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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 5753

第三節 四聖諦と四相

一、四聖諦の内容は次の通りである:苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦。

苦諦とは、苦の道理と真理である。衆生は三苦・八苦及び無量の苦を抱え、生生世世にわたり六道を生死輪廻し、生老病死の無量なる憂悲苦悩に絶えず苛まれる。苦諦は仏の聖弟子のみが明らかにし得る真理であるため、苦聖諦と呼ばれる。苦聖諦の存在を知って初めて道を修し、苦集を断じて苦を滅することができる。

集諦は苦集諦とも呼ばれる。衆生が無量劫にわたって染汚業を造り、生死の業種を積集し、後世に苦受の業報を感得する真理が苦集諦である。苦は如何にして集積され、如何にして感得されるのか。衆生に貪愛の心があるため、貪愛は絶えず愚痴の煩悩業を現行させ、造作した貪愛の業行が種子として収集され、将来業種の縁が熟する時、苦の業報が現れる。故に仏陀は「貪愛の集積こそが苦の集積である」と説かれた。修行によって貪愛を滅し、無量の苦を滅するのである。

滅諦とは、苦を滅する方法と真理である。即ち苦は一定の方法によって滅することが可能であり、永遠に不滅のものではない。道を修して我見を断ち、更に初禅定を証得すれば欲界の貪愛を断じ、色界・無色界の貪愛をも断じ、三界を出離する力を得て、三界の一切の苦受を滅する。

道諦とは八正道である:正語・正業・正命・正見・正念・正精進・正定・正思惟。衆生は八正道を修行し、小乗の菩提資糧を円成した後、五蘊を観行して我見を断除し、我執を断除し、五蘊を滅尽して三界を出離し、無余涅槃に入る。

四果阿羅漢が無余涅槃に入る前は有余涅槃に住する。有余とは未だ少々の苦を受けることを指す。五陰色身が存在する限り、避け難い苦受がある。例えば炎熱に耐える苦受、蚊虫に刺される苦受、病の苦受、身体の不調、他者からの軽視など、これらは解脱生死輪廻の苦に影響しない微細な苦受である。五陰が存在する限り苦受はある。大乗に回心しない阿羅漢はこの理を悟り、如何なる微苦も耐えず、再生後に再び迷って染汚業を造作することを恐れ、五陰を滅して無余涅槃に入ることを堅く志す。涅槃に入れば一切の苦受は滅する。

二、四相の内実

四相:我相・人相・衆生相・寿者相。我相とは五陰相(色陰・受陰・想陰・行陰・識陰)及び十八界相(六根・六塵・六識)である。色陰は無から有へ生滅変化し、無常・苦・空である故に我ではない。受陰は生滅変化し因縁所生で久住せず、苦・空である故に我ではない。想陰は生滅変異し無常・苦・空である故に我ではない。行陰は生滅変化し無常・苦・空である故に我ではない。識陰は生滅変異し因縁所生・苦・空である故に我ではない。

六根:眼耳鼻舌身意の六根。前五根は生滅変異し因縁所生・苦・空である故に我ではない。意根は無生有滅で刹那生滅・変異無常・苦・空である故に我ではない。六塵:色声香味触法は生滅変異し因縁所生・苦・空である故に我ではない。六識:眼耳鼻舌身意識は生滅変異し因縁所生・苦・空である故に我ではない。

人相:人類衆生の五陰相・十八界相も同様に虚妄・生滅変異・無常・苦・空・因縁所生であり、我ではなく、我に非ず、我と異ならず、不相在である。五陰は我(生滅する意根)ではなく、我の外の我所でもなく、我は我所に在らず、我所は我に在らず、我と我所は混在しない。大乗法の角度から言えば、五陰と真実の第八識は一ならず異ならず、混在せず極めて密接な関係を有する。

衆生相:十方世界の一切衆生(聖凡を問わず、何れの道の衆生も)の五陰十八界は生滅無常・変異・因縁所生・苦・空であり、我でも我所でもなく、我と我所は混在しない。但し大乗法の角度から言えば、五陰と第八識は一ならず異ならず、第八識とも混在せず極めて密接な関係を有する。

寿者相:衆生に現れる寿命の長短、生命の年輪。細菌の数時間の寿命から長寿天の八万大劫、分段生死を了えた八地以上菩薩の寿命に至るまで、全て虚妄不実・無常・空であり、我ではなく、私が所有するものでもない。

三、如何にして四相を無くすか

四相を無くすとは、我・人・衆生・寿者を無くすことである。五陰十八界という仮我は第八識が諸縁によって化現したもので虚妄変異・無常・空・苦性、故に無我である。この結論を得るには深細な観行が必要であり、内心で五陰が真に我ではないことを確認しなければならない。我が虚妄であるならば、同様に他人も虚妄であり、一切衆生は虚妄非我である。従って衆生五陰に依る寿者相も不実虚妄である。定力を修得しこの理をよく観行することが重要であり、八正道及び三十七道品を修め、これらの法が空であることを証得しなければならない。口先で空を説くのは口頭禅に過ぎない。

凡そ所有の相は虚妄であり、第八識が幻化したもので、一切の相に実体はない。我相・人相・衆生相・寿者相を含む。解脱を得るには虚妄なる四相を離れ、四相を執取しないことである。四相を離れるとは撥離・不認取を意味し、内心で四相を真実有と認めず、幻化不実・仮合の有であることを証知する。

四相を離れることは四相を滅することではない。四相を滅すれば衆生は消滅し如来蔵のみが残り、衆生が存在せず作為もなくなる。四相を離れる理は我見を断つ理と同じである。我見を断つとは五陰身という仮我を滅するのではなく、五陰を我と認めないように知見を正すことである。仏教で説く「断」とは知見を改め、識心の認知を変え、顛倒見を正し正知見を具足させることである。我々は五陰七識の仮我を滅ぼすことはできず、四果阿羅漢の果位に至らぬ限り誰も仮我と四相を滅ぼせない。

衆生の心中には四相があり、色身を我と認め、感受する心を我と認め、思惟する心を我と認め、行住坐臥・言語説笑する者を我と認め、六塵を分別する者を我と認める。これらの法を我と認めるが故に、我と同じ人を人と認め、人と同じ者を衆生と認め、我人衆生に現れる一期の寿命を寿者相と認め、四相が具足する。

四、真如と聖人の七識は四相を取らない

阿羅漢と菩薩は修行によって四相を破り、心中に四相なく、内心で四相を真実有と認めない。五蘊七識が修行せず法を観ず、無我を証得しなければ四相を無くすことはできない。真如は修行を要さず、本来四相なく、五蘊相なく、十八界相なく、自らを真実我と認めず、主宰せず、自我の心行なく、我相を取らない。従って人相・衆生相も取らず、寿者相も取らず、寿命もない。真如は本来不生不滅である。

『金剛経』に説く「若し心が相を取れば即ち四相に著く。法相を取れば即ち四相に著く。非法相を取れば即ち四相に著く」。真如は一相も取らず、取る心行なく、自らさえ取らない。これに対し、妄心の七識は常に取り、絶えず四相と六塵相を取り、一切の相を取る。故に生死が絶えず、苦悩禍患が尽きない。要するに取る心こそが妄であり、真如は取らず四相もない。

五、無我の意味

無我には二義ある。一は無常非恒一、二は作主不能・自在ならず。第一義は理解し易く、所謂る我が生滅変化し恒一不変でないこと。第二義は解し難い。五陰は自ら作主できず、出生・生長・滅亡を決定できず、生も死も業力に由り、阿頼耶識に決定される。故に五陰は不自在で業力と阿頼耶識に支配される。

些細な事柄では意根が作主する場合もある。例えば食事の選択など現有条件下で可能な範囲の選択はある。しかし因果の面から見れば、これも自らの福徳に由る。福徳が極めて薄ければ、食うか否か、何を食うかは自らの意思に由らない。各時代に餓死者や一食を得て次がない者が存在する。業力現前時には真に選択の余地がない。表面的に作主できる事柄も、背後に因果業力が作用する。福報不足時には生死を脱することを欲しても業種業縁の束縛を受け、生死苦報を受ける。この時意根は作主できない。

六、五陰身が何故自主的でないか

作主できない我とは、生死に自在ならぬ五陰身を指す。五陰身は自主存在できず阿頼耶識に依存し、自主滅却できず阿頼耶識と業縁に依存する。生滅ある故に不自主・不自在である。阿頼耶識は永遠に自主自在で、不生不滅・他法に由らない。一方、五陰身にも一定の作主性があり、生死業縁に随順するのみならず、学仏が無意味となることはない。五陰中の第七識は八識中の作主識で、五陰の身口意行を主宰し、身口意行の造作を決定する。意根が作主しなければ五陰は身口意行なく、阿頼耶識も休息する。

業行面では意識意根が共同で生死業報を改変し、無明煩悩を除去し生死束縛を解脱する主動性を持つ。最終的に一切無明を断じる。意識は仏法を修行し、常に意根を熏習し、意根を業力束縛から離脱させ、無明煩悩の羈絆を除去し、善業清浄業を造作するよう選択させ、未来の果報を殊勝ならしめ、遂に成仏作祖する。

七、我執法執の概念

我執とは五陰自我への執着で、五陰身を我・我所と執着する。この執着を断じた者が四果阿羅漢である。意根は三界世間法を貪執せず、寿尽きれば自らを滅し無余涅槃に入り三界苦を解脱する。法執(法我執)とは意根が蘊処界の和合から生じる一切法或いは某些の法を我・我所と執着すること。この法我執は初地以上の菩薩が転識成智を初めて徐々に断除し得る。

八、観行の内実

観とは観察・観照・思考・参究・思惟・思量・思念・想・推理・推想を指す。現量・比量・非量に分かれる。非量の仮設・仮想も使用可能で、結果が現量なら正観、非量で事実真理に合わぬなら邪観(妄想・空想・根拠なき推測)となる。

正観は事実に合致し、正しい方向性と合理的方法を有する。例:観像念仏は仏像を標的とし方向を保証する。観無量寿経の十六観は仏の指導と明確な目標を有し、個人の定慧福徳等の条件に依る。

行とは運動・行為・変化・遷流を指す。動的で静止せざるもの全てが行の範疇。観行の行は主に心念の動転・心所法の運行を指す。思心所の思は行の内実を有し、択・決定・造作のみならず、思量・計較(琢磨・量度・比量・权衡)を含む。

想心所の想も行の範囲。想は了別・分別・取相・執取の機能を有す。取相後、思心所が起用し、法相を思量し利弊・軽重・緩急を权衡し決定する。思量未決は意根が未決定。思量は想より深く、相分を中心に処理方法を考慮し決定する。

観行は意識と意根の機能。意識の観は浅定・散乱観も可能で層浅く不究竟。論理性あっても意根観行の代替不可。最終的に意根自ら観行せねばならず、意根は主人公・作主識である。意根観行には禅定が必要。深定なければ所縁の法多く一心観行できず、如実の観行智慧を得られない。

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