衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 6591
<h2 style="text-indent: 2em;">真に如理に実修したい者への告誡</h2>

学仏修行においては、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除し、我執を破除することが、これ第一である。一切の煩悩は我によりて来たり、一切の罪悪は我によりて生じ、一切の生死は我によりて有り、六道輪回は我によりて現れる。我は生死の根源であり、我は苦悩の禍首であり、我は三悪道の淵源であり、我は解脱を障礙する枷鎖である。我あらば即ち苦悩あり、我あらば即ち生死あり、我あらば即ち罪悪あり、我あらば即ち解脱を得られず。かくの如きであるから、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除すれば即ち三悪道の枷鎖を脱することができ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除すれば即ち生死の見惑を断除することができ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ尽くせば即ち罪悪を断除することができ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ尽くせば即ち生死輪回を出離することができ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ尽くせば即ち解脱を得ることができる。

我ありとは即ち生死であり、我なしとは即ち仏である。学仏修行は我より漸次に無我に達し、徹底的に無我となれば即ち究竟に成仏する。それゆえ学仏修行は、まずこの禍根たる我を抜き去り、もはや生死を招き寄せないようにすることである。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除し、針刺を抜き去り、我執を破り尽くし、さらに法執を断じ、無我利他をもって、仏道を円満する。学仏修行においては、日々自らを反観し、自らを降伏させねばならない。我貪、我瞋、我痴、我慢、我愛、我見 (satkāya-dṛṣṭi)、無量の煩悩を、誓願をもって断除する。日々三たび自心を省みて、利刀をもって煩悩の賊を斬り断つ。心火を断除して清凉を得、家に帰りて太平の城に安座せん。

仏法とは成仏の法であり、成とは、成就することを意味する。学仏において成就しようとするならば、必ず功夫を下して実修実証しなければならない。実とは実際、切実、真実であり、修とは下手して功夫を作すことであり、切実に実行可能な方法をとることであり、証とは証得することであり、一定の方式・方法を通じて仏法を体験し検証し、如実如理の結論を導き出すことである。この結論が導かれることは、修行者の智慧の成就を表すものであり、これより仏法は自らの修得したものとなり、学語の輩のものではない。志ある者は、必ずこの一つの途を歩まねばならず、そうしてはじめて成就があり、もって真に自己を変え、解脱して自在となるのである。

そして仏法を修証する方法は、広く学び多く聞くことを基礎として、深く禅定に入り、如理に思惟し、如理に観行 (vipaśyanā-caryā) することである。もし相応の禅定がなければ、学んだものについて如理に思惟観行 (vipaśyanā-caryā) することができず、それゆえ仏法を実証することもできない。そうなれば、学んだ一切の仏法は、単なる仏学知識の累積と堆積にすぎず、他人の宝を数えるだけであって、己にとっては半銭の分もないものである。

今見るに、多くの学仏の人々の中で、精進する者は日夜 various な書籍とネットワークの中に頭を埋め、広く学び多く聞き、孜孜として求めているが、しかしその求めて得た結果は、ただ大量の仏学知識が胸中に堆積しただけであり、侃侃として語ることはできても、すべて他人の残語、人の牙慧を拾ったものであり、半点の実証体験もなく、徒に慢心を増すのみである。その中には著書を著して説を立てうる者さえ少なくないが、その内容は多くが various な名相の堆積、仏学知識の転載であり、実証体験がない。食を説くといえども飽くことはできず、食べてすでに消化しなければ病患ともなる。それゆえ勤学の者に奉じて勧める。深く禅定に入り、禅観を発起し、定中に如理に思惟観修し、学んだ法に対して検証を加えよ。もし定中に如理に深く思惟したのち、法の所以の然る所以を知りうるならば、それこそ実証の者であって、他人の宝を数える者ではなく、この人はすなわち衆中の龍象であり、他日必ずや衆を率いて遠行し、共に仏道を成すことができるであろう。

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