仏法雑談(第一部)
第十五章 善根福徳篇
一、福と呼ばれるものは、他人や集団のために行動し、代償を払うことによって得られるものである。外に向けて与えさえすれば、必ず報いが返ってくる。外に向けて与えること自体が他者を利益する行為であり、これが徳である。仏法ではしばしばこの二つを結びつけて語られるが、世俗法と仏法修行における福徳には差異がある。例えば雷鋒が福を修め、衆生のために善行を積んだとしても、その福徳は世俗法の中でしか享受できない。なぜなら彼は仏法において善業を植え、因縁を種とすることがなく、依然として仏法と縁がなく、仏法による利益を得ることはできないからである。種がなければ収穫はないのである。
一方、仏法を学ぶ者は、世俗法において福を種とするだけでなく、仏法においても福を種とする。三宝に帰依し、三宝を供養し、戒・定・慧を精進して修めることは、福を修めることでもあり、徳を修めることでもある。このような福徳は世俗法の中で享受できるだけでなく、仏法においても享受することができる。福徳は私たちの仏法修行を非常に迅速にし、道業の進歩を速める。福徳は仏道を成就する基礎であり、道糧であり、資糧である。福徳がなければ、仏法を学び修行しても何も成し遂げることはできない。したがって菩薩が修行する際には、菩薩の六波羅蜜を修めなければならず、その第一が布施による福徳の修行である。悟りを開く前にも布施によって福を修め、悟った後も布施によって福を修め、初地に入った後もなお布施によって福を修めることで、道業は絶えず増進していくのであり、福徳がいかに重要であるかがわかる。
二、布施とは、主に自らの慳貪の心を布施することである。慳貪の心があれば、必ず貧困の果報を受けることになる。最も貧しいのは誰か? もちろん餓鬼が最も貧しい。餓鬼は腹が太鼓のように膨れ上がっているが、喉は針の穴のように細く、あらゆる飲食が口に入らず、飢えに苦しむしかない。喉が渇いて川の水を見つけ、飲もうとしても、福が薄いがために川の水はすぐに火に変わり、口にすることができず、渇きの苦しみを耐え忍ぶしかない。このような貧困の果報を受ける者が、どうして菩薩となり、菩薩道を行じることができるだろうか?
菩薩は大いなる福徳を持つ者であり、生々世々にわたり人間界や天上界で菩薩として生まれ、その果報は非常に殊勝である。人間界では人王となり、天上界では天王となり、転輪王となり、大鬼王となる。決して三悪道に堕ちることはない。慈悲の願力によって悪道の衆生を救おうとする場合を除いては。菩薩の果報は、すべて生々世々にわたる劫数の布施の結果である。したがって、慳貪の心は菩薩の心とは相応しない。慳貪の心を持つ者、あるいはその心が強い者は、菩薩となることができない。どれほど坐禅に励み努力しても、明心して悟りを開くことはできない。だからこそ菩薩となるためには、まず布施行を行い、自らの福徳を修め集め、福徳の資糧をもって自らを荘厳しなければならない。
布施行をよく修めた菩薩は、心の底から常に衆生を利益しようと念じ、相手の立場に立って考え、布施することに慣れ親しんでいる。もしある日、衆生に布施せず、衆生を利益しなければ、心が落ち着かない。菩薩はまだ衆生と会っていなくても、「私は彼に何をもたらせるだろうか?」と考える。このような菩薩こそが大福徳の菩薩であり、生々世々にわたり物質的に恵まれ、常に衆生の指導者となる。このことから、修行において布施を軽んじてはならず、布施を行わないわけにはいかない。布施こそが最も実践的な修行であり、実修と呼ばれる。菩薩道を行じる者は毎日、自らが布施行を修めたかどうかを点検すべきであり、そうすることで道業は急速に進歩する。
三、衆生が仏法においてほんのわずかでも善根を種とすれば、それは種子として心の中に存在し、永遠に消えることなく、将来仏道を成就するまで続く。この種子は非常に大きな大樹の種のようなものである。種子は微小な粒に過ぎないが、植えられれば次第に天を衝く大樹へと成長する。まさに不可思議である。
仏法において善根を種とするのも同様である。仏は法華経において、衆生が一句「南無仏」と唱えること、ひいては一低頭、一微笑、一合掌さえも、すべて共に仏道を成じると説かれている。昔、一人の老人が出家を願い出たが、阿羅漢たちは彼が八万大劫の間に善根を種としたことがないとして許さなかった。釈迦仏はこれを知り、「この老人は八万大劫より前に善根を種としたことがあり、出家して道を修めることができる」と言われた。阿羅漢の神通力では八万大劫以前のことを観ることができなかった。その時、この老人は樵であり、虎に追われて木に登り、「南無仏」と一声叫んだ。この善根によって、八万大劫後の今日、出家して道を修めることができるようになったのである。老人は出家後、精勤して修行し、まもなく道果を証得した。
仏は経典の中で、釈迦仏の仏法において善根を種とした衆生は、将来弥勒仏が降誕する時、人間として生まれ、弥勒仏の三転法輪の中で必ず道を得ると説かれている。ただし前提条件として人間として生まれることである。もし三悪道に生まれれば、その機会は大きく減る。したがって衆生は三宝に帰依しているか否かにかかわらず、仏・経・咒を唱えたり、仏に向かってうなずいたり、微笑んだり、合掌礼拝したりしただけで、すでに善根を種とし、仏法と縁を結び、将来必ず救済されるのである。
しかし、三宝に帰依して初めて修行は迅速になる。特に内心における真実の帰依が重要であり、形式だけではならない。真実の帰依とは、心の奥底で三宝を依り所とし、深く心から頼り、信じて疑わないことである。その者の信根はすでに確立され、信行が円満であれば、住位の修行に入ることができる。真実の帰依は、三宝護法の最大の加持力も得られ、道業の進歩は非常に速くなる。
私たちは同僚や親族の中で縁ある者を見かけたら、巧みな方便をもって彼らに善根を種とし、成仏の種子を植えるべきである。子供であれば、「仏様を一声唱えたら飴を一つあげる」とか、「仏様を拝めばどんなご褒美がもらえる」と教えれば、子供たちを導いて仏法に善根を種とさせることができる。大人に対しては、彼らが挫折や病苦に遭った時、少しだけ因果の道理を話すべきである。相手がどの程度受け入れられるかを観察し、過度にならないように注意しなければならない。過ぎればかえって良くない。
四、永明延寿禅師はかつて自らに課した。一日一善を行うこと。彼の一善は要求水準が高く、私たちには真似できない。しかし、福徳資糧を速やかに積み、菩薩の精神的な資質を養い、早く菩薩性を備え、早く見道するためには、基準を低く設定することができる。一言、他人を利益する言葉をかけ、正しい道理や正しい知見に気づかせ、他人の心の疑問や苦悩を解決すれば、その善行はすでに完成したのである。種子は如来蔵に植えられ、縁に遇えば報いを受ける。必ずしも来世を待つ必要はない。二人の如来蔵はそれぞれ記録をとり、二人の意識心は異なり、意根の執着も異なるため、なされる記録にも差が生じる。他人を利益しようとする心が発せられただけで、それ自体が福であり、ましてや自ら行えばなおさらである。真の菩薩たらんとする者は毎日自らに問うべきである。私は今日、他人を利益しただろうか?
五、自らの福徳が具足しているかどうかを点検するには、自分の修行が順調かどうか、何らかの障害がないかどうかを見る。修行が自分の意思のままに行えるかどうか、十分な時間と環境的条件があるかどうか。自分がしたいと思うことが、制限されずに主導権を持って行えるかどうか。戒を持ちたいと思えば円満に戒を持てるかどうか、精進したいと思えば精進できるかどうか、禅定を修めたいと思えば障縁がないかどうか。智慧は絶えず増長しているかどうか、修めている法は思うがままに修められているかどうか。出会った深い法門に耐え忍べるかどうか、意楽を感じ、素直に随順できるかどうか。
もし菩薩の六波羅蜜の修行がすべて順調で障害がないならば、福徳は基本的に足りていると言える。精力を他の不足している方面に向け、六波羅蜜をすべて具足円満にすることができる。もし仏に対して、真実の如来蔵の法に対して、真実の僧に対して、信心がまだ具足せず、内心に疑いがあり、確信が持てないならば、信位菩薩の条件はまだ満たされておらず、三宝への信心を修め、信根を具足し、信力を生じさせる必要がある。その後、十住位に転入し六波羅蜜を修行する。
六、舎利弗が釈迦仏を供養するのと、釈迦仏が舎利弗を供養するのとでは、どちらが得る福徳が大きいか? 二人が同じく一人の人物に一元を布施する場合、どちらが得る福が大きいか? 一人が二人を供養し、いずれも一元ずつ供養する場合、どちらを供養する方が得る福が大きいか? これらの福徳をどのように測るべきか? 一人の人が異なる心境で同じ人を供養する場合、いつ福を大きく得るか?
布施する時、心が無為で求めないほど、得る福は大きい。仏が布施する時、心は最も空であり、最も求めないため、得る福は最大である。舎利弗が布施する対象が仏という最も殊勝な福田であったとしても、心が空であることによる福には及ばない。一切の聖賢は無為法によって差別がある。小乗の無為を証得したものと大乗の無為を証得したものとでは、その無為の次元に大きな差がある。同じく大乗を証得しても、智慧の程度が異なれば、無為の次元も異なる。世間の一切の差別相は、心の差別である。ただ心をよく修めさえすれば、一切を気にせずとも自然に得られる。得ようとすればするほど得るものは少なく、得ようとしなければ得るものは多いのである。
七、真に善根ある者は、福徳が非常に大きいため、今世に隔陰の迷いを生じ、自覚せずとも自らの福報を享受してしまう。仏菩薩や護法神は、彼が仏門に入って修行しないことを恐れ、また福を享けすぎて福徳が損なわれ、仏法において何らかの利益を得られなくなり、大きな進歩ができなくなることを懸念して、彼が自らの福報を享受するのを阻止する。
したがって私たちが仏法を学び修行する際には、ただ楽しさだけを求めてはならない。自らの福徳資糧、戒定慧の資糧を多く培う方法を考え、これらの資糧を円満にしなければ、相応の道果を得られず、真実の法益を得ることはできない。そうでなければ毎日ただ口先だけを弄し、食物を語って飢えを満たすようなものである。仏法がどれほど優れていても、それはあなたのものではない。たとえ本来仏であったとしても、あなたはただ凡夫のままであり、生死輪廻を断ち切ることはできない。
福徳を積むことは容易ではない。心の中の貪りと吝嗇の慣性勢力は非常に大きい。だから普段から福徳を消耗しないよう、あるいは少なく消耗するよう注意すべきである。さらに注意すべきは、福徳を損なわないようにし、できるだけ多く他人のために与え、他人に自分のために与えさせないようにすることである。多く他人を恭敬し、軽蔑したり蔑んだりしてはならない。人に接する際にいたるところで優位に立とうとせず、柔らかな言葉を多く語るべきである。特に父母や師長を怒らせたり悩ませたりせず、父母や師長に孝行を尽くすべきである。そうすれば福を得ることも多く、また速やかである。福を得る最大の方法は仏を供養して福を修めることである。だから私たちは毎日、仏を供養し、法を修め、僧を敬うことを堅持すべきである。
八、問:梁の武帝が寺院を建立し僧を供養したが、達磨大師は功徳がないと言われた。それは福徳であろう。ではどうすれば功徳が得られるのか?
答:功徳とは性徳であり、心性の面に備わっている徳能である。例えば煩悩を降伏させることは功徳であり、心を無漏に修めることは功徳である。智慧を得ることは功徳であり、戒・定・慧の三つがすべて増進し、円満に向かうことは功徳である。あるいは具足円満し、それによって自ら受用し、また他人に利益をもたらすことができることも功徳である。一般的に、功徳は容易に退失せず、また受用も尽きることがなく、成仏に至るまで続く。一方、福徳は多く自らが受用するものであり、享け尽くすことができ、滅び壊れることもある。究極的なものではなく、福徳を利用して悪業を行わないとも限らない。しかし功徳は心を次第に清浄に転じさせ、福徳もまた増長させる。もし福徳と功徳を同時に得るならば、福徳は堅固となり、絶えず増長していく。
それでもなお福徳は修めるべきである。福徳が足りなければ功徳も現れにくい。二者は相互に補い合う関係にある。ただし修めた福徳は世俗法の享受に用いてはならず、人天の福報を求めず、この福徳をすべて仏道成就に回向すべきである。功徳を多く修めたいと思うならば、戒定慧を勤修し、貪瞋痴を滅ぼし、広く菩薩道を行じ、三蔵十二部の経典を受持読誦し、坐禅・習定し、止観双運し、定慧等持し、我見を断除し、明心して証悟を期し、地地に増上して修行し、仏果を円成すべきである。これらはすべて功徳であり、しかも大功徳であり、円満の功徳に至り、仏果を成就するのである。
九、修行者は毎日、如来蔵という銀行に預金すべきである。経を念じ、仏を念じ、咒を念じることは預金である。禅定を修めることは預金である。忍辱は預金である。仏法を思惟することは預金である。煩悩を降伏させることは預金である。帰依し戒を持つことは預金である。経を聞き法を聞くことは預金である。財物を布施することは預金である。他人を利楽することは預金である。菩薩の六波羅蜜と万行はすべて預金である。
享楽を貪ることは引き出しである。飲み食いや遊びは引き出しである。世間の一切の必要は引き出しである。金を儲け経営することは引き出しである。自分のために消耗することは引き出しである。戒行に違反することは引き出しである。他人を侵害することは引き出しである。高慢になることは引き出しである。他人と利益を争うことは引き出しである。他人から利益を得て返報を考えないことは引き出しである。自ら誇ることは引き出しである。他人の称賛を喜ぶことは引き出しである。他人から供養を受けることは引き出しである。父母や師長に孝行しないことは引き出しである。一切の悪行は引き出しである。要するに、己を利し私心を持つことはすべて引き出しである。
多生多世にわたって修めた福徳は、一世の帝王や将相となるだけで消耗し尽くされる。修行によって得た福徳は、天に昇って福を享ける一度で消耗し尽きて無くなる。預金する時、心から進んでせず、財産が他人の私腹に入り自分が損をすると思い、ようやく渋々預金し福を修めても、結果として一世半生で使い果たし、また裸一貫となり、一から福を集め直すことになる。真に修行を理解する者は、多く預金し、少なく引き出し、財産は足りればそれで良い。多く儲ける必要はない。どれほど多くの金を儲けても、それはすべて自らの如来蔵銀行からの引き出しであって、外から得たものではない。命中に本来あるからこそ儲けられるのであり、命中にないものは、どれほど努力しても労多くして得るものはない。どれほどの才あるのに不遇な文人墨客がいることか。またどれほどの精明強幹な能人が、一生を困窮し、内心憤懣やるかたなく、運命の不公平を嘆いていることか。実は前世で福徳を種としていないのであり、どれほど才能があっても無駄なのである。
福を種とし福を惜しむのは智者が為すことである。享楽を貪るのは愚者が行うことである。生活は過ごせればそれで良く、他人と豪富を比べてはならない。金や財産は人を利するために用いるべきである。人を利することは己を利することである。一元を布施すれば、少なくとも千倍の預金が自らの如来蔵銀行に入る。三宝に布施すれば無量倍の預金が如来蔵銀行に入る。どうして喜んで行わないことがあろうか。富者であるかどうかは、現世の目の前の享受を見るのではなく、如来蔵銀行に預金がどれだけあるかを見るべきである。あたかもある者が、高級住宅に住み、豪華車に乗り、高級服を着て、酒池肉林の生活をしていても、銀行カードにお金がなければ、まもなく困窮するであろう。この者は富者とは言えない。反対に、大富長者は質素な生活を送り、所有する一切を衆生の利楽のために使い、富を顕さずとも預金は無量である。智者は思うべきである。臭い袋(肉体)一つ、何が楽しいことがあろうか。一切の行いは仏道を成じるためである。我無く私無く、これが究極の楽しみである。広く衆生に勧める。菩薩行を行じ、心に小さな愛なく、大いなる愛は我無く、衆生を利楽し、早く仏智を円成せよ!
十、仏法を学ぶ者に福徳が足りないと、修行中に雑事が邪魔をすることがある。これは福徳不足の現れである。この時は福を修めることを考えるべきである。福徳が足りなければ修行の進展は遅く、努力の割に成果は半減する。世俗法の中で生きるにしても、福徳が足りなければ何も成し遂げられない。仏法を学び修行するという生死に関わる事柄は、天の下で最も重大なことである。如来蔵銀行に預金がなければ、修行は順調に進まない。どれほど大きな事を成し遂げたいと思うかによって、相応する多くの預金が必要である。福徳が足りなければ、どんな願いも実現することはできない。仏になりたければ、仏と同じ大いなる福徳が必要である。八地の菩薩になりたければ、八地菩薩の福徳が必要である。初地の菩薩になりたければ、初地菩薩の福徳が必要である。明心して悟りを開きたければ、十住位菩薩の福徳が必要である。福徳がなければ、一歩も進むことはできない。
十一、福徳を修めることと菩薩の心性
菩薩の心性を持つ者は成就が速い。これは多生累世にわたる修行の結果である。修行をより速く進めるために、私たちは皆、大いなる心を発し、自利利他の菩薩行を修めるべきである。菩薩の心性とは無我である。無我は菩提に相応し、速やかに菩提を証得することができる。我があることは、道を妨げる根源である。もしある者が心の底から常に個人の利益のために修行し、仏教や衆生に関心を持たず、他人を顧みないならば、福徳は積み難く、智慧は得難く、修行は非常に遅くなる。ある者に福を修めるよう勧めても、どうしても修めようとせず、結果として長く学び、多くの精力を費やしても、知見は依然として哀れなままで、正しい道に上がることができない。福を修めることは仏法を学ぶ出発点であり、仏法を証得する基礎であり、非常に重要である。それでもなお福を修めたがらない者がいる。福を修めることは損をすると考え、福を修めないことこそ大損であることを知らないのである。
布施によって福を修めるに当たり、どこで福を修めるかを選ぶことも重要である。穀物を収穫したければ、田んぼに種を蒔くべきであり、畑に稲の種を蒔いてはならない。大乗仏法において福を修めて初めて、大乗仏法を証得することができる。真実の仏法に種子を蒔いて初めて、大小乗の仏法の果実を収穫することができる。もし専ら福徳を修めたいと思うならば、布施行を修めるべきである。それは財施、法施、無畏施を含む。
布施は単に三宝を供養することだけを指すのではない。衆生に対する三種の布施を含む。財施とは金銭や物品の布施である。法施は、もし自ら仏法を証得していなければ、間接的な法施を行うこともできる。これによっても福徳は速やかに積まれ、多くの衆生に大乗仏法を理解させることができ、自らの福徳は速やかに集まり、知見も速やかに確立され、見道も速くなる。無畏施とは他人の苦悩や憂いを解決し、他人に後顧の憂いを持たせないことである。この三種の布施を一定の水準まで行えば、福徳は果を証得し明心見性し凡夫の位を離れるのに十分なほど集まる。
十二、菩薩は道業のために安易に福を享けてはならない
菩薩は衆生を救う方便のためでなければ、安易に天に昇って福を享けることを選ばない。菩薩が人間界にいる時、衆生を救う必要があるため、あるいは仏法を護持する必要があるために初めて、大富貴の身を現す。一般的には、富貴の相を現さない。なぜなら福報は消耗が速く、道業の増進は遅くなるからである。かつて悟りを開いた禅師たちは、国王となることもできたが、国王になることを望む者はほとんどいなかった。それは自らの福報が消耗しすぎることを恐れ、また修行に不利であり、道業が大きく妨げられるからである。現代の者は小さな課長になるだけで慢心が非常に強い。私たち菩薩は天主となることすら望まないことを知らないのである。
真の大富貴人とは、如来蔵の銀行に数えきれない預金を持ちながら、安易に如来蔵から引き出して享楽しない者を指す。ただし三宝に布施し仏法を護持することは除く。これは再び如来蔵銀行に預金することであり、しかも非常に高額な利息の預金である。如来蔵に富の種子が少ないか、あるいは全くない者は、依然として貧者である。特に善業の種子や仏法を修持する種子がない者は、なおさら貧者である。したがって仏法を学ぶ者は、生活が過ごせれば満足すべきであり、財産をすべて引き出そうとする方法を考えてはならない。もしすべて引き出さなければ、その大部分は如来蔵に留まり、永遠に自らのものであり、誰も奪うことはできない。しかも如来蔵銀行は永遠に倒産しない。世界で最も安全な銀行である。なぜならそれは世間に存在しないからである。もし世間に存在すれば、確かに倒産の危険もあるであろう。