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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1478

第四節 四食と十二因縁の関係

(三七一)四種の食の集起

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。四種の食があり、衆生を資益し、住世させ、摂受し長養する。何が四つであるか。一に粗抟食(そだんじき)、二に細触食(さいそくじき)、三に意思食(いしじき)、四に識食(しきじき)である。

釈:世尊は諸比丘に告げられた。四種の食があり、衆生の生命体を滋養し助益し、衆生を資助・増益させ、世間に住まわせ、摂受と滋養を得させるのである。どの四種の食であろうか。第一の粗抟食は比較的粗雑な四大から成る飲食であり、色身を滋養し生命を維持する。第二の細触食は比較的微細な触食であり、六根が六塵に触れること及び六根・六識と六塵の三者和合の触を食とし、五受陰を滋養し生命を維持する。第三の意思食は意識・意根の思量を食とし、五蘊身を滋養し生命を維持する。第四の識食は識心の持身作用を食とし、五蘊身の運行を維持し生命を保つ。

第一の粗抟食は欲界の人間衆生と畜生が食用とする食物であり、咀嚼により腸胃に入り身体に吸収され、色身を滋養し生命を維持して世に住まわせる。人間と畜生の色身は四大から成る粗重な色身であるため、粗雑な飲食によって維持され、微細な色身は微細な飲食によって維持されるか、あるいは禅定によって維持される。もし四大色身がなければ四大から成る飲食は不要であり、ただ禅定によってのみ生命を維持すればよい。欲界の天人も四大から成る飲食を摂るが、その飲食は非常に微細であり、咀嚼せず鼻で嗅ぐだけで満腹となる。

第二の細触食は根塵が互いに触れることを食とする。四大色身を持つ衆生は触食を必要とし、四大色身を持たない衆生も触食を必要とする。なぜなら無色界の衆生は四大色身を持たないが意根があり、意根が法塵に触れることで無色界衆生の生命を維持するからである。なぜ衆生は触食を必要とするのか。衆生には色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊があり、六根・六塵・六識がある。ただ根塵が触れて六識が生起する時、五蘊は運行し六塵境界を了別し、六塵境界を持つことができ、これが生命に必要不可欠である。もし触食がなくなれば、衆生は必ず涅槃に入り生命は消失する。

第三の意思食は主に意根の法に対する思量食であり、意根は恒に審らかに思量して一瞬も休まず、意識の断続的な思量食がこれを補助する。思量があるからこそ五蘊は運行を続け、塵境を取り入れることができ、これは三界の無明衆生に必要不可欠である。もし思食がなければ、衆生は必ず涅槃に入り生命は消失する。

第四の識食は八つの識を食とし、生命の運行を維持する。八つの識には全て持身作用があり、第八識は絶対的な持身識であり第一の持身識である。七識は相対的な持身識であり、第七識は第二の持身識、意識は第三の持身識、五識は第四の持身識である。第八識と第七識の二識が共同で持身すれば、五蘊生命体は世に住むことができるが、五蘊の機能作用は完全ではない。ほとんどの衆生は意識の持身作用と五識の持身作用を離れることはできず、そうして五蘊機能は円満に運行し、生命は相続し集起することができる(八地以上の菩薩で諸根互用が可能な者は除く)。第八識には絶対的な持身作用があり、一切の食の根源と基礎であり根本食であるが、ここでの識食は主に六・七識の食を指す。

衆生が必要とする四種の食は、いずれも識食から離れることはできず、識食を根本食として五蘊身を摂受する。これを基礎として初めて触食と思食が必要となる。もし甚深な禅定がなければ、地水火風の四大種子から成る抟食を色身の栄養素としなければならない。禅定が比較的深ければ抟食を断ち、識食と思食を主として色身を滋養し、軽微な触食を持つことも、一部の触食を断つこともできる。衆生がこの四種の食に依存すればするほど、生死は流転し苦受は増す。禅定が深まれば深まるほど、この四種の食への依存は少なくなり、生命はより自在となる。しかし第八識への依存は永遠に断ち切ることはできず、ただ第八識を執着しなければよいのである。

原文:この四食は何を因とし何によって集起するのか。何によって生じ何によって触発されるのか。これらの食は愛を因とし愛によって集起し、愛によって生じ愛によって触発される。この愛は何を因とし何によって集起するのか。何によって生じ何によって触発されるのか。愛は受を因とし受によって集起し、受によって生じ受によって触発される。この受は何を因とし何によって集起するのか。何によって生じ何によって触発されるのか。受は触を因とし触によって集起し、触によって生じ触によって触発される。

釈:この四種の食はどの法を因として現れるのか。どの法の集起によって生じるのか。どの法の出生によって引き起こされるのか。どの法の触発によって生み出されるのか。この四種の食は愛を因として現れ、愛の集起によって生じ、愛の出生によって引き起こされ、愛の触発によって生み出される。ではこの愛はどの法を因として現れるのか。どの法の集起によって生じるのか。どの法の出生によって引き起こされるのか。どの法の触発によって生み出されるのか。

この愛は受を因として現れ、受の集起によって生じ、受の出生によって引き起こされ、受の触発によって生み出される。この受はどの法を因として現れるのか。どの法の集起によって生じるのか。どの法の出生によって引き起こされるのか。どの法の触発によって生み出されるのか。この受は六根が六塵に触れることを因として現れ、触の集起によって生じ、触の出生によって引き起こされ、六根が六塵に触れることによって生み出される。

もし愛がなければ、愛が滅び尽きれば、識食は生じず、触食もなく、触食がなければ思食と抟食もなく、四種の食は滅び尽きて生じない。故に貪愛は苦であり、貪愛は生死流転の苦因である。

原文:この触は何を因とし何によって集起するのか。何によって生じ何によって触発されるのか。触は六入処を因とし、六入処によって集起し、六入処によって生じ、六入処によって触発される。六入処の集起は触の集起であり、触の集起は受の集起であり、受の集起は愛の集起であり、愛の集起は食の集起である。食が集起するが故に、未来世の生老病死・憂悲悩苦が集起する。かくの如く純大苦聚が集起する。

かくの如く六入処が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば食は滅する。食が滅するが故に、未来世の生老病死・憂悲悩苦は滅する。かくの如く純大苦聚は滅する。

釈:この触はどの法を因として現れるのか。どの法の集起によって現れるのか。どの法の出生によって引き起こされるのか。どの法の触発によって生み出されるのか。触は六入処を因として現れ、六入処の集起によって生じ、六入処の出生によって引き起こされ、六入処の触発によってもたらされる結果である。六入処の集起は即ち触の集起であり、触の集起は即ち受の集起であり、受の集起は即ち愛の集起であり、愛の集起は即ち四種の食の集起である。食が集起するが故に、未来世の生老病死憂悲苦悩は集起し、純大苦聚は集起する。

これらの法の相関関係によれば、もし六入処が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば四種の食は滅し、四種の食が滅すれば、未来世の生老病死憂悲苦悩純大苦聚は滅する。

(三七二)四食と十二因縁の関係

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。四種の食があり、衆生を資益し、住世させ摂受長養する。何が四つであるか。一に粗抟食、二に細触食、三に意思食、四に識食である。

釈:世尊は諸比丘に告げられた。四種の食があり、衆生を滋養し助益し、衆生を摂受させ長く世に住まわせる。どの四種の食であろうか。第一は粗雑な飲食(粗抟食)、第二は微細な触食(細触食)、第三は意識と意根の思食(意思食)、第四は識心の了別食(識食)である。

原文:その時、頗求那(はくな)という名の比丘が、仏の後ろにいて仏に扇ぎながら、仏に申し上げた。世尊、誰がこの識を食とするのですか。仏は頗求那に告げられた。私は識を食とする者があるとは言わない。もし私が識を食とする者があると言うならば、お前はそのように問うべきである。私は識が食であると言う。お前は「何の因縁によって識食があるのか」と問うべきである。私は答えるであろう。「未来の有を招き、相続して生じさせるためである」と。

釈:この時、頗求那という名の比丘が仏の後ろに立って仏に扇を送りながら、仏に申し上げた。世尊、誰が識心を食とするのですか。仏は頗求那に告げられた。私は識を食とする者があるとは言わない。もし私が識を食とする者があると言うならば、お前はそのように問うことができる。私は識心もまた衆生を資益する一つの食であると言う。お前はこう問うべきである。何の因縁によって識心というこの食があるのか。私は答えるであろう。識食は未来世の有を招致し、三界の有を相続不断に生じさせることができるからである、と。

なぜ仏は七識八識を食とする者がないと言うのか。なぜ仏は七識八識を食とする者がないと言うのか。識食を必要とする者は五蘊の衆生であるが、五蘊の衆生は和合体であり主宰者がない。識は主宰者なき和合体の中の最も主要な要素であり、識は自らを食とせず、主宰者なき故に食とする者もない。なぜ識食があるのか。仏は、識食があるからこそ未来世の三界の有を感召することができると言う。この言葉から、小乗と中乗の識食は六識の食を指し、六識の食があれば後世の名色があることを理解できる。大乗の識食は七・八の二識を含み、七・八の二識を主とし、六識を補助とする。

原文:有があるが故に六入処がある。六入処を縁として触がある。頗求那が再び問うた。誰が触れるのか。仏は頗求那に告げられた。私は触れる者があるとは言わない。もし私が触れる者があると言うならば、お前は「誰が触れるのか」と問うべきである。お前は「何の因縁によって触が生じるのか」と問うべきである。私は「六入処を縁として触がある」と答えるべきである。

釈:三界の有があるが故に六入処があり、六入処を縁として触が生じる。頗求那が再び仏に問うた。誰が触れるのですか。仏は頗求那に告げられた。私は触れる者があるとは言わない。もし私が触れる者があると言うならば、お前は「誰が触れるのか」と問うべきである。お前はこのように問うべきである。何の因縁によって触が生じるのか。私は答えるべきである。六入処が触れる縁があるが故に触が生じる、と。

なぜ仏は触れる者がないと言うのか。なぜ受ける者、愛する者、取る者、有る者、生まれる者、老死する者がいないのか。触とは根塵が互いに触れることであり、内六入と外六入の触である。根塵・内外六入には自性がなく、主宰者なく、主人もいない。故に能触と所触はなく、触れる者もない。同様に、受ける者もなく、愛する者もなく、取る者もなく、有る者もなく、生まれる者もなく、老死する者もない。

原文:触を縁として受がある。再び問うた。誰が受けるのか。仏は頗求那に告げられた。私は受ける者があるとは言わない。もし私が受ける者があると言うならば、お前は「誰が受けるのか」と問うべきである。お前は「何の因縁によって受があるのか」と問うべきである。私は「触を縁として受がある」と答えるべきである。

受を縁として愛がある。再び問うた。世尊、誰が愛するのか。仏は頗求那に告げられた。私は愛する者があるとは言わない。もし私が愛する者があると言うならば、お前は「誰が愛するのか」と問うべきである。お前は「何の縁によって愛があるのか」と問うべきである。私は「受を縁として愛がある」と答えるべきである。

釈:触を縁として受が生じる。頗求那が再び問うた。誰が受けるのですか。仏は頗求那に告げられた。私は受ける者があるとは言わない。もし私が受ける者があると言うならば、お前は「誰が受けるのか」と問うべきである。お前はこのように問うべきである。何の因縁によって受があるのか。私は答えるべきである。触を縁とするが故に受が生じる、と。

受を縁として愛が生じる。頗求那が再び問うた。世尊、誰が貪愛するのですか。仏は頗求那に告げられた。私は貪愛する者があるとは言わない。もし私が貪愛する者があると言うならば、お前は「誰が貪愛するのか」と問うべきである。お前はこのように問うべきである。何の因縁によって貪愛が生じるのか。私は答えるべきである。受を縁とするが故に貪愛がある、と。

原文:愛を縁として取がある。再び問うた。世尊、誰が取るのか。仏は頗求那に告げられた。私は取る者があるとは言わない。もし私が取る者があると言うならば、お前は「誰が取るのか」と問うべきである。お前は「何の因縁によって取が生じるのか」と問うべきである。私は「愛を縁として取がある」と答えるべきである。

釈:貪愛を縁として取の行為が生じる。頗求那が再び問うた。世尊、誰が取るのですか。仏は頗求那に告げられた。私は取る者があるとは言わない。もし私が取る者があると言うならば、お前は「誰が取るのか」と問うべきである。お前はこのように問うべきである。何の因縁によって取が生じるのか。私は答えるべきである。貪愛を縁とするが故に取が生じる、と。

原文:取を縁として有がある。再び問うた。世尊、誰が有るのか。仏は頗求那に告げられた。私は有る者があるとは言わない。もし私が有る者があると言うならば、お前は「誰が有るのか」と問うべきである。お前は今「何の因縁によって有があるのか」と問うべきである。私は答えるべきである。「取を縁として有がある。当来の有を招くことができる。触が生じることを有という」と。

釈:取を縁として三界の有が生じる。頗求那が再び問うた。世尊、誰が有るのですか。仏は頗求那に告げられた。私は有る者があるとは言わない。もし私が有る者があると言うならば、お前は「誰が有るのか」と問うべきである。お前は今このように問うべきである。何の因縁によって三界の有が現れるのか。私は答えるべきである。取の心行があるが故に三界の有があり、取は未来世の有を招来する。触が生じ出されれば、これを有という、と。

原文:六入処がある。六入処を縁として触があり、触を縁として受があり、受を縁として愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有があり、有を縁として生があり、生を縁として老病死憂悲悩苦がある。かくの如く純大苦聚が集起する。六入処が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老病死憂悲悩苦は滅する。かくの如く純大苦聚は滅する。

釈:六入処があるが故に触があり、六入処の因縁が触の生起を導き、触の因縁が受を生じ、受を縁として愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有が生じ、有を縁として生命が出生し、生命あれば老病死憂悲苦悩があり、かくの如く純大苦は集起する。もし六入処が滅すれば触は滅し、触が滅すれば受は滅し、受が滅すれば愛は滅し、愛が滅すれば取は滅し、取が滅すれば有は滅し、有が滅すれば生は滅し、生が滅すれば老病死憂悲苦悩は滅し、純大苦聚は滅する。

十二因縁法においては、識を食とする者もなく、触れる者もなく、受ける者もなく、愛する者もなく、取る者もなく、有る者もなく、生まれる者もなく、老死する者もない。これら一切の法は因縁によって生じたものであり、因縁によって生じた法にはいずれも主宰者がなく、主ではないのである。では誰が識を食とするのか。誰が触れ、受け、愛し、取り、有り、生まれ、老死するのか。能とする者などおらず、これらはただ浮雲の如き仮象に過ぎず、過ぎ去って留まらず、絶えず移り変わり演変し、生滅変異して得るべきものではない。時が過ぎ境が遷れば、もはや触れることはなく、たとえ触れがあっても当時のような受はなく、まして愛はなく、取着もなくなる。しかしなお後世の有は避けられない。なぜなら別様の触、別様の受、愛、取があるからであり、これが変異である。

もし主宰者があれば、これらの法は変異せず、恒に一触、恒に一受、恒に一愛、恒に一取、恒に一有となり、生老病死はない。主宰者なき故に必ず生滅変異無常となり、恒常でなく、必ず識を食とする者もなく、触れる者・受ける者・愛する者・取る者・有る者・生まれる者・老死する者もないのである。

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