五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
真に理にかなった実践を志す者への戒め
仏法を学び修行するにあたり、我見を断ち、我執を破ることを第一とせよ。一切の煩悩は我より来たり、一切の罪悪は我より生じ、一切の生死は我より有り、六道輪廻は我によって現れる。我こそが生死の根源、苦悩の元凶、三悪道の淵源、解脱を妨げる枷である。我あれば即ち苦悩あり、我あれば即ち生死あり、我あれば即ち罪悪あり、我あれば即ち解脱を得ず。かくの如くであるならば、我見を断てば三悪道の枷を脱し、我見を断てば生死の見惑を断ち、我見を尽くせば罪悪を断ち、我見を尽くせば生死輪廻を出離し、我見を尽くせば解脱を得るのである。
我あるは即ち生死なり、我無きは即ち仏なり。仏法を学び修行するとは、我より次第に無我に至り、徹底的に無我となることで究竟の仏となる。故に仏法を学び修行するには、まずこの禍根たる我を抜き去り、再び生死を招かぬようにせねばならない。我見を断ち、棘を抜き、我執を破り尽くし、更に法執を断ち、無我利他をもって仏道を円満せしめよ。仏法を学び修行する者は、日々自らを省みて自我を降伏させ、我貪・我瞋・我痴・我慢・我愛・我見といった無量の煩悩を断つことを誓願せよ。日々三度自らの心を省み、鋭き刀をもって煩悩の賊を断ち切れ。心の炎を断てば涼しさを得、家に帰り安らかに太平の城に坐す。
仏法は仏となる法であり、「成」とは成就を意味する。仏法を学んで成就せんと願うならば、必ず実修実証に力を注がねばならない。「実」とは実際的、着実、真実を意味し、「修」とは実際に手を下して工夫し、実行可能な方法を取ることを指す。「証」とは証得であり、一定の方法・手段を通じて仏法を体験・検証し、真実理にかなった結論を得ることである。この結論の獲得は修行者の智慧の成就を表し、これにより仏法は自らが修得したものとなり、単なる言葉を学ぶ者とは異なる。志ある者は必ずこの道を歩み、初めて何かを成就し、真に自らを変え、解脱と自在を得るのである。
そして仏法を修証する方法は、広く学び多く聞くことを基礎とし、深く禅定に入り、理にかなって思惟し、理にかなって観行することにある。もし相応の禅定がなければ、学んだことを理にかなって思惟観行することができず、仏法を実証することもできない。そうなれば学んだ一切の仏法は、単なる仏教知識の累積と積み重ねに過ぎず、他人の宝を数えるだけで、自らには半文の得にもならない。
今、多くの仏法を学ぶ者の中に見られるのは、精進する者が日夜様々な書籍やネットに没頭し、広く学び多く聞き、孜々として求めるが、得た結果はただ大量の仏教知識が胸中に堆積しているに過ぎない。巧みに語ることはできても、全て他人の受け売りで、自らの実証体験は微塵もなく、慢心を増すのみである。中には著書を著す者もいるが、その内容は様々な名相の羅列や仏教知識の転載が多く、実証体験が伴わない。食べ物を説明しても腹は膨れず、食べても消化されれば病患となる。故に勤勉な学び手に勧める。深く禅定に入り、禅観を起こし、定中において理にかなって思惟観修し、学んだ法を検証せよ。もし定中で理にかなって深く思惟した後、法の所以然(なぜそうなのか)を知り得る者こそが実証の者であり、他人の宝を数える者ではない。このような人は衆中の龍象(りゅうぞう)であり、いずれ必ず大衆を率いて遠くに行き、共に仏道を成じるであろう。