阿含経十二因縁釈
第四節 苦しみを滅し解脱に至る道
(二九〇)行を観じて触を縁として受が解脱を得る
原文:たとえば二本の木が互いに擦れ合う。和合して火が生じる。もし二本の木が離れ散れば、火もまた従って消える。このように、すべての受は触を縁として集まる。触が生じ触が集まる。もしそれらの触が集まるゆえに、それらの受もまた集まる。それらの触の集まりが滅ぶゆえに、それらの受の集まりもまた滅び止む。清涼にして息み没する。多聞の聖弟子がこのように観ずるならば、色において解脱し、受・想・行・識において解脱し、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみにおいて解脱する。私は彼らが苦より解脱を得たと言う。仏はこの経を説き終えられると、諸比丘は仏の説かれたことを聞き、歓喜して奉行した。
釈:仏は説かれた:たとえて言えば、二本の木が互いに接触し擦れ合い、やがて火が生じる。もし二本の木が離れれば、火もまた従って消える。このように、すべての受は触を縁として集まってくる。すべて触によって生じ、触によって集まってくるのである。もし一つ一つの触が集まるとき、一つ一つの受もまた集まってくる。一つ一つの触の集まりが滅んだ後には、一つ一つの受の集まりもまた滅び、心は清涼となり止み静寂となる。多聞の聖弟子がこのように行を観ずれば、色蘊において解脱を得、受・想・行・識蘊において解脱を得、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみにおいて解脱を得るのである。このようにして、私は彼らが苦より解脱を得たと言うのである。
仏は二本の木が互いに擦れて火を生じる譬えを用いて、触が集まれば受も集まるという縁起の理を説かれた。二本の木が擦れ合えば火が生じるが、もし二本の木が接触しなければ、触の因縁がなくなり、火は生じない。衆生の苦悩の因縁は触によって生じる。もしこの触の因縁がなくなり、もはや触れなければ、受もなくなる。触の因縁がなければ、受の感覚はなくなるのである。
どのような受であれ、触を縁とするものが積み集まれば、受の集まりが生じる。縁が絶えず集まれば集まりは絶えず、集まりがあれば触があり、触があれば受がある。触が生じ、触が集まれば、受の集まりが生じる。受が生じる条件はまず接触であり、接触は縁の作用である。縁がなければ接触はできない。万物はすべて縁によって生じ存在するが、縁は前世の業縁によって生じるのである。触が滅べば受も滅び、受の集まりが滅んだ後には心は滅止し、清涼となり、息み没する。
仏は衆生に、触の集まりこそが受の集まりであることを認識させようとされた。触があれば受があり、触は虚妄であり、受もまた虚妄である。受は意識心を主として生じる受であり、触は六根と六境が触れて生じる。これには縁が必要であり、縁があって初めて接触する。したがって、すべての事物の生起には縁起が必要であり、縁がなければ起きず、縁があれば生起する。縁起の法もまた虚妄であり、衆縁の和合によって生じるものであり、すなわち真実ではない。ただ第八識である如来蔵のみが条件に依存せず、集起する因縁の法ではないのである。
(二九一)内触法を観察して解脱を得る
原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。私は内触法を説く。あなた方はお取りになるか。時に一人の異なる比丘が座より立ち上がり、衣服を整え、頭を礼して足を礼し、合掌して仏に白した。世尊の説かれる内触法は、私はすでにお取りしました。時に彼の比丘は仏の前で、かくのごとくかくのごとくと、自ら記して説いた。かくのごとくかくのごとく、世尊は喜ばれなかった。その時、尊者阿難が、仏の後ろで扇を執り仏に扇いでいた。仏は阿難に告げられた。聖なる法律における内触法は、この比丘の説くものとは異なると。阿難は仏に白した。今まさにその時です。ただ願わくは世尊、諸比丘のために、賢聖の法律における内触法を説いてください。諸比丘は聞いた後、まさに受け奉行いたします。
釈:世尊は諸比丘たちに言われた、私が説く内触法を、あなた方は観察できるか。その時、外から新しく来た比丘が座から立ち上がり、衣服を整えて仏足を礼し、合掌して仏に言った:世尊の説かれる内触法は、私はすでに観察しました。この時、この比丘は仏の前で種々の説法をして自らを証明したが、彼のどの説も世尊は喜ばれなかった。この時、尊者阿難は仏の後ろで手に扇子を持って仏に扇いでいた。仏は阿難に言われた:賢聖の法と律則の説くところの内触法は、この比丘の説く内触法とは異なると。阿難は仏に言った、今こそちょうどお説きください、ただ願わくはあなた世尊が比丘たちのために賢聖の法と律則のような内触法を説いてください、比丘たちは聞いた後、信受奉行すべきです。
内触法とは何か。それは勝義根の内側の触である。眼が色に触れ、耳が声に触れ、鼻が香に触れ、舌が味に触れ、身が触れる対象に触れ、意が法に触れる。触れた後に識が生じ、識が再び境に触れる。
原文:仏は阿難に告げられた。善いかな。諦聴せよ。まさに汝のために説こう。この諸比丘が内触法を取るには、かくのごとく思惟すべきである。もし衆生の所有する種々の衆苦が生ずる。この苦は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。かくのごとく取る時には、まさに知るべし、この苦は億波堤(ウパーダーナ:取)が因であり、億波堤が集まり、億波堤が生じ、億波堤が転ずることを。
釈:仏は阿難に言われた:善い、あなたたちはよく聞きなさい、私は今あなたたちのために説く。あなたたち比丘が内触法を観察するには、このように思惟すべきである:もし衆生の所有する種々の苦悩が生じた時、これらの苦悩の因は何か? 苦悩は何の法によって集まってくるのか? 何の法が生じてこれらの苦悩があるのか? 何の触が生じてこれらの苦悩があるのか? このように内触法を観察する時には、まさに知るべきである、これらの苦悩は取(ウパーダーナ)の因によって現れるのである;取が集まれば苦悩も集まる;取が生じれば苦悩も生じる;取が流転すれば苦悩も流転するのである。
原文:また次に比丘よ。内触法を取る。また億波堤は、何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。彼が取る時には、まさにまた知るべし。億波堤は愛が因で愛が集まり、愛が生じて愛が触れる。また次に比丘よ。内触法を取る。まさにまた知るべし、愛は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。かくのごとく取る時には、まさに知るべし、世間の念う、諦正なる色(ルーパ:色蘊)において、それに愛が生じて生じ、繋がれて繋がり、住して住することを。
釈:また次に、比丘よ、あなたたちが内触法を観察する時、何の法がまた取の生じる因か? 何の法が集まれば取が集まるか? 何の法が生じれば取が生じるか? 何の法が触れれば取が触れるか? 観察する時にはまさに知るべきである、それは貪愛(トリシュナー)の故に取が生じるのであり、貪愛が集まる故に取が集まり、貪愛が生じる故に取が生じ、貪愛が触れる故に取が触れるのである。
諸比丘たちよ、内触法を観察する時、また観察すべきである、貪愛の生じるのは何が原因か? 何の法が集まれば貪愛が集まるか? 何の法が生じれば貪愛が生じるか? 何の法が触れれば貪愛が触れるか? このように観察する時には、まさに知るべきである、世間の人が心に念じている精妙で純正な色蘊(物質的要素)について、貪愛が生じると色蘊も生じる;心念が貪愛に繋がれる時、色蘊もまた繋がれる;心念が貪愛に縛られる時、色蘊もまた縛られるのである。
これは世尊が説かれた十二因縁法の一部である。前に説かれたのは触の集まりが受の集まりの因であるが、今ここで説かれているのは愛の集まりが取の集まりの因である。愛があれば取があり、取があれば生・老・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみの苦が生じる。貪愛の故に、六境(六つの対象)に執着し、取った後には有(存在)が生じ、有があれば生があり、生じた後には苦が現れるのである。
原文:もし諸の沙門・婆羅門が、世間の念う、諦正なる色について、常なる想、恒なる想、安穏なる想、無病の想、我の想、我所の想として見るならば、すなわちこの色について愛は増長する。愛が増長すれば、億波堤は増長する。億波堤が増長すれば、苦は増長する。苦が増長すれば、すなわち生老病死、憂悲惱苦から解脱せず。私は彼らが苦から解脱しないと言う。
釈:もし沙門・婆羅門が世間の人が憶念する精妙で純正な色・声・香・味・触・法について、常なる想、恒なる想(永遠不変)、安穏なる想(固定不変)、無病の想(過患なき)、我の想、我所の想をなし、これらの見解を生じたならば、色・受・想・行・識への貪愛は増長する;貪愛が増長すれば、取は増長する;取が増長すれば、苦は増長する;苦が増長すれば、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解脱できず、私は彼らが苦から解脱しないと言うのである。
恒(永遠)とは永遠に変わらず滅しないこと、安穏とは固定して永遠に変わらないこと、永遠に私のものであること、無病とは過患がないという意味である。衆生はこの六根・六境・六識を過患のあるものとせず、私であるとし、私の所有であるとするならば、それらを追求し、貪愛し、掴み取ろうとする。こうして生死輪廻は絶えない。もしこれらの法がすべて過患があり、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみを生じさせると知るならば、もはやこれらの法を追求しようとはしないであろう。
これらの念いがあると、色への愛は増長し、ますます貪るようになり、貪愛が増長すればするほど、生死は断ち切れず、苦悩は多くなる。この貪愛が増長すれば、執取も増長し、三界の有(存在)も当然増長する。三界の有が増長すれば、生命は絶えず、苦も絶えず増長する。貪愛が重ければ重いほど苦は多く増長し、ますます生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解脱できなくなる。衆生は皆、楽を求めるが、結果的には皆苦しむ。なぜなら衆生は常に苦の因を作っているからである。貪愛があれば苦がある。阿羅漢には貪愛がなく、執取もしない。故にもはや生・老・病・死の苦はないのである。
原文:たとえば路傍に、清涼なる池の水があり、香りと味とが具わっている。ある人がその中に毒を入れた。陽春の月、諸々の行路の者は、風熱と渇きに迫られ、競って飲もうとする。ある人が言葉をかける。士夫よ。これは清涼の池である。色・香・味が具わっている。しかし中に毒がある。あなた方は飲んではならない。もし飲むならば、あるいは汝を死なせ、あるいは死に近い苦しみを与えるであろう。
釈:仏は譬えて言われた:たとえば路傍に清涼な池があり、池の水は香りと味とが具わっている。ある人が毒を池の水の中に入れた。春が来て、天気が暖かくなるとき、通りかかる人々は暑さのために非常に喉が渇き、この池の水を飲みたくなる。飲もうとする時、そばにいる人が彼に言う:この清涼な池の水は、色・香・味が具わっているが、水の中に毒が入っている、飲んではいけない、もし飲めば死ぬか、死ななくても重い病気になるだろうと。
原文:しかるに彼の渇く者は、信ぜずして飲む。美味を得るも、しばらくしてあるいは死に、あるいは死に近い苦しみを受ける。かくのごとく沙門・婆羅門は、世間に念うべき、端正なる色を見て、常なる見、恒なる見、安穏なる見、無病の見、我・我所の見を作り、ついには解脱を得ず、生老病死、憂悲惱苦に至る。
釈:しかし水を飲もうとする人は、喉が渇きすぎてそばの人の戒めを信じず、ついに飲んでしまう。飲む時は清涼で美味しいと感じるが、飲んだ後、毒が発作し、それらの人はあるいはすぐに死に、あるいは苦しんで死にそうになる。清涼池の譬えと同じく、沙門・婆羅門は世間に愛すべき端正な色を見て、永遠に滅びないものとし、安穏で変わらないものとし、何の過患もないものとし、私および私の所有とする。これらの見解がある故に、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解脱できないのである。
原文:もし諸の沙門・婆羅門が、世間に念うべき端正なる色について、病のごとく、癰(はれもの)のごとく、刺のごとく、殺すごとく、無常・苦・空・非我と観察するならば、彼の愛は離れる。愛が離れる故に億波堤は離れる。億波堤が離れる故に苦は離れる。苦が離れる故に生老病死憂悲惱苦は離れる。
釈:もし沙門・婆羅門が世間に念うべき端正な色相を見て、これらの色相を病患のごとく、癰(はれもの)のごとく、芒刺(とげ)のごとく、殺戮のごとく、すべて無常・苦・空・無我であると観察するならば、貪愛は離れる;貪愛が離れれば、取は離れる;取が離れれば、苦は離れる;苦が離れれば、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみは離れるのである。
原文:たとえば路傍の清涼なる池の水、香味具足。ある人がその中に毒を入れた。陽春の月、諸々の行路の者、風熱渇きに迫られ、競って飲もうとする。ある人が言葉をかける。この水に毒あり。汝ら飲むなかれ。もし飲むならば、あるいは汝を死なせ、あるいは死に近い苦しみを与えるであろう。彼はすなわち念う。この水に毒あり。もし飲むならば、あるいは我を死なせ、あるいは死に近い苦しみを与えるであろう。我はしばらく渇きを忍び、乾いた麨飯(炒り粉)を食らい、水を取って飲まない。
釈:たとえば路傍の清涼な池の水、香味具足。ある人が毒を水の中に入れた。行路の人は喉が渇いて水を飲もうとする時、他の人が彼らに言う、この水に毒がある、飲んではいけない、もし飲めば、あるいはすぐに死ぬか、あるいは苦しんで死にそうになると。水を飲もうとする人は考える、この水には毒がある、毒のある水は飲めない、飲めば死ぬ、それではしばらく乾きを我慢して、乾いた炒り飯だけを食べ、水は飲まない。こうしてこれらの行路の人は立ち去り、毒水を飲まない。故に毒にあたって死ぬことはない。
それでは我々はこれから心に銘記すべきである:もう毒水を飲んではいけない。一念の貪愛が生じれば自分に言う:もう貪愛してはいけない、もう毒水を飲んではいけない;何かの法を好きになれば自分に言う:もう好きになってはいけない、好きになることは毒水を飲むようなものだ;執着すれば自分に言う:もう執着してはいけない、執着することは毒水を飲むようなものだ。徐々にこの貪愛は薄れ、やがては滅び、最後には苦はなくなる。このように少しずつ自らを戒め、ついには解脱の道へと進むことができるのである。
原文:かくのごとく沙門・婆羅門は、世間に念うべき色について、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく、殺すごとく、無常苦空非我と観察し、ついには解脱する。生老病死、憂悲惱苦。この故に阿難よ、この法についてかくのごとく見、かくのごとく聞き、かくのごとく覚り、かくのごとく知るべし。過去・未来についてもまたこの道のごとく、かくのごとく観察すべし。この故に阿難よ、この法についてかくのごとく見、かくのごとく聞き、かくのごとく覚り、かくのごとく知るべし。過去・未来についてもまたこの道のごとく、かくのごとく観察すべし。
釈:かくのごとく、沙門・婆羅門は世間に念うべき愛すべき色について、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく観察し、その無常・苦・空・無我性を観察するならば、このように貪愛から遠ざかるであろう。生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみから解脱できるであろう。阿難よ、それ故にこの内触法についてかくのごとく見、かくのごとく聞き、かくのごとく覚り、かくのごとく知るべきである。過去・未来の内触についてもかくのごとく対処し、かくのごとく観察すべきである。観察し観察していくうちに、ついには一切の法はすべて無常であり、苦であり、空であり、無我であると証得する。そうすればもはや貪愛も執取もせず、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみは滅び去り、心は解脱し、清涼となり、寂静となるのである。
(二九二)苦を滅する道
原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。いかに思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至るか。思量せよ、衆生の所有する衆苦、種々の差別。この諸々の苦は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。取が因で取が集まり、取が生じて取が触れることを思量せよ。もし彼の取が滅びて余りなきならば、衆苦はすなわち滅ぶ。彼の乗ずる苦を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修行せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち取の滅びである。
釈:世尊は諸比丘に言われた:思量し観察して、いかにして完全に徹底的に苦を滅尽し、究竟の苦の辺際に至るか。衆生のすべての苦、およびこれらの苦の種々の差別相を思量し、これらの苦は何の因縁によって現れるのか、何の法の集起によって感召されるのか、何の原因によって生じるのか、何の法の触によって生じるのかを思量せよ。
最後に思量せよ、それは取の故に苦が現れるのであり、取の集起によって苦が現れるのであり、取の生起によって苦が生じるのであり、取の触によって苦が生じるのである。もしそれらの取がすべて滅尽し、もはや残るものがないならば、一切の苦はすべて滅ぶであろう。比丘たちは苦を滅する修道の方法を修習し、如実に了知すべきであり、かつ正しく苦を尽くさんと向かう助道法や次要の法を修行すべきである。こうして比丘たちは正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至ることができる。これが取を滅ぼす方法である。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る。時に思量せよ、彼の取は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。思量せよ、彼の取は愛が因で愛が集まり、愛が生じて愛が触れる。彼の愛が永く滅びて余りなきならば、取もまた従って滅ぶ。彼の乗ずる取を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち愛の滅びである。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して如何にして正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至るか。取は何の因縁によって現れるか、何の法が集まって取が現れるか、何の法が生じて取が生じるか、何の法が触れて取が生じるかを思量せよ。最後に思量せよ、取の現れは貪愛の故である、貪愛の集起の因縁によって生じる、貪愛が生じれば取が生じる、貪愛が触れれば取が生じる、貪愛が滅びれば取はそれに従って滅びる。比丘たちは修める取着を滅除する道の跡と経路を如実に了知し、かつ苦を滅する方向へ向かう法と苦を滅するのを助ける次要の法を修行すべきである。これが比丘が次第に正しく苦を尽くさんと向かう方法であり、究竟の苦の辺際に至ることができる、すなわち貪愛を滅尽することである。
衆生がもし取を滅ぼし、もはや諸法に執着しなければ、衆苦は滅ぶであろう。究竟如何にして苦を滅するか、中間に修めるべき道は何か、我々は如実に了知すべきである。如実に苦を滅する修行方法を了知するとは、正しく苦を尽くさんと向かう向法と次法を修習することである。すなわち三十七道品(四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道)を含む。向とは苦を滅する方向へ向かうこと、次とは次要の助けとなる法である。主たる法は五蘊を観察して我見を断つことである。向法・次法を修習する目的は我見を断つ準備をし、見道の前提条件を満たすためであり、そうして初めて理にかなった観察と行観ができ、ついには我見を断つことができるのである。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る。すなわち思量せよ、彼の愛は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。知るべし、彼の愛は受が因で受が集まり、受が生じて受が触れる。彼の受が永く滅びて余りなきならば、すなわち愛は滅ぶ。彼の乗ずる愛を滅する道の跡を如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち受の滅びである。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して如何にして正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至るか。貪愛は何の因縁によって生じるか、何の法が集まって生じるか、何の法が生じて生じるか、何の法が触れて生じるかを思量せよ。思量観察の後、貪愛は受の因縁によって生じる、受が集まって貪愛が生じる、受が生じれば貪愛が生じる、受が触れれば貪愛が生じると知る。もし受が永遠に滅尽すれば、貪愛は滅尽するであろう。比丘たちは修める愛を滅する修道の軌跡を如実に了知し、かつ向法と助道法を修習すべきである。こうして比丘たちは正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至ることができる。すなわち受覚(感覚)を滅除することである。
受の前には触がある。触れなければ受は生じない。受がなければ貪愛はありえない。貪愛がなければ取はない。衆生は毎日絶えず触れている。六根が六境に触れなければ我慢できないと感じる。なぜ我慢できないと感じるのか? 無明の故である。触の根源は無明である。ただ真実の修行人だけが意根が降伏され、攀縁(心が対象を追い求めること)が止み、空を証得して、初めてもはや触れたくなくなり、寂静に耐えられるようになるのである。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、思量せよ、彼の触は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。まさに知るべし、彼の触は六入処(六根)が因で、六入処が集まり、六入処が生じ、六入処が触れる。彼の六入処が滅びて余りなきならば、すなわち触は滅ぶ。彼の乗ずる六入処を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して如何にして正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至るか。触は何の因縁法によって現れるか、何の法の集起によって生じるか、何の法が生じた後に引き起こされるか、何の法が触れた後に生じるかを思量せよ。観察の後、触は六入処(六根)の因縁によって現れる、六入処の集起によって現れる、六入処の生起によって触が現れる、六入処が触れることによって触が生じると知るべきである。ただ六入処が滅尽して初めて、触は滅する。比丘たちは自らが修習する六入処滅尽の軌跡を如実に了知し、正しく苦を尽くさんと向かう向道法と次要の法を修習すべきである。これが比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至る道である。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、思量せよ、彼の六入処は、何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。知るべし、彼の六入処は、名色(ナーマルーパ:五蘊)が因で、名色が集まり、名色が生じ、名色が触れる。名色が永く滅びて余りなきならば、すなわち六入処は滅ぶ。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、六入処は何の因縁法によって生じるか、何の法の集起によって生じるか、何の法の生起によって生じるか、何の法が触れて生じるかを思量せよ。観察の後、六入処は名色(五蘊)の因縁によって生じる、名色の集起によって生じる、名色の生起によって六入処が生じる、名色が触れることによって六入処が生じると知るべきである。名色がすべて滅尽し残るものがない時、六入処はそれに従って滅尽する。
原文:彼の乗ずる名色を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち名色の滅びである。
釈:比丘たちは自らが修習する名色滅尽の道跡を、如実に了知すべきであり、かつ向道の法と次要の助道の法を修習すべきである。これが比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至ることである。すなわち名色を滅尽することである。
名色(五蘊)があれば六入(六根)がある。衆生がいれば六入がある。六根が不完全な者を除く。六入処が現れる因縁は名色があるからである。名色はいつから現れるのか? 受精卵から現れ、母胎を出て肉身が成長し、死に至るまでの期間が一期の名色である。五蘊とは色・受・想・行・識である。色は身体、名は七つの識と七つの識の機能作用である。五蘊が衆生を構成し、衆生を名色といい、名色はまた五蘊ともいう。名色すなわち受精卵があれば、眼・耳・鼻・舌・身の五根が成長する。五根が成長すれば触れ、触れれば受があり、受があれば愛があり、愛の後には取があり、取があれば有(存在)があり、有があれば生があり、生じた後には老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみがある。これは生死の因縁の連鎖である。
比丘はさらに思量し観察して如何に苦を滅し究竟の苦の辺際に至るか、六入の因はすべて名色によるものである、名色が集まれば六入が集まり、名色が生じれば六入が生じ、名色が触れれば六入が触れる、名色を永く滅尽すれば六入は滅すると思量すべきである。如何に名色を滅するか? これには向法・次法・助道の法を修習し、修習した後に順を追って行観し、名色を滅し、五蘊を滅することができるのである。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、思量せよ、名色は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。知るべし、彼の名色は、識(ヴィジュニャーナ:六識の業種)が因で識が集まり、識が生じて識が触れる。彼の識が滅ぼんと欲して余りなきならば、すなわち名色は滅ぶ。彼の乗ずる識を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち識の滅びである。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、名色は何の因縁によって生じるか、何の法が集まって生じるか、何の法が生じて名色が生じるか、何の法が触れて名色が生じるかを思量せよ。
観察思量の後、名色の生じるのは六識の業種の因縁による、六識の業種が集まることによって生じる、六識の業種が現れると後世の名色の生じることを引き起こす、六識の業種が触れることによって後世の名色が生じると知る。六識の業種がもし滅尽し余すところがなければ、名色はそれに従って滅尽する。比丘たちは修習して六識の業種を滅尽する道跡を如実に了知すべきであり、向道の法と次要の助道の法を修習すべきである。これが比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至る、すなわち六識の業種を滅尽することである。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、思量せよ、彼の識は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。知るべし、彼の識は行(サンスカーラ:身口意の業行)が因で行が集まり、行が生じて行が触れる。諸々の福行(善行)を作れば、善き識が生じ、諸々の不福不善の行を作れば、不善の識が生じ、無所有行(不善不悪の行)を作れば、無所有の識が生じる。これを彼の識は行が因で行が集まり、行が生じて行が触れるとする。彼の行が滅ぼんと欲して余りなきならば、すなわち識は滅ぶ。彼の乗ずる行を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち行の滅びである。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して如何にして正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至るか。六識の業種は何の因縁によって生じるか、何の法が集まって六識の業種が現れるか、何の法が生じて六識の業種が生じるか、何の法が触れて六識の業種が生じるかを思量せよ。観察思量の後、六識の業種は身口意の行の因縁によって生じる、身口意の行が集まって六識の業種が生じる、身口意の業行が生じれば六識が生じる、身口意の業行が触れれば六識の業種が生じると知る。
もし福行(善行)を作れば、善き六識の業種が生じる;もし非福行(不善行)を作れば、不善の六識の業種が生じる;もし不善不悪の行を作れば、不善不悪の六識の業種が生じる。これを身口意の行の因縁、身口意の行の集まりが六識の業種の生起を決定するといい、身口意の行の生起、行の触れが六識の業種の生起を導くのである。もし身口意の行が滅尽し、もはや一筋の業行もなくなれば、六識の業種はそれに従って滅尽するであろう。比丘たちは修める行を滅する修道の道を、如実に了知すべきであり、向道の法と助道の法を修習すべきである。故に行が滅すれば比丘は正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るであろう。
なぜなら六根における身口意の業行が絶えなければ、六識の業種は絶えず生じ、業種が残されれば未来世の名色がある。もし何の身口意の業行もなくなれば、六識の業種は生じず、業種が残されなければ、未来世の名色はない。名色が生じれば六入があり、六入があれば触があり、触があれば受があり、受があれば貪愛があり、貪愛があれば執取があり、そして三界の有(存在)が現れ、五蘊身が生じる。ここから生命は絶えず、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみが再び繰り返される。これはすべて身口意の業行が絶えないことによる結果である。
原文:また次に、比丘よ、思量し観察して正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至る時、思量せよ、彼の行は何が因で何が集まりか。何が生じて何が触れるか。知るべし、彼の行は無明が因で、無明が集まり、無明が生じ、無明が触れる。彼の福行は無明を縁とし、非福行もまた無明を縁とし、非福不福行もまた無明を縁とする。
釈:また次に、比丘よ、思量し観察して如何にして正しく苦を尽くし、究竟の苦の辺際に至るか。身口意の業行は何の原因で生じるか、何の法が集まって身口意の業行が現れるか、何の法が生じて身口意の業行が生じるか、何の法が触れて身口意の業行が生じるかを思量せよ。思量の後、身口意の業行は無明の故に現れる、無明が集まって身口意の業行が生じる、無明が生じて身口意の業行が生じる、無明が触れて身口意の業行が現れると知る。福業を作る身口意の業行は無明の故に生じ、非福不善の身口意の行は無明の故に生じ、また福でもなく非福でもない心行も非福でもない身口意の業行は無明の故に生じるのである。
原文:この故にまさに知るべし、彼の行は無明が因で、無明が集まり、無明が生じ、無明が触れる。彼の無明が永く滅びて余りなきならば、すなわち行は滅ぶ。彼の乗ずる無明を滅する道の跡を、如実に知り、彼の向かう次第の法を修習せよ。これを名づけて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至るとする。すなわち無明の滅びである。
釈:それ故に比丘たちは知るべきである、身口意の業行は無明を因として生じる、無明の集起によって生じる、無明の生起によって生じる、無明が触れることによって生じる。もし意根の無明が永遠に滅尽し余すところがなければ、身口意の業行はそれに従って滅尽するであろう。比丘たちは修習する無明を滅尽する道跡を如実に了知すべきであり、向道の法と助道の法を修習すべきである。こうして初めて比丘が正しく苦を尽くさんと向かい、究竟の苦の辺際に至る、すなわち無明を滅尽することであると言えるのである。
原文:仏は比丘に告げられた。意はいかがか。もし無明を喜ばずして明(智慧)を生ずるならば、また彼の無明に縁って、福行・非福行・無所有行を作るであろうか。
釈:仏は比丘たちに言われた:あなたたちはこの事をどう思うか、もしあなたたちが無明を喜ばず、心中に明(智慧)が生じたならば、あなたたちはその後、意根の無明によって福行や非福行を作ったり、あるいは非福行でも非非福行でもない捨行(中性的な行)を作ったりするであろうか?
明と無明は対立する二面である。無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明が少し減れば、残りは明である。もしすべて明であれば、無明はない。天秤の両端のようなもので、無明が高くなれば明は低くなり、無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明がもしなくなれば、六識はもはや身口意の行を作らず、業種を残さず、もはや生まれ変わることもなく、名色もなくなる;名色がなければ六入はない;六入がなければ触れず;触れなければ受がない;受がなければ貪愛しない;貪愛しなければ掴み取ろうとしない;掴み取って占有しようとしなければ、生存の条件がなく、三界の有(存在)もなくなる;有がなければ名色は生じず、老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみはすべて滅び、もはや現れない。生死の苦の問題は解決されるのである。
こうして比丘たちは三界を出離し、解脱を得る。しかしこの解脱はまだ究竟の解脱ではない。ただ一念の無明を滅した一時的な解脱に過ぎず、なお極めて多くの微細な無明が滅されていない。故に微細な生死の苦が滅されていないため、解脱は究竟ではない。仏の解脱こそが究竟の解脱である。如何にして仏のように究竟の解脱を得るか? それならば三界を出ることをせず、大誓願を発し、引き続き大乗を修習し、五蘊身を保ち、自らを度し他を度し、上求(仏道を求めること)下化(衆生を教化すること)し、一切の法を円満して、初めて究竟の解脱を得るのである。
原文:比丘は仏に白した。いいえ、世尊。なぜならば、多聞の聖弟子は、無明を喜ばずして明を生ずる。無明が滅すればすなわち行は滅ぶ。行が滅すればすなわち識は滅ぶ。かくのごとくついには、生老病死、憂悲惱苦は滅ぶ。かくのごとくかくのごとく、純大苦聚は滅ぶ。
釈:比丘は世尊に答えた:無明がなければもはや何の行も作りません、世尊、なぜなら多聞の聖弟子がもし無明を喜ばず、無明が滅して明が生じたならば、無明が滅すれば身口意の業行は滅び、身口意の業行が滅びれば六識の業種は滅び、六識の業種が滅びれば、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみ、かくのごとくついには純大苦聚(一切の苦の集まり)はすべて滅びるからです。
原文:仏は言われた。善いかな善いかな。比丘よ。私もまたかくのごとく説く。汝もまたこのことを知る。彼彼の法によって彼彼の法が起き、彼彼の法が生じ、彼彼の法が滅び、彼彼の法が滅び止み清涼にして息み没す。もし多聞の聖弟子が無明を離欲して明を生ずれば、身分斉(身体における)受覚を覚る。身分斉の受覚を覚る時、如実に知る。もし寿分斉(寿命における)受覚を覚る。寿分斉の受覚を覚る時、如実に知る。身壊れ命終わらんとする時、ここにおいて諸々の受、一切の覚ることは、滅尽して余りなし。
釈:仏は言われた:善い、比丘たちよ、私もまたこう言う、あなたたちもまたそうであると知っている。ある法によって別の法が集まり、別の法が生じ、別の法が滅び、ついには心は寂滅無為となり、心は清涼となり、息み止むのである。もし多聞の聖弟子が無明を滅し、心が離欲して明を生じたならば、色身において解脱の受と覚が現れる。もし色身において解脱の受と覚が現れたならば、如実に了知すべきである;もし寿命において解脱の受と覚が現れたならば、この時には如実に了知すべきである。身が壊れ命が終わろうとする時、身心における一切の受と一切の覚は滅尽し余すところがなくなる。
原文:たとえば力士が新しく焼き上がった瓦器を取り、熱いうちに地に置く。しばらくして散り壊れ、熱さはことごとく滅する。かくのごとく比丘よ、無明を離欲して明を生ずれば、身分斉の受覚を如実に知り、寿分斉の受覚を如実に知る。身壊れ命終わる時、一切の受覚は悉く滅びて余りなし。
釈:たとえば一人の大力士が新しく焼き上がった瓦器を取り、瓦器がまだ熱いうちに地面に置く(あるいは落とす)。瓦器はたちまち砕け散り、瓦器の熱さもすべて消え去る。身分の受覚と寿命の受覚もこのように、たちまち消え去る。かくのごとく比丘よ、無明を滅尽し離欲した阿羅漢の心に明が生じ、色身におけるすべての受覚を如実に了知し、寿命における受覚を如実に了知する。身が壊れ命が終わる時、これら一切の受覚はすべて消滅し余すところがないのである。