阿含経十二因縁釈
第二章 雑阿含経第十三巻
第一節 法住を先に知り後に涅槃を知る
(三四七)法住を先に知り後に涅槃を知る意味
原文:時、彼の須深は黙然として請いを受け、王舎城の迦蘭陀竹園に詣でた。時に多くの比丘が房舎の外に出て、露地で経行していた。爾の時、須深は多くの比丘の所に詣でて、このように言った。「諸尊よ、私は今、正法の中で出家し具足戒を受け、梵行を修めることができますでしょうか」
時に多くの比丘は、彼の須深を連れて世尊の所に詣で、稽首礼足して退いて一面に立ち、仏に白して言った。「世尊よ、今この外道の須深が正法の中で出家し具足戒を受け、梵行を修めようと願っています」。爾の時、世尊は外道須深の心の念うところを知り、諸比丘に告げて言われた。「汝らは彼の外道須深を度して出家させよ」。時に諸比丘は須深を度すことを願った。
釈:外道の須深は黙って外道たちの依頼を受け、王舎城の迦蘭陀園に出家を願って赴いた。その時、多くの比丘が房舎の外の空地で経行していた。須深は比丘たちの傍らに歩み寄って言った。「皆様、尊者よ、私は今、正法の中で出家し具足戒を受け、梵行を修行できますでしょうか」。すると多くの比丘は須深を導いて世尊の住まいに行き、頭を地に付けて礼拝し、退いて傍らに立ち、仏に言った。「世尊よ、今、外道の須深という者が、私たちの正法の中で出家し具足戒を受け、梵行を修行したいと願っています」。この時、世尊は外道須深の心に思っていることを知り、諸比丘たちに言われた。「あなたがたはこの外道須深を度して出家させなさい」。そこで諸比丘は須深を度して出家修行させることを承諾した。
原文:出家してすでに半月を経た。一人の比丘が須深に言った。「須深よ、知るがよい。我等は生死がすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし、自ら不受後有を知っている」。時に彼の須深は比丘に言った。「尊者よ、いかにして学び、欲を離れ悪しき不善の法を離れ、有覚有観を具え、離生喜楽を得て初禅を具足し、諸漏を起こさず、心よく解脱するのですか」。比丘は答えて言った。「そうではない、須深よ」。
釈:須深が出家して半月後、一人の比丘が須深に言った。「須深よ、あなたは知るべきである。私たち比丘は生死がすでに終わり、清浄な梵行はすでに確立し、なすべきことはすでに成し遂げ、再び来世に生まれることがないと自ら知っている」。須深は比丘たちに言った。「尊者よ、いかに修行して貪欲の悪不善法を離れ、有覚有観を得、欲界を離れ、心に喜楽を生じ、初禅定を具足し、それから一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱を得るのでしょうか」。比丘たちは答えた。「解脱はそのようにして得るものではない、須深よ」。
外道たちは誤って、四禅八定を具足して初めて解脱できると考えていたが、仏法ではそうではない。仏法上の解脱は禅定と智慧を具足した解脱であり、初禅以上の禅定を持つだけでなく、解脱の智慧、無我の解脱の理を証得し、四聖諦の見地に通じなければ解脱できない。我見を断つ智慧がなければ、たとえ四禅八定を具足しても、依然として生死を解脱できない凡夫である。外道たちはこの理を理解していなかったため、須深は貪欲の悪不善法を離れ、初禅定を修得すればよいと考えた。それで比丘たちは須深の問うた初禅定を否定したのである。
原文:また問うて言った。「いかにして有覚有観を離れ、内に浄く一心を得、無覚無観を具え、定生喜楽を得て第二禅を具足し、諸漏を起こさず、心よく解脱するのですか」。比丘は答えて言った。「そうではない、須深よ」。また問うて言った。「尊者よ、いかにして喜びを離れ捨心を起こし、正念正智に住し、身心に楽を受け、聖が説くところの捨を具足して第三禅を具足し、諸漏を起こさず、心よく解脱するのですか」。答えて言った。「そうではない、須深よ」。
釈:須深はまた問うた。「いかにして有覚有観の境界を離れ、内心を純粋にし、一心に住し、無覚無観を得、禅定によって喜と楽を生じ、色界第二禅を具足し、それから一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えた。「解脱はそのようにして得るものではない、須深よ」。須深はまた問うた。「尊者よ、いかにして喜びの心を離れ、心の喜びを捨て、正念正智に住し、身心に楽を受け、喜びを捨てて楽を得、第三禅を具足し、一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えた。「解脱はそのようにして得るものではない」。
須深は比丘たちが初禅を修めてもまだ解脱できないと言ったのを聞き、さらに第二禅、第三禅を修める必要があると考え、比丘たちにいかに第二禅、第三禅を修めるかを尋ねた。しかし比丘たちは再び否定し、第二禅、第三禅を修めても解脱は得られないと言った。
原文:また問うて言った。「尊者よ、いかにして苦を離れ楽を息め、憂いと喜びを先に断ち、不苦不楽の捨を得、浄念一心を具足して第四禅を具足し、諸漏を起こさず、心よく解脱するのですか」。答えて言った。「そうではない、須深よ」。また問うて言った。「もしさらに寂静を得て色界・無色界を解脱し、身をもって証し具足して住し、諸漏を起こさず、心よく解脱するのですか」。答えて言った。「そうではない、須深よ」。
釈:須深はまた問うた。「尊者よ、いかにして苦受を離れ、楽受を滅し、憂いと喜びの心を断ち切り、不苦不楽の捨心に住し、心念清浄、心を専一にして第四禅を具足し、一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えた。「解脱はそのようにして得るものではない」。須深はまた問うた。「いかにして心を寂静にし、色界と無色界の束縛を解脱し、身をもって証し、完全に解脱の中に住し、一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱するのでしょうか」。比丘は答えた。「解脱はそのようにして得るものではない」。
原文:須深はまた問うて言った。「尊者よ、なぜ説くところが異なり、前後矛盾するのですか。どうして禅定を得ていないのに、記説して自証を語るのですか」。比丘は答えて言った。「私は慧解脱である」。このように言うと、多くの比丘は各々座より起ち去って行った。
釈:須深はまた問うた。「なぜ尊者は解脱の実証と異なることを説き、前後矛盾するのですか?なぜ四禅八定を証得せずに自証して不受後有と言うのですか?」比丘は答えた。「私は智慧によって解脱を得たのである」。言い終わると、多くの比丘は皆、座を立ち去った。
須深は、果を証して解脱を得るには四禅八定を修めて初めて可能だと考え、解脱の智慧と見地も必要であることを知らなかった。智慧によって解脱の法を知り、解脱の法を証得するので、誤解が生じ、阿羅漢たちが説く自証の境界と解脱の境界が一致しないと思ったのである。阿羅漢には慧解脱の者もいれば、定解脱の者もあり、また倶解脱の者もいる。
慧解脱は初禅定があれば十分であり、解脱の智慧は必ず具えなければならない。寿命が尽きる時に解脱の智慧によって無余涅槃に入る。定解脱の阿羅漢は必ず四禅八定を持ち、同時に解脱の智慧もあり、主に禅定によって解脱を得て無余涅槃に入る。寿命は自ら掌握でき、長くも短くもできる。倶解脱の阿羅漢は四禅八定だけでなく滅尽定もあり、解脱の智慧も具えているため、滅尽定の中でいつでもどこでも無余涅槃に入ることができ、寿命が尽きるのを待つ必要がない。
原文:爾の時、須深は多くの比丘が去ったのを知り、このように思惟した。「この諸尊者は説くところが異なり、前後矛盾する。正受を得ていないのに、記説して自ら証知したと言う」。このように思惟してから、仏の所に詣で、稽首礼足して退き一面に立ち、仏に白して言った。「世尊よ、あの多くの比丘は私の面前で記説して、『我は生を尽くし、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし、自ら不受後有を知る』と言いました」。
釈:この時、須深は比丘たちが去るのを見て、このように思惟した。「これらの尊者たちは説くところが解脱と異なり、前後一致しない。自分は禅定正受を得ていないのに、すでに自ら解脱を証明し来世がないと記別している」。須深はこのように考えてから仏の住まいに行き、頭を下げて仏足を礼拝し、傍らに退き、仏に言った。「世尊よ、さきほど多くの比丘が私の面前で、『我は生を尽くし、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし、自ら不受後有を知る』と言いました」。
原文:私は即ち彼の尊者に問うた。「尊者は欲を離れ悪しき不善の法を離れ、乃至身をもって証し、諸漏を起こさず、心よく解脱されましたか」。彼は私に答えて言った。「そうではない、須深よ」。私は即ち問うて言った。「説くところが異なり、前後矛盾します。正受に入らないのに、記説して自ら証知したと言うのですか」。彼は私に答えて言った。「慧解脱を得たのである」。このように言うと、各々座より起ち去って行きました。私は今、世尊に問います。なぜ彼らの説くところが異なり、前後矛盾するのに、正受を得ていないのに、自ら証知したと言うのですか。
釈:私は尊者たちに尋ねました。「尊者はすでに貪欲の悪不善法を離れ、身をもって証し、一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱されましたか?」彼らは私に「そうではない」と答えました。私は彼らに言いました。「あなたがたの説くことは解脱の状況と異なり、前後一致しない。四禅八定の正受を持たずに、記別して自ら不受後有を証得したと言うのですか?」彼らは私に「慧解脱の阿羅漢は四禅八定を持たなくてもよい」と答え、言い終わると去って行きました。私は今、世尊にお尋ねします。なぜ彼らの説くことは実際の解脱の状況と異なり、前後矛盾するのに、自ら証知したと言うのですか?
原文:仏は須深に告げられた。「彼らは先に法住を知り、後に涅槃を知る。彼の諸善男子は独り静かな所で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ、諸漏を起こさず、心よく解脱する」。須深は仏に白して言った。「私は今、法住を先に知り後に涅槃を知ることを知りません。彼の諸善男子が独り静かな所で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ、それによって諸漏を起こさず、心よく解脱することを」。
釈:仏は須深に言われた。「彼らは先に法住を知り、その後で涅槃を証知した。諸善男子たちは皆、独り静かな所で、専ら精進して思惟し、放逸せずに修行に住し、我見を離れたので、一切の煩悩漏を生じさせず、心よく解脱したのである」。須深は仏に言った。「私は今なお、先に法住を知り後に涅槃を知ること、それらの善男子たちが独り静かな所で専ら精進して思惟し、放逸せずに修行に住し、我見を離れ、それによって諸漏を生じさせず、心よく解脱することを知りません」。
原文:仏は須深に告げられた。「私は汝が知るか知らないかを問わない。ただ自ら先に法住を知り、後に涅槃を知れ。彼の諸善男子は独り静かな所で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ、心よく解脱する」。須深は仏に白して言った。「ただ願わくは世尊、私のために説法して、私に法住智を知らしめ、法住智を見させてください」。
釈:仏は須深に言われた。「私は汝が今知っているかどうかを問わない。汝自ら先に法住を知り、その後で涅槃を知りなさい。それらの善男子たちは皆、独り静かな所で専ら精進して解脱法を思惟し、心を放逸せずに修行し、我見を離れ、心よく解脱を得る」。須深は仏に言った。「どうか世尊、私のために説法し、私に法住智を了知させ、法住智を見させてください」。
先に法住を知るとは、何の法が何の法に住するかを知るのか?十二因縁法を知り、かつ十二因縁法に住し、心に他の思いを持たないことである。ある者は「先に法住を知るとは、先に第八識如来蔵を知ることだ」と言うが、この説は正しくない。ここでの「法」は十二因縁法を指し、第八識如来蔵ではない。十二因縁を理解し、定中で十二因縁法を思惟して初めて涅槃を証得し解脱を得るのである。法住智は十二因縁を証得する智慧であり、第八識を証得する智慧ではない。この法理をはっきり理解しなければ、十二因縁法を実証して解脱を得ることはできない。
後に涅槃を知るとは、いかにして解脱を得るかを知り、かつ涅槃を証得できることを指す。心善解脱の者は必ず初禅定を持ち、我見を断って初果を証得した後、この定中において初めてこの禅定によって貪瞋痴の煩悩結縛を断除し、三果人と四果阿羅漢となり、心が解脱し、有余涅槃と無余涅槃を証得するのである。
原文:仏は須深に告げられた。「私は今、汝に問う。随意に答えよ。須深よ、どう思うか。生があるが故に老死がある。生を離れて老死があるのではないか」。須深は答えて言った。「そうです。世尊よ。生があるが故に老死がある。生を離れて老死があるのではない」。
釈:仏は須深に言われた。「私は今、汝に尋ねる。自由に答えなさい。須深よ、汝はどう考えるか。生があるから老死がある。生を離れて老死があるのではないか?」須深は答えた。「はい、世尊。生があるから老死がある。生を離れて老死があるのではない」。
原文:仏はまた問うた。「このように生には『有』があり、『取』には『愛』があり、『受』には『触』があり、『六入処』には『名色』がある。『識』には『行』があり、『無明』がある。無明があるが故に行がある。無明を離れて行があるのではないか」。須深は仏に白して言った。「そうです。世尊よ。無明があるが故に行がある。無明を離れて行があるのではない」。
釈:仏はまた尋ねた。「このように、『有』があるから生があり、『有』を離れて生があるのではないか?『取』があるから『有』があり、『取』を離れて『有』があるのではないか?『愛』があるから『取』があり、『愛』を離れて『取』があるのではないか?『受』があるから『愛』があり、『受』を離れて『愛』があるのではないか?『触』があるから『六入』があり、『触』を離れて『六入』があるのではないか?『名色』があるから『六入』があり、『六入』を離れて『触』があるのではないか?『識』があるから『名色』があり、『識』を離れて『名色』があるのではないか?『行』があるから『識』があり、『行』を離れて『識』があるのではないか?『無明』があるから『行』があり、『無明』を離れて『行』があるのではないか、そうですか?」須深は仏に言った。「そうです、世尊。無明があるから行がある。無明を離れて行があるのではない」。
原文:仏は須深に告げられた。「生がないが故に老死がない。生の滅を離れて老死が滅するのではないか」。須深は仏に白して言った。「そうです。世尊よ。生がないが故に老死がない。生の滅を離れて老死が滅するのではない」。仏は須深に告げられた。「このように、乃至無明がないが故に行がない。無明の滅を離れて行が滅するのではないか」。須深は仏に白して言った。「そうです。世尊よ。無明がないが故に行がない。無明の滅を離れて行が滅するのではない」。
釈:仏は須深に言われた。「生がないから老死がない。生の滅を離れて老死が滅するのではない」。須深は仏に言った。「はい、世尊。生がなければ老死がない。生の滅を離れて老死が滅するのではない」。仏は須深に言われた。「このように、乃至無明がないから行がない。無明の滅を離れて行が滅するのではないか?」須深は仏に言った。「はい、世尊。無明がなければ行がない。無明の滅を離れて行が滅するのではない」。
原文:仏は須深に告げられた。「このように知り、このように見る者は、欲を離れ悪しき不善の法を離れ、乃至身をもって証し具足して住するか」。須深は仏に白して言った。「いいえ。世尊よ」。仏は須深に告げられた。「これを法住を先に知り後に涅槃を知るという。彼の諸善男子は独り静かな所で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ、諸漏を起こさず、心よく解脱する」。仏がこの経を説き終わると、尊者須深は塵を遠く離れ垢を離れ、法眼浄を得た。
釈:仏は須深に言われた。「このように知り、このように見る者は、すでに貪欲・悪不善法を離れ、身をもって証し、完全に安らかに法の中に住しているか?」須深は答えた。「いいえ、世尊」。仏は須深に言われた。「私が説いたこれらの理をもし証得できるなら、それが先に法住を知り後に涅槃を知ることであり、それらの善男子たちは独り静かな所で専ら精進して思惟し、放逸せずに住し、我見を離れ、諸漏を生じさせず、心よく解脱したのである」。仏がこの経を説き終わると、須深は塵を遠く離れ垢を離れ、清浄な法眼を得た。
この段落で、仏は須深に十二因縁法の理を説かれた。これらの知見だけを持って身をもって証得し解脱を得られるのか?明らかにそうではない。これらの理を理解するのはただの解釈に過ぎず、その後、寂静の処で禅定中に観行思惟して初めて具足住を得て、身心が完全に十二因縁法に住し、ついに我見を断じ尽くし、初禅定を具足し、煩悩漏を断じ尽くして、心が解脱し、智慧が解脱するのである。須深は仏が十二因縁法を説き終えると、心も五蘊世間の塵境を離れ、煩悩の汚れを離れ、法を見る心眼が清浄になり、もはや五蘊世間を見ず、縁起法を見て縁起法に住したのである。
ある者は須深が法を聞き終えてすぐに証果したのを見て、証果は簡単で禅定が不要だと思い、法を聞く時に思惟して理解すれば証果したことになると考える。しかし実際はそう単純ではない。前提条件がある。その人は必ず禅定を持ち、証法の因縁が具わっていなければならない。当時、仏力の加持によって、証法に必要な因縁条件を満たすことができ、法を聞くと同時に未到地定が具わり、一心不乱に法を聞き観行し、少しの雑念もなく、非常に専一であり、法義が意根の深くに入り、完全に情思意解を超越し、速度が速くて意識による情思意解の機会すらなかった。これは普段から禅定の訓練があり、意根が専心して思量する習慣があり、性障煩悩が軽微で、法に遇えば思量し、遮るものがないため、証果が速いのである。
もし仏の傍らでなければ、仏の磁場と加持力がなければ、速やかに証果することは不可能であり、速やかに証果の因縁を整えることは不可能である。いかなる善知識も仏の摂受力には遠く及ばず、仏のような強大な磁場と加持力も持たない。一人の人がもし修行が非常に良ければ、磁場の影響力は非常に大きく、心が清浄な人は強大な薫染力と感染力を持ち、周囲の人々の心を清浄に影響させ、それによって禅定を生じさせ、心を専一にし、禅定の中にあり、続いて智慧を生み出し、智慧を高めることができる。それゆえ、仏の傍らで法を聞く人は、ある程度の得法因縁を持てば、仏陀の威徳力が加持して得法の因縁条件を具足させ、証法が容易に思えるのである。
(三五二)因縁法を如実に知って初めて道を証する
原文:爾の時、世尊は諸比丘に告げられた。「もし諸の沙門・婆羅門が法を如実に知らず、法の集まり・法の滅・法滅の道跡を如実に知らなければ、彼らは沙門ではなく沙門の数にも入らず、婆羅門ではなく婆羅門の数にも入らない。彼らはまた沙門の義でもなく、婆羅門の義でもない。法を見ず自ら証知せず、『我は生を尽くし、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし、自ら不受後有を知る』とは言わない」。
釈:世尊は諸比丘に言われた。「もし沙門・婆羅門が法を如実に知らず、法の集起と滅去を如実に知らず、法が滅去すべき修むべき道を如実に知らなければ、彼らは沙門ではなく、沙門の数に入らず、婆羅門ではなく婆羅門の数に入らない。彼らは真の沙門でもなく、真の婆羅門でもなく、縁起法を見ず、自ら身をもって証得できない。『我は生を尽くし、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし。自ら不受後有を知る』と言えない」。
原文:何が法を如実に知らないことか。何が法の集まりを如実に知らないことか。何が法の滅を如実に知らないことか。何が法滅の道跡を如実に知らないことか。謂わく、老死の法を如実に知らない。老死の集まり・老死の滅・老死滅の道跡を如実に知らない。このように生・有・取・愛・受・触・六入処を如実に知らない。六入処の集まり・六入処の滅・六入処滅の道跡を如実に知らない。このように諸法を如実に知らず、法の集まり・法の滅・法滅の道跡を如実に知らない。
釈:何が法を如実に知らないことか。何が法の集起を如実に知らないことか。何が法の滅を如実に知らないことか。何が法滅の修道の軌跡を如実に知らないことか。老死法を如実に知らず、老死法の集起と滅去を如実に知らず、老死法が滅去する修むべき道の軌跡を如実に知らない。
これと同じく、生・有・取・愛・受・触・六入処の法を如実に知らず、生・有・取・愛・受・触・六入処の法の集起を如実に知らず、生・有・取・愛・受・触・六入処の法の滅を如実に知らず、生・有・取・愛・受・触・六入処の法が滅する道の軌跡を如実に知らない。また同じく諸法を如実に知らず、諸法の集起を如実に知らず、諸法の滅を如実に知らず、諸法が滅する道の軌跡を如実に知らない。
原文:もし諸の沙門・婆羅門が法を如実に知り、法の集まり・法の滅・法滅の道跡を如実に知るならば、当に知るべし、これが沙門・婆羅門であり、沙門の中の沙門の数、婆羅門の中の婆羅門の数である。彼らは沙門の義、婆羅門の義をもって縁起法を見、自ら証知して『我は生を尽くし、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし、自ら不受後有を知る』と言う。
釈:もし諸沙門・婆羅門が諸法を如実に知り、諸法の集起と滅去、および滅の道跡を如実に知るならば、これらの沙門・婆羅門は初めて真の沙門と婆羅門に属し、沙門と婆羅門の数に入る。これらの沙門・婆羅門は沙門と婆羅門の名義によって縁起法を見、自ら証知して「我は生を尽くし、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになし、自ら不受後有を知る」と言う。
原文:何の法を如実に知るか。何の法の集まり・法の滅・法滅の道跡を如実に知るか。謂わく、老死の法を如実に知る。老死の集まり・老死の滅・老死滅の道跡を如実に知る。このように生・有・取・愛・受・触・六入処を如実に知る。六入処の集まり・六入処の滅・六入処滅の道跡を如実に知る。このように諸法を如実に知り、法の集まり・法の滅・法滅の道跡を如実に知る。
釈:何の法を如実に知るか?何の法の集まり、何の法の滅、何の法滅の道跡を如実に知るか?老死法を如実に知り、老死法の集まりを如実に知り、老死法の滅を如実に知り、老死法滅の道跡を如実に知る。同じく生・有・取・愛・受・触・六入処の法を如実に知り、生・有・取・愛・受・触・六入処の法の集起を如実に知り、生・有・取・愛・受・触・六入処の法の滅を如実に知り、生・有・取・愛・受・触・六入処の法が滅する道の軌跡を如実に知る。また同じく諸法を如実に知り、諸法の集起を如実に知り、諸法の滅を如実に知り、諸法が滅する道の軌跡を如実に知る。
(三五四)六入処を如実に知って初めて後の支分を如実に知る
原文:爾の時、世尊は諸比丘に告げられた。「もし諸の沙門・婆羅門が六入処を如実に知らず、触を超度しようとするならば、そのようなことはありえない。触の集まり・触の滅・触滅の道跡を超度しようとするならば、そのようなことはありえない。このように受・愛・取・有・生・老死を超度しようとするならば、そのようなことはありえない。老死の集まり・老死の滅・老死滅の道跡を超度しようとするならば、そのようなことはありえない」。
釈:世尊は諸比丘に言われた。もし沙門・婆羅門が六入処を如実に知らず、触を超越しようとするのは不可能である。触の集起と触の滅、および触滅の道跡を超越しようとするのは不可能である。同じく、もし沙門・婆羅門が触を如実に知らず、触の集起と滅および滅の道跡を如実に知らず、受・愛・取・有・生・老死を超越しようとするのは不可能である。受・愛・取・有・生・老死の集起と滅、および滅の道跡を超越しようとするのは不可能である。
原文:もし沙門・婆羅門が六入処を如実に知り、六入処の集まり・六入処の滅・六入処滅の道跡を如実に知るならば、触を超度することは、これがあることである。このように受・愛・取・有・生・老死を超度することは、これがあることである。乃至老死滅の道跡を超度することは、これがあることである。
釈:もし沙門・婆羅門が六入処を如実に知り、六入処の集起と滅、および滅の道跡を如実に知るならば、触を超越することは可能である。触の集起と滅、および触滅の道跡を超越することは可能である。同じく、触・触集・触滅・触滅道跡を如実に知った後、受・愛・取・有・生・老死を超越しようとするのは可能であり、乃ち受・愛・取・有・生・老死の集起と滅、および滅の道跡を超越することは可能である。
十二因縁法を修習するにあたり、もし前の因縁を如実に知り如実に証得できなければ、後の因縁および後ろのすべての因縁は超越できず、如実に知り如実に証得できない。なぜなら前の因縁は後の因縁の因と縁であり、前が通じなければ自然に後ろが通じないからである。したがって修行は次第に従って一つの法ずつ観行し、忍耐強く、急いで等を越える心があってはならない。そうでなければ、どの法も証得できず、如実に知ることはできない。
(三五五)いかにして縁起法の各支を覚知するか
原文:爾の時、世尊は諸比丘に告げられた。「当に老死を覚知すべし。老死の集まり・老死の滅・老死滅の道跡を覚知すべし。このように、乃至当に行を覚知すべし。行の集まり・行の滅・行滅の道跡を覚知すべし」。
釈:世尊は諸比丘に言われた。あなたがたは老死を覚知すべきである。老死集と老死滅、および老死滅の道跡を覚知すべきである。このように、生・生の集起・生の滅と生滅の道跡も覚知すべきである。有・有の集起・有の滅と有滅の道跡を覚知すべきである。取・取の集起・取の滅と取滅の道跡を覚知すべきである。愛・愛の集起・愛の滅と愛滅の道跡を覚知すべきである。受・受の集起・受の滅と受滅の道跡を覚知すべきである。
触・触集・触滅と触滅の道跡を覚知すべきである。六入処・六入処の集起・六入処の滅と六入処滅の道跡を覚知すべきである。名色・名色の集起・名色の滅と名色滅の道跡を覚知すべきである。六識・六識の集起・六識の滅と六識滅の道跡を覚知すべきである。行・行の集起・行の滅と行滅の道跡を覚知すべきである。
原文:いかにして老死を覚知すべきか。縁って生ずるが故に老死がある。このように老死を覚知する。いかにして老死の集まりを覚知するか。生の集まりが老死の集まりである。このように老死の集まりを覚知する。いかにして老死の滅を覚知するか。生の滅が老死の滅である。このように老死の滅を覚知する。いかにして老死滅の道跡を覚知するか。八聖道が老死滅の道跡である。このように老死滅の道跡を覚知する。
釈:いかにして老死を覚知すべきか?生によって老死があると覚知すべきである。老死を覚知するように、老死がどのように集起するかを覚知すれば、生が集起すると老死が集起するとわかる。老死集を覚知するように、老死がどのように滅するかを覚知すれば、生が滅すると老死が滅するとわかる。老死滅を覚知するように、老死滅の道跡とは何かを覚知すれば、八正道が老死滅の道跡であるとわかる。
原文:乃至いかにして行を覚知するか。三つの行、身行・口行・意行をいう。このように行を覚知する。いかにして行の集まりを覚知するか。無明の集まりが行の集まりである。このように行の集まりを覚知する。いかにして行の滅を覚知するか。無明の滅が行の滅である。このように行の滅を覚知する。いかにして行滅の道跡を覚知するか。八聖道が行滅の道跡である。このように行滅の道跡を覚知する。
釈:老死滅の道跡を覚知するように、乃ち最後に何を行というかを覚知し、身口意行(実際は意根の行。なぜなら身口意行は六識の後に現れることはできず、六識の前に現れるべきである。)であると知る。行を覚知するように、行がどのように集起するかを覚知すれば、無明が集起すると行が集起するとわかる。行集を覚知するように、行の滅とは何かを覚知すれば、無明が滅すると行が滅するとわかる。行滅を覚知するように、行滅の道跡とは何かを覚知すれば、八聖道が行滅の道跡であるとわかる。こうして行滅の道跡を覚知する。
八正道は我見を断ち、法眼浄を得る前に必修の内容である。四聖諦法を修めるにせよ十二因縁法を修めるにせよ、必ず八正道を修め、八正道を具足しなければ、見道の因縁を具足できず、小乗中乗の見道はできない。八正道を修めることは心を修めることである。心が正しくなって初めて道に入り、聖賢人となるのである。