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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 6219

第二章 二種の我見

第一節 論中に定義される我見

一、『瑜伽師地論』に説かれる我見

原文:薩迦耶見(さつかやけん)とは。五取蘊(ごしゅうん)に対し。心に執着を増長し。我及び我所を見ることをいう。これを薩迦耶見と名づく。これまた二種あり。一は俱生(くしょう)。二は分別起(ふんべつき)なり。

釈:瑜伽師地論において我見は次のように定義される。我見とは五取蘊に対し心に執着を生じ、自我への執取を増長させ、五取蘊を我および我所と見做すことをいう。これを我見という。我見には二種類あり、一つは俱生(生まれながらの我見)であり、生命の全過程に伴う。生命の最初から我見が存在し、外界の環境による染めや意識の邪なる教導を必要としない。これは末那識(まなしき:意根)の我見を指す。末那識は無量劫(むりょうこう)にわたり生命体に伴い、我見は深重で極めて断ち難く、我および我所を執着して捨てることが困難である。二つ目の我見は六塵(ろくじん)の境界を分別することにより生起するもので、これは意識の我見を指し、五取蘊を我および我所と見做す。この種の我見は断ち易く、苦集滅道の四聖諦(ししょうたい)の理を他者から聞き、思惟を経てその意味を明らかにすれば、分別我見は断たれる。

しかしながら、意識は五蘊身に対し主導権を持たず、主導識である末那識の調節に従わざるを得ない。末那識が五蘊を執取し業行を造ろうとする場合、意識は執取に従うほかない。意識が強大な時は末那識の我を一時的に抑えて氾濫を防ぐことができるが、意識が微弱な時、末那識は意識からの情報と管理を得られず、我性が氾濫し、妨げられることなく悪業を造作し、悪業に漂流することは免れない。したがって末那識が我見を断たなければ、仏法を学んでも結局成就せず、依然として五蘊を我および我所として執取することになる。

二、『大乗広百論釈論』に説かれる我見

巻二原文:また諸の我見は、略して二種あり。一は俱生。二は分別なり。俱生我見は、無始(むし)よりこのかた、内因の力によるが故に、恒に身と俱(とも)にあり。邪教および邪分別を待たずして、任運(にんうん)にして起こる。ゆえに俱生と名づく。

釈:我見は大略二種類あり、一つは俱生我見、もう一つは分別我見である。俱生我見は、無始劫(むしこう)よりこのかた、末那識自身の無明の力の故に、生生世世(しょうしょうせせ)五蘊身に随逐(ずいじゅ)して離れず、意識の邪なる教導も必要とせず、意識の邪分別による染めも受けず、末那識自らが縁に随って我見を生起し、五蘊身を我および我所として認め取る。ゆえに俱生我見と名づけられる。これは五蘊身が生まれると同時に末那識に存在する我見であり、母胎の中にあっても我見があり、胎児を我および我所と見做す。

原文:これまた二種あり。一は常に相続するもの、第七識(末那識)にあり、第八識(阿頼耶識)を縁とし、自心の相を起こして、すなわち我と執する。これを我見と名づく。二は間断あるもの、第六識(意識)にあり、五取蘊を縁とし、あるいは総体として、あるいは個別に自心の相を起こして、すなわち我と執する。これを我見と名づく。かくのごとき二種の俱生我見は、微細にして断ち難く、数数(しばしば)勝れたる無我観を修習して、はじめて除滅し得る。

釈:俱生我見はさらに二種類に分かれる。一つは生生世世相続して断絶したことがなく、未来にも断たれない。真に我見を断った後でなければ俱生我見は再び生じない。これは第七識(末那識)の我見である。第七識は第八識の見分(けんぶん:認識作用)を縁とし、第八識の見る一切の法を自ら見たものとし、見る一切の法をことごとく我および我所と執着する。これを我見という。

二つ目は間断のあるもので、第六識が五取蘊を縁とする時、第七識は第六識の縁する総体としての五取蘊相を我および我所と見做すか、あるいは第六識の縁する個別の五取蘊相を我および我所と見做し、そうして第六識の機能作用を我および我所として執取する。これが我見である。かくのごとき二種の俱生我見は非常に微細で断ち難い。長時間にわたり絶え間なく殊勝な無我観行を修習して初めて除滅し得る。

この我見は末那識に無始劫以来無明があるためであり、第八識が出生し保持する一切の法をことごとく我および我の所有と見做し、それによって一切の法への執着を生起する。これを遍計所執識(へんげしょしゅうしき)という。末那識は法界の実相を知らず、一切の法が第八識に由来し第八識の所有であることを知らない。ゆえにこれを顛倒見(てんどうけん)といい、錯執(さくしゅう)という。末那識の我見は総じて法我見(ほうがけん)といい、一切の法をことごとく自己のものと見做す。その中で末那識は第八識が出生し保持する五蘊をも我および我の所有と見做す。これが顛倒の邪見および錯見であり、五蘊我見(ごうんがけん)という。我見があるが故に我執が生じる。この種の我見は苦集滅道の四聖諦を修学することによってのみ断除でき、断除した後、末那識の五蘊身への執着が次第に軽減され消除される。我執が断じ尽くされれば三界を出て解脱を得る。

末那識の我見になぜ間断があるのか。意識は間断的(断滅する性質)であるため、意識が断滅している状況では、末那識は意識の見分を我見として執取できず、意識の見たものを自らの見たものと見做せない。末那識のこの部分の我見は断たれる。意識が再び生起して五蘊を縁することができた時、末那識のこの部分の我見は再び現れる。

原文:分別我見は、現在世の外縁の力によるが故に、身と俱にあるにあらず。必ず邪教および邪分別を待って、その後にはじめて起こる。ゆえに分別と名づく。これまた二種あり。一は邪教の説く蘊の相を縁とし、自心の相を起こして、分別して我と為す。これを我見と名づく。二は邪教の説く我の相を縁とし、自心の相を起こして、分別して我と為す。これを我見と名づく。かくのごとき二種の分別我見。

釈:二つ目の我見は意識の分別我見である。この種の我見は生まれた後に生活環境の染めによって生じるもので、五蘊身と共に生まれるものではなく、五蘊身に伴って存在するものではない。他者の邪なる教導と邪染に随って初めて生じた不正な分別である。ゆえに意識の分別我見という。意識の我見がさらに末那識を染めると、末那識の我見および我執を増長させる。

分別我見もまた二種類に分かれる。一つは他者による五蘊への不正な教導(「これが色蘊、これが受蘊・想蘊・行蘊・識蘊である」など)を縁とし、その後自らの五蘊相を生起させ、分別を経て五蘊を我と見做す。これを意識の我見という。二つ目は邪教・邪染によって説かれる我相(「これが私の色身相・受覚相・認知相である」「これが私の思想観念である」「これが私の決定である」「これが私の言行である」など)を縁とし、自らの我相を生起させ、意識がこれらの相を分別して我と為す。これを意識の我見という。これが意識の二種の分別我見である。

三、阿含経に説かれる我見

六識の機能作用を自己の機能作用と見做すことが、すなわち我見である。六識の見たものを自己の見たものと執着することが、すなわち我見である。六識が六つの窓口で得た情報を自己が了別したものと見做すことが、すなわち我見である。六識が六入処(ろくにゅうしょ:六つの感覚器官と対象)で受ける感受を自己の感受と見做すことが、すなわち我見である。六識による六塵への思想観念を自己のものと見做すことが、すなわち我見である。六識の身口意行(しんくいぎょう:身体・言葉・心による行為)の造作を自己が造作したものと見做すことが、すなわち我見である。この「我」とは誰か。ただ末那識のみである。

仏が阿含経で説かれた我見とは、すなわち末那識の見たものであり、我見を断つとは末那識に我見を断たせることである。では仏は阿含経で末那識について説かれているか。もちろん至る所で末那識を指している。末那識の我見の実質は法我見(一切の法を我および我所と見做すこと)であり、一切が第八識のものであることを知らない。その中に末那識の五蘊我見(五蘊を我および我所と見做すこと)が含まれる。

末那識には人我執(にんがしゅう:個人としての実体への執着)と法我執(ほうがしゅう:一切の現象への実体執着)があり、それに対応して人我見(にんがけん)と法我見(ほうがけん)がある。実際には法我見は五蘊我見を含み、末那識には法我見のみが存在し、一切の法を我および我所と見做す。そうすると末那識の法我執は人我執を含み、末那識には法我執のみが存在する。一切の法を我および我所と執着する。法我見・法我執が断じ尽くされれば無明も断じ尽くされ、仏となる。修行とは結局この一点に尽きるが、それでも三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう:計り知れない長い修行期間)を費やす。もし断固たる決心を下し、断ずべきものは一つも残さず、断ち切るべきものは一つも残さなければ、三大阿僧祇劫は必要なく、苦受も非常に少なくなる。

末那識に我見があるのは自心の無明による。仏法を学び修行することは、末那識のこれらの無明を破り、一切の法が私のものではなく、すべて第八識のものであること(五蘊十八界を含む)を末那識に知らせることである。そうすれば末那識は次第に人我執と法我執を断除し、無明が断じ尽くされて仏道を成就する。

衆生の無明は、すべて末那識の無明である。六識の無明は末那識の無明から起こり、末那識の無明に染められて生じたものである。末那識に無明がなければ、我見も我執もなく、法我見も法我執もない。小さな我、妄なる我は末那識であり、それに対応する大きな真我は第八識である。この二者が和合して世の一切の法を顕現する。一方(末那識)は我執に任せた我性を持つ存在であり、もう一方(第八識)は無我性に随順する存在である。修行とは末那識を修めることであり、他に修めるべきものはない。一切の法は末那識のために奉仕するものである。この理を理解すれば、世の一切の法の来龍去脈(原因と結果)が分かり、仏道修行が何のために、いかにして修めるべきかが明らかになり、心に曇りがなくなる。

もし勇猛心を持つ者がいれば、決死隊を組織し、互いに監督し協力して、一切の「我」を死に至らしめることができる。我など何の役に立つのか。生死の根である。我があるならば大自在を得られず、大解脱を得られない。仏法の修証の全過程は、見破り放下(ほうげ:手放す)の過程である。見破ること自体が非常に容易ではないが、放下することはさらに難しい。一切を放下すれば、即ち仏となる。

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