衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 1824

第二章 雑阿含経第十三巻

第一節 法住を先に知り涅槃を後に知る

(三四七)法住を先に知り涅槃を後に知る意義

原文:時に彼の須深は黙然として請いを受け、王舎城迦蘭陀竹園に詣でた。時に多くの比丘が房舎の外に出て、露地で経行していた。その時、須深は多くの比丘のもとに赴き、このように言った。「諸尊者よ、私は今、正法の中で出家し具足戒を受け、梵行を修めることができますか」

時に多くの比丘は彼の須深を世尊の所に連れて行き、稽首礼足して退き一辺に立ち、仏に白して言った。「世尊よ、今この外道の須深が正法の中で出家し具足戒を受け、梵行を修めようと願っています」。その時、世尊は外道の須深の心の念じる所を知り、諸比丘に告げられた。「汝らは彼の外道須深を度し、出家させよ」。時に諸比丘は須深を度すことを承諾した。

釈:外道の須深は黙って外道たちの依頼を受け、王舎城迦蘭陀園で出家を志した。その時、多くの比丘が僧房の外の空地で経行していた。須深は比丘たちの傍らに進み出て言った。「尊者方よ、私は今正法において出家し具足戒を受け、梵行を修めることができますか」。そこで比丘たちは須深を世尊の住まいへ導き、額を地につけて礼拝し、傍らに退いて仏に申し上げた。「世尊よ、ここに須深という外道がおります。正法において出家し具足戒を受け、梵行を修めたいと願っています」。この時、世尊は外道須深の心中を察知され、比丘たちに告げられた。「汝らはこの外道須深を度し、出家させるがよい」。そこで比丘たちは須深を出家させることを承諾した。

原文:出家して既に半月を経た時、一人の比丘が須深に語って言った。「須深よ、知るがよい。我等は生老病死の縁が尽き、梵行は既に立ち、為すべきことは為し終え、自ら後の生を受けないと知った」。時に彼の須深は比丘に言った。「尊者よ、どうすれば欲を離れ、悪しき不善の法を捨て、覚と観を有し、離生の喜楽を得て初禅を具足し、諸漏を起こさず、心善く解脱できるのでしょうか」。比丘は答えて言った。「そうではない、須深よ」。

釈:須深が出家して半月後、一人の比丘が須深に告げた。「須深よ、知るがよい。我々比丘は生老病死の連鎖が尽き、清浄な梵行を確立し、為すべきことを成し遂げ、後の生を受けることがないと自覚している」。須深は比丘たちに尋ねた。「尊者よ、どのように修行すれば貪欲や不善の法を離れ、覚と観を保ちつつ欲界を離れ、喜びと楽しみを生じ、初禅を具足し、一切の煩悩を起こさず、心が善く解脱できるのでしょうか」。比丘たちは答えた。「そのような方法ではない、須深よ」。

外道たちは誤って四禅八定を具足して初めて解脱できると考えていたが、仏法ではそうではない。仏法における解脱は禅定と智慧の両方を具えたもので、初禅以上の禅定に加え、無我の理を証得する智慧、四聖諦を貫く見地が必要である。我見を断つ智慧がなければ、四禅八定を具えていても依然として生死を解脱できない凡夫である。外道はこの理を理解していなかったため、須深は単に初禅を得れば足りると考えたので、比丘たちはその問いを否定した。

原文:更に問うて言った。「どうすれば覚と観を離れ、内に清浄なる一心を得、無覚無観の定から喜楽を生じ、第二禅を具足し、諸漏を起こさず、心善く解脱できるのでしょうか」。比丘は答えて言った。「そうではない、須深よ」。更に問うて言った。「尊者よ、どうすれば喜びを離れ捨心を保ち、正念正智に住し、身心に楽を受け、聖者の説く捨を具足した第三禅を得て、諸漏を起こさず、心善く解脱できるのでしょうか」。答えて言った。「そうではない、須深よ」。

釈:須深は再び尋ねた。「では、覚と観を離れ、心を清浄に保ちつつ一心を得、無覚無観の状態から喜びと楽しみを生じ、第二禅を具足し、一切の煩悩を起こさずに解脱するにはどうすればよいのでしょうか」。比丘は答えた。「そのような方法ではない」。須深はさらに問うた。「尊者よ、喜びを捨て、捨心を保ち、正念正智に住み、身心に楽を受け、第三禅を具足するにはどうすればよいのでしょうか」。比丘は再び否定した。

須深は比丘たちが初禅だけでは不十分と言うので、第二禅、第三禅が必要と考え質問したが、比丘たちはそれらも解脱に不十分だと否定した。

原文:更に問うて言った。「尊者よ、どうすれば苦を離れ楽を滅し、憂いと喜びを断ち切り、苦楽のない捨心を保ち、清浄なる念を一心に具足した第四禅を得て、諸漏を起こさず、心善く解脱できるのでしょうか」。答えて言った。「そうではない、須深よ」。更に問うて言った。「もし寂静を得て色界と無色界の束縛を解脱し、身をもって証し、完全に住する境地を得て、諸漏を起こさず、心善く解脱できるのでしょうか」。答えて言った。「そうではない、須深よ」。

釈:須深はさらに問うた。「尊者よ、苦しみを離れ、楽しみを滅し、憂いと喜びを断ち切り、苦楽を超越した捨心を保ち、清らかな念を一心に集めて第四禅を具足し、一切の煩悩を起こさず解脱するにはどうすればよいのでしょうか」。比丘は否定した。須深はさらに尋ねた。「では、心を寂静に保ち、色界と無色界の束縛から解脱し、自ら証を得て完全に安住し、煩悩を起こさず解脱する方法は何でしょうか」。比丘は再び否定した。

原文:須深は再び問うて言った。「尊者よ、どうして説く所が異なり、前後矛盾するのでしょうか。どうして禅定を得ずして、『後の生を受けない』と記述できるのですか」。比丘は答えて言った。「私は慧解脱である」。このように説き終えると、多くの比丘は各々座から立ち去った。

釈:須深は問うた。「尊者方の説かれる解脱の実証と矛盾し、四禅八定を得ずにどうして『後の生を受けない』と断言できるのですか」。比丘は「私は智慧による解脱を得た」と答えた。これを聞いた比丘たちは席を立って去った。

須深は四禅八定を修めて初めて解脱できると考えていたため、智慧による解脱を説く比丘たちの言葉に矛盾を感じた。阿羅漢には慧解脱、定解脱、俱解脱の三種がある。慧解脱は初禅と解脱の智慧で足り、定解脱は四禅八定と智慧を要し、俱解脱は四禅八定に滅尽定を加えた完全な解脱である。

原文:その時、須深は多くの比丘が去った後、このように思惟した。「これらの尊者方は説く所が異なり、前後矛盾している。正受を得ずして記述し、自ら証を得たと説いている」。このように思惟し終え、仏のもとに赴き稽首礼足して退き一辺に立ち、仏に白して言った。「世尊よ、あの多くの比丘は私の面前で『我が生は尽き、梵行は立ち、為すべきことは為し終え、自ら後の生を受けないと知る』と記述しました。

釈:須深は比丘たちが去った後、彼らの言葉に矛盾を感じて仏を訪ねた。「世尊よ、比丘たちは四禅八定を得ずに解脱を証得したと説いていますが、これは矛盾していませんか」。

原文:私は彼ら尊者に問うた。『欲を離れ悪不善の法を捨て、覚と観を有し、離生の喜楽を得て初禅を具足し、諸漏を起こさず心善く解脱されたのですか』と。彼らは『そうではない、須深よ』と答えました。私は『説く所が異なり、前後矛盾し、正受に入らずして自ら証を得たと記述するのはなぜか』と問うと、彼らは『慧解脱である』と答え、各々座から立ち去りました。私は今世尊にお尋ねします。どうして彼らの説く所が異なり、前後矛盾するのに、正受を得ずして自ら証を得たと説くのでしょうか」。

釈:須深は仏に質問を重ねた。「比丘たちは四禅八定を得ていないのに、どうして解脱を証得したと言えるのですか」。

原文:仏は須深に告げられた。「彼らは先ず法住を知り、後に涅槃を知った。彼ら善男子は独り静処にて専ら思惟を凝らし、放逸せず、我見を離れ、諸漏を起こさず、心善く解脱した」。須深は仏に白して言った。「私は今、法住を先に知り涅槃を後に知るという、彼ら善男子が独り静処にて専ら思惟を凝らし、放逸せず、我見を離れ、諸漏を起こさず心善く解脱する理が分かりません」。

釈:仏は須深に「彼らは先に縁起の法(法住)を理解し、その後涅槃を証得した。彼らは静寂の中で専心し、我見を断じた」と説かれた。須深はその理を理解できずにいた。

原文:仏は須深に告げられた。「汝が知るか否かを問わず、先ず法住を知り、後に涅槃を知るがよい。彼ら善男子は独り静処にて専ら思惟を凝らし、放逸せず、我見を離れ、心善く解脱した」。須深は仏に白して言った。「唯願わくは世尊、私に法を説き、法住智を知り、法住智を見ることを得させてください」。

釈:仏は「まず縁起の法(十二因縁)を理解せよ」と説き、須深は法住智(縁起の智慧)を求めた。

法住智とは十二因縁の理を徹見する智慧であり、これなくして涅槃は証得できない。初禅と解脱の智慧を具え、我見を断じた後、煩悩を滅して初めて解脱が可能となる。

原文:仏は須深に告げられた。「我今汝に問う。随意に答えよ。須深よ、どう思うか。生がある故に老死があり、生を離れて老死はないか」。須深は答えて言った。「その通りです、世尊。生がある故に老死があり、生を離れて老死はありません」。

釈:仏は須深に十二因縁の理を問い、縁起の法を理解させるため対話を始められた。

原文:仏は更に問うた。「このように『有』によって生が起こり、『取』によって有が起こり、『愛』によって取が起こり、『受』によって愛が起こり、『触』によって受が起こり、『六入』によって触が起こり、『名色』によって六入が起こり、『識』によって名色が起こり、『行』によって識が起こり、『無明』によって行が起こる。無明がある故に行があり、無明を離れて行はないか」。須深は仏に白して言った。「その通りです、世尊。無明がある故に行があり、無明を離れて行はありません」。

釈:仏は十二因縁の各支が相互依存する理を順に問い、須深はその正しさを認めた。

原文:仏は須深に告げられた。「生が無い故に老死が無く、生の滅によって老死が滅するか」。須深は仏に白して言った。「その通りです、世尊。生が無い故に老死が無く、生の滅によって老死が滅します」。仏は須深に告げられた。「このように、無明が滅する故に行が滅し、無明の滅によって行が滅するか」。須深は仏に白して言った。「その通りです、世尊。無明が滅する故に行が滅し、無明の滅によって行が滅します」。

釈:逆観の縁起を説かれ、須深は縁起の滅をも理解した。

原文:仏は須深に告げられた。「このように知り見る者は、欲を離れ悪不善の法を捨て、身をもって証し、完全に住するか」。須深は仏に白して言った。「いいえ、世尊」。仏は須深に告げられた。「これを法住を先に知り涅槃を後に知るという。彼ら善男子は独り静処にて専ら思惟を凝らし、放逸せず、我見を離れ、諸漏を起こさず、心善く解脱した」。仏がこの経を説き終えると、尊者須深は塵を遠く離れ、法眼清浄を得た。

釈:仏は十二因縁の理解が解脱への道であることを明かされた。須深は縁起の理を悟り、法眼清浄(預流果)を得た。

須深が短期間で証果したのは、仏の加持力と自身の禅定による専注力による。真の証得には禅定と智慧の両方が必要であり、仏の威光が修行者の因縁を具足させる。

(三五二)因縁法を如実知して初めて道を証する

原文:爾時、世尊は諸比丘に告げられた。「もし諸の沙門・婆羅門が法を如実知せず、法の集・滅・滅道跡を如実知らなければ、彼らは沙門の数に属さず、婆羅門の数にも属さない。彼らは沙門の義にも婆羅門の義にも適わず、法を見て自ら証することはない。『我が生は尽き、梵行は立ち、為すべきことは為し終え、自ら後の生を受けない』と自知することはない」。

釈:仏は縁起の法を理解しない者は真の修行者ではないと説かれた。

原文:「何を法の如実知らずというか。老死の法を如実知らず、老死の集・滅・滅道跡を如実知らない。生・有・取・愛・受・触・六入処を如実知らず、それらの集・滅・滅道跡を如実知らない。このように一切の法を如実知らない者を沙門・婆羅門の数に非ずという」。

釈:十二因縁の各支とその因果関係を理解することが必須である。

原文:「もし沙門・婆羅門が法を如実知り、法の集・滅・滅道跡を如実知るなら、彼らは真の沙門・婆羅門である。彼らは法を見て自ら証し、『我が生は尽き…』と自知する」。

釈:縁起を正しく理解する者が真の修行者である。

原文:「何を如実知るか。老死の法とその集・滅・滅道跡を如実知る。生・有・取・愛・受・触・六入処とその集・滅・滅道跡を如実知る。これら一切を如実知る者を真の沙門・婆羅門という」。

釈:各因縁支の詳細な理解が解脱への道程を示す。

(三五四)六入処を如実知って後続の支分を如実知る

原文:爾時、世尊は諸比丘に告げられた。「もし沙門・婆羅門が六入処を如実知らずに、触を超えようとするなら、それは不可能である。触の集・滅・滅道跡を超えることも不可能である。このように受・愛・取・有・生・老死を超えることも、それらの集・滅・滅道跡を超えることも不可能である」。

釈:六入処(六根)の理解がなければ、後の因縁支を超越できない。

原文:「もし六入処を如実知り、その集・滅・滅道跡を如実知るなら、触を超えることが可能である。このように受・愛・取・有・生・老死を超え、それらの集・滅・滅道跡を超えることが可能である」。

釈:前支分を正しく理解することで、後続の支分を超越できる。

十二因縁の修行は順次観察が必要であり、前の支分を正しく理解せねば後の支分を正しく知ることはできない。

(三五五)如何にして縁起法の各支を覚知するか

原文:爾時、世尊は諸比丘に告げられた。「老死を覚知すべきである。老死の集・滅・滅道跡を覚知すべきである。このように行に至るまで、行の集・滅・滅道跡を覚知すべきである」。

釈:各因縁支を順に観察し、その因果関係を覚知することが必要。

原文:「如何にして老死を覚知するか。縁によって生ずる故に老死があることを覚知する。如何にして老死の集を覚知するか。生の集が老死の集であることを覚知する。如何にして老死の滅を覚知するか。生の滅が老死の滅であることを覚知する。如何にして老死滅の道跡を覚知するか。八聖道が老死滅の道跡であることを覚知する」。

釈:各支の因果関係を逆観し、八正道が解脱の道であることを覚知する。

原文:「如何にして行を覚知するか。身行・口行・意行の三行を覚知する。如何にして行の集を覚知するか。無明の集が行の集であることを覚知する。如何にして行の滅を覚知するか。無明の滅が行の滅であることを覚知する。如何にして行滅の道跡を覚知するか。八聖道が行滅の道跡であることを覚知する」。

釈:無明を根源とする行の因果を観じ、八正道による滅の道を理解する。

八正道は我見を断ち、法眼清浄を得るための基本修行である。正しい見解(正見)を基に、正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定を修めることで、初めて因縁の理を徹見できる。

ページのトップへ戻る