ṣaḍāyatana) があるのではなく;名色があるがゆえに六入処 (ṣaḍāyatana) があり、六入処 (ṣaḍāyatana) を離れて触があるのではなく;識があるがゆえに名色があり、識を離れて名色があるのではなく;行があるがゆえに識があり、行を離れて識があるのではなく;無明があるがゆえに行があり、無明を離れて行があるのではないのか」。須深は仏に申し上げました。「その通りです、世尊。無明があるがゆえに行があり、無明を離れて行があるのではありません」。

原文:佛告须深。无生故无老死。不离生灭而老死灭耶。须深白佛言。如是。世尊。无生故无老死。不离生灭而老死灭。佛告须深。如是。乃至无无明故无行。不离无明灭而行灭耶。须深白佛。如是。世尊。无无明故无行。不离无明灭而行灭。

解釈:仏は須深に告げました。「生がないがゆえに老死がないのであり、生の滅を離れて老死の滅があるのではない」。須深は仏に申し上げました。「その通りです、世尊。生がなければ老死がなく、生なしに老死の滅があるのではありません」。仏は須深に言いました。「このように、さらには無明がなければ行がなく、無明の滅を離れて行の滅があるのではないのか」。須深は仏に申し上げました。「その通りです、世尊。無明がなければ行がなく、無明の滅を離れて行の滅があるのではありません」。

原文:佛告须深。作如是知。如是见者。为有离欲。恶不善法。乃至身作证。具足住不。须深白佛。不也。世尊。佛告须深。是名先知法住。后知涅槃。彼诸善男子独一静处。专精思惟。不放逸住。离于我见。不起诸漏。心善解脱。佛说此经已。尊者须深。远尘离垢。得法眼净。

解釈:仏は須深に告げました。「このように知り、このように見る人は、すでに貪欲や悪不善法を離れ、さらには身をもって作証し、完全に安穏に法の中に住しているでしょうか」。須深は答えて言いました。「そうではありません、世尊」。仏は須深に告げました。「私の説いたこれらの道理を証得できれば、それが先に法住を知り後涅槃を知るということである。あの善男子たちは独り静かなところで専ら精進に思惟し、不放逸に住し、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を離れ、諸漏を生起させず、心よく解脱したのである」。仏がこの経を説き終わると、須深は遠塵離垢し、清浄な法眼を得ました。

この段落において、仏は須深に十二因縁法の道理を説きましたが、これらの知見があるだけで身をもって作証して解脱を得られるのでしょうか。明らかにそうではありません。これらの知見を理解しただけではまだ解にすぎず、この後さらに寂静なところで禅定の中で観行 (vipaśyanā-caryā) 思惟してはじめて、具足住があり、身心が完全に十二因縁法の中に住し、最後に我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断尽し、初禅定を具足し、煩悩漏を断尽して心得解脱し、智慧によって解脱するのです。須深は仏が十二因縁法を説くのを聞き終えると、心も五蘊世間の塵境を離れ、煩悩の汚垢を離れ、法を見る心眼が清浄になり、もはや五蘊世間を見ず、縁起法を見て、縁起法の中に住したのです。

須深が法を聞き終えるとすぐ証果したのを見て、証果は簡単で禅定がなくても、法を聞くときにひとしきり思惟して理解すれば証果したことになると考える人がいるでしょう。実はそれほど単純ではなく、前提条件が必要です。つまりこの人は禅定がなければならず、証法の因縁が具足していて、当時の仏力の加持のもとで、証法に必要な因縁条件を満たすことができ、法を聞くと同時に未到地定 (anāgamya-samādhi) が具足し、一心一意に法を聞き観行 (vipaśyanā-caryā) することができ、少しの雑念もなく、きわめて専一であり、法義が意根の中に深く入り込み、情思意解を完全に超えて、さらには速さにおいて意識が情思意解する機会すらないほどでした。これは普段から禅定の訓練があり、意根が専らに思量 (manasikāra/manana) することに慣れ、性障 (kleśāvaraṇa) の煩悩が軽微で、法に出会えば思量 (manasikāra/manana) し、遮障がないので、証果が速やかなのです。

もし仏のそばにおらず、仏の磁場と加持力がなければ、速やかに証果することは不可能であり、証果の因縁を速やかに完備することも不可能です。どんな善知識も仏の摂受力にはるかに及ばず、仏のような強大な磁場と加持力もありません。人がもし修行が非常に優れていれば、磁場の影響力は非常に大きく、心の清浄な人は強大な薫染力と感染力を持ち、周囲の人々の心まで清浄に影響を与え、それによって禅定を生起させ、心を専一とし、禅定の中にあり、続いて智慧を生み出し、智慧を高めることができます。だから仏のそばで法を聞く人は、一定の得法の因縁があれば、仏陀の威徳力がその人を加持して得法の因縁条件を具足させ、証法がきわめて容易になるのです。

(三五二)如実に因縁法を知ってこそ道を証できる

原文:尔时。世尊告诸比丘。若诸沙门婆罗门。于法不如实知。法集法灭。法灭道迹不如实知。彼非沙门沙门数。非婆罗门婆罗门数。彼亦非沙门义。婆罗门义。见法自知作证。我生已尽。梵行已立。所作已作。自知不受后有。

解釈:世尊は諸比丘に告げました。「もし諸沙门・婆罗门が法を如実に了知せず、法の集起と滅去を如実に了知せず、法の滅に対して修すべき道を如実に了知しなければ、彼らは沙门ではなく沙门の数にあらず、婆罗门ではなく婆罗门の数にあらず;彼らは真の沙门でも真の婆罗门でもなく、法を見ておらず、身をもって作証して自ら知ることができない:我生已尽、梵行已立、所作已作、自ら知って後有を受けない、と」。

原文:云何法不如实知。云何法集不如实知。云何法灭不如实知。云何法灭道迹。不如实知。谓于老死法。不如实知。老死集老死灭。老死灭道迹。不如实知。如是生有。取爱受触。六入处不如实知。六入处集。六入处灭。六入处灭道迹。不如实知。如是诸法。不如实知。法集法灭。法灭道迹。不如实知。

解釈:法を如実に知るとは何か、法の集起を如実に知るとは何か、法の滅を如実に知るとは何か、法の滅の修道の軌跡を如実に知るとは何か。老死法を如実に知らず、老死法の集起と滅去を如実に知らず、老死法の滅に対する修道の軌跡を如実に知らないことです。

これと同じように、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法を如実に知らず、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法の集起を如実に知らず、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法の滅を如実に知らず、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法の滅の道跡を如実に知らないことです。同様に諸法を如実に知らず、諸法の集起を如実に知らず、諸法の滅を如実に知らず、諸法の滅の道跡を如実に知らないことです。

原文:若诸沙门婆罗门。于法如实知。法集法灭。法灭道迹。如实知。当知是沙门婆罗门。沙门之沙门数。婆罗门之婆罗门数。彼以沙门义。婆罗门义。见法自知作证。我生已尽。梵行已立。所作已作。自知不受后有。

解釈:もし諸沙门・婆罗门が諸法を如実に知り、諸法の集起と滅去、および滅の道跡を如実に知るならば、これらの沙门・婆罗门こそ真の沙门と婆罗门であり、沙门と婆罗门の数の中にいるのです。これらの沙门・婆罗门は沙门と婆罗门の名義をもって縁起法を見、しかも自ら知り自ら作証することができます:我生已尽、梵行已立、所作已作、自ら知って後有を受けない、と。

原文:何等法如实知。何等法集法灭。法灭道迹如实知。谓老死法如实知。老死集老死灭。老死灭道迹如实知。如是生有。取爱受触。六入处如实知。六入处集。六入处灭。六入处灭道迹如实知。如是诸法如实知。法集法灭。法灭道迹如实知。

解釈:どの法を如実に知るのか。どの法の集、どの法の滅、どの法の滅の道跡を如実に知るのか。それは老死法を如実に知り、老死法の集を如実に知り、老死法の滅を如実に知り、老死法の滅の道跡を如実に知ることです。同じように生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法を如実に知り、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法の集起を如実に知り、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法の滅を如実に知り、生・有・取・愛・受・触・六入処 (ṣaḍāyatana) 法の滅の道跡を如実に知ることです。同様に諸法を如実に知り、諸法の集起を如実に知り、諸法の滅を如実に知り、諸法の滅の道跡を如実に知ることです。

(三五四)如実に六入処を知ってこそ後の支分を如実に知れる

原文:尔时。世尊告诸比丘。若诸沙门婆罗门。于六入处。不如实知。而欲超度触者。无有是处。触集触灭。触灭道迹超度者。无有是处。如是超度受爱取有。生老死者。无有是处。超度老死集老死灭。老死灭道迹者。无有是处。

解釈:世尊は諸比丘に告げました。もし沙门・婆罗门が六入処 (ṣaḍāyatana) を如実に知らずに触を超度しようとするならば、それはあり得ないことです。触の集起と触の滅、触の滅の道跡を超度することはあり得ません。同じように、もし沙门・婆罗门が触を如実に知らず、触の集起と滅、および滅の道跡を如実に知らずに、受・愛・取・有・生・老死を超度しようとするならば、それはあり得ないことです。受・愛・取・有・生・老死の集起と滅、および滅の道跡を超度することはあり得ません。

原文:若沙门婆罗门。于六入处如实知。六入处集。六入处灭。六入处灭道迹如实知。而超度触者。斯有是处。如是超度。受爱取有。生老死者。斯有是处。乃至超度老死灭道迹者。斯有是处。

解釈:もし沙门・婆罗门が六入処 (ṣaḍāyatana) を如実に知り、六入処 (ṣaḍāyatana) の集起と滅、および滅の道跡を如実に知るならば、触を超度しようとすることがはじめて可能になります。触の集起と滅、および触の滅の道跡を超度することも、はじめて可能になります。同じように、触・触集・触滅・触滅道跡を如実に知った後、受・愛・取・有・生・老死を超度しようとすることがはじめて可能になり、さらには受・愛・取・有・生・老死の集起と滅、および滅の道跡を超度することがはじめて可能になるのです。

十二因縁法の修習において、前の因縁を如実に知り如実に証できなければ、後の因縁およびその後のすべての因縁を超えることはできず、如実に知り如実に証することができません。なぜなら前の因縁は後の因縁の因と縁であり、前が通らなければ、当然後の一つ、およびその後のすべての因縁も通らないからです。だから修行は次第に従って一つ一つの法を観行 (vipaśyanā-caryā) しなければならず、忍耐が必要で、焦る心で等を躍ってはなりません。さもなければどの法も証得できず、如実に知ることができません。

(三五五)縁起法の各支をどのように覚知するか

原文:尔时。世尊告诸比丘。当觉知老死。觉知老死集老死灭。老死灭道迹。如是。乃至当觉知行。行集行灭。行灭道迹。

解釈:世尊は諸比丘に告げました。汝らは老死を覚知すべきであり、老死集と老死滅、および老死滅の道跡を覚知すべきである。このように、生、生の集起、生の滅と生滅の道跡も覚知すべきである;有、有の集起、有の滅と有滅の道跡を覚知すべきである;取、取の集起、取の滅と取滅の道跡を覚知すべきである;愛、愛の集起、愛の滅と愛滅の道跡を覚知すべきである;受、受の集起、受の滅と受滅の道跡を覚知すべきである;

触、触集、触滅と触滅の道跡を覚知すべきである;六入処 (ṣaḍāyatana)、六入処 (ṣaḍāyatana) の集起、六入処 (ṣaḍāyatana) の滅と六入処 (ṣaḍāyatana) 滅の道跡を覚知すべきである;名色、名色の集起、名色の滅と名色滅の道跡を覚知すべきである;六識、六識の集起、六識の滅と六識滅の道跡を覚知すべきである;行、行の集起、行の滅と行滅の道跡を覚知すべきである。

原文:云何当觉知老死。觉知缘生。故有老死。如是老死觉知。云何老死集。生集是老死集。如是老死集觉知。云何老死灭觉知。谓生灭是老死灭。如是老死灭觉知。云何老死灭道迹觉知。谓八圣道是老死灭道迹。如是老死灭道迹觉知。

解釈:老死をどのように覚知すべきでしょうか。縁あって生があってはじめて老死があることを覚知すべきです。老死を覚知するように、老死がどのように集起したかを覚知すれば、生が集起すれば老死が集起することを知ります;老死集を覚知するように、老死がどのように滅するかを覚知すれば、生が滅すれば老死が滅することを知ります;老死滅を覚知するように、何が老死滅の道跡かを覚知すれば、八正道こそ老死滅の道跡であることを知ります;

原文:乃至云何行觉知。谓三行。身行口行意行。如是行觉知。云何行集觉知。谓无明集是行集。如是行集觉知。云何行灭觉知。无明灭是行灭。如是行灭觉知。云何行灭道迹觉知。谓八圣道是行灭道迹。如是行灭道迹觉知。

解釈:老死滅の道跡を覚知するように、さらには最後に何が行であるかを覚知し、身口意行であることを知ります(実際は意根の行であり、身口意行は六識の後にあってはならず、六識の前に出現するはずである)。行を覚知するように、行がどのように集起したかを覚知すれば、無明が集起すれば行が集起することを知ります;行集を覚知するように、何が行滅であるかを覚知すれば、無明が滅すれば行が滅することを知ります;行滅を覚知するように、何が行滅の道跡であるかを覚知すれば、八聖道こそ行滅の道跡であることを知り、これで行滅の道跡を覚知したことになります。

八正道は断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) して法眼浄を得る前に必修の内容です。四聖諦法を修するにせよ十二因縁法を修するにせよ、八正道を修め、八正道を具足してはじめて見道の因縁を具足し、小乗・中乗の見道ができるのです。八正道を修めることは修心にとって、心が正しくなってはじめて道に入り、聖賢の人となることができるのです。

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