衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年08月23日 閲覧数: 7362
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節 四聖諦と四相</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、四聖諦の内容は: 苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦である。</h4>

苦諦とは、苦の道理と真理である。衆生には三苦、八苦および無量の苦があり、生生世世、六道の中で生死輪回し、生老病死の無量の憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) に煎じ続けられている。苦諦は仏の聖弟子のみが明了し認知できる真理であるので、苦聖諦と呼ばれる。苦聖諦があることを知ってはじめて修道でき、それによって苦集を断じて苦を滅することができる。

集諦は、苦集諦とも呼ばれる。衆生が無量劫に染汚業を造作し、生死業種を積集すれば、後世に苦受の業報を感召するという真理が苦集諦である。苦はどのように集まり、どのように感召されるのか。衆生には貪愛心があるため、貪愛によって愚痴の煩悩業が絶えず現行し、造作された貪愛業行が種子として収集され、将来業種の縁が熟した時に苦の業報が現れる。それゆえ佛陀は「貪愛集はすなわち苦集である」と説いた。修行によって貪愛を滅することを通してのみ、無量の苦を滅することができる。

滅諦とは、苦を滅する方法と真理である。すなわち、苦は一定の方法によって滅することができ、永遠に存在して滅しないのではないということである。修道によって我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、続いて初禅定を証得すれば、欲界の貪愛を断じることができ、さらに色界と無色界の貪愛をも断じて、はじめて三界を出離する能力を得て、三界内の一切の苦受を滅することができる。

道諦、道とは八正道である: 正語、正業、正命、正見、正念、正精進、正定、正思惟。衆生は八正道の修行を通して小乗の菩提資糧を円成したのち、五陰 (pañca-skandha) を観行 (vipaśyanā-caryā) すれば我見を断除し、我執を断除し、それによって五陰を滅尽し、三界を出離し、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入る。

四果羅漢はまだ無余涅槃に入る前、有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) の中にある。有余とは、なお少しの苦を受けるべきことがあるという意味である。五陰の色身が存在する以上、避けられない苦受がいくらかある。例えば暑い天候に耐える苦受、蚊虫に刺される苦受、病の苦受、身体の不調の苦受、他人に軽視される苦受など、これらはいずれも軽微な苦受であり、生死輪回の苦からの解脱に影響しない。五陰がある限り苦受がある。大乗に回心しない阿羅漢はこの点を明らかにし、いかなる微苦もこれ以上耐えたくなく、また出生した後に再び迷って染汚業を造作することをも恐れるので、坚决に五陰を滅して無余涅槃に入ろうとするのであり、涅槃に入ったのちは一切の苦受を滅するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、四相の内包</h4>

六根: 眼耳鼻舌身意の六根、前五根は生滅があり、変異、無常、因縁生、苦、空であるので、我ではない。意根は無生有滅であり、刹那生滅、変異、無常、苦、空であるので、我ではない。六塵: 色声香味触法、六塵は生滅、変異、無常、因縁生、苦、空であるので、我ではない。六識: 眼耳鼻舌身意識、六識は生滅、変異、無常、因縁生、苦、空であるので、我ではない。

人相: 人類衆生の五陰相、十八界相は、同様にすべて虚妄、生滅、変異、無常、苦、空、因縁生であるので、我ではなく、非我であり、不異我であり、不相在である。五陰は我ではなく(生滅する意根)、また我の外の我所でもない。我は我所の中になく、我所は我の中になく、我と我所は互いに混合して存在しない。大乗法の角度から言えば、五陰と真実の第八識は不一不異であり、互いに混合することもなく、かつ極めて密接なつながりがある。

衆生相: 十方世界のすべての衆生は、聖凡を問わず、いずれの道の衆生であっても、その五陰十八界は生滅、無常、変異、因縁生、苦、空であり、いずれも我ではなく、我所でもなく、我と我所は互いに混合して存在しない。しかし大乗法の角度から言えば、五陰と第八識は不一不異であり、第八識とも混合しておらず、両者には極めて密接な関係がある。

寿者相: 衆生の身に寿命の長短、生命の年輪として現れるものであり、細菌の数時間の寿命から長寿天の八万大劫、および分段生死 (pariccheda-maraṇa) を了した八地以上の菩薩たちの寿命に至るまで、いずれも虚妄、不真実、無常、空であり、いずれも我ではなく、我の所有するものでもない。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、いかにして四相を無くすことができるか</h4>

無四相とは、無我、無人、無衆生、無寿者である。五陰十八界というこの仮の我は、第八識が種々の縁に依って変生したものであり、虚妄、変異、無常、空、苦性であって、それゆえ無我である。これには深刻で細やかな観行を行ってはじめてこのような結論を得ることができ、内心で五陰が真に我ではないと確認できる。我が虚妄である以上、同理により、他人も虚妄であり、すべての衆生も虚妄にして我ではないと証することができる。ならば衆生の五陰に依って有る寿者相は、当然真実ではなく、虚妄である。定力を修出してこれらの理をしっかり観行することは極めて重要であり、その中で多くの法を修める必要があり、八正道および三十七道品をみなよく修めてはじめて、これらの法がみな空であると証得できる。口で空と言っても役に立たず、それは口頭禅にすぎない。

凡所有相皆是虚妄、いずれも第八識が幻化したものであり、一切の相には自己存在の真実の体性がなく、我相、人相、衆生相、寿者相を含む。解脱を得たいなら、虚妄の四相を離れ、四相を執取 (upādāna) しないことである。四相を離れるとは、撥離し、認取しないという意味であり、内心で四相を真実有と認めず、四相が幻化にして不実であり、有は仮合であると証知することである。

四相を離れるとは四相を滅することではない。四相を滅した後は衆生は消滅し、如来蔵 (tathāgatagarbha) だけが残り、衆生がなくなり、以後はもはや何も為すところがなくなる。四相を離れることと断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の道理は同じであり、断我見とは五陰身という仮の我を滅することではなく、五陰を我と認めることをやめ、知見を正すことである。仏教で言う断とは、知見を変え、識心の認知を変え、顛倒見を正し、それによって正知見を具足することを指す。我々が学仏するにあたって五陰七識の仮の我を滅することはできず、まして四果羅漢の果位に修到していない以上、誰も仮の我と四相を滅することはできない。

衆生の心中にはみな四相があり、あるいは色身を我と認め、あるいは感受できる心を我と認め、あるいは思惟できる心を我と認め、あるいは行住坐臥でき、言語で話し笑えるものを我と認め、あるいは六塵を分別できるものを我と認める。これらの法を我と認めることは、すなわち我と同じ人を人と認めることであり、我人と同じものを衆生と認めることであり、我人衆生の身上の一期の寿命を寿者相と認めることであり、こうして四相が具足するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、真如と聖人の七識はいずれも四相を取らない</h4>

阿羅漢と菩薩たちは修行を通して四相を破除し、心中に四相がなく、内心で四相を真、実有と認めなくなっている。五蘊七識が修行せず法を観なければ、無我を証得できず、四相を無くすることはできない。一方、真如は修行を必要とせず、神様は本来四相がなく、五蘊相がなく、十八界相もなく、自分を真実の我とも認めず、主宰をもなさず、自我の心行がなく、我相をも取らない。このように、神様は人相と衆生相をも取らず、まして寿者相を取らず、神様には寿命もない。なぜなら神様は始終不生滅だからである。

『金剛経』の中で言われる: 若心取相即着四相,若取法相即着四相,若取非法相即着四相。真如一相也不取,祂没有取的心行,连自己也不取。相反,妄心七个识总是在取,时刻在取四相和六尘相,取一切相,因此才生死不断,苦恼祸患无穷。总之能取的心就是妄,真如不取,也无四相。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、無我の含意</h4>

いわゆる無我には二つの含意がある。第一は無常にして恒一ではないこと、第二は作主できず、自在でないことである。第一の意味は理解しやすい。すなわちいわゆる我は生滅変化して止まず、永遠に恒一不変を保つことができない。第二の意味はやや分かりにくい。五陰は自分で作主することができず、自分の出生、成長と滅亡を決定できず、生も作主できず、死も作主できず、自分の業力に作主され、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) に決定される。それゆえ五陰は自在でなく、業力と阿頼耶識に掌控されているのである。

一部の小さな事柄については、やはり自分の意根が作主する。例えば食事の際に食べるか食べないかを選択でき、现有の条件下で何を食べるかを選択できる。しかし背後の因果から見れば、これも自分の福徳によって決定される。福徳が極めて薄ければ、食べるか食べないか、何を食べるかは、自分の言う通りにはならない。どの時期にも餓死する人がおり、上の食事を食べたら下の食事がない人がいる。業力が現前する時には本当に自分で選択する余地がない。表面では作主できる事にも、背後には因果と業力が支え、作用している。福報が不足する時には、作主して生死を脱離しようとしてもできず、業種業縁の束縛を受け、生死の苦報を受ける。この時には、意根は作主することができないのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、五陰身はなぜ自主的ではないのか</h4>

作主できない我とは、生死において自在でない五陰身を指す。五陰身は自主的に存在することができず、必ず阿頼耶識に依頼しなければ存在できず、五陰も自主的に滅することができず、必ず阿頼耶識と業縁に依頼しなければ滅することができない。生滅があるということは、自主でなく、自在でないということである。一方、阿頼耶識は永遠に自主かつ自在である。なぜなら神様は不生不滅であり、他の法によって決定されないからである。他方、五陰身にも一定の作主性があり、完全に生死業縁に随って流転するわけではない。さもなければ、我々が学仏することも役に立たず、必要もなくなる。五陰の中の第七識は八識の中の作主識であり、五陰の身口意行に作主し、身口意行の造作を決定する。意根が作主しなくなれば、五陰には身口意行がなくなり、阿頼耶識も休息する。

業行の面では、意識と意根は共に努力して生死業報を変え、努力して修行し無明煩悩を除去し、生死の束縛から解脱することができる。これらはいずれも主動性があり、作主して決定できるものであり、その最終の結果は一切の無明を断除することができる。意識は仏法の修行を通してしばしば意根を熏染し、意根を少しずつ業力の束縛から脱離させ、無明と煩悩の羈絆を除去して、善業と清浄 (viśuddha/pariśuddha) 業の造作を選択させれば、未来の果報はますます殊勝となり、成仏作祖に至る。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、我執と法執の概念</h4>

我執とは、五陰の自我に対する執著であり、五陰身を我と我所と執著することである。この種の執著を断じれば四果阿羅漢であり、意根はもはや三界世間法を貪執せず、寿が尽きれば自分を滅する能力があり、無余涅槃に入って三界の苦から解脱する。法執は法我執とも呼ばれ、意根が蘊処界の和合によって衍生する一切の法あるいは一部の法を我と我所と執著することであり、この法我執は初步的に転識成智した地上菩薩にのみ少しずつ断除する能力がある。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、観行の含意</h4>

観とは、観察、観照、思考、参究、思惟、思量 (manasikāra/manana)、思念、想、推理、推想をいう。現量、比量、非量の観に分けられ、非量の仮設、仮想もいずれも使用できる。その結果が現量であれば正観であり、結果が非量で、事実と真理に合わなければ邪観に属し、俗語で瞎想、胡思乱想、天馬行空の臆測と言われるもので、これらはいずれも根拠がなく、論理に合わない思惟活動である。

正観とは事実に合う観であり、正しい方向のある観であり、合理的で実行可能な方法のある観である。例えば観像念仏 (buddhānusmṛti) では、面前に佛像が指針としてあり、参照の標的があって、観の方向の正しさを保証する。観の結果は禅定力と観慧および福徳などの条件が具足しているかどうかによる。また例えば観無量寿経の中の十六観は、每一観に佛の指導と説明があり、正しい参照標的があり、目標と方向が明確で、観の結果は個人の定慧福徳などの条件が満たされるかどうかにある。

行とは、運動、行為、変化、遷流、流転をいう。動くもので、静止していないものはすべて行の範疇であり、事物の発展の過程とも言え、終わっておらず、なお変化進行中のものはすべて行に属する。観行の行は主に心念の動転、心所法の運行を指す。思心所の思にも行の内包があり、抉択、決定、造作の意味があるだけでなく、主に思量性、計較性があり、俗語で琢磨、量度、比量、権衡と言われるものである。

想心所の想も行の範囲であり、静止状態には属さない。想には了別、分別、取相、執取 (upādāna) の機能作用がある。相を取った後、思心所が起用し、執取した法相を思量し、利弊、軽重と緩急を権衡して、それから抉択する。思量に暫時結果がない時、それは主意を定めかねると言い、意根が暫時主張がなく、決定がないのである。思量は想に比べ、その区別は深さが異なることにある。想は相に対するやや浅い次元の了別であり、相分 (nimitta) をしっかり囲んで、相分を離れず、相分を取った後には感受が生じる。その後、さらに思量しなければならず、最後の思量も相分をめぐって、どのように処理対待するかを考え、利弊を権衡して、それから造作を決定する。

観行は合わせて意識と意根の機能作用である。もちろん意識で観する場合は浅い定の中でもでき、禅定のない散乱観では観の次元が比較的浅く、究竟でなく、論理性がないかもしれない。論理性があっても意根の観に代えることはできず、ただ意根の観行に対して導きの役割を果たすだけであり、最終的にはやはり意根自身が観してこそ安心できる。なぜなら意根は主人公であり、作主識であり、意根が自ら見てこそ真見だからである。しかし意根の観行には禅定が必要であり、深ければ深いほどよい。さもなければ所縁の法が多く、一心に観行できず、如実の観行智慧がないのである。

目次

次へ

前へ

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る