五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
五陰 (pañca-skandha) とは色陰・受陰・想陰・行陰・識陰である。色陰とは色身の機能作用であり、受想行識の四陰とは六識の機能作用であり、合わせて五陰となるが、色陰もまた六識の作用から離れることはできない。
<h4 style="text-indent: 2em;">一、六識の三種の受の無我を観行する</h4>受陰とは六識の感受であり、苦受・楽受・不苦不楽の三種の感受を含む。眼識には受があり、耳識には受があり、鼻識には受があり、舌識には受があり、身識には受があり、意識には受があり、六識はいずれも受を持つ。たとえば眼で一つの色相を見るとき、仏像を見ようが、花を見ようが、どんな色相を見ようとも、眼識には受があり、光が暗いか眩しいか、色塵が見て心地よいかなど、意識心にも受があり、心地よいかどうか、好きか嫌いか、あるいは捨受 (upekṣā-vedanā) である。眼が太陽光を見たとき、眼識には感受があり、あまりに眩しいと感じて避けようとするか、あるいは比較的穏やかで心地よいと感じて好きになり貪愛する。これが眼識の苦受・楽受・不苦不楽の捨受である。仏像を見るとき、眼識は仏像の色彩と光沢を見るのを好み、仏像の形態を見るのを喜び、意識心が三十二相八十種好を分別すると、崇敬と喜びの感受が生じる。
苦受とは好まない受であり、内心に苦悩を感じる受である。楽受とは好きで心地よい感受である。不苦不楽受とは淡々としていて好きとも言えず嫌いとも言えない受であり、意に介さない一種の心境であり、捨受である。これが眼で色を見るときの受である。受陰は意識心の感受が主であり、意識心が了別する内容は比較的広範で、細やかで、深遠であり、内包が比較的豊富であるため、意識心の受は観察しやすい。眼で色を見るときの感受は因縁所生法であり、生滅変異無常である。それゆえ虚妄で、真実でなく、幻化したものであり、生滅変異無常のものは苦であり、苦なるものは我ではない。それゆえ受陰は我ではない。
耳で音声を聞くときには受があり、耳識心が特に耳障りだと感じて苦受を生じ、その後避けようとするか、あるいは特に柔らかだと感じて喜楽と貪愛を生じる。これが楽受である。音声を聞くとき、意識心にも受があり、音声が騒がしいと感じれば苦受を生じ、柔らかだと感じれば楽受を生じ、あるいは音声に特別な意味がないと感じれば不苦不楽受を生じる。意識心が音声の内包が雅でない、あるいは攻撃性を帯びていると感じれば苦受を生じて聞くのを好まず、賛美の言葉や興味のある内容、柔らかな音楽であれば楽受を生じて聴くのを好む。
意識心も苦受・楽受・不苦不楽受に分かれ、耳識心も苦受・楽受・不苦不楽受に分かれる。好きなものには楽受を生じ、好きでないものには苦受を生じ、あるいは苦楽の両辺を離れた捨受となる。ときには音声を聞いてもどうでもよく、好きとも嫌いとも感じず、聞いてもよし聞かなくてもよし、どちらでもよく、聞くのと聞かないのと同じである。これが不苦不楽の捨受であり、これが耳で音声を聞くときの感受である。
受陰の虚妄を観行するとき、この感受がどのような因縁の聚合によって生じたのかを観察しなければならず、因縁の聚合によって現れるものは虚幻である。音声があり、耳根があり、耳識があり、第八識があり、意根があり、種子があり、これらの因縁が聚合して初めて音声を聞くことができ、感受が生じる。それゆえ識心の音声に対するいかなる感受も虚幻であり、すべての感受は生滅変異無常であり、因縁所生の法は空である。それゆえ受陰は我ではない。これらの感受は、観行の果てにはすべて苦受であり、苦なるものは我ではない。それゆえ受陰は我に非ずである。
鼻が香を嗅ぐとき、鼻識心と意識心のいずれにも感受があり、苦を感受し、楽を感受し、不苦不楽を感受する。たとえば香気を嗅いだとき、良い香りだと感じれば心に喜心が生じる。ここには意識心の楽受もあれば、鼻識心の楽受もある。匂いが不快だと感じれば厭悪の苦受が生じる。ここには意識心の苦受もあれば、鼻識心の苦受もある。匂いが中性的で、香くも臭くなく、心は好きとも言えず嫌いとも言えず、どうでもよいと感じるなら、これが不苦不楽の捨受である。
これが鼻が香を嗅ぐときの感受であり、苦楽憂喜捨の五種の受があり、あるいは三種の受(苦受、楽受、不苦不楽受)と言える。鼻が香を嗅ぐときの受陰の虚妄を観察するには、この受陰がどのように生じたのか、生じた前提条件と因縁が何であるのかを観察しなければならない。鼻が香を嗅ぐときの感受が様々な因縁条件のもとで生じ出されたものである以上、受陰は本来有るものではなく、生滅変異無常であり、虚妄であり、すなわち苦である。それゆえ受陰は我ではない。
舌が味を嘗めるときには受があり、苦・楽・不苦不楽の三種の感受を生じる。口腔に食物があるときもないときも受がある。食物がないとき口腔内の味は通常淡く、すでに慣れているのでどうとも感じず、好きとも嫌いとも言えない。これが不苦不楽の捨受である。上火(のぼせ)のとき、口腔内に苦味を感じ、この苦味を舌識心は好まず、意識心も好まない。これが苦受である。座禅のとき津液が口腔に流れ込み、舌識は口中の津液の甘味を好み、意識も好み、両者とも楽受がある。
ある飲食物を味わうとき、舌識と意識は好きな飲食物には楽受を生じ、好きでない飲食物には苦受を生じ、好きとも嫌いとも言えない飲食物には捨受となる。修行人は味塵を貪らず、飲食物に対してしばしば捨受を生じ、味塵の良し悪しを意に介さず、腹一杯になればよいとする。これが修行人の一種の心境である。味がどうであれ何でもどうでもよく、えり好みせず、選り分けず、好まず厭わない。これが修行人の捨受である。これらの感受は因縁所生法であり、いずれも生滅変異無常で虚幻であり、いずれも苦であり、苦なるものは我に非ず。それゆえ受陰は我に非ずである。
身が触に覚知するときには三種の受があり、身識と意識のいずれにも感受がある。たとえば歩いて疲労困憊を感じるとき、身体の内外の様々な感受が快適か不快か、温かいか温かくないか、暑いか寒いか、渇いているか空腹かを、身識と意識はともに知ることができ、それゆえ苦受・楽受・不苦不楽の捨受が生じる。修行人はあらゆる感受をあまり意に介さず、この身体がどうであれよく、疲れてもよく、寒くてもよく、暑くてもよく、空腹でもよく、渇いてもよく、様々な状況に耐えることができ、どうでもよいと感じる。これが修行人の捨受の心境である。これらの感受はいずれも因縁所生法であり、いずれも生滅変異無常であり、いずれも虚幻であり、いずれも苦であり、苦なるものは我ではない。それゆえ受陰は我に非ずである。
さらに独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) の受がある。散位独頭意識において、意識が思慮・回想するとき、苦受・楽受・捨受を生じる。夢の中で様々な夢を見るときも、様々な苦受・楽受・不苦不楽の覚受を生じる。定の中では、ある種の定境が現前したとき意識心がそれを覚知すれば覚受が生じるが、この覚受は多くの場合愉悦で快適で軽安な楽受であり、四禅以上は捨受であり、欲界定の中にもいくらかの苦受がある。これらの感受はいずれも因縁所生法であり、いずれも生滅幻化で不実であり、無常で空である。楽受はあるが、楽受が過ぎれば苦を感じる。それゆえ一切の受は苦受であり、それゆえ受蘊は我ではない。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、覚受をいかに対治するか</h4>受陰は、六塵の境界に触れて境界に対し了知性を持ち、甘いと知り、痛いと知り、景色だと知り、匂いだと知り、音声だと知った後、苦受・楽受・不苦不楽の感受が生じる。このとき初めて受陰が現れる。六識は六塵に対して作意し、その後触し、その後領受・領納し、その後想・了別・知し、その後感受として受陰を感じ、その後思し、抉択・決定し、行陰が造作する。
日常生活の中で、自分の様々な覚受を細かく点検し、自分が何を貪愛しているのか、何に意を介し、何に心思と精力を費やしているのかを点検する。点検し出した後、これがどのような心理であるのか、どのような意味があるのか、結果は何であるのかを分析しなければならない。そして自分の貪愛と覚受を対治する方法を考える。しばしばこのように行えば、修行上の障礙を払い除くことができ、道業の進歩は速くなる。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、想陰の無我を観行する</h4>想陰とは、想とは心の上に相が生じ、この相を了知し、この相を執取 (upādāna) し、さらに名言と覚観 (vitarka-vicāra) を生じることである。たとえば目の前の壁を見れば、これが壁だと知る。眼識と意識が壁という相を執取し、壁に関する言語文字と考え・見解を生じる。これを想と呼ぶ。了知・覚観などの心理活動と機能作用を想陰と呼ぶ。
想はいつ現れるのか。想陰は六想身であり、六根が六塵に触れるときにはいずれも想陰が現起する。眼で色を見るときには想があり、たとえば眼が仏像を見れば仏像だと了知し、仏像として取着し、さらに仏像に関する言語文字を生じる。この了知には、眼識の了知と意識心の了知がある。眼で色を見るときの想陰と了知性は、様々な因縁に依拠して出生するものであり、一つの縁でも欠ければ出生できず、一つの縁が滅すれば了知性も滅する。想陰は生滅変異無常であり、虚幻であり、苦である。それゆえ想陰は我に非ずである。
音声を聞くときには想があり、心は音声を了知し、音声の相を執取し、音声に関する名言を生じる。想陰が現れるのである。これはどのような音声か、この音声はどのような意味・内包を持つのか、良いのか悪いのか、音声が自分や周囲にどのような利害関係を持つのかを知る。これらはすべて想陰の範疇に属する。想陰の出生過程を観察すれば、音声を聞くときの想陰もまた因縁所生法であり、ある種の因縁に依拠して初めて生起するものであり、因縁が具足しなければ想陰は現れず、因縁が滅すれば想陰もそれに従って滅することが分かる。それゆえ想陰は生滅変異無常であり、虚妄で苦であり、想陰は我に非ずである。
鼻が香を嗅ぐときには想があり、鼻識と意識が同時に香塵を了知し、さらに香塵の名言概念を取り、香塵に対して覚観思惟を持つ。鼻識は香臭の味が鼻をつくかどうかを直接感知し、意識は香塵の内包を了別し、どのような物体から発散されたものか、身体にどのような影響があるのかを知る。この知こそが執取であり、香塵の相を執取し、香味の名相を執取したのである。続いて後続の覚観と思惟があり、様々な考え・見解・知見が生じる。これが鼻が香を嗅ぐときの想陰である。この想陰は様々な縁に依拠し、如来蔵 (tathāgatagarbha) によって出生するものであり、因縁所生法であり、実在しない法であり、生滅変異の無常法は空であり、空なるものは苦である。それゆえ想陰は我に非ずである。
舌が味を嘗めるときの想陰は、舌が味を嘗めるとき舌識と意識が酸味か甘味か、苦味か辛味かを知ることである。知った後、この味塵の名相を執取し、続いて名言分別・覚観思惟があり、様々な心行が現れる。これらはすべて想に属する。これすなわち因縁所生法であり、因縁所生法はすなわち空である。それゆえ想陰は我に非ずである。
さらに身が触に覚知するときには想があり、身体の様々な覚受に対する了知が想である。たとえば今が空腹の状態か満腹の状態かを知り、今が疲労の状態か快適の状態かを知り、足の裏が歩行で地面に接触するときの足の感覚を知るなどの想があり、続いて名言・覚観・思惟があり、一連の思想活動が現起する。これらの思想活動はいずれも因縁所生であり、それゆえ生滅変異無常であり、虚幻であり、空であり、苦でもある。それゆえ想陰は我ではない。
さらに意識心自身の単独の想がある。たとえば回想・計画・打算・妄想・問題の思考・事理の観察などは、いずれも意識心の想に属し、さらに名言と覚観を生じ、名相を安立する。この独頭意識の想は、第八識・意根・法塵などの様々な因縁に依拠して生起するものであり、それゆえ虚妄無常変異の法であり、苦で、空で、無我である。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、想蘊が真実でないことをいかに観行するか</h4>想そのものは生滅無常であり、ずっと想い続けさせることは根本的にできず、想の内容を転換させず一つのことを想い続けさせることもできない。意識がどのように考えようとも、意根が一度その事柄を重要でないと感じ、より重要なことがあると感じれば、意識は別のことをしなければならず、もう想う心持ちはなくなる。夜想いすぎて眠れなくなるのは、意根が事柄を手放せず、意識にあれこれ考えさせるからであり、意根が一度心を空にして事柄を手放せば、意識はたちまち滅して眠りに落ちる。
生滅変異の想は、来たるところなく、去るところなく、来るときに踪なく、去るときに影がない。どこに想が我であるのを見出せるのか。思いが万千に及ぶとき、思想の念頭を追跡しても、終始その踪跡を見出すことができず、まさに考えているとき、その念頭もまた空である。何が念頭か。何が思想か。念じている人事はどこにあるのか。想っている事理はどの方角にあるのか。思っている識心は何であるのか。掴めず、了無所得で、空空たるのみ。生滅無常の法は、はっきり言い表すことができず、執着しようにも執着できず、振り返って探しても、何の踪跡もない。
昨夜は枯枝に風雨が襲い、今朝は霧露に斜陽が照る。前世には念念に故人の情があり、今生では相忘れて陌路となる。何を想うことがあろうか。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、行陰の観行</h4>行陰とは、行とは六識の身口意の様々な運転施為の活動、六識が造作する様々な機能作用を指す。実は第七識の運行活動も含まれる。なぜなら第七識そのものの運行活動もまた自心を遮蔽し、第八識の機能作用を陰蓋するからである。行とは運行・運転・運動であり、動いているもの、造作の中にあるもの、様々な作用を起こしているもの、変化しているものは、いずれも行陰に摂される。
身行とは身体の内外の一連の活動を指す。身体の外表の活動は他人が発見できるが、内在の活動は他人が発見しにくい。外表の活動には行住坐臥、迎え送り、屈伸俯仰などの肢体の運転施為の活動が含まれ、内在の活動には呼吸、血液循環、心臓の脈拍の動き、細胞の新陳代謝などが含まれる。口行には言語・音声・文字の表現、内心の様々な覚観などが含まれ、意味のある言語音声と意味のない言語音声、貪瞋痴の性を持つ言語音声と持たない言語音声が含まれる。意行とは意識内心の様々な思想活動であり、意味のある思考活動と意味のない雑思乱想などが含まれ、貪瞋痴の性を持つ心理活動・心所法と持たない心理活動・心所法が含まれる。
行陰は具体的には六識の思心所の運行として現れ、生起する思量 (manasikāra/manana) と抉択の活動である。六識のすべての心所法の運行は行陰に属する。眼で色を見るとき、眼識の種子が一つ一つ輸送された後、眼識の心所法が運行を開始する。一つの心所法がまた一つの心所法が交替で運行し、眼識には了別・分別の活動が生じる。これが眼識の行である。
耳識の行は、音声を聞くとき、耳識の種子が一つ一つ生じ、心所法が絶えず運行し、作意した後、また触し、また受し、また想し、また思し、様々な思量と抉択を生じ、耳識は絶えず了別・分別の活動を行うことができる。鼻が香を嗅ぐとき、鼻識にも行陰があり、鼻識は一つの識種また一つの識種と輸送され、鼻識は絶えず了別活動を行い、心所法が絶えず運行する。舌識の行陰は、味を味わうとき、舌識は一つの識種子また一つの識種子と生じ、舌識の心所法は絶えず運行し続け、思量と抉択を生じ、絶えず味塵を了別する活動を行う。
身識の行陰には識種子の輸出、心所法の運行が含まれ、身識は絶えず様々な触塵を了別し、思量と抉択を生じる。意識心の行陰には識種子の輸出、心所法の運行が含まれ、意識そのものが絶えず行う了別・識別の活動がある。これらの活動を構成するのは識種子の運行であり、それゆえどのような活動であれ、生滅虚妄であり、いずれも我に非ずである。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、識陰の虚妄を観行する</h4>識陰とは六つの識の識別性・了別性である。たとえば眼識が色を見る機能は、眼識が色塵に対して行う了別・分別の作用であり、これが眼識の識陰である。六識が六塵万法に対して行う分別の機能作用、六塵を了知する機能作用を識陰と呼び、六塵を分別する全過程が識陰の運行過程である。
六識の分別を生じさせる前提条件は、第一に、六根の存在がなければならず、しかも六根が正常で、損傷や異常がないこと。第二に、内六塵の存在がなければならないこと。第三に、意根が六塵に対して作意し、六塵を了知しようとしなければならないこと。このとき六根と六塵が相触れ、第八識は六識を出生させ、六識が出生すると同時に、五遍行心所法がこの六塵の上で運行を開始する。
実際には、六識がまさに出生しようとするときの種子位において、すでに六塵境界に対して作意しており、その後六識が生まれて六塵に触れ、最後に思心所が六塵境界を確定し、決定心を生じる。最後の決定が生じた後、六識の当下の六塵境界に対する了別は終わり、注意力は他の六塵境界に移り、分別・了別の活動を継続する。もし六識が同時に複数の目標を了別すれば、注意力が分散し、六識は専注できず、定力は現れない。このように六識の了別慧が不足し、了別性が弱く、了知が不明瞭であれば、誤りを犯しやすい。定力が強く、訓練を積んだ人だけが一心多用・一心多能ができる。それゆえ六識の専注力を訓練すれば智慧が生じる。
六識および第七識は、いずれも第八識が輸送する識種子から生じたものである。これらの識種子が一つ一つ輸送されて六七識心が形成され、六七識心が形成されると同時に運作を開始し、了別・分別の作用を起こし、一切の境界を了知することができる。識心もまた識種子の刹那刹那の生滅から生じた識であり、水流のように、一滴の水また一滴の水が水流を形成する。水流はたとえば識流である六七識であり、一滴の水また一滴の水はたとえば識種子であり、識種子を電子にたとえることもできる。電子は形も相もなく、我々には見えないが、電源スイッチを入れると、電子が一つ一つ輸送され、前後順序よく出て、電流が形成される。電流が一たび電球を通れば、灯りがともり、電子の機能作用が顕現する。
これらの識種子は第八識によって一つ一つ輸送されて識流を形成し、六識が現れ、六塵を分別する機能作用が生じる。識種子は一つ生じて滅し、第八識の中に戻り、次の一つがまた生じて滅して第八識の中に戻り、連続不断の生滅が六識を形成し、心所法がそれに配合して了別性が生じる。六識の了別の実質は断続的な了別であり、ただ流転が速すぎるため、我々はその中の断滅現象を発見できない。
電子のように、一つの電子が生じて滅し、また一つの電子が生じて滅し、このように連続不断で電流が形成される。電流は表面から見れば連続しているように見えるが、実際には断続的であり、ただ生滅が速すぎるため、我々はその中の断滅現象を発見できない。しかし電流が弱まる現象は発見できる。電子の輸出がやや緩慢になると、電子の数がいくらか減少し、電流に変化が生じる。
水流もまた同様である。水滴の輸出量が減ったり、水流が分流したり、輸送速度が遅くなったりすれば、水流は弱まり、流速は遅くなる。同理に、もし六識が異なる六塵境界のいずれに対しても作意し触れれば、識の分別性は弱まり、水が分流されて水流の勢力が弱まるのと同じである。識種子が分流された後、識別の勢力は弱まり、了別性は弱く、智慧は劣る。我々が禅定を修行するのは、六識を一つの境界に専注させ、一処に作意し、一処にのみ触れさせることであり、こうすれば識は分流せず、勢力は強大になり、分別性は強く、智慧は高くなる。
我々が六識の虚妄を観行し、続いて識心の我見を断除しようとすれば、識心の虚妄性・無常性と識種の刹那生滅性を思惟しなければならない。識心の虚妄無常を観行するには、六識心の無常を観なければならない。識種子が形成した識は、水滴が形成した水流のようなものであり、水滴が速やかに絶えず流出し、循環流注して連続不断の水流を形成する。真実の水流が存在すると考えるなら、それは一種の錯覚であり、水流の假相に欺かれたのである。識種子が一つ一つ速やかに流注して識を形成し、連続不断の識心分別があると考えることも、実際には一種の錯覚である。この理を深く考えれば、識心を我とする邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断除することができる。
識心の刹那刹那の生滅性を観行すれば、連続不断であるかのような分別・了別の作用が形成されている。識心のこの分別・了別の作用は虚妄ではないのか。もちろんいずれも幻化で不実であり、真実の分別性はない。識心および識心の分別の機能作用は、断滅せよと言えばたちまち断滅し、生滅変異無常であり、虚妄であり、因縁が有るものである。因があり縁があれば識は出生し、因縁が滅すれば識種はもはや出生せず、識は消失する。それゆえ六識は真実の我ではない。
第八識が識種子を流注しなければ、六識には了別作用がなく、眼があって色を見ず、耳があって声を聞かない現象が現れ、一切の法を了別できなくなる。我々は普段、六根が六塵に触れる処、六識が六塵を了別する処において観行を行い、一切の法を了知できるこの識心の虚妄性・生滅性・無常性・無我性を観行することができる。こうすれば識心は我であり、真実であり、永遠に存在するという邪知邪見を断除でき、これで識心の我見を断ったことになる。それによって識心は我に非ず、識心の機能作用も我に非ず、いずれも真実でなく、いずれも虚妄であることが分かる。我々が一切の事物を感受できる心、一切の事物を了別できる識心、この識心が造作する身口意行を含めて、いずれも虚妄で、無常で、空であり、いずれも無我である。
<h4 style="text-indent: 2em;">七、識心はなぜ無常なのか</h4>第一に、識心は念念遷流して住せず、刹那刹那に生滅し、識の種子によって形成される。たとえば電流は、一つの電子また一つの電子が相続不断に生滅流転して一種の流動性を形成したものであり、この流動性が電流であり、光を生じ発光する機能作用を持つ。識心もまた同様であり、一つの種子また一つの種子が流れ出て識心流を形成する。第一の種子が流れ出て滅し、第二の種子が同じ位置で流れ出てまた滅し、第三の種子が流れ出てさらに滅し、このようにして識流が形成され、識の分別性が生じる。第一の識種子が出て六塵に触れても、はっきり分別できない。第二の識種子が出て引き続き分別しても、まだはっきり分別できず、第三の種子が出てややはっきり分別できる。種子が流れ出れば出るほど、分別ははっきりする。
これらの種子は第八識の中に存在し、第八識によって輸送される。眼で色を見るとき、最初はあまりはっきり見えず、しばらく見て初めて分かる。六識の分別はいずれもこのようである。仏は、一弾指の間に八万一千の生滅種子が流注すると説かれた。一つが生じて滅し、また一つが続いて生じて滅し、このように連続不断で一種の種子流が形成され、識心は初めて一切の法を分別できる。それゆえ識心は刹那生滅であり、無常であり、無常なるものは我ではない。
第二に、識心は五つの場合に滅することができる。眠って夢のないとき、昏倒したとき、死亡したとき、無想定に入ったとき、滅尽定に入ったとき、この五つの場合には見聞覚知性がなく、識心の分別がない。識心が滅しうるものである以上、無常で変異のものであり、苦である。それゆえ我ではない。
第三に、識心は無から有へと生じ、本来存在するものではない。六根が六塵に触れるとき、第八識が六識を生じさせ、その後六塵を分別する。識心が出生されたものであり、本来有るものでない以上、虚妄で、無常で、苦で、変異のもので、我ではなく、我性がない。
第四に、衆生の識心は常に変化不定であり、さっきまでとても好きだったものがしばらくすると厭わしくなり、さっきまでとても得意だった考えがしばらくすると変わり、さっき決めた計画がしばらくすると取り消される。心念は常に変化し止まず、考えは絶えず変わる。一つの妄想が生じてまた滅し、後念は前念を否定し、口に出した約束は実現しにくく、喜怒哀楽は無常で、計画・打算は常に変わる。自分でも自分の心を掴めず、自分が一体何をしようとしているのか、果たしてどうしたいのかも分からず、他人はなおさらその心思を推し量れない。この心は観察すればするほど無常で信頼できないと感じられる。それゆえ識心は真実でなく、真実で信頼でき、依拠できる我ではない。こうして識心の虚妄の観行が完成し、意根が再三昧の中でこの理を認可すれば、識心を我とする邪見を断ったことになる。
<h4 style="text-indent: 2em;">八、識陰の観行</h4>五陰の受想行識の中の識陰を観行するには、識種子が七つの識の機能作用を生成することを観行し、六つの識の機能作用を主とする。受想行識の識種子が輸出された後、六識が形成され、その後初めて六つの識の様々な機能作用が生じる。六識が生まれた後、受覚があり、その後識覚の分別作用があり、さらに行覚があり、受陰・想陰・行陰・識陰のすべての機能作用がある。具体的にどのような機能作用があるのか、自分で一つ一つ細かくはっきり観察し、一つも見逃さないこと。識種子が生まれた後、識心にはこれらの作用があることを知らなければならない。これは非常に重要であり、はっきり観察すれば、大乗も小乗も証悟できる。
識陰の中では主に受の虚妄性を観察する。五陰はやはり受陰を主とし、衆生は皆自分の覚受を真実とみなし、覚受を中心として五陰の身口意の活動を展開する。この受覚がどのように真実でなく、生滅で、空で、苦で、我でないのかを観察する。その後さらに下へ想陰と行陰を観察する。想陰とは執取・取相であり、心の上に相を取り、了別・分別すること、あるいは様々な思想思惟である。行陰は、識があれば行がある。なぜなら識は必ず運行しなければならず、識が運行して初めて受・想があり、分別の機能作用があるからである。識種子が識を形成するという内容をはっきり観察すれば、大乗も小乗もこの上で証することができ、将来証悟する智慧は非常に深くなり、開悟すればたちまち唯識に悟り、この悟は禅宗の悟よりはるかに深く徹底しており、識に悟れば智慧は非常に深くなり、将来唯識種智を速やかに具えることができる。
<h4 style="text-indent: 2em;">九、生滅変異するものはすべて我でありえない</h4>識種子が生まれて初めて五陰の機能作用があり、生まれなければ五陰の機能作用はない。那么、この五陰の一切の機能作用は真実なのか。我なのか。我はこのように限定し尽くされ、主宰されているのか。我は生生滅滅で不定なのか。このように把捉できない五陰の機能作用が、真実の我でありうるのか。食べてこそ生きており、食べなければ餓死する五陰が、我でありうるのか。空気があってこそ生命活動を維持でき、空気がなければ生命活動が停止する五陰が、我でありうるのか。気血を補ってこそ行走坐臥ができ、気血がなければ柴のように硬直する五陰、様々な因縁条件によって死に物狂いで限定されている五陰が、我でありうるのか。このように自在でなく自主でない五陰身に、何を貪愛し宝愛することがあろうか。
色身の中の四大種子は刹那刹那に生滅変異しており、身体の中の細胞は刹那に更新代謝しており、短時間のうちに細胞組織は更新し終え、身体の中の血液は全部更新换代し、もはや先の血液ではなくなる。内臓器官も一定期間のうちに全部更新され、さらには全身の組織器官および筋肉・筋腱組織なども全部更新変異し、最後には身体の中の骨格も全部更新され、身体全体が内から外へ、上から下まで全部変わり、もはや以前の身体ではなくなる。それゆえ我々の相貌は常に変化しており、一定の年齢段階に達すると、その外貌は若いときと大きく異なり、同じところが見出せないほどである。すべての人は孩童のときとは完全に異なり、その中で重大な病気を患った人は、その外貌と健康が完全に異なることもあり、同一人物とは見分けられない。このような身体がどうして自分でありえようか、どうして他人でありえようか。
那么、細かく思惟観行するとき、智慧ある人はこのような身体を真実とみなし自分とみなすことはなく、これが我であると固執し、執著し貪愛し続けることもない。多くの人は明らかに、このような身体は根本的に把捉できず、根本的に制御できないと知っていながら、なぜ注意力と精力を、我々がやや把捉でき、種子を存入すれば後世においてなお受用を得られる精神領域に転移させ、自分の般若 (prajñā) 智慧をできる限り高めようとしないのか。
<h4 style="text-indent: 2em;">十、阿頼耶識は識陰に属さない</h4>仏は『雑阿含経』の中で、五陰十八界を衆生と呼び、この衆生は苦空無常であり、真実の我ではないと説かれた。四聖諦の理を証し、五陰の苦空無常無我を証得すれば我見を断し、一分の解脱の功徳受用を得る。無我を証得するには、この五陰の功徳作用を甚深禅定の中で否定し、この五陰の作用を真実とみなさず、我と我のものとみなさなければ、我見を断し、三悪道の業は同時に消滅する。
阿含経に説かれる識陰とは、六つの識の機能作用であり、生滅変異のものであり、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) を指すのではない。識陰の陰とは遮障作用を指し、七識心を遮障し、六識の功徳のみを認めて、いずれも阿頼耶識の功徳作用であることを知らない。阿頼耶識は自心を遮障しないので、識陰に帰しない。外道たちは自分に不生不滅の自性清浄心があることを知らず、識陰を真実の我とみなし、真実の法身仏 (dharma-kāya-buddha) 如来蔵阿頼耶識を認めないので、生死輪回の苦を免れることができない。
識陰そのものには識別の機能があり、識陰の受想行識の機能は四陰とも呼ばれ、四陰に色陰を加えて五陰と呼ぶ。色陰とは、色身が母胎から老死までのこの段階の身体である。受陰とは六塵境界の苦楽憂喜捨を感受できる受であり、七識心が真相を認識するのを遮障する。想陰とは了別・取相・執取であり、心の上に相を取って了別し、たとえば名前・概念などの分別をなし、その後心に取着を生じる。これが想陰であり、七識心が実相を認識するのを遮障する。行陰は、行とは動くという意味であり、絶えず生滅変異し流転造作することが動であり、行であり、これも七識心が真理を認識するのを遮障する。
要するに、識陰は六識の機能作用であり、六識は生滅するものであり、識陰は必ず生滅する。阿頼耶識は不生不滅であり、神様は識陰に属さない。神様も識と呼ばれるが、神様の識別性と六識の識別性は全く異なり、両者を混同してはならない。
<h4 style="text-indent: 2em;">十一、受を我とする現れ</h4>様々な我見の中で、受陰を我とする人が最も多い。多くの人は受陰を重んじ、覚受のために業を造り、面子のために生きて苦しむ。それは識心の覚受のために色身に苦を受させているのである。歴史上の人は皆識心を我としたのであり、識心への執著は色身への執著よりさらに深刻である。我執が断じ尽くされたとき、初めて識心の覚受への執著性が断じ尽くされるが、習気は時折現起することもある。
衆生は受陰を我とみなし、受陰を執著し、内心の感受のために貪愛と瞋恚を生じ、無量無辺の罪業を造るからである。もし受陰を我とみなさず、受陰を執著せず、適意の感受を貪らず、不適の感受を厭わなければ、貪愛と瞋恚を生じることはなく、悪業を造って自ら知らないこともない。娑婆世界の衆生の最も顕著な特徴は、貪欲・瞋恚・愚痴であり、欲界人間で最も普遍的な煩悩は貪欲である。仏法を修学し、いくらか因果をわきまえ、貪欲が生死に沈淪する禍根であることを知っていても、業障が深重であるため、やはり貪欲を降伏できず、在家であれ出家であれ、一切の煩悩の降伏はあまりにも難しい。無量劫の生死の薫染の中で、習気は根深蒂固であり、揺るがしにくいからである。
<h4 style="text-indent: 2em;">十二、定中の意識心も生滅法である</h4>仏法の中で最も基礎的な小乗仏法は、苦集滅道の四聖諦の理であり、五陰の苦患を観察し、五陰の苦の集諦を明らかにし、五陰の苦の滅諦を知り、五陰の苦を滅する道諦を修める。その後、一つ一つ五陰の苦空無常無我性を観行し、内心の深処で真に認可して初めて、我見を断じて初果須陀洹を証し、三悪道の業はここに消滅する。仏の教理に依拠して智慧で観行を行うのであり、その中には戒律の修行、禅定の修行および福徳の因縁も離れない。
観行のとき、主に識陰の虚妄が観行しにくく、特に意識心はあまりに深細で、非常に広範でもある。意識心の機能作用をすべて観行でき、その後一つ一つすべて否定できれば、これらの識心の作用の虚妄を証得することも容易ではない。もし六識心の体性に対して深細な了知を行い、その後識心のすべての作用を禅定の中で観行できれば、我見を徹底的に断じる確信が持てる。
意識心の境界は非常に広範であり、一般の修行人は散乱し煩悩を起こしている意識が生滅虚妄であることは容易に知るが、意識が定に入った後、深細で清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、妄想を起こさず、念頭がないときでも、なお生滅虚妄の意識であり、真実の我ではないことを、往々にして知らない。これは意識の定境であり、不変の真心の境界ではない。境界である以上、境界は法塵境であり、法塵境は意識心が分別する対象であり、自分が定境に入ったことを知り、この定境を知るものは意識心であり、生滅法であり、我ではなく、真実ではない。なぜなら定から出た後には定境がなく、念頭がまた生じてくるからであり、このように変化があり生滅する法は虚妄法であり、真実の不変異法ではない。
六祖説:那伽常在定,无有不定时。真心は永遠に定の中にあり、出定もなければ入定もなく、増減変化がない。仏は『楞厳経』の中でも説かれた:内守悠闲,犹是法尘分别影事。仏が説かれたのはこのような入定の情况であり、神様はすでに後世の衆生が真偽を識別しにくいこと、特に末法時期には衆生は福が薄く、邪見が盛んに燃え、真偽を認識し弁別できないことを、はるかにお見通しであった。世尊は特に楞厳経の中で専ら提示し、後人を警戒させられた。定中の意識境界も虚妄であることをはっきり認めて初めて、我見を断じ尽くすことができる。もし定中の意識を不生不滅の真心とみなせば、大乗も小乗も果位を証得できず、なお生滅する識心を我と執する凡夫である。
<h4 style="text-indent: 2em;">十三、意識の生滅変異する運行には自主性がない</h4>問:意識は法塵を了別した後、滅するのか。昼間は法塵が絶えず変化し、起起滅滅しており、意識が睡眠していない状況では、五倶意識 (pañca-sahagata-mano-vijñāna) と独頭意識が法塵に依拠して絶えず転換しているだけであり、睡眠して夢のないときにのみ滅するのか。
答:意識は一つの法塵を了別し、この内容の運行を終えると、この法塵の上で消失し、意根の指揮に従って、別の一つ、二つの法塵の上で出生し了別・運行し、その後また滅し、別の処でまた生起する。意識はこのように意根の攀縁に従って、絶えず生生滅滅し、わずかの自主性もない。それゆえ意識はあまりにも虚妄不実であり、根本的に我と我所ではなく、このような意識を我と認めることはもはやできない。