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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 5814

第三節 四聖諦と四相

一、四聖諦の内容は以下の通りである:苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦。

苦諦とは、苦の道理と真理である。衆生には三苦・八苦及び無量の苦があり、生々世々に六道において生死を輪廻し、絶えず生老病死の無量の憂悲苦悩に苛まれる。苦諦は仏の聖弟子のみが明らかにし認識できる真理であるがゆえに苦聖諦と呼ばれ、苦聖諦の存在を知って初めて道を修し、苦集を断じて苦を滅することができる。

集諦は苦集諦とも呼ばれる。衆生が無量劫にわたって染汚業を造作し、生死の業種を積集するため、後世に苦受の業報を感得するという真理が苦集諦である。苦はどのように集積され、どのように感得されるのか。衆生に貪愛の心があるため、貪愛は絶えず愚痴の煩悩業を現行し、造作された貪愛の業行が種子として集積され、将来業種の縁が熟する時に苦の業報が現れる。よって仏陀は「貪愛の集積こそが苦の集積である」と説かれた。修行によって貪愛を滅しなければ、無量の苦を滅することはできない。

滅諦とは、苦を滅する方法と真理である。すなわち苦は一定の方法によって滅することが可能であり、永遠に不滅で存在するものではない。道を修して我見を断ち、続いて初禅定を証得すれば、欲界の貪愛を断つことができ、さらに色界と無色界の貪愛を断って初めて三界を出離し、三界の一切の苦受を滅する能力を得る。

道諦とは、八正道である:正語、正業、正命、正見、正念、正精進、正定、正思惟。衆生は八正道を修行し、小乗の菩提資糧を円成した後、五蘊を観行すれば我見を断除し、我執を断除して五蘊を滅尽し、三界を出離し、無余涅槃に入ることができる。

四果阿羅漢が無余涅槃に入る前は、有余涅槃にある。有余とは、なお受けるべき少苦が存在することを意味する。五陰色身が存在するため、避けられない苦受がある。例えば、天候の暑さに耐える苦受、蚊に刺される苦受、病の苦受、身体の不快感、他者から軽視される苦受など、これらは全て軽微な苦受であり、生死輪廻の苦からの解脱には影響しない。五陰が存在する限り苦受はある。大乗に回心しない阿羅漢はこの点を理解し、いかなる微細な苦も再び耐えることを望まず、生を受けた後に再び迷って染汚業を造作することを恐れるため、断固として五陰を滅し無余涅槃に入ることを選択する。涅槃に入れば一切の苦受は滅する。

二、四相の内包

四相:我相、人相、衆生相、寿者相。我相とは、五陰相(色陰、受陰、想陰、行陰、識陰)及び十八界相(六根、六塵、六識)である。色陰は無から有へと生じ、生滅し、変化し、転易する(易とは変化を繰り返すこと)。無常・苦・空であるがゆえに我ではない。受陰は生滅変化し無常であり、因縁によって生じ、久住せず、苦・空であるがゆえに我ではない。想陰は生滅し、変異し、無常・苦・空であるがゆえに我ではない。行陰は生滅し、変化し、無常・苦・空であるがゆえに我ではない。識陰は生滅し、変異し、無常・因縁生・苦・空であるがゆえに我ではない。

六根:眼・耳・鼻・舌・身・意の六根。前五根は生滅あり、変異し、無常・因縁生・苦・空であるがゆえに我ではない。意根は生なくして滅あり、刹那に生滅し、変異し、無常・苦・空であるがゆえに我ではない。六塵:色・声・香・味・触・法。六塵は生滅し、変異し、無常・因縁生・苦・空であるがゆえに我ではない。六識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。六識は生滅し、変異し、無常・因縁生・苦・空であるがゆえに我ではない。

人相:人類衆生の五陰相・十八界相も同様に虚妄・生滅・変異・無常・苦・空・因縁生であり、ゆえに我ではなく、我に非ず、我に異ならず、相在せず(我と我所が互いに混在しない)。五陰は我(生滅する意根)ではなく、我の外にある我所でもない。我は我所の中になく、我所は我の中にない。我と我所は互いに混合して存在しない。大乗法の角度から言えば、五陰と真実の第八識は一ならず異ならず、互いに混合せず、かつ極めて密接な関係にある。

衆生相:十方世界の一切の衆生(聖凡を問わず、どの道の衆生であれ)の五陰十八界は、生滅・無常・変異・因縁生・苦・空であり、いずれも我ではなく、我所でもなく、我と我所は互いに混合して存在しない。しかし大乗法の角度から言えば、五陰と第八識は一ならず異ならず、第八識とも混合せず、両者は極めて密接な関係にある。

寿者相:衆生に現れる寿命の長短、生命の年輪。細菌の数時間の寿命から長寿天の八万大劫、及び分段生死を了した八地以上の菩薩たちの寿命に至るまで、全て虚妄・不実・無常・空であり、我ではなく、私が所有するものでもない。

三、如何にして四相を無くすか

四相を無くすとは、我無く、人無く、衆生無く、寿者無しである。五陰十八界という仮の我は、第八識が様々な縁によって変生したものであり、虚妄・変異・無常・空・苦性であるがゆえに無我である。これは深く細やかな観行を行って初めて得られる結論であり、内心において五陰が真に我ではないと確認できる。我が虚妄であるならば、同様に他人も虚妄であり、一切の衆生は虚妄で非我である。よって衆生の五陰に依存して存在する寿者相は当然不実であり、虚妄である。定力を修めてこれらの理をよく観行することが重要である。この中で多くの法を修め、八正道及び三十七道品を修めなければ、これらの法が空であることを証得できない。口で空を説くだけでは無意味であり、単なる口頭禅に過ぎない。

凡べての相は虚妄であり、全て第八識が幻化したものである。一切の相には自ら存在する真実の体性がなく、我相・人相・衆生相・寿者相も含まれる。解脱を得ようとするなら、虚妄の四相を離れ、四相を執取してはならない。四相を離れるとは、撥離(はなれさる)し、認め取らないことを意味する。内心で四相を真実有と認めず、四相が幻化して実体なく、有は仮合であると証知する。

四相を離れることは、四相を滅することではない。四相を滅すれば衆生は消失し、如来蔵のみが残り、衆生がなくなるため、今後何も為すことができなくなる。四相を離れることと我見を断つ道理は同じである。我見を断つとは、五陰身という仮の我を滅ぼすことではなく、五陰を我と認めず、知見を是正することである。仏教で説く「断」とは、知見を改め、識心の認知を変え、顛倒見を是正し、正知見を具足することを指す。我々が仏法を学ぶにあたり、五陰七識の仮の我を滅ぼすことはできない。ましてや四果阿羅漢の果位に至らずして、誰も仮の我と四相を滅ぼすことはできない。

衆生の心中には皆四相がある。或いは色身を我と認め、或いは感受する心を我と認め、或いは思惟する心を我と認め、或いは行住坐臥し言語説笑できるものを我と認め、或いは六塵を分別するものを我と認める。これらの法を我と認めること、即ち私と同様の者を人と認めること、即ち私や人と同様の者を衆生と認めること、即ち私・人・衆生の一期の寿命を寿者相と認めることにより、こうして四相は具足する。

四、真如と聖人の七識は四相を取らない

阿羅漢と菩薩たちは修行によって四相を破り、心中に四相なく、内心において再び四相を真実・実有と認めない。もし五蘊七識が修行せず法を観ず、無我を証得しなければ、四相を無くすことはできない。一方、真如は修行を要しない。本来四相なく、五蘊相なく、十八界相なく、自らを真実の我とも思わず、主宰もせず、自我の心行もなく、我相も取らない。このように、人相・衆生相も取らず、まして寿者相も取らない。寿命もない。なぜなら真如は常に不生不滅であるからだ。

『金剛経』に説かれる:「若し心が相を取れば即ち四相に著く。若し法相を取れば即ち四相に著く。若し非法相を取れば即ち四相に著く」。真如は一つの相も取らず、取る心行がなく、自らすら取らない。これに対し、妄心である七つの識は常に取り、絶えず四相と六塵相を取り、一切の相を取る。それ故に生死は絶えず、苦悩禍患は窮まりない。要するに取る心こそが妄であり、真如は取らず、四相もない。

五、無我の意味

無我とは、二つの意味がある。一つは無常で恒一ではないこと。二つは主宰できず、自在でないこと。第一の意味は理解しやすい。いわゆる我は生滅変化して止まず、永遠に恒一不変を保つことができない。第二の意味はやや解し難い。五陰は自ら主宰できず、自らの出生・生長・滅亡を決定できず、生も主宰できず死も主宰できない。自らの業力が主宰し、阿頼耶識(あらやしき)が決定する。よって五陰は不自在であり、業力と阿頼耶識に掌握されている。

或る些細な事柄については、なお自らの意根が主宰する。例えば食事の際に食べるか食べないかを選択し、現状の条件下で何を食べるかを選択できる。しかし因果の背景から見れば、これも自らの福徳によって決定される。もし福徳が非常に薄ければ、食べるか否か、何を食べるかは自らが決められない。どの時代にも餓死する者、一食食べれば次がない者が存在する。業力が現前する時、真に自ら選択する余地はない。表面で主宰できるように見える事柄にも、背景に因果と業力が支え作用している。福報が不足している時、生死を離れようと主宰しようとしても叶わず、なお業種業縁の束縛を受け、生死の苦報を受ける。この時、意根は主宰できない。

六、五陰身は何故自主的ではないのか

主宰できない我とは、生死に自在でない五陰身を指す。五陰身は自主的に存在できず、阿頼耶識に依存しなければ存在できない。五陰は自主的に滅することもできず、阿頼耶識と業縁に依存して初めて滅する。生滅があることは、即ち自主的でなく自在でないことを意味する。一方、阿頼耶識は常に自主的かつ自在である。なぜなら不生不滅であり、他法によって決定されないからだ。他方、五陰身にも一定の主宰性があり、生死業縁に完全に流転するわけではない。そうでなければ我々が仏法を学ぶことも無意味で不必要となる。五陰中の第七識は八識中の主宰識であり、五陰の身口意行を主宰し、身口意行の造作を決定する。もし意根が主宰しなければ、五陰は身口意行がなくなり、阿頼耶識も休息する。

業行の面では、意識と意根が共同で努力すれば生死業報を変え、努力して修行し無明煩悩を除去し、生死の束縛を解脱することができる。これらは全て能動性を有し、主宰して決定権を持つことができ、その最終結果は一切の無明を断除できる。意識は仏法を修行することにより、常に意根を熏染し、意根が少しずつ業力の束縛から離れ、無明と煩悩の羈絆を除去し、善業と清浄業を造作することを選択させれば、未来の果報はますます殊勝となり、遂には仏祖となることができる。

七、我執と法執の概念

我執とは、五陰の自我に対する執着である。五陰身を我及び我所として執着する。この種の執着を断じた者が四果阿羅漢であり、意根は再び三界世間法を貪執せず、寿尽きれば自らを滅ぼして無余涅槃に入り三界の苦を解脱する能力を持つ。法執は法我執とも呼ばれる。意根が蘊処界が和合して派生した一切の法、或いは或る法を我及び我所として執着することである。この法我執は、初地以上の菩薩が初めて転識成智を成し遂げて初めて、少しずつ断除する能力を得る。

八、観行の意涵

観とは、観察・観照・思考・参究・思惟・思量・思念・想・推理・推想を指す。現量・比量・非量の観に分けられる。非量の仮設・仮想も使用可能であり、その結果が現量であれば正観である。結果が非量で事実や真理に合わなければ邪観に属し、俗に「でたらめな思い・取り留めのない空想・天馬空を行く臆測」と呼ばれ、これらは全て根拠がなく論理に合わない思惟活動である。

正観は事実に合致する観であり、正しい方向性を持つ観であり、合理的で実行可能な方法を有する観である。例えば観像念仏は、面前に仏像を導きとして参照の標的があり、観の方向性の正しさを保証する。観の結果は禅定力・観慧・福徳などの条件が具足するかによる。また『観無量寿経』の十六観のように、各観に仏の指導と説明があり、正しい参照の標的があり、目標と方向が明確である。観の結果は個人の定慧福徳などの条件が満たされるかによる。

行とは、運動・行為・変化・遷流・流転を指す。凡そ動くもの、静止しないものは全て行の範疇に属し、事物の発展過程と言える。終わっておらず、なお変化進行中のものは全て行に属する。観行の行は主に心念の動転・心所法の運行を指す。思心所の思も行の内包を持ち、択・決定・造作の意味だけでなく、主に思量性・計較性(俗に「琢磨」・量度・比量・权衡)を持つ。

想心所の想も行の範囲に属し、静止状態ではない。想は了別・分別・取相・執取の機能作用を持つ。相を取った後、思心所が作用し、執取した法相を思量し、利害・軽重・緩急を权衡し、その後択ぶ。思量が暫く結果を出さない時は「決心がつかない」と言い、意根が暫く主張・決定を持たない状態である。思量は想に比べ、深さが異なる。想は相に対するやや浅いレベルの了別であり、相分に密着し離れない。相分を取れば感受が生じる。その後、なお思量が必要で、最終的な思量も相分を中心に、如何に処理対処するか、利害を权衡し、造作を決定する。

観行を合わせれば意識と意根の機能作用である。もちろん意識による観は浅い定中でも可能であり、禅定なく散乱した観もある。観のレベルは比較的浅く、不究竟であり、論理性を欠く場合もある。たとえ論理性があっても意根の観行に代わることはできず、意根の観行を導く役割を果たすに過ぎない。最終的には意根自らが観なければ安心できない。なぜなら意根が主人公であり、主宰識であるからだ。意根が親しく見て初めて真見と言える。しかし意根の観行には禅定が必要であり、深ければ深いほど良い。そうでなければ所縁の法が多く、一心に観行できず、如実の観行智慧を得られない。

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