五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第二節 行識を観じて我見を断ず
五蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊である。色蘊とは色身の機能作用であり、受・想・行・識の四蘊は六識の機能作用である。合わせて五蘊となり、色蘊もまた六識の作用から離れることはない。
一、六識の三種の受における無我を観行する
受蘊とは六識の感受であり、苦受・楽受・不苦不楽受の三種の感受を含む。眼識に受あり、耳識に受あり、鼻識に受あり、舌識に受あり、身識に受あり、意識に受あり、六識すべてに受がある。例えば目が色相を見る場合、仏像を見ても、花を見ても、何らかの色相を見る際には、眼識には必ず受がある。光線が暗いかまぶしいか、色塵が心地よいかなどであり、意識心にも受がある。快適か不快か、好きか嫌いか、あるいは捨受である。目が太陽の光を見た時、眼識は感受があり、まぶしすぎると感じれば避けようとし、あるいは温和で快適と感じれば好きになり貪愛する。これが眼識の苦受・楽受・不苦不楽の捨受である。仏像を見る時、眼識は仏像の色彩や光沢を好み、仏像の形態を見て喜び、意識心が三十二相八十種好を分別すれば、崇敬と喜悦の感受が生じる。
苦受とは好ましくない受、内心が苦悩を感じる受である。楽受とは好ましく快適な感受である。不苦不楽受とは淡く好きとも嫌いとも言えない受であり、無関心な心境、一種の捨受である。これが目で色を見る時の受である。受蘊は意識心の感受を主とする。意識心の了別する内容は広範で繊細、深遠であり、内包が豊富であるため、意識心の受は観察しやすい。目が色を見る時の感受は因縁によって生じる法であり、生滅変異して無常である。故に虚妄・不実・幻化である。生滅変異して無常なるものは苦であり、苦なるものは我ではない。故に受蘊は我ではない。
耳が音を聞く時には受がある。耳識心が特に耳障りと感じ苦受を生じ、その後避けようとする。あるいは特に柔らかいと感じれば喜楽貪愛が生じる。これが楽受である。音を聞く時、意識心にも受がある。音が騒がしいと感じれば苦受が生じ、柔らかいと感じれば楽受が生じ、音に特別な意味がないと感じれば不苦不楽受が生じる。意識心が音の内包が下品であるか攻撃的であると感じれば苦受が生じて聞くことを好まず、称賛の言葉や興味のある内容、柔らかな音楽であれば楽受が生じて聞くことを好む。
意識心もまた苦受・楽受・不苦不楽受に分かれる。耳識心も苦受・楽受・不苦不楽受に分かれ、好ましいものには楽受が生じ、好ましくないものには苦受が生じ、あるいは苦楽両辺を離れた捨受が生じる。時には音を聞いてもどうでもよく、好きとも嫌いとも感じず、聞いても聞かなくても構わない、聞くのも聞かないのも同じということがある。これが不苦不楽の捨受であり、これが耳が音を聞く時の感受である。
受蘊の虚妄を観行するには、この感受がどのような因縁の集合によって生じたかを観察する。因縁が集合して現れたものは虚妄である。音があり、耳根があり、耳識があり、第八識があり、意根があり、種子がある。これらの因縁が集合して初めて音を聞くことができ、感受が生じる。故に識心が音に対して抱くあらゆる感受は虚妄であり、すべての感受は生滅変異して無常である。因縁によって生じた法は空である。故に受蘊は我ではない。これらの感受は観行の究極においてはすべて苦受となる。苦なるものは我ではない。故に受蘊は我にあらず。
鼻が香りを嗅ぐ時、鼻識心と意識心の両方に感受がある。苦を感受し、楽を感受し、不苦不楽を感受する。例えば香りを嗅いで比較的好ましいと感じれば、心に喜びが生じる。ここには意識心の楽受もあり、鼻識心の楽受もある。匂いが嫌だと感じれば嫌悪の苦受が生じる。ここには意識心の苦受もあり、鼻識心の苦受もある。匂いが中立的で香りも臭いもせず、心が好きとも嫌いとも言えず、どうでもよいと感じれば、これが不苦不楽の捨受である。
これが鼻が香りを嗅ぐ時の感受であり、苦・楽・憂・喜・捨の五種の受、あるいは三種の受(苦受・楽受・不苦不楽受)がある。鼻が香りを嗅ぐ時の受蘊の虚妄を観察するには、この受蘊が如何にして生じたか、生じる前提条件と因縁は何かを観察しなければならない。鼻が香りを嗅ぐ時の感受が様々な因縁条件の下で生じたものである以上、受蘊は本来からあるものではなく、生滅変異して無常であり、虚妄である。即ち苦である。故に受蘊は我ではない。
舌が味を嘗める時には受があり、苦・楽・不苦不楽の三種の感受を生じる。口の中に食物がある時もない時も受がある。食物がない時、口の中の味は通常淡く、我々はすでに慣れており、どうということもなく、好きとも嫌いとも言えない。これが不苦不楽の捨受である。体に火が上がった時、口の中に苦味を感じる。この苦味は舌識心が好まず、意識心も好まない。これが苦受である。坐禅時に津液が口の中に流れ込むと、舌識は口中の津液の甘味を好み、意識も好む。両者ともに楽受がある。
ある飲食を嘗める時、舌識と意識は好ましい飲食に対して楽受を生じ、好ましくない飲食に対して苦受を生じる。飲食に対して好きとも嫌いとも言えない場合、これが捨受である。修行者は味塵に貪らず、飲食に対して常に生じるのは一種の捨受であり、味塵の良し悪しを気にせず、腹が満たされればよいとする。これが修行者の一種の心構えである。味がどうであれ、何でも構わず、選り好みせず、好きでも嫌いでもない。これが修行者の捨受である。これらの感受は因縁によって生じる法であり、すべて生滅変異して無常・虚妄である。すべて苦であり、苦なるものは我ではない。故に受蘊は我ではない。
身が触れを覚える時には三種の受があり、身識と意識の両方に感受がある。例えば歩く時、疲労やだるさを感じ、身体中の様々な感受が快適か不快か、温かいか温かくないか、熱いか冷たいか、喉が渇いているか空腹か。身識と意識は了知できるため、苦受・楽受・不苦不楽の捨受が生じる。修行者はあらゆる感受をあまり気にせず、この身体はどうでもよいとする。疲れても構わない、寒くても構わない、暑くても構わない、空腹でも構わない、喉が渇いても構わない、様々な状態を耐え忍び、どうでもよいと感じる。これが修行者の捨受の心境である。これらの感受はすべて因縁によって生じる法であり、すべて生滅変異して無常・虚妄である。すべて苦であり、苦なるものは我ではない。故に受蘊は我ではない。
さらに独頭意識の受がある。散位独頭意識において、意識が思慮や追憶をする時、苦受・楽受・捨受が生じる。夢の中で様々な夢を見る時も、様々な苦受・楽受・不苦不楽の覚受が生じる。禅定中、ある定境が現前した時、意識心が気づけば覚受が生じる。しかしこの覚受は主に愉悦・快適・軽安の楽受である。四禅以上は捨受であり、欲界定の中にも苦受がある。これらの感受はすべて因縁によって生じる法であり、すべて生滅幻化して実体がなく、無常・空である。楽受があっても、楽受が過ぎ去れば苦に感じる。故に一切の受は苦受である。故に受蘊は我ではない。
二、如何にして覚受を対治するか
受蘊は、六塵の境界に触れ、境界に対する了知性が生じ、甘いと知り、痛いと知り、景色と知り、匂いと知り、音と知った後に、苦受・楽受・不苦不楽の感受が生じる。この時初めて受蘊が現れる。六識が六塵に作意し、その後触れ、その後領受・領納し、その後想・了別・知、その後感受(受蘊)、その後思、択択決定、行蘊の造作となる。
日常生活において、自らの様々な覚受を仔細に点検し、何に貪愛しているか、何事にこだわっているか、何事に心思と精力を費やしているかを点検する。点検した後、これがどのような心理か、どのような意味があるか、結果は何かを分析する。その後、自らの貪愛と覚受を対治する方法を考える。常にこうすることで修行上の障害が払拭され、道業の進歩が早くなる。
三、想蘊の無我を観行する
想蘊とは、心に相が生じ、この相を了知し、この相を執取し、進んで名言の覚観を生じることである。例えば目の前の壁を見て、これが壁であると知る。眼識と意識が壁という相を執取し、壁に関する言語文字や考え・見解が生じる。これを想という。了知・覚観などの心理活動や機能作用を想蘊という。
想はいつ現れるか。想蘊は六想身であり、六根が六塵に触れる時、常に想蘊が現起する。目が色を見る時には想がある。例えば目が仏像を見て仏像であると了知し、仏像として取着し、さらに仏像に関する言語文字が生じる。この了知には眼識の了知もあり、意識心の了知もある。目が色を見る時の想蘊と了知性は、様々な因縁に依存して生じる。一つの縁が欠けても生じず、一つの縁が滅すれば了知性も滅する。想蘊は生滅変異して無常であり、虚妄であり、苦である。故に想蘊は我ではない。
音を聞く時には想がある。心の中で音を了知し、音の相を執取し、音に関する名言が生じ、想蘊が現れる。これは何の音か、この音はどのような意味か、どのような内包か、良いか悪いか、音が自分や周囲にどのような利害関係があるかを知る。これらはすべて想蘊の範疇に属する。想蘊の生起過程を観察すれば、音を聞く時の想蘊も因縁によって生じる法であり、ある種の因縁に依存して初めて生じるものであることが分かる。因縁が具足しなければ想蘊は現れず、因縁が滅すれば想蘊もそれに伴って滅する。故に想蘊は生滅変異して無常であり、また虚妄・苦である。想蘊は即ち我ではない。
鼻が香りを嗅ぐ時には想がある。鼻識と意識が同時に香塵を了知し、さらに香塵の名言概念を取り、香塵に対して覚観思惟が生じる。鼻識は直接香臭が鼻を刺すかどうかを感知し、意識は香塵の内包を了別し、どの物体から発せられたか、身体にどのような影響があるかを知る。この知は執取であり、香塵の相を執取し、香りの名相を執取する。引き続き後続の覚観と思惟が生じ、様々な考え・見解・知見が生まれる。これが鼻が香りを嗅ぐ時の想蘊である。この想蘊は様々な縁に依存し、如来蔵から生じる。因縁によって生じる法であり、不実の法である。生滅変異する無常の法は空であり、空なるものは苦である。故に想蘊は我ではない。
舌が味を嘗める時の想蘊。舌が味を嘗める時、舌識と意識は酸味か甘味か、苦味か辛味かを知る。知った後、この味塵の名相を執取し、引き続き名言分別・覚観思惟が生じ、様々な心行が現れる。これらはすべて想に属する。これ即ち因縁によって生じる法であり、因縁によって生じる法は即ち空である。故に想蘊は我ではない。
さらに身が触れを覚える時には想がある。身体の様々な覚受に対する了知が想である。例えば今が空腹の状態か満腹の状態か、今が疲労の状態か快適の状態か、足の裏が地面に触れて歩く時の足の感覚などの想を知り、引き続き名言覚観思惟が生じ、一連の思想活動が現起する。これらの思想活動はすべて因縁によって生じる。故に生滅変異して無常であり、虚妄であり、空であり、また苦である。故に想蘊は我ではない。
さらに意識心が単独で想うこと。例えば追憶・計画・打算・妄想・問題思考・事理観察など、これらはすべて意識心の想に属し、進んで名言覚観を生じ、名相を安立する。この独頭意識の想は第八識・意根・法塵などの様々な因縁に依って生じる。故に虚妄無常変異の法であり、苦・空・無我である。
四、如何にして想蘊が不実であるかを観行するか
想自体が生滅無常である。ずっと想い続けさせることは根本的に不可能であり、想う内容を変換せずに一つのことをずっと想い続けることもできない。意識が如何に想おうとも、この事柄を意根が重要でないと感じ、他にもっと重要なことがあると思えば、意識は別のことをするようになり、もう想う心思はなくなる。夜に考えすぎて眠れないのは、すべて意根が事柄を放せず、意識を行ったり来たり考えさせるためである。意根が一旦心を空にして事柄を放てば、意識は直ちに滅して眠りに落ちる。
生滅変異する想は、来るに来る所なく、去るに去る所なし。来る時は跡形もなく、去る時は影もない。どこに想が我であると言えるか。思緒千載の時、思想の念頭を追跡しても、終始その跡を見つけられない。正に思想している時、念頭もまた空である。何が念頭か。何が思想か。念ずる人や事はどこにあるか。想う事理は何方にあるか。思う識心は何か。捉えられず、了々として得る所なし。空空として然り。生滅無常の法は、どうにも説明しがたく、執着しようとしても執着できず、振り返って探しても全く跡形がない。
昨夜枯枝風雨に襲われ、今朝霧露斜陽に照らされる。前世に念念たる故人の情、今生相忘れて陌路と成る。何をか想うべきか。
五、行蘊の観行
行蘊とは、行は六識の身口意の様々な運転施為活動、六識が造作する様々な機能作用を指す。実際には第七識の運行活動も含む。第七識自体の運行活動も自心を遮蔽し、第八識の機能作用を陰蓋するからである。行とは運行・運転・運動である。凡そ動くもの、造作中のもの、様々な作用を起しているもの、変化するものは、すべて行蘊に属する。
身行とは身体内外の一連の活動を指す。身体の外表の活動は他人が発見できるが、内在の活動は他人が発見しにくい。外表の活動には行住坐臥・迎來送往・屈伸俯仰などの肢体の運転施為活動を含む。内在の活動には呼吸、血液循環、心臓脈搏の鼓動、細胞の新陳代謝などが含まれる。口行には言語・音声・文字の表現、内心の様々な覚観などが含まれ、意味のあるものと意味のない言語音声、貪瞋痴性のあるものと貪瞋痴性のない言語音声を含む。意行とは意識内心の様々な思想活動であり、意味のある思考活動と意味のない雑思乱想など、貪瞋痴性のあるものと貪瞋痴性のない心理活動と心所法を含む。
行蘊は具体的に六識の思心所の運行として現れ、生じる思量と択択活動である。六識のすべての心所法の運行は行蘊に属する。目が色を見る時、眼識の種子が一つ一つ送り出された後、眼識の心所法が運行を開始する。一つの心所法が一つの心所法と順番に運行し、眼識には了別分別活動が生じる。これは眼識の行に属する。
耳識の行。音を聞く時、耳識の種子が一つ一つ生まれ、心所法が絶えず運行する。作意の後、さらに触れ、さらに受け、さらに想い、さらに思う。様々な思量と択択が生じ、耳識は絶えず了別分別活動を行うことができる。鼻が香りを嗅ぐ時、鼻識にも行蘊がある。鼻識が一つの識種、一つの識種を送り出し、鼻識は常に了別活動を行い、心所法が絶えず運行する。舌識の行蘊。味を嘗める時、舌識が一つの識種子、一つの識種子を生み出し、舌識の心所法が常に絶えず運行し、思量と択択が生じ、絶えず味塵を了別する活動を行う。
身識の行蘊には識種子の出力、心所法の運行が含まれ、身識は常に様々な触塵を了別し、思量と択択を生じる。意識心の行蘊には識種子の出力、心所法の運行が含まれ、意識自体が絶えず行う了別識別活動が含まれる。これらの活動を構成するのは識種子の運行である。故に如何なる活動も、すべて生滅虚妄であり、すべて我ではない。
六、識蘊の虚妄を観行する
識蘊とは六つの識の識別性・了別性である。例えば眼識が色を見る機能は、眼識の色塵に対する了別・分別作用であり、即ち眼識の識蘊である。六識が六塵万法を分別する機能作用、六塵を了知する機能作用を識蘊といい、六塵を分別する全過程が識蘊の運行過程である。
六識の分別が生じる前提条件は:第一に、六根が存在し、かつ六根が正常で損傷や異常がないこと。第二に、内六塵が存在すること。第三に、意根が六塵に作意し、六塵を了知しようとすること。この時六根と六塵が触れ合い、第八識は六識を生じる。六識が生まれると同時に、五遍行心所法はこの六塵上で運行を開始する。
実際には、六識が生まれようとする時の種子位で、すでに六塵の境界に作意している。その後六識が生まれて六塵に触れ、最後に思心所が六塵境界を確定し、決定心を生じる。最後の決定が生じた後、六識の当面の六塵境界に対する了別は終了し、注意力は他の六塵境界に移り、引き続き分別了別活動を行う。もし六識が同時に複数の目標を了別すれば、注意力が分散し、六識は専注できず、定力は現れない。このように六識の了別慧は不足し、了別性は弱く、了知が不明瞭で、誤りを犯しやすい。定力が強く訓練を積んだ者でなければ一心多用、一心多能はできない。故に六識の集中力を訓練すれば智慧が生じる。
六識及び第七識は、すべて第八識が送り出す識種子によって生み出される。これらの識種子が一つ一つ送り出されると、六・七識心が形成される。六・七識心が形成されると同時に運行を開始し、了別分別の作用を起こし、あらゆる境界を了知できる。識心もまた識種子が刹那刹那に生滅して生み出された識であり、水流のようなものである。一滴の水、一滴の水が水流を形成する。水流を識流六・七識に例え、一滴の水を一つの識種子に例える。また識種子を電子に例えることもできる。電子は形も相もなく我々には見えないが、スイッチを入れると電子が一つ一つ送り出され、前後に並んで電流が形成される。電流が電球を通ると、灯りが点き、電子の機能作用が現れる。
これらの識種子が第八識によって一つ一つ送り出されると識流が形成され、六識が現れる。そして六塵を分別する機能作用が生じる。識種子が一つ生まれては滅び、第八識に戻り、次が生まれては滅び、また第八識に戻る。連続して絶えず生滅することで六識が形成され、心所法がこれに配合して了別性が生じる。六識の了別は本質的に断続的な了別である。ただ流転が速すぎるため、その中の断滅現象を発見できない。
電子のように、一つの電子が生まれては滅び、また一つの電子が生まれては滅び、このように連続して絶えず電流が形成される。電流は表面的には連続しているように見えるが、実際には断続的である。ただ生滅が速すぎて、その中の断滅現象を発見できない。しかし電流が弱くなる現象は発見できる。電子の出力がやや遅くなると、電子の数が少し減少し、電流は変化する。
水流もまた同様である。水滴の出力が少なくなったり水流が分流したり、あるいは送り出す速度が遅くなると、水流は弱まり、流速は遅くなる。同様に、もし六識が異なる六塵境界のすべてに作意し触れようとすれば、識の分別性は弱まる。水が分流するように、水流の勢いは弱まる。識種子が分流すると、識別の勢いは弱まり、了別性は弱まり、智慧は劣る。我々が禅定を修行するのは、六識を一つの境界に専注させ、一箇所に作意し、一箇所にのみ触れさせるためである。こうして識は分流せず、勢いは強大になり、分別性は強まり、智慧は高くなる。
我々は六識の虚妄を観行し、引き続き識心の我見を断除するには、識心の虚妄性・無常性・識種の刹那生滅性を思惟しなければならない。識心の虚妄無常を観行するには、六識心の無常を観なければならない。識種子が形成する識は、水滴が形成する水流のようなものである。水滴が速く絶えず流れ出て循環流注し、連続して絶えない水流を形成する。もし実在の水流があると認めれば、一種の錯覚であり、水流の仮相に騙されている。識種子が一つ一つ速く流注して識を形成し、連続して絶えない識心分別があると認めることは、実際には一種の錯覚である。この理を深く考えれば、識心を我とする邪見を断除できる。
識心の刹那刹那の生滅性を観行する。連続して絶えないように見える分別了別の作用を形成する。識心のこの分別了別の作用は虚妄であろうか。もちろんすべて幻化して実体がなく、真実の分別性はない。識心および識心の分別機能作用は、断滅すると言えば断滅し、生滅変異して無常であり、虚妄であり、因縁がある。因と縁があれば識は生じ、因縁が滅すれば識種は生じなくなり、識は消失する。故に六識は真実の我ではない。
第八識が識種子を流注しなければ、六識には了別作用がなく、目があっても色が見えず、耳があっても音が聞こえない現象が現れ、一切法を了別できなくなる。我々は普段、六根が六塵に触れる所、六識が六塵を了別する所で観行できる。この一切法を了知できる識心の虚妄性・生滅性・無常性・無我性を観行する。こうして識心が我である、真実である、永遠に存在するという邪知邪見を断除し、こうして識心の我見を断つ。これにより識心は我ではなく、識心の機能作用も我ではなく、すべて真実ではなく、すべて虚妄であることが分かる。我々が一切の事物を感受する心、一切の事物を了別する識心、この識心が造る身口意行を含め、すべて虚妄・無常・空であり、すべて無我である。
七、識心が何故無常か
第一に、識心は念念として流転して留まらず、刹那刹那に生滅し、識の種子によって形成される。例えば電流は一つの電子、一つの電子が相続して絶えず生滅流転し、一種の流動性を形成する。この流動性が電流であり、光を生み発光する機能作用がある。識心もまた同様で、一つの種子、一つの種子が流れ出て識心流を形成する。最初の種子が流れ出て滅び、二番目の種子が同じ位置で流れ出て滅び、三番目の種子が流れ出て滅び、こうして識流が形成され、識の分別性が生じる。最初の識種子が出て六塵に触れるが、はっきり分別できない。二番目の識種子が出て引き続き分別するが、まだはっきり分別できない。三番目の種子が出て、ややはっきり分別できる。種子が流れ出るほど多く、分別はよりはっきりする。
これらの種子は第八識の中に存在し、第八識によって送り出される。目が色を見る時、初めはあまりはっきり見えず、しばらく見て初めてはっきり分かる。六識の分別はすべてこのようである。仏は一弾指の間に八万一千の生滅種子が流注すると説かれた。一つ生まれては滅び、また一つ生まれては滅び、このように連続して絶えず一種の種子流を形成し、識心は初めて一切法を分別できる。故に識心は刹那生滅であり、無常である。無常なるものは我ではない。
第二に、識心は五つの状況下で滅びる:眠って夢がない時、昏倒した時、死亡した時、無想定に入った時、滅尽定に入った時。この五つの状況下では見聞覚知性がなく、識心の分別がない。識心が滅び得る以上、無常・変異であり、苦である。故に我ではない。
第三に、識心は無から有へ生じ、本来から存在するものではない。六根が六塵に触れる時、第八識が六識を生み出し、その後六塵を分別する。識心が生み出された以上、本来からあるものではなく、虚妄・無常・苦・変異であり、我ではなく、我性がない。
第四に、衆生の識心は常に変化して定まらない。さっきまで好きだったものがしばらくして嫌いになり、さっきまで得意に思っていた考えがしばらくして変わり、さっき決めた計画がしばらくして取り消される。心念は常に変化して止まず、考えは常に絶えず変わる。一つの妄想が生まれては滅び、後の念が前の念を否定する。口にした約束は実現が難しく、喜怒哀楽は無常で、計画打算は常に変わる。自分でも自分の心を捉えられず、自分が結局何をしたいのか、どうしたいのかも分からず、他人はなおさらその心思を掴めない。この心は観察すればするほど無常で頼りにならないと感じる。故に識心は真実でなく、真実で頼りになり依存できる我ではない。こうして識心の虚妄の観行は完成し、意根が三昧の中でこの理を認めれば、識心を我とする邪見を断ったことになる。
八、識蘊の観行
五蘊(受・想・行・識)中の識蘊を観行するには、識種子が七つの識の機能作用を生成することを観行し、六つの識の機能作用を主とする。受・想・行・識の識種子が出力された後、六識が形成される。その後初めて六つの識の様々な機能作用が生じる。六識が生まれた後、受覚があり、その後識覚の分別作用があり、さらに行覚があり、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊のすべての機能作用がある。具体的にどのような機能作用があるか、自ら逐一仔細に観察し、一つも見逃してはならない。識種子が生まれた後、識心にはこれらの作用があることを知らなければならない。これは重要である。観察が明らかであれば、大小乗ともに悟りを証することができる。
識蘊の中では主に受の虚妄性を観察する。五蘊はやはり受蘊を主とし、衆生は皆自らの覚受を真実と見なし、覚受を中心として五蘊の身口意活動を展開する。この受覚が如何に不実・生滅・空・苦・我ではないかを観察する。その後さらに下って想蘊と行蘊を観察する。想蘊とは執取・取相であり、心上に相を取り、了別分別、あるいは様々な思想思惟である。行蘊とは、識があれば行がある。識は必然的に運行するからである。識が運行した後、初めて受・想があり、分別の機能作用がある。識種子が識を形成するこの内容を観察し明らかにすれば、大小乗の法はすべてここで証され、将来悟りを証する智慧は非常に深くなる。悟りが開ければ一気に唯識に悟り入り、この悟りは禅宗の悟りよりもはるかに深く透徹する。識に悟り入れば、智慧は非常に深く、将来速やかに唯識の種智を具えることができる。
九、凡そ生滅変異するものはすべて我ではあり得ない
識種子が生まれて初めて五蘊の機能作用がある。生まれなければ五蘊の機能作用はない。ではこの五蘊の一切の機能作用は真実であろうか。我であろうか。我はこのように限定され、主宰されているのか。我は生々滅滅して定まらないのか。このように捉えどころのない五蘊の機能作用が、真実の我であり得ようか。飯を食わなければ生きられず、飯を食わなければ餓死する五蘊が、我であり得ようか。空気があれば生命活動を維持でき、空気がなければ生命活動が停止する五蘊が我であり得ようか。気血を補給すれば歩行坐臥ができ、気血がなければ硬直して木のようになる五蘊が、様々な因縁条件に厳しく限定された五蘊が我であり得ようか。このように自在でなく自主的でない五蘊の身に、何を貪愛し宝愛すべきか。
色身の中の四大種子は刹那刹那に生滅変異し、身体中の細胞は刹那に更新代謝する。短時間で細胞組織は更新を完了し、身体中の血液はすべて更新され、以前の血液ではなくなる。内臓器官も一定期間で完全に更新され、全身の組織器官および筋肉腱組織などもすべて更新変異し、最後に身体中の骨格もすべて更新される。身体全体が内から外へ、上から下へ、すべて変化し、以前の身体ではなくなる。故に我々の容貌は常に変化し、一定の年齢段階に至ると、その外貌は若い時とは大きく異なり、同じ所が全く見られないこともある。すべての人は子供の時とは完全に異なり、その中で重大な病患を経験した者は、外貌も健康状態も完全に異なり、同じ人とは見られない。このような身体がどうして自分であり、どうして他人であろうか。
では仔細に思惟観行する時、智慧ある者は、このような身体を真実として自分とは認めず、固執してこれが我であると信じ、執着し貪愛することはない。多くの人は明らかに知っている。このような身体は全く捉えどころがなく、全く制御できない。ではなぜ注意と精力を、我々が少しは捉えられ、種子に保存して後世にも受用できる精神領域に移し、できる限り自らの般若智慧を高めようとしないのか。
十、阿頼耶識は識蘊に属さない
仏は『雑阿含経』の中で、五蘊十八界を衆生と言い、この衆生は苦・空・無常であり、真実の我ではないと説かれた。四聖諦の理を証得し、五蘊が苦・空・無常・無我であることを証得すれば我見を断ち、一分解脱の功徳受用を得る。無我を証得するには、この五蘊の功徳作用を深甚な禅定の中で否定し、この五蘊の作用を真実と見なさず、我および我のものと見なさなければ、我見を断ち、三悪道の業は同時に消滅する。
阿含経に説かれる識蘊とは、六つの識の機能作用であり、生滅変異するもので、阿頼耶識を指すものではない。識蘊の蘊とは遮蔽作用を指し、七識心を遮蔽し、六識の功徳のみを認めてすべて阿頼耶識の功徳作用であることを知らない。阿頼耶識は自心を遮蔽しないため、識蘊に帰属しない。外道たちは皆、自らに不生不滅の自性清浄心があることを知らず、識蘊を真実の我と見なし、真実の法身仏如来蔵阿頼耶識の存在を認めないため、生死輪廻の苦を免れることができない。
識蘊自体に識別の機能があり、識蘊の受・想・行・識の機能も四蘊と言い、四蘊に色蘊を加えて五蘊と言う。色蘊とは、母胎から老死に至るまでの身体である。受蘊とは六塵境界の苦・楽・憂・喜・捨を感受できる受であり、七識心が真相を認識するのを遮蔽する。想蘊とは了別・取相・執取であり、心上に相を取って了別し、例えば名前・概念などの分別をし、その後心に取着を生じる。これが想蘊であり、七識心が実相を認識するのを遮蔽する。行蘊とは、行は動くという意味である。絶えず生滅変異流転造作することは動くことであり、行である。これも七識心が真理を認識するのを遮蔽する。
要するに、識蘊は六識の機能作用であり、六識は生滅する。識蘊は必ず生滅する。阿頼耶識は不生不滅であり、識蘊に属さない。阿頼耶識も識と呼ばれるが、その識別性と六識の識別性は完全に異なり、両者は混同してはならない。
十一、受を以て我とする表現
様々な我見の中で、受蘊を我とする者が最も多い。多くの者が受蘊を重視し、覚受のために業を造り、面子のために苦しみを受ける。即ち識心の覚受のために色身を苦しめる。歴史の中で名を残すために死んだ者は大勢いる。名を千古に垂れると言う。義気のために死に、面子のために死に、虚栄のために死に、名誉のために死に、……のために死ぬ。皆我見の深い者である。これらの者は皆識心を我とし、識心への執着は色身への執着よりも深刻である。我執が断じ尽くされた時、識心覚受への執着性が初めて断じ尽くされる。しかし習気は時折現れることがある。
衆生が受蘊を我とし、受蘊に執着するため、内心の感受のために貪愛と瞋恚が生じ、無量無辺の罪業を造る。もし受蘊を我とせず、受蘊に執着せず、適意の感受に貪着せず、不適の感受に厭逆しなければ、貪愛と瞋恚は生じず、また悪業を造って自ら知らないこともない。娑婆世界の衆生の最も顕著な特徴は貪欲・瞋恚・愚痴であり、欲界人間の最も普遍的な煩悩は貪欲である。仏法を修学し、因果を多少理解し、貪欲が生死に沈淪する禍根であることを知っていても、業障が深重であるため、やはり貪欲を降伏できない。在家であれ出家であれ、一切の煩悩の降伏はあまりにも難しい。無量劫の生死の熏染の中で、習気が深く根を下ろし、揺るがすのが難しいからである。
十二、定中の意識心もまた生滅法である
仏法の中で最も基礎的な小乗仏法は、苦・集・滅・道の四聖諦の理であり、五蘊の苦患を観察し、五蘊苦の集諦を明らかにし、五蘊苦の滅諦を知り、五蘊苦を滅する道諦を修する。その後逐一五蘊の苦・空・無常・無我性を観行し、内心深く真に認めれば、初めて我見を断ち初果を証し、三悪道の業はこれで消滅する。仏の教理に依って智慧で観行する。その中には戒律の修行も離れず、禅定の修行および福徳因縁も離れない。
観行する時、主に識蘊の虚妄が観行しにくい。特に意識心は深く細かく、また広範である。もし意識心の機能作用をすべて観行し、その後逐一否定し、これらの識心作用の虚妄を証得することは容易ではない。もし六識心の体性を深く細かく了知し、その後識心のすべての作用を禅定の中で観行できれば、我見を徹底的に断つ自信が持てる。
意識心の境界は非常に広範である。一般の修行者は散乱や煩悩を起こす意識が生滅虚妄であることを容易に知るが、往々にして意識が定に入って深く細かく清浄になり、妄想を起こさず、念頭がない時でさえ、なお生滅虚妄の意識であり、真実の我ではないことを知らない。これは意識の定境であって、不変の真心の境界ではない。境界である以上、境界は法塵境である。法塵境は意識心が分別する対象である。自らが定境に入ったことを知るこの知は意識心であり、生滅法であって、我ではなく真実ではない。なぜなら定から出れば定境はなくなり、念頭が再び生じるからである。このように変化があり生滅する法は虚妄法であって、真実で不変異の法ではない。
六祖は言われた:那伽は常に定中にあり、定まらざる時なし。真心は永遠に定中にあり、出定も入定もなく、増減変化がない。仏は『楞厳経』の中でも言われた:内に閑を守るも、猶お是れ法塵分別の影事なり。仏が言われたのはこのような入定の状況である。仏陀はすでに後世の衆生が真偽を識別しにくいことを予見され、特に末法時期には衆生の福徳が薄く邪見が熾盛で真偽を認め識別できないため、世尊は特に楞厳経の中で専ら提示し、後人を警告された。定中の意識境界も虚妄であることを認めて初めて、我見は断じ尽くされる。もし定中の意識を不生不滅の真心と認めれば、大小乗の果位は証得できず、なお生滅の識心を我とする凡夫である。
十三、意識の生滅変異する運行に自主性はない
問:意識が法塵を了別した後は滅びるか。昼間は法塵が絶えず変化し、起きたり滅びたりする。意識が睡眠していない状況では、ただ五俱意識と独頭意識が法塵に従って絶えず変換するだけで、睡眠して夢がない時に初めて滅びるのか。
答:意識が一つの法塵を了別し、この内容の運行を終えると、この法塵上で消失する。意根の指揮に従い、別の一箇所、二箇所の法塵で生まれ了別運行し、その後再び滅び、別の所で再び生じる。意識はこのように意根の攀縁に従い、絶えず生々滅滅し、少しの自主性もない。故に意識はあまりにも虚妄で実体がなく、全く我および我のものではない。このような意識を我と認めてはならない。